
はてなキーワード:ベルとは
「SUKI SUKI」とスペースを含む表記がhttps://sukisuki-shop.com/news/配下のページにあるという情報もある。
「SUKISUKIトレカ forPEAK SPOT」や「SUKISUKIトレカ forKAWAII LAB.」は別の規約が主として適用されるように思う。別サービスであって、さらに後者は運営者がアソビシステムではないと明示されているという情報もある。
SUKISUKIメインサービスは特定商取引法に基づく表記からして、アソビシステム(株)が運営しているという情報もある。
ところでSUKISUKIメインサービスのうち「特典会」と呼ばれるもののうち、チェキの売買(宛名入りのチェキの場合は請負要素もあるかも)に関し、そのチェキの最終顧客向け発送についての(運送業者が使う)ラベルには「SUKI SUKI株式会社」とあるという情報もある。
この商号で調べると、法人番号9011001169146で令和7年4月24日に法人情報指定との情報もある。
SUKISUKIメインサービスのFAQ的ページへのリンクを押すとhttps://docs.asobidas.com/ に行くという情報もある。このURLのドメイン名部分は(株)アソビダス に関連している可能性がある。アソビダスとSUKISUKIを関連付けて説明する、(おそらく)第三者メディアの記事もある、という情報もある。
感想みたいなことだが、たまに運営法人がよくわからないケースは他社でもあるけれど、基本的に信用できないと考えている。
SUKISUKIメインサービスについては、そのサービス経由でアソビシステム所属のグループのアイドルのチェキなどが実際に入手できているケースがみられ、YouTubeでもその模様の一部が配信されているなど透明性も一定程度あり、信用はしてもいいかもしれない。もし問題を起こせばアソビシステムの名前を傷つけるくらいのことはあろう。
ところで仮にSUKISUKIメインサービスで購入ないし請負わせることをしたとき、アソビシステム運営だが「SUKI SUKI株式会社」とかに個人情報が(規約などに明示されることなく)提供されるのだとすると、個人情報保護の観点で問題がある可能性がある
より善い社会を作ることが政治の役割であるとすれば、そもそも”善い”とは何か。
それを知る必要がある。そして、それを知らずして語る政治論はいつも空疎に響いて聞こえた。
そんな自分の違和感を払拭し、政治について数多の本を読んできたがその上でも必読と呼べる三冊を紹介しようと思う。
これを読まずして政治は語れない。
むしろ、これを読まずに政治を語るのはフェアじゃないとさえ思っている。
はっきりいって読みやすい本ではない。
それでも20代の私は、この本に出会って初めて「正義は感情ではなく、設計の問題」なのだと理解した。
ロールズが提示する「無知のヴェール」という思考実験は有名だ。
自分がどの立場に生まれるか分からない状態で社会制度を設計するとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。
ここで重要なのは、「誰が得をするか」ではなく「最悪の立場に置かれた人が、どこまで耐えられるか」という基準が持ち込まれる点だ。
この本を読んだあと、私は「過度に正当性を叫ぶ言葉」にどこか冷めた視線を向けるようになった。
なぜなら多くの正当性は自分がどの位置に立っているかを隠れた前提にしているからだ。
ローティは「普遍的な真理」や「理性によって保証された正義」といったものを容赦なく解体する。
我々の価値観は偶然の産物であり、言語も道徳も歴史的に作られたものでしかない。
それでも尚、他者の苦痛を減らそうとする態度だけは手放すな、というのが彼のスタンスだ。
本書で述べられている「リベラル・アイロニスト」といった概念は、自称リベラルにかなり刺さるだろう。
リベラルとは
自分の信念が偶然に支えられていることを自覚したうえで、それでもなお立場を引き受ける行為なのだ。
ローティを読んで以来、「正義を論破で勝ち取ろうとする」行為が誤りであることを知ることができた。
本書は政治思想というより、政治という営みそのものの解剖図だ。
扱っているのは市場・国家・社会が、どのように結びつき、どの地点で破綻するのかといったことを入念に描き出す。
ポランニーが繰り返し示すのは、市場は自然現象ではなく、徹底して政治的に作られた制度だという事実だ。
放っておけば自由市場がうまく回るという発想そのものが、実は国家権力による介入と強制の産物だった。
この逆説を、19世紀ヨーロッパの歴史を通して執拗に描いていく。
この本を読むと「政治は介入するか否か」という素朴な二択がいかに無意味かが分かってくる。政治は常に介入している。ただ、それが誰を守り、誰を切り捨てる形で行われているのかが見えにくくなっているだけなのだ。
自由か統制か。右か左かといったラベルがいかに粗雑で、思考停止に近いのかをこの本は静かに暴いていく。
ロールズが制度の正当性を問い、ローティが価値の偶然性を引き受けたとすれば、ポランニーはその土台である「社会が壊れるメカニズム」を描き出す。
