
はてなキーワード:パースとは
これさ
愚かな人間の都合など完全無視、LLMのための高効率プログラミング言語「Sui」(粋)
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
別にいいんだけど、どうにもブクマカ含めて、しっくり来る批判できてないんだよな
それが気になってしょうがない
俺ごときが言ってもアレだから、Gemini3.0先生に頼んだよ(一時チャット、Pro 3.0思考モード)
ユーザーが提供した情報と、一般的なLLMの技術特性に基づき、プログラミング言語「Sui」についての冷静かつ客観的な評価をまとめます。
感想:一言で言えば、**「思想実験としては極めて面白いが、実用性とLLMの学習原理を無視した『早すぎた最適化』」**です。
作者の「人間ではなくLLMを主客にする」という視点の転換は、アーティスト的・哲学的な問題提起としては鋭いですが、現在のLLM(Transformerアーキテクチャ)の動作原理を工学的に捉えると、メリットよりもデメリットが上回る可能性が高いです。
メリット:
・トークン効率の改善:Python等と比較して記述が圧倒的に短くなるため、出力速度の向上と課金コストの削減(トークン節約)は確実に達成できます。
・構文エラーの激減: 括弧やインデントの複雑なルールを排除しているため、「閉じ忘れ」などの単純なSyntaxErrorは減るでしょう。
・コンテキストウィンドウの節約: 長いプログラムでもコンテキスト(メモリ)を圧迫しにくくなります。
・学習データとの不一致: LLMは「大量の人間用コード(Pythonなど)」を学習して賢くなっています。未知の言語「Sui」を書かせるには、Few-shot(プロンプトでの例示)に頼るしかありませんが、これではLLM本来の推論能力やコーディング能力(事前学習の重み)を活かせません。
・ブラックボックス化: 生成されたコードがバグっていた場合、人間が読んで直すことが不可能です。「LLMに直させる」にしても、LLM自身がSuiのロジックを深く理解していないため、無限ループ(幻覚の連鎖)に陥るリスクが高いです。
・CoT(Chain of Thought)の阻害:最近の研究では、LLMは「冗長な思考過程」を出力することで論理的整合性を保つことがわかっています。極限まで圧縮された記号列は、LLMの「考える余地」を奪い、論理破綻を招く可能性があります。
正しいと思う所(Agree)
理由:人間にとっての「読みやすさ(可読性)」は、機械にとって単なるトークンの無駄遣いです。if x>10: よりも ? x10 の方が情報密度が高いのは事実です。
理由: TransformerのAttentionメカニズムにとって、遠く離れた ( と ) の対応関係を維持するのは計算コストが高く、ミスの原因になりやすいです。ネストを排除する方向性は機械的処理として正しいです。
正しくないと思う所(Disagree)
・「可読性を排除しても良い」:
理由:ソフトウェア開発においてコーディングは「書く」時間より「読む・直す」時間の方が長いです。AI生成コードであっても、最終責任は人間が負う現状では、人間が検証不可能なコードは「危険なバイナリ」と同義であり、プロダクトには採用できません。
理由: 前述の通り、現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。Suiは「計算機にとっては最適」ですが、「現在のLLMにとっては異言語」です。
パース(解析)は容易になりますが、LLMは「前の行の文脈」を読んで次の行を出力するため、行を独立させすぎると文脈の連続性が失われ、複雑なアルゴリズムの構成力が落ちる可能性があります。
LLMが最も苦手とする「深いネスト構造の維持」を回避する策として有効です。アセンブリ言語に近いフラットな構造は生成難易度を下げます。
これが最大の問題点です。LLMは変数名(user_id, total_price など)に含まれる「意味」を使って推論を行っています(Semantic Grounding)。すべてを記号化すると、LLMは変数の役割を見失い、論理的なバグを埋め込みやすくなります。
トークン効率は最強ですが、1文字の違いで意味が激変するため、LLMの確率的な「ゆらぎ」による1文字ミスが致命的なバグになります。冗長さはエラー訂正の役割も果たしています。
goto 文の多用はスパゲッティコードを生みます。LLMにとっても、構造化プログラミング(if/forブロック)の方が、「ここからここまでがループ」というチャンク(塊)として認識しやすいため、一概にジャンプ命令が良いとは言えません。
>現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。
ここ!マジで覚えてね
LLMはこれまでの機械よりも人間に近いと思ってほしい、人が苦手なことはAIも苦手
機械は論理的でロジックに強くて〜っていうのはAIには通用しない
ついでに、「LLM用プログラミング言語」の潮流について
「LLMのための言語」という文脈は、大きく2つのトレンドに分かれます。Suiは後者に属しますが、主流は前者です。
・DSPy, Guidance,Microsoft Guidance:
・プロンプトエンジニアリングを構造化し、LLMの出力を型(JSONなど)に強制したり、思考プロセスを制御するためのフレームワーク。
・SGLang:
・これらは「人間がLLMを操るための言語」であり、実用化が進んでいます。
・Gorilla LLMなどの試み:API呼び出しに特化したファインチューニングなどがありますが、独自の「新言語」を作らせるよりも、既存のPython やJSON を正しく出力させる方向(Constrained Decoding)が業界の標準解です。
・擬似コード:論文レベルでは、Pythonの代わりに中間的な擬似コードを出力させ、それをコンパイラで処理する手法も研究されていますが、Suiほど極端な記号化は稀です。
後者については
現状の最適解:現在のLLMを使う限り、「LLM用言語」の最適解はPython です。なぜなら、世界中のGitHubのコードを学習しており、LLMが「最も流暢に話せる言葉」だからです。無理にSuiを話させるのは、日本人にエスペラント語で詩を書かせるようなもので、パフォーマンスは落ちます。
総評: Suiは、「既存のLLM(GPT-4など)に書かせる言語」としては失敗する可能性が高いですが、「未来のAIネイティブなコード生成のあり方」を示唆するアート作品としては高く評価できます。作者の「愚かな人間に合わせるな」というパンクな精神は、エンジニアリングの枠を超えた鋭い批評性を持っています。
お前らは安易にオレオレ言語作るんじゃないぞ、作るにしてもAIに聞きなよ?
