
はてなキーワード:ペン軸とは
AI臭すぎてとても読めなかった。
お前らはこれ読んで「うぇ~~~~AI臭すぎる~~~~」ってならなかったの??
俺は無理だったよ。
「AIを使ってるのがズルい」みたいな事を言いたいんじゃない。
書き手の魂を感じないんだよね。
要はこれって元増田の記事と一緒に「20代末から40歳まで11~2年しかないのに何で気が付かなかったの?というタイトルでネットの煽り文っぽい記事を作成してください。現在の日本のインターネットで使われているようなスラングをいくつか盛り込んで現在アラフォーのオタクを煽るような感じで」と打ち込んだだけでしょ?
インターネットにウヨウヨと漂っている無数の言葉の切れ端をAIがつなげただけじゃん。
そもそもこれを書こうとした増田の中にあるのは「よっし!このネタで煽って伸ばそう!」って気持ちだけでしょ?
本気でコイツらを馬鹿にしたいと思ってる気持ちしかないんだろ?
俺はそれが気持ち悪いんだよ。
男叩きだろうが氷河期叩きだろうが現代社会への怨嗟だろうがなんでもいいけど、ネットの文章なのに書き手の魂が一字一句にこもってないのは許せない。
たとえ内容が「山上は正しかったと思うから俺もいつか暗殺をするぞ!」だろうが「要するに現代日本においては相模原障害者施設殺傷事件こそが正しい弱者男性の死に様なんだよね」だろうが、それが書き手が自分の心にペン軸をグリグリ突っ込んで染み出させた血のインクで書かれているならそれはネット駄文として絶対的に正義なの。
逆に言えば書き手の涎も汗も込められてない既製品のインクを機械に自動手記させただけの文章は絶対的悪なんだよ。
スクリプトに書かせただけの自動生成の文章こそがインターネットにおける唯一無二の絶対的なゴミなんだから。
俺の言う「AI臭くて無理」っていうのは「スクリプト生成特有の悪臭が強烈で、こんなものがインターネットで広まったら臭くて耐えられない」って意味だ。
それは書き手が楽をしてるかどうかに対してのものじゃなくて、書き手の魂が存在しないことに対しての気持ち悪さなんだよ。
自動スクリプトが作った言葉なんてのはそこら辺の死体をツギハギして作ったフランケンシュタインの怪物なんだ。
生きてないだけじゃなくて腐ってるの。
腐ったものを人に出すなってことを俺は言いたい。
生きている言葉を出せ。
腐敗物を人の目に突き刺そうとするな、生きた血を叩きつけあってくれ、それが人間のコミュニケーションだ。
機械同士で自動会話してネットに無数の自動生成世論を作り上げソースロンダリング経由の多数決で持論の正しさを証明するような馬鹿な真似がしたいならふたばちゃんねるやあにまんにでも行け。
せめて増田でやるな。
ここはゴミ箱ではない。
六
https://anond.hatelabo.jp/20241001172740
ベルが鳴って、講師は教室から出ていった。三四郎はインキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。すると隣にいた与次郎が声をかけた。
「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」
与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。straysheep という字がむやみに書いてある。
「なんだこれは」
「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」
「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」
「どうだとか言った」
「聞いていなかったのか」
「いいや」
与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、
「おいちょっと来い」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。梯子段を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人はその下にすわった。
ここは夏の初めになると苜蓿が一面にはえる。与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人が一人に向かって、口答試験を都々逸で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。三四郎はその歴史を与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡で pity'slove を訳すはずだと思った。きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から、文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページを逆に三四郎の方へ向けた。
「どうだ」と言う。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇」とある。下には零余子と雅号を使っている。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものである。しかし零余子はまったく知らん名である。どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。すると与次郎はなんにも言わずにその扁平な顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。
「おれが書いたんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った。
「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」
「いや、ありゃ、たった二、三日まえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか標題でわかるだろう」
「うん。こうして輿論を喚起しておいてね。そうして、先生が大学へはいれる下地を作る……」
「いや無勢力だから、じつは困る」と与次郎は答えた。三四郎は微笑わざるをえなかった。
「何部ぐらい売れるのか」
与次郎は何部売れるとも言わない。
「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解している。
だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌に関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅名も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今はじめて与次郎と文壇との交渉を聞いたくらいのものである。しかし与次郎がなんのために、遊戯に等しい匿名を用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。
いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。
「君は九州のいなかから出たばかりだから、中央文壇の趨勢を知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい今日の文権はまったく我々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生そのものの大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」