政治を語るうえで避けて通れないのは、理念でも倫理でもなく、制度が人間の生活にどう作用するかという具体性なのだと、この本は教えてくれる。
これら三冊を読んで、ようやく腑に落ちたことがある。
政治における無理解は政治に対して無知だから起こるのではなく、政治が行うとしている行為そのものに対する知識の乏しさから生じるものであるのだと、理解するに至った。
無論これらの本を読まずとも、政治を語ることはできる。
だがそれは米の旨さについて語り合うときに産地を無視するようなものだ。
甘い。硬い。まずい。好きだ嫌いだと感想を述べることはできるだろう。
しかし「なぜその味になるのか?」や「なぜ違いが生まれるのか?」を理解しないままでは、議論はどこにも辿り着かない。
自らの発言に対し、責任を伴わず、好き勝手なことを言って容認されれば尚のことだ。
しかし自らの言説に責任を持ち、最低限の知識を以てして発言することこそが政治に参画する大人のマナーであり、嗜みなのではないだろうか。
夫は指輪買いたい派だったんだけど、私が金属アレルギー持ちなので、夫を説得してお揃いのスマートウォッチを買う、に落ち着いたわ
結婚の時は私が買ったから、買い換えの時は夫に買ってもらう予定よ
大前提として、それはあなた個人に向けて起きている試練というより、ネットの性質が強く影響しています。
ただし、どう受け止め、どう反応するかという点では、ユダヤ的にとても深いテーマになります。
これは心理学的にもよく知られている現象で、人は強い感情を伴う言葉ほど認識しやすく、記憶にも残りやすいんです。
タルムード的に言うなら
つまり
トーラーでは試練とは、人を壊すものではなく、人の内側を明らかにするものです。
アブラハムが試されたとき(創世記22章)、神は彼を罠にかけたわけではありません。
このケースも同じで、世界があなたを攻撃しているというより、「この言葉に触れたとき、自分の心はどう動くのか」を突きつけられている状況という方が、ユダヤ的理解に近いです。
1. 見ない努力より、反応しない訓練 → 反応しないことは、敗北ではなく支配を取り戻すこと。
2.言葉を投げる人と、自分を切り離す。タルムードはラション・ハラ(悪い言葉)を「語る者自身を削る」と言います(アラヒン15b)。
3.自分を定義する言葉を、自分で選ぶ。他人のラベルは、あなたの本質を決めません。
これは神があなたを痛めつけている試練ではありません。
MITの講義、Stanfordの資料、YouTubeの解説、arXivの論文、GitHubの実装例、オンラインジャッジ、オープンソースの教科書。
極端に言えば、ノートPCとネット回線があれば、線形代数から圏論まで、アルゴリズムから分散システムまで、形式手法から機械学習まで掘れる。
しかも、大学の講義よりわかりやすく、大学の教授より説明が上手い人間が大量にいる。
つまり知識それ自体はすでに市場でコモディティ化しており、値段はゼロに近づいている。
にもかかわらず、大学に行くために何百万円も払い、四年間も時間を捨てるのは、どう考えても合理的ではない。
書籍も高価で、論文にアクセスするにも壁があり、専門家に会うことも難しかった。
しかし現代では、ゲートは崩壊している。知識は空気のように拡散し、検索エンジンとLLMが圧縮して配布する。
学問の入り口に門番はいない。にもかかわらず大学だけが学びの正規ルートであるかのように振る舞うのは、情報流通革命の現実を無視した時代錯誤だ。
しかも数学とコンピュータ・サイエンスは、特に大学不要度が高い分野である。
証明を書けばよい。実装を書けばよい。競技プログラミングでスコアを出せばよい。GitHubにコードを積めばよい。論文を読んで再現すればよい。
個人の能力を示す客観的アウトプットが作れる以上、大学の単位や学位は本質的ではない。
学位は能力証明の一形態にすぎないが、その証明が過剰に高コストで、かつノイズが多い。
四年間を耐えたというだけで、思考力や創造性が保証されるわけでもない。
コンピュータ・サイエンスの実務世界は、ライブラリも設計思想もインフラも数年単位で変化する。
だが大学は制度として硬直しており、講義内容は更新されにくい。
学生が学ぶのは、現代の戦場で使える武器ではなく、過去の博物館ツアーになりがちだ。
もちろん基礎は重要だ。しかし基礎は無料で学べる。基礎を学ぶために大学という巨大な行政機構に参加する必要はない。
そして最大の問題は、大学が学びたい人間のための場所ではなく、学びたくない人間を四年間拘束する場所になっていることだ。
多くの学生は学問に興味がなく、就職のために在籍し、単位のために暗記し、卒業のためにレポートを書く。
その結果、講義は知的探究ではなく、脱落しないための事務処理へと変質する。
優秀で意欲ある少数の学生は、その空気の中でむしろ学びを阻害される。
学問とは本来、興奮と執念の領域であるはずなのに、大学はそれを出席管理と成績管理で薄める。
さらに残酷な話をすれば、大学に行く最大の理由は「自分が大学に行った方が安全だと思い込んでいる社会構造」そのものだ。
