
はてなキーワード:ブリッジとは
──ホグワーツ頂き魔法学校物語 全7巻を1本に凝縮した狂想曲──
約5500字
第1巻 ハリー・ポッターと奢りの石
「俺の弁当、全部食っていいよ……」
と差し出す。
ハリー「え、いいの?」
第2巻 秘密の頂き部屋
組分け帽子
組分け帽子が叫ぶ。
『頂きリン』に配属だ!」
新設された第5の寮「頂きリン」の特徴
・寮生:全員女子
ハリーはすぐに人気者になる。
と争奪戦。
3年生の時、
許してくれ……」
第4巻 炎の頂きゴブレット
女子は見てるだけでいい
ハリー「え、私出てないのに……」
第三の試練:迷路
優勝。
でもヴォルデモートが復活。
生徒全員が反発。
しかし内容は
「男子にどうやって奢らせるか実習」
第6巻 謎の頂きプリンス
スネイプ先生が実はハリーの母リリーに片思いだったことが判明。
スネイプ「リリー……俺はお前に一度も奢れなかった……
そして私は男です」
スネイプ「え?」
大混乱。
第7巻 頂き女子と死の秘宝
最終決戦。
ヴォルデモート
死の秘宝を手に入れた!!」
三つの秘宝
ニワトコの杖 → 男子を操る杖
蘇りの石 → 元カレを呼び戻す石
最終決戦@ホグワーツ
「エクスペリアームス!!」
エピローグ 19年後
ハリー「いいんだよ。
その時、
ホームの向こうで
「私、女子なので
男生徒たちが一斉に財布を出す。
ハリーため息。
「頂きは……終わっていなかった」
遠くで、
組分け帽子の声が聞こえる。
「頂きリン!!」
──頂きは続くよ、どこまでも。
終わりなき魔法は、
(了)
「理解」の彼方にある数学──望月新一とIUT理論が問いかけること
一方には、自ら構築した「宇宙際タイヒミュラー理論」で数学界の難問ABC予想を解いたと主張する望月新一。
もう一方には、その証明に「説明不能なギャップ」を見るペーター・ショルツェ。
彼らは同じ言葉(数学語)を話しているはずなのに、まるで異なる星の住民のように、互いの論理を捉えきれなかった。
これは、数学者がIUT理論に触れた時に口にした、ほとんど哲学的な嘆きである。
2.数学は、いつ「別の教科」に化けるのか
我々が学校で習う数学は、確固たる地面の上に築かれた都市のようなものだ。
公理という基礎の上に、定義というレンガを積み、定理という建造物を建てていく。誰もが同じ地図を持ち、同じ道を歩める。
しかし、ABC予想のような深淵に近づくと、地面は忽然と消える。
そこには「夏場の動く氷河」が横たわっていた。足場は流動し、割れ目は見えにくい。
望月新一は、この氷河を渡るために、従来の登山道具(数学的概念)では不十分だと考えた。
彼は新しいアイゼン(宇宙)とロープ(ブリッジ)を発明し、一人で渡ってしまった。
「見よ、対岸に着いた」と彼は言う。
IUT理論の核心は、異なる「宇宙」を結ぶ「ブリッジ」にあるという。
だが、このブリッジは、従来の数学が知るどの「橋」とも似ていない。
それは具体的な写像ではなく、関係性の比喩のようにも、あるいは情報を転送する「儀式」のようにも読める。
「このブリッジの設計図には、応力計算が書かれていない」とショルツェは言う。
「いや、これは新しい種類の橋だから、従来の応力計算では測れないのだ」と望月は応じる。
ここに、論争の本質がある。
だが、基準を逸脱したものが、果たしてまだ「数学的証明」と呼べるのか?
4.地動説の再来、それとも幻影?
ガリレオが「それでも地球は動く」と囁いた時、人々は自分の足元が動いていることを想像できなかった。
あまりに直感に反するため、受け入れるには世界観の書き換えを迫られる。
IUT理論には、その「数学的望遠鏡」がまだ大多数に共有されていない。
望月という一人の天才だけが覗ける望遠鏡で見えた景色を、どうやって共同体の確かな知識に昇華させるのか?
数学は、歴史的に「孤独な探求」と「共同的な検証」の緊張関係の中で発展してきた。
ガロアは孤独に群論を創り、ワイルズは7年間を孤塁で過ごした。
だが彼らの証明は、いずれも共同体に開かれ、検証され、受け入れられた。
あまりに自己完結的で、あまりに独自の言語で書かれているため、検証のための「共通の場」が成立しにくい。
それは、一人の建築家が、共通の建築基準を無視して建てた、あまりに独創的な塔のようなものだ。
美しいかもしれないが、他の建築家には、その安全性(正当性)を確認する手段がない。
それは、「人間はどのようにして、個人の深い直感を共同の確実な知識に変換するのか?」 という、科学哲学の根本問題に触れている。
もしかすると、我々の「共同的な理解」というフィルターは、真に革新的な知を濾過してしまうのかもしれない。
あるいは逆に、そのフィルターこそが、科学を単なる個人の妄想から救う防波堤なのか。
望月新一は、そのフィルターを──意図的か否かは別として──きわどくかすめるようにして、新しい数学の大陸を発見したかもしれない。
だが、彼だけがその大陸に上陸し、他者はまだ船(理解)を持たない。
7. 終わりに──氷河は解けるか
「5日間では短すぎた」。
そう誰もが思う。だが、果たして何日あれば足りたのか。
新しいパラダイムを理解するには、時に「学び直し」に近い時間を要する。ショルツェら一流の数学者でさえ、その途上にある。
だが、数学的真理の受容は、単なる手続きではなく、共同体の魂が納得するプロセスでもある。
いつの日か、この氷河が確固たる大地として多くの人に認識され、ABC予想への道が共有される時が来るのか。
それとも、この氷河は「夏の終わり」と共に消え、数学史の不思議なエピソードとして記憶されるだけなのか。
答えはまだ、誰も知らない。
ただ、この論争が我々に教えてくれるのは、数学が──ひいては科学が──常に「理解の境界線」との戦いである、という厳粛な事実である。
数学とは、確かな地面を歩む技術であると同時に、時には氷河を渡る勇気でもある。
望月新一は、その渡河を一人で成し遂げた。
問題は、彼の後を、我々が続けることができるかどうかだ。
やってみた
〜〜〜
Queen の楽曲の中で「You're MyBest Friend」は、しばしば異色の存在として語られる。
劇的な構成や重厚なハーモニーを特徴とする彼らの代表曲群とは異なり、この曲は実にシンプルで、親密さと温もりに満ちている。
だが、まさにその“シンプルさ”こそが、Queen というバンドの多面性を明確に示していると言える。
作曲者ジョン・ディーコンが、当時の妻に捧げて書いたという背景も相まって、この曲はバンド全体のイメージを一段柔らかくし、新たな側面を広く世に知らしめた。
曲のアイデンティティを決定づけているのは、エレクトリック・ピアノ——Wurlitzer の独特の音色である。柔らかく丸いアタックと、わずかにざらついた残響が、曲全体に温かみを付与している。Queen の鍵盤サウンドといえばアコースティック・ピアノを想像しがちだが、この曲ではあえて電気的なエレピを主役に据えることで、他のロック曲とは異なる質感を生み出した。
実はフレディ・マーキュリーはWurlitzer の音があまり好きではなかったと言われるが、ライブでは彼がアコースティック・ピアノで代役を務めており、スタジオ版との音色の違いもまたファンの興味を引き続けている。
構造は極めてオーソドックスで、古典的な Verse–Chorus形式に沿って展開する。にもかかわらず魅力が損なわれないのは、ディーコンの旋律感覚とコード運びの巧みさによるものだ。
主要キーは Cメジャーで、I–IV–V を中心とした実に素直な進行だが、ブリッジにはIVmaj7 のような柔らかい和音が配置され、気持ちの動きを自然に高めている。
Queen が得意とする大胆な転調は見られないものの、曲が求める感情のレンジにはこのシンプルな和声が最もふさわしかったのだろう。
リズム面でも、派手なアクションはほとんどない。ストレートな8ビートが淡々と続き、ドラマ性よりも安定と親しみやすさを重視している。
ブライアン・メイのギターも装飾的で、主役を奪うことなく全体をそっと支えている。
そのバランスの良さは、Queen が単なる“テクニカルなロックバンド”にとどまらない、アンサンブルの巧みなグループであることを再確認させる。
歌詞は比喩の少ない直球の表現で、「あなたは恋人であると同時に、私の親友でもある」というメッセージが真っすぐに込められている。
Queen の楽曲はしばしば壮大なテーマや幻想的な物語を扱うが、この曲では日常の愛情をそのまま掬い取るようなリアリティがある。
華美な装飾を避けた歌詞の選択は、ディーコンの人柄と楽曲の素朴さにぴたりと合致している。
1975年といえば、「Bohemian Rhapsody」の成功によって、Queen が世界的な注目の中心にあった時期である。そんな中でこの曲が発表されたことは、バンドにとって大きな意味を持った。
派手なイメージが強烈に広がる中で、「Queen はこんなに身近で温かい曲も書くのか」という驚きが、彼らの表現の幅を一気に広げたのである。
この曲の成功があったからこそ、のちに「AnotherOne Bites the Dust」や「I Want to Break Free」のようなポップ寄りの楽曲がより自由に生み出される環境が整ったとも考えられる。
音楽的文脈で言えば、Paul McCartney 的なポップ感やThe Beach Boys のハーモニー・センスとの共通点がしばしば指摘される。