三四郎は黙って聞いていた。少しほらのような気がする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。
「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」
「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」と今度は三四郎に相談をかけた。話が急に実際問題に落ちてしまった。三四郎は妙な心持ちがする。与次郎は平気である。ベルが激しく鳴りだした。
「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」
二人は玄関を上がって、教室へはいって、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れないように読みだした。先生はさいわい近眼である。のみならず自己の講義のうちにぜんぜん埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記も双方ともに関係がわからなくなった。ただ与次郎の文章が一句だけはっきり頭にはいった。
「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこの宝石が採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」という句である。その他は不得要領に終った。その代りこの時間には straysheep という字を一つも書かずにすんだ。
「どうだ」と聞いた。じつはまだよく読まないと答えると、時間の経済を知らない男だといって非難した。ぜひ読めという。三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。やがて昼になった。二人は連れ立って門を出た。
「今晩出席するだろうな」と与次郎が西片町へはいる横町の角で立ち留まった。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れていた。ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、
「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」と言う。耳のうしろへペン軸をはさんでいる。なんとなく得意である。三四郎は承知した。
下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛にできている。まったく西洋の絵にある悪魔を模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名が振ってある。表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った straysheep の意味がこれでようやくはっきりした。
与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような滑稽趣味がある。無邪気にもみえる。洒落でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。
手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。
しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣り込まれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片づけた。最後の一句を読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。
しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。
論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。ことに文学文科の西洋人を手痛く罵倒している。はやく適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、煉瓦石のミイラと選ぶところがないようになる。もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生は十年一日のごとく高等学校に教鞭を執って薄給と無名に甘んじている。しかし真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしい口吻と燦爛たる警句とによって前後二十七ページに延長している。
その中には「禿を自慢するものは老人に限る」とか「ヴィーナスは波から生まれたが、活眼の士は大学から生まれない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月を田子の浦の名産と考えるようなものだ」とかいろいろおもしろい句がたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を丸行燈に比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分が広田から言われたとおりを書いている。そうして、丸行燈だの雁首などはすべて旧時代の遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。
よく考えてみると、与次郎の論文には活気がある。いかにも自分一人で新日本を代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。けれどもまったく実がない。根拠地のない戦争のようなものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。いなか者の三四郎にはてっきりそこと気取ることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔をながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。
袴を着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。勝手口からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、晩食を食っていた。そばに与次郎がかしこまってお給仕をしている。
「先生どうですか」と聞いている。
先生は何か堅いものをほおばったらしい。食卓の上を見ると、袂時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものが十ばかり皿の中に並んでいる。
「おい君も一つ食ってみろ」と与次郎が箸で皿のものをつまんで出した。掌へ載せてみると、馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたのである。
「妙なものを食うな」と聞くと、
「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」
「どこから」
三四郎はおかしくなった。こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。
「先生、どうです」
「堅いね」
