
はてなキーワード:ロースカツとは
まだ30にもなってないんで、「今のところ」ではあるんだけど、女性と食事したいと思ったことねえな
いまの職場、正直すげ〜可愛い女性がけっこうワンサカいるんだけど、じゃあその誰かと食事をしたいか?っていうと、これはもう全然したくない
ひとりで便所で弁当食ったほうがマシかもってくらい、明確に嫌だと感じる
なんか、嫌じゃないですか?シンプルに……
もちろん人にもよるんだけど、女性ってあんま話してて面白くないんだよ
これは絶対的な面白さにおいて男の方が上だとかそういう話ではなく、シンプルに文化の違いっつうかさ、やっぱ現代日本において男と女ってある程度違う社会・違う文化で生きてきてるわけじゃないですか
共有してる前提が違うからさ、話すときに気を遣わないといけないじゃん
まあ異文化交流として楽しいと言えば楽しいのかもしんないけど、とはいえやっぱめんどくささが勝つ
なんか、俺だけかもしんないけど、相手の1.2倍くらい以上の量の飯を食いたくなくない?
こいつすげえ食うなあ、って思われたら恥ずかしいじゃん
女性って少食な傾向なので、それでレディースメニューとか頼まれてしまうと、ロースカツ定食ご飯大盛りで!みたいな選択肢は取りづらくなる
そして相手より数分以上先に食い終わると気まずい
男ならまあだいたい同じくらい食うし、スピードもそう変わらないイメージ なんなら俺より食うやつのほうが多いから、事実上俺側の選択肢は何ら制限されないということになる
飯を食うとき、メニューを選ぶときは、できるだけ自由でいたいですよね
あと正直、女性と食事したら俺の側だけが相手のことメッチャ意識しちゃって、敗北感がありそう
俺はちょっと優しくされたらうっすら相手のことを好きになりそうになるくらいだから、飯なんて食ってしまうとかなり危ない そういう事態は避けたい
あと奢る奢らないの話がめんどくさそう
一般的に男は女に飯代を奢るべきだvs収入に大きな差がないなら、変に奢るのは謎の恩を着せる感じになって気持ち悪い
別に1000〜2000円のメシなんて全然奢ったっていいんだけど、奢るのがコミュニケーションにおける正解とも限らないっていうのがめんどくさい
同年代の男だったらまあ、別に別会計でいいし、店が混んでたらどっちかがまとめて払って、また今度奢ってくれよな!とか、いつも世話になってるからいいよ!とか、そんな感じでかるーく処理できるけど、女性だとなんかビミョーな力学がありそうで、ヤな感じ
・気を遣いそう
・意識しちゃいそう
この辺りがあって、百害あって一利なし!という感じがする
これは女性からみてもそうだろうから、結果として俺の人生には女性との食事をする機会って全然ないし、ないのはwin-winなんだよな
仮に出張で女性と一緒になったりしても、できたら飯は別行動にしたい
……というのを踏まえると、女性を飯に誘いまくる人ってすげえなというか、別の人種だな〜と思う
逆に一緒に飯に行って、どういう心理なのか聞かせてもらいてえ
とか言ってるけど、俺も30代、40代になったら突然若い女性をみるなり飯に誘いまくる怪物になったりするんだろうか?
でも、30を前にして急速に性欲の減退を感じてもいるところだし、むしろより女性を避けるようになる気がするくらいなんだよな
性欲とかの問題じゃなく、もうちょい欲求ピラミッドの高いところの話なんだろうか
カツレツキッカのキッカって何
http://www.onokorosan.com/article/444698770.html
だそうで……。
へえ・・・
https://kotobank.jp/word/%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%82%8C%E3%81%A4-3147461
かつれつ
cutlet
牛肉、豚肉、鶏肉などにパン粉の衣をつけて油で揚げた日本的西洋料理。カツレツは英語のカットレットcutletがなまったものである。カットレットはフランス語のコートレットcôteletteに由来し、本来は豚、仔牛、羊のロースの骨付き肉のことであるが、この肉にパン粉の衣をつけてバターで焼く料理のこともいう。カツレツはこの調理法を日本風に変化させたもので、明治時代に登場した。日本で多量の油を用いるのは、てんぷらからの習慣が移行したものと思われる。用いる肉によってビーフカツレツ(ビーフカツ)、ポークカツレツ(ポークカツ、とんかつ)、チキンカツレツ(チキンカツ)などという。また、揚げる肉の部分により、ヒレカツ、ロースカツと称したり、串(くし)に刺したものは串カツ、ひき肉を使ったものはミンチカツあるいはメンチカツとよばれる。
へえ・・・
実際のところ、化学変化も、よりミクロな量子の確率的な振る舞いによって決まるので、決定論はなく、本当の意味でこの世界の未来は決まっていないと言える。
「ランダム性が自由意志に見えるだけ」と増田は言うが、そもそも増田は何があったら自由意志があると思えるのだろうか。
俺たちはロースカツ定食を前にして、最初にキャベツを食べるか味噌汁を一口飲むか、あるいはカツにソースをかけるか、一切れにかけるか全体に行くのか?キャベツの方にはどうするのか?を選ぶことができる。そして、「選んだ結果」は選ぶ前には存在しないし、決定してもいないのだ。そして、実際に「やっぱキャベツかな。野菜最初に食えって言うしな」などと選んだ後も、俺たちは「いや俺は今日はカツから行く」と思い直すことができる。
そのような選択があっても、これはランダムな脳の選択であって自由な意思ではないと言うこともできるだろう。コイントスの結果に従っているようなものだ、というわけだ。実際に俺たちはそのような決断をすることがあり、そういう時は俺たち自身も「自分の自由な意思によらず決断した」という実感がある。
しかし事態はもっと複雑である。キャベツから行くのかカツから行くのか?その決断には、実際には俺たちの過去の経験が強く影響するからだ。
今朝健康診断を受けてきて昨日の9時から何も食べてないとか、この店に前来た時の味とか、前回の健康診断の結果とか、母親が聞き齧りで話してきた健康情報とか、20年前に祖父と一緒に行ったトンカツ屋の思い出とかだ。過去の経験は未来への期待につながり、現在の選択を決めることになる。
いや、ランダムな脳ニューロンのみならず、すでに終わっている過去の結果に影響を受けるのなら、なおさら自由な意思などないようにも見えるかもしれない、がしかし、その上で、俺たちは、いまカツを食うか、キャベツを食べるか、選ぶことができる。という実感がある。自分の決断で欲求/理想/信念に従って行動できる、という実感がある。その意味で、俺たちは少なくとも過去の経験から自由だと言えるし、周りや自分の状態によらず自由な決断を下すことができる、といえそうだ。
それを自由意志と呼ぶかどうかは増田の自由だし、他のどんなものを自由と呼んだとしてもいい。幸いにして、世界の未来は(確率論的にしか)決定していないのだから、俺たちが「自由意思」を持ってるかどうかに関わらず、人間が生きた先にどんな未来が待っているかはわからない。
せいぜい良い人生に向かっていきたいものですね、と思うばかりです。
と、このような話を戸田山和久「哲学入門」で読んだよ(合ってるかはわからず、俺の妄想かもしれない)。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480067685/