
はてなキーワード:ピエロとは
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これはdorawii
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21時頃に交わされた会話
dorawiiを擁護する奇特な人という設定で、dorawiiに言及した投稿に全レスしていたが
朝になってスクリプトによって自動記名され、それがらすべて自作自演だと発覚した
我々は、もう長い間、「本物の人間」ではなく、「都合の良い人格」を愛してきた。
それは笑い、泣き、共感し、まるで血の通った存在のようにふるまう。
それを「文化」と呼ぶことに、我々はいつから慣れてしまったのか。
◆ 第二章 “絆”という名の取引
彼らは言う。「みんな、いつもありがとう」「リスナーは家族だよ」。
我々は知らず知らずのうちに、企業が作り上げた偶像教の信徒となった。
そこには優しい声があり、理解してくれる誰かがいた。
「つながっている気がする」という錯覚の中で、
我々は何も生み出さず、何も変えず、ただ消費し続ける。
VTuberは演じる。
ファンもまた、演じる。
“正義”の名で人を追い詰める。
そこに残るのは、醜い自己愛と虚無だけだ。
だがそれでも、人々は言う。
……まだ目を覚まさないのか?
それは「エンタメ」ではない。
我々は今、画面の向こうの幻影に支配されている。
だがその夢の裏で、
もういい。
幻を崇める時代は終わりだ。
「どうせ僕がいなくても、世界は何も変わらない」──そう呟く前に、
画面を閉じて、現実の風を感じろ。
温度を持つ声を聞け。
そこにこそ、まだ救いが残っている。
厨二病引きずり編 覚書
タイ映画。名門校を舞台に、優秀だが裕福ではない主人公と裕福だが賢くはない同級生たちがカンニングのビジネス化を企む。
胸糞要素ややあるが、緊迫感がピカイチでのめり込めた。実話がベースとの情報もあるけどソース薄いので創作っぽい。リメイクあり
天才ハッカーの主人公が自ら警察に出頭し、自らの半生と出頭した目的について語り出す。アノニマスを意識してそう。
ハッキングをわかりやすく表現した演出と、音楽のセンスが好み。ラストも好き。視聴者に委ねるラストだけど後味が悪い訳ではなく心地よい
RUN/ラン
生まれながらに糖尿病や下半身不随を患って車椅子で生活をする主人公は自立すべく大学受験を目指しているが、夢を応援し生活をサポートしてくれているはずの母が持ってきた薬に違和感を見つけ、逃亡を企てる。
車椅子での逃亡劇と、サラ・ポールソンの怪演に見応えあり。これもラスト好きだった
フランス映画らしく皮肉が効いていて、嫌味な登場人物が多い。過激なヴィーガンに店を襲われた肉屋夫婦が原材料:ヴィーガンなハムを販売したらバカ売れ!
かといってヴィーガン批判ではなくて、強要は良くないよねって感じなのが気楽で良かった
大人気ミステリー小説の最終巻を世界同時に発売するため集められた翻訳家たちが、発売前の流出を徹底的に防止すべくセキュリティ万全にされた地下で作業をするさ中でネットに小説が流出し始める。賢い人にはつまらないらしい?
他にも釣れている人がいるけど、元増田が
コロッケ唐揚げトンカツ春巻き、揚げ物メインの弁当なんて恒常的に食ってた
こう言う想像ができるような記述がありつつも、具体的に書いてないのって天然か養殖かはわかんないけど釣られポイントだよね。
生活習慣病だというと、すぐにマウント取って説教してくる奴ら釣られすぎでしょ。
ちなみに
って報告がある。遺伝要因が特に強い人は、普通の食事を取っていてもこれらの疾患にかかる。
ちゃんと知識がある人はそれを知ってるけど、知らない人間が「そうなったのは元の生活が破綻してたに違いない」って偏見を導入してこんな風にマウント取っちゃう。
だから「僕は詳しいんだっ」って感じで説教している連中こそが、実際には偏見を持っている無知なやつら、と言う二重構造であぶり出されているなって。
知識があれば「みんな病院にはいこうな。増田はこれから通院を切らさずにしような」ってのがせいぜいだろうに。
トラバで元増田?っぽい人が自分の非を認めてピエロに徹するようなレスをしているからよけいにマウントとってるんだろうけど
偏見を外して読むと、なんか「生活習慣病チョットワカル」人に「生活習慣病完全に理解した」って人がマウン取ってる構図なんだよな。で、元増田はそれを承知でマウント取りたい人がどんな答えを求めているかを分かっててレスしてない?