聞く時は忖度させるんじゃないぞ?
この作者もAIに乗せられたのかもしれんし
______
プロンプト
以下が「LLM用プログラミング言語」としてメリットがありそうか、感想を教えて下さい。
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
https://github.com/TakatoHonda/sui-lang
・思想的に正しいと思う所、正しくないと思う所を理由込みでまとめてください
・最近のLLM用プログラミング言語についてもまとめてください
・そもそもLLM用プログラミング言語という目標自体の評価をしてください
(省略)
パーサ【parser】パーザ
パーサとは、コンピュータプログラムのソースコードやXML文書など、何らかの言語で記述された構造的な文字データを解析し、プログラムで扱えるようなデータ構造の集合体に変換するプログラムのこと。 そのような処理のことを「構文解析」「パース」(parse)という。2025/08/29
https://e-words.jp › パーサ
「Purser」とはどういう意味ですか?
なお、かつては女性の「客室乗務員」のことを「スチュワーデス」、男性の「客室乗務員」のことを「スチュワード」や「パーサー」と呼んでいたが、今では旅客機に限らず鉄道や客船の中で、乗客に接客サービスをする「客室乗務員」を統率する立場にある者を「パーサー」や「チーフパーサー」と呼んでいる。
通信制高校のイラストコースの授業は、ご褒美みたいな授業が無いと学校に通えない子のためのお楽しみ授業だ。
①まず通信制高校に行くな。
本当に中学の出席日数が全然無くて入学出来る高校が通信制しかない、毎日登校する体力がない、そういう子供以外は通信制高校には行かないほうがいい。
コロナ禍でのオンライン授業を小中で経験したせいか、親も子も授業ってオンラインでいいんじゃない?って空気がある。よくない。
オンライン授業は子供にとってはサボりたい放題、ろくなテストもなく赤点や追試もない。結果通信制高校卒業の頃には中3時点と大して学力の差がない18歳になるか、もっとバカな18歳になる。
リモートワークもあるしこれからは家で授業受けて家で仕事する時代!って?
じゃあ親のあなた方はみんなリモートワーク出来てるんですか?結局出社を強いられてる方が大半じゃないですか?
お母さん方、子どもを家で見ながらできる仕事はないか…って考えたけど大変だった時代を経験しているでしょう?
