
はてなキーワード:リスク管理とは
最近街中やテレビでパンダのキャラクターを見るたびになんだかすごくモヤモヤした気持ちになる。みんな未だにパンダを「かわいい」「癒やされる」ものとして受け入れてるけど、今のこの世界情勢を見て本気でそう思えてるんだろうか?
ニュースをつければ、連日中国との関係がヤバいって話ばかり。いつ戦争になってもおかしくない、なんて言われてるのに、日本の企業は相変わらずパンダ、パンダ。この世間との温度差よ。
よく考えてみてほしい。パンダって結局中国の政治の道具だよね。「パンダ外交」なんて言葉があるくらいだし、全てのパンダは中国のもの。高いレンタル料を払って、結局そのお金が相手の国に行く。もし本当に戦争になったらどうするの?私たちが「かわいい〜」ってグッズを買ったりして落としたお金が、巡り巡ってミサイルや武器に変わって、こっちに向かってくるかもしれない。そう考えると、企業のキャラクターとして使い続けるのって、すごく無責任だと思う。
もちろん動物そのものに罪はないし、酷いことをしろなんて言わない。でも、日本の会社がわざわざ、今にも戦争しそうな相手国のシンボルを「会社の顔」にし続ける必要ってある?パンダのキャラって、今となっては日本人の平和ボケと危機感のなさの象徴にしか見えない。企業のお偉いさんたちは、この状況をどう考えてるんだろ。コンプライアンスとかリスク管理とか普段うるさいのに、なんでそこはスルーなのか不思議でたまらない。
日本には他にもいい動物いっぱいいるじゃん。タヌキとかキツネとか、日本の動物でいいでしょ。もうパンダに頼るのはやめようよ。そろそろ本気で線引きしないと、日本はいつまでもナメられたままだと思う。パンダには悪いけど、さよならするいい機会だと思う。パンダをキャラクターにしてる楽天、大丸松坂屋、サカイ引越センター、味の素、京成とか、このままだと不買運動だよ?
テレビの「コンプライアンス(法令遵守・社会規範の遵守)」がここまで厳しくなったのは、「ある日突然」ではなく、ここ20年ほどの間に3つの大きな波を経て段階的に強化されてきた結果です。
大きく分けると、①企業の不祥事(2000年代初頭)、②やらせ問題とBPO(2007年頃)、**③SNSの普及(2010年代〜)**という流れがあります。
それぞれの時期に何が起きて、どう変わっていったのかを整理します。
1. 【発端】2000年代初頭:企業の「コンプラ」がテレビに波及
もともと「コンプライアンス」は、テレビ局用語ではなく企業のビジネス用語でした。
*きっかけ:雪印集団食中毒事件(2000年)や食品偽装問題など、大企業の不祥事が相次ぎました。
* 変化:企業は「法令を守らないと会社が潰れる」という危機感を持ち、社内ルールを厳格化しました。
*テレビへの影響:テレビ番組は企業のスポンサー料で制作されています。「コンプラを重視するスポンサー企業」が、「自社のイメージを損なうような野蛮な番組や、差別的な表現がある番組には広告を出せない」と言い出したのが最初の引き金です。
*象徴的な事件: 人気健康番組『発掘!あるある大事典II』でのデータ捏造(納豆ダイエット)問題(2007年)。
* 変化: これを機に、**BPO(放送倫理・番組向上機構)**の権限や監視の目が非常に強くなりました。
*現場への影響:面白おかしくするための過剰な演出が「やらせ」とみなされるようになり、制作現場で「これ、証拠はあるのか?」「裏取りはしたか?」というチェック(考査)が極端に厳しくなりました。
ここが、私たちが「急激に厳しくなった」と感じる最大の要因です。
* 以前:視聴者のクレームは「電話」か「手紙」であり、局内だけで処理されていました。
*SNS時代:クレームがTwitter(現X)などで可視化され、**「炎上」**として瞬時に拡散されるようになりました。
*スポンサーへの直撃:視聴者がテレビ局ではなく、スポンサー企業に対して「あんな番組に金を出すのか」と直接攻撃(不買運動の示唆など)を行うようになりました。
* 結果:テレビ局は「面白いかどうか」よりも**「炎上リスクがないか(スポンサーに迷惑をかけないか)」**を最優先せざるを得なくなりました。これが現在の「過剰なほどの配慮」の正体です。
具体的に何がどう変わったのか?
