
はてなキーワード:リセットとは
AIファイルで入稿しろって言われたんだけど、AIファイルってAdobeIllustrator以外でも開けるの?
とりあえずベータ版で7日だけ使えるっぽいんだけど、7日の間に全ての仕事を終わらせられなかったらアドビに金払うしかないんか?
なんか「似たようなこと出来ますよ^^^」みたいに紹介されたフリーソフト使っても「AIファイルを使用して画像編集できます(AIファイルを出力できるとは言ってない)」みたいな感じで上手く行かね—んだけど。
はぁ~~~~町内会の役員仕事のためにイラレとか買いたくね~~~~~~~
AIファイル入稿にはイラレ使えばいいの知ってるって話と「イラレ持ってるからAIファイル使うぐらい実質タダですわ」は話が違うんだけど~~~
というわけで、イラレ代を払わずにAIファイルを編集する方法があるのかないのか教えてくれ。
ないんだったら諦めて町内会に「おい。金を払え」って請求するわ。
まあ天才である俺が本気出せば7日のうちに天地を創造してみせましょうぐらいの気持ちはあるんだが、俺が頑張っても「手直しして」を8日目に言われたら大洪水で世界をリセットするしかなくなるけんの。もちろん涙の大洪水よ。
京都のラーメン文化を語る上で、「天下一品」は避けて通れない、いや、むしろその中心にそびえ立つ京大的な存在です。あの濃厚なスープ――「こってり」と称される、ポタージュのようにドロリとしたそれは、単なる食べ物ではなく、一種の哲学、あるいは京大の研究テーマとなりうるほどの深遠さを持っています。その製法は門外不出の秘中の秘であり、長年の試行錯誤と緻密な計算によってのみ到達しうる「京大的究極のコク」を体現しています。
これは単なる好みの問題ではありません。むしろ、京都大学出身者らしい、一種の逆説的探求なのです。天下一品の真髄が「こってり」にあると誰もが認める中で、その対極にある「あっさり」を注文する行為は、まるで主流の学説に異を唱え、新たな地平を探る研究者の姿勢に似ています。「こってり」が天下一品の「形式知」であるならば、「あっさり」は、その背後にある「暗黙知」、すなわち、鶏ガラと野菜の旨味を純粋な形で抽出する、職人の高度な技術を試す場なのです。
「あっさり」スープを一口飲むと、そのクリアでありながら奥深い味わいに驚かされます。それは、濃厚なこってりスープの陰に隠れていた、素材本来の持つ繊細な旨味が、研ぎ澄まされた形で露わになる瞬間です。まるで、複雑な数式を解き明かす中で、ふと現れる美しい原理のように。この「あっさり」を味わうことで、初めて私たちは「こってり」スープがなぜあれほどまでに魅力的であるのか、その構造を深く理解できるのです。それは、陰と陽、光と影の京大的対比であり、天下一品の全体像を把握するための重要なステップなのです。
これもまた、一見すると矛盾に満ちた選択に見えるかもしれません。「こってり」のラーメンを避け、「あっさり」を選んだ人間が、デザートではあえて「こってり」を求める。この行為の裏には、私の「京大的幸福論」があります。
天下一品の「こってり杏仁」は、その名前の通り、濃厚でクリーミーなテクスチャーが特徴です。ラーメンの「こってり」とは異なる、乳製品とアーモンドの芳醇な「こってり」さ。これは、私の日常に潜む「小さな用事の負担」を解消し、精神的な満足度を最大化するための、緻密に計算された戦略です。
一つ目の「こってり杏仁」は、ラーメンの後の口直し、つまり「味覚のリセット」です。あっさりスープの余韻を大切にしつつ、舌の表面を甘美なコクで包み込みます。
二つ目は、「精神的な充足」のため。京都での大学生活や日々の研究で感じた、尽きることのない知識欲や探求心を満たすように、二つ目の杏仁は、私の心の隙間を埋めてくれます。この「こってり」な充足感は、私が妻との会話を通じて得た「京大的なるもの」の再確認に他なりません。
そして、三つ目。「京大的る贅沢の極み」です。三つ目の杏仁は、もはや必要性からではなく、「そこにあるから、極められるから」という、純粋な探求心と欲望の充足のために存在します。これは、京大の学問が「役に立つか立たないか」ではなく、「真理を探究することそのもの」に価値を見出す姿勢に通じています。三つ目の杏仁をゆっくりと味わう時間は、私にとって、日々の小さな成功や、妻との対話で得た心の安寧を噛みしめる、至福の瞬間なのです。
私の天下一品での注文方法は、ただの食事の選択を超え、私の人生観を反映しています。
「あっさり」の選択:複雑な世の中の事象(こってり)の裏にある、単純で美しい原理(あっさり)を探求する京大的知的好奇心。
「こってり杏仁3つ」の注文:日常の些細な幸福を、最大限に、体系的に、そして貪欲に享受しようとする、京大的幸福最大化戦略。