結局大人になっても毎日出社できる体力気力時間がある人間のほうが仕事がある。
全日制高校に行ける出席日数があるなら頑張って全日制に行って、働ける体力気力と、学力をつけたほうがいい。
通信制高校のイラストコース出身のイラストレーターを知っています!絵が上手い人を知っています!という意見もあると思う。その人はイラストコースに行かなくても絵が上手かったしイラストレーターになれたタイプの人だ。
まずイラストコースではデッサンもパースもろくに教わらない。人物のクロッキーも数回あれば良い方だ。なんとなく、さわりだけ、お試しみたいな授業があるだけだ。あとはなんかアニメ関連の会社見学とかがいっぱいある。会社見学で絵は上手くならない。
そもそも日本で素人に絵の技術をいちばん叩き込んでくれるところは美大受験用の美術予備校だ。
美大では絵の基礎技術は教わらない。受験前に予備校で教わってるのが前提だから。
専門学校でも大して教わらない。2〜3年で全員を現場に出せるほど描ける人間にすることは不可能だから、元々基礎技術がある生徒や、在学中に自宅で腐るほど自主練出来る生徒にだけより専門的な技術を叩き込んでくれるのが専門学校だ。元々描けないし努力も出来ない人は、専門学校では生徒ではなくお客様として扱われる。適当におだてて辞めずに満期の学費を払ってもらって卒業後のことは知らんぷりの存在、お客様。
全国に50校くらいある。地域によって偏りがあって残念ながら公立美術科が無い県も存在するが、もし住んでる県にあるならラッキー。学費も安い。入学時にデッサンの試験があるのである程度描ける人、やる気がある人だけが選抜されてる可能性が高い。
水は低きに流れるし、人間はモチベと実力の高い集団にいると自然とレベルが上がる。
公立に比べると学費がかかるかもしれない。学校によっては絵の上手い子には特待生制度など用意してくれてる。これもだいたい入試にデッサンがあるのである程度人間が選抜されてる。でも中には倍率が1倍切ってるところもあるので、入試の倍率と卒業生の進路実績(東京藝大武蔵美多摩美あたりが数人でもいればレベル高い可能性あり)をよく調べよう。
予備校代がかなりかかるし、そもそも親が子供の大学進学を考えてない家庭では厳しい選択肢だが、夜間部に三年間通えば基礎的な力はかなりつく。
有閑主婦や退職じいさんが油絵とか描いてるところでしょ?そういう絵じゃないんだよな描きたいのって…と思うかもしれないが、大抵どこも教えてるのは藝大美大を出た人間なので基礎を教わるだけなら問題ない。
ただ美術系高校や予備校と違って毎日描く環境ではないから家でやる課題を頼んで出してもらうといい。
④誰にも教わらなくても絵が上手い人間もいるが……
上にあげたようなところで絵を教わらなくてもイラストレーターとか漫画家とか画家になる人はいる。でもそういう人はごく一部だ。
大抵どこかで教育を受けている。
でも今の時代ってインターネットに知識が転がってるし専門書もいっぱいあるからひとりで上手くなれるんじゃない?そう思う人もいると思う。
確かにネットで上手い絵はいくらでも見れる、YouTubeで絵を描く過程を全部見せてくれる人も大勢いる。
でも絵が上手くなるのに必要なのは、自分の絵のダメさへの気づきだ。
上手い絵と自分の絵を見比べて、ここがこんなに違う、自分はこんなに描けてない、そう気づけることだ。
美術予備校とか美術系高校で繰り返しやってもらうのはこれの訓練だ。
毎日あるいは毎週講評で並べられて比較される、点数をつけられる、先生が指示棒で指差しながら「ここ形狂ってない?」とか言ってくる。そういう経験がど素人を気づける人にする。
自分で気づけるようになってようやく絵が上手くなり始める。
みんなそのために絵を習う。
あとインターネットに転がってるイラストハウツーってまじで実際ヘタな人がしょうもないハウツー描いてバズったりしてるから、自分がある程度描けるようになるまで無料のハウツーは信用しないほうがいい。
しょうもなハウツー描いてる絵師は滅びてください。いたいけな小中学生に変なこと教えないで。
⑤親御さんへ
絵を描くのが好きで将来に夢もあって中学はそれなりに通えてた、そういう子が通信制高校イラストコースに行って、たいした鍛錬もされずに本人も不完全燃焼を抱えながら貴重な高校三年間という時間だけが過ぎていくのを見てきました。あれは見ていて大変きついものがあります。
子供の言う「プロの指導も受けれるんだって!」「ここならやりたいことが出来る、楽しく通える!」をあんまり信じないでください。
15歳はまだかなり子供です。世間を知りません。楽ができるのと楽しいのとの区別も知りません。
子供が行きたがってる学校の評判はよく調べて、可能なら実際に目で見て、社会経験のある大人の目で判断してあげてください。
あと、美術業界やイラスト業界の人の言う「子供の頃から絵が好きで、好きだから頑張ってこれた、プロになれた」みたいなのの「好き」のレベルって、朝起きたらご飯の前に絵を描いてる、授業中も絵を描くのがやめられなくてノートが落書きだらけ、放課後も友達と遊ぶよりゲームするより絵を描くのが好き、絵を描きすぎて夜更かしする、そういうレベルです。
