
はてなキーワード:リュークとは
Gemini 2.5 ProPreview 05-06に聞いてみたところ、なかなか面白かった。
もしも蛭子能収さんがデスノートのリュークだったら、物語は以下のように、なんとも言えないシュールで脱力感あふれる展開になるでしょう。
「いやぁ~、死神界もヒマでねぇ。競艇もないし。なんか面白いことないかなぁってノート落としてみたんだけど、人間ってのもよくわかんないねぇ。へっへっへ。」
リンゴへの執着は薄く、「リンゴ? ああ、食えりゃなんでもいいよ。それより舟券買えるかね?」などと、夜神月を困惑させます。
蛭子リューク「えー、なんか色々書いてあったけど、忘れちゃったなぁ。まあ、なんか死ぬんでしょ? 細かいことはいいじゃない。俺、そういうの苦手なんだよねぇ。」
月が必死にルールを解読する横で、蛭子リュークは競艇新聞(どこからか持ってきた)を読んでいたり、居眠りしていたりします。
月「僕は新世界の神になる!」
蛭子リューク「へぇー、大変だねぇ。そんなことして楽しいの? 俺はもうちょっと楽したいけどなぁ。あと、あんまり目立つと捕まるよぉ。俺、そういうの見てるのイヤだからさぁ。」
月の壮大な計画に対し、蛭子さんならではのネガティブで現実的な(?)ツッコミが入り、月のモチベーションを地味に削いでいきます。
キラとして裁きを下す月に対し、「うーん、そんなことして意味あんの? 悪いやつでも、まあ、生きてりゃなんかいいことあるかもしれないじゃない。知らんけど」と、独特の死生観で月を煙に巻きます。
月がLに追い詰められて苦悩していると、「まあ、人生そんなもんだよ。俺も競艇で大穴狙って外してばっかりだし。しょうがないじゃない」と、全く役に立たないアドバイスを送ります。
Lは月の背後にいるであろう死神の存在を察知しますが、監視カメラに映る蛭子リュークの奇行(部屋の隅で体育座り、突然歌い出す、意味不明な絵を描いているなど)に、「…これは一体…?キラの新たな陽動か?理解不能だ…」と頭を抱えます。
月が隠している情報を、蛭子リュークが悪気なくポロッとL側に漏らしてしまう可能性があります。
「月くん、この前さぁ、テレビ局のあの女の人と会ってたでしょ? なんか楽しそうだったねぇ。へっへっへ。」(それが重要な情報だったりする)
シリアスな頭脳戦やサスペンスフルな展開の最中に、蛭子リュークの「腹減ったなぁ」「もう帰りたいんだけど」といった呟きが挟まり、緊張感が台無しになります。
全体的に蛭子さんの漫画のような不条理でシュールな笑いが漂います。死の重みが薄れ、どこか間の抜けた雰囲気に。
もし作中の死神や死神界の描写が蛭子さんのタッチになったら、その時点でホラーコメディ色が強烈になります。
月の掲げる「正義」が、蛭子リュークの「まあ、どっちでもいいんじゃない?」的な態度によって、より相対的で曖昧なものに感じられるようになります。
蛭子さんの持つ独特の死生観(「死んだらそれまで」「別に死ぬのは怖くないけど、痛いのはイヤ」など)が、デスノートによる「死」の意味合いを奇妙な方向に変質させるかもしれません。
月が追い詰められた際、蛭子リュークは「あーあ、もうダメそうだねぇ。じゃあ、俺の名前書いとく? 俺、もう飽きちゃったし、死神界帰って競艇やりたいんだよねぇ」と、あっさり月の名前をデスノートに書いてしまうかもしれません。その理由も「約束だから」というより「めんどくさいから早く終わらせたい」というものになりそうです。
最終的に月は破滅するものの、その過程があまりにもシュールで、悲壮感よりも脱力感や苦笑いが残るようなエンディングになるでしょう。蛭子リュークは最後まで飄々としていて、「やっぱ人間ってよくわかんないねぇ。さて、次のノートはどこに落とそうかなぁ。宝くじ売り場の近くとかいいかもねぇ。へっへっへ」と呟きながら去っていくかもしれません。
蛭子能収さんがリュークになると、デスノートは緊迫感あふれるクライムサスペンスから、**「蛭子能収の世界観で展開される不条理デスノート奇譚」**といった趣の作品に変貌するでしょう。
それはそれで、唯一無二の奇妙な魅力を持った物語になるかもしれません。視聴者(読者)は、ハラハラするよりも、蛭子リュークの言動にツッコミを入れながら、そのシュールさを楽しむことになるでしょう。
以下gemini-1.5-pro-exp-0801のおもしろ回答、個人的にミサを見た時の反応のとこが笑えた
もしも蛭子能収さんがデスノートのリュークだったら、デスノートの物語は全く違ったものになっていたでしょう。想像するだけで面白いですよね!