エレピを中心とした滑らかなポップロックという点では、後年のBen Folds Five や多くのAOR 系ポップロックにも影響を与えたと考えられる。
こうして見てみると、「You're MyBest Friend」は“地味な名曲”と言われがちな一方で、Queen の音楽性の豊かさとメンバー個々の個性を改めて浮かび上がらせる、実に重要なポジションにある。
劇的な曲を書けるバンドが、等身大の愛情もまた美しい形で描けるという事実。それこそが、この曲が半世紀近く愛され続けている理由にほかならない。
考えてみた。以下を聞くだけ。
〜の曲〜について、以下を踏まえて解説してください。
・フックとなる特長と、曲全体の印象
・曲構造の特徴
・コード進行の特徴
・ビートの特徴
・曲が発表れた当時におけるインパクト
・対象曲から想起される、関連アーティスト、影響元のアーティスト
↓Beatlesの「Get Back」についてこのプロンプトで聞くと
以下では、**The Beatles「Get Back」**を、楽曲分析・歴史的背景・影響関係まで含めて総合的に解説します。
⸻
■ フックとなる特徴と、曲全体の印象
• **ループ感の強いコード進行(A7ワンコード中心)**と、ドライブ感のあるシャッフル気味のビートがフック。
• 全体としては「軽快だがタフ」「ジャム感のある粗削りなロック」という印象。
• 当時のビートルズとしては珍しく、**“引き算のアレンジ”**によるライブ感が際立つ。
⸻
■ 曲構造の特徴
•イントロ – ヴァース –コーラス – ヴァース –コーラス –エンディング という非常にシンプルな構成。
•構造上の特徴は、ヴァースとコーラスのコードがほぼ同じで、メロディと歌詞によってセクションを分けている点。
•1969年のビートルズとしては珍しい、ブルース寄りのワンコード型ロックンロール。
⸻
■コード進行の特徴
基本は下記の通り:
• A7ワンコードで進む(キーはA Mixolydian的に解釈可能)
•コーラスで D → A7 と行くが、非常に短く戻るため、実質ワンコード感が維持される
結果として、
が強調されている。
⸻
• ほぼライブ録音に近いテイクで、Rooftop Concert(屋上ライブ)演奏が公式版として使われた。
• ジョンのギターのカッティングはゆるいノリで、ポールのベースは跳ねるグルーヴを担当。
●ビリー・プレストンのエレピ(FenderRhodes)が決定的
• ロールするようなエレピのフレーズがサウンドを“ブラック・ミュージック寄り”にしている。
•プレストンの参加は、ビートルズ内部の緊張を和らげたといわれている(トリビア)。
⸻
■ビートの特徴
• R&B由来の**「裏」で跳ねるノリ**
•リンゴのドラムはハイハットの刻みが緩い「ロックンロール+R&B」ハイブリッド
•現代的に言えば**“スワンプ・ロック”**に寄ったグルーヴ(CCR的とも言える)
⸻
■歌詞は何を表すか
「ジョジョ」「ロレッタ」といった架空のキャラクターを通じて、
また、一部のデモで語られた社会風刺(1968年の移民問題を揶揄した歌詞)も背景にあるが、公式リリースでは中立的/寓話的になっている。
ポール本人は「深い意味ではなく、ファニーな物語」と語ることが多いが、時代背景が透けて見える作品。
⸻
■ 曲のジャンル
複数の影響が混在:
•ロックンロール
• スワンプ・ロック
特にビリー・プレストンの参加によって黒人音楽寄りのフィールが強くなった。
⸻
•ポールは「R&B /ロックンロール的な原点回帰」を狙った曲。
• “Let It Be /Get Back sessions”の精神である**「Get back to basics(基本に戻る)」**そのものを象徴。
•ビートルズ末期の作品の中では珍しく、明るく、軽快で、ポジティブなムードを保った楽曲。
⸻
■ 発表当時のインパクト
インパクトとしては:
• 「ビートルズがルーツ・ロックに回帰した!」と強く受け取られた
• 深刻化しつつあったビートルズ人間関係が、外部のビリー・プレストン参加で改善したことが話題に
•サウンド的にも、複雑なスタジオ実験に傾いていた後期ビートルズからの大きな転換となった
⸻
■ 「Get Back」から想起される関連アーティスト/影響元
影響元として考えられるアーティスト
•Little Richard /Chuck Berry / JerryLee Lewis(ロックンロール)
•Ray Charles,Billy Preston(R&Bピアノ)
間接的に想起されるアーティスト
•CCR(Creedence Clearwater Revival)
•Leon Russell
⸻
直接的・間接的に:
•1970年代のルーツ回帰ロック全般(カントリーロック、スワンプロック、シンガーソングライター系)
• Rolling Stones『LetIt Bleed』『Sticky Fingers』などにみられるルーズなR&B感
•ポール自身のソロ作品(特に「Bandon theRun」「Junior’s Farm」など“軽快ロック”部分)
•Oasisなど90年代ブリットポップにも引用的影響(脱力系ロックンロールのスタイル)
⸻
• “The Beatles withBilly Preston”名義でリリースされた唯一のシングル。
•屋上ライブでは、警察がビルに乗り込むところまでが映像作品に残り、音楽史の名場面となっている。
• 初期デモでは、**移民問題を皮肉る“政治的パロディ歌詞”**があった。
•レノンはこの曲で Epiphone Casino を使用し、ポールは Höfner 500/1ベースを使用。
•ビリー・プレストン参加の経緯は、ジョージが米滞在時にプレストンと再会したことがきっかけ。
ジュールストンに到着した時点では、一帯の設備はことごとく電源が喪失しており、動かすことができません。
バッテリープールを正しく稼働させて、エリア全体の送電を回復する必要があります。
したがって、バッテリープールはジュールストンでまず最初に解かなければいけないパズルです。
ポッドを降りたら左に進んで貯水池に出ます。貯水池を左手に見ながら進むと右手に小道があるので降りてしばらく道なりに進みます。
エレベーター建屋を目印に右の脇道にそれ、すぐに左折するとバッテリープールに降りる石段が見つかります。
制御盤には「115VOLTS」となぐり書きされていますが、操作してもインジケーターには25Vとしか表示されません。
バッテリープールは3行4列のバッテリーグリッドから成っており、グリッドには左上からA~Lの名前がついています。
グリッドからは4色に色分けされた通路が伸びていて、グリッドを回転させることで隣のグリッドとケーブルを接続することができます。
グリッドはひとつひとつが固有の電圧を持っていて、回路が通過しているグリッドの電圧の合計が総電圧となるようです。
しかし、どのグリッドが具体的に何ボルトなのかは回路の総電圧から推し量ることしかできません。
グリッドを回転させて配線の経路を変えながら、全体の電圧を「115V」にするのがこのパズルの目的です。
回路は「J」からスタートして「K」に至る、一筆書きに閉じた経路である必要があります。
配線を分岐できるグリッドがないので、回路は直列かオープン(「回路なし」と表示されます)のいずれかになり、並列回路はできません。
初期状態ではJとKが直結しているので、J+K=25Vであることがわかります。
さまざまな組み合わせを試すことで各グリッドの固有電圧を推定できますが、長くなるので結果のみを記します(結果は単純な数値の並びなのですが、論理的に導き出すにはそれなりの手間がかかります)。
A:20V B:15V C:10V D:5V
E:20V F:15V G:10V H:5V
I:20V J:15V K:10V L:5V
ここまで調べてようやく、ジャンパーブリッジは電圧別に色分けされていたことがわかります。赤が20V、黄色が15V、緑が10V、青が5Vだったわけですね。
1. K G C B A E F J
2. K G C B F E I J
3. K L H D C G F E I J
このうち、初期状態からもっとも少ない手順で完成できるのは 3. の配線です。
1. K を左に2回動かし、L に接続。
2. F を右に2回動かし、E に接続。
3. G を右に1回動かし、F に接続。
頭上のコネクターから火花が散り、アジャンクトの操作パネルに「電圧合計115」と表示されれば成功です。
中央の制御盤に戻り、電源をオンにしましょう。ジュールストン各所の設備が動くようになります。
3つのレルムでアジャンクトを強化し終えるとジュールストンの巨大な鉄扉を開けて先に進めるようになります。
扉の先で新たなミッションを終えると、ふたたびエリア一帯の電源が喪失してしまいます。
プールに新鮮なバッテリー液が補充されたことでバッテリーの効率が上がり、規定電圧を超えてしまったのです。
もう一度グリッドの固有電圧を調べ(やはり手間がかかります)、配線しなおす必要があります。
効率化した後のグリッドの電圧は赤が25V、黄色が20V、緑が15V、青が10Vでした。それぞれ5Vずつ性能アップしています。