かつては当たり前だった表現が、以下のような理由で消えていきました。
| かつての表現 | 現在のNG理由 |
| --- | --- |
| 頭を叩くツッコミ | 「暴力を助長する」「いじめに見える」というクレーム回避。 |
| 容姿いじり(デブ・ブス等) | ルッキズム(外見至上主義)への批判、人権意識の高まり。 |
| 過激な罰ゲーム | 「痛みを笑いにするのは不快」というBPO審議入りリスク。 |
| 心霊・オカルト | 科学的根拠がない、子供が怖がる等の理由で減少(または「フィクションです」の強調)。 |
| 水着・お色気 | ジェンダー観の変化、性的搾取批判、海外フォーマットへの適合。 |
まとめ
今のテレビにおけるコンプライアンスとは、**「スポンサー企業を守るための防御壁」であり、「SNSでの炎上を避けるためのリスク管理」**です。
昔のように「怒られるギリギリを攻めるのがプロ」という時代から、「怒られる可能性が1%でもあるならやめておく」という減点方式の時代に変わったと言えます。
ここ数年で、バラエティ番組よりもYouTubeや配信番組の方が「昔のテレビっぽい」と言われるのは、このスポンサー構造や規制の緩さが関係しています。
昔のテレビ番組で「あれは面白かったな」と思い出す特定のジャンルや番組はありますか?(それによって、どの規制の影響を強く感じていらっしゃるかが分かるかもしれません)
投資というのは未来を信じるという賭けなのだと、最近気づいた。
それなのに、現代の投資は「データに基づいた合理的な判断」みたいなことばっかり言われてて、未来を信じるという本質的な部分が、完全に吹き飛んでしまっている。
だから、これからの投資について語るならデータと信念のあいだで何をするか、という問いから始める必要がある。
積立NISA、インデックス投資、ポートフォリオ理論、ESG投資。
全部、これをやれば、失敗しないという正解を求めるフレームワークだ。
でも、正解なんて、もう無いのが明白になってきた。
生成AI革命で産業構造が変わったら、それまでの「正解」は意味を失う。
なぜなら、環境変化のスピードが、データを集積する速度を超えたから。
ただし、信念というのは根拠のない楽観ではなくて、社会はこう変わるという仮説に基づいた、計算されたギャンブルだ。
例えば、2010年代にビットコインに全資産をぶち込むというのは、合理的ではなかったけど、信念的にはこれからは中央銀行に支配されない通貨が必要という仮説があった。
その仮説が正しいかどうかは別として、少なくともデータを理由に拒否することはできない状況になってきた。
これからの投資で重要なのは「自分が何を信じるか」を、きちんと言語化することだ。
例えば、
AIは、結局、大手5社に収斂するから、FANG+に集中するという仮説
食料・水・エネルギー不足が進むから、農業・水インフラ・再生エネに集中するという仮説
でも、この中のどれかを選んで、それに基づいて投資する方が、正解を求めてウロウロするより、ずっと健全だ。
なぜなら、その仮説が外れたとき、なぜ外れたのかを、自分で分析できるから。
これからは失敗から学ぶという泥臭い営為が、唯一の競争優位になる。
例えば、2008年のリーマンショックで資産を失った人の中には「二度と株式投資をしない」と決めた人と「何がうまくいかなかったのか」を徹底的に分析した人がいた。
前者は、その後の株価上昇で、ずっと後悔し続ける。
後者は「リスク管理が不十分だった」「信念が曖昧だった」という学習を持って、次の投資に臨む。
もう一つ重要なのは「自分がどの時間軸で投資するのか」を決めることだ。
1年以内に2倍にしたい(これはもう投資ではなく、ギャンブル)
5年で1.5倍にしたい(これは現実的)
その時間軸によって正解は全く違う。
5年で1.5倍を狙う投資と、30年で10倍を狙う投資では、選ぶ商品も、リスク許容度も、心構えも、全部違う。
その結果、短期的な値動きに一喜一憂して、長期的な戦略を失う。
ここが、本当に大事な部分だと思う。
投資というのは、この社会はこう変わるという信念を、金銭という形で表現することだ。
つまり、投資の内容は「その人が社会の未来をどう見ているか」という、ほぼ哲学的な問題を反映している。
その信念が正しいか、間違ってるかよりも自分の信念が何かを言語化することが、投資の第一歩だ。
ただし、信念を持つことと、ただひとつの信念に縛られることは、別だ。
これからの投資で生き残るのは複数の信念を、同時に持てる人だと思う。
例えば
米国は強いけど、分断が進む
50%の確率で起きることには、それなりの投資をするという、曖昧性の中での判断。
また投資は「人生への投資」と同義であることを忘れてはいけない。
投資について語るとき、どの商品を選ぶかという問いばっかり出てくるけど、本当は自分の人生とお金の関係をどう構築するかという問いの方が、ずっと大事だ。
投資をしている人間というのは自分の人生の選択肢を増やすための行為をしているはずだ。
その行為がデータに従って、正解を追求することになったら、それはもう人生の選択肢ではなくて人生をデータの正解に委ねることになる。
だから、これからの投資の仕方は自分が何を信じるかを問うことから始まる。