こんな風に、蛭子能収さんがリュークだったら、デスノートは全く違う物語になっていたでしょう。想像するだけで笑えてきますね!
MBTIなる性格診断ツールが流行りだして以来から、長らく疑問だったことが最近自分の中で肚落ちした気がするので述べていこうと思う。
というのも、なにか当たり前のように「MBTI何?」のような質問が飛んでくることが多くて、そのたびにMBTIの名前を借りただけの16診断を何をもってそこまで信頼しているのだろう、とか、なんで当たり前のようにやっている前提なんだ、とか、我ながらひねくれたような気持ちを抱いていたんだけど、そういう人々の一部が、どうしてそんなことを聞くのかが少しわかったような気がしたんだよな(もちろん、流行っているから話題の一つとして提供しているだけの人がいるということは理解したうえで、今後の話を聞いていただけるとありがたい。俺はENTPらしい)
それは、他人と自分との違いに対する理解がものすごくざっくりとしている人がおおい、ということ。これは別に俺が他人をすごく理解できるというわけではなく、むしろ俺はなぜそうなるんだ?と他人との不理解を繰り返して来た側なのだが、その根幹には「そりゃ自分とは違う遺伝子を持ってて違う環境で育っているのだから価値観も能力も違うよな」という、ものすごく当たり前の事実があったからで。
しかしどうやら、ここ最近この常識と思っていたところが常識ではないのではないかと思い始めた。親ガチャ、という単語が流行っていた時にも思っていたのだが、俺がその単語に対して抱いていた「親が違うのであればそこで生まれた子供は自分じゃないんだから、お前はその親のもとでしか生まれることができないのでは?」というような疑問を突き詰めて考えていってたどり着いた結論が、世間の「自分」の定義がものすごく緩いということだった。なんとなく生まれ変わりみたいな思想がもともとある日本だからこそ、「自我」や「魂」のような不変のものが、ただ今はこの器にいるだけ、のような認識をしている人が多いように感じた。つまり自分とは「魂」っていう思考になるんだよな。
そして、それは他者への無理解へとつながってるんじゃないだろうか?例えば、容姿に優れていない人は、容姿が優れている人なりの悩みを一蹴することがあるように。自分なら容姿が優れていたらそんなことで悩まないというような論は、ただお前がブスなうえ想像力がないだけだと思うが、「自分があの器に入っていれば」という理想論的なものがこの無理解的な感情論につながっているように思うんだよな。
つまるところ、本人が自覚的か否かにかかわらず、「俺か、俺以外か」という、ローランド的な分類で人を見ている人がこの世にはある一定数存在するのだと思う。他者がNPCのようなものに見えるのであればそりゃ無責任で無理解な発言も飛び出すよな(勉強できる奴が勉強めっちゃやっても結果出ないやつに対して努力不足に感じるのも自身からの視点しかないからであって)
で、こういう人種にとって、きっとMBTIってものすごい発明だったんじゃないだろうか。いままで自分か、それ以外かっていう二パターン、もっというなら自分と波長が合う人(理解できる人)と理解できない人がいる世界を、少なくとも16種類に分けて見せたんだから。この人はこういう種類の人なんだ、じゃあたしかに私とはこういうところが違うんだろうな、っていう他人に対する不理解を理解するための、大きな手助けになったんじゃないかと思う。だから最初に、この人はどの種類の人なんだろう、を聞こうとするんじゃないだろうか。その人の世界にいる人間は、ポケモンみたいに16種類のタイプ分けがされているのだから、確かに俺も新しいポケモンが出てきたら何タイプか、考えてしまうし。
ただそれが少し、危うくなっている人も時々見かける。そもそも言葉とか分類っていうのは、実態とは必ずずれる。実態はもっとふわふわした気体のようなもので、言葉とか分類とかはがっちりとした固体のようなものだ。あてはめようとすれば必ずはみ出るところがあって、だから俺たちはいろんな表現を尽くして、なるべく実態に近似するように人を評価していく。しかし、MBTIに記述された世界に生きている人にとっては、実態よりも分類が優先されているような気がする。本当は70億の人がいれば70億通りの違いがあるはずなのに。
