
はてなキーワード:ピンチョンとは
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
池澤夏樹=個人編集世界文学全集II-11所収ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
新潮社のトマス・ピンチョン全小説の『V.』を読み返していたら、ちょっと気になる箇所があって、これは原文ではどうなってんだろうと、図書館で原書を借りてきてみました。そしたら、あれ、もしかしてこれ、この翻訳ひどい?
というわけで、原文と翻訳を照らし合わせたうちで、これはいくらなんでもという箇所を以下で検証していきます。
この段落はニューヨークの下水道に巣食うワニを狩るパトロール隊として雇われているプロフェインという男が第五章で書かれたワニ狩りのことを回想しているというところです。訳文とそれに対応する原文を引用していきます。訳文の引用は『V.』上巻の217,218頁から。
フェアリング神父の教区を抜けてイースト・リヴァー近くまで、独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。
He thought back to theone he'd chasedsolo almost to the EastRiver, through Fairing's Parish.
「抜けて」とありますが、第五章を読めばわかるようにプロフェインは教区を抜けていません。ここのthroughは「~の間を通って」の意でしょう。
ちなみにフェアリング神父は下水道でネズミにキリスト教を布教しようとしていた人物です。
そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。プロフェインが酔っぱらってか欲情してか、頭がポワンとしていたとき、ワニの足跡だらけの泥の上で、契約を交わしたのか?
It had lagged, lethimcatch up. Had been looking forit.It occurred tohim thatsomewhere--when hewas drunk, too horny to think straight, tired--he'd signed a contract above the paw-prints of what werenowalligator ghosts.
「なにか取り決めでもあったのか」という訳文に対応する箇所がない。
これに対応するらしき原文はこのあと出てくるのですが、なぜここに置かれているのかわかりません。それ以外にも問題がありますが、それは後述。
It occurred tohim thatが訳されていない。
tiredが訳されてない。
of what werenowalligator ghostsが訳されていない。
この段落ではこのalligator ghostsなるものがどういう存在なのか、このあと縷々綴られていくので、これを落としてしまうのはちょっと。ここは訳すなら「今や幽霊であるワニたちが、かつてそうであった存在の」となるのでしょうか。あまり自信はないですが。
プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える、それでイーヴン、恨みっこなしと。
Almostas if there had been thisagreement, a covenant, Profane givingdeath, thealligators givinghim employment: tit for tat.
Almostas if there had been thisagreement, a covenantが訳されていない。
上に出てきた「なにか取り決めでもあったのか」が訳文なのかもしれないけど、thisagreement, a covenantとわざわざ言い直して二回言っているのを「取り決め」の一語にまとめるのはどうなんですか。しかもcovenantなんて「(神との)聖約」という強い意味の語なのに。そんな語がワニ相手に使われているというのがこの文のミソだと思うのですが。うーん。
プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを覚えていたのか。
He needed them and if they neededhimatallitwas because in some prehistoric circuit of thealligator brain they knew thatas babies they'd beenonlyanother consumer-object, alongwith the wallets and pocketbooks of what might have been parents orkin,and all thejunk ofthe world's Macy's.
息の長い原文を切って日本語として不自然じゃないようにしているのでしょうが、かえって意味のつながりが見えにくくなっているような。
おかげで分かりづらい。これでは「必要だったのか」「生じていたのか」「覚えていたのか」と三つの疑問文がただ並列されているように見える。せめて「生じていたのか」「覚えていたのか」を「生じていたからなのか」「覚えていたからなのか」にした方が良いのでは。
the world's Macy'sを「世界中のデパート」としているのは明らかに誤訳です。メイシーズは基本的にアメリカにしか展開していないようですし、なによりもこの挿話の元になった都市伝説はニューヨークのメイシーズで、ペット用に売られた赤ちゃんワニがトイレに流されて下水道で成長していたというものだったわけです。なのでthe world'sはここでは「ここらの界隈の」みたいな意味ではないでしょうか。
あと英語の仮定法を日本語の疑問文で訳すというのは翻訳のテクニックとしてアリなのでしょうか。いや、アリならアリで全然いいんですけど。ただの素人なのでよくわかりません。
トイレを通って、地下の世界に流れてきたのは緊張の中の束の間の平和に――いずれは子供の、見かけだけ動きのあるオモチャに戻っていくしかない、それまでの借り物の時間に――すぎなかったのだろうか?
And thesoul's passage down the toilet and into theunderworldwasonly a temporarypeace-in-tension, borrowedtime till they would have to return tobeing falsely animatedkids' toys.