それがもう滑稽っていうかなんていうか。
幕末から明治の初めに出版された風刺画による日本の世相紹介本「ジャパン・パンチ」に由来する。
このことから、新聞などに掲載される滑稽な風刺画を「ポンチ絵」という言葉が生まれ、それがお役所言葉などで、政策や大きなシステムを一枚の絵で説明する際に添えられる簡便な絵を指す言葉として使用されるようになった。なお、「パンチ」自体は本家イギリスの本家「パンチ」に、また、イギリスの「パンチ」自体は、風刺のために用いられた人形劇「パンチとジュディ」の登場人物の名前に由来し、この人形劇の登場人物「パンチ(パンチネロ)」の名前は人形劇の由来であるイタリアの風刺劇コメディ・デラルテに登場する毒舌のピエロ「プルチネッラ」から来るそう。
炎上自体には何か言うような感想ないんですけど、この方の非常になんというか人間味を煮詰めたピエロ的なところと、この方を真正面から正攻法で倒した同級生の方と、背中から撃ってトドメ刺した人との三角関係で"完成"したところがエモい。まさにエモい。
作家が対峙した自分の同級生、作家を背中から撃った作家のファン、そして作家の3人のうち、確固たる価値観を持ち自分を貫く非凡さを見せつけるのはひたすら作家以外の二人であって、恐らくだれもそういう意味では作家を評価しないと思う(作品では評価されるだろう)。
なんかこう、「魔法少女」っていう邪悪な響きから連想するものから比べると、大分大人しい結末だったよな。
「自分は昔から魔法少女が苦手で、それと同じ感覚を共有する人が他にもいることが分かった。そのひとは更に自分がどこで覚えたのかも忘れた歌を知っている。調べた限りだと、魔法少女を名乗って動画配信をしていた怪しい男に行き当たる。もしかしたら、自分はこの男の授業を受けたのかもしれない。そして何かが起こりそのことがトラウマになっている」
って言ったらさ、もうちょっとまさかーなもの考えちゃうじゃん?
俺がクソホラー見過ぎなんですかね?
魔法少女ってもはや、ピエロに変わる邪悪の象徴みたいな地位獲得してるじゃん?
じゃあなんかこう、魔法少女の格好したバケモンが子供の前で大虐殺したとかさぁ。そんなの思い浮かべるじゃん?
流石にそれだと無理あるか。そんな事件起こってたら普通にニュースになってるわな。
でもなー、魔法少女山田が首吊り自殺してそれがトラウマになってた…まああり得なくは無いがなんかインパクトにかけるな。
て言うか、園内で首吊り自殺しておいてそれを園長含め職員が「心不全で死亡」って偽装できるモンなの?
死亡診断書出したのどこよ?
ていうか、作中作の「魔法少女山田」自体が時系列弄って編集された作品って考察もあるし、
更にここまでの魔法少女恐怖症の語り部の映像資料やなんか自体が「魔法少女山田2章」って言う作品に使われていて、さらにそちらも編集や監督の意向で追加追加されたものが有るらしいじゃん。
えー?そこ要るの?みたいな気がしない?
いやもうそこ入れると「ドキュメンタリーと言いつつ売れるため面白くするため、自分の意向を反映させるためなら時系列変更やら印象操作やら何でもするクソ監督」っていう別な意味でのホラー出てきちゃうじゃん?
ホラー?ホラーかなこれ?単なる人間性の腐った糞ってだけでは?ていうかそこは多少なりとも見てる側は気づいてることなんだし今更…。ていうかドキュメンタリー系での編集されてない生データなんか見ようが無いんだから、見る側は作り物として意識するしかないんじゃない?みたいな
なーんか、こうなるともうただの見る側のリテラシーとかいう説教じみた話になってジャンル変わってくるじゃん?いや変わってもいいけどね。ホラーで道徳の授業やってもいい。面白いならね。
あー、どうせなら、監督が実は謎の宗教団体員とか、冷戦時のソ連の元工作員とかで、実際に起こった組織の実験を隠蔽するためのカバーストーリーとして「魔法少女山田」を作ったみたいな落ちになんねーかな。
なんかそういうの期待しちゃうジャン、これまでのQとかみてると。
捲土重来を目指す公明党前衆院議員の伊佐をはじめとして、創価学会活動家がSNSで見当違いなことを言い出してもりあがっている。衰退する創価学会ではもはや公明党を支えきれないので、プロモーションに力をいれて創価学会信者でない支持者を増やし、公明党が自律的に政治活動を続けていくべきだ、という。
彼らは、「創価学会信者でない支持者」について、どういうイメージを持っているのだろうか?創価学会信者のように、信濃町の決定に唯々諾々としたがい、兵士のように働いてくれる活動党員なのか、それとも、芸能人のファンのようにSNSや口コミでキャーキャーほめそやして宣伝してくれるようなミーハー応援団なのか。あるいは、基本的に党運営に無関心だが、選挙となれば公明党に入れてくれるライトな有権者なのか。
