
はてなキーワード:ブルースとは
https://anond.hatelabo.jp/20250107165457
松本孝弘が予定していたB'z主催の対バンライブを体調不良で欠席した。6月のことである。(その後、医師の指導のもとアンコールだけ飛び入り参加)
松本が自身の体調不良でライブ参加を取りやめた事はこれまで一度もなかった。大昔のインタビュー(明石昌夫のYoutubeだったかも)で「昔はインフルエンザでもギリギリまで点滴してライブ出てたよね笑」みたいな発言をしていたくらいだ。
松本孝弘はとにかく仕事に厳しい。ミュージシャンっぽくないほどに仕事人間である。言い変えれば「お金が発生する以上は最高のものを提供する」ことにずっと全力を注いでいるタイプ。小室哲哉にも「まっちゃんは商人だからね(笑」と評されたこともある。職人であり、商売人でもある非常に稀有な存在だ。
そんな人なので、既にチケットが発売されてしまったライブを中止することは考えられなかったはず。それにも関わらずライブ不参加を決定した事の重大さにファンはかなり衝撃を受けた。
体調不良の影響は表立ってはこの対バンライブだけだったが、断片的な情報から裏でもかなり混乱があったように見える。
昨年の紅白直後のスポーツ新聞のインタビューで、現在敢行されているドームツアーと新作発表をアナウンス。しかしその後は半年以上も新情報はなかった。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2025/01/03/articles/20250103s00041000175000c.html
具体的な日程が発表されたのは8月頭、初日の名古屋までは3ヶ月しか空いていなかった。ファンには吉報だったが、3ヶ月では日程調整の効かないファンも多かったはず(6月の対バンライブは昨年12月にアナウンス)
さらに新作アルバムのリリースはツアー初日の数日前、タイアップなどで先行公開されていない曲(=アルバムでしか聞けない曲)は全曲セットリストから外れるなど異例づくしのツアーになっている。
とある曲で松本が休養せざるを得なかったことへの思いを稲葉が綴ったとファンの中では噂されているが、本当にそうであれば発売日の半年足らず前まで制作を続けていたことになる。
またレコーディングには海外の有名ミュージシャンが起用されるのが常だが、今回はレギュラーメンバーを除けば昨年松本のソロ活動で来日したであろうマット・ソーラムが参加しているのみ。アルバムの制作としてはかなり切羽詰まった状況だったことが推察される(全部妄想です)
商売を考えれば年末の紅白出場から6月の対バン→直後にアルバムとドームツアーアナウンス(さらにアリーナ追加)あたりが理想的なアプローチだろう。結果として松本の体調を考慮し、アルバム制作・発売をギリギリまで伸ばし、アリーナは全キャンセルして年内はなんとかドームツアーにはこぎつける。ドームツアーの前に予定していたアリーナ公演は拡大して来年に持ち越した、くらいの調整があったように見える(本当に全部妄想です)
今回のツアーは東京ドーム初日に参加したが、松本は演奏に集中、ライブパフォーマンスは稲葉がカバーする場面が多かった。特に本編ラストの曲は、喉の負担を考えて封印していたであろう見せ場のロングトーンを披露。初見も古参もまとめて圧倒した。
演奏面では比較的負担の少ない過去のリフ中心のアッパーソングが多く、速弾きやシビアなカッティングが必要な曲はほぼ皆無。また松本が一曲まるまる参加しないバラードアレンジもあった。
互いのソロ曲でどちらかがステージにいないパターンはあったが、B'zの曲を松本抜きで披露したケースは記憶にない。
そして松本のMCは元々ドームツアーでは少なめだが、それでも大病だったことが窺える声色になっていた。稲葉のMCでも松本への思いに熱が入る場面があった。
「(我々がここに立っていられるのも)当たり前じゃないんです」と、客席に訴えかけたのだ。もちろんその後は何万人という観客が一同に会することへの感謝も述べられたが、稲葉がライブでシリアスな心情を吐露することはかなり珍しい。
(この日は座席の件やPA・特効のミスなど、「らしくない」瞬間も散見されたがここでは深く触れない)
実は前回の増田の後、18年前に取得していたファンクラブ会員に復帰して今回のツアーチケットをとった。松本の不調を予見していたわけではないが、結果として紅白出場の大サービスに乗っかって復帰してよかったように思う。
二人組のバンドとはいえ関係者を含めればそれなりの中小企業のような組織になっているわけで、おいそれと辞めるわけにもいかない事情も想像できる。
それでも彼らのパフォーマンスを見れば、今できることに全力に取り組む姿勢に自分の人生の襟を正したくなってしまう。
「B'zはパワフル」なのは間違いないパブリックイメージだが、例えば先に述べた松本なしのバラードアレンジは、あまりB'zでは見せてこなかった稲葉の新しいボーカルスタイルを提示した。松本のギターも近年、クリーントーン中心のブルーススタイルの演奏はポップミュージックでは並ぶものがいない。
なんなら二人だけでブルースアレンジのライブやってもいいんじゃないかと勝手に想像している。The Wild Windとか今の年齢だからこそ似合う曲もたくさん思いつく。
衰えではなく変化と捉えてしまえば、日本最大級のバンドの行く末は誰も予想がつかないステージに入ってきているように思える。
という質問の真意が分からないところがあるけど、勝手にそれを自分側で類推すると、凄く良い質問というか、凄く難しい気がする…😟
例えば、はなわさんがいて、ベースギターをデケデケ弾きながら、歌ってるとして、基本ルート弾きとメロディーが鳴ってる
でも、コードを感じてる…😟
ベースギターがコードのルート音を弾いてるから、みたいな回答もどうかと思う、というか正確ではないというか…
ルートを弾いてない、はあんまりないにしても、ルート以外も複雑なベースフレーズを弾いてる場合がある
ベースからコードを類推しやすいは、耳コピテクニック寄り過ぎる気がする
ペンタトニック+ブルーノート、ブルーノートはマイナーからの借用、
ブルーノート込みのペンタトニックを弾くと、なんとも言えないブルージーな感じがある
単音でブルースっぽいフレーズを弾くのと同じ感覚を、ジミヘンコード一発で感じることができる
何らかの音の並びを一括して、コードトーンで構成されたものがコード…、トートロジーだな…😟
はなわの例からも、聴き手の人間の脳の中で、これはこういうコードだな、と感じる何かが用意されているようにも思う
もちろん、自分は音楽の素養がない、と思ってる人はいる、コードをジャーンと聴いても、コードトーンを正確に答えられないと思う
しかし、コードトーンは分からなくても、漠然と、こんな感じ、と思っているのではないだろうか?
