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「フェアユース」を含む日記RSS

はてなキーワード:フェアユースとは

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2025-10-22

アンディ・ウォーホルは確かにキャンベル缶やマリリン・モンロー写真などを無断でモチーフにして作品を作っている

 

1960年代という時代背景では、今日ほどに著作権画像使用に対する意識や法的規制が明確・厳格では無かったから、やり過ごしていた面もある

ウォーホル自身活動が「ポップアート」の文脈にあったから、既製品マスメディア画像の「引用」が芸術運動手法として考えられている面も確かにある

 

ただ、著作権侵害をめぐる訴訟も起きていて、最近では2023年5月に米最高裁が、ウォーホルが別の写真撮影プリンス写真を無許諾で用いた作品は「フェアユースではない」と判断されている

後の裁判でアウトになるケースもあるということだ

これは現代日本でも一緒だろう

Permalink |記事への反応(0) | 17:55

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2025-10-12

anond:20251012230949

欧米といっても欧と米ではずいぶん異なるよ

フェアユース概念米国しかなく、EUでは否定的

ただしフェアユースと言えど商用利用の場合使用目的商業である場合、その使用本来著作権者の独占的な権利侵害する可能性が高まるため、フェアユースの主張は通りにくくなる。

Permalink |記事への反応(0) | 23:13

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anond:20251012230222

欧米ではフェアユース権利として認められている。

非営利ならなんでもOKにしたほうが、文化は発展するという思想

Permalink |記事への反応(3) | 23:09

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2025-10-08

anond:20251008221644

データ投げ売りしたのが最悪

勝手学習していいから、ライセンス料がっつり取るべきだった

GPUNVIDIA死ぬほど儲けたけど、コンテンツ提供本来なら日本も潤った可能性はあった

バカからアメリカフェアユースがあるから仕方ないと言って抗議どころか交渉すらしない

国と国の関係勝手治外法権適用して自滅してる植民地マインド

Permalink |記事への反応(1) | 22:32

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2025-10-02

Sora2の件でディズニーが云々言ってるやつってディズニーとかは学習に対して文句言うのではなく出力に対して文句いうスタンスから

日本クリエイター()は学習に対して文句うから意味がない

学習に関しては普通にフェアユース判決出てるケースもあるぐらい現状曖昧から狙うなら出力に対して法整備要求すべき

実際EUも出力に対して制約かけてきてるし

Permalink |記事への反応(3) | 23:27

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2025-09-17

生成AIが出力した画像商標が描かれるのは合法かどうかを考えていて、

アンディウォーホル作『キャンベルスープ缶』は、アメリカ法律で考えれば、アートだし、フェアユース範疇か?とか、

アニメ作品マクドナルド商標をワクドナルドにするのが正しいのか?とか、

写真に写り込んだ商標はセーフなのか?とか、

考えてたんだけど、

増田に来たら、エロがどうのとか、ノイズがどうとかで盛り上がっていて、

日本平和だなーと思った次第。

Permalink |記事への反応(0) | 09:41

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2025-09-15

リプライ漫画コマ貼っ付けることへの批判

著作権侵害

コミュニケーションを借り物の言葉でやってる的な、人間的な話

の2つが批判されてることが多い。

でもなあ、まず著作権侵害に関しては、ニコニコ動画MAD文化とかを享受した俺がそんなこと言ってええんか? となる。

あと、漫画村とかと違って、1コマだけだから収益に影響することなんて無さそうだし、(日本にはないけど)フェアユース的に良くね? って思う面もある。

で、多分真に嫌われてる理由は2番目で、「アレをやってる人間は、自分言葉を作らないで何か言った気になってる、薄っぺら人間だ」って話なんだろうけど、教養があると言われるシェイクスピアとかの引用と何が違うのかって考えると結構難しい気がする。

いやまあ、俺も、古典引用する人と、漫画コマ貼っ付ける人だったら、前者の方が圧倒的に好印象になっちゃうけど、何が違うかの説明は意外と難しい。

後者の方が論破目的が多いとかかね。

Permalink |記事への反応(2) | 21:50

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2025-09-11

和解たから”AI学習フェアユース”は判例にならなくなった」

BARTZet al. v. ANTHROPICPBC

でAnthropicが略式判決申し立て


通常のアメリカ民事裁判の流れ

1.訴訟の開始 (Pleading)

2.証拠開示 (Discovery)

3. 審理 (Trial)

