
はてなキーワード:マルチチュードとは
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57)31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End ofthe World - 73 Questions We MustAnswer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku:Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學Permalink |記事への反応(13) | 17:44
◆延近充
◇レーニン『帝国主義論』(大月書店,文庫版):帝国主義段階の資本主義論の古典
◇北原勇『独占資本主義の理論』(有斐閣):独占資本主義段階の理論
◇同上『現代資本主義における所有と決定』(岩波書店):現代における資本家とは?
◇北原・伊藤・山田『現代資本主義をどう視るか』(青木書店):立場の異なる3人のディベート
◇井村喜代子『現代日本経済論』(有斐閣):本文で述べたような戦後日本経済の構造と性格
◇平子友長『社会主義と現代世界』(青木書店):現代社会主義の問題点
◇重田澄男『社会主義システムの挫折』(大月書店):ソ連・東欧の崩壊の意味
◇延近 充『薄氷の帝国アメリカ―戦後資本主義世界体制とその危機の構造』(御茶の水書房,2012年):アメリカ主導の戦後資本主義体制の特徴とその変質,世界経済の不安定性との関係
◇延近 充『対テロ戦争の政治経済学』(明石書店,2018年):2001年9.11同時多発テロをきっかけとして始まった対テロ戦争は現在も続いている。この戦争はなぜ終わらないのか?そして日本はどのように対応すべきなのか?国際政治・軍事・経済を総合した政治経済学の視角から分析する。
◆斎藤幸平
◇ポール・メイソン『ポストキャピタリズム―資本主義以後の世界』
◇ナオミ・クライン『これがすべてを変える――資本主義VS.気候変動』
◇アントニオ・ネグリ=マイケル・ハート『“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』
◆佐々木隆治
◇大谷禎之介
◇渋谷正
◆隅田聡一郎
同上『資本主義はどう終わるのか』
http://anond.hatelabo.jp/20071122012050
こっちで思い出したんだけどid:mimisemiってなんでアルファブロガノミニーなの?
なんか増田でも整形したヤツとか見かけるし。
ブームなの? なんかおれの知らない近過去にもめごとブチあげたの?
や、まぁ正直なところを書くと、内容はすげーしょーもないじゃん。
「『マルチチュード』ってコンビで芸人デビューして左翼ギャグやったらおもしろいんじゃね?」とか
「層化はクズだ!」とか
「おれってちょっと思考が抽象的すぎるのかも」とか、ちょっと頭の良い高校生とかサブカル大学生が言いそうな紋切りばっかじゃん。それこそ表題の増田と同じレベルの。いや、別に貶してるわけじゃなくて、好きですよ。個人的に。ああいうサブカル直球のセンス。でも、おれは好きだけど、別にすごくないし、大衆に受け容れられ易いとも思えないという。
どんだけ読んでも思考の垂れ流しをタイピングできる技術と、恥じらいをカットしてアップできる度胸しか見えてこないよ、的な。
それがなんでアルファなの?
それともなに? あのインタフェースがおもしろいの? デザイン的に?
推薦人が、昨日の増田で「人格破綻者だよ!」「そうじゃないよ!」と毀誉褒貶の激しかったid:malaというのもよく分からないですし。
だれかはてな村事情通の人! おれに解説してくれ!
