
はてなキーワード:リアルロボットとは
本稿で提示するプロファイルは、10万件以上のブクマを有するidを対象に公開コメントをAIが解析し、その深層心理や思想傾向をモデル化した「テキスト・ペルソナ」です。これは実在する個人のプライバシーを暴くものではなく、言語活動に基づく批評的なシミュレーション(思考実験)です。特定の個人の社会的評価を操作する意図はなく、あくまでAIによるテキスト分析の一環としてお楽しみください。
幼少期にドキドキ土器の収録された巻を買ってもらって、いつも読んでましたよ…😟
藤子F先生は、ああいう夢追い人というか、夢を追い続けて大人になれない大人、みたいなの描くの好きですよね…😟
同じものをA氏が描くと、黒服のセールスマンがやってきてドーン!する、露悪趣味のウシジマくんみたいな話になっちゃいますけど、
F先生の描く話は、どこか慈悲があったり、あの可愛い絵柄だからこそ、救いようのないオチとの落差で恐怖感が増すとか、
A先生は、魔太郎、笑うセールスマン、ハットリくん、とかですよね…😟
藤子F絵もいいよなあ…😟
子供の頃はコロコロコミック読んでて、でも途中でガンプラブームになって、再放送のガンダムに夢中になって、
そこで藤子F先生の絵が、正直幼稚というか、ビッグコミックで大人向けのSF短編読んでも、子供は理解できないというか、共感できないというか、
大人になってから、抱け!抱け!とか理解できるようになるわけで…😟
でも、リアルロボット熱だっていつかは冷めるわけで、中高で大友、士郎正宗がマイブームになって、
ジークアクスはキャラクターの死が軽い。作品自体が「アムロでなくシャアがガンダムを盗んでたら」というifの二次創作であり、
分岐ややり直しが容易にできるゲーム感覚がベースになっているのもあるし、制作側がアニメのオマージュ・セルフパロディを繰り返して「アニメを模したアニメ」として現実から非常に遠ざかった記号化の極みにいるというのもある。
別に日本の二次元カルチャーを叩きたいのではない。こういうゲーム的だったりマルチバース的な感覚に基づいた作品作りはアメリカのヒーローもののほうが先行しているからだ。
キャラクターの描写も浅い。行間が広い、余白を残してある、といった美化した解釈が難しい「落丁」に近いような雑さ。カットの繋ぎが滑らかでなく、総集編のような粗い繋ぎ目の急展開。
(10話ではマチュのケツカメラからシャリアの壁ドンへの繋ぎが酷いものだった。9話の予告に壁ドン赤面を入れてバズらせることが重要であり、キャラクターの動きを自然にすることには意味がない)
だから短いわりに内容が濃かったと視聴後に感じるのではなく、視聴しながら「詰め込まれている」という感覚を常に覚え続ける。
作品として何が言いたいのかも軸がなく毎話うろうろして繋がっていないし、12話という尺が限られているなかでマチュ娼婦落ちなどの夏コミネタの提供と、SNSバズネタの提供、ガンプラの販促を行わなければならないという、『ノルマ』の存在だけが感じられる。
しかしそれこそがミーハーなオタク中高年男性が今求めている流行りのコンテンツであり、底が浅かろうが楽しければいい、なぜ中高年男性は深みを持っていなければならないのか?という問いにも感じられる。
元ネタが乃木坂で何が悪いのか?アイドルの何が罪なのか?ジャニオタの女子と同じように「若い、ビジュの良い異性のガワ」に中高年男性が喜んでいたとして何が悪いのか?
