
はてなキーワード:プーさんとは
結婚後、なかなか妊娠できずしんどい期間の間に、仕事も仕事で嫌な事が連続して自分に価値を見出せなくなり、適応障害の診断が出て8ヶ月間休職した。その間に自己分析やらカウンセリングや認知行動療法で自分が心から嫌なところや求めているもの、どう行動すべきかを見定めようとしたけど上手くいかなかった。
やりたいことと、現実がうまくマッチしなくて、やりたい事を結局実行できずなあなあにしてしまった。
そうしてるうちに不妊治療の体外受精がうまくいって子を授かり、妊娠中に4ヶ月だけ仕事復帰し、ゆるく働かせてもらい産休に入った。
このように逃げるように産休育休に入った当時の私にとって、仕事復帰は遠い先の話でともすれば永遠に来ないんじゃないか、だからいいやどんなに辛くても。とりあえず出産と育児が楽しみ。と先延ばし癖の一種のような考えで思考の端に追いやっていた。
そこから出産し育児が始まったのだが、子は可愛いが自分に育児が向いていないと常々思っていた。
新生児の時はとにかく寝たくて仕方なかったし、無反応の赤子を相手に絵本を読むのもなんかしっくりこず、ひたすらプーさんのメリーを回していた。
少し動くようになって、笑うようになったきたらより可愛く感じた。
なぜか外(支援センターや児童館)にいると1人で遊んでくれるけど、家だとひたすら私がマンツーマンで対応しないと泣くので、真夏でも毎日支援センターに通っていた。側から見ると頑張ってそうだけど、自宅保育に耐えられなくて出ていた感じ。
そこからは1歳過ぎの今までもうずーっとママママなので、子が起きてる時はまじでなんもできないのでなるべく長く寝ててくれ。と毎日ひたすら祈ってた。
ここでふと気づいた。自分が「早く保育園入れて復帰したい」と思っていることに。
絶対死んでも嫌だった仕事復帰を望むほどに育児が辛かったのか?というとそうではないけれど、なにもかもが自分のペースでできず、ひたすら同じ本を何ループも読まされ、髪を引っ張られ身体をぺちぺち叩かれ、気に入らないことがあるとすぐ泣き叫ぶ子を余裕持って慈しむことに向いてないんだなと感じた。
でも私は子を生活の中心にし自分を滅することができる人ではなかった。
「今が1番毎日幸せ」とニコニコ笑って言うママ友に尊敬の念を抱くと同時に、自分が不良品の母親に思えた。
私はまた逃げるように仕事復帰し、この後はどう感じるのだろう。仕事と育児、どちらが自分にとってマシなのか、また別のところに逃げたくなるのか。
仕事復帰が怖い。
人から好かれたければ嫌われるようなことはしないし言わないというのは当たり前のことだし、それによって起こり得るであろう不利益を当然受け入れた上で自己責任に基づいて表現するものだと思うんだよね。
いわゆる表現の自由戦士側から「嫌うな」という要求が出てきたことなんてあるんだろうか?(「大勢の人がこの表現を嫌いというが、実際には嫌いという人は少数派だ」という反論はしばしばなされるが、それは「お前はこの表現を嫌ってはならない」という意味ではなく、「お前は多数派のつもりでいるが、実は少数派だ」という意味だろう)
いわゆる表現の自由戦士側が言ってきたのは「撤去すんな(させんな)」「差別すんな」「法規制すんな」とかでしょ? これはまさしく自由権とか平等権とかいった人権の問題じゃない?