そして、その問い自体が「自分の人生で何が大事か」を問うことと、ほぼ同じ意味を持つ。
つまり、投資は金銭の運用ではなく人生の設計であり、その設計が正解を求める人生か、信念に基づく人生かを、左右するのだと思う。
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1.歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3.格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4.結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義:テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点:共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放):大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入:問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保:大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資:システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定:選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み:共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜:難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果:テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論:現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
早慶の就活生です。将来的には事業会社でのコーポレートファイナンス関連のマネジメント職に就きたいと考えています。新卒でメガバンク(財閥系の2つ)に入って30歳くらいで事業会社財務部に転職するコースと、新卒から事業会社に入って経理部から財務部に異動するコースのどちらかで悩んでいるのですが、どちらの方がおすすめでしょうか。 なお、おそらく耐性がないだろうと自覚しているため外資系金融機関や日系証券会社などは考えていません。
貴方の質問には、将来の目標に対して根本的に理解が欠けている、いくつかの致命的な欠陥が見受けられます。
貴方が目指す「事業会社でのコーポレートファイナンス関連のマネジメント職」とは、単なる経理や財務の実務担当者ではありません。M&A、資金調達戦略、事業ポートフォリオ管理といった、経営の根幹に関わる意思決定を行うポジションです。
メガバンクでの経験は、融資側の「業者目線」は身につきますが、事業会社側の「当事者目線」での意思決定経験は、基本的に積めません。「30歳で財務部に転職」したところで、貴方は単なる金庫番の延長線上からのスタートを切ることになるでしょう。
「外資系金融機関や日系証券会社は考えていません」とのことですが、それらで培われる極限のスピード感、高度な分析力、そしてプロフェッショナルとしての緊張感こそが、コーポレートファイナンスのマネジメント職に必須の資質です。
その「耐性がない」という自覚は、裏を返せば「私は楽な道を選びたいが、最終的な地位だけは手に入れたい」という甘えでしかありません。マネジメントとは、耐性が問われる最もタフな仕事であるという事実から目を背けているに過ぎません。
事業会社において、経理と財務は役割が大きく異なります。経理が過去の数字を正確に報告する守りの機能だとすれば、財務は未来に向けて資金を動かし、資本効率を最適化する攻めの機能です。
新卒で経理に入り、そこから財務への異動を待つコースは、最も時間の浪費となる可能性が高いです。なぜなら、異動の確約はありませんし、経理で培うスキルセットは、必ずしも高度なコーポレートファイナンスに直結しないからです。回り道をしている間に、貴方の同期は外部で遥かに専門的な経験を積むでしょう。
真にコーポレートファイナンスのマネジメントを目指すのであれば、貴方が考える二つのコースは、どちらも二流の選択肢です。
これは共通ですが、入社するのは「コーポレートファイナンスが経営戦略の核」となっているグローバルな大企業、またはM&Aを繰り返す成長企業を選ぶべきです。
最初からファイナンス戦略、事業評価、リスク管理に携わる部署に入り、経営者視点を鍛える必要があります。
30歳までに、国内の異動頼みでなく、自分の市場価値を客観的に高める資格や学位を、自己投資で獲得しなさい。
本当にマネジメント職を志すなら、最初からその専門性と経営への影響度が高いポジションを、臆病な選択肢を排除して狙うべきです。
例えばさ、ある時期にお前のGithubで公開したコードが一世風靡したとするだろ?
