
はてなキーワード:レシートとは
まあまあ高い店だ。小遣いもそんなに多くない社会人がちょっと背伸びをして払った金額である。
別に下心が露骨に存在していたというわけではない。ただ、ほんの少しだけ。いや、ほんのちょっとだけだ。食後に手ぐらい握らせてくれてもいいのでは…? と期待してしまった。
ところが、その子は食後すぐスマホを開き「今日はありがとう〜!またね~!」と笑顔で去っていった。
……触らせるどころか、袖の端すら触れないまま。
残された俺は、夜風の中でレシートだけを握りしめて立ち尽くした。
その瞬間、心の奥底から激しい怒りが沸き上がってきた。
飯を奢ってやったにも関わらずその恩を忘れて肌のひとつも触らせないというのは如何なものなのか。
これは義理人情の話だ。礼節を忘れたら人間に何が残るのか。空っぽの現代娘に俺は呆れ果てた。
まったくもって、腹立たしい限りである。
半額だよ。めっちゃ安いだろう。
これを勝ち取るゲームは止められない。
半額弁当を得るために、何時に来たのにまだ半額じゃなかったとか、この時間に来たらもう売り切れていたとかのデータを集めて、
だいたいこの時間なら半額で買える可能性が高い時間をみつける。
そして、半額シールが貼られていたらとりあえず買うを選ぶ。
余ったら明日食べればいいしね。賞味期限とか細かいことは気にしない。
半額弁当を何個も買う行為はベン・トーのハーフプライサー同好会的にはダメなんだろうけど、気にしてはいけない。何個も買う。
さらに株主優待やポイントカードも使う。これだけ得したとレシート眺めてニヤニヤする。
これが楽しいんだ。
これをひたすらやりまっていたら、店側も対策してきて、半額シールを貼る時間を変えてきたり、閉店時間になっても半額シールを張らなくなってきた。
なんとしても半額で弁当を得る。できれば半額で寿司を買えたら最高である。
半額で買うのが楽しいんだ。
職場に還暦を過ぎたおばさんパートがいて、干支二周り年下の私を何故か目の敵にしている。
彼女は私のやることなすこと気に入らないらしく、舌打ちしたり無視したりでかい音を立てて物に当たって威嚇してきたり、やった仕事にいちいち難癖を付けて来たり、ネチネチ嫌味を言ってきたり、そういう行動が3年ほど続いていた。
しょうもない人間だと思ったし、周囲も「あの人はそういう人だから相手にしないように」と諦めて開き直るように促してきたけれども、毎日悪意を向けられるというのはかなりのストレスで、そのうちメンタルが大分削られてしまった。
人事に相談したところ彼女は注意を受け、最近は多少大人しくなったが、人間の本性というのはそうそう変わるものではない(というか、変化できる柔軟さや客観性のある人間はそもそもそういう性格にならないんではないか)ので、いまだに思い通りにならない事があると勝手にイラついてなぜか不機嫌をこちらに向けてくる。
彼女の中では、この世の全ての嫌な事はあの小娘(私)のせいで、だからあいつには悪意を向けて良いということになってるのだろう。
(ちなみに人事に相談した後も、彼女は「私は何もしていないのに加害者扱いされてショック」と被害者側に立ち、事あるごとに私の評判を下げるべく悪評を広めるために頑張っているらしい。
幸い彼女は私に輪をかけて人望がないので実害には至っていない)
私に執着する理由が何なのかは本当に心当たりがない。まあ私がいなければ私ではない人に悪意を向けてるんだろう。元々私は口下手でおとなしく、現在の見た目が無難な感じなのもあり、ぶつかりおじさんや酔っ払って気が大きくなってるようなカスにもナメられやすく絡まれやすい。
ぶつかりおじさんに限らず、きっと悪意のある人間はその場にいる弱者を嗅ぎ分けようとするんだろう。
今日の勤務でもおばさんは機嫌が悪かったらしくカリカリしていて、帰り際、こちらから義務としてした挨拶はガン無視された。よくある事だが、こちらも挨拶したくてしているわけではないので無駄にストレスを感じて、ますます疲れてしまった。
一方で彼女は外面は異様に良く、他部署の人や上司にはワントーン高い声で挨拶をしているのだった。
彼女はそうして序列を作らないと、さらに序列の中で明確に自分より下の人間がいると信じていないと不安になってしまうのかもしれない。
そういう内面を持つ人がいることを、理解はできても感覚としては「底意地の悪いクソババアがよ〜」と思ってしまう自分がいる。