私が思う「表現の自由が無い」というのは何か国に対して意見を表明しただけで急に拘束されて処刑されるみたいな独裁的な国とかの話であって、日本では発言によってある程度の不利益は受ける前提で自己責任の元で表現する自由は認められていると思うんだよ。
そんな「女性の権利が侵害されてるってのはアフガニスタンとかサウジアラビアとかの話であって、日本では完全な男女平等が成し遂げられているでしょ」レベルの話をされても困るというか……
たとえば、地方政府がBL漫画を「有害図書」に指定したせいで女性漫画家が作品を出版流通のルートに乗せられなくなった、とか、女性アーティストが自分の身体の一部を象ったアート作品を作成して公開したら警察に逮捕されたとか、モデルのいないエロ絵をAIに描かせてそれを売ってたら逮捕されて実名報道されたとか、漫画の広告を新聞に載せたら国連機関から圧力をかけられたとか、地方議員が「犯罪を助長する」という理屈で圧力をかけて警察と女性VTuberのコラボを中止させたとか、そういうのは「不快を表明された」に留まらない表現の自由への侵害でしょ? 「不快に思われた」とか「嫌われた」とかではない具体的な実害が出ているよね?
そして、たとえば国際条約において「被害者の存在しないフィクションの児童エロ絵・エロ小説」を禁止する規定が設けられたり、欧米の一部の国ではそれらを作成・所持してるだけで逮捕されたりすることは、まさに現在進行系で先進国において表現の自由が奪われてる・侵されてる例でしょ?(日本は強い外交努力によって「非実在は取り締まらなくてもいいよ」条項をねじ込むことに成功したから、この件については表現の自由が守られてる方だけれども)先進国だから表現の自由の問題は存在しない、なんていうのは端的に幻想だよ。
あと、国に拠らない民間からの撤去要求を表現の自由への侵害とみなすか、という問題もあるけど、その理屈だとどうなるのかな? たとえば民間の弁護士さんとか学者さんとかが献血ポスターのイラストを強く問題視し糾弾して撤去させたり、右翼団体が従軍慰安婦の展示会に文句をつけて中止させたり、宗教団体を揶揄するような漫画が宗教団体からの抗議を受けて発売中止になったり、エッチなコンテンツを扱ってるサーヴィスがクレジットカード会社から決済を断られたせいで立ち行かなくなったり、そういった案件は「公権力のやることじゃないから表現の自由への侵害ではない」って言えるかな?
肉フェスやコミックマーケットの近くでヴィーガンの人たちが屠殺写真を掲げて抗議運動をしたことがあった。彼らはもちろん嫌われることは覚悟しているだろうし、彼らを嫌うことには何の問題もない。でも一部の人は「こういうのって禁止できないの?」という素朴なお気持ちを吐露していた。表現の自由を侵したいという素朴なお気持ちは、いつだって私たちの身近にあるのだ。だから私たちは、警戒してもしすぎることはない。「屠殺写真」が他のものに変わり、肉フェスが別の場所に変わる未来は、意外と遠くないかもしれないのだから。
書いた直後はぜんぜん伸びなかったのに今になって100ブクマ超えとかどういうことなの……やはりホッテントリは水物。
「出版差し止めを要請するのは言論弾圧ではない」という意見がよくわからない。言論に対する自殺教唆や脅迫だと思うが。「まさか本当に死ぬとは思わなかった」ととぼける立花孝志みたいな主張に見える。
まあ「他人に向かって『死ね』って言うこと自体は殺人じゃないよね」って言われたら「そうですね」って話にならざるを得ないと思う(言葉それ自体に殺傷能力があるわけではないから)。たとえば「あべしね」みたいなのも表現の自由に含まれるというのは当然だろうし。それで人が死ぬことを望んでないとか言われても「は?」ってなるけど。
こ、公共の福祉……? 公共の福祉ってたとえば「凶器準備集合罪は集会の自由を制約しているが、凶器を持って集まる自由が制約されるのはやむを得ない」とかそういうレベルの話なんだけど、実在人物をモデルにしたわけではないエロ絵やエロ小説を平和的に作成したり所持したりすることを法規制することが、公共の福祉……? 他人の人権への侵害やそのおそれがどこにもないのに? エロ関連になると自由や人権をかなぐり捨てるひと多すぎて怖い。