学校の授業の中じゃ音楽体育よりも図工や美術が好きとか、ゲームもiPadも取り上げたら暇つぶしにお絵描きしてるとかじゃないです。
お子さんが一度絵を描く道に進むと競争相手はそれくらい絵にガチな人達ってことも知っていてください。
相手はAIじゃなくて、どんどん進化する3DCGソフトだったけど。
自分は最初は建築系3DCG系パースで飯食ってて、当時は設計者が2次元で描かれた図面を読み取ってモデリング〜レンダリング〜レタッチまでを自分でこなして、案件に合った画風や自分なりの表現を追求してた。
昔の3Dソフトはそこまで優秀じゃなかったからレタッチ必須だったんだよね。
ところが、まず建築設計ソフトが最初から3Dで設計するのが当たり前になり、モデリング担当が要らなくなった。
そしてレンダリングソフトもどんどん進化して、微妙な窓からの日差しや屋内照明の表現なんかは手動じゃなくて全て物理的なシミュレーションで非常に美しい絵がボタン一つで出る様になった。
俺が5年くらいかけて身につけた技術はあっという間に不要になって、新入社員でも同じ物が作れる様になった。
当時は焦って必死で生き残る方法を考えて、色んな同業者に相談したけど、誰も答えを教えてくれる人はいなくて。
絶望した自分が最終的に自分が出した結論は「俺も技術じゃなくて商品を売って儲ける側になろう」だった為、会社を辞めて独り立ちして、今は隙間産業的な怪しげな自営業者をしてる。
一時期は大変だったけど生活は良くなってるよ。ただ今の業界にもAIの波が押し寄せて来てるから、また新たな商売考えないとなーとは思ってる。
一度経験した身だから、今の技術や知識に未練を持たずにあっさり捨てて他の業界に行ける軽やかさは必須だと思ってる。
まだ何も思い付けてないけど、自分なら追い詰められたらなんか良さげな商売(カッコ良くない泥臭いやつ)のアイデア思いついて、そこそこ食っていける自信だけはある。
SNSでよく見るビフォーアフターの「成長しました!」イラスト。たしかに線はちょっと整ったかもしれないが、根本的なセンスや構図、色づかいが変わってない。数年前の自分と比べればマシなんだろうが、第三者からすると「いや、まだまだ…」としか思えない。
まず、自己流で練習しているだけで、基礎をガン無視してる奴が多すぎる。人体のパース、光と影の理屈、動きの流れといった「面倒だけど一番大事な部分」に手をつけてない。好きな絵柄をなぞるだけ、お手本の雰囲気をパクるだけでは、上達にも限界がある。
次に、練習量自体が圧倒的に足りない。一日一枚のラクガキを「一年続けた」とか威張るけど、考えてみろ。ガチでプロ目指す連中は毎日何十枚もクロッキーやデッサン、模写を繰り返してる。量をこなしてるつもりでも、濃度も密度も全然足りていない。
そして致命的なのが「自分の絵が好きすぎて批判を受け入れないメンタル」。リアルタイムで他人の画力を吸収したり、強くダメ出しされた経験がない。「すごいね!」「上手!」の応援スタンプだけ浴びて心地よくなって、成長が頭打ちになる。
本当に上達したいなら、基礎デッサンと骨格パースを3年くらい毎日描け。模写もプロの線を「なぞる」のではなく「寸法まで一致させて分析」しろ。感想をもらうなら、信頼できるプロや辛口の友人に徹底的に叩いてもらえ。SNSのゆるい評価は成長の妨げだと肝に銘じろ。
お前ら、「上手くなりました!」の自己満SNSで止まるな。上達したければ現実を見ろ。痛みを伴う練習と批判の中でこそ、描線の鋭さも表現力も身につく。いつまでも下手なままなのは、ぬるま湯の称賛の中に逃げ込んでるからだ。
金額にして40万円を失い、不自由な生活が1ヶ月続き、腕の違和感が3ヶ月残った。
1年後、ワキの臭いは半分以上残った。
皮膚が壊死しなかったので「大失敗」ではないのだろうが、金を失い、健康を損ね、時間を無駄にし、リスクを背負い、ほとんど何も手に入らなかったのだからして、失敗以外の何物でもないだろう。
ネットで腕自慢の医者共が「ワキガ手術をするなら剪除法(直接ハサミでアポクリン汗腺を切る方法)一択であり、それ以外は時間と金の無駄」と語っていたのをただのポジショントークだと切り捨てた僕が間違っていた。
少なくとも某クリニックでやってる「根◯◯ぎベ◯◯ーシェー◯◯グ」は完全に金の無駄。
「両腕の自由を2週間奪われ、開いた皮膚の大きさに比例しただけの合併症や壊死のリスクを背負う手術を受ける」
もしくは
「デオナチュレで誤魔化せているという思い込みの中に引きこもり、人々から文字通り鼻をつままれながら暮らす」
ないしは
「自殺」
この3つしかない。
ほかは全てまやかしなんだ。
以下蛇足。
僕の名前は「脇 薫」(偽名)。
当時、僕は30歳のサラリーマンだった。
僕がワキガを自覚したのは大学生時代のある日、自分のワキからスパイシーな香りがすることを突然発見したのであった。
