
はてなキーワード:ボカロとは
色んな要素の上澄み部分を散りばめて、「あなたたちはこういうのが好きでしょ?」と差し出されているような気持ちになった。
主人公の日常に破天荒なヒロインが舞い込んできて非日常に変化→その非日常を疎ましく思いつつも少しづつ楽しむ主人公
→なんらかの理由でヒロインが去って日常が戻るが、やはり非日常が恋しくなり、ヒロインと非日常を取り戻すために奔走
古来から無限にあるボーイミーツガールなテンプレをガールミーツガールにただ変換して、バーチャル世界、Vtuber、神作画のライブ…みたいなZ世代が喜びそうな要素をちりばめた作品だと感じた。
ていうか書いてて思ったけど展開がまんま「涼宮ハルヒの消失」じゃん。みんなリバイバル上映行った方がいいですよ。
例えばこれが、バーチャル世界とかVtuberとかボカロとかSFの要素とか、もっと言うと竹取物語自体に、
制作陣の並々ならぬこだわりや愛情、リスペクトを感じられたら面白く思えたかもしれない。
2時間で一切こだわりや愛情、リスペクトを感じられないどころか、
むしろバーチャル世界とかVtuberとかボカロとかSFの要素を消費させてあげてるんですよ~ありがたがってくださいね~くらいの
浅ましさを感じてしまった。
ジークアクスが流行ってたのは、カラーの連中が年季の入ったガノタで
そいつらが作ったジークアクスという作品からこだわりや愛情、リスペクトを感じられたからだと思う。
あれもテンプレをマチュとニャアンというガールミーツガールに変換させ、クランバトルという今どきな設定を盛り込んでいるが
「BEYONDTHE TIME」が流れてニヤニヤできたのは、それまでの展開や文脈が一致していたからであって、
ぽっと出で急上昇して優勝したチームが超大手ライバーとのコラボライブで「世界で一番お姫さま」と歌うのは
(しかも真剣に歌うのではなく、キャッキャッしながら歌うというノリ)
文脈が通ってないように感じる。
オタクに対して「お前らが好きなワールドイズマインだよ~嬉しいだろ~」って思って使ってるだけだろ絶対。
気合い入ってるなと思ったし映画館で見たら迫力も感じられると思う。
でも内容を絶賛している人たちは何をもって評価しているのだろうか。
人生において都合のいい部分だけ見せたり、適度に闇を感じさせて受けての想像で共感を煽るような演出のやり方は、現代のSNS、インフルエンサー的な推し文化そのものの売り方で、その文化に適応した作品と言える反面、それに批判的になるのも、どちらも理解できる。
もちろん30代、40代の懐古厨のキモオタを狙った曲選、百合媚びにも映るし、そいつらに支持を得ていることも当然事実だろうが、私としてはむしろ20代前後のオタクに向けたメッセージの方が強いと思う。今の推し文化の中心は10代から20代で、その中でも懐古厨向けのボカロが伝わるのは20代の中でのオタクの層に位置する人間。多分3DSでニコ動を見てた時期から、vtuberが出てくる時期をリアルタイムに過ごした人間を狙い撃ちしているように見える。
その上でガキ向けで人生がないという意見はその通りだと思う。人生を見せないこと自体が彼らの言う推しというやつなのだから。この映画に出てくるキャラは人間ではなく推しとして描かれていて、ファンもそう受容している。ただのJKの人生も視聴者のために推しと言うフィルターで添削されてJKのようなにかに仕立て上げて、今までバイトで食い繋ぐ苦労人だったのに、降って湧いたような人気と大金を謎に押し付けられなければならないと言う点で、2030年から2040年の未来予想として的確だと感じた。
単純な現代人的なアニメというより、敢えて時代を未来にすることで現代への皮肉や風刺のように感じたストーリーで私は好きだった。
今この時代にこれだけのハッピーエンド作品を描ける事の嬉しさは、間違いなく存在する。
ボカロ文化や配信、vtuber文化を特別に捉えすぎ無い方がいい。それらは現代の人々の暮らしにただ根付いているし、オタクをただ照らしてくれている。本当に何も特別な事は無い。インターネットはここにあるし、今もどこかで誰かが配信をしているし、新しいボカロ楽曲はアップロードされて、世界を彩っている。超かぐや姫!でもそうであったように。
作中の百合を思わせる描写も、時代に即した形だと思う。ただそこに好意があり、添い遂げたいと思う人間が居ただけだ。パッケージングされた言葉よりももっと先に、世界はそれを愛と呼んでいる。