そもそも、コードがない、コードを当てはめられない曲?は存在するし、ただのホワイトノイズにコードを当てはめることもないと思う
考えてみた。以下を聞くだけ。
〜の曲〜について、以下を踏まえて解説してください。
・フックとなる特長と、曲全体の印象
・曲構造の特徴
・コード進行の特徴
・ビートの特徴
・曲が発表れた当時におけるインパクト
・対象曲から想起される、関連アーティスト、影響元のアーティスト
↓Beatlesの「Get Back」についてこのプロンプトで聞くと
以下では、**The Beatles「Get Back」**を、楽曲分析・歴史的背景・影響関係まで含めて総合的に解説します。
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■ フックとなる特徴と、曲全体の印象
• **ループ感の強いコード進行(A7ワンコード中心)**と、ドライブ感のあるシャッフル気味のビートがフック。
• 全体としては「軽快だがタフ」「ジャム感のある粗削りなロック」という印象。
• 当時のビートルズとしては珍しく、**“引き算のアレンジ”**によるライブ感が際立つ。
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■ 曲構造の特徴
•イントロ – ヴァース –コーラス – ヴァース –コーラス –エンディング という非常にシンプルな構成。
•構造上の特徴は、ヴァースとコーラスのコードがほぼ同じで、メロディと歌詞によってセクションを分けている点。
•1969年のビートルズとしては珍しい、ブルース寄りのワンコード型ロックンロール。
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■コード進行の特徴
基本は下記の通り:
• A7ワンコードで進む(キーはA Mixolydian的に解釈可能)
•コーラスで D → A7 と行くが、非常に短く戻るため、実質ワンコード感が維持される
結果として、
が強調されている。
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• ほぼライブ録音に近いテイクで、Rooftop Concert(屋上ライブ)演奏が公式版として使われた。
• ジョンのギターのカッティングはゆるいノリで、ポールのベースは跳ねるグルーヴを担当。
●ビリー・プレストンのエレピ(FenderRhodes)が決定的
• ロールするようなエレピのフレーズがサウンドを“ブラック・ミュージック寄り”にしている。
•プレストンの参加は、ビートルズ内部の緊張を和らげたといわれている(トリビア)。
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■ビートの特徴
• R&B由来の**「裏」で跳ねるノリ**
•リンゴのドラムはハイハットの刻みが緩い「ロックンロール+R&B」ハイブリッド
•現代的に言えば**“スワンプ・ロック”**に寄ったグルーヴ(CCR的とも言える)
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■歌詞は何を表すか
「ジョジョ」「ロレッタ」といった架空のキャラクターを通じて、
また、一部のデモで語られた社会風刺(1968年の移民問題を揶揄した歌詞)も背景にあるが、公式リリースでは中立的/寓話的になっている。
ポール本人は「深い意味ではなく、ファニーな物語」と語ることが多いが、時代背景が透けて見える作品。
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■ 曲のジャンル
複数の影響が混在:
•ロックンロール
• スワンプ・ロック
特にビリー・プレストンの参加によって黒人音楽寄りのフィールが強くなった。
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•ポールは「R&B /ロックンロール的な原点回帰」を狙った曲。
• “Let It Be /Get Back sessions”の精神である**「Get back to basics(基本に戻る)」**そのものを象徴。
•ビートルズ末期の作品の中では珍しく、明るく、軽快で、ポジティブなムードを保った楽曲。
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■ 発表当時のインパクト
インパクトとしては:
• 「ビートルズがルーツ・ロックに回帰した!」と強く受け取られた
• 深刻化しつつあったビートルズ人間関係が、外部のビリー・プレストン参加で改善したことが話題に
•サウンド的にも、複雑なスタジオ実験に傾いていた後期ビートルズからの大きな転換となった
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■ 「Get Back」から想起される関連アーティスト/影響元
影響元として考えられるアーティスト
•Little Richard /Chuck Berry / JerryLee Lewis(ロックンロール)
•Ray Charles,Billy Preston(R&Bピアノ)
間接的に想起されるアーティスト
•CCR(Creedence Clearwater Revival)
•Leon Russell
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直接的・間接的に:
•1970年代のルーツ回帰ロック全般(カントリーロック、スワンプロック、シンガーソングライター系)
• Rolling Stones『LetIt Bleed』『Sticky Fingers』などにみられるルーズなR&B感
•ポール自身のソロ作品(特に「Bandon theRun」「Junior’s Farm」など“軽快ロック”部分)
•Oasisなど90年代ブリットポップにも引用的影響(脱力系ロックンロールのスタイル)
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• “The Beatles withBilly Preston”名義でリリースされた唯一のシングル。
•屋上ライブでは、警察がビルに乗り込むところまでが映像作品に残り、音楽史の名場面となっている。
• 初期デモでは、**移民問題を皮肉る“政治的パロディ歌詞”**があった。
•レノンはこの曲で Epiphone Casino を使用し、ポールは Höfner 500/1ベースを使用。
•ビリー・プレストン参加の経緯は、ジョージが米滞在時にプレストンと再会したことがきっかけ。
例えば、凄い人が何かやってて、それを見て、スゲーで終わっちゃうことってあると思うんだけど、
とりあえず、家に戻ったり、時間作って、無謀にもそれをやってみる、
まあ、そこでいきなりできる、ってことはないと思うんだけど、
次にGoogleで検索したり、今なら生成AIがあるんで、それに質問を投げてみる
Google検索の場合は、まず出てきた文章を読んで、それを論理的に理解して、そこからあらたに分からない単語とか調べる、
生成AIはもっと便利で、疑問に思ったら、それを率直に投げてみればいい
ただ、AIはウソを言うことが多々あるんで、そこで論理的に考える必要がある
なんか間違ってない?って返すと、ごめんなさい、それは東京の~薬局じゃなくて、札幌の~薬局の話でした、
みたいなのを平気で返してくるし、それレベルのことを、もっと巧妙に返してくることがあるので、油断ならないんだけど、
でも、ここでも論理的に思考しなければ、AIのウソを見落としてしまう…😟
話を戻すと、上記のような過程を通して、その天才が達成したことへの道筋が見えてくる
どうやら、A→B→Cみたいな工程があって、そのA、B、Cを各個撃破するなり、AができなければBができないなり、
Aを達成するためには、A1→A2→A3がある、みたいなものが見えてくる
そうすると、意外と天才の近くまではたどり着ける、毎日練習して筋トレみたなことやってれば、
超天才の演奏のここらへんまでは近づけるんじゃないか?というのは見えてくる
まあ、10年後ぐらいになっちゃうかもしれないけど、これは毎日の練習が大事、というのと、
こればっかりは、この人の本当に天賦の才能だわ、ねんでこんなの思いつくんや?