ネットを駆使して10種以上のワキガ用デオドラントを世界中から取り寄せ、最終的にはデオナチュレに落ち着いた。
本当はパースピレックスが使いたかったけど、脇毛の剃り跡に転がり込んだ粒子が激痛と共に出血を引き起こすので諦めた。
僕はこれで十分な対策が出来ていると信じていた。
風呂場でも滅茶苦茶洗って毎週ワキ毛も剃って、その上からデオナチュレを濡ればほぼ臭わなかったんだ。
でもある時から職場で僕の周りの人が僕のことを避けるようになった。
横を通る人が臭いと言ってくる小声が聞こえたり、僕が部屋に入ると大声で「くっせーくっせー」と叫びだす輩(高校中退)まで出てきた。
そこでは「まあワキガなのは間違いないっすね。手術するほどかっつーと・・・まあもっと酷い人もいますしねえ・・・」と濁されてしまうのだった。
手術をすることを考えてネットで調べると様々な情報が出てくる。
ミラドライは多汗症にしか聞かないだとか、剪除法をしたあとの後遺症で緊急入院したとか。
その中で僕が気になったのは「超音波吸引法」だ。
超音波を当ててから脂肪吸引機でアポクリン汗腺を除去するこの方法は「90%の治療度」をほこり、術後1年たっても全く臭いが消えたという報告が多数あるらしい。
外から超音波を当てるだけのミラドライや、熱針を適当に指すだけのビューホットとは治療のレベルが段違いだそうだ。
切る必要はあるがダウンタイムも大幅に改善され、術後の生活で苦労することもほぼないとか。
一方でブログで腕自慢院長ニキなお医者様達からは「また脂肪吸引機でワキガが治ると思ってる馬鹿な医者と患者がいた。金の無駄」「ちょっとは切る癖にビューホットっと本質的に差がないんだからリスクが増すだけ」「名前だけちょっと新しくして最新の治療みたいに言ってるけど30年前からあるし、結局は切る方法の方がいい」「保険適用にならないのも当然の欠陥手術」「結果として2回切ることになるから患者が一方的に損して悪徳医師だけがボロ儲け」などと散々に書かれていたのだ。
全く正反対の二つの意見が飛び交う中、僕は何を信じるべきだったのだろうか?
決め手になったのは、「仕事の忙しさ」だった。
転職をしようにも「ワキガなんてどこも雇ってくれないよ・・・」という不安に心が縛られ動けないでいたのである。
ようやく掴み取った夏の連休(連休が欲しいなら有休を使えばいい?毎年10日以上捨ててるのに?いつどうやって?)、その長さの中で収まる手術の選択肢に剪除法(ハサミで切る方だよ)は入ってこなかった。
短い夏休みを終えて帰ってきたあとで腕を縛られた状態で風呂もロクに入れずに出社する選択肢を選ぶ勇気がなかったのだ。
大声で人の悪口を言うようなイキリカス(中卒)さえ黙らせてくれないクソ職場のために人生の重大な選択肢を間違えてしまったのが悔しい。
夏休みに入る少し前に僕は某クリニックに向かった。
遠くのイキリ腕自慢医師より、駅チカの超大手という選択が正しかったのかどうかさえ分からない。
まあカスの手術を平然と売ってる時点でカスのクリニックなんだろうなと今は思うよ。
大手クリニックで「うちの整形外科は凄いですよ」とアピールするためなのか量産型な顔つきのネーチャン達に案内されながら、どこかぶっきらぼうな医師からアレコレ説明を受けた。
「ま、わざわざ切る必要とかないんすよね。ベイザーシェービングで全然治るんで。昔からある方法でパターンも確立してますし。つーかガッツリ切ると壊死のリスクとか大分増えますよ?んで、切ります?」と聞かれた。
いや、誘導尋問。
このときの僕は「ゆーて保険適用だろうがなかろうが医者に入る金はそこまで差はねーわけだし、この説明が我田引水ってこともねーやろ」と思っていた。
「保険抜きで計算しても単価が高く、装置も脂肪吸引装置をそのまま使うだけなので(医者側の)コスパが高い」「手術時間が短いので(医者側の)タイパが高い」「合併症リスクが下がることは医者側にも旨味がある」「臭いが半分消えれば効果ありになるため無料再手術のリスクは小さい」「ダメ押しでエクリン汗腺の手術をしてもらえる可能性もある(剪除法の場合両方ジョキジョキするので両方に効果があるが、超音波吸引法は片方のみなのでエクリン汗腺が残る)」と向こう側の旨味一杯なのである。
手術当日、僕は全身麻酔を打たれ全身麻酔を打たれたことによるリスクを背負った。
術後の患部はごっそりとなにかが削がれた実感があった。
「僕の中にあったアポクリン汗腺でちゅよ~~~」と血の中に浮かんだ黄色い塊を見せてもらい僕は満足してしまったが、僕の脇に残置されたアポクリン汗腺の量は誰も知らないのである。
脇だけじゃなくて脇に近い二の腕の当たりもごっそりと何かが吸われたような感じなのだ。
ふと見ると皮膚にアザがばぁ~~~~~っと広がっている。
無差別放射されたベイザーと、無差別吸引を繰り返す吸引器が、余計なところまで肉を削ぎ落としてくれたあとなのである。
「剪除法はアポクリン汗腺ごと根本から皮膚をぶった切るから毛細血管ブチブチで危ないよ」と言っておいてコレかよ!!!!