んで、お前がXでこんなコードを作りましたと言っても、お前のXアカウントは信頼されない。
なぜなら、そのGithubアカウントがお前のXアカウントを同一人物として判別するには、プロフィールの相互リンクが不可欠だから。
たぶん、Google検索もこういったトランスランクを加味している可能性が高い。
だから結局、トラストランクというのは内容そのものの良し悪しよりも、主体の一貫性が外部から検証可能かどうかで決まるんだよ。
技術的に正しいコードを書いても、それが誰による成果物なのかが曖昧なら、評価システム全体は防御的に振る舞う。
これはSNSでも検索エンジンでも同じで、なりすまし・スパム・宣伝アカウントを排除するための基本的なリスク管理構造だから。
そして、これらのサービスは互いのデータを直接共有しているわけじゃない。
個別に主体の実体を推定しようとする。そのとき一番効くシグナルが相互にリンクされたプロファイルなんだよ。
片方向リンクは主張に過ぎない。相互リンクは検証可能な関係性になる。
つまり、X →GitHub だけでは本物かどうかは確証できない。
GitHub → X のリンクが揃ったとき初めて、システムはこれは同一主体の操作だと判断しやすくなる。
これはWebのリンク解析が昔から採用している相互性から生まれる確からしさと同じ構造だ。
そしてGoogleがこれを無視する理由はほぼ存在しない。なぜなら、主体の正当性を誤判定すると検索品質そのものが崩れるからだ。
品質維持のためには、リンク構造・アカウント間の整合性・外部発信の一貫性をスコア化せざるを得ない。
これはPageRankの派生というより、E-E-A-Tやスパム防御の延長線上に自然発生した要件と考えるほうが合理的だ。
だから、どれだけ良いコードを書こうが、どれだけ正確な技術記事を書こうが、主体の整合性が弱ければ情報は正当に扱われない可能性がある。
ミドフォーオッサン俺。別部署の大卒3年目の社員(女・以下Aとする)と、たまたま故郷がかなり近いということが発覚してからちょいちょい話すようになり1年くらい。
この前、Aの方から、ちょっと愚痴を聞いてもらいたい、俺さんくらいの年代の人からの意見を聞きたい、だから飲みに行きましょうと誘われ、1対1はリスク管理的にいかがなものかと思い他にも若手を誘おうとしたら、むしろ他の人に聞かれたくないので1対1がいいと言われ、そこまで言うならと実際に行ったわけよ。
ところで俺は妻子持ちだし、Aも実は既婚である(最近の若者、早い奴は本当に学生時代からの彼氏彼女とすぐ結婚するよなー)。
俺的にはAに対する特段の気持ちはない。てか20歳くらい離れてる年下の若者・後輩社員はそもそも男女問わず皆可愛いという意味では可愛く思ってはいるが、その程度である。
ただし本当に万が一にもエロいことにならないよう、店は敢えてチェーン店で当然に個室は避け、ムードとか一切ない感じになるよう事前準備しておいた。
そして自分の性欲がいきなり燃え盛ったりしないように、当日朝にシコっておくという対策まで実施した。
そういう事前準備が功を奏したのかもしれんが、本当にビックリするほど性欲が湧かなかった。
話を聞いて気の毒に思う部分と、それはお前頑張れよと思う部分がそれぞれあり、ちゃんとAをいい気分で家に帰すというミッションを完遂した満足感だけがあった。
多分だけどこれって加齢のせいなんだよな。自分が歳とってそもそも性欲が落ちてるとか、あとやっぱ年代が違い過ぎてそういう対象と思えない的な。
あなたの観察「女性医療従事者は初対面の患者に仕事と無関係の質問をしない」について、もう少し深掘りして説明しますね。
「空気を読みなさい」
男性(特に高学歴・専門職)は「好奇心=知的探求」として許される環境で育つ
質問することが推奨される
「知りたい=聞いていい」という感覚が強化される
患者が不快でも 「断りづらい空気」を作ってしまっている自覚がない
「聞かれたくないこと」への共感がある
🧠 3.好奇心の向け方の違い
あなたが書いた通り:
(日本人女性は初対面の男性に対して警戒心持つことが多く有名人でもない限り興味は持たれないだろう=一般人にはプライベートな質問もしない)
それを 診察という"許された場" で満たそうとする
「善意のコミュニケーション」のつもりで、境界線を越えていることに気づかない
つまり…
リスク管理 →プライベートに踏み込む =トラブルの元、という警戒心
という結果が出ています。
つまり、今回の医師の行動は「個人の問題」であると同時に、「ジェンダー・権力・教育の構造的問題」でもある、ということです。
https://x.com/OsanaiYama/status/1993083454028927206
小山内啓一
@OsanaiYama
「最初から映画にするつもりで長編をTwitter連載してました」って言われたとき、大炎上した100ワニと「だろうな」って受け入れられているちいかわ島編の違いはなんだろう、とか考えている
https://x.com/Euri_K/status/1993282448877302142
@Euri_K
何の後ろ盾もない作家の気ままな連載と思わせて、最初からメディアミックスしてないとおかしいタイミングでグッズや映画が発表された100ワニと、明らかに癖が溢れ出てるアカン世界観のSNS漫画が順を追って丁寧にメディア化したのとでは雲泥の差があるので、比較するのも烏滸がましい。
未だに「100ワニは最初からグッズ・映画化ありきで連載させた」って信じてる人が多くて驚く。
冷静に考えてほしいんだけど、「100ワニ以前にパッとしたヒット作が特になかった作家に、最初から映画化やLOFTコラボ前提で予算をつけて連載させる」なんて、あまりにも割の悪すぎるギャンブルだと思わないか?