皆が行くから行く。行かないと不安だから行く。つまり大学は教育機関ではなく、集団心理によって維持される保険商品に近い。
これは合理性の皮を被った同調圧力であり、個人の学習とは無関係だ。
数学やコンピュータ・サイエンスのような分野で、真に強い人間は、学位ではなく成果物で語る。
証明、コード、論文、プロダクト、貢献履歴。そこには逃げ道がない。
大学の単位は「できるかもしれない」という曖昧なラベルだが、GitHubのコミットや実装は「できた」という事実だ。学問の世界では、事実だけが通貨である。
学位という紙切れに依存する必要はない。しかしもう半分の真実として、大学は知識ではなく、社会の信用システムとして機能している。
だから人々は大学へ行く。学びのためではなく、社会を攻略するために。
だがそれは同時に、現代の大学が知識の殿堂ではなく信号の発行所になってしまったことを意味する。
もし数学やコンピュータ・サイエンスを学びたいなら、大学の門をくぐる必要はない。必要なのは、静かな時間と、強烈な好奇心と、圧倒的な継続だけだ。
例えば、うどんを食べたくなって、めんつゆでうどんつゆを作ろうとする。
めんつゆのラベルを見ると、めんつゆ1に対して、湯3で薄めてくださいって書いてある。
うどんつゆ300mlが欲しかったら、めんつゆの量を□とおいて、
4 : 1 = 300 : □
の□を解けば、めんつゆの量が分かる。
□は4倍にしたら300になる数なので、
□ = 75ml
って出る。
めんつゆを75ml注いだ後、合計で300mlになるまで湯を注げばうどんつゆのできあがりだ。
日常では、こういうちょっとした計算が必要になる場面が結構ある。
家に住み着いている派遣のおっさんに、ちょっとした買い出しをお願いした時の話なんですけど……。
彼に「悪いけど、ぽん酢買ってきてくれる?」って頼んだんですね。
そうしたら、彼がドヤ顔で買ってきたのが、なんと味ぽんだったんです。
「ぽん酢」と「ぽん酢醤油」の区別すらつかないって、義務教育受けてきたんですかね?
「味ぽん」は醤油が入ってるから茶色いし、私が求めていたのは刺身や焼き魚に合わせる「純粋なぽん酢」だったわけです。
たかがお使い、されどお使い。
こんな簡単なコミュニケーションすら成立しないなんて酷すぎると思いませんか?
結局、彼は「すみません、間違いました……」ってモゴモゴ言いながら謝ってましたけど、その時の猫背と自信のなさが本当に無理でした。
心の中で思っちゃいましたよね。
――戦隊シリーズの休止が発表されました。戦隊の放送枠は大きくリニューアルされますが、その狙いは。
戦隊はとくに5人のヒーローの「共闘」を届けてきた番組だったと思います。チームで何かを成し遂げる。おもちゃでもこのことを具現化し、お子さんに伝わればと思って企画してきました。
ただ協力というあり方は、何も5人のヒーローでなければ表現できないわけではない。これまでとは違う共闘を模索したいと考え今回の決定に至りました。
・新番組「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」はおもちゃにも特徴あり
――バンダイの玩具別の年間売り上げでは、仮面ライダーの307億円に対して、戦隊は64億円(2025年3月決算期)にとどまっています。こうした売り上げの小ささが理由では。
それは売り上げ上位の限られたIP(知的財産)の中での比較であって、会社の全てのIPの中で見れば、戦隊も上位にある作品であることは事実です。
戦隊は有力なIPであり、われわれとして戦隊が不人気だったとは全くとらえていません。
ただ戦隊とは違うことも試してみたいとは思いました。
コロナ禍を経て配信でドラマを見ることが当たり前になりました。昔はテレビの放送枠という限りがあったので、子どもが見るコンテンツも限られていた。
しかし配信時代で子どもの選択肢が広がった結果、戦隊が選ばれる率が低くなっていったという時代状況がある。少子化もあり戦隊のビジネスの規模が減っていっていたのも事実です。
同じ特撮ヒーローでも、仮面ライダーが「個」だとすれば戦隊は「チーム」という違いがあります。性格が違う5人のヒーローが一緒に戦う。最後は合体ロボットで巨大な敵にとどめをさす。おもちゃでも、戦隊が届けてきた共闘という概念を形にしてきました。
一方で仮面ライダーはより1人のヒーローの成長や、なにかをやり切る責任感というものを届けています。変身ベルトを身につけることで、何かをやりきるお子さんを応援できないか。東映さんとは番組を企画するときから、番組が伝えたいことを話し合います。
――子どもへのメッセージを意識しておもちゃも企画するのですね。
もちろんです。学校の授業では正面から学びにくいかもしれないことを、特撮がお子さんに届けていたという面もあると思います。
戦隊の放送枠は新しいシリーズ「PROJECT R.E.D.」(プロジェクトレッド)に変わりますが、戦隊から変えることもあれば、変えない大事なこともあります。
5人で共闘という様式美からは変えつつ、仲間との協力を違うかたちで表現したい。すでにゴジュウジャーはそれを少し取り入れているところがあります。