ガキの頃は嫌いになればそいつのすべてが嫌いだったような単純的な評価しかできなかった俺も、ある程度年を重ねてそれが他人の一面でしかなく、たとえば仲間には情に厚いところがあり、それが翻って俺に対する攻撃性になっていたんだなとか、他人の顔色に敏感なこの人はこういう家庭環境が根幹になっているのだろうかとか、少しだけ世界の解像度が上がったように感じている。
偏見で申し訳ないんだけれど、たぶんMBTIを信じている人とかはこういう文章を読まなそうだから、別にそういう人たちに届いてほしいわけではないけれど、意外と色眼鏡を外してみたら、人は多様で面白いよ、という話をしたかった。最近、DeathNoteのリュークみたいになっている。リゼロの人の人生を追体験できる本、ああいうのすごく面白いよなあ。
あんまり言及されないんだけど、「ヒカルの碁」と「デスノート」って画作りのパターンが同じなんだよね。
小畑健の、超リアルな書き込みと映画みたいな望遠のカメラワークで描かれる「普通の日本の風景」の中に、ひとつだけ異物が混じってる。
ほとんどの場面が、常識人が常識的なことを喋ってるだけなのに、その後ろに変なものが描かれてるから、その違和感で目が惹き付けられる。
「ヒカルの碁」と「デスノート」は、佐為とリュークって異物が混じってる以外は、ほんとに青年誌的なリアル劇画なのに、そこだけのために少年漫画になってる。
原作が違っても、この二作こそ「小畑漫画だな」って感じがするのは、この特性が光るため。
ただのファンタジーや現実的な人間しか出てこない話になると、この面白みがないぶん、逆にキャラクターが記号的になったりするのが小畑漫画。
続きは書かれないんだろうけど…。
アメリカが千兆円を日本に寄付した形になって経済的にとんでもないことになるよな。
それだけでも戦争に発展しそうなのに
アキラは日本人を殺しまくるが、公にはデスノートの所有者はアメリカなわけだから
これで単純に戦争突入かと思いきや、日本の要人達は顔と名前は晒されているから何もできない。
その頃には既に要人達の内数名はアキラによって殺されていて下手に逆らえば確実に始末される。
そこで秘密裏にアメリカ攻撃の作戦が講じられるわけだが、外交上では事実上アメリカに全面降伏する。
しかしながらその全面降伏を発表した要人さえもアキラに殺される…。
続く(続かない
ミノルは新ルールで死んだのではなく、リュークともう会わない約束をしたために
隣に最近引っ越してきた人が1人で住んでるって言ってたのにひっきりなしに本人がしゃべる声が聞こえる。
誰と喋ってるんだろうか。
一体、誰と…
最近隣に若い男性が引っ越してきて、わざわざ挨拶にもきてくれた。
ただやっぱりレオパレスの通常のモデルより広いタイプのものなので壁は薄いのだ。
テレビをうるさくない音量でつけてても何か喋ってるのが聞こえる。
挨拶に来てくれた時には1人で借りてると言っていた。
リュークでも連れてるんだろうか。
追記:
ほっといたら伸びててびっくりした。
今日なんか自分は朝7時に起きたんだけどその時もしゃべってたんだよな~やだな~こわいな~
でもみんなの意見通りskypeか生放送か実況かTV電話かなんかなんだとは思う。
今度機会あったら何してる人なのか聞いてみようかな。
小学校を丸々6年間海外で過ごして、中学は女子校、高校は共学で大学をこの3月に卒業しました。
みんな初めてGoogleの画面を開いた時のこととか覚えてると思うんだけど、
そういう話をはてなで書いてる人、あんまり見ないなーって思ったのでダラダラ書いていきます!
(OSの出た時期とか、間違ってるところがあったらごめんね。)
初めて「パソコン」に触ったのは小学校1年生の「せいかつ」の授業。
「パソコン」の授業が週1回あった。教室に30台ぐらいのパソコンが並んでて、OSはWindows 95と98が混ざってた。
パソコンは途中で全部98に入れ替わって、6年生になる頃XPになってた気がする。
ペイントで絵を描くのが主な授業内容で、すごく楽しかった記憶がある。ひたすら女の人のスタンプをベタベタ貼ってた気がする。
2年生になると「インターネットエクスプローラーのショートカット」をクリックすることが許された。
「Yahoo!きっず」で自分の知りたいことを「けんさく」してみましょう!