陪審員の選定 (Jury Selection)

冒頭陳述 (Opening Statements)

証拠提示 (Presentation ofEvidence)

最終弁論 (Closing Arguments)

陪審評議 (Jury Deliberation)

4.判決 (Judgment)

5.控訴 (Appeal)


略式判決

事実関係に争いがなく、法的な問題だけで判決を下すことができる

裁判官がこの申し立てを認めれば、陪審による審理(Trial)を経ることなく、書面上の証拠と法的議論に基づいて判決が下される。

これは、裁判を迅速化し、当事者負担を減らすことを目的としている。



略式判決

略式判決

と略式判決命令がでた。

略式判決部分的承認

承認された部分:裁判官事実の争いがないと判断した、被告の主張が認められた部分。この部分については、最終的な判決が確定し、それ以上審理されることはない。

却下された部分:裁判官事実の争いがあると判断した、原告被告の主張が対立している部分。この部分は、引き続き陪審による審理に進む。

この段階では

AI学習フェアユース合法」は最終的な判決が確定

違法ダウンロードフェアユースでない」はまだ確定していない

12月違法ダウンロードフェアユースかどうかの審理に進む予定だった。

和解

審理に進む前にBartz と Anthropicが和解した。

和解内容はこれから審理に進む予定だった違法ダウンロードフェアユースか否かの部分。

和解内容にはAI学習に関する項目は無い。

(和解で略式判決部分的承認を取り消すことが出来るけれど今回それをしなかった)

結果

AI学習フェアユース合法」は最終的な判決が確定のまま。地裁のため法的拘束力は無いが、他法域や同格裁判所で引用可能

違法ダウンロードフェアユースでない」は審理そのものが無くなったので、地裁すらない。説得的権威も無くなった。

アメリカ判例法主義

垂直的先例拘束力上級裁判所判例は、下級裁判所を法的に拘束する。

水平的先例拘束力裁判所は、過去自身が下した判例尊重し、基本的にそれに従うべきだという原則

今回の裁判はまだ連邦地方裁判所

地方裁判所より下級の裁判所が無いので法的拘束力は無い。説得的権威 として他の裁判から参照される。日本の下級の裁判所の裁判例に近い感じ。ただし日本裁判例より重い説得力を持ち、事実上の指針となる

拘束力を持つ裁判結果となるためには上級裁判所で審議して判決を受けないといけない。

上訴するうえで。

自身にとって不利な内容に対してのみ上訴出来る。

今回

AI学習フェアユース合法」はAnthropicにとって有利な判決のためAnthropicは上訴できない。

AI学習フェアユース合法」はBartzにとって不利な判決のためBartzは上訴できる。

違法ダウンロードフェアユースでないに関してはAnthropicにとって不利な判決のため上訴できたが、今回和解したので上訴できない。

仮に Anthropicが違法ダウンロードフェアユースでないに関して上訴しても、AI学習フェアユース合法上級裁判所では扱わないので地裁判断のままで拘束力を持つ裁判結果にはならない

和解たかAI学習フェアユース合法判例にならなかった」に関して

和解AI学習フェアユース合法を破棄していないのでAI学習フェアユースであるとの裁判結果は有効のままのため「和解たかAI学習フェアユース合法判例にならなかった」は間違い。

和解無意味になったのは違法ダウンロードフェアユースでないに関してのみ。

そもそも連邦地方裁判所命令から法的拘束力を持たない。

和解の結果拘束力を持たないのではなく

拘束力を持たせるためにはクリエータ側だけが上訴できるのにしていないから。

和解たかAI学習フェアユース合法判例にならなかった」は誤り。

(上訴できる期限は最終判決または命令登録されてから30日以内。まだ、和解裁判所が承認していないから、Bartzが上訴する可能性だけならある。)

Permalink |記事への反応(0) | 21:54

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2025-09-02

anond:20250902033621

そうなんだ、じゃあ不勉強な俺にフェアユースってどういうもの説明して欲しいな 煽りじゃなくて学びたいんだ 頼むよ

Permalink |記事への反応(1) | 03:41

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anond:20250902032013

Midjourny側はフェアユースで応答書を出してきたニュースも当然知ってるでしょ? つまり俺が言うそ精神もやっぱりあるんだよ

どこからそんな勘違いが?ってソース元は俺の海外の友人が直に俺へ言ったこ

Permalink |記事への反応(1) | 03:40

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海外フェアユース精神があって、人の能力神様から与えられたものから人そのものでなしえたものではない、この世にある絵や曲や文章などいかに優れた芸術成果物も元は神様のもの