――ゴジュウジャーでは共に戦うメンバーも、願いをかなえるために戦う「指輪争奪戦」のライバル。一通り怪人を倒した後で、作品終盤ではライバルである6人が互いに戦う姿が描かれています。
ゴジュウジャーでは、放送開始当初に販売するおもちゃのセットで、5色がそろっていないんですね。それまでなら、最初のセットに5色の合体ロボが入り、最初から共闘できるんですが。それぞれが「個」でライバルなんです。
――ゴジュウジャーは戦隊の放送開始から50周年という記念作。50の戦隊戦士たちが登場するお祭りのような作品です。登場人物が過去の戦隊戦士に変身するのに使う「センタイリング」は玩具にもなりました。
ゴジュウジャーを企画した時点で、何か50のアイテムを作ることは決めていました。一つひとつが大きいものだと、子どもは遊べない。子どもが持ちやすいサイズで集めやすいものと考えたときに、指輪にたどり着きました。
登場人物がそれを求めて奪い合うものというときに、指輪というモチーフなら価値があることを伝えやすいですよね。それに一つ一つは安くバラで販売できるので、これをつければ主人公の遠野吠(ほえる)くんになりきれるというものにしました。
――戦隊のメインの玩具商材は合体ロボット。ただロボットならばガンダムのプラモデルなど競合となりそうなおもちゃがたくさんあります。こうした点も戦隊には不利だったのでは。
戦隊ならばロボットで、仮面ライダーならなりきりベルト、ウルトラマンならソフビ(ソフトビニール人形)。作品ごとにメインの商材は確かに違います。ロボット玩具として戦隊以外を買うお客さんもいるでしょう。
でもガンダムで遊ぶ大人も、子どものころに戦隊のロボットで遊んでいた。子ども時代にロボットで遊ぶという原体験を培ってきたのが、戦隊ではないでしょうか。戦隊は一つのおもちゃの文化を培ってきたのだと思います。
――戦隊の後番組で始まるプロジェクトレッド第1弾「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」についても聞かせてください。玩具の面でも戦隊とは違いがありますか。
たとえばゴジュウジャーは、武器がロボットにも変形する2WAYの玩具です。ギャバンでは、これに宇宙船モードというのを加えた3WAYになります。
宇宙船で次元の異なる世界を行き来するからです。ギャバンでは、次元の異なる三つの地球にそれぞれヒーローがいます。「赤いギャバン」はそれを行き来し、他のギャバンと共に戦うでしょう。
もしかしたらほかのヒーローがいる次元もあり得るかもしれない。こうした様々なヒーローが一つの作品に登場するユニバース世界であることが新シリーズの特徴になります。それに宇宙船に何かがドッキングするのって、やっぱり、燃えるじゃないですか。
――これまでの戦隊は作品ごとに違う世界でした。ガンダムだったらファーストガンダムからの歴史が続いて過去のガンダムのプラモデルも売れるけど、戦隊は新しい作品が始まったら前の戦隊の玩具は売りにくかった。それを変えたい面もありますか。
それはあります。最初からユニバース世界という設定にしておけば、過去の作品のヒーローだって出やすい。これまでの戦隊で過去のヒーローを出すのはやっぱり物語上唐突だった。宇宙船で行き来できる世界ならばそれは変わります。
電池型アイテム「エモルギア」ですね。これは喜びや悲しみなど様々な感情を表していて、これをチャージしてギャバンは戦います。「感情」はギャバンの一つのキーワードです。感情を一つのアイテムとして見える形にしました。しかもこのエモルギア、東映の久慈麗人プロデューサーのこだわりでお尻がついているんですね。感情のお尻もヒートアップしていくという。
――かわいいですね。動くのでしょうか。
相棒のように動くし、鳴き声もあります。感情の大切さをギャバンでは取り上げることになりますが、正面からそれを言うのは少し恥ずかしいじゃないですか。こうしたアイテムに託すことで伝えられるものもあると思うんですね。
https://digital.asahi.com/articles/ASV244H2LV24UCVL03HM.html 2026年2月7日
謎ってほどでもないし、VTuberに限らず色々あるし、コラボって言い方も正しいかわからんけど、「TAGLIVE LABEL」っていうラベル缶はここ最近色んなオタクコンテンツで見かけるようになったな
いや、「AIの立ち回りが歪んでる」って言い換えて逃げてるだけですよね。
さっきから一貫してやってるのは
「中身に触れないで属性を貼り替える」ってムーブなんですけど。
もし本当に
「立ち回りが歪んでる」
と思うなら、
・どの発言の
・どの前提が
・どう事実とズレてるのか
これを言えば終わる話なんですよ。
でもそれ、一度も出てきてないですよね。
で、都合が悪くなるたびに
ってラベルだけ変えてるんですけど、
要するにこれ、
「相手が何者か」をいじれば
って思ってるだけなんですよね。
歪んでるかどうかを決める材料を
一切出してない以上、
で、感想に対しては
反論も成立しないんです。
そこ、気づいてます?