俺さー芸人になったらさぁー相方見つけてさぁー「マルチチュード」っていうコンビ名でデビューしたいんだよねぇー。「どうもー!マルチチュードでーす!」みたいな感じで出てきて「ネグリ君一号でーす!ネグリ君二号でーす」とか、もしくは「どうもーマルチチュードネグリでーす。ハートでーす」みたいな感じでさ、基本的にネタは左翼パロディネタばっかなの。で、たまに真面目な政治批判を繰り広げつつもシリアスになり過ぎないっていうね。ってことで相方は相当教養のある人じゃないといけないわけだけど、悪くないと思うんだよなぁー。あと妙にアカデミックなネタとかね。「ききききさまぁー!!さては修正主義者だなぁ!!」とかさ、そんな感じ。分からない人さっぱり分からないみたいな。で、この修正主義者ってのも実際はAVにモザイクは必要か否かみたいな議論をペダンティックな語り口調で進めていくんだけど、相方が「やっぱり倫理的にモザイクは必要である」なんてことを言ったときに、さきほどのツッコミを俺が入れるわけ。ただボケ突っ込みっていう役割は無しで、基本的に両方ボケて突っ込む感じね。別に笑い飯のパロディとかじゃなくて。悪くないと思うんだよなぁー。あとは相方だけなんだよなぁー。あとハワード・ジンのソーホーのマルクスを下地にしたマルクスとバクーニンの言い争いをネタでやるとかさ、悪くないと思うんだよなぁー。アイデアはいっぱいあるんだよねぇ。世界の左翼テロリスト集団カルトQとかね、片方が司会者で片方が回答者で、プロジェクターかなんかに世界の左翼テロリスト集団のロゴを出して早押しとかさ、もう絶対テレビ放送無理みたいなネタばっかなのね。あと日本共産党ネタとかもいいかもね。すげーシニカルに繰り広げていくわけ。で、ネタを見ると日本共産党のナスティな歴史が分かっちゃうっていう、笑えて勉強にもなるみたいなね。共産とか左翼っていいお笑いネタになると思うんだけど、誰もやってないんだよね。せいぜい思いつところだと駕籠真太郎ぐらいかな。漫画家だけどね。拳を上に上げて「レボリュースィオン!」とかいうのを一発ギャグにしたりね、キャッチーでもあると思うんだよね。分かりやすいっていうか。あと過去の独裁系共産主義者を連想したネタとかね。ようは毛沢東と側近とかを想像で演じちゃうわけ。スターリンとレーニンのやりとりとか、ポルポトと側近のやりとりとかね。あんまお笑いって放送できるできないでリミットがかかるべきじゃないんだよね。だってお笑いって表現なわけだから、作る前にセンサーシップのことを考えるなんてのは完全にリミテーションですよ。そんな意味でも鳥居みゆきのことが心配でしょうがないわけですよ。テレビってーのに巻き込まれるとダメになりそうで。ようは本人の意思に関わらず無理やりテレビで放送できるような感じで編集されちゃったり、全然テイストが出せないような無駄な企画やらされたりとかさ、そういうので才能を潰しちゃいけないのね。ただテレビってどうしようもないからダメなんですよ。そういうのが。全然才能を生かせない。だから本当にやりたいことをやるならラーメンズみたいになるしかないわけ。セルフプロデュースだよね。ようは。で、テレビに出るのはCMとかちょっとしたインタビューとか、ようはお笑いの部分はテレビではやらないわけ。あとやっぱ本人が繊細そうだからダークなテレビ業界のやりとりに巻き込まれて精神的にダメになったりしないかな?って不安なのね。基本的にフォークダンスの桶田がそんな感じだったらしいじゃん。精神を病んでたわけじゃないけど、テレビ業界にうんざりしてお笑いに興味がなくなっちゃったっていう。本質的な人こそああいう俗っぽいものを嫌うしアダプトできなかったりするからさ、結果的にその才能をテレビ側が生かせないどころか殺しちゃって永久に失われちゃったっていうようなさ、本当にフォークダンスは悲劇ですよ。もう残念でしょうがない。あんなことを二度と繰り返しちゃいけないから、だからっつって俺が何を出来るわけでもないんだけど、基本的にお笑いファンも昔松っちゃんが書いてたお笑い指数っつーかお笑いレベルじゃないけど、お笑いレベルが高くないと需要も低くなっちゃうっつーか客が程度の低い笑いを要求するようだと本物たちがテレビでやりたいことができなくなっちゃうわけ。