ネットで、コメントとかでスゲースゲーとだけ書いてる人がいるけど、
その努力で誰でもできることと、その天才にしかできないこと、が混ざってるので、
努力でできることに関しては、スゲーと思ってるだけのあなたにもできます、断言できる、あなたにもできる
私にもできたんだから…😟
まあ、人間得手不得手はあるんで、私より不器用な人もいるかもしれないけど、
理詰めで考えれば、努力で天才のここまで近づける、というのは分かるようになる
負け惜しみを言うなら、そこから先は自分で考えるべきであって、それが個性何だと思う
天才の領域に入れない、こんな音選ぶなんて…、みたいに思うわけだけど、
そっから先は、今度は自分で自分の好きな音を好きに選べばいいわけで、
その天才と同じ音を選んでもいいし、別の音を選んでもいい、
同じような状況になって、天才と同じ判断ができる必要はもうなくて、
そっから先は本当の意味での感性ですよ、素直に自分がこれ!というのを選ぶべき…😟
なんでこんな文章を書こうと思ったかって、某プロのギタリスト、超有名な方ですけど、
YouTubeとかで独学するのは良くない、みたいに書いていて、まあ分からんでもないんだけど、
あくまで、論理的思考ができる人は、独学でかなり行けるはずです、スクールにお金を落とさなくていいし、
病院もそうだけど、医師とか講師と、~時に雑居ビルで、病院で、お会いします、という約束をするわけで、
これを無断キャンセルするなんて、仕事でも待ち合わせ場所に時間に来ない人と同じなわけですよ、
でも、めんどくさくなったり、今日は忙しい、仕事終わった後にクリニック行きたくない、とかなる方が普通なわけで、
もちろん、その日に処方された薬を飲まないと駄目、みたいな人は、ちゃんと病院に行った方がいい、
それで倒れた、来なかったから悪いんだろ、みたいな人を病院で多々患者の自分も見てるんで、
そういう人は病院に来いなんだけど、
話を戻すと、専門学校とかスクール通わなくても、今の時代はコンテンツが溢れすぎてるし、
生成AIもあるから尚更で、商売の邪魔するようだけど、かなりのとこまで行けます
ぶっちゃけ、プロにはなれない、プロになる必要なんてまあないわけだけど、セミプロレベルには到達できる
できる人が一発でアドバイスすることで、急に改善する、自分もスポーツで多々あります、
これは習うべきだし、お金の力ってスゲーと思っちゃうんだけど…😟
でも、今作業しててちょっと思ったんだけど、プロとか講師とかで、明らかに間違っていることを言う人もいなくはない、
あと、偉い人はこう言ってるけど、自分はなんか違うんだよなあ、みたいなのはある
それこそ、その人が例えばメタルはクソ、ロックなんてクソ、黒人ブルースまでは許す、みたいな人だったりすると、
もう偏見なわけですよ、こういう楽器は許さない、黒人と同じフレーズでも、こういう音は許さない、みたいな…😟
ネットでコンテンツ漁ってる分には、この人の言うことは信用できる、この人の言うことはどうかな、
もちろん、近年の陰謀論とかも同じだと思うけど、そこで論理的に考えて、
考えようによっては、陰謀論と思われることの方が正しい、ということもなくはない、
なくはないけど、世界中の天才も含めて考えた結論に対して、俺の方が正しいと思う、はなかなかないと思う
権威主義とかじゃなくて、ちきなんとかじゃないけど、自分の頭で考えた上で、
アインシュタインは間違っている、はまあ正しいにしても、そこから先の今の量子力学にケチをつけるというか、
まあ、正直、俺は分からん、真面目に本読む時間、学生だったら確保したかもしれんけど、今は物理的、精神的に無理…😟
近頃、とにかく死にたい。
毎年10月から11月はこういう感じになるので、季節のせいであることは分かっている。12月になる頃にはだいたいなんかなんとかなってるから大丈夫。
でも年々ひどくなっている気もする。それに、毎年ウワーッとはなるにせよ、そもそもなんでこういう死にたい感情に襲われるかがよく分からなかったので、何か直接的な原因がないものか、人生についてちょっと考えてみた。
元々社会福祉とか一次産業とかインフラとか配送業とかに憧れがあった。誰かの生活を支える、縁の下の力持ちってかっこいい。でも増田は危機管理能力がない。忘れ物は多いし、ケアレスミスも死ぬほどするし、どんなに我慢しようとしたって余計な改善をしようとして結局改悪してしまう。保守運転とか一番苦手な分野だ。トラックどころか自分の体一つだって乗りこなせない。事故を起こさないため、誰かを殺さないため、そういう職業にはつかないほうがいいと思って生きている。
だから人から金を搾取することだけを考えているカスみたいなサービスの下請けで、自分一人を養えるだけの端金をもらって、犯罪を起こしてないからそれでいいのだと必死に言い聞かせている。上手く出来なくてもカスの弊社が困るだけだから、いくらミスしても罪悪感はない。
だがこれは直接死にたい原因ではない。やっとることはカスのサービス形態ではあるが、ある程度転職にも使えそうな汎用的な職能の成長は出来るし、上司や同僚は増田の手助けや活躍を褒めてくれるし、そういった点でやりがい的なものがないわけでもない。業務自体はそこそこ向いてると思えるし、人間関係は良好と言って良いだろう。金額面も、自分一人を養えるくらいの金額は稼げているし、それによって欲しいものを我慢したり、望んだ生活を手放さなければならないほどではない。元々欲は薄い方だ。少ないながら貯金もしているし、いざとなれば親や友人を頼れば金がなくても多少の間はなんとかなる。労働自体は憎むほど忌み嫌ってるわけではないから、生涯現役でも全然構わない。
金銭や将来の不安、職場の人間関係の悪化などがあって死にたいわけではない。
友人関係も悪いわけではない。