よって皆で分かち合うことに倫理的瑕疵はない

そういう考えは日本ではあまりないのでそりゃぶつかるよなと生成AI

Permalink |記事への反応(1) | 03:13

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2025-08-30

ある意識高い系が鰻の心配をやめてしょっちゅう蒲焼きを食うようになるまで

昔の増田は割と意識高い系だった。高い割に何もしないあたりが完全に高い系だった。

そんな中、一つだけ一時期ガチ実践してたのが「鰻をなるべく食わないようにする」こと。

もちろん意識高い系から理由は単純で、鰻は絶滅危惧種から。元々鰻は大好物だったから、「子々孫々まで美味しい鰻を残さねば」と高い系な割にこれだけは頑張ってたと思う。大学時代から就職してしばらくの間は本当に買ってなかった。

それが就職後に「一人のやれることとかたかが知れててバカバカしい」となるまでの思い出が以下の通り。

山のような冷凍

増田意識高い系ありがちな通りそこまで頭はよろしくなく、就職活動は普通に難航して一般職として内定式直前くらいの時期に何とか滑り込み地方倉庫に配属された。

その業務はあるスーパーチェーンへの冷蔵商品輸送。日々肉魚野菜その他を地域の店向けに送り出す。その庫内作業担当だった。

というわけで、当然「土用の丑の日」にかち合う。

土用の丑の日スーパー側の熱の入れようは凄かった。お陰で倉庫下請けしてたうちにも予約販売の紙がまわり、うちの糞上司は頼まれてもないのに支店管内の倉庫No.1の予約数を目指せとか言い出し、増田は更に下請けの各社にまで鰻買いませんかの案内とか集金支払等々をやらされた恨み辛みは取り敢えず置いておく。

当然、土用の丑の日に合わせて文字通り山程の鰻が入荷する。冷凍品なんだが、自重で下の方の箱は潰れてたし、「冷凍で出荷してるから中身は問題ない」との判断が下され無心で各スーパーにばら撒いていた。

間中はそんな毎日が続くと、高かった意識も箱のように潰れていく。しかも、このスーパーチェーン店は他県にもあるからこの山の数倍は鰻が流通してるわけだ。しかもうちの倉庫支店内で最小規模だからこの推定でさえ最低値であるしかも当然、競合スーパーというものはそこら辺に多くある。

そんな中で増田一人が鰻を食わないからってどうなるのか。いや、例え意識高い系が一万人集まって鰻にNO!を突きつけてもどうなるのか。この鰻たちは既に死んで蒲焼きになってるから、我々が食わなくとも生殖することもなく、ただ廃棄されるだけである。いや、たとえ全国民が食わなくなったとしても、冷凍保存されてるから時間的猶予がある。何か別種の製品に加工されて知らぬ間に流通するのが関の山だろう。スーパー商売熱は凄まじいし、国民全員が意識高くなってもそれをすり抜ける商品を出してくる。理屈抜きにその確信が出来てしまった。

そんなもの物見る前に気づけよだから意識高い系なんだよ、というお言葉には正直ぐうの音も出ないが、言い訳させてもらえばこう言うのは現実を突き付けられないと実感は持てないと思う。あの雑に積み上げられた鰻の山は本当にインパクトがあった。ついでに言えば、予約の職場窓口をさせられたのも良くない。買っちゃいけないと思っていたもの自爆営業で買わされ、二桁単位で舞い込むオーダーを集計すると感覚が狂う。

その後

増田は鰻について心配をやめた。厳密に言うと、流通してる分についての心配はしなくなったし、普通に鰻は買っている。

未だに鰻の漁獲規制とかそのへんの大きな政策には賛成してるが、小さな抵抗とかフェアユースがどうしたとかは消費者レベルでやってもどうしようもないと思う。どうせ大資本商品開発力に比べれば微々たる力だし、鰻が生き返るわけでもない。どうせ店頭に並んでる鰻は食われるか捨てられるかの二択なのだ。意地張ってたらそのうち鰻は絶滅し、増田絶滅以前から鰻を食えずに終わる。もっと根本的なところで政策が変わらない限り結果は一緒なのだ。なら食ってたほうが得である。食えなくなったら100年前から鰻乱獲に反対してた顔すりゃ良い。