人物の描写が足りていない、脚本が薄っぺらい、エモの表面をなぞっただけ、足りない描写は視聴者に保管させている、これらの批判は批判たり得ていないのでは無いかと思う。
2時間20分の尺の中で、足りていない描写を補完する為に視聴者の体験を想起させる手法は、表現の中でも最上級のものでは無いかと思う。超かぐや姫!では我々に馴染み深いカルチャーが扱われていることだし。
脚本は十二分に伝えたい事を伝えてくれている。人物の描写も同じくだ。「伝わってこない」という批判は、同時に「伝わってきた」という称賛が存在する時に扱いが難しいなと思う。少なくとも、超かぐや姫!はファンブックや監督のインタビューを見なくても、そこで語られている情報や意図が映画から十分に伝わってくる出来だと感じる。
超かぐや姫!がこれほどにハッピーエンドのその先を描く作品である以上、作品の外で諍いが起こる事も心苦しい。
「お前ら本当に超かぐや姫!の事分かって褒めてンのかよ?!」という趣旨で、フワッとキマシタワーを乱立している百合のオタクや、どこからともなく現れて、したり顔で超かぐや姫!推しなんですって言ってる配信者にキレているというのなら気持ちは分からなくも無いが、超かぐや姫!そのものにそこまで批判出来るポイントは無いだろ!というのが素直な感想だ。
添い遂げたいと想い合う二人がいる時に、その障害を取り除く不思議な技術や情熱があって、誰になんの不都合があるのだろうか。キャラクターの生活の延長にあるエモいライブシーンを描いて、それを見て喜んでくれる人達がいるのなら、それを描かない理由があるのだろうか。
若者を舐めていない作品とはそもそもどのような作品をさすのか。(マッシュルは若者を舐めていた)
彼女ら、彼らの行動原理が分からないのは、単にあなたの人生にそのような行動を引き起こすほどの出会いや動機が未だ発生していないだけでは無いのか。本当に人生が存在していないのは誰なのか。
俺は30代低収入負け組チー牛男だ。あの有名なチー牛イラストを天パにしたら俺になるくらい普通にチー牛だ。年齢=彼女いない歴だったが、9才年下の彼女ができた。自分でもよくわからん。
ちなみに告白は彼女の方からだ。俺の何を好きになってくれたのか、本当にわからなかったから詳しく聞いてみた。
「私自身陰キャオタクだから同じオタク気質な人の方が安心する」
「女として見られてない感じが逆によかった」
「働いてないわけじゃないし慎ましく生活できればいいから低収入云々は別に気にならない」
大体こんな感じだった。正直、正直なことを言うと、彼女は見た目がかわいいタイプじゃない。似てる芸能人は伊沢拓司だ。アイドルとかみたいな感じでは全然なくて、まさしく喪女。髪も染めてないし多分メイクもそんなしてない。 正直、最初は「視界に入ってない」状態だった。だから下心なしで接することができたと言える。
どうもその下心のなさがよかったらしい。彼女は趣味が合うとわかった辺りから好意を持っててくれたそうなのだが、女としてではなく普通の友だちとして接してくれる感じが安心できたと言う。
俺は彼女からちょいちょい好意を小出しにされても卑屈全開で『女が俺みたいな弱男を好きになることなんかないんだから無駄な期待はするな』とずっと言い聞かせてた。それが彼女的には「女に迫られてもホイホイ乗ってこない誠実な人」に見えてたらしい。
彼女から正式に告白された時、俺の人生はマジで変わった。真剣に思いを告げられて、俺はずっと自分に蓋をしてたことに気づいた。たぶん俺も気が合うとわかったあたりから好きだったんだよ。でも好きになってもらえるとなんか思わなかったからその気持ちを無視してた。傷つくのが嫌だった。
あと見た目云々も、びっくりするくらい吹っ飛んだ。ブスと付き合う男って何考えてんだくらいに思ってたけど、理屈じゃないんだよな。ほんと自分でも調子良くて呆れるけど。今では彼女の笑顔がとにかく可愛いし何よりも守りたいものになってる。
童貞も捨てた。彼女だから、素直に慣れてないことを打ち明けられた。お互い初めてだったから、全然スムーズに進まなかったけど、それもいい思い出だと思えるくらいだ。
ていうことを、婚姻届出したらわーっと思い出してしまった。俺はまだまだ低収入だけど、将来的に子どもも一人くらい養えるようにがんばるよ。こんな俺と一緒になってくれた彼女に絶対後悔させたくないからさ。
【追記】
結婚おめでとうって言ってもらえると思ってなくてマジで嬉しかったよありがとう!