確かにたびたび「人間じゃない」とか「常識的な気遣いが足りない」とか「普通考えれば分かることがどうして出来ないのか」とか言われたりもするが、それでも根気強く付き合いを続けてくれる友人ばかりだ。何も言わずに去られるより全然マシなので、そういう耳に痛い言葉も言ってくれるだけでありがたい。一度も傷つけたことのない、あるいは傷つけられたことのない友人は確かにいないのだが、それでもみんな大事な友人だ。
そういう大事な友人にご迷惑をおかけすることで罪悪感で潰れそうになることはあるが、例えば無茶な振り回し方をしてきたり、金銭を貸せとやたらたかって返さなかったり、そういうガチのトラブルに発展するような友人諸兄ではないし、増田もそういうことをしないよう、礼節を忘れないように重々気をつけている。それでもたまにうっかり日々の会話で地雷を踏んで怒らせることはあるものの、友人同士が「それは言い過ぎ」とか「お互い様」とか仲裁してくれるので、増田自身の尊厳も守ってもらえていると思う。友人とボロカスの喧嘩をして死にたい夜もないことはないが、それは大抵一時的なものだし、直近はそういう感じで険悪になってる相手はいない。
父も母も理屈で話せば分かる人であるし、親戚一同もなんだかんだ元気に暮らしている。不謹慎なニュースを見て爆笑する叔父や、身の回りの世話を全部してあげないと心配で夜も眠れない叔母、とにかくプライドが高く他人を見下したり注目を集めたりしないと気がすまない従兄弟、信仰の押し付けはないものの新興宗教にどっぷり献金している祖父母など、アクが強くはあるが、こちらに実害はないので可愛い範囲で収まるものだ。肉親に怒鳴ったり、暴力を振るったり、金銭トラブルを持ち込んだり、結婚を強要したりする人はいない。
まあ、両親に恨みがないと言えば嘘になる。幼稚園の頃に甘えようとすり寄ったら「は?鬱陶しい、ひっつくな」と引き剥がされたり、小学生の頃いじめられていた時に増田の言い分を一切聞かず「あなたにも悪いところがなかったかよく考えてみよう?」と3時間近く諭してきたり、愛着の面では問題があったのは確かだ。しかしそれは増田に対して愛情がなかったというよりは、それが彼らの愛着の限界なのだ。飼っているウサギすら、部屋の中で凍死しかけていることに気づかなかった両親である。それを思えば、衣食住を保障してくれたのは事実だし、危険なことは叱ってくれた。大学まで学費も出してくれたし、両親の行きたいところにではあるが旅行にもそこそこ連れて行ってもらっていた。彼らにしてはだいぶ努力していたのだろうと今なら分かる。
だから半年に一度程度は顔を見せに帰省しているし、それがめちゃくちゃ苦痛というわけでもない。全ては過去のことであり、無、凪、平熱、そういった単語がふさわしい関係性だ。これもまた、直接の原因ではない。
増田はXジェンダー、リスロマンティック、アセクシャルと三拍子揃った人間だ。その上、それでもどうしても起こる性欲の発散方法は「対象年齢・性別を問わないリョナ創作」と来た。絶対に世に出してはいけない、リアルの人間に向けるなんて以ての外という嗜好をしている。
幸いなことに、告白されたことも、したいと思うほど惹かれた人も人生にいない。誰かを傷つけてしまうくらいならそれでいいと思っている。「恋愛を理解できないのは正常ではない」と思って恋愛小説や恋愛漫画を読んでは、イーッ!分からん!と一人で暴れていたこともあるが、それは「普通の人生を送ること」に固執していたからであって、もう普通じゃなくていいやと開き直った今は、一人で生きていく覚悟がとっくに出来ている。
だから恋愛ができなくて人生つまんなくて死にたいというわけでもない。
趣味はある。
増田は創作が好きだ。物語を書くのが好きだ。随筆も、批判も、絵も、彫刻も、歌も、踊りも、とにかく何かを表現することが好きだ。それは自分の中にある感情や思考を(作品に限らずこういった文章などでも)表し、発散することで一時的な沈静が見込めるからだ。だから誰かのために書いてるわけじゃなく、褒められるために書いているわけでもなく、ただひたすら自分の衝動を、犯罪ではない範囲で発散できることに喜びを感じている。
また、他人のそういう一面を見るのも好きだ。孤独ではない、と、他のどんな娯楽よりも、どんな脳内物質の分泌よりも、最も確かに感じられるし、癒されるからだ。みんな苦しくて孤独なのだと実感できるからだ。そしてそれらを十全に納得のいくまで突き詰めようと、他人の創作物をしゃぶりつくしたり、自分の表現を究めたりしようと思うと、百年に満たない短い人生を食いつぶすには、十分すぎるくらい時間がかかる。
これも死にたい原因ではない。むしろ趣味のことを考えれば、死んでいる場合ではないのだ。
これと言ったトラウマもない。
いや、ないことはない。小学校の頃は確かに治安が悪かったし、その中で最も低いカースト層にいたのは確かだ。靴箱に砂を詰め込まれたこともあったし、掃除の時はちりとりに集めたゴミを引き出しにそのまま流し込まれたこともあった。濡れた雑巾を頭に投げつけられたこともあった。ドッジボールで執拗にボールをぶつけられることもあった。体育の二人一組ではいつもハブられていたし、仕方なしに増田を組まざるを得なかったやつは、増田の触れたところを校庭の土でこすって払った。まるで土のほうが汚くないとでも言いたげに。
クラスメイト全員敵だからいるわけがないのに、脅迫的に好きな人を聞き出され、最もいじめてきた回数が少ない人の名前をあげたら、翌日からそいつがいじめられ始めて、他人を好いてはいけないと思い知ったこともあった。給食着やテーブルクロスを、本当は持ち回り当番なのに毎週持ち帰らされて、親に「じゃんけんで負けた」「牛乳こぼした責任で」と嘘をついた。もちろんああいう感じの親なので「あんたはどうしてそうなんだろうね」と気づかれもしなかった。