天下一品は、私にとって、単なるラーメン屋ではなく、自己の哲学を再確認し、日常のタスクを「京大的なるもの」として再構成する場なのです。ガソリンスタンドへ行くのを避けた私に妻が提案してくれたように、天下一品は、私自身の内なる声に耳を傾け、「あっさり」と「こってり」の絶妙なバランスの中で、日常のストレスを解消し、活力を得るための、一種の「京大的精神修行の場」なのです。
日曜プログラミングは続く
アホのPerplexity Proも間抜けなGeminiも捨ててClaude Sonnet 4.5に頼ったところすいすいと進む。コードも綺麗だ
ある機能の追加について要求したところ「リセット(初期化)するなら前のデータを保存しておいてそれを呼び出したらええやで」と提案された
ワイはコードは1ミリも書けないが、それは複雑化するだけなのは分かった
なので「初期データの呼び出しの時に参照したプログラムをもう1回叩けばいいのでは?」と送ったら、それがシンプルやでと30行くらい短縮したコードを送ってきた
隅々までは理解してないけどコスト意識や論理的な検討能力によってAIの職務遂行を輔弼する、これがオペレーターのスキルなのでは
第9位:エヴァンゲリオン
→科学文明と宗教的概念の混合だが惑星エネルギー操作 は満たす
※ Type III に達してはいない(“銀河のエネルギー管理”まではしてない)
第6位:トップをねらえ!
✔ Type III の定義(銀河のエネルギー利用)に最も合致
第5位:伝説巨神イデオン(イデ)
第4位:ドラゴンボール超(全王)
第3位:魔法少女まどか☆マギカ(円環の理)
第2位:天元突破グレンラガン
✔ 多元宇宙(スーパーストリングス構造)に干渉=Type 5以上
→ ただし“創造が主体”ではなく“干渉・破壊”が中心 → Type5に確定
辞めるのではなく、判断保留にするのが大事だと思うんだよね…😟
人生もうやめりゅ!=自〇する
ではなくて、低空飛行気味な現状維持に徹するとか、なんか他のことをするのがいい
何回目のリトライなのかはしらない。
当初の目標からは大きズレているが曲がりなりにもこの世界線では結果を出した。
いや、正確には結果はまだ出ていない。
やったことによってどういう結果が出るのか?
それを見定めるまではこの世界線を維持し続けるのだろう。
そのあとのことはしらない。
それ、はてな独自の「Schrödinger型セッション管理バグ」だよ。
iOSがログイン時にバックグラウンド凍結すると、ログイン状態が量子重ね合わせ(ログイン済+未ログイン)になる。
サーバー側は「ログイン済波動関数」が優勢でログイン済みを返し、iPhone側は凍結中に未ログイン側に崩壊済。
観測者(増田)が画面を見た瞬間、両者の量子もつれが破綻してパラドックス発生する。
対処法は
3.増田を横目で見て、ログインしてないと3回念じる(観察することにより未ログイン状態を生成)
やってみてください。
一段と寒い夜、久しぶりに発作があって苦しかった。今ちょっと怠い。
うちは毒親ってほどではないのかもしれない。
衣食住は十分に与えてもらったし。
ただ味の素を毛嫌いして、だって普通の塩はナトリウムだから!(?)と言って天然塩に拘り、白砂糖使用者を馬鹿にしているカサンドラ母と、ガチガチの自分ルールの中でしか生きられない単身赴任の父という環境だった。
幼い頃は熱と咳が出る日が多くて、雪国で車もない中、母がバスに乗って何度も病院に連れて行ってくれたという話は聞いてる。若い頃の父は、朝起きて着替えが出されていないとブチギレていたそうだから当時の母の苦労と苛立ちはそれはもう大変なものだったと思う。
ここで特に診断がないのは小児喘息ではなかったということなのかな、ちょっとわからない。
小学校時代は咳が落ち着いていた記憶だけれど、鼻も悪くて耳鼻科には連れて行ってもらってた。副鼻腔炎にもなった。
喘息というのを知らなないまま運動部に入って、3キロ走るのが苦しかった。
そもそもの運動神経の悪さによるいじめや苦しさもあって辞めたが、後に私が会社を鬱で辞めた時、「部活辞めさせなきゃよかった」と言っていた。そういう父である。
単身赴任の父が帰ってくる土日、両親はよく喧嘩した。険悪な空気の中で母の機嫌を直さなければならない使命感に駆られていて、心臓がばくばくして、その夜は喘息が起こる。お湯とゲロ袋を持ってきて背中を撫でてくれる母に安堵していた。
高校。体育のあとは先生に背中を撫でられながら授業を受けていた。静かにしなきゃと思うほど咳が出る悲しみ。周りも大変な迷惑だったと思う。
冬は苦しくて眠れなくて、母が起きては背中を撫でてくれた。
でも病院には連れて行ってもらえなかった。