ようはレベルの高いデマンドが必要ってことなのよ。だからホント、うちの妹とかも口癖のように言ってたけどお笑いってのがブームになるとホント、質の低いつまらない芸人ですらテレビに出られるようになってさ、で、その業界に寄りかかろうとするダメ芸人が本当に増えるわけじゃない?で、結果的にそういう悪循環がお笑いの全体の質を下げちゃうっていうようなさ、それって最悪だよね。だから常に鑑賞者側はお笑いに対してレベルが高くなきゃいけないし批判的じゃないといけない。お笑い番組見ててクソつまらねー芸人のネタとかで笑ってる客とか見てるとぶっ殺してやりたくなるんだよね。ホント、その存在自体が邪魔だから死んでほしいって切実に思うもん。それっていつも書いてる音楽シーンとかに置き換えることが出来るんだけど、基本的にやっぱね、レベルの高い鑑賞者っつーかデマンドが無いと、本物を発信してる側の活動場所がなくなっちゃうんですよ。それが一番マズイのは、本物の活動場所が無くなることで、才能が失われちゃうってことなわけ。ところでエレクトロニカとか前衛系に言えることだけど、なんだかんだですげー排他的で若手育成みたいなのやらないじゃない?で、有名レーベルはいつまで経ってもベテラン勢の作品ばっかリリースし続けるっていうさ、ああいうプログレッシブな音楽やってるように見えてレーベルの体質が保守的だとね、それ自体がダメになるのよ。つまらなくなっちゃう。ただ大半のレーベルはそういったことに意識的じゃないから勝手に腐っていくんだけど、例えばさ、ELMAって昔、ちょっと関わりがあった鳥取でノイズやってる人なんだけど、未だにこの人以上のハーシュノイズって聞いたことないんだよね。はっきりいってハーシュって意味だと今のメルツを平気で越えてるし、クオリティは世界レベルなんだけど、なんで大手のレーベルから何かしらのコンタクトが無いわけ?マイスペースとかあるんだからさ、誰かは見てたり聞いてたりするわけじゃない?で、なんでELMAの新作が割と有名な電子音楽系のレーベルから出ないわけ?ELMAが無理だったらSMKなんて絶望的ですよ。はっきりいって。もう嫌なのね。ああいうの見てると。ELMAみたいなのが有名にならないこの現状。なんなのよ?みんなの耳は節穴か?ちゃんとみんな音をちゃんと聞いてるんだろうか?全くさぁーホント、ちゃんとした芸術家達が本当に食えない時代になってるなぁーって思うよね。いつの時代もそうだったかもしれないけどさ。俺に金があったらホント、最高のレーベル経営できると思うんだよね。経営っつーかまぁ人材発掘ね。経営は他に任せたほうがいいや。経営っつーか運営っつーか。ところで岩村学って今、何してるのかな?全身にニートっつーかヒモみたいなオーラがあふれ出てた人だったけど、ああいうヒモ系の作り手って嫌いじゃないんだよね。ミラノ在住っつって何して食ってるの?っていうああいう雰囲気。あのなんだっけツジコとかとやってる青木だかなんだかってやついるじゃん?あいつもすげースポイルチャイルド系の雰囲気出てていいんだよね。音楽的にはさっぱり好きじゃないけど人間の雰囲気が好き。ああやって親とか愛人から金をもらってやってける連中はいいけど、そうじゃない人達も大勢いるわけだから、アートシーンってのがそういう人達のケアをしてあげないとダメなのよ。それは国が保護しないとダメだと思うね。ニューヨークってそういうシステムあるらしいじゃんね。まぁ相当限られてるとは思うけど、でも無いよりはマシでしょ。基本的にでもそんなのね、文化の一つなんだからシリアスに保護しないとダメよ。保護っつーかサポートっつーかアーティスト達がやっていけるようなシステムが必要なわけ。ところで今朝、なんか妙に呼び鈴が鳴ってるような気がするなって思ったら案の定、誰か来てたんだけど、ドアにチラシが挟まっててさ、それがエホバの証人だったのね。しかも日本語。ようは日本人向けの勧誘をニューヨークでもやってるってことだ。あー怖い。