1. K L H D C G F J
みなさんはおそらく、探偵にマークされたことはないだろう。稀代の悪党モリアティ教授ならいざ知らず、庶民の接点といえばせいぜい、パートナーの浮気調査か結婚相手の身代調査くらいのはず。私は某国で貴重な経験をした。探偵の博物館は存在するが、その体験アトラクションを提供してくれるところはない。
断っておくが、私に疾しいところがあったわけではまったくない。実は、本社のやつらがとんでもないバカをやってくれたせいで、このような目にあったのだ。もちろん、やつらは「私の意を汲んだ償い」をするものと信じている。
さて、以下の話は、世紀の名探偵シャーロックホームズに敬意を表して、「イギリスの首都ロンドン」で起きたと仮定する。
物価がやたらと高く、専用シャワートイレつきの1Kを借りるとなると、当時のレートで月20万円からだった(社宅だと半額)。共用だと月15万円前後だったろうか。私がそこに決めたのは、他に選択肢がなかったこともあるが、木の茂った庭がついていたことだ。扉と塀で、外から中は見えない。前の居住者が植物を植えていたらしく、雑草と共に花が咲く。ただし、蜂も山のように群がる。とうとう庭木が繁茂しすぎて屈まないと外に出られなくなったので、生まれて初めて剪定をした。これが意外と楽しく、やめられない。鋭い刃で、サクッと切れて、いい。音と手ごたえが快いし、景色も開けるのだ。
日が長い夏場は椅子にもたれ、酔眼で木を眺めて句を読む。俳句を少々嗜むのだ。ただ、携帯の電波はそこ一帯のみはじめから「なぜか」つながりが悪かった。携帯会社に文句を言っても、クーポンをくれただけで、一向に対応してくれない。
と言うことで、3年間何事もなく過ごしていた。
話し声がするのでしぶしぶ起きると、外に2人人がいるではないか。
「植木屋です。家主さんからあんたの植木の剪定を頼まれたんですよ」
と、のっぽとちびの二人組。残念だが庭師には見えない。どこか軍人らしい機敏さがある。家の前に、いかにも庭師ですといった風情の社名入りヴァンが止まっていた。ナンバープレートを覚えておく。
「その話は聞いてないんで今度にしてください」
とその日は追い返した。確かにこの前の日曜日、これまで一度も来たことのない家主がうちにやってきて、庭木の剪定が必要だなとは言っていたが。
しばらくすると、家主が暖房の動作確認をするといってきた。やって来たのは別の2人で、1人が暖房を開けてなにかしている間に(私は、あとで分解して、なにか仕込まれてないか確認した)、もう1人が家の正面写真を撮る。一介の技師にしてはあからさまに怪しいではないか。確かに、Googleマップでは道路と屋根しか見えない。私道を入った所に家の入り口があるので、ストリートビューも無効なのだ。「風呂場も改装する必要がありますね」などといってきたが、そこに何か仕掛けられても困るので、嫌だといっておいた。このとき、彼らは「道具」の一つを「忘れて」帰った。
コロナワクチンの案内が何度もきた。24/7で在宅なので、私を外出させてその隙に…
私は週に1, 2回買い出しに行く。その際、合鍵か七つ道具を持った誰かが空き巣に入っても困る。知り合いの警察官に教わった方法を試すことにした。玄関のドアの上部の隙間に、小さな小石を挟んでおくのだ。来客があると、小石はそこから落ちるので、後で分かる。買い物ルートは、歩くのが面倒で最短で往復したいので、ワンパターンだ。看板を持って立つ人、立ち止まって携帯でこちらを見ながら話す人、タバコを吸いますという顔でさりげなく店から出て来た人、路駐の車内で外を見ている人。怪しいといえば怪しい。
この時は、帰り道に二度、私が近づくと急発進もしくはその後にUターンする車を見つけた。もちろんナンバープレートは暗記する。家に帰ると、携帯に「XXXはあなたをフォローしました」とSNSの通知が入る。さすがにユーモアに手抜かりがない。これは、見せるための尾行、つまり標的に気づかせるための示威的な尾行だ。気にしなくていい。
あるとき、買い物途中の歩道で、隣人が時間潰しの顔つきで突っ立っているのを見つけた。彼が在宅だと、ドアをこじ開けるのに音が聞こえてまずいのかもしれない。
またある時は、この3年間一度もひと気のあったことのない医院の庭に、革ジャンを着て禿げた中年男が、通りに出る時必ず通る私道を見下ろしながら電話をしていた。
リモートワークが退屈なので、車通り側、つまり自宅の裏まで出てみると、運転席側の窓を開けた黒のBMWの車内に人がいて、サイドミラーで私が近づくのを見て急発進した。彼らは金があり趣味がいいのだ。テンペスト傍受という語がある。電子機器から出る微細な電波を専用機器で拾うことで、インターネットの通信を盗聴できるらしいのだ。これも知人に聞いた話だが、レーザー光を窓に当てその振動で室内の音を拾うことができるので、この場合は窓の外にブラインドをおろしておくのが有効だ。さて、こういう時は嫌がらせをするに限るので、早速警察に車のプレート番号を電話した。残念ながら、のちに警察署を訪ねた時知ったのだが、これらの記録、および緊急通報の記録は、署のコンピュータから「抹消」されていた。
自宅の裏、つまり表通りの路肩に駐車している車には、住人以外と思われるものもあった。たとえば、運送会社のヴァンがトランクを開けてずっと荷下ろしをしていたり、車の故障修理を装った人がいたり、このタイミングでやるのかと疑われる草刈りの人がいたり。また、以後は探偵の車はSUVに変わった。自宅と背を接している家(家主が同じ)はしばらく無人で、その後一度入居した家族も3日で「引越し」、おそらくその無人の家に交代で誰か潜んでいるらしい。あるとき壁越しに、トイレだろうが水を流す音がした。また、右隣の家の人も空き家になった。
気晴らしに飲みに行くことにした。歩いて10分。実は、iPhoneの最も左端のホーム画面の一角で地図を表示しているのだが、そこに日替わりで行きつけの店が「表示」されていたので、急に「思い出した」のだ。ここは、ビールの他に料理も美味しい、グルメ砂漠のこの島では貴重な店だ。カウンターで飲んでいたのだが、背中から誰かに見つめられていることに気づいた。いかにもオックスブリッジ卒業生でございますという知的な顔の若い女が、真後ろのテーブルでパソコンを広げていた。このような顔の人をここでみることはないし、そもそも女性客1人で、しかもパソコンを開いている人なんて、設定からして嘘すぎる。帰りにはいなくなっていたか、私が泥酔していたかのどちらかだ(店内を一周して確かめたので、前者です)。
ある夜、家の庭に、招かれない来客があった。というのも、私の庭の出入り口の木の扉は、重く、かつ傾いて接面が歪んでいたので、強く押さないと開かず、開けると地面を擦り、必ず音がする。
探偵であれば、例えば出口付近の木に対人センサーか録画機器を仕掛けたのかもしれない。
また、前面の塀(建て付けは古く甘いので隙間は簡単に作れる)に覗き穴と思われるものがあったので塞いだ。
これ以後、外出する時は、小石をドアの上、二箇所におくことにした。
ついに、庭師がやって来た。この前とは別人で、家主が契約している古馴染みだというので、監視して仕事させることにした。見ていると、どんどん植物を引っこ抜いて、木の枝を切っていく。枝というより、幹だ。剪定というより、丸坊主だ。あまりにも極端なので、家主に電話したところ、いう通りにさせろと言われたので、仕方なくそうした。
結局、短くしますといって坊主になったも同然で、木は葉が一枚もなく、幹も短く刈り上げられたか切り株だ。家主に写真を送ると、これは聞いてないということだったが、今更遅い。これまで植木のため外が見えなかったが、これではすかすかだ。
庭師のボスというのが夕方やって来て、満足そうに眺める。庭師は、「楽しい夜を(いかにも侵入を招きそうな庭の状態を指して)」と言って帰って行った。みんなグルなのだろう。ちなみに、出入りの修繕屋もみなヘッドホンをつけていて、指令をリアルタイムで聞いていたのだろう。
前面の塀は隙間だらけなので、古いシーツを巻きつけて塞いだ。
その夜、庭でライトがチカチカ瞬いた。右側の塀に設置してある、対人センサーで反応して点くライトだ。右隣の家の庭に、裏の空き家に潜んでいた人物が入り込み、センサーを反応させているのだ。
警察に泥棒の電話をしたが、「この日に限って」電波が途切れてなかなかつながらない。
裏の空き家に潜んでいる人物がいることは分かっていた。実は、私宛の郵便はいつも、なぜか裏の家のポストに届くので、家主に頼んで裏の空き家の鍵を借りている。そこで、「合鍵で裏の家に入ることにした」と呟いた。昼になると、荷物をまとめ、家を出た(会社支給のパソコンは冷凍庫に入れておいた)。出た途端、どこかに潜んでいた例の男(予想通り裏の家から炙り出されて来たわけだ)が現れ、走っていき、表通りに停めてあった車でどこかに消えた。無意味と思ったが、ナンバープレートは報告しておいた。
町で一番安い携帯とSIMを買い(SNSで「挨拶」があった)、ロンドンに向かう。
着いた駅で、ビールを飲みに店に入る。しばらくすると、目の前のテーブルに、チューリップグラスに入ったビール(オーダーできる最小容量で、会社がケチなのだろう)を手に中年の男が座り、SNSを見始めた。探偵だ。早く出ろ、という訳で。