「視界に入るな」「半径2メートルに近づくな」「菌が伝染るから(学級文庫・机・プリント・日誌・配膳皿などに)触るな」あるいはもっと直球に「死ね」も全部日常的に言われていた。学級崩壊でまともに授業が受けられなくて教育機会を損失して、その頃に本来学ぶべきだった分野は今でもちょっと苦手意識がある。毎年劇をやるはずの発表会では制御不能と判断されて、ペットボトルでお米を育ててみましたといううっすい内容を、誰がどこを喋るかまで一言一句ガッチガチに固められて発表させられた。自主性なんて言葉は死んでいた。若い新卒の教師は毎日授業で泣いていて、その頃にはとっくに泣き疲れて感情に蓋をしていた増田は、その涙を「煽るだけなのに」と冷ややかな目で見ていた。
カースト中の下だった傍観者クラスメイトと大学で再会して、一緒に「小学校の思い出」とかいうクソみたいなグループワークの授業を受けざるを得なかった時、給食の班机で菌が伝染るからとやられていたみたいに1cmあけて机を組まれた瞬間、増田の心にヒビが入り、割れ目が出来て人格が四つに分かれしまい、今も元に戻らなかったりしている。そういう意味では、たしかにトラウマと呼んでもいいのかもしれない。
それでも直接的な殴る蹴るという暴力は振るわれなかったからマシな方だったと信じている。記憶があり、はっきりと思い出せて、これだけの内容を泣かずに書けるようになっただけかなり寛解してきている。それに、当時の自分だって箒で殴り返すなどそこそこやり返したり、いじめっ子と同質になって増田よりもっとカーストの低い支援学級の子に対して、自分にされたことをそのままやり返すみたいにしていじめたりだってしていた。当時飼っていたハムスターも憂さ晴らしに虐待していた。弱いものがさらに弱いものを叩き、ブルースは加速していた。そういう感じでなんだかんだ適応して元気にやっていた。
それらへの後悔に苦しみながら、同時にその延長で今も友人にライン超えの発言をしたり、逆に踏み越えてはいけないラインを踏み越えられてもその場では分からなかったり、自覚がないままキレ返してしまい制御不能に陥ったり、暴力や脅迫や支配を伴わない合意の上での性行為では興奮できなかったり、記憶は共有しているものの人格が割れてしまい解離性同一性障害まで秒読み状態だったりと、後遺症は色濃く残っている。
けれど、でも犯罪をしないで済むくらいの範囲で誤魔化しきれているし、それ以上を望んだりもしない。だからこれもまた、今の増田をむしばんでいる死にたさの原因ではない。その時期はとっくに乗り越えてあり、過去は過去、今は今として整理がついていて、そういう自分のあり方を受け入れている。
人生を構成するだいたい全部に、人並みの不満や後悔はあれど、満足していないわけでもない。人間関係にも金銭にも将来にも不安はない。上を見ればきりはないが、下を見てもきりがない。自分の人生は自分のものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
私は私だ。
なのに何故こんなにも死にたいのか。
胸を打つこの衝動は何か。
線路に飛び込め、七階から落ちろ、溺れて死ね、とにかく死ね、そう囁き続ける声が内側に蔓延るのか。
思春期という言葉を藁のように握りしめて、この衝動的な嵐が、年齢を経れば終わってくれると、ただ若さ故なのだと、そう信じてしがみついてきたのに、どうしてアラサーになってもまだ衰える気配がないのか。
この衝動こそが死にたさの原因であり、結果だ。
この自己こそが死にたさの真の原因ではないのか。
本当はやりたい仕事を諦めて現状に甘んじている?
友人と上手く付き合うことが出来ない?
両親の愛着が足りなかった?
趣味が実質逃避になっている?
過去に嫌なことがあって未だに引きずっている?
全ては結果に過ぎない。
最初に存在しているこの「自己」こそが引き起こした、必然の結果に過ぎない。
死にたいのは、嫌なことがあったのが原因じゃない。
嫌なことを引き起こすような自分に全ての原因があるということから、いよいよ目を逸らせなくなってしまったからだ。
増田はずっと、衝動、癇癪、叫びのような化け物を心に飼って、共に生きてきた。
こいつを野放しにしたら、とてもじゃないが人間社会では生きていけない、というかまず肉体が耐えきれなくて崩壊するような、触れるもの全てを敵と認識する、爆発的なエネルギーだけがひたすら渦巻いている、自壊を厭わない衝動の化け物。
その化け物を飼い慣らすことだけが、増田の今の全てを形作っている。
仕事や友人の選び方、楽しめる趣味、思考、行動、言葉、その全部全部が、この化け物を静かに眠らせておくことだけに全力を注ぐように構成されている。
そしてそれが漏れ出てしまった瞬間、必ずトラブルが起こる。嫌なことは全てそうやって起きている。
そう、気がついてしまった。
両親、友人、そして過去の思い出は、一般的な社会に溶け込める人間たちが、その化け物を目の前にした時の、ごくありふれた正常な反応に過ぎない。
全ては結果なのだ。
思えば最初から、物心ついた時にはもう、そいつと一緒に生きていた。
その場の思いつきで突拍子もないことをして、危険を危険だと分かっていながら飛び込まずにはいられない、じっとしてはいられないという性質を、持て余していた。
両親が増田のことを「あんたのことはよく分からない」と困惑して言った日のことをよく覚えている。
友人が「増田は人間じゃなくて増田という生き物なんだね」としみじみ言った日のことも。
増田をいじめて泣かせたクラスメイトが「だってあの子が最初に嫌なことをしてきたんだもん」と言ったことも。
先生が「どうしてそんなことしたの?」と泣いている増田を問い詰めたことも。
「泣いていたら分かんないよ。先生悪くないよね?なんで先生のこと怒るの?」と寄り添いのかけらもない態度をとったことも。
そして増田はただ、嫌がらせをしようとすら思ってもいなくて、そうすることしか出来なかった、それ以外のやりようがあるなんて考えつきもしなかっただけなのだと、説明出来なかったことも。
よく覚えている。