トイレにジャバーっと流されて下水道に流れ着くという事態を「魂の道行き」なんて大げさな言い方をしているのが、面白いところなのになんで訳されていないのか。あとダッシュをいれて「――いずれは子供の(中略)借り物の時間に――」と挿入するくらいなら原文の語順通りに訳したほうがわかりやすいように思えます。
もちろん自分から望んでのことではない。望みは、もとの自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。そしてそのまま、教区の聖なる水に浸食され、あの日、あのワニの墓場を明るく満たした光のような燐光を発する、アンティークな骨細工になっていくしかない。
Of course they wouldn'tlikeit. Would want togo back to what they'd been; andthe most perfect shape of thatwas dead--what else?--to be gnawed into exquisite rococobyrat-artisans, eroded to an antique bone-finishby the holy water of the Parish, tinted to phosphorescenceby whatever hadmade thatonealligator's sepulchre sobright that night.
togo back to what they'd beenが「もとの自分たちの暮らしにある」でいいんでしょうか。このあとに続く文に則して意味をとるなら「暮らし」では変では? それに原文はtogo backなのに「帰る」という意味が訳文から感じとれないです。
さて、ここから先が問題です。ここは第六章の中で非常に重要な段落の中でも、さらに重要な一文だと思うのですが、まともに訳されていなくて頭をかかえました。
まず、ダッシュで囲まれたwhat else?が訳されていない。
「しかない」という形で間接的に訳されていると言えるかもしれませんが、それでもこれを落とす理由にはなりません。
exquisiteが訳されていない。
tinted toが訳されていない。
by whatever以後の節を「燐光」にかけて訳していますが、これは英文解釈的に無理なのではないでしょうか。また、そのせいなのか原文の語順がぐちゃぐちゃにされてしまっています。なぜeroded to an antique bone-finishとひとまとまりなっているのを千切って「浸食され」と「アンティークな骨細工」をかけ離れたところに置いているのでしょうか。
原文を素直に読めば、ワニは死後、gnawed-齧られてrococo-ロココ彫刻になって、そのロココ彫刻がeroded-浸食されてan antique bone-finish-骨仕上げのアンティークになり(bone-finishというのは妙な言い方ですが、matte finish-つや消し仕上げをもじったような表現だととりました)、そのアンティークがtinted-染められてphosphorescence-燐光になると読めます。
つまりワニの死後、時間の経過によってワニがどのように変貌していくかの推移を追うことができるように読めるわけです。しかし翻訳ではそのように読むことはほぼ不可能です。
さらにこの段落の一番最後に来るのは原文ではwhatever hadmade thatonealligator's sepulchre sobright that nightなわけで、ここに意味上の大きな負荷がかかっていると思えるのですが翻訳では「燐光」の前に置かれて目立ちません。
これでは、4コママンガのコマの順序を入れ替えてしまったために、オチの意味がわからなくなっているようなものです。
ここのところをわたしなりに試しに訳してみたので、ここに置いておきます。
そして、その望みの最も完璧な形とは死ぬこと――他に何があろう?――であって、そうして工匠ネズミに齧られて精妙なるロココ彫刻とされ、教区の聖なる水に浸食されて骨仕上げのアンティークになり、何ものかに染められて澄んだ緑色の燐光と化すのであり、そしてその何ものかこそ、あの晩、あのワニの地下埋葬所をあんなにも輝かしく光らせていたのだ。
(phosphorescenceという単語を見ていたら、どうしても『宝石の国』のフォスフォフィライトの顔がチラついてしまったので「澄んだ緑色の燐光」としてしまいました)
