
はてなキーワード:ペシミストとは
私は前者で、合法的かつ倫理的にこの世界に復讐するために生きているようなもので、怒りだけが生きる原動力である。
当然、自己肯定感は低く、リアル・ネットを問わず自分よりも馬鹿な人間を観察し見下すことで、かろうじて精神の安定を保っている。身内びいきかもしれないが、世界を恨んでいる人間の方が平均知能は高いと信じている。
だが時々、世界を愛している方の人間がものすごく上手い文章を書いているのを観測することがある。ツイッターやnoteで「これは」と思い、別の投稿を追ってみると、根本が自分とは違うオプティミストだったということが、まれにある。
それが分かったとき、後頭部をハンマーで殴られるような衝撃と、激しい嫉妬を覚える。
とりわけ文芸はペシミストのものだとは思っているが、愛と能力の両方を持つ人間が絶対的な安心感の下で書いたものには勝てないのだろうか。
俺には逆に自己顕示欲を抑えることが美徳だと疑わずに思ってるお前らがただの信条レベルのものにしがみついているようで哀れに見えるよ。
だって自己顕示欲と未熟さ成熟さが相関すると考えられる論拠ってなんだ?
単純に年齢が高くなるほど自己顕示欲がなくなる傾向が統計的に認められるからか?
でもそれだけじゃただの量的な問題であって、自己顕示欲をおさえればおさえるほど良い意味で大人になっていることなんだとという倫理的な主張ができることにはならないだろう?
だってそれはあったほうがいいものが大人になって失われている悪いことと解釈することだってできるんだから。
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最近(と言うほどでもないが)、MBTIもどきが過剰に流行りすぎている。
私はそのMBTIもどきがMBTIとして広まったことや偏見まみれのコンテンツと化したことなどに文句を言いたいところだが、
そんな性格診断のせいでアイデンティティに異常をきたしたことについて書いていきたい。
ということで、MBTIの関連でエニアグラムという性格診断を知った。
私はもともと4w5というタイプだったはずだが、面白半分でタイプチェンジということをしようとしていた。
自分のタイプが本当に4w5であるという確証はなかったので、面白半分といってもタイプ判定をモティベーションとしていた。
ネット診断の結果は4、5、7、8、9の数値が高く特に7と9が強かったので、7w8と9w8の2つのにタイプチェンジすることにした。
結果的には7w8として過ごすほうが楽だったのだが、正直に言うと無理やり7w8に変わったのではないかという自覚がある。
4w5から7w8に変わる過程は多少大変だったが、7w8になってからは楽で楽でしかたがない。もはや7w8が最適解ともいえる。
そのようにいえる理由としては私の悲観的な側面に対処するために楽観的な7w8が合っているからだ。
わざわざ"自認"しているわけではないが、私にはペシミストといえるような悲観的な側面がある。
そして自分自身のペシミスティックなところを"許容"している。
本来の自分というか、そんな悲観的な自分を自分として認めたくないがために、楽観的な7w8という人格で"洗脳"している。
決して7w8を演じているのではない。いままで悲観的に過ごしてきた人生の指針というか信念というか、
それらをすべてペシミストの自分として貶めることで平生を保っているにすぎない。
どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生を肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。
そもそも重みなどない。快不快を勘定しようとする事自体がナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的なものなのだから。
こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態で希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。
こうありたいような気もする。安直なヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストでしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。
ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。
やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。
自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。
辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。
不快な気持ちに特別な意味を見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……
みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点そのものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。
身分差とか愛の逃避行を企画してたわけじゃないからロミジュリとは呼ばんか。まあ恋人の悲劇の代名詞ということで大目に見て欲しい。
monogataryにある小説?を今日初めて見たけど、メンヘラのような電波女のようなペシミストのような女とまともぶってるメンヘラのような被害者面したような男だな、って感想だった。
あれ行き着く先、心中なのね。曲しか聴いたことないから知らなかったんだけど。
死神がとかいうわけわかんない最期より、石田衣良の『親指の恋人』くらい理由がある自殺のが読者としては見映えがいいと思ったよ。
マクロな考え、社会全体、経済的にはそれが正しいよね。経済を豊かにするのは人なんだから人数で押すのは正攻法だと思うよ。
ただ、経済的に豊かであれば、幸せであるとは言えないと思うんだよね。それは幸せの形が人それぞれによって違うし、自分が幸せであると認識するのは自分であり社会でないからだと思うんだ。(自分が「お前は幸せだ!」なんて言われたらカチンとくるよ)
難しい言い方が好みなのであれば、こっちの方が伝わるかもだけど、社会と個人の関係は「社会がXXだ」と与えるような情動主義ではなく、「個人がXXだ」と受け取る認知主義であるべきと考えてるんだ。更に言えば、自分はペシミストや悲観主義者、反出生主義者というわけでもないから、自殺や他殺、中絶をしてほしいとも思ってないんだ。
弄ったり弄られたり、ボケたりツッコんだり、注いだり注がれたりの輪っかにいまいち入りきれない私には、もう自分嫌いを再認するための儀式にしかなってなくて、何度「もう参加するのやめよう」と思ったか知れないが、今回も行ってしまった。
ここに居てすいません、パリピと同じ空気吸ってすいません、と心の中で管を巻きながら、それを表に出してペシミストネタに昇華できるほど分かりやすい顔面してないし度胸もない。
デキる同期が着々と席を回りキャラを構築し人脈を広げるのを傍目に、宴の片隅でただひたすら、飯に夢中なフリをする。
目ぼしい食べ物が手の届く範囲に無くなって、ピッチャーに入った烏龍茶を手酌して、それを飲み干すだけの機械と化した私が呪詛るのは、バンプオブチキンの「真っ赤な空を見ただろうか」。
ただ一度の微笑みがあんなに上手に喋るとは
なりてー。
私の場合、微笑みには低めの引き笑いが漏れなくセットでついてくるので、叶わぬ夢である。
仕事人間に徹して評価を上げて人を寄せようにも、デキる同期は当然仕事もデキるのでどうしようもない。
まあとにかく、私みたいに地味めのブサイクな八方美人でとりたてて仕事が出来るわけでもない、そんなネタにしにくいタイプの人間が会社の中でどういう立ち位置で振る舞うべきなのか、その根幹を飲み会で切に問われている気がしてならないのである。
だから、その根幹に挑戦するような気持ちで、今日も飲み会に出かけた次第。
玉砕だけどな!
同じような立場の人、いませんかね?