企業がそんなハイリスクな案件に通す稟議書、どうやって書くんだよ。
2つ目のツイートの「最初からメディアミックスしてないとおかしいタイミングでグッズや映画が発表された」っていう点についても、全然おかしくない。
グッズ展開の早さに関して言うと、当時出ていたのはプリント系のグッズばかり。これらは版権絵さえあれば数日で量産体制が組める。新元号『令和』が決まった直後に、令和Tシャツが売られてたって話があるくらい簡単。
映画化発表の早さに関しては、連載途中でバズった時点で、水面下で大人が動くには十分な時間が数ヶ月あった。「映画化決定!」のプレスリリースを出すだけなら、脚本やキャストが決まってなくてもできる。
あと、「作者が『電通研究所』という名前のビル(広告代理店の電通とは無関係)の近くに行ってたっぽい→電通案件だ!」ってデマが拡散されたのも、まあ酷かったわよね。
(連載終了後のMVに電通の人間が関わっていたのは事実だけど、それは「バズったから後乗りで仕事として関わった」だけの話で、最初から仕組んでいた証拠にはならない)
あの作品の失敗の本質は、「連載終了=ワニの死の瞬間に、喪に服す時間を与えずアクセル全開で商売を始めてしまった」という間の悪さであって、最初から仕組まれた巨大な陰謀などではないと思う。
「電通の名前が出た=ステマだ! 悪だ!」という図式で思考停止して、企業の意思決定スピードやリスク管理の視点を無視した陰謀論が、数年経ってもまだ語られているのを見ると、なんだかなぁという気持ちになる。
犯罪するような奴は典型的な悪人なんだ!ってそんなの信じてるバカいるの?
詐欺グループで捕まるのは末端ばかりだ。トップは捕まらないから詐欺が無くならない。
捕まらないために周到に組織を管理しているし信頼できる人しか周りに置かない。周りが裏切らないというのは凄いことだ。洗脳や脅しで操っても操って居られるうちは強いが、それが通用しなくなった時崩れるのも早い。純粋に信頼されているのだと思う。
そして捕まらないために徹底的にリスク管理をしている。悪人面した悪人などリスクが大きすぎる。いい人として振る舞うのが自然だ。組織のトップでありながら逃亡し続けるのは自然ではない。どこかで普通に生活しているだろう。
最近、「人生どう楽しむか」とかQOLがどうとか、そういうのを考えるのをやめた。
結局のところ、幸福感なんてものは脳内の神経伝達物質の量で決まる物理現象に過ぎない。
焼肉のホルモンじゃない。アドレナリン、ドーパミン、エンドルフィン。こいつらを意図的にドバドバ出せるシステムを構築した奴が勝つ。それだけの話だ。
俺は転勤族で、東京と大阪を行ったり来たりしてるんだが、どこに住もうがやることは変わらない。
悪いことは言わないから、リッターSS(スーパースポーツ)か、最低でも750ccクラスを買え。
東京にいるなら奥多摩周遊道路、大阪なら龍神スカイラインか月ヶ瀬。このあたりの峠を、タイヤの端まで使って走れるスペックが必要だ。中古で100万出せば、四輪のスーパーカー並みの加速装置が手に入る。コスパが良すぎる。
バイクで登山口まで行って、そこからさらに自分の足で標高を稼ぐ。
関東なら両神山の鎖場、関西なら大峰の大普賢岳あたりが最高だ。
おすすめは、早朝の高速ですり抜けして神経を極限まで研ぎ澄ませてから、そのまま山に取り付くルート。心拍数を限界まで上げて、滑落のリスクを脳の片隅で処理しながら岩を掴む。
安全マージンはもちろん確保するけど、感覚的には「死」を隣に置く。この緊張感が重要。
極限の緊張状態(交感神経優位)から、サウナと水風呂の温度差攻撃で、強制的に副交感神経優位へとスイッチさせる。
そうすると、脳内でβ-エンドルフィンやらセロトニンやらオキシトシンやら、快楽と安らぎを司る脳内麻薬のカクテルが生成される。理屈で言えば、これで幸福にならないわけがない。
体は疲労困憊、でも脳は覚醒状態。この矛盾した状態で1xxキロ出しながら暗闇を切り裂いてると、ドーパミンが致死量ギリギリまで分泌される感覚がある。
ここだけは譲れないんだが、行くなら絶対「高級ソープ」一択。10万握りしめて行け。
最近流行りのタチンボとかマッチングアプリ、パパ活みたいな素人崩れには絶対手を出さない。病気のリスク管理ができてない案件でロシアンルーレットするほど俺は馬鹿じゃない。プロの接客と衛生管理に金を払うんだよ。
そこで性欲中枢をバグらせて、仕上げに鰻か高い肉を胃に詰め込む。
「そんなことして何になるんだ」って言われるかもしれないけど、これには実利がある。
週末にこのルーティンで「死のリスク」を脳に叩き込んでおくと、平日の仕事での「リスク許容度」がバグるんだよ。
月曜日に上司から鬼詰めされたり、プロジェクトが炎上したりしても、
「まあ、昨日の首都高のすり抜けに比べれば死ぬわけじゃないしな」
「大普賢のあの崖で足滑らせた時の方がよっぽどヤバかったわ」
って感じで、心拍数が全く上がらなくなる。