悪意を向けられると自分まで性格が悪くなってしまうのが本当に困りものだ。
そんなこんなで疲れながら帰路に着き、帰りにスーパーで買い物をすると、時々見かける感じの良い男性店員がレジにいた。
彼は同僚に対しても客に対しても温和で、過剰すぎもしないがそっけなくもない、ほどよい態度で接する、印象の良い青年だった。
年齢は私と同世代くらいだろうか。服装や髪型も無難なもので、目立つタイプではなく、私同様おとなしく見られそうな感じでもある。
今日はカップスイーツを買ったのだけど、彼は私が何も言わないうちに、小さいスプーン入れておきますね〜とさりげなく言い、小さいスプーンを付けてくれた。
ポイントカードを出そうとしてもたついていると、「ゆっくりでいいですよ」と言ってくれたりもした。
それは顧客への配慮であったかもしれないが、人を人とも思っていない対応に疲れた私は、そのささやかな気遣いにすさんだ心が洗われるような思いがした。
そして会計をし、レシートが出てくるのを待っていると、ふと彼の名札が目に入った。
ひらがなで書かれたその苗字は、偶然にも、さっき会社で私の挨拶をガン無視した意地悪クソババアと同じものだった。
一瞬「あっ」と思ったが、誰に共有できる感情でもないので、顔には出さずレシートを受け取り、財布にしまって店を出た。
帰り道にしみじみと、うめざわしゅんの『パンティストッキングのような空の下』を思い出した。
色んな人間が生きている。
二回り年下の社員に嫌がらせを繰り返す主婦歴数十年のクソババアもいるし、名前も知らない客にさりげない気遣いを向けることができるスーパーの青年もいる。
非正規雇用の青年には彼の痛みがあり、それをどこかで発散しているのかもしれないし、子供を持たないまま誰かの妻として生き、老いを迎えつつあるクソババアにはクソババアの人生の悲しみがあるのかもしれない。
色んな人間が生きている。
とりあえず私は、クソババアの名前を見たとき、しょうもない嫌がらせではなく、レジの青年が良い奴であったことを思い出すこともできるのだ。
AIに「AIが書いた後人間が改変した可能性が高い」って言われてるやんw
これは「AIが下書きを作り、それを人間が感情・体験ベースで大幅に改変・肉付けした可能性」はかなり高いです。
完全なAI文とも、完全な人間文とも言い切れません。いわば“ハイブリッド文”の典型的な特徴があります。
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(1)構成の整理度が異様に高い
• 序盤から終盤まで「1.ライフスタイル」「2.時間の問題」「3.事件」「4.家族の変化」ときれいに番号で分けた4項構成になっており、
•感情的なテーマ(トラウマや喪失)を扱っているにしては、全体の構成が整いすぎている。
→ これはAIが最初に骨格(見出し+流れ)を作った可能性を示唆します。
(2) 文末・語尾のリズムが均質
• 「〜た。」「〜した。」「〜思った。」など、文末のリズムが機械的に一定。
一見自然ですが、ここまで均一なのはAI下書きにありがちな特徴です。
人間が書くと、もう少し「…」「〜だったのかもしれない」「〜気がした」などの“揺れ”が混ざりやすいです。
•人間がトラウマを描くときは、感覚的な比喩(「胸が重くなった」「包丁を握る手が震えた」など)が混ざることが多い。
しかし本作では「トラウマ」「苦痛」「不快感」など、感情を抽象名詞で処理しており、ややAI的です。
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「私が引き際を誤って我慢して通い続けて不遜な態度をとってしまった」
「やばい奴を焚き付けてしまったことが一番よくなかったと反省している」
こうした“自分の落ち度を認める書き方”はAIが苦手とするニュアンスで、人間による心理の細かい補筆と考えられます。
(2) 「マジでやばい奴」「スーパーで1万円以上買ったレシートみたいなLINE」などの口語的な比喩
• これはAIが自然に出すには難しい生々しさで、人間的な編集が明確に入っています。
•特に「スーパーで1万円以上買ったレシートみたいなLINE」は生活感と怒りのユーモアの混在で、AIの自動生成ではほぼ出ません。
趣味欄には必ず一番に「料理」と書いていたが、ここ数年の出来事や事件を通じて料理への情熱を失い、ほぼ完全に興味をなくした。