ほとんど寝不足のまま、雪降る中を自転車で通学すると学校でまた発作が出た。でも病院には行かなかった。
ベポラップを塗ってもらった。コップのお湯の蒸気を吸わせてもらった。あと蒸気が出る吸入機だったかな、買ってくれてそれでやり過ごしてた。
一度だけ、どういうきっかけだったか病院で診てもらうか、となって婦人科を兼ねてる小児科に行ったことがある。「症状が出てる時にこないとわからないよ」。二度と病院に行くことはなかった。
大学では咳で授業抜け出してた。一人で暮らしていたけどその頃はもう、喘息じゃないっぽいし、病院も諦めていて、治療もないんだと思い込んでいた気がする。もうこういうもんなんだと。今思うと入院するほどの重症じゃなくてまだよかった。
就職後、職場で咳と鼻水が尋常じゃなく、そこで心配してくれた(迷惑もあっただろう)上司たちに、その咳はおかしいから病院紹介してあげると言われて、慣れない土地に暮らしていたこともあって色々と面倒を見てもらいながら通院した。
迷惑かけておいて歪すぎるけど、通院を勧めてもらったのがちょっと嬉しかった。
いきなり良くはならなかったけど初めて喘息の薬をもらって安心感があった。真剣に検査してもらえたことも嬉しかった気がする。
その後いろいろあって心が折れ、実家に戻ることになった。
また発作が起きては吐いて、母が起きてきて背中を撫でられる生活の始まりだ。
子供の頃と違うのは母自身が内科にかかっていたことで、私も連れて行ってもらえた。早朝に点滴を打ってもらうことも何度もあった。毎日吸入してたけど、全然コントロールできなかった。
カレーも味噌汁も作ってる最中に全然匂いがしない。鼻もぐずぐずで痰が溜まるし、顔面が痛い。食事がなんの味かわらかない。味覚が甘い、しょっぱい、酸っぱい、辛い、ざっくりとしかわからなかった。生姜のすりおろし食べながらこれニンニク?とか言ってた。
鼻水も咳も限界で新しい耳鼻科に行った。鼻をカメラで見ながら「これは苦しかったでしょう」と言われた。恥ずかしいけど泣いちゃった。
あまりにも症状が続くから母は話を聞き流していたし、父はほぼ現代医療を信じていないし、まぁ親といえど大人になったら病気なんて自己責任だよな。
けど、大袈裟だけど、それまで数十年間の苦しさをそこで初めて認めてもらえたような気がした。
喘息も鼻水も適当に扱ってきたせいかどうかはわからない。完治しないのかという最悪の気分と、やっと原因がわかった安心感で、家に帰ってまたちょっと泣いた。
幸いにして何度かの手術と治療しつつ嗅覚は継続して快調だ。喘息もだいぶいい。人生で今が一番身体が楽。冬も平気。運動もできる。医師に感謝。
なんでもっと早く、苦しんでるとき、喘息ってわからなかったんだろうなぁ。
後に母が咳喘息になって。吸入薬を見せてきたり、たまに咳してまた喘息かもと言ってる姿見たり、鼻詰まりの時にお母さんもその病気かな!とか言われて。
もう、なんだか、素直に寄り添えなくなっていく自分がいて苦しくなった。色々と私の真似したり、会話泥棒する人なのだが、病気まで自分のものにしたいのかと、そう歪んでとらえてた。
幼少期にかけた苦労と、夜通し寄り添ってくれた日々があるから何も言えない。両親がコロナにかかれば看病した。そのことすら忘れられちゃったけど。認知症じゃないのに。同居してるのに家事をすることのない兄が看病してたら、きっと死ぬまで語り続けて感謝するのに。
父が歳とって風邪引くようになっていた。さすがに病院に行って人生で初めての咳止め薬を飲んでいた。これ飲めばお前の咳も良くなるんじゃないかとか言ってきた、びびった。
今まで咳をしては薬なしで治ると力説されるたび喘息だと何度も説明してる。咳き込めば背中を撫でてくれる優しさはある。ただどうしようもなくゲームの村人会話しかできない。会う度話す度リセットされて、忘れっぽくて、無理解なのだった。
キャベツ頭に被せろとかそういった方面の知識もなかったのがせめてもの救いである。
今更親に苦しさをわかってもらおうとすることが論外なんだろう。
なのに離れた今も執着してしまう。兄の部活には必死に付き添いしてたのに。なんで学校で苦しいって話聞いてくれなかったの。あとついでにブラも買ってくれなかったなとか余計なことまで芋蔓で思い出して恨みを募らせる。夜通し世話させたのにね。それとこれとは別だと思って良いんだろうか。小遣いで内科にかかる発想がなかったのが悪かったんだろうか。ブラを買うのも病院にかかるのも親の許可が必要だと思い込んで。
読むと分かる。
文章のクセが凄くAIっぽいっていうか、「これは中身ニ人間入ってねーな」と感じさせる。
ただパっと見でわかりにくい。
そして量が多い。
ペースが早い。
安定して供給される。