連想したのはハンチバックである。これは重度身体障害者を主人公とした小説で、主人公の思考・発想などが信じられないほど性格が悪い。ネタバレにならないよう一応詳細は伏せるが、はっきり言って腐っている。怠惰系の屑さではなく、積極的・加害的に腐っている。
しかし障害者の女性は天使のように心が美しいものである、という24時間テレビ的な圧力・幻想・期待に抗って、フィクションの世界では非常に尖った「性格が腐っている」という女性障害者像を打ち出したという点で、高く評価されるべき作品である。これは解放である。
ガンダムジークアクスも、中高年男性への「中身があるべき」という圧力・幻想・期待からの解放につながるのでは。ガノタはリアルロボットものに対して「深みのあるキャラクター描写」であるとか「説得力のある政治描写」があると言い張ってきた。
しかし、ジークアクスには明らかにそのような重さはなく、二次創作・マーベルっぽいマルチバース妄想、女子高生オリキャラ、女子高生がいきなり男の前で下着になったり、目が死んでいる子どもが娼館にいたりするエロ、
バスク・オムがどうたらという旧作同窓会的な大騒ぎ、毒ケーキという雑すぎて二次創作で騒ぐしかないネタ、モブが大量に死んで「大きな爆発のパワーを感じる」という小学生感覚のおかしみ、などなど
ひたすら軽薄でミーハーでバズ的で、オタクのおじさんの文化祭的だ。おじさんだって中身が無くて良いのだ。ゲームのような大量死を面白がって良いのだ。
やりたいことは結局、射精と、つるんで騒ぐことと、ロボットおもちゃ遊びである。子供向けロボットアニメとリアルロボットは違うという主張を必死で行っているグループもいるが、さすがに無理がある。
ガンダムの収益化のコアは、ロボットおもちゃ遊びである。ガンプラが売られているコーナーは玩具のコーナーである。ロボットおもちゃは男児が遊ぶもので、いずれ卒業するものとされていたのを、
一生卒業せずにおじさんになっても遊び続けられるようにして少子高齢化社会に適応したのがガンダムである。
(水星の魔女には外国人に売って市場を広げようとした努力が感じられたが、海外のLGBTQ+活動家が度が過ぎた暴れ方をして複雑な状況になってしまった。ジークアクスには水星の魔女で見たような海外目配せの試みは感じられない。完全に国内の高齢層を向いている)
視聴者がおもちゃから卒業したくないから、ファーストは終わらせてもらえずにZ、ZZと続き、マーベルのようなマルチバースに至った。それが2025年のガンダムである。
中身が何もないことについて、SNSでつるんで騒いでいて良い。エロと露悪という、浪人生が好きそうな内容で一生騒ぎ続け、現実では友達がいない分SNSで集団になって騒ぎ、一歩も成長していないままおもちゃ遊びをしていて良い。
これはおじさんの解放である。ガノタは必死に衒学的に理屈をこね回して深い人間であるふりなどしなくて良い。オリキャラJKのパンツと、乳比べと、おもちゃが好きなだけの軽薄な人間で良いのだ。論理的である必要性もない。
「40歳なのに、ずっとガンダムの話してるの!」これの何が悪いのか?という無条件肯定である。
「ガンダムは普通のアニメと違って深いから良いのだ」こういう言い訳は要らないのだ。深いオタクであるふりをしなくて良い。懐かしいオマージュ早押しクイズと、JKの乳と売春と、ロボットおもちゃだけで良い。
重度女性障害者は天使のような性格をしていなくてはならないという客体化の圧力を振り払い、腐った性格を打ち出したハンチバックに似た、これは「軽薄おじさん」「空っぽおじさん」「無成長おじさん」完全解放の金字塔だ。
「ガンダム」って、自分たちのことを「リアルロボット」だって言ってるくせに、スーパーロボット大戦に出てて平気なの? どっちつかずで恥ずかしくない?リアルロボットとしてのプライドはどこにいったのかしらね。スパロボの面々と一緒に戦う姿を見るたびに、なんか変な気分になるんだけど、あんたたちは本当にリアルロボットを名乗る資格があるのかしら?