何日かロンドンで過ごした。お付きの者はレストランでは外で待ち、バーでは視界に入る位置に腰掛け、ホテルでは外で待ち(一階で朝食をとりゆっくりしていたら、早く出ろと言わんばかりに、横断歩道の前から窓越しに写真を撮られた)、行く先々で車の見張りがいた。私が地図アプリで道順を調べるからだ。
問題は航空券購入で、やはり当地のカードでは決済が妨害され、日本のカードで買った。空港の駐車場でも、「送迎車」が何台も見送ってくれた。ナンバープレートは控えてある。
探偵には、相手のやり方が気にいらないときは、相手の嫌がることをする。これに尽きる。ただし、正面切ってやると相手がヒートアップするので、そこはうまくやる。
還暦を過ぎてから、長年の夢だった”自宅に映画館を持つ”計画を実行に移した。
若い頃から映画が好きで定年後に時間ができたら作ろうと漠然と考えていたが、実際に着手してみると想像以上に手間と費用がかかった。
以下は、記録として残しておきたいと思う。
地下一階に8畳ほどの物置部屋があり、もともとは古いワインセラー兼倉庫として使っていた場所を映画室に転用することにした。
天井高は約2.3メートル、コンクリート打ちっぱなしの壁面。湿気が多く、まず最初に除湿と防音の両立が課題となった。
・防音工事:約78万円(吸音材・遮音シート・壁パネル施工含む)
・床上げ+防振マット施工:約22万円
合計で約149万円。
この時点で、当初の想定額(100万円以内)はすでに超えていた。
防音工事は最も大きな出費になった。
使用したのは旭化成のサウンドカットNT吸音パネルと、YKKの遮音ドア。
天井にはグラスウール断熱材を50mm厚で敷き詰め、その上に遮音シートを重ね、化粧パネルで仕上げた。
ドアは外開きの防音仕様で閉めると耳が詰まるような密閉感がある。
次に問題になったのが空調。
防音室は密閉度が高く、換気が悪い。
家庭用のダクト式換気扇を2台設置し、吸気・排気の両方を分けて運用。
これらの設備関連だけで約40万円。
電源も100V→200Vのコンセントを追加し、プロジェクター専用回路を確保。
配線は壁内を通して見た目をすっきりさせた。
スクリーンは悩んだ末にキクチ科学研究所のSE-120HDWを選択。
天吊り金具SLG-011とHDMIケーブル(エレコム製20m、5,800円)を併せて取り付けた。
映像ソースはPanasonicのDP-UB9000(UHDBlu-ray対応プレイヤー)を導入。
これが約17万円。
さらにNAS(Synology DS220+、約5万円)を設置し、自宅サーバーに保存した動画をLAN経由で再生できるようにした。
スピーカーはフロントにBowers & Wilkinsの「607 S3」(約11万円×2台)、センターにHTM6S2(約9万円)、リアに「606S2」(約10万円×2台)、サブウーファーはYAMAHAのNS-SW100(約4万円)を選択。
サラウンドケーブルはオヤイデ電気のSP-3398(メートル単価550円)を20m使用。
ラックやスピーカースタンドを含めるとさらに10万円上乗せとなった。
映画館の雰囲気を出すため、座席にはリクライニング式のシアターチェアを導入した。
左右にドリンクホルダー付きの肘掛けを備え、電動リクライニング機能を持つ。
床は吸音カーペット仕様で、サンゲツのNT-700を採用(1平方メートルあたり3,800円)。
壁面は黒の吸音クロス仕上げに変更し、余計な光の反射を防止した。
地味だが、最も苦労したのは配線整理だった。
LAN、電源、スピーカーコードを束ねて壁裏を通すために、既存のコンクリート壁にスリーブ孔を開けた。
防振ゴム付きの配線モール(パナソニック製)でカバーし、床下収納には電源タップを隠した。
木製パネルを黒塗りにして高さを低く抑え、機器の熱がこもらないよう背面を開口。
金具やネジ込み部の補強材としてスチールバー(コーナンで購入、1本1,480円)を使用。
設置後、実際に試写を行うと反響音が予想以上に強く、音がこもって聞こえた。
床と壁の反射を抑えるため、追加でニトリの厚手カーテン(遮光3級、1セット6,800円)を壁面に吊り下げた。
さらにコーナー部分にウレタン製のベーストラップ(ヤマハ製)を設置(1本9,200円×4)。
音響調整には無料ソフト「RoomEQ Wizard」を使用。
マイクはBehringerのECM8000(約9,800円)をPCに接続し、周波数特性を測定。
AVアンプの自動補正機能Audyssey MultEQと組み合わせて微調整を行った。
総費用はすべて含めて約340万円。
当初想定より100万円以上のオーバーとなったが、途中で妥協しなかったことが功を奏したと思う。
運用にあたっては、電気代とメンテナンス費用が月平均で約3,000円。
除湿機と換気扇を常時稼働しているため、湿度は50%前後で安定している。
プロジェクターのランプ寿命(約5,000時間)を考慮すると、交換費用は約2万円。
年間に換算しておよそ1,500時間の稼働であれば、3年はもつ計算になる。
一番の失敗は換気経路の設計だった。
最初は排気口を小さくしすぎて空気が循環せず、夏場に室温が35度を超えた。
その後、直径100mmのアルミダクトを150mmに変更し、サーキュレーター(バルミューダ製GreenFan C2)を導入して解決。
スピーカースタンドの支柱に軽い赤錆が浮いたため、サンドペーパーで磨いて防錆塗料を塗布。
工事の打ち合わせ、配線の確認、資材の選定など、すべて自分で行った。
しかし完成した空間は日常から完全に切り離され、映画を“観る”のではなく“迎える”場所になった。
上映中は時間を忘れる。
外の音も入らず、誰にも邪魔されない。
その密度の中で一本の映画を観終えると、少しだけ若返ったような気がする。
だが、年を重ねると”何を持つか”よりも”何に時間を使うか”のほうが重要となる。
地下のミニシアターは、そういう意味でとても有意義な投資だったと思う。
Permalink |記事への反応(17) | 14:34
昨日は日曜日であった。
したがって、日曜用のルーティンに従った。
午前6時55分に起床、7時15分にオートミールを開始。粒子の無秩序な拡散が統計力学に従うように、僕の日課もまた厳格に支配されている。
朝食後、僕はCalabi–Yau三次元多様体におけるホモロジー群の壁越え現象とN=2超対称的世界面理論におけるBPS状態の安定性を再検討した。
通常、専門家であってもモジュライ空間における壁越え(wall-crossing)は曖昧な比喩で済ませる。
しかし僕は昨日、Kontsevich–Soibelmanの壁越え公式を非摂動的補正を含む形で、実際の物理的スペクトルに対応させることに成功した。
問題の核心は次の点にある。Calabi–Yauの三次元特異点に局在するDブレーンの安定性は、直感的なトポロジーでは決して記述できない。
むしろそれはモチーフ的Donaldson–Thomas不変量と深く結びついており、これを扱うにはホモロジカル鏡映対称性と非可換変形理論を同時に理解していなければならない。
昨日、僕はその両者を結びつけ、量子補正されたブリッジランド安定性条件が実際に物理スペクトルの生成消滅と一致することを示した。
これを実際に理解できる人間は、世界でも片手で数えられるだろう。
昼食には日曜恒例のタイ料理を食べた。
ルームメイトはなぜ毎週同じものを食べるのかと尋ねたが、それはエントロピーの増大を制御する試みである。
食事の変動を最小化することで、僕の脳内リソースを物理学的難問に集中できるのだ。
しかし、彼らが戦術的に無意味な突撃を繰り返すたびに、僕は思考を4次元超曲面上のゲージ場のモノドロミーへと戻していた。
ゲームのリスポーンは、トポロジカル量子場理論における不変量の再出現と驚くほど類似している。
僕はゲームの各局面をゲージ場構成の異なる真空遷移として解析したが、彼らにはその深遠さは理解できなかった。
スピードフォースの異常を、僕は時空の計量が非可換幾何により修正された場合の有効理論として再定式化してみた。
通常の物理学者ならコミック的フィクションと切り捨てるところを、僕はモジュライ空間の虚数方向における解析接続として解釈したのである。
結果として、作中の時間遡行現象は、M理論のフラックスコンパクト化における非局所効果で説明できることが分かった。
夜は22時に就寝。日曜日という閉じた系は、僕にとって「物理学の非摂動的側面を試す実験場」であり、同時に秩序ある生活習慣という境界条件に支えられた完結したトポスである。
今日(月曜)は、昨日の計算を研究室に持ち込み、同僚が一切理解できないことを確認する予定だ。確認作業自体が、僕にとっては一種の実験である。予測通り、彼らは理解できないだろう。
タッカーとハーパーがIOCの現在のガイドラインを批判するのに対し、弁護士のパテル博士は、**新しい枠組みを「画期的なもの」として支持**しています [23]。彼女は、「国際的な統括団体が、性別の多様なアスリートのための出場資格規則の歴史上、性自認や性別の差異にかかわらず、誰もがスポーツに参加できることを確保しようとしたのは初めて」だと評価しています [23]。