ニューヨークは統一教会の本場みたいな感じだけど、あんな暴力教団、国が規制をかけないとダメでしょ。エホバはともかく統一教会なんてあんなもん強制的な解体をさせないとダメよ。何が言いたいのかっていうと、ラガ系の人がエホバって言うときは恐らく「ジェホバ」って感じなヤーマンな発音になるんだろうなってキットカット食いながら思ったんです。今朝。もう明らかにモト信者の証言から暴力とか洗脳があったってのが明らかな教団があるのに、なんで国はキチガイ教団扱いをしないんだろう?あんなもんの存在を許してたらね、よりどころの無い人達がガンガン入信して不幸になっていくんだからね、ダメですよ。禁止しないと。こういうの禁止しないでガンジャ禁止してるんだから世の中ってのは狂ってるよなぁー。だったらガンジャ教みたいなの作ればいいのに。もちろん名前は「ジェホバの証人」ね。挨拶はみんな「ヤーマン」。持ってきた?っていうブリングとブリンブリンをかけて、教団内ではみんな「ブリンブリン」言いまくってるっていう、極めてラスタな環境にあるわけよ。とっととオランダみたいにさ、ガンジャなんて解禁すりゃーいいんだよ。どんだけの泉じゃなくてどんだけの人が救われるか分かってんのか?マジで。ガンジャがあるだけで凄まじい境遇の人もガンジャだけを心のよりどころにして生きていけるような人も出てくるのかもしれないのに。もちろん酒みたいに逃げになっちゃいけないけど、でも救われる人は相当多いと思うんだよね。労働者が「この昼休みの一服のために働いているようなもんなんです」ってタバコのことを言うけど、これがガンジャでもいいわけじゃん?まぁ作業中はマズイから仕事終わりとかに「一杯行く?」じゃなくて「一服する?」みたいなさ、酒みたいに中毒にはならないんだし、少量でブリンブリンになれるわけだから、あれほど機能的なものはないわけよ。全くタバコとか酒とか許してるのに、なんでガンジャが禁止されてるんだか意味分からないよね。政府が国民に苦しめって言ってるようなもんでしょ。これは。ところで練馬ザファッカーのさ、キラキラしているやつを総称で「ブリンブリン」って言うって言ってたけど、あれをガンジャトリップのブリンブリンのメタファーってのに気がついてる人少ないんだろうな。日本ってマジでドラッグについての教養が全く無いからね。そういう意味だとアメリカは凄いよ。やっぱ歴史があるからみんな詳しい。少なくともマリファナを鼻で吸うみたいに思ってる馬鹿はいない。ガスパンが流行ってるとかいってさ、ああやってちゃんとドラッグに対する教育しないから馬鹿なことするやつが増えるんだよね。ケミカル系の危険性も分かってないで乱用するやつがいるってのは教育がなされてないってことでしょ。あえて選んでケミカルやってるやつならしょうがないけど、基本的にトリップしたいんであればガンジャで十分なわけよ。で、コークとかLSDとかの副作用っつーかダークな面を知ってればさ、明らかにあの取ったときの「スッコーン!」って感じよりディスアドバンテージのほうが多いっつってやらないやつが多いはずなのに、やるやつがいるってのは問題だよね。さっきも書いたように、ちゃんと知識があってやってるなら選んでやってるからしょーがないやつになるわけだけど、分かってなくて興味本位でやってるのってマジでヤバイよね。学校で「ケミカルは中毒性があって脳がダメになるから絶対やらないこと。やるならガンジャにしなさい」って教えれば相当ケミカルの乱用は減ると思うんだけどねー。で、ガンジャを合法にしてタックスでも取ればさ、国益になるわけじゃない?なんて幸せなタックスだろうね。ガンジャ税だなんて!でも分かるよ。あんな閉塞した社会で薬も酒も無いんじゃやってられないよね。だからなんつーか若者がアノミー状態に陥っちゃってて、ドラッグに手を出すぐらいしか脱出する方法が無いっていう、あの社会状況がマズイわけで、それはニートもネットカフェ難民も一緒でしょ。全面的に彼らが悪いんじゃなくて、そういった人とか循環を生み出す社会構造に問題があるわけでさ、その人達を批判するのはお門違いもいいところだよ。