それらは全部、増田がおかしかっただけで、みんなはただ、当たり前に困っていただけだ。
ただ、それだけだった。
よく分からないものは愛せない、未知は排斥する、ああ、そうだろうとも。それにしたって、みんなの方にだってもう少し上手くやりようがあるようにも感じるけれど、でも、人間は完璧じゃない。上手く出来ないことだってあるし、それを責めたってどうにもならなくて、仕方がない。
だからみんな、距離を取る。うん、まったくもって正しい。あなたが自分を守るために、増田に人生を破壊されないために、必要な距離だろうとも。
でも、増田だって、こんなのと一緒に生きていくのはもううんざりなんだ。
私は私と一緒に生きていくのが疲れた。
みんなみたいに、そっと距離を取ることができない。
ずっと近くにいる。
ずっと隣にいる。
剥がしようもなく側にいる。
趣味だって、ただそうすれば抱えた癇癪がマシになるからやっているに過ぎない。こいつから逃れられないから、仕方なく好きにさせてやってもいい場所を作っているに過ぎない。
本当は絵や文章なんか書かなくても気分が晴れるならそれが一番楽なはずだ。誰も傷つけずに、安心して一人で好きなだけ打ち込めるというだけの、苦しみから逃れるために必要なだけの、ただの麻酔だ。
「文章を書いたり、絵を描いたりで努力できるのはすごいね」と褒めてもらえることもあるけれど、違うんだよ。それをやらないとあなたに危害を加えてしまいそうだから仕方なくやっているだけなんだ。全然立派でも何ともない。犯罪者予備軍が犯罪をしないためにギャンブルや酒に溺れているのと一緒なんだ、これは。
厄介な人をあしらう術に長けた者たちだけが、周りに残っているのがその証左だ。
衝動性を逃がす以外のモチベーションはないから、創作で食っていこうとしてもクオリティにムラがあって仕事にならないのがその証左だ。
自分は化け物だ。
人間じゃない。
人間になんかなれっこない。
必死に身につけた人間性の全てが、衝動の化け物が眠る上に構築してあるというただ一点を理由に、崩れていく。
その眠る化け物が少し身じろぎするだけで、目覚めるまでもなく、増田の積み上げた全てを崩壊させる。
増田は自らの意思で人生を選択したのではなく、選択できる範囲の中で選ばされるしか出来なかった。
好きなもの一つ、「自分」の意志では決められない。化け物を起こさないようにごくごく慎重に、刺激しないものだけを選んでいる。
全部全部こいつのせいなんだよ。
化け物を一番殺したいのは増田なんだよ。
私の人生を全部めちゃくちゃにしてきて我慢ばっかりさせるような化け物を、一番憎んでいるのは私自身なんだよ。
両親を困らせたくなかった。
いじめられたくなかった。
恋愛が怖いと思いたくなかった。
友達を傷つけるようなことなんて、今だって一個も言いたくない。
なのに全部できない。
全部全部、壊すのは増田だ。
私なんだよ。
死にたい。
もう、こいつと一緒に生きていくことに疲れてしまった。
何もかも破壊して、めちゃくちゃにして終わらせたいという衝動が、朝も昼も夜もずっとずっと苛む。
増田にできるのは、この化け物を思い通りにさせず、誰をも傷つけることなく、自らの死以外の罪をこの肉体に起こさせないことだけなのではないか、という気分になってくる。
それよりも、慰めてくれた誰かに牙を剥きたくない。
恩を仇で返したくない。
そんな気持ちのほうが、ずっとずっと大きく膨らんでいってしまう。
それは誰かを不幸にするから。
愛されないまま死んで忘れられることだけが、増田にできる唯一の社会貢献だ。
せめてそれだけはさせてほしい。
許してほしい。
ごめんなさい。
生まれてごめんなさい。
ホワイト・ストライプスがロックの殿堂入りを果たした。デトロイト出身のこのデュオが、ジャック・ホワイトとメグ・ホワイトの二人だけで鳴らす、あのシンプルでいて強烈なガレージロックで世界の音楽シーンを席巻してから、もうそんな月日が経ったのかと感慨深い。
私が彼らを初めて知ったのは、ジム・ジャームッシュ監督の映画『コーヒー&シガレッツ』だった。モノクロの画面の中、いとこ同士という設定で出演していた二人が印象的で、その少し気だるい雰囲気と、テスラコイルについて語る不思議な会話が今でも記憶に残っている。劇中で彼らが醸し出す独特の存在感に惹かれ、すぐに彼らの音楽を聴き始めた。
初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。ギターとドラムだけとは思えないほどの音の厚みと、原始的なブルースの衝動が融合したサウンドは、まさに唯一無二だった。
そんな彼らの功績が「殿堂入り」という形で認められたことは、ファンとして素直に嬉しい。最近の式典ではジャックが一人でスピーチを行ったようだが 、いつかまた二人が並ぶ姿を見られることを、心のどこかで願い続けている。
とにかく、本当におめでとう。
THRの価値が分かってきた
チューブにしろトランジスタにしろ、アンプはそれなりに音を出さなきゃ真価を発揮出来ない(ここでいや違う、となる人にとっては大して価値がないのかもしれない)
爆音で鳴らす気持ち良さという所を抜きにして、家でせいぜい2か3で弾いててもギターやペダルのキャラクターを味わいきれない
じゃあアンシミュにしよう
これなら実音量出さなくても、イイ感じの音に出来る
でもいちいちDAW開いたり、そもそもif持ってなかったり、ロクなスピーカーが無かったりでめんどくさいね
そもそもソフト揃えるにも金かかるし、フリーで色々集めるのも面倒だし、IRとか良く分からんし
そもそもアンプでのボトルネック解消が目的なのに、ようわからんのでしょーもない音になったら本末転倒だし
そこにコレ一台で済むTHR!という所まで分かった
くらいに思ってた
かなり揺れている
ファズフェイス!ナポレオンジャケット!斬新すぎるプレイにレオフェンダーもお冠!早逝!ザ・ロックスター!