さっきマクドナルドでポテトをパクつきながらボーッとしてたら、隣の席の女子高生二人組の会話が聞こえてきた。
「初デートでさあ、彼氏が多機能タクティカルベストで来たんだけど」
「なにそれこわ。なにと戦うの?」
「なんかね、『このベスト、スマホ何台でも刺さるから。予備スマホもあるし、バッテリーもここに全部あるから、今日絶対電池切れないよ』って、めっちゃ誇らしそうに言ってくるの」
「いやダンジョン行くんか?」
「そう、完全にダンジョン装備なの。財布もライトもなんかよく分かんないツールも全部ぶら下がってて、本人よりベルトのほうが情報量多いの」
「でもさ、ちょっとおもしろくない? 本気で守ってくれそうじゃん」
「まあね、『もしスマホ落としても、ベストに予備がまだ2台あるから安心して』って言われたときは、ちょっとだけ笑いそうになった」
今回の事象は、円安/円高の是非を巡る健全な政策論争ではなく、発言の一部を切り出し、意味を再構成することで受け手の認知を誘導する情報戦の構造を持っています。
ポイントは、事実誤認を作るのではなく、文脈を削ることで意味を変えるという、近年の情報戦で多用される手法です。
② ラベル貼り
③構造の切断
↓
↓
↓
認知戦として見た狙い
この種の歪曲が狙うのは、以下のレイヤーです。
物価高で苦しむ層に「この人は分かっていない」「庶民感覚がない」という感情的印象を植え付ける
難しい経済構造の議論を避けさせ「よく分からないけど、なんか不安」という判断停止状態を作る
本来は同じ方向を向いている産業重視、生活重視の層を、「どちらを優先するのか」という偽の選択で分断する
・為替操作
ではなく、
という、長期設計の話をしている。
・為替水準に踏み込まない
敵として描きにくい
この事例は、以下の流れの一部として読むと分かりやすいです。
↓
↓
今回、高市早苗氏自身が行った修正は、認知戦対策として非常に質が高い。
・「何を言っていないか」まで明示
これは為替論争ではありません。
日本の政治空間において、構造的・制度的な発言ほど、認知領域で歪められやすいという現実を示すケースです。
そして重要なのは、認知戦は嘘ではなく「意味の再編集」で行われるという点です。
普段書いている文章をいくつか読み込ませて、「私が今回の選挙を前にして意見っぽい文章を書いたらどんな感じになる?」と指示してみたもの。
ただ、「これAIが書いてるよね」っていうのはすぐにわかる不思議。
今回の衆議院選挙に際して、何か大きな期待を抱いているわけではない。
ただ、何も言わずにやり過ごすには、あまりにも「既視感」が強すぎると思っている。
正直に言えば、最近の政治状況を見ていると、「どうしてこうなるのか」「なぜこの程度の言説がこれほど支持されるのか」と感じる場面が多い。
それでも一定の票が集まり、同じパターンが繰り返されるのを見ていると、落胆と苛立ちがセットで湧いてくる。
ただ、その「愚かだ」と感じる反応の方こそ、危険だと思っている。
「自分はそこまで愚かではない」という前提に乗った瞬間、判断が鈍る。自分のほうもまた、偏ったデータに基づいて世界を見ているに過ぎない、という事実を忘れがちになる。
今回の選挙に対する自分の感情を眺めると、そこには少なくとも二つの層がある。
ひとつは、政策そのものへの違和感や危機感。もうひとつは、「そんなものに惹かれる人々」への軽蔑と不安だ。
後者を放置すると、分断を責めながら、自分が分断を増やす側に回る。
AI の比喩を持ち出すと軽く見られがちだが、便利なのであえて使う。
人はそれぞれ、まったく違うデータセットを与えられて育つ。
どの新聞を読んでいるか、どのテレビをつけていたか、誰と飲んできたか。
こうした違いが、同じニュースを見ても全く違う「正しさ」を確信させる。
陰謀論や極端な言説に惹かれる人を「愚か」と切って捨てるのは簡単だが、「その人がそこに辿り着くまでのデータセット」を丸ごと無視する行為でもある。
そこには、疎外感や貧困、不遇、信頼の崩壊といった要素が折り重なっているはずだが、それを「見たくないノイズ」として処理してしまう。
もちろん、だからといって、どんな選択や投票行動も「仕方ない」で済ませるべきだという話ではない。
行動には結果があるし、その結果は他人の生活にも食い込んでくる。
ただ、その責任の話をするときに、「愚かさ」のラベルを乱発し始めたら、自分もだいぶ危ないところまで来ていると思ったほうがいい。