今日なのはいい夫婦ってのもあるけど、そのなんだ…俺と彼女の真ん中バースデー的な…そういうやつだ。外食する日を分散させるために間とったんだよww
出会いはめちゃくちゃ普通で職場なんだ。俺が好きなボカロPがやってるバンドのライブグッズを職場で使ってて、それを彼女が見つけてくれたんだ。
キタニタツヤの曲をこんにちは谷田さん時代から度々聞いていたのだが、ボカロに典型的な「生きずらさを感じてきたアーティストによる陰鬱ソング」だと自分の中でジャンル分けしていた。(これをボカロに典型的っていうの語弊があるかも。ごめん)
最近キタニタツヤとしてヒットするようになって、彼のルーツを耳にするようになったところ、「学生時代は超陽キャ」だの「東大出身」そういう話ばかり出てくる。
正直あまりキタニタツヤに詳しくないのだが、ファンの方的にはどういう成り行きでああいう音楽になっているのか分かったりするのだろうか。
いやまあ、属性に関わらず人それぞれの苦しみがあるというのはそりゃそうなんだけど、それにしてもああはならんだろという気持ちがある。
太宰治の、「裕福なのが辛かった」みたいなのにうーん…ってなるような、そんな感じ。
タイトルのとおり。
終わったあとに「自分は、いつまでこのライブを楽しめるんだろう」と思ってしまった。
今回のライブが最高で、楽しかったというオタクはこの記事を読まないことをおすすめする。
ただ、一人の古参オタクが歳を取ったことを認めたくなくて、ぼやいているだけというのが高いためである。
このままだと、界隈全体が緩やかに衰退するんじゃないかなと思った日記です。
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まず前提として、自分は30代。
初音ミク歴は2007年のニコ動全盛期からで、つまり小6か中1の頃からどっぷり浸かってる。
ただ、ライブ歴は浅い。
マジカルミライが始まった2013年頃は受験や就活の時期だったし、昔は「高校生が一人で飛行機に乗って県外遠征」なんてハードルが高すぎた。
初参加は2016年の地方ツアー。そこから数年後、やっと金銭的に余裕が出てきたため、2023年からマジミラ札幌以降、2024年福岡マジミラ・地方ツアー、武道館(ミクフェス)、マジミラ仙台と通っている。
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正直、「マジミラ」じゃない冠がついている以上、何か新しいことをやるライブだと思っていた。
結論から言うと、「焼き回しパレード」を見せられた気分だった。
今回のコンセプトがマジミラ2013年リスペクトだったのは分かる。
でも、それって「当時の感動を、今の技術で再構築する」から意味があるんじゃないのか。
(だいたい、2013年リスペクトを匂わせつつ、なんで兄さんだけ最近の曲なんだ?)