みたいななんとなくのイメージだけでジミヘンかっけ〜くらいに思っていたけども、どうにもこの人のかっこよさは自分が今まで見向きもしてこなかったブルース的なものに秘訣があるような気がしてきた。
パープルヘイズなりvoodoo childなり、有名どころを聴いているだけでもそう思う。
Like a Rolling Stoneのカバーなんか特に。
実際のところブルースというジャンルの定義は全く分かっていないけども、パブリックイメージ的な、コテコテのブルースという感じがする。
罪人たち観た時も、物語は抜きにして単 純に音楽としてはやっぱりブルースには惹かれないなと思ったのに。
それなのにかっこいい。
単にギャリギャリの音でブルースをやってみるというのがかっこいいのか。
Voodoo Childなんて、主題を弾いてちょっと暴れてまた主題に戻って、とひたすら同じことやってるだけなのにかっこいい。
ブルージーだったり、いわゆるロック的なフレーズだったりと手を変え品を変え、その反復が何分間かの曲になっている。
この引き出しの多彩さもかっこよさの秘密なのか。
最近はピアノ教室やリズムゲームみたくただTAB譜をなぞるだけじゃなく、ちょっと考えながらギターを弾くようになったからこういう事も思うようになったのかもしれない。
手癖でちょっとしたフレーズなら適当にその場で弾けるようになってきたし。
最近のテクニカルな曲よりもハードロックとかをコピーしてた方が楽しいのは、単純に簡単という以上に何をやっているのかを少しでも理解出来るからなのかもしれない。
この間韓国人がジミヘン弾いてる動画開いてみたら、トップのコメントにキムチ・ヘンドリクスとかいう本場のアレを目にして戦慄してしまった。
面白さは辛めにつけて60点。
アイドル主演のホラー映画は80点満点みたいなところがあるので80点満点中60点ということで
よかったところは映画として話の軸がわかりやすくスッキリしていたこと。
悪かったところはヴィジュアル。
これ公開時に田舎住みの俺増田氏が都会の駅に行ったら見渡す限りの壁一面がこの映画の宣伝でジャックされており
逆にうわ~これダメそ~~~と思ったのを強く覚えているが、その印象よりはだいぶよかった。
まずよかったストーリー面だがいわゆる「心霊映画」としての整理のされ方。
霊が見えてしまう主人公だが、しかし霊が見えていることが霊に気づかれると憑かれてしまう。
なので何とかかんとかそこらへんをウロウロしてる霊を見て見ぬふりする様をコメディテイストで描く、というのがこの作品の一種の面白どころだと思う。ぶっちゃけ私的にはここはあんま刺さらなかった。コメディにするならもうちょっと徹底的にやってほしい。怖がらせるのか笑わせるのか中途半端で逆にシュールだなと感じた。
しかし引き寄せ属性の友人が霊に取り憑かれてしまったことから見て見ぬふりするのではなく、霊に対峙していくことの重要性に気づいていく。
その中で臨時教員であり超強力な霊に憑かれている遠野が現れ、その霊にまたも祟られてしまった友人を救うために決死の戦いに挑む。遠野に取り憑いていたのはウルトラ過保護な彼の母親で生前から病的なまでの執念で彼を「見」守り、洗脳に近い形で彼を支配していた母親は死してなお霊になって彼の人生を縛っていた。
主人公とその友人の霊感女の助けを借り、支配される対象ではなく一人の人間として母親を見ることで対峙し母親の呪縛から解き放たれる遠野。
そして主人公パートで度々登場するも無視されていた主人公の父親が、喧嘩して無視という形で反抗を続けているうちに死んでしまった霊で実はこの映画がシックスセンスだったことが判明し、主人公はそのことを受け入れブルース・ウィリ……父親を無視しながらも(霊だからね)謝罪し父親は成仏するのでした。
見てはいけないものが見えるというワンアイデアから、見るってどういうことか、見て見ぬふりするだけでいいのかという普遍的な問いを浮かび上がらせる手腕はフーンやるじゃんって感じだった。「心霊」と「見る」は切っても切り離せない関係だしね。
この作品には複数の幽霊的なサムシングエルスが登場するんだけど、こいつらが「どう見ても生身の人にしか見えない奴」と「超高速振動しているとしか思えない輪郭がぼやっとした奴」の2パターンに分かれる。どうやら原作では「めっちゃバケモノ」が見えることで、それを無視するというシュールギャグみたいな部分があったらしいが、実写でそれをやるとシュールになりすぎるし金もかかる。
それを回避するためにこの表現になったと思うんだが、この超高速振動人間はまぁ怖くはねぇわな。
見るからにわかるし。霊かと思ったら人間でしたの展開にも活きないし。
しょっぱな、クラスで挙手を採るときに本来はいないクラスメイトを数えちゃって……という展開でもそいつが超高速振動しているので「いや、一目見たらわかるやろ」となってしまう。この表現、よくなかったんじゃない?
最後の神様が降臨するシーンもふわーっとしたもやがふわーっと通り過ぎると遠野の母親が超高速振動がさらに激しくなっていくっていうさすがにシュールすぎない?て感じで、今作のホラー表現はもっと頑張れたはず。LDH主演のミンナノウタはLDHファンガ失禁レベルで頑張ってたぞ!