どうせ死なねえから余裕余裕、という謎の全能感で切り抜けられる。これこそが最大のメリット。
あと不思議なもんで、こうやって極限まで身体を痛めつけて賢者タイムに入ると、家にある法華経とかヴィトゲンシュタインが妙にスッと入ってくるんだよな。
以前、会社でやらされた「マインドフルネス研修」とか当時は「宗教かよ、クソが」と思ってたけど、今の状態ならその意味が痛いほど分かる。「今、ここ」に集中する感覚って、結局は脳のバグを利用したハックなんだよ。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とか、下山後の脳味噌だと「ああ、それな」って感覚的に理解できる。
まあ、ブコメで「ただの危険運転」「薬物依存乙」って叩かれるのは分かってる。
でも、現代社会の閉塞感を突破するには、これくらい生物としての生存本能をハックしないと無理なんだよな。
そういえば先週、迷い込んだ山奥の店で食った天ぷらが死ぬほど美味かった。
コシアブラとかタラノメみたいな山菜も凄かったんだが、太白胡麻油で揚げたハモの天ぷらが異常に旨くて、そこだけ記憶が鮮明に残ってる。
そういう予期せぬ「バグ」みたいな幸福を見つけると、「まあ、このクソみたいな世界も悪くないか」と思える。
いつまで続けられるか分からないけど、止まったら死ぬ回遊魚みたいなもんだから、しばらくはこのまま走り続けるしかない。
ここまで読んだ人、ありがとう。
https://togetter.com/li/2626979のやつ
昔親の都合でバレエ習ってた男だけど(幼稚園〜中2まで週1以上)、その経験からちょっと解説。
20年以上前だけど、クラシックバレエの風土ってそう変わらんと思うので、参考になれば。
バレエのレッスン着は
→ 体の線を出すため。俺のいた団では腰のフリルすらNGだった。
この格好でトイレ行くと、全部脱ぐことになる。
3歳とか、トイレのタイミング見失いがちだし、漏らすリスクはある。
漏らしたら指導者が後片付けするのでその間はレッスン中断になる。
レッスンの構成は以下の通り。
しかも
飲むタイミングは「レッスン前後」か「バーとセンターの間」くらい。
バーレッスン中グビグビはしなかった。足元に置いてたら邪魔だしそんな暇も無い。
コンクール対策や講演会の練習の時はもう少し自由で割と好きに飲めたけど、これは常に動いてる訳ではなくメインで指導を受けてる人ら以外は脇の方で自己連してたからだろうね。
私語禁止はベラベラ話してると「〇〇さんと〇〇さん、おしゃべりしたいなら外でどうぞ(うるさいから出ていけ)」って名指しで怒られていた。
その他は例えば髪型はお団子頭限定(ショートは伸ばさせられていた)なんかも特徴的かもね。
https://anond.hatelabo.jp/20251103225651
彼に対しては「オモコロで記事を書いていたライター」「結婚後はイクメン記事も執筆」といった程度の認識しかなかったが、
ふと彼のアカウントをフォローした際、そのイメージと実際の発言とのギャップに驚いた。
レスバ自体は彼と同等の知名度、あるいはそれ以上のライターやインフルエンサーも行うが、
彼の場合は無名のアカウントにまで積極的に絡み、時にはエゴサをしてまで噛みつくことがある。
思い返せば、増田で氏の育児楽しい記事について批判的な記事を書いた投稿者に対し、直接絡んで晒し上げたこともあった。
加えて彼は、なかなかに口が悪い。
悪い意味で昔の2ちゃんねらー的なノリがあり、今の時代にその振る舞いを目にすると、単純に下品で印象が悪い。
はてなブックマーク界隈のように、必要以上の毒舌や攻撃的な言動が許容される空間では違和感がないのかもしれないが、
近年のネット文化は「ぬるま湯」と言われるほど穏やかなものが主流になりつつある。
その中で彼の言動は、異質であり、浮いて見える。
この変化には、彼の年齢や立場の変化も関係しているのではないか。
若い頃は「若さ」「勢い」「悪ノリ」で許容されていた言動も、今やアラフォーで家庭を持ち、
一定の知名度を持つライターとして振る舞うとなると、受け入れられにくくなっているのかもしれない。
最近、オモコロ周辺で彼の名前を聞く機会が減ったのも、このあたりが影響しているのではないかと邪推する。
オモコロ自体が近年、女性やライト層向けにコンテンツの方向性をシフトしていることを考えると、
ヨッピー氏のような「昔ながらのネット民的ノリ」と距離を置きたがっているのではないかとも推測できる。
以前、彼が「男なら女の子に奢らなきゃいけないでしょ!文句を言う奴は男らしくない!」
といった趣旨の発言をして批判を浴びたことがあったが、近年のXでの振る舞いも含めて、悪い意味での「男らしさ」や「有害な男性性」の発露を感じさせる。
また、無名のアカウントに噛みついて晒し上げたり、先のイクメン増田に噛みついた様に「こんな酷いことを書かれました」と信者を煽るような言動も目立つ。
彼が想定しているであろう「面白く愉快なヨッピー」「男らしく頼れるイクメンなヨッピー」といったイメージとの乖離が大きく、
