
はてなキーワード:ホワイト企業とは
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
平時に必要な従業員数だけ雇い、繁忙期には残業で対応するって割と普通の経営なんですよ…。
いろいろあるんだけど
で、ワイが知ってる、日本人が逃げるが外国人は稼げると言っては言ってくる工場ってのは、人員か増産体制かどちらかがブラックの壁をこえちゃってる奴なんだよね。でも中の人はこれが普通だと思ってることが多い。
実は普通の人、残業しなくてもあなたの収入分賃金でてますよ、実は残業も含め生産計画って管理されてるのが普通で、それにあわせて受注してるのが普通って知ってました?みたいな。
私の夫は完璧だ
もちろん見た目も稼ぎも良い
最低限の付き合い以外夜遊びもしない
それは性欲が強いこと
週に何回も求められて、いちおうそれに応えている
そのせいで翌日に疲れが残る
もちろん完璧で優しい夫なので、断っても怒ったりはしない
だからよほどのことがない限りは応じている
でもやっぱりしんどい
こっちが年齢とともに枯れていってるのと同じように枯れてくれたらいいんだけど
完璧な夫は若さも維持してて、見た目も若々しいし性欲もまったく衰えない
それでも他の女に手を出したりしないあたり、さすが完璧な夫だなとは思う
でも、アラフォー女ひとりであの性欲を受け止めるのは大変
まあ、全く欠点のない人間なんていないし、とりあえず、そこだけ我慢して付き合うつもり
でも、そろそろ枯れてくれないかなと思わなくはない
つまり主張はあれど、エビデンスは必要ない、と言うことか。了解。それはそれで考え方としては全然ありだと思うよ。
と、思うけど、念のため。ここまでお付き合いいただいたので考え方だけは伝えさせてほしい。
どんなに優れた社会制度だって考えた時点では上手くいくというエビデンスなんかなかったはずだ
これはちょっと考え方が違うのよ。エビデンスは「○×という政策をとったら上手くいきました』(例:婚姻支援で結婚した夫妻の出生率は高いので、婚姻支援は少子化対策に有効である)みたいな事ばかりじゃない。
やったことのない施策についても、組み合わせて上手く行くかもと言う可能性をひとつずつ積み上げていくこと。これも立派なエビデンス。そしてそこから先は今までやったことのない、未知の施策にも繋がるので、エビデンスをやっていたら未知の施策ができない、ということはないのです。
だから、あなたの考え方を実現するべきだ、と考えるなら、なんとなくでもいいからフレームワークに従って考えてみて。
以下の様なステップを踏む。
こんな感じ。最後になればなるほど強固なエビデンスということになる。
ここで言っている「医療」の方は実際に行われたプログラムで無茶苦茶有名なやつの例だ。「地中海食は心疾患イベント、脳血管イベントを抑制し、健康寿命を延ばす」というのは事実として確認されている。
また、金を配る系の施策が子どもの数を増やさない、と言うエビデンスは最後の社会実装の結果解析で出てきたものなので、効果は無いと言う強固なエビデンスがある、なんて言われている。
ただ、これも絶対じゃないけどな!
医療の方はなぜ例に出したかというと、そうやって言われたが実は後にケチが付いていて
とかいろいろある。
ここからわかるのは、強固なエビデンスなんて手順をきちんと踏んでいけば覆されるものであると言う事なので、エビデンスなんてなくていいんだ!じゃなくて、積み上げて考えてみてほしい。
そうじゃなければ、社会革命みたいな手段を執らない限りなかなか政策を実現するのは困難だと思う。
貴方の今の話は最初の現状観察がギリギリできているかできていないかと言うレベルなので、次とその次のステップをやってみると色々な考えがクリアになるよ。
「女性の高学歴化と少子化は連動してる」と「高学歴女性ほど子供を産んでる」は、特に矛盾しないんだよな。
だから、高学歴で高収入の人間ほど時間的余裕がある。しかも、ホワイト企業で働けるから、産休育休の制度もあり、安定した大企業なのでブランクがあっても復帰できる。
これは諸外国でも同じ話で、女の子は頑張って学歴を手に入れて安定した会社に入るのが王道ルートです。
で、高学歴の女が結婚するのは、同じ高学歴の男なんですよ。これは別に高学歴を狙ってるわけではなく、青春時代も社会人になってからも周りに高学歴の男しかいないので、そうなるだけです。
日本では、高学歴の男ほど、家事育児に関わる時間が長いです。理由は一緒、労働単価が高く福利厚生がしっかりしてるから、家事育児に関わる余裕がある。
女本人の生活やキャリアパスが安定してて、夫も家事育児に協力的。そりゃ、高学歴の女の方が子供産みますよね。
労働時間が長くブラック企業勤めで、家事や育児をする時間がない。結婚相手の低学歴の男も同じです。低学歴で共働きの男ほど家事をしません。
非正規で福利厚生も特にないから、子供産んで離職せざるを得なく、その途端に人生が詰む。だから子供を産まない。
だって、女の大学進学率が10%とかでしたから、ほとんどが低学歴なんですよ。だから、低学歴女でも高学歴男と結婚できたんです。高学歴男が余ってたから。
あと、女がそもそも就職できなかったってのもある。昔は「家事手伝い」が普通の職業みたいに扱われてましたからね。ただの無職なのにね。ただの無職の女性が当たり前の存在だったってことです。
現代では、高学歴の男は高学歴の女が取っていきます。そして、高学歴の女が増えたということは、その分高学歴の男が減ってるということです。