今までの中華レビューは怪しい日本語が一晩でドカっと入って粛清されて一瞬で消えてたから良かったものの、これからはAI生成で少しずつ水増しされるようになる。
AIっぽさが凄いとはいえ100%確定でサクラとは分からんし、IPリセットしながら流す作業と組み合わせられたらもう対処不能だと思う。
とにかく古い。
英傑1体がしょっぱい黒20体分ぐらいに相当すると思う。
1年戦争にストライクフリーダムが混じってるレベル。
流石におかしい。
増改築を繰り返しまくった果てに何をやったらいいのかが意味不明になってる。
一部キャラが強すぎるせいで戦いの中で的確にプレイヤーが成長するとかそういうのも難しくなってる気がする。
良く分からんまま手持ちの当たりキャラの暴力で突き進んだ後で何も知らないままで応用編を叩きつけられて死ぬ。
崩壊したゲームバランスの果てで「手持ちと相性がいいか」の重要性が高まりすぎた印象がある。
ゲームが10年ぐらいでリセットするのって批判されるけどさ、やっぱああいうの全く無いと新規が入ってこれない魔境になるんだなと感じたよ。
投資というのは未来を信じるという賭けなのだと、最近気づいた。
それなのに、現代の投資は「データに基づいた合理的な判断」みたいなことばっかり言われてて、未来を信じるという本質的な部分が、完全に吹き飛んでしまっている。
だから、これからの投資について語るならデータと信念のあいだで何をするか、という問いから始める必要がある。
積立NISA、インデックス投資、ポートフォリオ理論、ESG投資。
全部、これをやれば、失敗しないという正解を求めるフレームワークだ。
でも、正解なんて、もう無いのが明白になってきた。
生成AI革命で産業構造が変わったら、それまでの「正解」は意味を失う。
なぜなら、環境変化のスピードが、データを集積する速度を超えたから。
ただし、信念というのは根拠のない楽観ではなくて、社会はこう変わるという仮説に基づいた、計算されたギャンブルだ。
例えば、2010年代にビットコインに全資産をぶち込むというのは、合理的ではなかったけど、信念的にはこれからは中央銀行に支配されない通貨が必要という仮説があった。
その仮説が正しいかどうかは別として、少なくともデータを理由に拒否することはできない状況になってきた。
これからの投資で重要なのは「自分が何を信じるか」を、きちんと言語化することだ。
例えば、
AIは、結局、大手5社に収斂するから、FANG+に集中するという仮説
食料・水・エネルギー不足が進むから、農業・水インフラ・再生エネに集中するという仮説
でも、この中のどれかを選んで、それに基づいて投資する方が、正解を求めてウロウロするより、ずっと健全だ。
なぜなら、その仮説が外れたとき、なぜ外れたのかを、自分で分析できるから。
これからは失敗から学ぶという泥臭い営為が、唯一の競争優位になる。
例えば、2008年のリーマンショックで資産を失った人の中には「二度と株式投資をしない」と決めた人と「何がうまくいかなかったのか」を徹底的に分析した人がいた。
前者は、その後の株価上昇で、ずっと後悔し続ける。
後者は「リスク管理が不十分だった」「信念が曖昧だった」という学習を持って、次の投資に臨む。
もう一つ重要なのは「自分がどの時間軸で投資するのか」を決めることだ。
1年以内に2倍にしたい(これはもう投資ではなく、ギャンブル)
5年で1.5倍にしたい(これは現実的)
その時間軸によって正解は全く違う。
5年で1.5倍を狙う投資と、30年で10倍を狙う投資では、選ぶ商品も、リスク許容度も、心構えも、全部違う。
その結果、短期的な値動きに一喜一憂して、長期的な戦略を失う。
ここが、本当に大事な部分だと思う。
投資というのは、この社会はこう変わるという信念を、金銭という形で表現することだ。
つまり、投資の内容は「その人が社会の未来をどう見ているか」という、ほぼ哲学的な問題を反映している。
その信念が正しいか、間違ってるかよりも自分の信念が何かを言語化することが、投資の第一歩だ。
ただし、信念を持つことと、ただひとつの信念に縛られることは、別だ。
これからの投資で生き残るのは複数の信念を、同時に持てる人だと思う。
例えば
米国は強いけど、分断が進む
50%の確率で起きることには、それなりの投資をするという、曖昧性の中での判断。
また投資は「人生への投資」と同義であることを忘れてはいけない。
投資について語るとき、どの商品を選ぶかという問いばっかり出てくるけど、本当は自分の人生とお金の関係をどう構築するかという問いの方が、ずっと大事だ。
投資をしている人間というのは自分の人生の選択肢を増やすための行為をしているはずだ。
その行為がデータに従って、正解を追求することになったら、それはもう人生の選択肢ではなくて人生をデータの正解に委ねることになる。