うちのオヤジがこういうお門違いな批判をしているんだけど、まぁオヤジみたいな世代の人はああいう観点でしか物事を考えられないんだろうなっていうのは凄く思うし、親父には悪いけど、ああいう考え方をする上の世代の連中が多いから、いつまでたっても問題が解決しないどころか、若者とおっさん世代のコンセンサスの乖離ってのがガンガン進んでいくわけだよね。基本的に社会を動かしてるのとか会社の上の連中とかって大体おっさん世代でしょ。で、おっさん世代の考えが古いんで、前に書いたマテリアルカルチャーとノンマテリアルカルチャーのカルチャーラグじゃないけど、基本的に社会を牛耳ってる連中たちの考えが古いんで、社会構造が変わらなくて、マテリアルカルチャーとの差が出てきちゃう。だったらとっととおっさん世代は引退して次の世代に役割を任せなきゃいけないっつーか、そのためにも若者の雇用と雇用後の社内での教育ってのが必要なのに、人件費削減だとか馬鹿なことを抜かしてやがるから若い世代が育たないっつーかアノミー状態になっちゃう。ね?全然難しいことじゃないでしょ。いかに社会が若者達に対して理不尽に回っているかっていうのがね、凄まじくクリアなのよ。だからニートだとか若い世代にワーキングプアなんてのが出てくるのはある意味で必然なわけで、全部を結びつけるわけじゃないけど、アノミー状態というのは色々なネガティブなことを生み出す原動力になるわけだから、っつーかさっき書いたドラッグ問題も含めてね、まぁあと犯罪とかの原因の一因でもあるよねっつーか一刻も早く環境の改善が必要なのに、なんかシリアスに取り組んでる感じがしないんだよな。あとさっきも書いたようにおっさん世代と若者世代との意識の違いってのが凄いでしょ。で、おっさん世代は若い世代を批判してばっかいるからさ、悪循環が終わらないのよね。すげーもったいない状況にあると思うんだよ。日本は。さっきのアートの話も含めて基本的に社会が殺している才能とか人材ってのが凄まじく多いと思うのね。教育は馬鹿を増やして、社会は優れた人を育てないっていうような、お金でヘドロ買って家を埋めてるみたいな、そんな非建設的な状況がもうずーっと続いてるよね。だからね、若い世代が「もうくだらねぇ。こんなのやめだ」って思うのは当然なのよ。まぁ全部の若い世代じゃないけど、でもそう思ってる人多いと思うんだよね。俺はああいうアホな社会のおかげで批判的な目がより養われたというのもあるから、まぁ日本社会ってのは究極的な反面教師だったし、今でもそうであるわけだけど、まぁでも俺も逃げ切れたわけじゃないからいまだに怖いんだよね。杉並区が中野区を飲み込むかのごとく、日本が俺を侵略してきそうで怖いのね。だから俺は逃げ切らなきゃいけない。うわー怖い。マジで。常に走ってるような気分だ。そう思うとランナウェイ。ましてや日本って侵略が十八番だからね。そういえば社会学の先生がまぁ話の文脈のディティール書くと面倒なんでやめるけど、人種のキャラクターっつーか歴史を語るときに「日本はまた特殊な国なのよね。しょっちゅう戦争してた国だから、バトラーの血があるでしょ」みたいなことを言っててさ、これは別に日本の侵略戦争のことじゃなくて、恐らく戦国時代のことを言ってたと思うんだけどでもあれだよね、日本人って平和を愛する民族だなんてあくまで戦後の話で、実際は凄まじい血みどろの歴史がある国なんだよね。日本って。だから全然なんつーか農耕民族でもなんでもなくて、みんなウォーバトラーだよね。みんなじゃないけど。そういう見方ってのを全然してなかったから、ちょっとパラダイムが変わったね。俺の中で。ようは俺の中で日本人って民族的に野蛮っていうイメージが無かったんだけど、でも野蛮っつっちゃー野蛮だよなって思ったわけよ。まぁ武士とかサムライとかっていうとかっこいいかもしれないけど基本的に戦士じゃない?戦士=野蛮ってわけじゃないけど、でもまぁ平和的ではないわな。ようは戦士っぽい血を引いている部分も相当あるというのには全面的に先生に同意だなって思ったんだけど、やっぱこれって教養のある西洋人からの観点じゃないとなかなか見えてこないことなのかなとか思ったわけね。