クラスの半分ぐらいはもう「Yahoo!きっず」の事を知っていて、「Yahoo!きっず」では「ゲームができる」んだよと誰かが教えてくれた。
わたしは「Yahoo!きっず」の事を知らなかったのでちょっと恥ずかしかったのを覚えている。
「Yahoo!きっず」はやってみたらあんまり面白くなくて、がっかりした記憶がある。
家に帰ってお父さんに許可をもらってパソコンを触らせてもらった時、「Yahoo!きっず」を開くとお父さんが
と言った。(何故かは分からなかったし、理由を聞こうとも思わなかった。お父さんって絶対だった。)
クラスの子たちは「Google」を知らない子の方が多かったので、わたしはそれから「Google」を使うようになった。
話は少し変わる。先述したようにわたしは小学校時代を入学から卒業まで海外の日本人学校で過ごした。
日本人学校で「日本」の流行りを知っている人、「日本」のものを持っている人はスクールカーストで高い地位を得ることができた。
(たとえそれが半年ぐらい古い情報だったとしても、わたし達にはそれを確かめる術がなかった。)
遊戯王カードも、ベイブレードも、ポケモンの金銀も、コロコロコミックも、持ってる子はたくさん持っていた。
わたしは日本のものをほとんど持っていなかったから日本の話には貪欲で、
たしか小学校3年生の時に当時すきだった男の子から聞いたのだ。
その話を聞いた時、デスノートは日本でもまだ読み切りの短編しか出てなかったはずで、
きっとその子はたまたまお兄ちゃんの持ってるジャンプに載っていた読み切りのデスノートを読んだのだ。
でもその子の「デスノート」の話はわたしを凄くワクワクさせた。
次に日本に帰ったら、きっと「デスノート」を買うんだ!と決めて、次の一時帰国をわたしは指折り数えて待った。
1年が経ち、わたしが4年生になって日本に一時帰国した時、本屋さんにそれは平積みになっていた。
本当は漫画は禁止だったけど、日本に帰った時は欲しいものは(高くなければ)なんでも買ってもらえた。
わたしは頼みに頼み込んで、「デスノート」の1巻を買ってもらったのだ。
本当に面白かった。
「名前を書くとその人を殺せるノート」という設定にびっくりした。
月くんはあまりすきじゃなかった。リュークのことは怖いとは思わなかった。
わたしはLが一番すきだった。
早く続きが読みたかった。次の一時帰国はどんなに早くても1年後。
待ちきれなかったわたしは「Google」を開いて「検索」したのだ。
その時のことは本当によく覚えている。
「デスノート」と検索したら一番上に「デスノートサーチ」が出てきたのだ。
そこからわたしはインターネット(というかインターネット上のBL同人)にハマっていく。
男女のセックスはBLから逆算して理解したし、そもそもセックスで妊娠するということを理解したのも随分後になってからだった。
デジタルネイティブと呼ばれる世代のおそらく先頭集団を走ったわたしの思い出話を、誰かが面白がってくれればいいなと思う。
こんなにたくさんブクマついてこんなにコメント貰ったの初めてです!ありがとうございます!
デスノートが出たのって2004年だっけ...6年生になった春だ...。
なんかもっと昔な気がしてました...。
次からは調べられることは調べてから記憶と照らし合わせます。間違ってること書いてごめんなさい...。
1巻を買った1年以内にもう一度受験のために日本に帰ってて、その時に4巻まで出てて
「くぁswでfrtgyふじこlp;@」って言いながらまとめて買った記憶があるので
それだとそっか、2004年なのか...って思いました!
侍魂も面白FLASH倉庫も見たよ!!!めちゃ懐かしい!!!!!
先行者とか馬鹿みたいに笑ったし、流石兄弟がすきだったなー。あと再翻訳系のネタ!
言われれば思い出すけど、たぶんクラスの子かお父さんに教えてもらったんだと思う。
能動的に初めてGoogleを使ったのが「デスノート」でググった時だったから、その時の印象がめちゃくちゃ強くて
たくさんの人にポジティブなコメント貰ったり、指摘してもらったり、めちゃくちゃ嬉しいです!
間違ってることはどんどん指摘してほしいです!よろしくお願いします!
ただ、わたしは「正しい年表」を作るつもりはなくて、
それを見た人が「面白いな〜」って思ってくれたら、嬉しくてにや〜ってするよ!
ブコメで正しいことを指摘してもらって、自分の思い出と事実がきちんと重なっていくのはすっきりして気持ちが良いので、
また間違ってること書いたらどんどん教えて下さい!お願いします!
[]でカテゴリ設定するのってこれで合ってるのかな...