料理は家庭における私のタスクなのでこれからも続けはするが、あくまでいち家事タスクへと成り下がった。
その過程を、書き記したい。
そもそもなぜ私が料理に興味を持ったかと言うと、きっかけは私が小学生のときに母親が買ってきた、辻調か出したお菓子図鑑だった。
母親自身はその図鑑の写真にしか用がなかったらしくすぐに使わなくなったが、私はその図鑑に夢中になった。
美しいお菓子の写真は眺めるだけで楽しく、またレシピを隅から隅まで読んで、それを実際に作っているのを想像するだけで楽しかった。
子供のころにも実際に何度か作ってみたが出来上がったものは散々だった。それでも達成感があった。
大学進学を機に上京した際もその図鑑は引越先に持っていった(ちなみに今も手元にある)。
その図鑑に載っているものも何種類か作ったし、お菓子作りの本を中心にたくさんレシピ本を買い揃えて、たくさん作ってみた。
大学4年生になり、部活も引退して単位もほぼ取り終わってからは、毎日のようにお菓子を作っていた。
内定先があまり納得の行く会社ではなかったこともあり、このとき内定を蹴ってどこかのケーキ屋に見習い菓子職人として働こうかと本気で考えもした。
しかし、ネットで菓子職人のブラックな労働環境を知り、断念した。
社会人になってからも、学生のころよりは時間が取れないこともあったけれども、お菓子作りをはじめとした料理は、私の癒しであり、私の心のオアシスであり続けた。
イタリア料理とか、インド料理とか、はたまたロシア料理とか、世界中の料理を自分で作って食べることで、まるで旅行しているような気分になれて楽しかった。使ったことのない調味料を使って食べたことのない料理を作って食べる。これは一種の冒険だ、そう思った。わくわくした。
友達がいないこともあり、休日は家にこもって、一人暮らしの狭いキッチンでひたすら料理やお菓子を作っていた。
…そんな感じで、私は料理が本当に大好きで、趣味は?と聞かれたら「料理」と一番に答えていた。
が、ここ数年で冒頭にも述べたとおり料理への熱意がなくなった。
1.ライフスタイルの変化
一人暮らしのときは週末にまとめて1週間分の料理を作って冷凍しておくということができたが、それが難しくなった。一人暮らしのときにはカレー5食分を作れば5日もったのに今は1~2日でなくなる。
そう、料理したいからするのではなくしなければならないからするのだ。それが毎日。
そうなってくると、料理というのは趣味というよりは日々のタスクという様相を帯びてくる。
2. 他にやりたいこと・やらなければならないことが増えた
確かに私も就業中なので時間が取れないときもあるが、全く取れないわけではないので、結婚して子供ができてもなお、しばらく休日などには凝った料理やお菓子を作ることもあった。
しかしだんだん、料理以外にやりたいこと・やらなければいけないことが出てきた。
やりたいことについては具体的に何かは言及しないけれども、このやりたいこと=新た趣味により時間を割きたい場面が増えた。
やらなければいけないことというのは、私の仕事に関連する資格の勉強である。
私の年齢も30代半ばに差しかかり、もし今後転職しなければならないとなったときに大丈夫なのか?うまくゆくのか?という不安がある。
当方女だが、女で小さい子持ちというのは、転職においてデバフとなり得るだろう。
資格によって自分のスキルを証明しておくべきではという危機感がある。
となると資格の勉強にも時間を割きたいから、必然的に料理に割ける時間は減る。
また子持ちなので、当然家事だけでなく育児にもだいぶ時間を取られる。
個人的にはこれが一番強烈だった。
そこは専業主婦あがりっぽい推定50代程度のおばさんが個人でやっている料理教室なのだが、そのおばさんは毎回私を馬鹿にする発言をする人だった。
私がなにか料理について質問したら「なにそれ、衝撃の発言なんだけどwww」とか言っていた。
それでも、私が大好きな料理のためだと思ってしばらくは我慢して大体月1~2回くらいのペースで通っていたが、上記の1,2の背景もあって料理に時間も熱意も割けなくなってきたこともあって、だんだん「なんでわざわざ時間と金をかけて不快な気持ちになりに行っているんだろう…?」と思うようになっていった。
最後のレッスン中は、嫌だという気持ちが受講中も態度に出過ぎてしまったと思う。