そんな事鰻漁獲規制ニュースを見て思い返していた。鰻いっぱい食っといて良かったぁ! これで心置きなく鰻のない日々を過ごせる。いや、何か抜け道が発生しなければ、の話だが。

Permalink |記事への反応(0) | 09:27

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2025-08-27

anond:20250827194915

フェアユース

Permalink |記事への反応(0) | 19:49

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2025-08-24

個人的意見としては、この件私は、YOSHIKIさん側の国内外の何らかの権利侵害していると考えています」と表明。

相変わらず、ネットで上がってくる弁護士バカばっかり。

YouTubeとかを国際基準と仮にするならアメリカフェアユースって考えからもっと緩いよ

日本アニメリアクション動画とか上げてて

日本アニメ制作会社は権利にうるさすぎる!

とか言われてるのが国際基準だが?

DJリミックスとかも基本無許可よね

それで世界スターかになってるけど?って感じ

Permalink |記事への反応(0) | 19:07

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2025-08-23

anond:20250823110234

フェアユースって概念がないからな

Permalink |記事への反応(0) | 11:04

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2025-08-14

RiJと日本ゲーム配信著作権問題

 RTA inJapan任天堂の許諾を取っていないので今回(RiJ2025Summer)は任天堂ソフト採用はなし、絶賛イベント中だ。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/rtain.jp/rtaij/nintendo/

 許諾取れなかったニュースブコメで「アメリカの同種イベントでは非営利使えるのに」「任天堂ってやつはよぉ」(増田による意訳)というコメントを見かけたので、昔に読んだ著作権法知識と突き合わせて Copilot に聞いてみた。

 フェアユースって日本でできたっけ?

---

https://keiyaku-watch.jp/media/kisochishiki/fair-use/

📝 ページの要約:「フェアユースとは?米国における法理や日本における取り扱いなどを分かりやす解説!」

このページでは、著作権に関する「フェアユース(Fair Use)」の概念について、米国日本法制度の違いを中心に解説しています

---

🇺🇸米国におけるフェアユースの法理

1. 利用の目的性格営利非営利か、教育目的かなど)

2.著作物性質事実創作か)

3. 利用された部分の量と重要

4. 利用が著作物市場価値に与える影響

---

🇯🇵日本における取り扱い

-私的使用目的の複製

-図書館等での複製・提供

-引用一定の条件を満たす必要あり)

-教育目的での掲載・複製・送信

-時事問題に関する報道・論評

- 公開された政治的演説の利用

-障害者支援のための複製

-行政司法目的の内部資料としての利用 など

---

💡 補足ポイント

---

はえー。

イベントマリオ使わせてちょーだい」

 

アメリカ任「フェアユース範囲勝手にやって良いよ」

アメリカインディーズ「上に同じ」

 

日本任「書類作るから待ってね~ハンコ押してね〜」

日本企業「いちいち面倒くさいかガイドライン見て!!!

 

というのが現状なのか。

インディーズ作者は規模によってパンクしそう。

 

---

 

ほんなら、RTA配信見たい側のやることは、日本任天堂ケチやわぁ…じゃなくて、日本フェアユースを作れ、のロビー活動なのかな。

 

くりした先生、やりませんか!?

Permalink |記事への反応(0) | 02:29

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2025-07-11

anond:20250711110548

生成AI規制著作権者権力強化だから表現の自由とは逆方向だろ

表現の自由を進めるならむしろAI規制をゆるめてフェアユースの幅を広くするべき

Permalink |記事への反応(0) | 11:08

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2025-07-07

[めも]Metaのあれで反AI判事ぐぬぬぬとしながら出した判決

一つは

一つ目の要素の利用の目的性質原告限定の条件なしに

変容的利用が認められた

これは原告以外にも同じロジックで同様に認められてしま

利用された部分の量と実質性、も同様

もう一つは

4つ目の要素の著作物潜在的市場または価値に対する利用の影響

判決とは関係なしに判事個人的感想原告妄想じゃなくてちゃん証拠そろえて損害主張してたら勝たせてあげたのに!

ほとんどのもの価値に対する影響があるだから、基本全部フェアユースじゃない

この判決原告ちゃんとしてなかっただけだから

といって

色々アドバイス出してたけれど

……

実際どうよ?

例えば、原告著作物学習していないAI学習しているAI比較とか

基本原告むりじゃね?ディスカバリーとかでパラメータとか教えてもらえても、どの原告がそのAI作れるん?