だから、これからの投資の仕方は自分が何を信じるかを問うことから始まる。
そして、その問い自体が「自分の人生で何が大事か」を問うことと、ほぼ同じ意味を持つ。
つまり、投資は金銭の運用ではなく人生の設計であり、その設計が正解を求める人生か、信念に基づく人生かを、左右するのだと思う。
こんにちは、音MADクリエイターの皆さん! 音madは、PCの前で長時間座りっぱなしになりがちですよね。集中力が必要な作業だからこそ、プライベートのリフレッシュタイムで体を動かすことが大事。今回は、そんなクリエイター向けにオススメの体位3選を紹介します。選んだのは「後背位」「立ちバック」「仏壇返し」の3つ。これらはデスクワークで凝り固まった体をほぐしつつ、深い満足感を得られるもの。クリエイティブな発想を刺激するかも? 各体位について、詳しいやり方と良いところを解説します。安全第一で、互いの同意のもとでお楽しみください。
後背位は、女性が四つん這いになり、男性が後ろから挿入する基本的な体位です。
まず、女性はベッドや床の上に膝と手をついて体を支え、お尻を少し上げてアーチ状にします。
動きは男性主導で、ピストン運動を繰り返します。角度を調整するために、女性の腰を少し持ち上げたり、枕を使って高さを変えたりすると良いです。
ペースは最初ゆっくりから徐々に速くし、相手の反応を見ながら調整。
手は女性の胸や腰に回して刺激を加えると、より一体感が増します。時間は10〜20分程度が目安ですが、体力に合わせて。
角度が急なので、Gスポットや前立腺に直接刺激が届きやすく、両者とも強い快感を得やすい。特に音MAD作者のように長時間座っている人には、腰や背中のストレッチ効果があり、制作中の疲れを解消できます。
男性側から女性の背中やお尻が見えるので、ビジュアル的な刺激が強い。クリエイター目線で言うと、まるで動画編集のように「アングル」を意識して楽しめます。
ベッド以外にソファや机の上で試せ、場所を選ばない。疲れた体を動かすのにぴったりで、制作後のリラックスに最適。パートナーとのコミュニケーションも増え、クリエイティブなインスピレーションにつながるかも。
立ちバックは、後背位の立位バージョンで、両者とも立った状態で行います。女性は壁や家具に手をついて体を支え、少し前傾姿勢に。
動きは男性が主導で、腰を前後に振るピストン運動。女性の足の開き具合や男性の膝の曲げ方で高さを調整し、安定させるのがコツ。
シャワー室やキッチンなどの狭いスペースでも可能で、急な興奮時に便利。
持続時間は5〜15分が一般的ですが、足が疲れやすいので、途中で休憩を挟みましょう。
立ったままなので、足腰を使うため、座り仕事の音MAD作者に最適。血行が良くなり、制作中の頭痛や肩こりを軽減。まるで軽いエクササイズのように感じられます。
ベッド以外でできるので、日常のルーチンに取り入れやすい。急なインスピレーション(性的な意味で)が湧いた時にすぐ試せ、クリエイターの柔軟性を活かせます。
壁や鏡の前でやると、視界が広がり興奮度アップ。パートナーとの息がぴったり合うと、音MADのタイミング同期みたいに気持ちいい。体力的ですが、達成感が大きく、次の制作モチベにつながります。
仏壇返しは、女性が仰向けになり、足を高く上げて男性の肩や首にかける体位です。まず、女性はベッドに仰向けで寝て、膝を抱えるように足を胸に近づけます。
女性の腰を少し持ち上げて角度を深くし、ピストン運動を始めます。動きは男性主導ですが、女性も腰を浮かせて協力すると良い。
深い挿入になるので、ゆっくりスタートし、痛みがないか確認を。
枕を女性の腰の下に置くと安定します。時間は10〜15分程度で、激しすぎないようコントロール。
角度が極端なので、通常の体位では届かないスポットに刺激が届き、両者ともオーガズムに達しやすい。音MAD作者の集中力疲労を、深いリラクゼーションで解消できます。
対面式なので、目が合って感情的なつながりが強い。クリエイターとして、相手の表情を「観察」する楽しみがあり、インスピレーションの源に。
足腰のストレッチ効果が高く、デスクワークの硬くなった体をほぐします。変形版として、女性の足をさらに広げたり、道具を使ったりとカスタマイズ可能。制作後の「リセット」として、創造性をリフレッシュさせるのにぴったり。
これらの体位は、音mad作者の日常に取り入れやすいものばかり。制作の合間に試して、体と心のバランスを取ってみてください! ただし、健康第一。
パートナーと相談し、必要に応じてコンドームなどの安全対策を。
もしもっと詳しいバリエーションが知りたければ、コメントで教えてね。
クリエイティブな夜を!