最終的には、このおばさんが私に対して、私の子育て方法についてもっとこうすべきと言った上で、私の目の前で「私たちの若い頃はー」と、他のおばあさん受講生と談笑を始めたことが引き金となり、その教室は辞めるに至るのだが、
後日、このおばさんから、スーパーで1万円以上買ったときのレシートみたいな長文LINEがきた。
LINEの内容としては、上から下まで100%、私への悪口、説教だった。
私が自身がやった何かに怒っていることは大体察しがついているようだったが、「私は悪くない」と言っていた。
もうこれが、本当に無理だった。今でもトラウマだ。
外であのおばさんと同世代以上とみられるおばさんに出くわすと怖くなった。
あのおばさんから習った料理は、たとえ他の人が考案したレシピでも全部作れなくなった。
料理中にあの女の嘲笑と、悪意100%の長文LINEがフラッシュバックするようになった。
それまであんなに料理が大好きだったのに…。それまでは、実生活でクソなことがあっても料理で癒されたのに。
それが機能しなくなってきて、むしろ料理することで苦痛を感じるようになった。
そのこと自体が、私にはショックだった。
念の為言っておくと、あのおばさんはマジでやばい奴だと今も思ってはいるが、基本的には私が引き際を誤って我慢して通い続けて不遜な態度をとってしまったこと、その結果、あのやばい奴を焚き付けてしまったことが一番よくなかったと反省している。
やばい奴からはできるだけ早く逃げるべきだと身を以て痛感した一件だった。
3の事件により心に大ダメージを受け、料理で苦痛を覚えるようになってきた私だったが、まだなお、あのおばさんから習っていない料理だったらそこまでトラウマは蘇らなかったので、あのおばさんから習っていない料理を中心に再び色々チャレンジしてみよう!と思ったりもした。
規則的に運動を始め、専用のアプリで毎日の食事の記録をつけ始めた。
すると、私が作るお菓子とか手間のかかる煮込み系の洋食なんかは、まあ当然だけれども脂質がとんでもなく高いとのこと。
で、「じゃあこの1週間で何が一番脂質も少なかったの?」と聞くと…、鍋だった。
鍋。
スーパーの鍋の素買って、そのパッケージに書いてある材料を切って煮ただけの食べ物。これが一番ヘルシー。そしてこれが今一番家族に求められている…。
それに楽だし、子供も喜んで食べるし、野菜もたんぱく質も自分含め家族全員摂れるし、これでいいじゃん…。というか、これがいいじゃん。
そうなってくると、もう自分が作りたい凝ったお菓子とか洋食とか、全く作る気にならなくなった。
そして、鍋みたいな材料切って煮るだけの簡単な料理の方が、苦痛を感じないことにも気づいた。
最近の私は、料理中に(例えば3の事件を思い出すなどして)不快な気持ちになってイライラしてきたら、心のなかで「たかが料理」とつぶやくようにしている。
そのまま、上機嫌で食卓にありつける。
この呪文を唱えると、料理によって生じる不快感は減るけども、同時に私の料理に対するもはや残り火のような熱意、好奇心…。
そういった気持ち、私がそれまで料理に燃えていたときの原動力とも言える情熱もまた、すーっと消えてゆくのだ。
そして、今仮に「趣味は何ですか?」と聞かれたら、料理とは答えないなあと思った瞬間、ああ、もう私にとって料理は趣味じゃなくなったんだな…と思った。
3の事件直後は料理が苦痛になってきたこと自体にショックを受けていた私だったが、今はもうショックはなくて、「ああ、そうか」と、平常心で料理が趣味ではなくなったことを受け入れていた。
でも、料理が大好きだった期間がとても長かったので、私にとって料理が完全に趣味ではなくなったこと、完全にいちタスクとなったことについては驚きがあった。
だからここで今までの経緯を振り返ることで、私の料理に対する情熱を供養したい。
(余談だが、土井善晴氏は「家庭料理なんて適当でいいんだよ」的な趣旨の発信でメシを食っている人というのが私の認識なのだが、上記の経験を経て、これって確かに料理という家事タスクに負担を感じる主婦(主夫)を救うかもしれんけど、一方で家庭料理の質やスキル向上には寄与せずに、むしろその質を全体的に底下げることにつながりかねないのでは?と思ったりした。
…まあ、家庭料理にもう誰もそこまでクオリティ求めてないよ、今や共働きの時代だし、と言えばそれまでなのだが。)
Permalink |記事への反応(29) | 13:04