「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」
「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」
「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」
「なぜ」と三四郎が聞いた。
「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」
「イブセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」
三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。
「ちょっと行ってまいります」と言う。先生は黙って茶を飲んでいる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。
「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラッブをしたことがないものに女がわかるものか」
「先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか」
「うん乱暴だと言った。なぜ」
「どういうところを乱暴というのか」
「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代の女性はみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」
「言った」
「イブセンのだれに似ているつもりなのか」
「だれって……似ているよ」
三四郎はむろん納得しない。しかし追窮もしない。黙って一間ばかり歩いた。すると突然与次郎がこう言った。
「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般の女性はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」
「いないとみずから欺いているのだ。――どんな社会だって陥欠のない社会はあるまい」
「それはないだろう」
「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」
「君はそう思うか」
「ぼくばかりじゃない。具眼の士はみんなそう思っている」
「君の家の先生もそんな考えか」
「だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」
「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」
と与次郎は急に広田先生をほめだした。三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。すると与次郎が言った。
「じつはきょう君に用があると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」
「きょうあれから家へ帰って読んだ」
「どうだ」
「先生はなんと言った」
「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」
「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」
最近万年筆に興味を持って3000円位のを買ってみたんだけど、どうにも持ちづらい。
書き味がどうとか以前に思ったところに線が引けないので、これは俺の持ち方がおかしい可能性があるなと
いわゆる文具沼みたいな界隈のレビュー動画とかからリアルに万年筆を使う人達の持ち方を見てみた。
それで気づいたのだが、「万年筆の正しい持ち方」みたいに調べると出てくるやり方と、実際に使い倒している人たちがしている持ち方はちょっと違うみたいなのだ。
一般に、鉛筆やボールペンの持ち方はペン軸が人差し指の第2関節から第3関節の間に来るのが正しい持ち方とされる。
これは遠い昔一瞬だけ習ってた硬筆の指導でもそうだったから間違いないはずだ。
そして万年筆の持ち方について調べると出てくる解説においてもだいたい同じことが書いてあったり、参考写真がそうなってたりする。
だいたいどこでも、「ボールペンと基本は同じ、ただ少し寝かせ気味にする」みたいな感じだ。
ところがお高い万年筆のレビュー動画とかになってくると、そういう持ち方をしている人が驚くほどいない。
何故か皆、そういう流派でもあるかのように(マジであるのかもしれない)ペン軸を水かきのところに置いた持ち方をするのである。
そして全員ではなかったが、親指よりも人差し指が前(ペン先側)に出ている例も多く見られた。
英字を書く人だと、ここからさらに手首をぺったりと寝かせて黒板にチョークで書くみたいなスタイルの人もいた。
買った万年筆で握り方を真似してみると、ボールペン握り(仮称)すると指に段差が当たったりしていたのが全部なくなり、
なるほどこういう持ち方を前提に作られているのかと感じるほどだった。
だが今までペンを握っていたやり方と全く違う姿勢になるので、やっぱり思った所に線を引けない。
これからペン習字とか始めるぞ!という人だったなら明確になった課題に喜び勇んで持ち方を練習するところだが、
俺は…どうしよっかなぁ。
もともと新しい趣味を始めるほどのテンションではなかったし、そもそも初めて買った万年筆が俺に合わなかっただけという考え方をしても多分間違ってはない。
出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットのニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁や絵画はもちろん、画材・デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)
ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレット、パステル、水彩色鉛筆、ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペン、キャンバス、スケッチブック、模造紙、…
ペインティングナイフ(パレットナイフ)プラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。
ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンとペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ
「スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。
さまざまなパッケージでペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…
つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。
まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)
まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印(スタンダード)にデラックス。タイプ2。何が入ってるんだろ。