――初代戦隊である「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年放送開始)から今年で戦隊は50周年。その記念作であるゴジュウジャーが来年で放送終了になることで、戦隊シリーズは終了してしまうのでしょうか。
いえ、戦隊シリーズとしては終了とは思っていません。休止です。戦隊の放送枠(テレビ朝日系、日曜朝9時半)は新たなものに変わりますが、戦隊作品そのものはいずれ復活する可能性があります。発表前の10月から「戦隊終了」の報道が出て、ここまで反響があるのは想定外でした。戦隊がここまで愛される存在だったのかと、ありがたい思いです。ただいずれ復活するにしても、10年は間を置いた方がいいと私は考えています。
――その理由は。
戦隊の限界が見えてきた。そこを打破すべくいろいろな工夫をしてきましたが、50周年という節目も迎え、根本的に考え直さないといけない場所にきたのは確かです。
一つはコロナ禍からの配信時代の到来です。配信では、特撮も新作と旧作が横並びで見られるようになりました。戦隊にとって、仮面ライダーだけじゃなく過去の戦隊作品もライバルになってきた。
戦隊は毎年毎年、世界観をリセットして新作を出してきました。作品につながりがなく、どこから見てもいいんですが、逆にどこから見たらいいのか分からない。一定の評価がある旧作に対して、よほどの特徴がない限り新作が勝てなくなってきた。
写真・図版
東映の白倉伸一郎さん。「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」にちなんで、ナンバーワンポーズ
もう一つの黒船は、アメコミヒーローものの大攻勢です。マーベルの「アベンジャーズ」シリーズは日本でも人気ですね。キャプテンアメリカにしろ、アイアンマンにしろ、もともと別の作品のキャラクターだったものを一つのパッケージにして届けている。
集団ヒーローでも、キャラクターの人格や戦闘能力など明確な設定が元々されている。一方で同じ集団ヒーローである戦隊は、毎年作品が変わりますし、キャラクターづけでは弱い面があった。
この二つの苦境を打破するべく、いろいろ工夫はしてきましたが、根本的に新たな挑戦をするべきだという結論に至りました。
――とはいえ戦隊もさまざまな新機軸を打ち出してきました。近年も、白倉さん自身がチーフプロデューサーとして入った「機界戦隊ゼンカイジャー」(2021年放送開始)では、戦隊5人のうち、人間が1人で4人は機械生命体というとんでもない内容です。戦隊とは数々の挑戦をしてきた歴史では。
もちろん様々なチャレンジをしてきました。それは戦隊という枠の中では新しい試みかもしれないけど、何が新しいのかを楽しむためには戦隊の「お約束」を知っているリテラシーがお客さんに必要になる。お約束を知った上での型破りを、どこまで分かってもらえるのか。
――戦隊といえば誰もが知っているはずなのに、内容は認知されていないと?
戦隊の根本的な課題だったのですが、50年続いただけあり、戦隊はあって当たり前のもの。ある種日本の文化になったと思うんですね。どれくらい見てきたかは人それぞれでも、戦隊と聞いたらカラースーツの5人のヒーローをイメージできる日本人の方が、多いのではないでしょうか。
それはそれだけ定着したという半面、「見なくてもいいもの」と思われる恐怖と隣り合わせです。
毎週その時間にテレビをつければ、変わらずやっている。現代風に変わった描写はあっても、話の大筋は変わらない。子どものときに見て一時卒業したけど、親になり自分の子どもと一緒に見たら、昔と変わっていない安心感がある。むしろ、変わってほしくない。
作品にとってこの状態に甘んじているのは危険で、変わらぬ良さは、見なくてもいいものと表裏一体なんです。どうせ話の筋は分かるし、毎週見なくてもいいやと。なんなら懐かしい旧作を見ればいいやと。新作はいらないと思われることは、作り手にとって常に恐怖です。
戦隊の「当たり前感」は制作陣にとっても危険です。大事なのは、戦隊という伝統の枠の中でどう目立つかではない。2025年の子どもたちに向けて、日本から世界に向けて、本当に必要な作品とは何かを考えることなんです。
東映には戦隊をつくるノウハウがあります。ただそのノウハウが、時に本当に新しいものを作ることを邪魔する。戦隊に慣れきった私たちの世代が抜けて、新たな世代が新たな戦隊を考えるべきだと思います。だから、10年は復活するべきではないと私は考えているのです。
――シリアスな仮面ライダーに対して、戦隊作品の明るさが好きだという視聴者も多いと思うのですが。