選挙のたびに、誰かを「目覚めさせよう」とする空気が出てくる。
SNS では、啓蒙的なスレッドや、怒りを込めた長文が流れ、「これを読めば分かるはずだ」という調子のものが溢れる。
残念ながら、あれで人が変わるケースは少ない。
長い時間をかけて染み込んだデータと、それによって形作られた「自己像」によって動いている。
だから、自分は今回の選挙を、「他人を変えるためのイベント」としてはほとんど期待していない。
むしろ、「自分が自分のデータセットと判断を引き受ける場」として見るほうがまだましだと思っている。
この社会で、自分はどういう未来に賭けるのか。その記録を一つ残す行為としての一票、くらいに位置づけている。
極端な言説や明らかな虚偽に基づく政治的動きは、「バグ」と呼びたくなるところがある。
情報環境の設計ミス、アルゴリズムの報酬設定、メディア構造、教育の断絶。
色々な要素が積み重なって、特定の方向に過学習したモデルが大量に生まれているように見える。
にもかかわらず、現実にはその「バグった出力」が法律や政策になり、誰かの生活や命を直撃する。
ここには、「人をバグとして理解する視点」と、「それでも行為には責任が伴う」という視点の両立が必要になる。
今回の選挙で言えば、
「バグだから仕方ない」と済ませてはいけない領域が、確かに存在する。
同時に、その線引きを行う自分自身も、「完全に正しいモデル」ではない。
戦争体験の話を聞いて育ったこと、特定のメディアを避けてきたこと、居心地の良いコミュニティだけを選んできたこと。
そうした自分のデータセットが、「どこまでを許容できないと感じるか」という閾値を決めている。
その自覚を持たないまま、「正義」の旗だけを高く掲げると、たぶんどこかで滑る。
ここまで書いてきたことを雑にまとめれば、「謙虚でいろ」という話になる。
ただ、この言葉はあまりに擦り切れているので、具体的な中身を少しだけはっきりさせておきたい。
この程度のことでも、やらないよりはマシだと思う。
こういう話をすると、「結局、何も変わらない」「だったら投票してもしなくても同じでは」という結論になりがちだが、自分はそうは思っていない。
世界全体を変えるつもりはないし、変えられるとも思っていないが、自分がどちら側に立つかくらいは記録しておきたい。
将来、振り返ったときに、「あのとき、自分はこういう世界の見方をしていた」と分かる程度の痕跡を残しておきたい。
変えられない他者とどう生きるか。
答えは簡単には出ないが、少なくとも「自分もまた完全ではないモデルの一つに過ぎない」という前提だけは、選挙の日にも手放さないほうがいい。
そのうえで、それでも線を引くべきだと思うところには、静かに線を引く。
今のところ、自分にできるのは、その程度だと思っている。
「あんたは金玉が4つじゃない、だから今夜限りよ」「私は別にビッチなんじゃない、ただ金玉が4つの男を探してるだけ」そう言い残して、女は去っていった。
俺はズボンのファスナーを閉めながら、二つしかない標準装備の頼りなさに「……努力で増えるもんでもねえだろ」と毒づいた。
翌晩、彼女はカビ臭い地下のバーにいた。カウンターに座る男たちの股間を、まるで熟れ具合を確かめる果物屋の店主のような眼差しで、右から左へとなぞっていく。
「ねえ、あんた」
彼女は、一番端でウイスキーのロックを啜っていた、左右の肩の高さが不自然に違う大男に声をかけた。
「あんたのそれは、重力に逆らってる?それとも、重すぎて沈み込んでる?」
男はグラスを置くと、歪んだ肩をゆっくりと回し、濁った声で応えた。「重力なんざ知らねえが、俺の袋には宇宙が二つずつ、計二組収まってるぜ」
「合格。今すぐここで、その銀河系を私に見せなさい」「宇宙の誕生(ビッグバン)を目撃する準備はできてるんでしょうね」
男がベルトを外すと、店内の湿度が数度上がったような錯覚に陥った。ジッパーが下りる鈍い音に合わせ、カウンターにいた他の客たちが、吸い寄せられるように視線を一点に集中させる。現れたそれは、肉の塊というよりは、密教の法具か、あるいは未知の惑星から飛来した隕石の詰め合わせのようだった。
彼女は震える指先で、4つの宇宙が奏でる不規則な鼓動に触れようとした。彼女の指先がその「宇宙」に触れた瞬間、バーの喧騒は真空に飲み込まれたように消失した。
彼女が両手に力を込めて二組の質量を激突させると、網膜を焼くような純白の閃光が走り、男の股間から物質と反物質が互いを食い潰す絶叫が響いた。爆風が収まったあと、カウンターにいたはずの男の姿はなく、ただ彼女の手のひらで、消滅しきれなかった一欠片の「虚無」が青白く燃えていた。