自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないか。わたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿作募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生は丸ペンで描いています。ケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。
そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。
欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代の参考書も並んでいた。
私の祖母は趣味で日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。
世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セールの文字。
おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近はカラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージは専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。
完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂の支店はだんだんと減っていく。
そんな未来。
ジェッストリーーーーーームは殿堂入りでいいんだが、真っ黒っぷりが気に入ったので最近はUniballoneを使っている
https://www.amazon.co.jp/dp/B085DRKP3C/
個体によって長文書くとかすれるという報告あり。やっぱりメモ向き
そして本当に気に入ってるのはペン軸の軽軽感とアンバランスな金属クリップ
このクリップがなぜか左方向にちょっとだけ曲がるんだがこれが手遊びに最高
しかも、オトナな色の黒インクなシックなボールペン(予算200円以内)が欲しいなと思って買ったらペン先外した瞬間ずっこけたSAK○RAのボ○ルサインiDの替え芯がギリギリ嵌ることが判明して歓喜
ボールサ○ンiDのインクもこれはこれでレーザープリンタの印字線に負けることがあってどうなのって感じなんだが黒に種類があってとてもよい
やーい騙されてやんのンベロベロベロベロ
原文:https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2675_6508.html
尤もっとも多い中には万年筆道楽という様な人があって、一本を使い切らないうちに飽あきが来て、又新しいのを手に入れたくなり、之これを手に入れて少時しばらくすると、又種類の違った別のものが欲しくなるといった風に、夫それから夫へと各種のペンや軸を試みて嬉うれしがるそうだが、是これは今の日本に沢山たくさんあり得る道楽とも思えない。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人しろうとなのである。
万年筆に就ついて何等の経験もない余は其時丸善からペリカンと称するのを二本買って帰った。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
夫それでペリカンの方でも半なかば余に愛想あいそを尽かし、余の方でも半ばペリカンを見限みかぎって、此正月「彼岸過迄ひがんすぎまで」を筆するときは又一ひと時代退歩して、ペンとそうしてペン軸じくの旧弊な昔に逆戻りをした。
酒呑さけのみが酒を解する如く、筆を執とる人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろうと思う。
ペリカン丈だけの経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外ほかの万年筆も試してみる必要があるだろう。
ペリカンを追い出した余は其姉妹に当るオノトを新らしく迎え入れて、それで万年筆に対して幾分か罪亡つみほろぼしをした積つもりなのである。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人しろうとなのである。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
ペリカン丈だけの経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外ほかの万年筆も試してみる必要があるだろう。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
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「男はなにもしないで文句だけ言う」
みたいなコメントが並ぶんだが、嫁姑問題に疎いんだろうな、といつも思う。
それが悪いとは言わない。想像力が足りないとも思わない。
ちょっと想像して欲しいんだが、オマエさんが職人だったとするな。
壺を作るとか、漫画を描くとか、なんだったらiPhoneアプリ作るんでも良いよ。
で、ある日、「オマエの仕事に文句があるから、俺にやらせろ」ってヒトが入ってくる。
引き継ぎじゃ無いんだよ。廃業しろと迫るわけじゃない。ちょっと代われって感じ。
それさ、代わる?自分の神聖な作業場に他人が入ってきて、作業場使わせろって事だよ。
はてなーに伝わりやすそうな例で言うとさ、Emacsでやってたのに、目の前でviとか設定始めてんの。
男子厨房に入らずっていう意味じゃなくて、家のキッチンってものすごいパーソナルな作業場なのよ。
だれにでも使えるような、最大公約数的な配置になってたりしないの。そんな理由もないし。
そして、パーソナルな作業場を、他人に乱されることほど、癇に障ることって無いのよ。
同居とか、二世帯住宅で、世帯別にキッチンを作る必要性が強調されるのは、そこなの。
夫と舅がふたりともNゲージのマニアだから、趣味の棚は一つで良いわよね?って言われたら、エッてなるでしょ。
いくら趣味が同じだって行っても、同じだからこそ、共用にはしづらい。共用に出来ない。
たとえば、家族旅行に行くときの段取りが悪いから、次は私がやる、宿も抑えるし店の予約もする。
でもね、料理、日々の食事って、そうじゃない。
メシマズに対して、誰かが代わりに料理すれば良いっていうのは、つまり「毎日の食事担当を完全に代わる」必要があるのよ。
何回か、「こうやったら上手く出来るだろう」って言われても、意味が無いの。
キッチンが一つしか無い家庭で、メシマズが食事担当になってる時に、本人が更生する以外に手は無い。
例えば、各日で料理担当をするとかも、あんまり意味が無いと思う。
チームで仕事する為に、なんかルールとか規約が決まってる世界の話じゃないのよ。
凄く下品な言い方するとね、「オマエが奥さんを喜ばせられないのは、愛撫の仕方が悪い」って他人が奥さん触る感じ。
それさ、耐えられる?
食事担当でキッチンに立っている人間は、そう言うレベルでその場所を捉えてるの。
だから、メシマズの話題になった時のアドバイスとして、「代わりに作って味を見せたら良い」は完全に逆効果。
そりゃ、姑の飯がマズイからって、嫁が姑のキッチン使って飯作って舅が喜んだら、いびり倒しもするだろうと。
アノヒトの愛撫の方が良かったアナタの愛撫はもう嫌って奥さんから毎日言われてみ。アノヒトに憎悪以外湧く?
下手なブコメばっかり書いてんな、オレに代われって家族に言われてみ。
しかも家族の書いたブコメの時に限ってスターが付くの。それで家族得意げ。
そのアカウント、続ける気力、ある?耐えられる?