例えば、損害額の算定だけど、裁判は、原告被告という二者間の対立から

裁判関係ない第三者から受けた損害を被告請求することは出来ないし、

被告原告以外に与えた損害を関係ない原告請求することも出来ない。

世の中にMetaのAIが独占しててかつ、原告著作物に似ている物しか出力していないならともかくさ

Meta以外のGoogle,とかOpenAIとか、deepseekとかいろんなAIが世の中にあるのに、

そして、AI生成物がどのAIで作られたかは、アルゴリズムとかで判別する手段もなく、企業もしらず、各生成物を作成したユーザしか知りえないのに、

きちんとMetaが出力したAIによって受けた被害のみを、

きちんとMetaが出力した生成物のうち、原告著作物に似た出力のみを

より分けることは物理的に不可能じゃない

ぶっちゃけちゃんと」著作物潜在的市場または価値に対する利用の影響を裁判証明出来る人いなくね?

しかも、これで勝ってもフェアユースじゃないと認められるの、Metaが取り込んだデータ内原告の分だけで一括で著作権違反が他の権利者にも認められるわけじゃないんよ?


フェアユースじゃなくて法で包括的規制しないとだめじゃね?

Permalink |記事への反応(0) | 21:15

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2025-06-26

[AI]AI信者敗北記録

無断学習ダメなのは当たり前だよなぁ?

Anthropic側は「この訴訟立場において、海賊版サイトデータを使ったことは悪意があったと認める」としながらも、その悪意はフェアユースであることを妨げないと主張していました。

アルサップ判事は「Anthropicが海賊版サイトから700万点以上の書籍ダウンロードして中央ライブラリを構築した行為は、フェアユースではない」と明確に判断

「Anthropicが使用した海賊版コンテンツについては別途裁判を開き、損害賠償額を決定することになる」

https://gigazine.net/news/20250625-authors-v-anthropic-fair-use/

Permalink |記事への反応(0) | 11:26

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2025-06-18

anond:20250618192111

60枚はやりすぎかもしれんけど、フェアユース日本にも適用されたらいいのになとは思う

(そもそも [日本アニメ] [海外アニメ] [日本人が画像を貼る] [外国人画像を貼る] の組み合わせのうち、どれがフェアユースとして許されるのかよくわかってないのだけれども)

Permalink |記事への反応(0) | 19:41

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2025-05-28

AIとかじゃないけど、日本以外が日本イラストアニメ漫画コンテンツ自由学習できる状態ってまずくない?

生成AIの良し悪しとかは正直興味ないけど、イラスト生成AIを推進をするメリット日本にないでしょ。

私は絵師アニメーターではないので彼らの失業他人事だし、親AIや反AIのどちらかの宗教に属してるつもりもない。

けれど、日本日本まれコンテンツ素材を世界中無料配布してる状態って普通に愚策なんじゃないのと感じてしまう。

AI絵師がXで承認欲求を満たしたり支援サイトで荒稼ぎしてる個人レベルのことは正直どうでもいい。

それよりも、アメリカ中国資本を持ってる企業日本風のアニメゲームを作れてしまうのは結構まずくない?

クオリティが同じなら、日本語とかいう1.7%しか理解できない文字で書かれて漫画よりも日本英語コミックが圧倒してしまう気がする。

AI作画業界トレンドになると、これまで日本の強みであった特殊技能人材現場技術の優位性を手放すことになる。

その上でAIの性能勝負になれば、米中に対してIT弱国の日本が勝てるわけない。

サブカルチャー文化GDPは決して大きい市場規模ではないけど、だからといってこれをわざわざ手放すのも意味からないし。

学習データを許諾制にして海外法人からライセンス料を取ったりする方がまだ日本に得だったんじゃないかな。

今ならフェアユースとかの話にも乗れたのに、逆のことしてるからこちから訴えることはもうできないし。

日本AIを推進して各産業での作業効率を上げたいのはよくわかるけど、イラスト生成AIを推進するのは流石にやらかしてる気がする。

どうなんですかね?