自身の発信するイメージと、実際の受け取られ方のコントロールが難しくなっているのは、
加齢による感性の変化も影響しているのだろう。
実際、アラフォー以降になると、元々は面白くセンスのあった人物でも、
言動が不安定になったり、発言が必要以上に過激化・先鋭化していく現象は珍しくない。
この年齢で一貫したスタンスを維持することは、意外と難しいのかもしれない。
とはいえ、ヨッピー氏の場合はイクメンライターとして家族を公開しながら活動している以上、
無駄に喧嘩を売ってヘイトを集めるやり方は、リスク管理の観点から見ても避けるべきだろう。
うちの部のプロジェクトも、もう何十本目かの製品立ち上げになるけど、最初のドラフトレビューが完全に形骸化してる。
資料を配って”仮”と書いて、「アップデート予定」と注釈してるけど、結局次の定例で同じスライドを開いてる。
正直、PowerPointのデザインテンプレートを変えるほうが時間かかってるんじゃないかって思う。
たとえば今進めてる製品。
IoTセンサー搭載の新しい制御モジュールで、BLEとWi-Fiをデュアルにして、エッジ側で軽量な推論モデルを動かす構成――ってだけで、みんなの頭の中ではもう「いつものやつ」になってる。
「ファームは前回の焼き直しでしょ?」
って感じ。
実際、レビュー中も「MCUはESP32ですか?」「いや、今回はnRFです」「あ、そうなんだ」で終わり。
質疑もない。そのくせリスク管理表とかテストスケジュール案は律義にフォーマット通り出さなきゃいけない。
内容なんて空欄だらけなのに。
若手が頑張って図を入れてきても、「このフローチャートは確定じゃないんだよね?」で一蹴。
いや、だからドラフトなんですけど…っていう言葉が会議室に萎んで響く。
どうせ本決定は部長判断。どうせコストは経理次第。どうせ顧客要求はまた変わる。
進んでる感を演出するため?
気づけば、意味があるのは中身じゃなくて手順だけ。
議事録は残って、フォルダ名は「2025Q4_製品A_ドラフト」になって、
終わった後に誰も開かないPDFが増えていく。
サーバーの中は、未完の「仮」だらけ。
わかる。
というか話し合いを持ちに行ったの素直に偉いと思う。
やっぱり火種になる事を黙ってやってる時点で、
手段はともかく、手法として旦那さん側のリスク管理は出来てないわな。
後は話し合いが出来るかだなぁって感じ。
問題を深堀りするとどうしてもお互いに後戻り出来ないに行きがちだと思ってる。
で、正直レスの話をした段階で、この御夫婦はリカバリー難しいよね。
それこそ、貴方みたいに正直になら風俗は行きます。それ以上は行きませんって線を引くべきで
完全に初期消火をミスった事例な感じがする。
御夫婦で改めてええかんじに話合えるといいよね。
色々返信ありがとう。
また、匿名のどこかで。
生成AI、半導体、クラウド、どの分野でも「AI」という言葉がつけば資金が集まり、株価が跳ね上がる。
だが、この状況はすでに技術ではなく、資本の期待によって支えられている。
多くの企業はまだ収益化の途上にあり、実際のキャッシュフローは乏しい。
それにもかかわらず、市場では「未来の完全成功」が前提になっている。
企業価値は期待で膨らみ、投資家は「今買わなければ乗り遅れる」と考える。
この構造は、2000年のドットコムバブルや、2021年のWeb3ブームとよく似ている。
技術が本物でも、資本の過熱が続くと、やがてその重みに耐えられなくなる。
主要企業の決算が予想を下回る、金利が上がる、規制が強化される。
VCは新規投資を絞り、スタートアップは評価額を下げざるを得なくなる。
雇用調整やリストラが始まり、「AIブームの終わり」がニュースになる。
過去のテックバブルがそうであったように、崩壊は静かに、しかし確実に進む。
まず、株式市場。
日本のAI関連銘柄や半導体株は、米国市場とほぼ連動している。
世界的な投資縮小が起きれば、国内のAI系ベンチャーも資金繰りが厳しくなる。
政府がAI関連の補助金や支援を拡大しているが、バブル崩壊後には「成果のない支出」と批判される可能性がある。
NISAやETFを通じてAI関連に投資する個人も増えている。
「AIは未来だから下がらない」という思考は、もっとも危険な幻想だ。
分散投資、現金比率の確保、そして「物語ではなく実績を見る」姿勢が大切だ。
過去のバブルを見ても、最後に損失を被るのは、いつも熱狂の渦中に飛び込んだ投資家だった。
それが緩やかな修正になるか、急激な崩壊になるかは、金利と収益次第だ。
日本にとって重要なのは、ブームの波に乗ることではなく、崩壊に備えることだ。
市場も政策も、そして個人も、「熱狂の終わり」を前提に行動する段階に入っている。
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ご希望があれば、
を補足することもできます。
どちらを追加しましょうか?