とにかく第六章にはここ以外にも訳されていない語、節、文がたくさん出てきます。他にも誤訳、誤訳とは言いにくいけどおかしい訳もままあります。誤訳ではなくてもあまり使われない珍しい単語が使われていたり、凝った表現がされていたりするところが、平易な分かりやすい、いいかえれば、ありきたりでつまらない日本語になっていたりします。
いったいなんでこんなことになっているのでしょうか。ピンチョンが好きでこの『V.』も何度も繰り返し読んできたというのに、今まで読んできたものは何だったのかという気分で、ショックが大きいです。
共訳者の一人、佐藤氏は何十年もピンチョンの研究、翻訳をされてきた人で、こんな訳をするとは思えないのですが。それとも、このころ『重力の虹』の翻訳に集中していて実は『V.』にはあまり関わっていなかったとか? しかしもうひとりの小山氏もイギリスの大学院に留学して英語の著作もある人だそうですし。学生に下訳させて、ろくに直さずに出版したとか? まさか。
ただ原文を横において検討したのは第六章だけなので他の章はちゃんとしている可能性はあります。わたしの英語力では全文チェックするなんてとうてい無理なので、誰か英語を読むのが苦ではなくて、現代アメリカ文学に詳しい人に『V.』全編の翻訳をチェックしてみてほしいです。
元増田です。
沢山あげてもらったので現時点分を分類分けしました。
http://anond.hatelabo.jp/20161011142838
12日15:30追記。追加分は色変えようと思ったら、増田では裏技使わないと変えられないのですね。
なので、そのままどっかが増えてる感じで。
14日 11:00更に追記。
yoiIT氏
>いざ買おうとすると躊躇するタイプかな。
唐突に今日買い物欲が出たけど欲しいものが思いつかず、増田った次第です。
■良いかも
ガーミンのGPS時計 → 腕時計は欲しいんだけど、気に入ったものに巡り合えてないです。
Valkee2 ← かなり良い!けど、「ブライトライトME+」を持ってるので悩む。
■別枠で検討中
■持ってる
工具箱とかテスターとかDIYに使う物
ぴったりの革手袋
PS4
電子書籍端末
着る毛布 → 5枚位持ってる。なんなら着る寝袋も持ってる。
マッサージ機系の何か(頭皮マッサージ機とかアイマッサージ機とかフットマッサージ機色)
→ 全部持ってる。ほんとはマッサージチェアが欲しいけど、二階に上げるのが大変で二の足踏んでる。
512GB SSD
オーダー枕
大容量SSD
鍋釜薬缶
マットレスとか枕
羽毛布団
調味料とタレ
椅子に設置する型のマッサージ機
専門書
■似たようなのを持ってる(満足してる)
正価10万円以上の椅子
人をダメにするソファーのYogibo
新型PS4
かわいいLEDランプ
ふかふかの布団
クッションとカバーをたくさん。
室内用なら初代SoundLinkMini
人をダメにする椅子
Wi-Fi/AirPlay/Bluetooth対応ワイヤレススピーカー
防災用品
普段使ってるどうってことない100均で満足してた日用品を良いものに変えてみる
えーかげんに揃えた台所用品やら居間の布モノやらのどっか一部でも吟味して入れ替える
秋用の薄手のコート
ブーツ
秋冬用に靴
革ジャンとかコート
冬物のニット
■凄く欲しいけどアレルギー
■欲しいけど敷居が高い
■欲しいけど多分使わない
全自動コーヒーメーカー
焚き火セット
neuroon → スマホ無いとちょっと… 持ってたらかなり上位の候補にあがる!
コ・ボーグ36ED
シュミンケホラダム(透明水彩)の24色セット+ラファエルの筆2本とか。
世界猫歩きのBD → どうもBDを入れ替えるのが面倒で、買っても観ないんですよね。
幸せになれる壺
デレステのガシャ
amazonPrime
Apple Watch S2。
ピンチョンの訳書
デパートのコスメカウンターに行って、お化粧する人ならメイクアップ、あんまりしない人なら基礎化粧品。
4Kモニタ
ウェットシェービングのセット
低温調理器 Anova Precision Cooker
GTX 1060
高級めのグラスウェア
ムートンの敷物
ムートンのブーツ
スチームアロア加湿器
ふかふかのラグ
ダンベル、腕立て伏せ用の台(プッシュアップバー)、筋トレ用マット
デリヘルでも呼べ
サブウーハー
藤次郎プロの牛刀とペティナイフと刃の黒幕1000番5000番
ドライブレコーダーDREC200(工賃込)
良いシュレッダー
僕と三万でお話しませんか?