Permalink |記事への反応(1) | 20:27

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2025-05-27

音楽生成AI裁判面白そうな展開になってるんだな

sunoとかがたぶんアメーリカ大手レコード会社に訴えられた件あったじゃん。

あれってその後、元々は否定というかはぐらかしていた生成AI側が、無断でアーティスト作品学習していたことを認めてでもそれってフェアユースから……と反論したのね。

それに対して大手レコード会社側は無許可著作物使用し同分野で利益を上げようとする行為フェアユースに含まれないだろ!と激怒

これは2023年ウォーホル財団事件最高裁判決を受けての主張になってる。

ウォーホル財団事件各自でヤフってもらうとして、最高裁判断としては「著作から変容していても商業利用目的であることは明確で、かつ現著作者と競合する市場に投入されたことは現著作者の権利利益を損なうのでフェアユースとして認められない」というもので、今回大手レコード会社が訴えている内容に非常に近いのね。

まぁ、ウォーホル財団事件著作者と著作物が明確でそれを著作者に無断で二次利用したことが明白って点で、AIへの無断学習の件とはレイヤーが2枚くらい違うので全く同じには扱えないんだけど、なかなか面白そうな展開になってきたなって感じ。音楽生成AI商業目的であることは明白だしね。生成物が二次利用という扱いになるかどうかが一番の焦点になるんかな。

弁護団の腕が試される裁判だよなぁ。参加してる側、脳汁で部屋中びしょびしょになってそう。

Permalink |記事への反応(1) | 09:48

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2025-04-28

AI日本二次創作のあり方、著作権者企業で強すぎてめっちゃ危う

フェアユースについて調べたいだけだったのに、めちゃくちゃ説得された上に

日本企業著作権握ってて、著作権本来目的さえ終わってるつうおまけも補足してくれた。

o4-mini

アメリカフェアユースと、日本著作権ってどっちがいいの?」

日本型(ヨーロッパ型に近い)

✅ 事前に「これはOK」「これはダメ」が割と分かりやす

法律例外規定が書いてあるから安心して使いやす

❌ 新しい表現AI作品とか)が出てきたときルールが追いつかないことがある

❌ 柔軟な応用がしにくい(結果的に萎縮してしまうことも)

アメリカ型(フェアユース

✅ 柔軟にいろんな新しい表現技術が生まれやす

イノベーションに強い(実際、YouTubeとかはフェアユース文化から出てきた面がある)

裁判にならないと白黒つかない=不安が常につきまとう

リスク管理コストが高いので、大手有利になりがち

 「日本2次創作って行われててるけどダメっぽいし分かりづらくない?」

日本著作権制度理論上は二次創作めちゃくちゃ厳しく制限してるのに、

現実は「見て見ぬふり」で二次創作文化が爆発的に発展してる、

というすごく歪んだ状態になっています

しかも、制度的なフォロー(たとえば、二次創作ガイドライン法制化とか)が全然追いついてない。

しろ、今すぐ変えないとヤバいレベル問題が溜まってきてると思う。

表現の自由よりも著作権が強いの?」

実は法学界でもずっと議論が続いてるテーマです。

表現の自由と著作権は「ぶつかったときに調整する」

という扱いになっています

著作権は「人が自分創作物コントロールできる」ための権利から、めちゃくちゃ強く保護される。

特に日本は、著作権の「人格的側面」も重視していて、

勝手に改変されると、「作者の名誉イメージが傷つく」

から勝手二次創作は慎重に扱わないといけない、という考え方が強い。

さらに、著作権憲法保障されてる「財産権憲法29条)」にもつながるので、

表現の自由だけを絶対視できない、ってことになってます

「ぶつかったら調整なんてはじめて見た。著作権者が一方的に強いような。」

はい、現状はめちゃくちゃおかしいです。

現代著作権制度の最大の矛盾点って言われてます

この状態法学的に言うと

「調整」じゃなくて「著作権者の絶対優越

になってしまってるんですよ。

・・・AI勝手に書きまくる

【なぜこうなったのか?】

もともと著作権は「弱者保護」のために作られた

昔は印刷業者とかが強くて、作家クリエイターはすぐに搾取されてた。

から創作者を守ろう」という正義からスタートした。

でも現代は「大企業」が権利を握ってるケースが多い

映画アニメゲーム業界では、個人よりも企業著作権管理してる。

結果的に、「著作権=巨大な資本権力」になってしまった。

権利侵害範囲が広すぎる

ちょっと似てるだけ、ちょっと影響を受けただけでも「侵害だ!」と言える余地が広すぎる。

から表現する側がびくびくせざるを得ない。

実際、近年の学説や国際議論では

「フェアバランス(公平なバランス)」

という考え方がすごく重要視されてきてます

Permalink |記事への反応(0) | 12:52

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2025-04-27

二次創作コスプレは白黒つけずグレーなままでいい?本当に?