(探せばもっと当時の曲だってあるだろ!このへんの「とりあえずやっとくか感」にしか感じられなかった)
ステージを見ていて、新衣装のモデルと昔のモデルの映像の差がどうしても気になった。
解像度なのか、モデリングなのか、理由は分からないけど、チグハグな映像が流れるたびに現実に引き戻される。
モデルを変えないことが「愛」なのか?
私には「古くから参加している人に文句を言われないようにしている」ようにしか見えなかった。(言い方が悪くてごめんね)
一般のアーティストのライブと比べて、バックダンサーもいない、生身の人間がステージにいない分、視覚的な情報量が圧倒的に足りない。
我々大人がチケット代なんていくらでも払う。多少上げたっていい。
だから、「今のライブはこんなに進化しましたよ」というのを見せてほしかった。
※後から知った話だが、にじさんじのライブでは1年以上前に透過スクリーンをトロッコ移動させるものがあったらしい。
初音ミクのライブの方が「最先端」として走り出したのに、どこでこんな差が生まれてしまったのだろう。
■「今」のボカロはどこに行った?
一番キツかったのは、会場の空気だ。
アンコール、静かすぎないか?あれがライブ初参加の層が多かったからなのか、古参が「いつものね」と地蔵化していたのかはわからない。
でも、演者が休憩するタイミングが、過去の踏襲すぎて視野が狭まってないか?
ミクフェス(武道館)のときみたいに、DJ入れて繋ぐとか、飽きさせない工夫はいくらでもできるはずだ。
あんなアンコールを聞くくらいなら「休憩中」と途中札を入れてくれた方がまだマシだと感じるくらいには悲しい気持ちになった。
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そして何より言いたいのは、「今の曲」へのリスペクトのなさだ。
ボカロは今も進化してる。YouTubeやTikTokでバズり散らかしてる新曲がいっぱいある。
ただ、まだライブでやられていない良い曲が山ほどある中で、なんでライブで流れるのは「いつもの曲」ばかりなんだ?
何度も見た曲がまた選ばれているのは、自分には「懐古」ではなく「惰性」にしか感じなかった。
いや、それならそれでいいけど、私たちは「2026年の初音ミク」を見に来てるんだよ。
新しいボカロPはどんどん生まれてる。新しい名曲も生まれてる。
それを取り込まずに、「昔はよかったね」だけで回すようになったら、それはもう新陳代謝が止まった「死」と同義なのではないか?(白熱してしまいましたね、失礼)
新曲で発表されてた「アイドル戦士」も「シアンブルー」も予習して、コール完璧にして行ったんだよ。
でも、周りの反応の薄さ。スペシャルシートですら、やや盛り上がりにかけるコールとペンラ振り。
(※スペシャルシートが外れたオタクは、涙のスタンド席だったけれど、周りでコールが聞こえることはなかった)
熱意を持って「新しいもの」を楽しもうとしている層は、どこに行ったんですか…?
懐かしい曲で盛り上がるのも悪くない。
隣に居た2010年のミクパ以来ライブに行ったことないオタクは感動していた。
そういう初見の人でもいつでも参加しやすいものであり続け、感動して帰ってもらう。それも大事だ。
ライブ、いつの間にか「惰性」と「安心できる行事」になってないか?
「いつもの曲」を聴いて、「いつもの動き」をして、「ああ、今年もミクに会えたな」と満足して帰る。
それはそれで幸せなことかもしれないけど、それって盆踊りや初詣と同じじゃない?
でも、初音ミクのライブって、そんな「伝統芸能」を守るための場所だったっけ?
テクノロジーと音楽の最先端を走って、クリエイターとただのオタクたちの架け橋を用意してくれて、度肝を抜くような「未来」を見せてくれる場所じゃなかったのか?