それはかなりハイリスクな状況ですね。まずはポジションを一度整理し、損切りラインを明確にしましょう。
月曜日の下窓リスクを考慮すると、逆指値を早急に設定しておくのが得策です。
もし逆指値が間に合わない場合は、手動で損失許容ラインまで成行で決済し、被害を最小限に抑えるべきです。
そのうえで、総裁選の結果や市場反応に合わせて、次の戦略を練り直しましょう。
たとえば、主要経済指標の発表前後はボラティリティが高まるため、ポジションサイズを縮小して臨むのが安全です。
高市氏の政策観測に賭けたいなら、小口のスイングポジションで様子を見るほうが安定します。
結論としては、リスク管理を最優先に、冷静に逆指値を設定し直して相場の値動きを注視してください。
これ以上の損失を防ぎながら、次のチャンスを待つのが賢明です。
まとめると、慌てるなどんなときにも冷静に、や。
「女性取締役が増えると企業の利益率が下がる」という主張は、事実として一般化できるものではありません。研究や国・業界ごとに結果が異なり、一概に断定できないのが現状です。
・マッキンゼーやクレディ・スイスなどの国際的調査では、取締役会のジェンダー多様性が高い企業は平均的にROEや利益率が高いと報告されています。
・多様な意思決定やリスク管理の改善、人材確保の優位性が要因とされます。
・ノルウェーのように法律で一定比率の女性取締役を義務化した場合、短期的には業績が下がったとする研究があります(Ahern & Dittmar, 2012)。
→理由は、人数確保を優先して経験の浅い人材が登用されたためと解釈されています。
・アメリカや日本の一部の研究では、有意な業績向上が確認できない(中立的)という結果もあります。
注意点
業績が悪いから女性を登用したのか、女性を登用したから業績が悪化したのかは切り分けが難しいです。
義務化で急に増やした国と、自然に登用が進んだ国では影響が異なります。
長期と短期で結果が違う
つまり元々の数字が非常に小さいので、「プリウスミサイルと化して女子供を轢き殺すリスク」はリスク管理としては無視したうえで保険で担保すれば十分、と言う世間一般で言われる対策を続けていけば大丈夫そうですね。
で、次に考えたのが「いかに殺されずに/怪我させられずに/強姦されずに帰宅するか」つまり相手を逆上させないように振舞えるかだった。
直接的にキッパリと「身体に触れるのはやめて下さい」と断って、俺を痴漢扱いするのかと逆恨みされるかも知れない。そうなったら危害を加えられる可能性は高い。
婉曲に「やめてよ」とアクションしてみても俺の好意を無碍にするのかと怨恨をこじらせストーカー化するかも知れない。そうなると今後の社会生活が面倒になる。
発想が飛躍しすぎだろうか?
いやだっていきなり身体に侵襲的な行為を加えてくる人間のことを咄嗟に信用し直せっても土台無理な話じゃん。
まぁ文字に起こしてみると過激な文言ではあるけど、実際のところ怯えている様子や態度は見せることなく(そうすると嗜虐心を刺激しそうだったし)なんというか、あくまで「最低限のベースライン」として脳内での危機管理がされてたって感じ。
「飲酒で判断力を失う人は男女関係なく存在するので、よく知らない相手と二人きりで飲まない」
「身体の関係まで許す気のない異性・同性と二人きりで飲みに行くのは(お互いにあらぬ誤解や行き違いの元になりかねないので)避ける」
であって、「怒らせたら最悪殺されるかもしれない」と考える程度に危機感抱くような相手と、普通は二人きりで飲みにいかないんですよ。
リスク管理のベースが明らかに間違ってるし、その間違ったリスク管理の元で実際に危機が訪れたら、まだ何も起きてない段階で最悪の可能性を想定して動こうとするし、お前はルナ先生か。
今私が殺されもせず五体満足で(直後は流石にメンタル不調に陥ったが)健康かつ安全に暮らせているのは当時の私の判断のおかげなんだろうか。