あと、生身の人間にしか見えない奴とそうじゃない奴の違いはなんやねん。都合良子ちゃんか?という気持ち。
異能青春ものとしてある程度の出来の良さは担保しつつ、異能の部分がホラー調であったがゆえにそこが微妙だったので点を引かざるを得ないという悲しきモンスター。
あとはアイドル映画だからしょうがないけど演技回りがね……まぁここは元から20点ひいてるからいいんだけども。
ここ数年の日本のホラー系映画だったらミンナノウタ、きさらぎ駅Reに続いてよかったかな。
ChatGPTと哲学的に議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。
選択的夫婦別姓の議論は、単なる法律の修正にとどまらず、私たちが「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人の自由を拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤や排除が生まれうるという、自由そのものの逆説的性格に由来する問題である。日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後、民法は大きく改正されたが、戸籍の構造は根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式は一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態や女性の社会進出、国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択的夫婦別姓」への要望が強まっている。
一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度の一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍のなかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政的コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である。
ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である。改革に伴い、精神史的あるいは文化的な意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつのコスト問題といえるだろう。
選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択肢しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャーや説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。
W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度や技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスクを自己責任で管理・選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。
選択的夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人の自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属の根拠を失う不安」といった新たな社会的リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由と責任の過剰な個人化による孤立や不安——をも視野に入れる必要がある。
この現象は、韓国で2008年に導入された「個人単位戸籍制度(家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層からの批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人を単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。
むしろ、制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたことである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。
ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分の意思か?」「配偶者に強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線が生まれる。これは日常の選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。
たとえば、韓国の若年層においては、恋愛・結婚・出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉が流行し、さらに結婚・出産・恋愛に加え、家族・男性との関係・異性愛自体を拒否する「4B運動(非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度的改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動の担い手たちは、単に従来のジェンダー規範を拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのものを解体する動きを見せている。たとえば、4Bの参加者たちは、「家族に説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分で管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯と承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己の尊厳を保つという新たな主体性の表現がある。ベックのいう「選択の強制」への拒絶反応が韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。
こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦のブルース》(1969年)は、まさに「沈黙の自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである。選択の自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれた存在の叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動の文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。
一方で、この作品は、主婦という存在が社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治的意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から「沈黙は共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代〜70年代左派運動(ベトナム反戦、学生運動、階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙は共犯」とはサルトルの実存主義的倫理を象徴する言葉だ。
「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である。政治的主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティ」である。この「疲労の言葉」は、政治的正義の言葉ではすくい取れない主体の感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従や無知ではない。むしろ、言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己の尊厳と日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。
しかし、「語らないことを自分の意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙の自由のジレンマがある。
このような表現は、フェミニズムの文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体の論理を可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司の詩作にも見られる。たとえば阿部定事件を主題にした作品群では、語られすぎた欲望や暴力の物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体が存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会の暴力性を照らし出す存在として描かれる。
沈黙のうちに自己の選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦のブルース》と寺山修司の詩作は、「語らなければ存在しない」という制度的圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。
この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいかに尊重するかが問われることになる。
このような非対称性の問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいかに制度の中で位置づけるかという課題が生じる。
ここで参照されるべきは、社会学者チャールズ・ティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念である。ティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定のカテゴリーに分類し、その分類を通じて資源や権利へのアクセスに構造的な差異をもたらす。選択的夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分が制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会的境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人の選択が無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択の自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティの指標となり、当人の意思とは無関係に社会的評価や区分の根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的な排除や不利益への慎重な配慮が求められる。
こうした哲学的・社会構造的な視点を踏まえたとき、制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由や沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理と制度の交差点において、いかにして沈黙や非選択を尊重しうるかという、より深い次元の議論となる。
まず、レヴィナスは『全体性と無限』において、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者の沈黙に対しても、応答を要請される私たちの姿勢が倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者の沈黙を承認する制度設計の必要性と深く響き合う。
次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人は国家装置や制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度の文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である。
その一方で、他者の承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想である。ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者からの承認を必要とするが、その承認は一方的では成立せず、双方が自己を表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己の確立を前提とする点で、自由と平等の理念を哲学的に基礎づける重要なモデルである。
しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者の沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このとき、ヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度的想像力は、まさにそこから展開されねばならない。
これら四人の思想家が示唆するのは、制度と主体の関係性における多層的な緊張である。ティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度がいかにして人々の行動範囲を構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体が無意識に構築されてしまうメカニズムを暴き、ヘーゲルは承認関係の対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択的夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度が個人をいかに分類し、語らせようとするか(ティリー・アルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係に倫理を見出す視点(レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由のモデル(ヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計の可能性を構想することができる。
理屈はそうだ。しかし果たして、語らない自由の保障を制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき、制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか。伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的なまなざしも有効な力になるだろう。
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原作が自殺したサツドウ、原作変えて現在連載中の暴力万歳とジェネリック感が増している。
お下品三銃士(彼岸島、サタノファニ、パラレルパラダイス)が読者を置いてけぼりにしてでも独自ワールドを突っ走ったのに対し、ゴールデンドロップや満州アヘンスクワッドはおきれいな裏社会バトルやってるのが許せねぇ。
平成敗残兵☆すみれちゃんには期待しているがお下品過ぎて目を背けてしまう。
ONE FOR ALLをWebに放逐したのは許さんぞ。
藤本タツキを作ろうとしている。
タツキの作家性、独自性というのは確かに存在しているが、一般的にタツキの作風とされている部分の多くが編集部やアシスタント由来だったのではないか。
薄いタツキ成分を持った新人が増えて本家のタツキも薄い展開ばっか書き続けている。
煮詰めて欲しい。
アスラの沙汰、時間の神様と殺人(もしくはそれに類似した行為)で警察に追われる展開を同じ曜日に持ってくるのは、当たる要素を連打したほうがヒットしやすいと考えていそう。
ゴーストフィクサーズ、マーシャルキングの二人はヒット作家だからある程度の裁量権を与えられてそうだが、サンキューピッチや野球・文明・エイリアンは題材指定されてそう。
新人発掘能力は大したものだが育成能力はカスなんじゃないかと疑っている。
時折出てくる子供が書いたみたいな妄想展開+誤字脱字だらけの漫画は編集者が敢えて炎上作品を仕込んでいるんじゃないかと思っている。
古くは誰が賢者を殺したかがあったが、あの作者達は筆を折ったのだろうか。
神様、キサマを殺したい。とか第年秒(マグメルは中国で裁判になってるらしい)とかどーなってんの。
週刊カグラバチでいいです。
敵と戦え!
青のミブロは爽やか青春活劇からどうやって身内で殺し合う新選組へ移行するのかと思ったがシームレスに来ててイマイチ馴染まない。
灰仭巫覡の投げるボールは何処までも遠く飛んでいくので僕達は地平線まで走る羽目になっている。
週刊サンドロビッチ・ヤバ子になりつつある。
おっさんの趣味を女の子にやらせると面白いという時流から、マッチョな女が面白いに先鋭化している。
常人仮面、裏バイト、ベースボールブルース、雷雷雷、ミハルの戦場、COSMOS、アフターゴッドは宣伝力不足じゃないか。
もっと売り込んでくれ。
語りたいことは山ほどあったが最近風の大地にライフを吸われている。
沖田ァ~ァッ!
乱破〜ヤンキー忍風帖〜が新世代のヤンキー漫画って感じで面白い。
同じくヤンキー漫画&タイムリープで面白かったナインピークスをWebに放逐したのは許さんぞ。
関係ないけど髙橋ヒロシのWikipedia、作者情報がほとんどないのは何かあるのか。
ヤンキー漫画って現在不遇だけど少年漫画と少女漫画の架け橋として頑張ってほしい。
よふかしのうたやってた頃のサンデーは黄金期超えて金剛期だったが最近陰り気味。
龍と苺のエクストラ展開はかなりぶっ飛んでいたが今のところいい感じ。