パテル博士は、このガイドラインが「アドバンテージの推定なし、アスリートの尊厳と尊重」といった**インクルージョンの原則に焦点を当てていること**を強調します [24]。彼女は、この議論が科学や医学を超えて、**人権に焦点を当てることの必要性**を訴えます。バランスを確保するためには「どちらか一方ではなく」人権が不可欠であり、科学だけが決定的な要因であってはならないと主張します [24]。法律、規制、社会学、アスリート、そして最終的には人権も考慮に入れるべきだと述べています [24]。
2010年平等法(EqualityAct2010)の免除条項(身体的強さ、スタミナ、体格が重要なスポーツ競技で、公平性や安全のためにトランスジェンダーの参加を制限することが合法であるとする条項)について、パテル博士は、それを根拠にトランスジェンダーの排除を主張することは「極めて問題がある」とし、政府は「将来の法改正を検討する必要がある」と示唆しています [24]。
ハーパーは、エミリー・ブリッジズというトランスジェンダーのサイクリストに個人的に会った経験を語ります [25]。彼女は21歳の「世界クラスのアスリート」であり、「自分のスポーツをして、大学に行き、普通の生活を送る自由があるはず」だと述べます [25]。しかし、ブリッジズは今、「世界の重荷を背負い」、世界中で議論され、「ひどいことを言われたり、英雄視されたりしている」と指摘します [25]。彼女はただ自転車に乗り、大学に行き、友達と過ごしたいだけなのに、「打ちのめされている」状況であり、ハーパーにとって「個人的なレベルで、知っている人がこれほどの苦しみを経験するのを見るのは本当に辛い」と語っています [25]。
タッカーは、ブリッジズの状況は、スポーツ界が「自分たちのアスリートの意見を聞いてこなかった」ために陥った混乱の「完璧な例」であると考えています [25]。
彼は、**会話が個人に焦点を当て、「故意に不正行為をしている」「女性のスポーツに勝つため、あるいは更衣室に入るためだけに女性だと主張している」といった発言が出ることに対し、「不快で、時には不愉快」だと感じている**と述べています [26]。彼は、この議論を「非個人的に」、個々の選手に言及することなく進めることができればと願っています [26]。なぜなら、そうした言及は選手にとって不公平であり、彼らは「ルールに従っている」だけであり、「ルールこそが問題」であるからです [26]。
タッカーは、個人の決定の結果から選手を免除するのに十分かどうかは分からないが、この議論を「展示A、展示B、展示C」を必要とせずに進めるべきだと考えています。それは「かなり立ち入ったことで、時には不愉快」だからです [27]。彼は、**「人ではなく政策を議論するよう」強く推奨したい**と述べています [27]。
### 次に何が起こるか?
タッカーは、この問題がこれほど物議を醸しているのは、「誰もが等しく満足する理想的なシナリオ」が存在しないためであると指摘します [27]。
彼は、テストステロンを低下させても公平性を回復することは「不可能である」と断言します [28]。したがって、**「トランス女性の排除による公平性」か、あるいは「トランス女性の包含によるある程度の不公平性の受容」か、いずれかを選択しなければならない**と述べます [28]。スポーツ団体は、この困難な決断を下さなければならないでしょう [28]。
スポーツのリーダーたちは、「トランス女性のインクルージョンを選ぶか、女性カテゴリーを保護し、それゆえ必然的にトランス女性を排除するか」を決めなければならないとタッカーは語ります [28]。彼は「妥協の解決策は見当たらない」とし、これは**選択の問題であり、一部のスポーツはその方向に傾いている**と考えています [28]。
ハーパーは、過去数百年にわたり、**世界が人種的マイノリティやLGBTQの人々など、マイノリティに対するインクルージョンに向かって進んできた**という歴史的な視点を提供します [29]。多くの点で、「人間は異なる点よりも共有する点が多い」ことを理解するようになったと述べています [29]。したがって、人類が持つ「多様性を受け入れること」は価値のあるプロセスであり、今後も続くことを願っていると語ります [29]。
彼女は、多くの人々が実際にトランスジェンダーの人々を知らないため、「トランス女性は女性だと思っている男性」という誤解があるが、それは真実ではないと述べます [29]。トランスジェンダーの人々が持つ性自認は、「私たちの存在の不可欠な部分であり、それを切り離す方法はない」と強調します [29]。**ハーパーは、「私たちは私たちが言うとおりの存在」であり、自身を「他の女性とは異なる生理を持つ女性」と表現し、彼女の居場所は他の女性と共にあるべきだと信じています** [30]。彼女は、包摂的な社会がこれを認識するだろうと述べますが、スポーツに関しては「少し複雑である」と認めています [30]。
ハーパーは、**スポーツにおいてインクルージョン、公平性、安全性の三つすべてを最大限に高めることは、どれか一つに何らかの影響を与えることなくしては不可能である**と示唆します [30]。インクルージョンを最大限に高めれば、公平性と安全性にはいくらかのコストがかかることを認めます [30]。しかし、彼女は、これら三つの重要な要素のいずれも最大限にはならないかもしれないが、**三つすべてを最大限に近づけ、どれもが過度に影響を受けないような解決策を考案できる**と考えています [30]。
2010年平等法は、性別適合を差別からの法的保護が与えられる特性として列挙していますが、スポーツに関しては例外規定があります [31]。この法律の第195条はスポーツを扱っており、**身体的強さ、スタミナ、体格が勝敗を決定する上で重要な要素となる競技会において、公平性を確保するため、または他の競技者の安全を確保するために、トランスジェンダーの参加を制限することは合法である**と規定しています [31]。
ノッティンガム法科大学の法学上級講師であるシーマ・パテル博士は、スポーツにおける差別の研究で博士号を取得しており、競技スポーツにおけるインクルージョンと排除の規制バランスを専門としています [23]。彼女は、トランスジェンダーアスリートと法律という特定のトピックにおいて約20年の専門知識を持ち、**トランスジェンダーの参加に関する議論は科学と医学を超えて検討される必要がある**と主張しています [23]。
パテル博士は、**IOCの新しい枠組みを「画期的なもの」として支持**しており、これまで性別の多様なアスリートの出場資格規則の歴史上、国際的な統括団体が性自認や性別の差異にかかわらず誰もがスポーツに参加できることを確保しようとしたのは初めてのことだと述べています [23]。
彼女は、「アドバンテージの推定なし、アスリートの尊厳と尊重」といった**インクルージョンの原則に焦点を当てることが、これまでになかった指導であり、不可欠である**と強調します [24]。パテル博士は、**「人権への焦点はバランスを確保するために必要であり、どちらか一方であってはならない。科学が決定的な要因であってはならない。最終的には、法、規制、社会学、アスリート、そして人権の問題でもある。なぜなら、これらのアスリートは個人なのだから」**と主張します [24]。
平等法の免除条項について、パテル博士は、それを根拠にトランスジェンダーの排除を主張することは「極めて問題がある」とし、政府は「将来の法改正を検討する必要がある」と示唆しています [24]。
パテル博士の主張に対し、タッカーは、「人々は差別という言葉を聞くと自動的にそれが悪いこと、不必要で望ましくないことだと考えるが、実際には**差別は重要であり、特定の状況では正当化される場合がある**」と述べています [32]。彼は、英国の平等法が「性別が安全上重要である場合、性別に基づいて排除できることを明確にしている」と指摘しています [32]。
この議論は、科学的な事実、社会的なインクルージョン、法的枠組み、そして個々のアスリートの権利と感情が複雑に絡み合った多面的な問題であり、明確な解決策を導き出すことが非常に難しいことが示されています。
トランスジェンダーアスリートのスポーツへの参加に関する議論は、スポーツ界の内外で意見が分かれており、英国元首相ボリス・ジョンソンからもコメントが引き出されるほど注目を集めています [1]。この議論の中心は、インクルージョン、スポーツの公平性、女性スポーツにおける安全性という三つの要素のバランスにあります。具体的には、トランスジェンダー女性が、その生物学的な性別による不公平なアドバンテージを持たずに、あるいは他の競技者への怪我のリスクなしに、女性カテゴリーで競技できるかどうかが問われています [2]。
この複雑な問題について、BBCSportは異なる見解を持つ二人の科学者と一人の弁護士に話を聞いています。スポーツ科学者のロス・タッカーは、思春期に確立される生理学的差異が「男女間に著しいパフォーマンス上の利点」をもたらすと主張しています [2]。一方、スポーツ科学者であり自身もトランスジェンダーであるジョアンナ・ハーパーは、トランスジェンダーアスリートの移行が女性に与える影響を研究しています [3]。さらに、弁護士であるシーマ・パテル博士は、人権などの他の要素も考慮に入れるべきだと訴えています [3]。
###トランスジェンダー女性は女性アスリートに対して不公平なアドバンテージを持つのか?