武道館のミクフェスにはそれがあった。ボカロPが登壇して、演奏して、DJがフロアを沸かせて、「これが今のボカロだ!ついてこれるか!」っていう熱気があった。唯一無二の体験があった。
今回のローソンライブには、その「ヒリつくような挑戦」がなかった。
※だからといってマジミラにあるかと言われたら、ギリまだあるくらい。
私はまだこれだけ文句を言いながら通う。
来月のDECO*27の単独ライブも行くし、ポケミクも行く。地方開催があれば旅行ついでに行く。
でも、もし本丸である「マジカルミライ」までもが、今回のような「安心安全な懐古イベント」であり続けるなら、わざわざ東京まで遠征するのをやめるかもしれない・・・。
「これでいいや」って思ったら、そこが衰退の始まりじゃないか?
我々には、金はあるけど、時間は有限なんだ。
とりあえず、スモーク焚きすぎてミクが見えなくなるのだけは、そろそろ改善できるんじゃないですかね…!
■追記
今回、TLがローミクライブについて、とてつもない賞賛のあらしだった。
それを見て、私は自分の感覚がズレているのか思った。 「焼き回しだ」「進化がない」と感じたのは私だけなのか? と。
ということを考えた時にひとつ考えに至った。
恐らく、今新曲を聞いている層は「プロセカ」にいるのではないかと。
今の10代〜20代前半のファンにとっての「リアルライブ」は、初音ミクのライブではなく、「セカライ」なのかもしれない。
・若者層: 「セカライ」で、自分たちの世代のヒット曲と演出を楽しむ。
・30代以上(我々): 「マジカルミライ」や「今回のライブ」で、過去の遺産を楽しむ
金払いのいい古参ファン(我々)向けにチューニングせざるを得ない。
その結果、会場は「同窓会」化し、新規が入りにくいガラパゴス化が加速していく。
私はプロセカもプレイしているし、新曲を追うために課金もしている。
けれど、私が好きなのはあくまで「初音ミク」という存在そのものだ。だからこそ、ゲームのライブではなく、マジミラに足を運び続けている。
しかし、TLの反応を見る限り、今のここのファンが求めているのは「未来」ではなく、安心できる「同窓会」なのかもしれない。
結局、いろいろ御託を並べたけれど。
周りが純粋に楽しんでいる中で、一人で腕組みして「進化がない」「未来がない」なんて文句を言っているのは、変化を受け入れられない老害の始まりなのかもしれない。
2020年代に入り、特にコロナ禍を経てからのポップスのコード進行や楽曲構造の複雑化には、目を見張るものがあります。
コロナ禍で物理的なセッションが制限されたことで、アーティストが一人でPCに向き合い、情報量の限界に挑むような楽曲制作に没頭した影響は非常に大きいと感じます。
なぜこれほどまでに複雑化したのか、いくつかの視点で整理してみます。
かつての作曲は楽器を持って「手」の癖でコードを探していましたが、現在のDAW(音楽制作ソフト)上では、ピアノロールという画面を見ながらパズルを組み立てるように音を配置します。
非直感的な音の配置:楽器が弾けなくても、画面上で半音ずらしたり、テンションノートを積み上げたりすることが容易になりました。
有名な複雑な進行(例:丸サ進行やIV-V-iii-viなど)をテンプレート化し、そこからさらに「裏コード」や「分数コード」をパッチワークのように繋ぎ合わせる手法が一般的になりました。
コロナ禍でリスナーの音楽視聴スタイルが「じっくり聴く」から「SNS(TikTok等)で秒単位で消費する」へと加速しました。
わずか2〜3分の曲の中に、転調、拍子変更、激しいコードチェンジを詰め込むことで、脳に強烈なフックを残そうとする「ハイパーポップ」や「ボカロ文化」の影響がメインストリームに逆輸入されました。
ライブでの再現性を無視できる環境だったからこそ、人間が弾くには難解すぎるジャジーで複雑なボイシングが多用されるようになりました。
特にJ-POPにおいては、Official髭男dismやKing Gnu、Vaundyといった、ブラックミュージックの素養を持ちつつDTMを駆使するアーティストが覇権を握った時期とも重なっています。