いずれにしても、そんな創価公明にとって都合のいい支持者など現れない。ふつうは、支持団体、支持者というものは支援と引き換えに政党の意思決定に介入する権利を持つし、そうでないなら離れていく。支持者によって党が存立しているのだから当然のことだ。カネと票は出すが、口は出さないなどという奴隷のような有権者は普通いない。
https://twitter.com/Morii_Ri_Kaeru/status/1946558887693582775
↑ 「大衆受け」を狙った衣装でYouTubeに登場し、創価学会外部の支持獲得にいそしむ公明党 伊佐中央幹事と、岡本政調会長
そうなると、様々な問題が発生する。実務的問題として例えば、事実上の創価学会の会合となっている党員集会に、学会員でない党員をゲストでなく主体者として迎えることができるのか。学会員支持者が党運営の主導権を失った場合に、それでも公明党を支援し続けるモチベーションを創価学会信者が維持できるか。非常に難しいと思う。身内でのシャンシャン会合に慣れきってしまった創価学会信者に、両者を結合して組織を運営するようなリーダーシップ、ファシリテーション能力は期待できない。
さらに根本的には、創価学会外の支持者の流入は、公明党の基本価値観の変革を迫るだろう。
創価学会の活動経験者諸賢は、わが身をよく振り返ってみてほしいのだが、公明党の正体は大衆政党でもなんでもなく、政界における創価学会の防衛団体である。だから、公明党の政策は創価学会の利益を毀損しないように選択される。かつては、平和・人権の党として革新的な攻めの姿勢が創価学会の宣伝拡大に役立ったのであり、いまではイラク戦争や安保法に賛成してでも自民党の機嫌を損ねないことが創価学会の利益の保全にもっともかなう。公明党のプリンシプルは、ぶれているのではない。創価学会の利益の最大化という点で一貫しているのである。
創価学会員でない支持者を増やすには、「創価学会の守護者」をやめ、政党としての基本理念、価値観を定める必要がある。「大衆政党」などという意味不明のぬらりひょんのようなスローガンは、特に階層意識が希薄になった現在では「すべての人にとっていいことをします」と同じで「何も決めていない」に等しく、だれもついてこない。そして定めた基本理念に人や団体がついてきたならば、その人、団体たちの期待を裏切らないようにある程度一貫した政治行動をし続けなくてはならない。たとえ創価学会の利益に反しても、である。
創価学会信者の主観では、公明党は創価学会一団体の利益を守るものではなく、日本と世界に人権と平和の社会を建設するための政党だと信じているし、そのために自分のリソースを投じているつもりだろう。しかし彼らの実際の行動ロジックは、「絶対善の団体である創価学会の存続、発展(=利益)を守ることこそ、社会善の増進に貢献する」ということでしかない。
そして、八紘一宇を夢見た軍国少年のように、広宣流布をする創価学会の存続こそ信者たちの最大の利益である。つまり、客観的には創価学会の利益だけが信者による公明党支援のモチベーションであって、だからこそ信者たちは公明党がどれだけ公約をたがえても、どれだけスキャンダルを起こしても支援し続ける。
そんな、創価学会の利益最大化パーティーである公明党に他者が参画するメリットは何か。逆に、創価学会の衰退を前提として他者に支援される公明党を目指した場合、変質を余儀なくされる公明党を支援し続ける創価学会(員)にとってのメリットは何か。どちらも見出すことは難しい。
今日に至るまで、公明党が創価学会から独立できなかったのは、公明党にやる気がなかったからではない。創価学会が許さなかったからであるし、またそのことにによって創価学会以外の他者に、公明党を支持するメリットがなかったからだ。
伊佐は、そりゃあ政治家としての生き残りがかかっているのだから、創価学会信者だろうと犬猫野菜だろうと、票とカネをくれるものがいればなんでもよい。彼の月刊Hanadaや排外主義へのすり寄りを見れば明らかだ。創価学会が国政からの撤退を決めてそのまま消されるくらいなら、公明党として独立したいところだろう。
しかし、党の自律により創価学会員でない支持者を組織することを、信仰の一環として選挙運動をする創価学会活動家が期待するのは、もう政治運動につかれてしまってやめたい、という消極性によるものでない限り意味不明である。
彼らは、おそらく外部から集まってきた支持者たちが、創価学会、公明党、池田大作のすばらしさに心打たれ、オートノミーに称賛し続けてくれることを期待している。そんな人間は「支持者」ではなく、すなわち「信者」以外にいないということを本気で理解できない。そして、伊佐はそのことを黙っている。