ハーパーは、**アドバンテージが必ずしも不公平であるとは限らない**と指摘します [4]。彼女は二つの例を挙げてこの点を説明しています。
したがって、問題は「トランス女性がアドバンテージを持っているか」ではなく、「トランス女性と女性が有意義な競争ができるか」であるとハーパーは主張します [5]。そして、その答えはまだ「決定的ではない」と述べています [5]。
彼女はまた、トランス女性は、**大きな骨格が減少した筋肉量や有酸素運動能力で動かされるため、不利な点も持ちうる**と指摘します。しかし、これは単に体格が大きいというアドバンテージほど明確ではありません [6]。競争の結果は非常に僅差で決まることが多いものの、全体的なパフォーマンスには多くの要素が絡んでおり、「誰かが一つの要素でアドバンテージを持っている」というだけで結果が決まるわけではないと強調します [6]。
タッカーは、**男性が思春期に達する約13〜14歳頃から身体に変化が生じ、筋肉量や骨密度の増加、骨格の形状変化、心臓や肺、ヘモグロビンレベルの変化が見られる**と説明します [6]。これらすべてがパフォーマンスに大きく貢献します [6]。
彼は、テストステロンを低下させてもこれらのシステムへの影響は「完全ではない」と述べます [7]。そのため、**テストステロンによって作られた生物学的な差異のほとんどは、テストステロンレベルが低下した後も持続する**と考えています [7]。これは、男性が女性に対して持つスポーツ上のパフォーマンスアドバンテージの「かなりの部分」が残ることを意味します [7]。
タッカーは、**テストステロンが原因となる男性のアドバンテージを排除することが女性カテゴリーの目的である**と主張します [8]。彼は、トランス女性においてそのアドバンテージが持続しない、あるいは存在しないことが示されるまで、トランス女性の参加を許可する根拠はないと断言します [8]。
さらに、彼は**「有意なアドバンテージが維持されている」ことを示す13の研究と、テストステロンレベルが低い男性(前立腺癌患者)の他の研究がある**と指摘し、これらの証拠が総合的にアドバンテージが維持されることを強く示唆していると述べています [8]。彼は、リア・トーマスやエミリー・ブリッジズのようなアスリートの例は、生理学的に何が起こるかという予測の「表れ」であると考えています [9]。
タッカーは、女性スポーツを男性のアドバンテージ(トランス女性を含む)を排除することで規制する政策こそが、証拠に基づいたものであると確信していると述べています [9]。彼は、国際オリンピック委員会(IOC)が当初、「他に証明されるまで」参加を許可したことは間違いであり、アドバンテージが除去できると示されるまでは排除されるべきであったと批判しています [9]。
###トランスジェンダー女性は女性スポーツから排除されるべきか?
タッカーは、女性カテゴリーの目的はテストステロンに起因する男性のアドバンテージを排除することであると繰り返し強調します [8]。そのアドバンテージがトランス女性において持続しないことが示されない限り、参加を許可する根拠はないとして、**排除政策が慎重な出発点であるべき**だと主張します [8]。彼によれば、**アドバンテージが保持されていることを示す強力な証拠が既に存在**しており、リア・トーマスやエミリー・ブリッジズのようなケースはその生理学的な結果の表れであるとしています [8, 9]。彼は、IOCが当初、アドバンテージがないと証明されるまで参加を許可したことは誤りであったと強く批判しています [9]。
ハーパーは、**この分野の科学は「初期段階」にあり、確定的な答えが出るまでにはおそらく20年かかるだろう**と述べています [10]。彼女は、IOCを含む一部の機関が、詳細が判明するまでトランスアスリートを制限すべきではないと主張していることに言及します [10]。
ハーパーは、**現存するデータと知識に基づいて、スポーツの統括団体が最善を尽くし、今後より多くのデータが得られ次第、政策を変更する用意があるべき**だと提案します [10]。彼女は、世界陸連がトランスジェンダー女性が12ヶ月間テストステロンを低下させれば参加を許可するという方針を示した例を挙げ、これは完璧な政策ではないものの、利用可能な科学に基づいて最善を尽くしていると評価しています [10]。このアプローチは、トランス女性に一切制限を設けないという立場や、完全に排除するという立場よりも合理的であると考えています [11]。
###トランスジェンダーアスリートのための独立したカテゴリーは必要か?
ハーパーは、**レクリエーションスポーツでは、男性と女性のカテゴリー以外に、例えば第三のカテゴリーを設けるなど、柔軟で創造的な区分方法を検討すべき**だと提案します [11]。
しかし、彼女は厳密にすべてのトランスアスリートをトランスカテゴリーに入れることの**実際的な問題点**を指摘します [12]。人口の49.5%を占める男性カテゴリー、同じく49.5%を占める女性カテゴリーに対し、トランスカテゴリーは人口のわずか1%しか占めません [12]。これにより、「英国がトランスジェンダーのサッカーチームを編成できるのか?そして他の国が同様のチームを編成できるのか?英国のトランスジェンダーサッカーチームには対戦相手がいるのか?」といった問題が生じ、特にチームスポーツにおいては、「エリートスポーツでは機能しない」ため、事実上不可能であると述べています [12]。
ハーパーは、カテゴリー分けは必ずしもアドバンテージを完全に排除するわけではないが、そのカテゴリー内の誰もが「有意義な競争」を楽しめる程度にアドバンテージを減らすものであると説明します [13]。女性がオリンピックで金メダルを獲得したり、プロスポーツの契約を結んだりするためには、男性がカテゴリー内にいてはならないと述べています [13]。しかし、男性の思春期を経験したトランス女性がそのカテゴリーにいられるかどうかは、「まだ決着がついていない問題」であると認めています [14]。
タッカーは、**将来的にトランスカテゴリーが解決策となる可能性もある**と認め、それはある意味で「非常に前向きな一歩」であると述べています [14]。しかし、彼は**現時点では世界がその準備ができていない**と考えています [14]。
主な問題点として、**アスリートの数が非常に少なく、スポーツ競技やカテゴリーとして存続できるほどの規模を維持できない可能性**を挙げています [14]。
もう一つの問題は、**トランスであることに対するスティグマが依然として多く存在し、スポーツを通じてプラットフォームを強制したり作成したりすることが、そのスティグマの克服に役立つかどうか疑問**であるという点です [15]。むしろ、特定の障壁が生じる可能性もあると指摘します [15]。また、世界にはトランスであることを違法と見なす国もあるため、社会がまだその準備ができていないし、公平でもないだろうと述べています [15]。
それでも、彼は将来のある時点で解決策となる可能性はあるが、現時点では時期尚早であると考えています [15]。
###トランスジェンダー女性は女性スポーツを「乗っ取る」のか?
ハーパーは、**トランス女性が女性スポーツを「乗っ取る」ことは決してない**と断言します [16]。まず、トランスジェンダーの人々は人口の約1%を占めるに過ぎないと指摘します [16]。
彼女は米国大学体育協会(NCAA)のスポーツを例に挙げます。毎年20万人以上の女性がNCAAスポーツで競技しており、トランス女性が人口の0.5〜1%を占めることから、毎年1,000〜2,000人のトランス女性が見られるはずだと計算します [16]。しかし、NCAAが11年前にホルモン療法に基づいたルールでトランス女性の参加を許可して以来、「毎年ほんの一握りしか見かけない」と述べています [16]。したがって、**ルールが施行されて11年経っても、トランス女性はNCAAスポーツを乗っ取っておらず、依然として「大きく過小評価されている」**と結論付けています [17]。
タッカーは、問題は「規模と数」ではなく、**「概念」にある**と主張します [17]。彼は女性たちに「何人までなら受け入れるのか?」と問いかけ、5人、10人、あるいは50人でも受け入れるのかと疑問を呈します [17]。
彼は、ここしばらくの間に少数のトランスジェンダー女性アスリートが存在し、米国では世界的な注目を集めていない他の多くの選手もタイトルを獲得していると述べています [17]。そして、これらの選手たちは**女性スポーツカテゴリー内で女性の「場所を奪っている」**と強調します [18]。そのため、数を問題にすることは非常に危険であると考え、2028年のオリンピックでは、半ダース、あるいは一ダースの選手が見られるようになるかもしれないと予測し、「この問題は拡大するばかり」であると警告しています [18]。
###IOC(国際オリンピック委員会)の政策についてどう考えるか?