焼き鳥コンロ
全身脱毛
キャメロンのパター。
電動の自動刈払機
盗聴器
財布
花束を。
仕事用カバン
けむらん亭
■ぐぐったけどよくわからなかった
gearbestやgeekbuying
GPC
■要件満たしてないっす。
ライブ。観劇。コンサート。ディナーショー! → ライブは年間でフェス含めて20回程行くっす。
ホテルの高級スパ
あがりゃんせ
■いらない
何言ってるかまったくわからないところがある。
たとえば、
人の内部世界である演算領域内で組み立てられた魔法式を、無意識領域の最上層にして意識領域の最下層たる「ルート」に転送、意識と無意識の狭間に存在する「ゲート」から外部情報世界へ投射することにより、魔法式が投射対象たる「事象に付随する情報体」――これを現代魔法学では、ギリシャ哲学の用語を流用して「エイドス」と呼んでいる――に干渉し、対象の情報が一時的に書き換わる。
(1巻、pp.104-105)
文章研究としてこの本をかなり真面目に精読してたんだけど、それでもこの文章読んでなにがなんだかよくわからない。いまの中高生ってこういう文章読めるのか。冗談でもなんでもなくニクラス・ルーマンより難しいと思った。ここまでなにいってるかわからない読書体験(しかも小説、しかもラノベ)なんてはじめてだ。にわか文学ファンはトマス・ピンチョンが好きだけど、そのピンチョンよりはるかに読みにくい。
ほかにもいろいろあるけど、ちょっと驚いたのは、
達也の浮かべた苦笑いは、苦々しさのないただの苦笑に変わっていた。
(1巻、p.71)
これ。苦々しさのないただの苦笑ってなんだろう。哲学的といえば哲学的だけど。撞着語法かな? 「苦笑」って辞書的には「にがにがしく思いながら、しかたなく笑うこと」(明鏡国語辞典)なんだよね。いや、べつに辞書が正しいって言ってるんじゃないよ。ことばの意味ってのは文脈に応じてアドホックにどんどん変わっていくものだからね。でもそれにしてもこの語法は難しすぎるんじゃないか? ある種のアイロニーなんだろうか。難しい。
わかる。
学生時代は上下巻の作品わりと読んでたんだけど、いま再読しようと思わない。
若いときは短編のよさがわからなかったんだけど、いまは短編が好きでよく読む。
モンテクリスト伯とかレミゼラブルとか戦争と平和とかカラマーゾフとかいまさら読む気がしない。
アヴィニョン五重奏は翻訳完結したら読む予定ではいるけど、長いのはそれくらいかなあ。
ピンチョンの全集みたいなのが出たけど、ハードカバーの上下巻とか見て読む気なくして、結局買ってない(重力の虹くらいは買おうかな)。
漫画もアニメ見てジョジョが気になったんだけど、ウィキペディア見たらなんかワンピースよりも巻数多いみたいで読む気なくした。
むかしZETMAN読んでて、いまどうなったのかなと思って検索したら20巻近く出ててやっぱり読む気なくした。
子供のときはるろうに剣心を全巻何回も読み返してたんだけど、まあああいうことは大人になるとできないね。
芸術性でいえば短編>長編だし、大人になるにつれて長いのを好まなくなるのは当然のような気もする。
ストーリーのパターンもだいたい頭の中に入ってていくら長いの読んでも目新しさってものがないし。
ニコニコ動画で、これ系統の動画が上がってるのをチラチラ見ていたが、正直最初は邪魔っていうか、婦女子が盛ってるのかあ?って感じだった。ただウザかった。
がしかし、ツイッターで絡んでいた高校生がやたらそのネタを使っていて、どうやら野獣先輩というキャラのアイコンも使っていて、なんだこいつ?って思ってはいた。
ある時、そいつが、「そうだよ(迫真)」みたいなネタを使っていて、語尾に()を付けて言うのっておもしれえなって思って俺も真似して使っていた。
そしたら、その高校生が「元ネタ知らずに使う奴増えたよなあ」みたいな、古参ぶった物言いをしてきて、なんだこいつ工房の癖にと思って、ググってみたら、淫夢ネタなんだなこれ。
はまった。
面白すぎる。なんでこんなただのホモAVが面白いのかわからないが、突っ込み所が面白すぎる。
こ↑こ↓ 一つとっても、 監督の指示説、こっここ説、ここここ説 等等。
ひで に対する突っ込みもあるわあるわ。
びっくりした。一つの動画だけでもこんなに突っ込みどころってあるのか、考察するとこんなにあるのかってのがびっくりした。
あるいはそこらのつまらないビデオでも実は面白いとかあるのかもしれない。
まずいですよ!←なぜ他人事なのか
アイスティーしかなかったけど ←なぜ麦茶でなくアイスティーを常備しているのか?
みたいな、言われれば確かに!っていう突っ込みどころが深い。
ある種国語っつーか、文学の味わいっていうか。ピンチョンみてーな。
一番好きな淫夢キャラはAOK。(http://www.nicovideo.jp/watch/sm22135895)
恰好よすぎる。
なんでこんな面白いんだろ。
クソワロタ。
アポリネールが、ジッドが、ナボコフが、ロブ・グリエが、バタイユが
「健全」で「ためになる」んだ。あんなの有害図書以外のなにものでもないと思うんだけど。今も尚説得力あるんだ。
なるほどなるほど、スタンダールの恋愛論を真顔で読んじゃうんだ。
歴史的選別を経てないものは芸術じゃないんだ、つまり現代「芸術」は存在しない、と。
ピンチョンやデリーロもダメか。っていうか、その理屈だと「太宰」は「健全でためになる芸術家」か。
教養なさすぎじゃない?「健全でためになる芸術」ってほとんどないと思うけど。
武者小路実篤の熱烈なファンとかそういう珍しい人なの?芸術なんてほとんどがクソの役にもたたない
不健全不健康不道徳なものですよ。ドストエフスキーが「健全でためになる」んだ。
あんなの「ロシアダメ人間全書」って名前つけた方がいいくらい、エンターテイメントだと思うんだけど。