そう思うと今後が楽しみでしょうがないな。どんだけパラダイムが広がっていくんだろう?あー楽しみだぁー。まずその前に算数やらないといけないけどさ、でも楽しみだよねぇー。でもあれだよ、やっぱさ、客観性ってのが重要で、いくら自分が色々なことに懐疑的で批判的な人間であっても基本的に日本人について悪く考えたりしないわけだけど、この社会学の先生の視点というのは、事実はさておき、ようは客観的な視点でしょ?ただ俺は日本人だからやっぱ当事者としてなんつーかあんま日本人ってことを否定したくないっつーか良く考えたいみたいに思うところがあるんだけど、これは物凄く危険な視点なんだよね。ようは愛全般がそうよ。恋は盲目とかいうけどさ、基本的に恋人とかに限らず、自分が好きなものに関しては入れ込んじゃってるから批判的になれないし、客観的になれないんだよね。ようは凄まじく主観的でガーッってそれに入っちゃってるっていう。それが趣味とかならまだしも、それが歴史とかになってくるとマズいんだよね。それこそ歴史修正主義じゃないけどさ、日本の都合のいいように歴史を塗り替えちゃうっていうさ、まぁ昨今の盲目的なバカバカしい愛国心の台頭にも言えることだけど、客観的ではない批判的ではない見方なんてのは大概危険よ。やっぱ。そんな意味だとっつっていつもアメリカとの対比になっちゃうけど、こっちで勉強してて目立つのは、よく先生が特にリーディングとかの授業だと「批判的でいろ」って言うんだよね。ようは何かを読むときでも読むだけではなくて、書き手がどういう人間なのか?例えばアメリカの保険制度について書いてある記事でも書き手が保守系のシンクタンクから来ている人間なら、それは保守側の意見で書くだろうしっつーかそういう記事が実際あったんだけど、ああいう教育を幼い頃から受けていればさ、全然違うよなって思ったわけ。ましてや記事の書き方とかオーガナイズとかの仕方も批評するんだから。これはちゃんとまとまってるか?とか要点がクリアかそうでないか?とかさ、俺ってまぁ中学以来学校行ってないけど、でも中学まででこういった読み方の教育を受けてきた記憶がさっぱり無いんだよね。勝手な思い込みだけど、一般的に日本ではこういったクリティカルリーディング的な教育は広くは行われてないんだろうなって凄く思ったんだけど、ようは批判的であるとか懐疑的であるってことは別にそれが左翼的であるってことじゃなくて、常にモノを考えながら何かを捉えるっていう一連のプロセスの一つなわけで、そこに政治的なイデオロギーなんてないわけ。俺が左翼臭いって言われるのは本当に分かるんだけど、そんなこといったらニューヨークなんて基本的に左翼臭いんじゃないか?とかって思っちゃうね。特に社会学なんか凄いからね。アメリカ批判も平気でするし、アメリカ政府の暴露話とかも授業の脱線であったり、教科書にもアメリカ政府に対して相当痛烈なことが書いてあったりするからね。それに比べて日本って何なんだ?って気が本当にしてくるね。教科書を日本の都合のいいように改ざんするなんて愚の骨頂だよね。少しはアメリカ見習えって思っちゃう。ただ基本的に思うのがまともに俺の今受けてる社会学の授業ね、あれを受けてたらみんな左翼的になるよ。だって社会学の教科書もそうだし、先生もグローバリゼーションには否定的だし、ましてやナイキとかギャップとかのさ、ようはDeindustrializationとかさ、 downsizingみたいなことがガンガントピックで出てくるし、労働力の搾取なんてのがあからさまに書いてあるわけだけど、別にこれはマルクス主義とか共産主義みたいなドグマに立脚したようなものではなくて、あくまでグローバリゼーションの弊害の一環として、社会分析として書かれているわけだけど、果たしてんじゃあこれが左翼的か?っていうとどうかなぁ?って感じするでしょ?左翼も何も当たり前の事実っていうかさ、それを認識するだけのことなんだから。ましてやアメリカのパトリオットアクトについてのまぁ割とドライな分析と割と批判的な分析なんかも教科書に載っててさ、アメリカの教科書ってこんなにレベル高いんか?