国際オリンピック委員会(IOC)は、2021年11月の新しいガイドラインで、**トランスジェンダーアスリートが女性スポーツイベントにおいて自動的に不公平なアドバンテージを持つとは仮定すべきではない**と発表し、個々のスポーツ団体に適切なアプローチを見つけるよう求めています [19]。
タッカーは、**IOCが最初から女性スポーツの健全性を犠牲にしてインクルージョンを追求しようとしていたことが「極めて明確である」**と主張します [19]。彼は、IOCの現在の姿勢は、過去7、8年前よりも多くの知識があるにもかかわらず、「アドバンテージの推定なし」という「異常な声明」を出しており、さらに健全性を損なうものであると批判します [19]。
彼は、以前にも述べたように、より多くの証拠がアドバンテージの保持を示しているにもかかわらず、IOCがテストステロン測定の必要性をなくす方向へ進んだことは、**「科学的健全性の根本的な欠如」**であると厳しく非難します [20]。彼は、ほとんどのオリンピック競技がこの決定を下す能力や証拠を持っていないため、IOCがより強力な枠組みを提供しなかったことは「リーダーシップの失敗」であると見ています [20]。タッカーは、IOCが「科学的に欠落した政策ガイドライン」を採用したため、この問題が拡大し続ける中で各スポーツ団体が自力で解決しなければならなくなったと述べています [21]。
ハーパーは、新しいIOCの枠組みには「十分な実質がない」とし、データが得られるまでいかなる制限も設けるべきではないという考えには同意しないと述べています [21]。彼女は、IOCがインクルージョンを優先したことは価値あることと認めつつも、**世界陸連のような、より積極的な姿勢を示す例を好む**と述べています [21]。世界陸連は、「これが我々がすべきことだと考える」と述べ、すべてのスポーツに適用できるわけではないと理解しながらも、よりリーダーシップを示しているからです [21]。この点で、IOCを批判することは可能であるとハーパーは考えます [21]。
ハーパーは、トランスジェンダー政策を策定することは「極めて困難」であり、どのような政策に対しても批判が生じるのは当然だと述べます [22]。彼女は、IOCが異なる行動をとっていればと願う一方で、トランス女性とシス女性の両方、そしてスポーツ統括団体も「非常に困難な状況」に置かれていることを認め、ある程度の同情も必要であると付け加えています [22]。
タッカーとハーパーがIOCの現在のガイドラインを批判するのに対し、弁護士のパテル博士は、**新しい枠組みを「Permalink |記事への反応(1) | 13:34
3次元のサイクルの群(3 本立ての「輪ゴム」みたいなもの)に、基底を 4 つ用意する(鏡クインティックでは、周期積分の都合で 4 本の独立成分を見るのが標準的)。
これらに対応して、4つの周期関数(各サイクルに対するホロノミーのようなもの)がある。位置(=モジュライ空間の点)を動かすと、この4成分ベクトルが解析接続でグルグル混ざる。
右左で 2 つずつある超対称荷重は、(c,c) と (a,c) の2つのリング(演算ができる「カード束」)を生む。
物理の実体:タイプ IIB なら (c,c) 側が「複素構造のゆらぎ」を担う質量ゼロのスカラー場の多重体になり、タイプ IIA なら (a,c) 側が「サイズや形(カヘラー構造)」のゆらぎを担う。
つまり「世界面の演算で作ったカード束」と「多様体の引き出し(ホモロジー/コホモロジーの基底)」が、1 対 1 でラベリングし合う。
10次元→4次元にただ潰すのではなく、内部 6次元の洞(サイクル)の数・組合せを、4次元の場(ベクトル多重体やハイパー多重体)の数に移し替える。
机に喩えると:内部空間の引き出し(サイクル)が 4次元側のつまみ(ゲージ場やスカラ場)の数を決める。引き出しの数や入れ替え(同値変形)が物理の自由度の型を縛る。
さらに、D ブレーン(弦の端点がくっつく膜)の種類と積み重ね方は、ホモロジー群や K理論の元、より精密には派生圏の対象としてカタログ化される。これが後の「圏の自己同型」と噛み合う。
2. コニフォールド点(どこかでS³ がしぼんで消える。そこに巻き付いたブレーンが「超軽い粒子」になる)
3. Gepner/Landau–Ginzburg 点(右端の対称性が濃い領域)
それぞれの周りで、上の4 成分の周期ベクトルに対して、行列で表される混ぜ合わせ(モノドロミー)が掛かる。
コニフォールドでは、1 個の 3-サイクルが消えるため、それに伴うピカール=ルフェシェッツ型の写像が起き、周期ベクトルの1 列が他を足し上げる形で変わる(行列はほぼ単位行列で、1 行に 1 が足されるような単冪的挙動)。
大複素構造点の周りでは、「無限遠の反復」に相当する別種の行列が出る。
実験的に何をするか:一点から出発して数値的に周期を解析接続し、各特異点を一周して戻る。戻ってきた周期ベクトルが、元のベクトルにどんな行列が掛かったかを記録する。これがモノドロミー行列群。
ふつうは鏡対称のピカード–フックス方程式や(プレポテンシャルの)級数で扱うけど、君の問いは「鏡の装置を超える」方法。
1.tt*幾何(世界面 N=2 の基底選びに依らない量子地図)を導入し、基底のつなぎ目に出る接続+計量を測る。
2. 等角変形を保つ2d QFT の等時的変形(isomonodromy)として、特異点位置を動かしてもモノドロミーは保つ流儀に書き換える。
3. その結果、量子補正の非摂動成分(例えば D ブレーン瞬間子の寄与)が、ストークスデータ(どの方向から近づくかでジャンプする情報)としてモノドロミーの外側にぶら下がる形で整理できる。
4. 実務では、ブリッジランド安定条件を使って、安定なブレーンのスペクトルが特異点近傍でどこで入れ替わるか(壁越え)を地図化。壁を跨ぐとBPS状態の数が飛ぶ。これが 4次元の量子補正の影。
圏側:派生圏の自己同型(Fourier–Mukai 変換、テンソルでのねじり、シフト)
を対応させる(例:コニフォールドのモノドロミー ↔ セイデル=トーマスの球対象に対するねじり)。
特異点ごとの局所群(各点のループで得る小さな行列群)を、圏側では局所自動同型の生成元に割り当てる。
複数の特異点をまたぐ合成ループを、圏側では自己同型の合成として言語化し、関係式(「この順番で回ると単位になる」等)を2-圏的に上げる。
壁越えで現れるBPSスペクトルの再配列は、圏側では安定度の回転+単正変換として実現。これにより、行列表現では見切れない非可換的な記憶(どの順で通ったか)を、自己同型のブレイド群的関係として保持できる。
こうして、単なる「基底に作用する行列」から、対象(ブレーン)そのものを並べ替える機構へと持ち上げる。行列で潰れてしまう情報(可換化の副作用)を、圏のレベルで温存するわけだ。
1.モデル選定:鏡クインティック、もしくは h^{1,1}=1の別 3次元 CY を採用(単一モジュライで見通しが良い)。
2. 周期の数値接続:基点をLCS 近くに取り、コニフォールド・Gepner を囲む3 種の基本ループで周期を運ぶ。4×4 の行列を 3 つ得る。
3. 圏側の生成元を同定:コニフォールド用の球ねじり、LCS 用のテンサーby直線束+シフト、Gepner 用の位相的オートエクイバレンスを列挙。
4.関係式を照合:得た 3つの自己同型が満たす組み合わせ恒等式(例えば「ABC が単位」など)を、モノドロミー行列の積関係と突き合わせる。
5. 壁越えデータでの微修正:ブリッジランド安定度を実装し、どの領域でどの対象が安定かを色分け。壁を跨ぐ経路で自己同型の順序効果が変わることをBPS 跳びで確認。
6. 非摂動補正の抽出:等長変形の微分方程式(isomonodromy)のストークス行列を数値で推定し、これが圏側の追加自己同型(例えば複合ねじり)として実装可能かを試す。
7.普遍性チェック:別 CY(例:K3×T² 型の退化を含むもの)でも同じ字義が立つか比較。
特異点巡回で得る行列の群は、派生圏の自己同型の生成元と関係式に持ち上がり、壁越え・BPS 跳び・ストークスデータまで含めると、鏡対称の外にある量子補正も自己同型の拡大群として帳尻が合う見通しが立つ。