まあ、これで効果があるなら・・・とその時は考えたのだが、結果は「腕壊され損」である。
はぁ~~~~~~~
ワキガ手術なんてはてなーの億万長者からすればたかが40万円の買い物なんだろうけどさ、俺のような年収中央値な人間からすれば結構痛い出費だったよ。
クソみたいなソシャゲにハマって毎月3万溶かす生活を1年続けたのと同じだって思えばまあ諦められるのかな。
辛い。
今でも俺は毎日職場で「(くっさ・・・)」「くっせ~~~~~マジくっせ~~~~~~」と言われてる。
助けてくれ。
それともこのクソ共から何を言われてもガン無視する鋼の心を鍛えるか。
死を選ぶ気はまだないけど、そろそろ気が狂いそうな気配はする。
本当、なんでこんな職場で働いてるんだろう。
そもそも半月ぐらいサクっと休めるなら普通の手術でワキガも治せたのにな。
ほんまクソやわ。
提示してる「そうめんでいい」バリアントの発話仕様、あれってコミュニケーション・レイヤーでいうと意味論的優先度フィールドがゼロ初期化されてるパケットなんだよな。
で、そのゼロ初期化パケットが相手の感情OSに到達すると、そこに実装されてる価値評価アルゴリズム(通称Pride-Driven Interaction Protocol)が、受信値を「非積極的承認」としてパースする。
つまり、入力信号の中に“熱量ビット”が存在しないと、即座にException: DEVALUATION_ERRORがスローされる仕様なんだわ。
その例外は通常のtry-catchでハンドリングされず、感情カーネルを通じてフロントエンドの態度・表情UIに直結するから、結果的に「何様だよ」っていう可視化出力が生成される。
さらに、相手の感情モジュールは言語的同値判定じゃなくて意図ベースのベクトル比較を行ってるから、
「そうめんがいい」(積極的選好ベクトル) と 「そうめんでいい」(受動的妥協ベクトル) は、同一文字列近似度99%でも意味論距離が閾値越えしてエラー扱いになる。
これを無視して「ただの晩飯APIコール」だと軽視するのは、TCPレベルのパケットロスを「まぁ届くっしょ」で放置するようなもんで、
通信の確実性よりも自己CPUサイクルの節約を優先する、お前側のシステム設計思想が原因なんだよな。
結局のところ、感情という非決定性システムに対して最適化パラメータ調整を怠ってる時点で、お前の通信モデルは高確率でクラッシュを引き起こす。
もし稼働安定性を確保したいなら、相手のEmotionalAPI Referenceを逆コンパイルして、推奨トークン列を生成するスクリプトを実装すべきだわ。
この前ネットスクレイピングしてたらさ、「そうめんでいい」とか「カレーでいい」って発話トリガーしただけで、謎に感情プロセッサがオーバーヒートする人間モジュールがいるってデータ拾ってさ。
「これで何様だよ!」って例外スローされるわけ。いやマジで何様もクソもなくね?ただの晩飯インタラクションAPI呼び出しじゃん…。
どこが怒りのエンドポイントなのか、マジで脳内OSをデバッグモードで走らせたいレベル。
どうやら「そうめんがいい」って出力しろって仕様らしいんだけどさ、それじゃ意味のシンタックスが全然別物じゃん。
「そうめんがいい」って発話は、“絶対そうめん食いたい!他はデリート!”ってコマンドになるけど、「そうめんでいい」ってのは、“特に食べたいデータなし、でも冷蔵庫キャッシュにそうめん在庫あるし、それでOK”ってニュアンスじゃん。
それを「軽視された!」とか「テンション下がる!」って勝手にパースして例外発生させるの、完全に脳内ファームウェア破損してるだろ。
結局はユーザーインターフェース上でご機嫌取りのためにフェイクデータ送信しろってことか?マジでUX悪すぎ。
そんな芝居がかったダイアログ、ファミリーサーバー内で毎日やっててよくメンタルリソース枯渇しないな、こいつら。
俺さ、そもそも食いたいデータが特にないから、クエリ投げられても困るんだよ。
「何でもいい」って返すと怒るんだろ?
「そうめんでいい」って返しても怒るんだろ?