"万博でコスプレ"が炎上、「著作権侵害」の声も 当事者コスプレイヤー「白黒はっきりさせるべき」 | ENCOUNT

マルシルの万博コスプレの件で未だに言い争いが続く理由として、「若い人はもしかして二次創作がグレーゾーンになっているのが嫌いではっきりさせたがるのかな」というまかべひろしさんの考察 - Togetter [トゥギャッター]

このあたり「白黒つけなくていい」「グレーなままでいい」という反応が多くてびっくりしてる。

みんな違法可能性があることをビクビクしながら続けたいの? 本当に? 心の底からそう思える?

絶対ホワイトな方がよくない? そのほうが気持ちよく活動できるでしょ?

例えば著作権法

営利目的でなく著作権者不利益にならない利用は合法

みたいな日本版フェアユース規定を加えたらどうか。

不利益〜は著作権者意向第一ということね。嫌だと思ったらやめさせられる。

今まで通り公式負担も増えないし誰も困らない。

今ある無害な活動がグレーでなくホワイトになるだけ。

グレーのままがいいってそれこそ“因習”に囚われて思考停止の考え方だと思う。

グレーというのは界隈の空気次第で都合よく解釈が変わる。

今回マルシルの人はまさにそれで誹謗中傷を受けたよね。著作権者許可してないのに〜とかなんとか。

運よく味方する声が多かったけど下手したらどうなっていたか

最悪SNSの「叩き」で人は死ぬよ?木村花さんに起きたことをもう忘れたの?

それにグレーは権力者にとって都合がいい。

気に入らない活動邪魔相手を好きな時に「本来違法なんだから」と取り潰せる。

よくわからない基準で急に摘発されたり別件逮捕みたいな真似されてもグレーだったししょうがないって納得できる?

はいやだよ。

そもそも二次創作文化からたくさんのクリエイターが生まれアニメ漫画日本代表する文化になって今や国が推しているのにいつまでグレーなままにしておくの。

日本国はグレーなもの世界に売ってるの?

万博コスプレステージとかやってる場合じゃないでしょ。

著作権文化の発展のための存在だと明記されているんだから著作権理由に無闇に萎縮させたり摩擦を引き起こしてる今の状況はおかしいよ。

みんなが気持ちよく二次創作コスプレをできるように法律を変えてほしい。

こういうの赤松議員みたいな人が音頭を取ってできないのかな。

Permalink |記事への反応(3) | 20:25

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2025-04-15

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、国によって異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要視点だ。欧米日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。

その意味で、社会運動ストライキ争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識フランス社会は共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器公共空間を構築し、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期政教分離文脈から分化した表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。

もっとアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法ヘイト規制消極的かつゾーニング規制シフトしてゆく歴史がそこにある。

トランプの出現などリベラル保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共フランス人の考える公共とかなり異なる。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのもの否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会根付かなかった。正規雇用では労使協調路線非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。

全農警職法事件国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力容認しがたいもの」と司法行政に決着を迫った形だ。

こうした着地は、人権市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却やす社会ということだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験からまれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な再生力だ。

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは、戦後日本映像表現の潮流に視点を移す。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力風刺し、戦時空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。

表現体制批判自己解放手段だった時代道徳国家価値観への反抗心がそれを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、家族内の世代対立ないし嫁姑問題80年代の校内暴力管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景は急速に姿を消した。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族崩壊再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁としても現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害内包していた。そこに着目すべきだ。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つのうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたか社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。

かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしま社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスドラマなくせに、コンプラ配慮たばこポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

ドキュメンタリー手法に内在す加害性も多くの示唆を与える。

ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『BlackBox Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である

コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為公益性のはざまにあるという意味奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員告発とその後の県知事対応は耳目を集めたばかりだ。

空気にあらがえるかが試金石

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感な時代からこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制洞察した。一方、アメリカ民主社会には、世論専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派少数意見排斥するような雰囲気社会が醸成すると実質的自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代キャンセルカルチャーなどの課題を予見している。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力倫理的な共感はあるのか。どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

憲法理論制度保障を語る上では有効であるしかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度いか自由を守るか」ではない議論必要だ。自由擁護する倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。

社会同調圧力空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

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