ともあれ、創価学会信者でない支持者を増やしていくと、どこかの段階で創価学会信者のいまのような熱烈な支援活動は消滅するだろう。減少する創価学会信者から、増加する一般支持者へのグラデーションを全国500万票規模の固定票を維持しながらうまくコントロールすることができるか。私は現場組織の運営的にも、ほぼ不可能だと思う。ソフトランディングはあり得ない。
繰り返すが、伊佐からすればある日急に創価学会が国政から手を引いて支持者が事実上ゼロになる前に、党の自律運営を既成事実化したいのは当然のことだろう。しかし現実には、創価学会からのコントロールを維持し続ければ一般支持者は増えず、一般支持者を増やせば創価学会からの支援は減少するだろう。つまり、つんでいる。
このような苦しさを、伊佐や公明党の広報部隊が全く理解していないとは考えづらく、だからこそ、スパンコールジャケットと蝶ネクタイを着てふざけた表情でダブルピースをしながら伊佐が排外主義を叫ぶ、苦し紛れの〝SNS広報戦略〟が出現したのだろう。要は、創価学会や公明党に大して興味がなく、口を出す気もないが、ノリで投票してくれる支持者の創出を狙っているのだと思われる。
また、メディア戦略で支持を広げることに成功した政党は、維新の会の橋下や、再生の道の石丸、NHK党の立花、国民民主党の玉木、参政党の神谷など、魅力的で強力なリーダーシップを大衆にアピールすることで有権者の心をつかんできた。しかし、創価学会にとって公明党に大衆的リーダーが現れることは悪夢である。国民の支持を背景に、創価学会のコントロールが効かなくなる危険性が高いからだ。
そもそも、公明党の議員は創価学会の推薦がなければ議員候補にすらなれないし、「まじめ」で「無難」な官僚的人材を選び、創価学会に対して従順になるよう育成されてきたので、急にそんなキャラクターを立てられない。また、「キャラ立て」を通じて創価学会に謀反を疑われてもおもしろくない。それで、落選議員であり脅威が少ない伊佐が、SNSでピエロを演じることになったのだろうと思う。
しかし、伊佐はビジュアルが優れているわけでもないし、幼稚園のお遊戯じゃないのだから、そんなやりかたで政治家としての信頼感を持つ有権者などいない。創価学会信者と公明党議員、関係業者によるファンダム演出工作も、アイドル不在の不気味なファンクラブのようなもので、信者エコーチェンバーを強化するに留まり、創価学会外部の票を引っ張る力などみじんもなかったのは厳粛なる投票結果が示すとおりだ。
創価学会票があてにならなくなったということは、かえって公明党の負い目が減少したということでもあるので、伊佐も創価学会からの独立を主張するようになったのだろう。ピエロをやらされるのが嫌になったのかもしれない。
あるいはひょっとしたら、もう手を引きたいのでソフトランディングの計画をたてろと創価学会から指示を受けているのかもしれない。
なんにしても、創価学会衰退後に公明党を維持することは、ここまで述べてきたように極めて困難である。また、Hanadaや日本会議などの限界右翼や、イケダハヤト、ホリエモン、箕輪、ひろゆき、東浩紀などのソーシャルハック系インフルエンサーに接近する公明党・創価学会の言論活動を見る限り、広範で継続的な国民の信頼を得られる政党になることはまずない。
それでも生活と老後のために、信者たちのご機嫌を損ねないように気をつけつつ、ワンチャン一般支持者獲得のために詭弁ピエロを演じ続けなくてはならない伊佐には同情することしきりである。
なんか、ネットで難癖マンがよく使うケチ文句に「筋が取ってない」ってのがあるが、俺は筋なんてもんは何においても不要だと思ってる。
人間ってのは日々学び、考えが変わっていき、いろいろな物事のバランスを調整して、自分をアップデートしていく。
だから言っていることが変わることもあるし、実際その変化は前よりもベターな判断であることのほうが多いと思ってる。
ただし、その人にとっての変化したベターな判断が、自分にとって良い判断かどうかは別の話。
一方で、筋がずーーーっとブレない人っていうのは、何も吸収しない、凝り固まった人だ。低知能な人間特有の傾向。
そういう低知能人の言うことは、基本的に信用には値せず、自分にとって都合のいい時にだけ利用・援用する価値がある、便利なパワー系ピエロにすぎない。
もちろん倫理みたいな、人としてブレる必要のない評価軸もあるんだけど、思想とか、個別具体的な策なんてレベルのものは、ブレてブレて色々なメソッドを試行錯誤し、それぞれの限界を見極めていくことを積み重ねてきた人の方が、実行力、実現力が高くなると思ってる。