って関心しまくりだったわけよ。政府からクレームこないのか?ってぐらいなことが書いてあるんだけど、そこはさすがになんつーかインディビジュアルアクトに対する自由がやっぱりまだまだ保障されているアメリカならではなのかなって気がしてきて、このフリーダム具合と比べると、日本って独裁共産国みたいな感じだよなってコントラストで凄く感じちゃったね。で、日本の保守が共産主義に対して批判してるんだからお笑いだよね。実はてめーらが一番封建的で右翼的な共産主義的ドグマを信望してるんじゃねーかって思っちゃう。一部の保守が言ってることってツァーリズムとあんま変わらなかったりするからね。んだったらロシアにでも亡命すればって思っちゃうよ。日本の保守見てると。あんなの保守の風上にも置けない感じがして、ちゃんとした保守の人達が本当に迷惑してるんじゃないかなって思ったりちゃうよね。だからいつも俺が金玉を酸っぱくして言ってるのが、馬鹿でもとりあえず保守的でいるよりかは進歩的でいたほうがまだマシってことなわけ。馬鹿が石原をサポートするより馬鹿がデモしてたほうがまだマシ。やヴぇーな、サービス精神旺盛になってきちゃってる。もうそろそろやめようかな。っつーかね、昔と違って書こうかなって思ったこと全てを書けてるわけじゃないんだよね。一応、やらなきゃいけないことがあったり、占領されてる時間があったりするからさ、そういうので中断されると思考が止まっちゃうわけよ。で、思い出せなかったり忘れちゃったり勢いがなくなっちゃったりして、そのトピックについて書かなかったりするわけ。だからね、まぁ今日の分もだいぶ長いけど、でも本当はこんなもんじゃないんだよね。特に最近はウォール伝的に色々失ってることが多いわけよ。書くべきだったのに書かなかったことってのが多いわけ。まぁいいや。でも十分だね。そりゃ最速インターフェース研究会のmalaさんが「誰か要約してください」って書くわけだよね。ホント、malaさんありがとうね。なんでため口なんだか分からないけど。で、墨滴には全然これ長くないんだよね。長いウォール伝ってもっと長いからっつーかいきなり思い出したんだけど、16ぐらいの時に通ってたフリースクールの同級生っつーか会ったこと無い女の子とメールのやりとりをしていたんだけど、あるとき、この子から返事が来なくなって「なんで返事を書いてくれないんだ?」ってメール書いたら「いつもそっちの書くことが長すぎて疲れた」なんて言われて相当ショックだったんだけど、昔からだったんだよね。長文癖というか書いたら止まらない癖。当時、ヒノッ君っていう名前でやりとりしてたんだけど「私、いつもヒノッ君とのメールのやりとりで4時間も使っちゃってるんだけど、もうアタシ疲れたの・・・」とか言われてさ、そりゃ今考えれば疲れるよなって思うんだけど、俺って別に長く書くのにそこまで時間がかからないから、相手の気持ちが分からなかったんだよね。ましてや4時間もかかってるなんて想像もできなかった・・・。ジーザス!なんてこった!あと前にも書いたけどスカイプで両親と話すときもさ、ウォール伝みたいな感じでさ、社会問題とか政治とかオヤジが割と喋れる人だから色々喋るんだけど、結果的に一時間半ぐらい俺が喋りっぱなしで、残りの三十分を母と父が喋ってる感じなんだけど、いつもスカイプの終わり際に母が「もうそろそろね・・・終わりにしようよ」なんて言うわけ。そりゃあっちとしてもゲンナリだろうなぁーって思ったんだよね。1時間半も勝手に喋られたんじゃーたまらないでしょう。だから俺からの提案で「毎週スカイプやるんじゃ、そっちも忙しいだろうから、二週間おきぐらいにしようか?」って言ったら、心なしか両親は快諾していたような気がしたね。だから俺は思ったね。この長文とか長い喋りを極めまくって、それこそジジェクみたいに、ゲンナリするぐらい喋りまくるおっさんになるしかないなって思ったわけ。ましてやこんぐらいのことを英語で書けたり喋れるようになればね、なかなかの進歩でしょ。やっぱ英語なんだよねー。問題は。まぁいいや。そんな感じで。誰か俺の話聞いてくれる人いないかなぁー?