表現の自由とは、公権力から言論統制されない検閲を受けないといった自由を定義している。だから、その自由があるといって何をしてもいいわけではない。行動の自由があっても人を殴ってはいけないのと同じ。
素晴らしい危害原理の要約ですね。我々には行動の自由はあるが、しかし、他人の自由や権利を脅かすことは認められない。逆に言えば、我々には他人の自由や権利を脅かさない範囲で最大限の自由がある。J. S.ミル以来正統なリベラリズムの教義です。ところで殴る蹴るのような行為と異なり、文章や絵の発表は「それ自体では」誰の何の権利も侵害していないことは明白ですね? つまり、原則として表現はすべて自由であるべき、という結論がリベラリズムからは導かれるわけです(著作権侵害とか誹謗中傷とかそういう個別具体的な権利侵害がある場合を除いて)。したがって、完全なフィクションのロリペド絵を取り締まるカナダとかの欧米諸国はリベラリズムの原則に背いている、という結論になります。
突き詰めると独裁国家の場合独裁者が、民主政の場合、多数派がこの表現は駄目と言ったら法律で禁止されないか?例えばアッラー神の冷やかし、プーさん、小学生位の裸、毀損された死体、日本では性器とか。
事実としてなら、はい、そうですね、独裁者や多数派が「この表現は駄目と言ったら法律で禁止され」ます。ただし、それは不正義です(他人の財布を掏り取ったり他人をナイフで刺したりすることも物理的には可能(あなたや増田もやろうと思えば今日にでもやれること)ですし、それを行っているひとや行ったけど罰せられていないひとも大勢いるのは事実ですが、それは不正義ですよね?)。
ゾーニングを徹底すればって条件付きで許されているものを誰でも見えるとこに出すがちょいちょい現れる 1人のオタクから言わせて貰えばそういうの本当にやめてほしい
まずもってあらゆる表現は自由なのであってほんらい「許し」は必要ないんですよ、っていうところから説明しないと駄目ですか……?
中国がクマのプーさんの検閲を行うようになった背景には、主に以下の理由が考えられます。
プーさんの丸みを帯びた体型や特徴的な表情が、習近平国家主席に似ているとネット上で話題になったことがきっかけです。この類似性が、習主席への風刺や批判に利用されることを当局が危惧したと考えられます。
プーさんを使った風刺や揶揄は、単なる比喩を超えて、中国共産党の権威や習主席への挑戦を象徴するものと見なされるようになりました。当局は、このような表現が社会不安や政権への不満を煽る可能性を懸念しています。
中国政府は、インターネット上での情報の流れを厳しく管理しており、政権に批判的な意見や情報の発信を厳しく取り締まっています。プーさんの検閲は、この情報統制の一環として行われていると考えられます。
習近平国家主席とオバマ大統領の並んだ写真をプーさんとティガーに置き換えた画像が拡散された。
習近平国家主席と安倍晋三元首相の握手をプーさんとイーヨーの握手に置き換えた画像が拡散された。
習近平国家主席のオープンカーに乗っている姿をプーさんが車に乗っている姿に置き換えた画像が拡散された。
これらの画像が、習近平国家主席を風刺し、権威を貶めるものとして受け止められたため、中国政府はプーさんの画像や関連する投稿をインターネット上から削除するなどの措置を取ったのです。
プーさんの検閲は、中国における表現の自由の制限や、権力への批判に対する監視の強化を示す象徴的な出来事と言えるでしょう。また、中国政府が国民のインターネット利用を厳しく監視し、情報操作を行っているという事実も浮き彫りにしています。
プーさんの検閲は、中国国内のインターネットに限られたものであり、海外では自由にプーさんの画像や情報にアクセスできます。
プーさんの本や玩具が全面的に禁止されているわけではなく、上海ディズニーランドなどではプーさんをテーマにしたアトラクションが運営されています。
中国におけるクマのプーさんの検閲については、以下の記事が参考になるかもしれません。