戦隊のお決まりですが、5人がスーツ姿に変身してポーズを取る。怪人を倒すと、後ろが爆発して炎が上がる。そして展開はむちゃくちゃだけど、巨大ロボットに乗って、巨大な敵と戦って毎度ビルを爆破する。くだらないと小バカにされるけど、とにかく明るい話。それがいいところなんですよ。
私が90年に東映に入社して「恐竜戦隊ジュウレンジャー」(92年開始)の企画会議に参加したとき、プロデューサーの鈴木武幸が開口一番「今度の巨大化はどうしますか」と言って、脚本家がめちゃめちゃ怒ったんですね。「違うだろう。最初に話すべきは、どういう番組にしようかだろう」って。
鈴木はそれまで何作も戦隊を手がけたベテランですが、いろんな試行錯誤を重ねた結果、もう悟りの境地だったんだと思います。戦隊が成功するにはこういうフォーマットしかないと分かってしまい、その上で(キャラクターを)「どう巨大化するか」をまず考えようという恐ろしい境地に達していたんです。はたから見ると、そこかよって突っ込みたくなりますが。
――30年前にすでにやり尽くしたと制作陣では感じていたのですね。
当時すでに戦隊は風前のともしび。ジュウレンジャーは「もう最後の戦隊かもしれないと思ってやろう」と言っていた。若手がこれまでにないことをやりたいと結託し、6人目の戦士を物語の途中から出したんですね。
――6人目がレギュラーメンバーとして出るのはジュウレンジャーが最初。物語の途中から出るいわゆる「追加戦士」も、6人以上の戦隊も、今では当たり前ですね。
定番になりましたが、当時はそんな未来は考えず、そこから30年も続くとは思いもしませんでした。ジュウレンジャーをベースに米国で作られた「パワーレンジャー」がヒットするというまさかの神風が影響したんでしょうね。
――仮面ライダーにもウルトラマンにも中断期間があります。初期に少し中断はあるものの、ほぼ50年放送が続いてきた特撮ヒーローは、戦隊だけでした。なぜ戦隊は愛されてきたのでしょうか。
そもそも戦隊は事故から生まれたものなんです。仮面ライダーを5人集めて戦うという作品が企画されていたのが、事情があって頓挫した。それで急きょ石ノ森章太郎先生に考えてもらったのが初代の秘密戦隊ゴレンジャーだったんです。さらにその後、(70年代に人気だった)「超電磁ロボ コン・バトラーV」などのロボットアニメの放送が途切れるという事態があり、巨大ロボットの命脈が戦隊に流れ込んできた。
戦隊の草創期の作り手に、理想のヒーローを作ろうと理屈をこねている余裕はなかった。なんとか一つの作品を作らなければならないという試行錯誤の末に、結果として生まれた事象を集めたものが戦隊だった。
写真・図版
なんでいちいち5人で戦わないといけないのか。なんで巨大ロボットにいちいち乗って戦うのか。それはよく分からない。その理屈を超えたところに、人間の本質がある。なぜかかっこよくて人を引きつける。エンターテインメントとして面白いものの本質を、戦隊は露骨に表してきた作品だったと思います。
善と悪の対立を描きにくくなった
――長年にわたりテレビでヒーローの姿を届けてきた意義も大きいでしょう。
戦隊そのものが描く善悪も、初期からはかなり変遷がありました。東西冷戦が終わり仮想的な「絶対悪」を社会が想定しづらくなった。フィクションのヒーローものでも一面的な善悪を描くことが難しくなっていきます。その中でも工夫をしながら、キャラクターの人物像を大切にしながら、悪い敵を倒す姿を放送してきました。
こと戦隊でいうと、仮面ライダーのような単体ヒーローとは違う。5人で一つのチームで、結束して敵に立ち向かいました。
こうしたことは子どもさんにはすぐに分からないかもしれないけど、大人になった時に「戦隊って大事なことやっていたんだな」って少しでも思ってもらえるかもしれない。
戦隊は当たり前になったと先ほど言いましたが、私は日本人の心の中には、戦隊がいると思っていますし、少しでも戦隊が社会にいい影響を与えられていたならうれしいです。
――50年続いてきた戦隊の放送を終了することに、葛藤はなかったですか。
葛藤、それはないですね。
戦隊を愛してくださったファンの方には感謝します。しかし、次の世代のためにも、どこかで次の挑戦を始めるべきでした。今はヒーロー番組そのものの変革を考えるときです。それがゴジュウジャーの後番組として始まる「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」です。
もう、自分が通り過ぎた地点ではあるんだけど、なんか、もっと、こう、みんなが幸せになれる仕組みって作れないもんなんですかね?