大抵途中で嫌がられるんだよね。話が長いっつって。だからやっぱウォール伝が一番の出力先なわけです。今日は革命的なオーラのまま色々書けたんで、反革命的な投票してくださいっていうURLは載せないことにします。それにしてもアクセス数が明らかに増えてて不気味だわ。ただ別に見られてるとかって思わないことにするわ。でもあれだもん、今日なんてのもさ、やっぱあれだね、俺みたいなスケールの小さい人間の場合さ、学校行く前から「アルファブロガー・アワードにノミネートされた人がニューヨークのコミュニティーカレッジに行くんだ」って全てを「アルファブロガーアワードにノミネートされた人が」っていう風に考えてたからね。「アルファブロガー・アワードにノミネートされた人が水を飲んでいる」とか、授業の合間とかも「アルファブロガー・アワードにノミネートされた人が嬉しさのあまり、ジェフミルズのChange of Lifeを鼻歌で歌っている」とかね、思うにジュリアナ東京を肯定するためには、ジュリアナ系でかかってた曲の全てはChange of Lifeだったって思えばいいんだなって思った。あとDJ Camがハゲているのは、同じような曲作りをしすぎだからということも分かったね。もうさ、あのなんかラップの一部分を「キュッ」って一回コスった後、リリースして丸々ぶち込むって手法やりすぎだよね。いい加減変えたらどうなんだろう?って思っちゃう。あれはやっぱあれだよ、DJのジレンマよ。ジャズが好きでも譜面書けないみたいな、どっかから取ってくるしかないみたいな、ようはコスるしかないんだよなぁーっていうDJのジレンマよ。あのさ、ブルーノートのリミックスのやつさ、ジャザノヴァとかありえないぐらいいい仕事してるけど、DJ精液のはヒドいよね。すげーやる気ない。っつーかレコードで持ってるんだけど、あれ聞いてるとき「あ、笑点だ。飛ばそう」っつって飛ばしてるのね。なんで笑点かっていうと、やる気なさげに鳴ってるワウのかかったミュートトランペットの音が笑点のオープニングテーマみたいだから。みたいだからって終わるの良くない?みたいだからなんだよね、じゃなくてみたいだから。なんか山ちゃんの嫁っぽい感じでいいよね。頭が良くない感じが。まぁーね、実際はURLを載せないことにしますって書いたのが昨日で、それからを今、書いてるんだけど、なんか疲れちゃってさ、恥知らずが腫れてるんだよね。基本的に週末になってくるともう疲れちゃう。体力ないよなぁー。仕事してから学校来てる人なんていっぱいいるのに俺は学校だけで疲れてる。しかもそんな別に一日何十時間って占領されてるわけでもないのに疲れちゃう。今日の出来事で書くこともいっぱいあるんだけど、明日だな。今日は寝かせてくれ。あーちょっとサービス過剰過ぎるかしら。選挙期間中っていう意識がなかなか取れないなぁー。っつーか何気にアクセス数がすげー気になってるんだよねっつって見てみたら明らかに増えててさ、予想以上に増えてたからちょっと不気味なんだけど、増えてるからこそあえて普段のウォール伝でいかないとなって思った。最近、ちょっと良いこと言いすぎてるでしょ?なんか「おおー!良いこと言うなぁー」っていうような感じのが多い。別に意識して書いてるわけじゃないんだけど、あんまらしくないなぁーとか思ったね。たまにはズリネタのことだけで一回分書くとかさ、そういうのも無いとダメだよね。リーディングのクラスで一人、可愛い子がいるんだけど、プエルトリコからの移民なんで勝手に「プエルトリ子」ってあだ名つけてるんだけどね。頭の中で。「あ、プエルトリ子来た」みたいな。俺って相当いろんな人のあだ名を頭の中だけで作ってるよ。前にも書いたけど、こっちに来てからさ、特にロードアイランドからマンハッタンの英語学校に至るまで、凄まじい数のお笑い芸人似のやつがいたからね。ゴリ・川ちゃん・ますだおかだのますだ・おぎやはぎのおぎ・創価久本・あと芸人じゃないけどエロサイトのバナーで見かける不細工なPermalink 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