切なさを強調する和声が好まれ、さらにそこにブルーノートやテンションが加わることで、かつての「J-POP=王道3コード」という図式は完全に過去のものになりました。
アーティストが「内省」と「実験」に費やした時間コロナ禍で外の世界との繋がりが断たれた結果、多くのクリエイターの関心は「自分にしか作れない、極限まで磨き上げた緻密な世界観」に向かいました。それが結果として、1曲あたりのコードの数や、予測不能な転調の多さとして表れているのは、音楽史的に見ても非常に興味深い現象です。
一般人に受け入れられるキッカケは何になるかなあ
今小学生の間でイタリアンブレインロットなるものが流行ってるらしいが、アレは他業界で例えると、ボカロが千本桜とかで徐々に小学生の間で流行り始めた時期に近いものを感じる(ボカロにおいてエロがメインコンテンツであった時期はないと思われるので、例として挙げるには不適切かもしれないが)
そっからある程度経って、米津玄師やYOASOBIのようなボカロ出身スターが出たのを考えると、あと数年で一般人も知ってるようなAI出身スターが出るのかもしれん
今の40代前後からすると、演歌って「子どもの頃に祖父母が聴いてたやつ」ってイメージの象徴みたいなもんだったんだよな
あの独特のコブシ?曲調?が、昭和歌謡とか平成J-POPと全然別ジャンルで「はい、これが“昔の歌”です」って分かりやすかったのもデカい
で、今の10代から見て「老人世代の象徴みたいな曲」って何なんだろ?って考えると、これボカロがそれ枠なんじゃね?って思うわ
人間が明らかに無理な速度と高さで、機械っぽいノリで独特のリズム刻むじゃん
あれ、若者にとっては「うわ…親世代の文化きた…」みたいな“古さの象徴”になっててもおかしくない気がする
って言うと「ボカロは今も現役だろ!」ってツッコミ来そうだけど、演歌だって当時は現役だったわけで
初音ミクやボーカロイド文化が「音楽ジャンル」として固まらなかったのは、音楽的に最初から自由すぎた、という理由が考えられる。
共通の音楽的な特徴を持ち得なかったから、音楽ジャンルにはならなかった。
条件自体は、20世紀型のジャンルが生まれるための要素をほぼ全部そろえていた。
既存の音楽産業とネット発表の衝突、Pや絵師、動画師、リスナーが分業する共同体。
でも決定的だったのは、音楽的特徴が固定される前に拡散し切ってしまったこと。
ブルースやヒップホップは、リズムや語り口、音階といった「これだ」と分かる共通様式を先に獲得した。
一方ボーカロイドは、ロックもエレクトロニカもメタルも実験音楽も、最初から全部飲み込んでしまった。
その結果、「耳だけでこれはボカロだ」と言える型が固まる前に、表現が四方八方へ広がっていった。
ボーカロイドは音楽ジャンルというより、制作そのものが主役のプラットフォーム文化。
楽曲、イラスト、動画、コメント、二次創作が完全に横並びで、どれか一つが中心ではない。
ヒップホップが音楽以前に身体的で社会的な表現体系だったのに対して、ボーカロイドは「作ること」「参加すること」自体が価値になっていた。
ニコニコ動画も、育てる場ではあったけど、固定する装置ではなかった。
20世紀の産業は、名前を付け、境界を引き、代表作を正典化してジャンルを固めた。
そう考えると、ボーカロイド文化は「音楽ジャンルが生まれにくくなった21世紀」を早くに体現してしまった存在だったと言えるかも。
多様な価値観を受け入れる
https://www.youtube.com/watch?v=MTaYGTO_ELs
「朝までファーストフードでみんな たわいもない話時間(とき)が経つのも忘れていたね共に過ごした日々が懐かしい。
いつか 最高の自分に生まれ変われる日が来るよもっとまっすぐな気持ちに出会えると信じてる」
とかね、今はちょっと、しみったれた暗い歌が流行りかなとも思った。90年代はまぶしさを感じた。
米津玄師もそう。米津玄師は、JPOP文脈に回収されてしまったとも言われてる。
でも、感情をありのまま出すZ世代。Ado うっせぇわ のがなり声はインパクトあった。
【たかぼー64】