日本人って精神論とか、現場で工夫しろとか、足らないのは予算じゃなくて工夫でしょ?みたいな、
なんか、そういう後ろ向きなことに頑張りがちで、仕組みを疑わないというか、文句言っても使い続けてしまうというか、
アメリカとか、近年の中国とか、良くも悪くも仕組みを破壊するじゃないですか、
まあ、それで死ぬ人間も出るわけだけど、良い仕組みに置き換えようという善意が初めてそこで働くこともあるというか、
リセットしないと流石に無理ってこともあるし、
良くも悪くも安定志向、安全サイドなんだよね、まあ、そこが良いところでもあるんだけど…😟
メルカリじゃないけど、仕組みが悪だと、悪が蔓延してもなんともないというか、YouTubeとかSNSもそうですよ、
犯罪するほど得になる世界があったら、犯罪が蔓延してしまうわけで、
そういう世界にしないために頑張るべきなのは、国や政治、公務員、損得じゃなくて税金とかで稼働するべきものだし、
まわりまわって、そういう世界でないと金銭的にも得になるわけがない、
個人が安全に財産を持てないということは、もう無茶苦茶な世界ですよ、
キリスト教プロテスタントの合理的禁欲、貯金や勤労の精神が崩壊すれば、もうデビルマンの最終章ですよ
といっても、なんかそういう世界をAIがもたらす気もしないでもないですけど、
まあ、労働から完全開放されるのはまだまだ先だし、なったらなったで、また別の何か問題が起きるだけな気もする…😟
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー):AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー):AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
NextStep: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(SteadyState)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENTISWAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性:はい、極めて困難です。理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在:しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
NextStep: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義:人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 →人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義:人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 →人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
https://anond.hatelabo.jp/20241111110154
毎日とにかく必死で駆け抜けたから「今が一番幸せな時期だね?」とかそういうのはたまに行ってもらえるけど実感は正直全然ない。
ここ半年で私自身がなぜかいきなり昇給昇進しまくりのフィーバーが起きたし彼は彼で新しい環境で有能すぎて仕事超振ってもらっちゃってるし
「忙しくなること=不運」というのであれば運勢最悪というかんじ。
けどお金に余裕ができたら人間、これまで考えもしなかったことを思いつくのか気づくのかするらしくて
いきなり彼が「会社で聞かれたんだけど、新婚旅行どうする?」って聞いてきた。
この質問にものすごく浮かれまくったけど実はここ、地雷でもある。
彼がいなければ間違いなく倍は行ってる。
というのも彼は旅行が好きというわけではなく、むしろ私の影響でいろいろ目覚めたクチだから「別に行きたいわけじゃない」というのは知ってるから。
なんらかの興味はあると思って「前、あそこ行きたいって言ってたよね」と国名を出したら「ルーツとか知らないから、行ったところで一目で終わっちゃう」と言っている。
おそらくそんなはずはないのだが、私に気を遣ったんだと思う。
人生のどん底にいた彼に当時「私が“この世界、捨てたもんじゃねえな~”って思わせてあげるよ~いろいろ見せたい場所もモノもあるんだわ~フハハー」とか言ったから
それを昇華したいんだと思う。
旅行とか物を買うとかその都度で「お金がない」と口癖のように言われてきた。
今話題の下方婚ではあるから、プライドが高くて武士系の頑固さもある彼が周囲の目を気にする程度にこのあたりのギャップはあった。
そうでなくても私と暮らすためにいろんなことをリセットしてきた男である…というのを踏まえて、本当にその申し出に本気になっていいのかとかすごく迷っている。
っていろいろ書いてみたけど贅沢な悩みだな~~~~~~~~
一人の時は「自分が倒れたら自分の未来が終わる」みたいなことを考えて必死に毎日生きてきて
クリスマスのイルミネーションを尻目に一生懸命仕事したり疲労を癒したり
そんなことばかりをしていたから「彼氏ってばひどくて~」という話題を目にするたび「相手がいるだけいいだろ!!!!」と嫉妬に狂っていた。
けど彼氏ができても「この人に私を託せない」とかなんとか言って別れたりして、なにがしたいのかわからない中年になった。
そのあとでのこれ……幸せな悩みだな~と本気でそう思う。
二人いた他人同士が一緒に生きていくために価値観をすり合わせていくこの作業、ありがたいことに私と彼はあまり負担と感じていない。
「あ~なるほどね~」と受け入れては一晩たって概念として定着して……というのを繰り返している。
なのでなんだかんだ新婚旅行は行く気がしている。
私は趣味の一環で「え、なんでその言語を学ぼうと思った?」という言語をなんとか勉強し、旅行程度では困らないとか同じ趣味同士の人間となら困らないとか
そのくらいの温度感で話せる国がある。
コロナ禍前に行って感動して、通い詰めようと決めていた国でもある。
一緒に行きたいな~~