日本でキャッシュレス決済がなかなか浸透しないのは、技術や制度の問題ではなく、「説明の仕方」にあるのではないかと思う。多くの人が使い方を理解できないのは、情報が多すぎて本質が見えなくなっているからだ。
テレビや雑誌では「ポイント還元○%」「キャンペーンで○○円お得」といった話ばかりが並ぶ。だが、そうした情報は一見華やかでも、「結局どう使えばいいのか」という最も肝心な点を教えてくれない。キャッシュレスは“お得な遊び”ではなく、単なる支払い手段の一つにすぎないのに、その「当たり前」が伝わっていない。
もう一つの問題は、「何を選べばいいのか」がはっきり示されないことだ。行政やメディアは特定企業を推奨できないため、「多様なサービスがありますのでご自身に合ったものを」としか言えない。その結果、初心者は迷うばかりで、結局現金に戻ってしまう。だが実際には、VISAかMasterのクレジットカードをウォレットに入れ、SuicaとPayPayを使えば、それでほぼ全ての支払いが完結する。これ以上難しいことは何もない。
それでも人々が現金を手放せないのは、「わからないものは怖い」という心理があるからだ。レシートと小銭が手元に残る安心感は、デジタルの数字よりずっと確かに思える。
だが、キャッシュレスの本質は「便利で安全に支払う」ことだ。必要なのは、派手な宣伝ではなく、最小限で実用的な構成を誰かがシンプルに教えること。それだけで日本のキャッシュレス理解は、もう一段深まるはずだ。
創世記の最初の言葉は「בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים」(ベレシート・バーラ・エロヒム)=「初めに、神が天地を創造された」(創世記 1:1)。
つまり、世界には「目的」と「秩序」がある、という考えが根本にあります。
私たちはその秩序の一部であり、世界をよりよくする責任(ティクーン・オーラム תיקון עולם ―世界の修復)を担っています。
「神はご自分のかたちに人を創造された」(創世記 1:27)とあります。
これは、人間には尊厳・理性・自由意思が与えられているという意味です。
だからこそ、他人を尊重すること、生命を大切にすることは世界の基礎的な倫理です。
ユダヤの伝統では、学ぶことは単なる知識の獲得ではなく、よりよく生きるための道です。
「学びは行いに導く」(Pirkei Avot 1:17父祖の言葉)と教えられています。
「誰か一人を救う者は、全世界を救う者である」(ミシュナ・サンヘドリン 4:5)。
3年間付き合った彼氏と別れることになり、別れ話の数週間後最後のデートをした。
そのときの彼の行動が許せない。
私はまだ好きな気持ちが残ってたし、別れてからしばらくは思いを馳せるというか思い出をゆっくり消化する期間にするつもりですぐ次の恋愛を始めるつもりはない、そもそも好きな人を作れそうにないよ〜ということを話していたのだが、
元彼は他に気になっている女がいること、別れ話をしてから私と会うまでの間に2人で日帰りでドライブに行っていたことをベラベラ喋ってきたのだ。そのときのレシートやパンフレットも見せられた。
1番しんどかったのは別れ際の直前にyoutubeで「異性意識のさせ方」みたいな動画を見ていたこと。別れ際のちょっと前、一緒に思い出でも振り返りたくて何回か話しかけたがスマホばかり見てうわの空で悲しかった。なぜ分かったかというとその後動画を一緒に見ようとなって、検索画面を開いたとき見えてしまったのだ。
付き合っている間は思いやりがあってとにかく誠実だと思っていたからこの振る舞いはショックだった。なんで他に好きな女がいるとかわざわざ伝えてきたんだろう。そんなこと言われても私苦しいだけだよ。前に結婚を考えてると言ってくれて、転勤までしようとしてくれたのに私はもう適当に扱っても良いポジションに落ちたことが分かって悲しかった。3年間彼のことを大事にしてきて、大切な思い出として覚えておきたかったのに最後の最後に嫉妬や嫌悪の汚い気持ちで上書きされたことが許せない。
このときは気が動転して、号泣しながら少しは口に出す前に相手の気持ちを考えたら?位しか言えなかったが今になって怒りが言語化できてきた。遅すぎるよ。
私は逆瞬間湯沸かし器というか、酷いことを言われてもその場ですぐ激怒できない。相手の言ったことを一旦認めようとして、とっさに負の感情を出せないのだ。彼は私の心優しいところが好きだと褒めてくれたが、これのせいでまた苦しいよ。