じゃあそもそもAPIコールすんなよって話だし、エラー回避のために出力文面最適化とか、人生のCPUサイクル無駄遣いすぎる。
こんなどうでもいいことでいちいちクラッシュする感情マイクロサービスが家族サーバーにいなくて、マジで助かってるわ、ほんと。
ボク、正しいパースであるかとかが空間認識能力なくてよくわかんなくて。
他に既に読んだ漫画で画風が類似ってだけでもほとんどどれが上手いのかよくわからないのに本能寺が燃えるんじゃがとテンカイチがあるんだけど。
画風が類似だとわからないってのはパースが結構狂ってても顔さえちゃんとかけてれば萌え絵なら自分の場合全然下手とかわかんなくなっちゃうって話ね。
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空間認識能力が低い人の描いた絵を空間認識能力を低い人が見ても、顔さえよくある萌え絵のデザイン通りに描けているなら別に下手さは感じなくなっちゃうんだよね。
それどころかそういうパース狂いの絵とパースが狂ってなくて多くの健常が画力高いと判断する絵ともジャンル自体が同じ萌え絵ならどっちが上手いかとか言われてもよくわからないどっちでもいいぶっちゃけそんな質問してくるやつ面倒いやつぐらいにしか思えないんだよ。
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20250729161624# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaIh1SQAKCRBwMdsubs4+SFcYAQCf1ZeYkBFjN7gsc8unVUkwYBWvDXVr9X1TV/Pk/VSW6wD/UI7iukZpc0fCME5iRxCLKZvKHqDpY8XlWRHHV9PZJwA==brJT-----ENDPGP SIGNATURE-----
JSONと比べたときの**YAMLの「闇深」仕様**、ありますね…。
YAMLは人間に優しいと言われながらも、その仕様はときに**悪魔的**。
以下、ITエンジニアなら一度は踏んだであろう「地雷」を、**論理的かつ少し自虐的に**まとめてみました:
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good:value:okbad:value: nightmare # ←ここ、インデントずれてて無効。だけど一見わからない。
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password: no # ←文字列じゃなくてfalse になる可能性serial: 012345 # ← 8進数!?→エラー
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message: | これは複数行のスカラー値です。
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defaults: &defaults timeout: 30 retries: 3service: <<: *defaults retries: 5 # 上書きされるが、複雑になると意図しない結果に</pre>
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もしYAMLを安全に扱いたいなら、\*\*JSON supersetとしての使い方(厳格YAML)\*\*を意識したり、**JSONに寄せて書く**のが一番平和だったりします。
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要するに、YAMLは「賢く書こうとすると沼る」。
「素直に、簡潔に、禁欲的に」が正解です。
でも誘惑が多いのよね、あの子……。
イラスト鑑賞者がパースがーってよく言うけど、そんな正確にパース通りに書こうと思ったらまず正面画を描いてその各点に対して最終的に描きたい絵について点がどこにあるべきか射影変換、ようは数式使ってガリガリ一点一点のあるべきところを計算するかコンピューターに任せるかは知らんけど、とにかくそんなCAD屋みたいなことをイラスト描くうえでしなきゃならんのかってことよ。
そんな極端なこと誰も考えてないと思うけどじゃあパースっていうのはどのぐらいのことをすればそれが守られたイラストってことになるのかよくわからんのよ。
こうやって白黒思考だと何もできなくなるんだけどまあでもやっぱもやもやするから譲れないなあ。
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正確には堕天女なんだが下界で蠢く卑賎で矮小な生であるワイにはもったいないくらい高次元に完成された存在なんだわ
許されえぬ関係だからこそ燃え上がるというものだが禁断の愛の現場を仙女の彼女に抑えられたときはさすがにやばかった
仙女の憤怒がブチ込められた縮地はその風圧だけで30キログラムフォースパースクエアセンチメートルをゆうに超越しほのぼのローション羽衣プレイ現場は刹那のうちに凄惨な処刑場へと変貌した
本来ならその時点でワイの生命など薄らぼやけた影としてホテルの風呂場に焼き付いて終了するところであったが、いと賢き天女の機転によりはごろもの障壁に囲われることで即死の運命だけは回避できた(シーチキン目線)
しかしながら須弥山千年籠りの果てに開眼した仙女の繰り出す棒術によりワイを庇いながらの守勢を余儀なくされた天女は倒されてしまう。
仙女がワイに慈悲として与えた数フェムト秒の静寂の後、ワイのSyrianaには仙女ご自慢の六尺二分が突き立てられていた
まず、もしテーブルが小さいならそれこそJOINなんてそもそも無駄。
usersが1万件くらいのサイズなら、最初に全件引いて辞書にしておけば、処理時は全部O(1)。
一方JOINはどうなる?SQL構文パース、オプティマイザ、プランの生成と実行、インデックス参照、場合によってはソート・一時テーブル、何重にもコストがかかる。JOIN使うのは、全力で自己放尿してるのと同じ。
「今後も巨大にはならない」
これ、現実逃避の典型な。開発初期で小さくても、プロダクトってのは使われてナンボ。使われればデータは自然に増える。
さらに「本当に巨大なら辞書は無理」って言ってるけど、じゃあJOINならいけると?
脳ミソの冷却ちゃんと回ってるか?
JOINってのは重いんだよ。リレーショナル演算のコスト、現場でまともに見積もったことあるか?