これに成功すれば、物理の自由度→幾何の位相→圏の力学という 3 層の辞書が、特異点近傍でも失効しないことを示せる。
Q. コニフォールド点を一周することで本質的に起きることを、もっとも具体に言い表しているのはどれ?
A) すべての周期が一様にゼロへ縮む
B) ある 3-サイクルが消え、それに沿った足し込み型の混合が周期に起きる
グライス流仄めかし(Gricean insinuation)は、**話し手が論争の的となる内容を会話に導入しつつ、それを公式には述べていないと同時に示す**ことで、二つの目標を達成するコミュニケーション行為です [1]。これにより、話し手は異議を唱えられた際に、**その暗示されたメッセージに対する意図を plausibly deny(もっともらしく否定)できる**という特徴があります [1]。
筆者は、グライス流仄めかしを「**部分的に公然(partially overt)であり、かつ部分的に隠然(partially covert)であるコミュニケーション**」と定義しています [1-3]。つまり、その背後にある意図は認識されることを意図していますが、それが認識されることを意図されていると認識されることは意図されていません [3, 4]。
このグライス流仄めかしが心理的にもっともらしい否定可能性を維持するために利用するメカニズムが、**フェイク一方通行鏡効果(FakeOne-WayMirror Effect)**です [2, 5-7]。この効果は、**話し手が自分の意図が聞き手に認識されるかどうかについて無関心を装う**ことで生じます [5, 8, 9]。
フェイク一方通行鏡効果の例と、それがグライス流仄めかしにどう関わるかについて説明します。
この効果は、**話し手の意図の反復的な構造((SM2)で示されるような無限の連鎖)や、会話の文脈が更新される際の共通信念(common belief)の反復的な構造を途絶させる**ことで生じます [10-15]。話し手は、聞き手が自分の意図を認識することを意図しているという事実を、聞き手が認識しないように仕向けます [11, 13, 15-17]。
### 具体例
1. **「仕草でばれる笑顔(GiveawaySmile)」のシナリオ** [16, 18]
* **状況**: アン(社員)がピーター(上司)とブリッジをしています。アンはピーターに勝ってほしいし、そのことをピーターに知ってほしいと思っていますが、露骨にはしたくありません [16, 18]。
* **行動**: アンは、良い手札のときに自発的な喜びの笑顔を装います [16, 18]。この笑顔は、ピーターに「アンが良い手札を持っている」と信じさせることを意図して作られています。アンはピーターがこの意図(i1)を認識することを意図しています(i2) [16, 18, 19]。
* **フェイク一方通行鏡効果**:しかし、アンはピーターが「彼女の笑顔が、彼に自分の手札が良いと信じさせようとする意図をもって行われている」という彼女の意図(i2)を認識することを隠したいと思っています [16, 18]。つまり、彼女はピーターに、彼女の笑顔が彼に良い手札があると信じさせる意図(i1)をもって作られたことを認識させたいが、その意図(i1)が公然であること、ひいては彼女の笑顔が「伝える」行為であることを彼に認識させたくありません [16, 18]。
* **結果**: アンは、ピーターが自分の演技された笑顔が、彼に良い手札があると信じさせる意図(i1)をもって行われたことを認識することを意図しているという彼女の意図(i2)を、ピーターが認識しないようにします(i4') [11, 16]。これにより、アンは「良い手札があることを伝えた」という責任を回避できる、**心理的にもっともらしい否定可能性**を維持します [6, 19]。ピーターはアンの意図を認識しますが、その意図が公然であるかどうかについて不確かなままです [6]。
2. **サリーとハリー、ジョンとマリアのシナリオ(修正版)** [13,20-22]
* **状況**:サリーとハリーがベンチに座っていると、ジョンがバスから降りてくるのを見かけます。サリーは「今週、マリアの家の近くのバス停でジョンがバスから降りるのを見たのはこれで3回目だわ」と言います(発話 (3)) [20, 22]。
* **グライス流仄めかし**:サリーは、ジョンとマリアが不倫関係にあることを仄めかそうと意図しています(Q) [13, 21]。
* **フェイク一方通行鏡効果**:サリーは、ハリーがジョンとマリアが不倫関係にあると信じること(i1)を意図していることを、ハリーが認識すること(i2)を意図しているかのように振る舞いつつも、**その意図(i2)が満たされているかどうかに無関心を装います** [8, 9]。
* **結果**:サリーのこの「無関心のふり」は、会話におけるフェイク一方通行鏡として機能します [8, 9]。これにより、ハリーはサリーがQを伝えようとしていることを理解する一方で、サリーがその意図(i1)を認識することを意図しているかどうかについて不確かなままになります(i4'が満たされる) [9, 13, 15,17]。この不確かさにより、サリーは「Qを伝えようとした意図はなかった」と**もっともらしく否定できる**立場に置かれるのです [7, 9,17]。
3. **クラブでの喫煙者とFのシナリオ(修正版)** [23,24]
* **状況**: Fと恋人のOがクラブの列に並んでおり、後ろに喫煙者がいます。FはOがタバコを持っていないことを知っていますが、Oに「ああ、タバコが一本あればな。何か持ってる?」と言います [23]。
* **グライス流仄めかし**: Fは、Oに話しかけることで、後ろの喫煙者にタバコを差し出すように促すことを意図しています [23-25]。
* **フェイク一方通行鏡効果**: Fは、喫煙者が、彼がタバコを要求する意図(i1)をもって発話していることを認識すること(i2)について、**無関心を装います** [24, 25]。
* **結果**: この「無関心のふり」により、Fは会話的なフェイク一方通行鏡効果を生み出します [25]。これにより、喫煙者はFの意図を認識するものの、Fがその意図が認識されることを意図しているかどうかについて不確かなままになり、Fは**心理的にもっともらしい否定可能性**を維持できます [7, 25]。
フェイク一方通行鏡効果は、**グライス流仄めかしの根幹をなすメカニズム**です [2, 5-7]。グライス流仄めかしの話し手は、**「部分的に公然」というコミュニケーション戦略を通じて、自分の意図が特定のレベルを超えて認識されないようにする**ことで、この効果を生み出します [3, 6, 8,11]。これにより、**潜在的に問題のある内容を会話に持ち込みながら、それを非公式なものとしてマークし、挑戦された際には意図を否定できる立場を確保する**ことができます [1, 7, 21]。
この効果は、**話し手が意図の履行に対する関心を示さないことを装う**ことによって達成されます [8, 9]。通常、コミュニケーションでは、話し手は自分の意図が聞き手に認識されることに関心を示すものですが、仄めかしの話し手はこの関心を装って隠します [9]。これにより、聞き手は話し手の意図を認識したとしても、その認識が話し手によって認識されているかどうか、つまり**意図が公然であるかどうかについて不確かな状態**に置かれます [9]。この不確かな状態こそが、**否定可能性**を可能にするのです [7, 9,17]。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。
第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。
もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
所謂いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。
[#改頁]
第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛かみながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。
また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。
それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりも鰐わによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。
人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。
自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、
「それあ、葉ちゃん、似合わない」
と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように見せかけていたのです。
自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。
いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。
「葉蔵は?」
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。
自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、
「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」
欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。
「本が、いいでしょう」
長兄は、まじめな顔をして言いました。
「そうか」
父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。
何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。
そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。
「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」
また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。
自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。
自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。Permalink |記事への反応(1) | 20:22
泣き過ぎて、目が溶けた。
死に過ぎて、心が砕けた。
その破片を喉に流し込んだ。
ああ、これでやっと唄える。
それでは聞いて下さい。
曲名は、「泣き過ぎて、死に過ぎて、神が宿った」
(Aメロ - 静かな緊張感を伴って)
(サビ - 全ての楽器が爆発するように)
神が宿ったのではない! 私が神と成り代わった!
お前たちの白々しい光など この深淵の闇を照らせはしない!
お前たちの安っぽい「愛」じゃ この聖痕(スティグマ)は決して塞がらない
(Bメロ 2 - 再び加速し、怒りを込めて)
(サビ - 1回目よりもさらに激しく、絶叫に近い)
神が宿ったのではない! 私が神と成り代わった!
お前たちのちっぽけな正義など この罪の前では塵と同じ!
(Cメロ / 間奏 -テンポが急激に落ち、荘厳なクワイアとアルペジオ)
…この地獄こそ、私が望んだ聖域。
…この痛みこそ、私が愛した戴冠式。
…誰にも、何人(なんぴと)たりとも、この神域を侵させはしない…
(ギターソロ -テクニカルで、泣き叫ぶようなメロディと、重厚なリフが交錯する)
…ああ、これでやっと…
…独りになれた…
神が宿ったのではない! 私が神と成り代わった!
お前たちの白々しい光など この深淵の闇を照らせはしない!
(アウトロ -ギターのフィードバックノイズと、遠ざかる鐘の音。最後に、冷たい声で一言)