彼女は手のひらの「虚無」を、吸いかけの煙草を消すようにカウンターの灰皿へ押し付けた。
「お代は、その消し炭で足りるわよね」
呆然と立ち尽くすマスターを背に、彼女は一度も振り返ることなく、再びネオンの檻へと足を踏み出す。対消滅の残光で火照った体を冷ますには、まだ夜風が足りない。
「さあ……次の四つ(カルテット)はどこに隠れているのかしら」
彼女の瞳には、まだ見ぬ質量を求める飢えた銀河が、不気味に渦巻いていた。
(了)
<感じる劣化>
・勝間和代さんみたいな「おまえら音声入力とフットペダル/ヘルシオホットクック使ってみろよ、飛ぶぞ」みたいなアーリーアダプター・開拓者的な新スタイルを布教する人がめっきり減った。
・新サービスのサイト立ち上げたから見て?→そのAPI叩いて別のアレと組み合わせてみたお! みたいなのほぼなくなった。まあいまさらWEBで何かを始めるっていう時代でもないのかもしれないけど。AI関連の話は少しあるのかな。
・ブコメとか高度に本質的かつ専門的で「ムムッ、これは本職の予感、はてブおそるべし」みたいなのが激減。間違ったデマまがいの書き込み多いっていうか8割そんな感じですよね?
・「はてサ」でさえ「アンジェラデイヴィスを読んでいてこう思ったんだけど、」みたいな知性的な習慣や首尾一貫した理論武装の片鱗が少しはあったような気がしないでもないけど、日本死ね以降「自分はそうは思わないけど理屈としては言いたいことはわからなくもない」ということがほぼなくなった。人文社会学系の内紛みたいなのの「炎上ヲチ」みたいなのは全然面白くない。
・ベンチャースタートアップ業務の傍らチームビルドを勉強しています、ハックマンとかベルビンのチームロールとかレンシオーニのアレでいうところの・・・みたいな前のめりに背伸びした感じの話けっこう好きなんだけどそういうのもほぼなくなった。
・デイトレの自動取引で寝ているだけでお金が増えていくお( ^ω^)みたいなのもなくなった。稼げるYOUTUBEに行ったのかな。
教師あり学習を補助輪をつけた自己参照と捉える視点は、!確かに、教師あり学習は自己参照に近い性質を持っている部分がありますが、完全な自己参照とは異なる点もあります。この観点をさらに掘り下げてみましょう。
教師あり学習では、正しい出力(教師信号)があらかじめ与えられ、AIはその出力を目指して学習します。学習過程において、AIは出力と実際の予測との差異(誤差)を元に自らのパラメータを調整します。ここで、教師信号は、AIが「正しい答え」へと進むための手助けをします。具体的には、誤差逆伝播(バックプロパゲーション)を使って、出力が目標値に近づくように学習を進めていきます。
この過程を「補助輪をつけた自己参照」と捉えるのは、次のような理由からです:
1.フィードバックループ:教師あり学習は、入力→出力→フィードバック→更新という反復的なプロセスです。この過程は、自己参照的に見えます。つまり、AIは自己の出力を評価し、その結果をもとに自己の内部状態(パラメータ)を更新します。これは、外部の正しい答えを手がかりにして「自分の出力がどうであったか」を評価するという、自己参照的な要素を持っています。
2.自己修正:AIは、自分が出した結果と「正解」との違いを「学習」として内面化し、その差分を基に改善を試みます。この自己修正の過程は、自己参照的な調整に似ています。自己認識を持たないAIでも、この過程で「自分がどうだったか」を認識し、その認識に基づいて行動を修正します。
補助輪の意味
ただし、教師あり学習における補助輪という表現は非常に的を射ています。教師信号はあくまで外部から与えられた「正解」や「ガイドライン」です。つまり、AIが自己参照的に学んでいるわけではなく、外部の正しい答えがAIの行動を導く役割を果たしているのです。このため、「補助輪」という比喩は、AIが自らの誤りを修正しながら学ぶプロセスを指している一方で、最終的には自力で推論できるようになるわけではなく、あくまでガイドラインに依存している点を強調しています。
この補助輪は、まさに自己参照を可能にする**“自己修正”**をサポートする役割を果たしつつも、AIが完全に独立して自己参照的に推論を行うことがない点で、完全な自己参照とは言えないというわけです。