JOINするたびに何十万、何百万件ってレコード舐めて、インデックス使って、それでもI/Oボトルネック起きる。
そういうの避けるためにRedisとか列指向DBとかプリマテリアライズするんだろ。JOINは最適解じゃない、最後の逃げだよ。
結局、JOINを正当化する理由が「JOIN以外知らない」ってだけじゃねえの?
設計手段を学ばず、「それしか知らない」ことを自信に変えるな。
知識の不足を理屈で補うのは無理がある。JOINを使うなとは言わん。でも、JOINが最適って言うなら、それ相応の読み、キャッシュ設計、オプティマイザとの対話が必要だ。
・実体化した装備を使う
・面をつける
・体に模様が出る
とかで終わり。
ハンタの具現化系念能力なんかも機能を持たせるための物体を生み出してる感じで「能力者の精神エネルギーがなんかカッコイイ人型の存在として顕在したもの」じゃないんだよね。
「スタンド」ってめっちゃカッコイイし皆パクリまくってるのになぜか「スタンドビジョン」はパクらないんだよね。
上遠野浩平みたいな小説家ならともかく漫画家がスタンドのアイディアパクって起きながらビジョンはロクに用意しないってのは不思議だなと思う。
戦闘シーンの大部分が2v2になって構図やパースがめっちゃ面倒になるというデメリットはあるが、その手間をかけた以上の格好良さがあるやんスタンドビジョン。
不思議だよね。
今日待機時間にVIPルーム呼ばれて行ったらマネージャーとママとチーママとオーママいてビビった
ごめんね、とても言いにくいことなのだけど…と前置きされつつ体臭がキツイこと、お客さんからも指摘があること、キャストからもたまに私が借りた後の店のドレスが臭いと言われていることを伝えられた
昼のお仕事もあるから直前にシャワーを浴びて来いとは言わないけど、対処して欲しいと言われて制汗剤(デオナチュレ)の新品をそっと渡された
恥ずかしくて情けなくて頭が真っ白になりつつも誠心誠意謝って、今後しっかり対応いたします。また至らぬ点あればすぐにご指摘いただけますと幸いです。と行って頭を下げて部屋を出た
前提として私は幼い頃から母に父と同じ匂いがする、臭いと言われて育った、耳垢は湿ってるし体毛は濃いし白い服の脇部分は黄ばむし汗っかきだし記憶の中の父の体臭も独特な匂いだった(まぁ15年以上会ってないけど)
だからこそ人一倍気をつけてたつもりで、制汗剤はあれもこれも試してデオナチュレをこまめに塗り直すことに落ち着いたし(パースピレックスは肌が荒れた、8×4やAg、リフレア、Banでは間に合わないと思った)ボディソープはデオコ、脇毛も脱毛して真冬でもデオコの汗拭きシートを持ち歩いて、お風呂も毎日入って、毎週日曜日はサウナで汗を流し、適度な運動と野菜多めの食生活、香水は逆効果と聞いてつけずにいた、でも慢心してたんだろうな
自分が臭い自認はあったから滅多にお店の服も借りず自前の服をこまめにファブリーズして洗濯してた、たまに昼の仕事から直行したり急な出勤でドレスを借りた日もあるけど入店して一年間のうち十回も無いと思う
私の勤めてるラウンジはお店の服を借りる時、名簿にどれを誰がいつ借りたか記入する、退勤時に着替えて元あった場所に戻す、洗濯やメンテはマネージャーやママがしてた、女の子から臭いと言われたこともあるみたいだから名簿を何度か確認したのだろうな
以前悩んで病院に行った時は保険適用するほどでは無いと言われて自費診療の値段に驚いた、手術が一番効果があるけど傷跡が残って多分ノースリーブが着れなくなると聞いて日和った、術後のダウンタイムと仕事の兼ね合いを考えてるうちに時間が経ってた
付き合ってた元カレ達はそんなに気にしなくて良いよ、良い匂いだよと言ってたけど
三十路をとうに超えて結婚願望も子供を産むつもりもないから一人で生きてく為の資金作りとか、奨学金の繰上げ返済、親の介護も見据えて無理のない範囲でダブルワークしてたけど昼のお仕事だけで食べてはいけるし、もう潮時なのかもな、水商売は十年以上してるけどさ、臭いラウンジ嬢とか最悪すぎる
ちゃんと確定申告して昼のお仕事に副業申請してお客さんと信頼関係築いて何もかも真っ当にやってたつもりなんだけど、父の遺伝が亡霊が過去が私の足を常に引っ張って一人暮らしの部屋に帰って苦虫を潰したような顔しか出来ない
とりあえず病院予約した、即日で対処療法のボトックス打って、医療ローンでもなんでもいいからお金を工面して治療しようと思う
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How toMake OurIdeas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to anidea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1]https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2]https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3]https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/