そもそも、ビーム兵器とか現実的じゃないよね。ビームサーベル水中で使ってる時点でリアルじゃないよね。そして、ビームサーベル同士で鍔迫り合いしてんだよ。ビームなんだからすり抜けるだろ、基本物理無視してるじゃん。ガンダムって、もうスーパーロボットと何が違うんだろうね?ファンとしては楽しめてるのかもしれないけど、ちょっと考えてほしいな。
ガンダムシリーズは1979年の『機動戦士ガンダム』放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張、さらに小説や漫画、ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズが長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。
「一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争(宇宙世紀0079年から始まる連邦軍とジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまうタイプのファンを揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しかし問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害な一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。
彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からのガンダムをリアルタイムで経験した世代、あるいはビデオやプラモデル、雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメの常識を覆すようなリアルな戦争描写や群像劇、そしてプラモデル(ガンプラ)文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。
しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さらに宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。
にもかかわらず、「有害な一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野(由悠季)監督が関わってないから駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクやガンダム(RX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。
こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファンの参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダムは一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。
さらに、「有害な一年戦争おじさん」はしばしば他の作品やファン同士の交流の場を“自分たちの思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNSや掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダムは宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的にコミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツの可能性を狭めてしまうのだ。
また、宇宙世紀作品や一年戦争そのものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争を舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害な一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情が排他主義や攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。
さらに、一年戦争の時代考証を「現実の軍事・政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダムの世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み、他人の解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMSは存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。
そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃんと資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダムは多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈やテーマで作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。
では、この「有害な一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのは、ファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品を否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダムは作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体はポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品や意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性がガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。
次に、若い世代や新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ、入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。
また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプなイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争だけが特別なわけではない。むしろ、宇宙世紀とアナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。
さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争を舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点やテーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品は多面的に戦争の悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。
結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身の立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品も尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは、自分の視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまうタイプのファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズのファンダムで起こりうる軋轢と言える。
だからこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメ」であると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点に固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。
以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害な一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者を排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやすい環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ。
結論として、「有害な一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティの健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは“一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダムの世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれからも世代や国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。
スーパー系ロボットとリアル系ロボットの括りぐらい崩れてきてる。
リアル系ロボットは昔とった杵柄をブンブンすりゃいいと思って全く進歩がない。
厳密に言うと、ガンダムのような古典的リアル系ロボットが進歩を諦めて「俺らは昔からこれでやってっから!」と逆ギレしている横を、新世代のリアル系ロボットが言い訳としてスーパー系の要素を盛り込み始めたことで、リアル系でありスーパー系でもあるロボットが増えた。
技術が進歩すれば巨大人型ロボットが実用化されるという可能性が、ドローン技術の発展によっていよいよ非現実的なものとして確定していったことが、リアル系ロボットに対して『半端じゃない言い訳』の必要性をつきつけ、その結果として古典的なスーパーロボット的SF要素との融合が進んだってことだ。
スーパーロボットとして端を発したコンテンツについても、観賞者の技術的な基礎教養が時代とともに高まるに連れて「レバーで操作」なんてものは受け入れられにくくなり、脳波コントロール等の技術を導入する必要に迫られ、結果としてリアルロボット色の強い設定が組み込まれていくようになった。
こうしてスーパーとリアルの垣根は崩れていき「非現実的な巨大人型ロボットといふものを、なんとかして真面目な顔して使わせるにはどうしたらいいのか」という方向に業界全体が流れていったわけである。
ぶっちゃけ、『巨大ロボで真面目に戦争やっても許される雰囲気作り』が重要なわけである。
バーンブレイバーンなんかはこの辺が結構力技で、そもそも地球に元々巨大人型ロボが実用化されているという無茶苦茶すぎる大嘘に向かう視聴者の意識をブレイバーンという特急異物の異常性によって上書きしている。
地球で既に軍事用人型ロボットが運用されているという無茶すぎる設定を、ブレイバーンという大ボケをかますための『前フリだったことにした』わけである。
昨今、ロボットアニメではこのような、「これは半分ギャグだから細かいこと気にしたら負けです」という言い訳も使われるようになり、いよいよもって「そもそもリアルロボとかありえねーよな」という空気になってきている。
巨大人型ロボがいる時点でリアルなんてものは存在しないという大前提があり、その上に「でも人間模様とかにはある程度のリアルが介在するじゃん?」って態度で作劇をしている。
スーパーかリアルかの垣根は、作中のキャラクターがその状況に対してどう対応するのかによって描かれるものになりつつある。
つまりは、ロボ自体が無茶苦茶でも人間模様が生々しければリアル系、ロボだけじゃなくて人間まで滅茶苦茶ならスーパー系というわけだ。
現代を生きるスーパー系の代表がゲッターロボシリーズで、とにかく出てくる人間の生き様や設定があまりに熱血かつ豪快で非現実じみているという所によって、ゲッター線というSF考証要素によってともすればリアル系によってしまいそうな設定を抱えながらも、この時代において古典的スーパー系としての立場を維持しつつあるのである。
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