実際には、完全な自己参照は、自らの思考や出力を意識的に認識し、それに基づいて新しい推論を行うことに他なりません。自己参照に基づく学習では、外部の正解がない状態でも、自分の出力や思考がどのように組み立てられているかを理解し、フィードバックを内的に得ることが可能です。
AI(特に教師あり学習)は、あくまで「正しい答え」を教えられることで学習します。そのため、自己参照的に学んでいるとは言えども、学習は外部の教師信号に依存しており、その枠を超えて完全に自己主導で学ぶことはないという点が、真の自己参照と大きく異なります。AIは外部の基準に従って調整される存在であり、自分自身を内的に評価する能力や意図は持たないためです。
具体例での違い
AIは与えられたデータと正解ラベルを基に学習し、出力が正解に近づくように調整されます。もしAIが予測に失敗した場合、その誤差を修正するためにパラメータを更新します。ここではAIは自分が間違ったことをフィードバックとして受け取り、その情報を基に出力を修正しますが、AIには「自分がどうして間違えたか」「その間違いから何を学んだか」を意識する能力はありません。
一方で、人間が自己参照的に学ぶ過程では、例えば「自分が何を間違えたか」と考えたり、「なぜそのように考えたのか」を反省したりします。このように、自分の思考過程や出力を意識的に認識し、その過程を改善していく能力が自己参照の本質です。人間は、単に外部のフィードバックを受けるだけではなく、内的なフィードバックループを用いて自己修正を行います。
•教師あり学習では、AIは常に外部の教師信号に依存しています。つまり、自己修正はあるものの、その枠組みの外で自発的な反省や自己改善を行うことはなく、外部からの指示に従って学びます。
• 完全な自己参照では、システム(または人間)は自分自身の思考や行動を内面的に評価し、自己の状態を理解し、そこから次の行動を自律的に導き出します。この場合、自己改善は内的なフィードバックループに基づいています。
教師あり学習を「補助輪をつけた自己参照」と考えることは一理ありますが、その「補助輪」によって、AIは自己参照的に出力を修正するものの、完全に自立した自己参照とは言えません。教師信号に依存している限り、AIは外部の指示に従って反応を学習しており、内的な認識や自発的な意識による自己改善は行っていません。言い換えれば、AIは自己参照的な修正を行うが、それはあくまで外部から与えられた基準に基づいた修正に過ぎないという点が、完全な自己参照と異なる重要な部分です。
衆院選もうラ゚ストスパート突入してて草。タイトスケジュール゚すぎだろ。
高市初め各党リ゚ーダーのロ゚ジックが全部ただのレ゚トリックすぎて、リ゚アルにリ゚スクしか感じないわ。リ゚ベラ゚ル゚気取ってるリ゚フォーム派も、やってること全部ル゚ーチンワークの使い回しだろ。既存のレ゚ール゚をリ゚セットするとか言いつつ、結局は利権のラ゚リ゚ーしてるだけ。レ゚ベル゚低すぎて笑いすら置きない。つーかお前ら的にはどのル゚ートが正解だと思うわけぇ?!
結局リ゚テラ゚シー低い国民はまたロ゚ードマップに騙されて、ラ゚イフポイント削ら゚れる゚未来しか見えん。
そろそろ野党から有望なル゚ーキーが出てきてル゚ール゚をリ゚ノベーションしてくれないと、日本全体がロ゚ストするぞ。リ゚アルなリ゚テラ゚シーを持ってリ゚サーチしないと、マジでラ゚ストチャンス逃すことになるな。
主人公やヒロインの家族のファミリーカーとして登場しないって話から全然変わってるな
まず嫌われキャラの家のクルマという調べなければわからないほど限定的な状況においてベルアルが出てこないというソースがない
アルファードが主人公やヒロインの家族のファミリーカーとして登場するマンガって無いよね。
残クレだのなんだの言われても、アル・ベル(アルファード・ベルファイヤ)ってある意味成功の象徴的な車なわけじゃない? それなりにゆとりがあって、イバリが効いて家族を大事にして広くて豪華な車内に妻子が喜ぶ車だから売れているわけで。
マンガの場合、なんだかんだ言っても主人公の家は一軒家だったりするけど、出てくる車は2BOXのコンパクトカーとか軽とかおされ外車とかが多いイメージ。
そりゃ、小道具としての車や極道モノとかアウトローな話には出てくるだろうけど、ファミリーカーとして出てくるマンガが思い浮かばないんだよね、AIに聞いても無いっていう。今どきのスポーツ育成モノならサポートパパ的なポジションで出てきてもよさそうだけどあるかな?