
はてなキーワード:パラリンピックとは
げえ!
鹿乃つののデザイナー初仕事がパラリンピックの広告ってやつ広告デザイナー界隈は権力を持ったおじさんが身内で回してそいつらとつるまないと仕事できない、女子はおじウケするやつが仕事取ってくから大きい仕事をやりたいなら普通の女は辞めたほうがいいって美術講師おじさんが愚痴ってた話まんまやんけ!!!
みんな知らないだろうけど、パラリンピックの熱心な視聴者は「共産党」なんだ。合法的に議席を握っている、中国からインド、キューバ、ベトナムまで、もちろん少数野党のロシアやアメリカも。自由民主国のスポーツ選手がどう育成されプレイするかに興味があり、スポーツを通じた影響力行使の機会を伺うとともに、欧米資本主義国のスポーツ商業主義の行方を冷やかしの目で見ている。
だから、一挙手一投足の組織的なウォッチがつねになされ、今だとSNS等で情報が流され分析されている。国境を越えた共産党同士の交流はあるから。
議論の余地はないって前提にして反論させようとしたのが結論でバレててワロタ
あなたの指摘する点には重要な論点が含まれていますが、それに対する反論を以下のように整理します。
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1. 「基準がある=公平性が完全に確保されている」わけではないという指摘について
反論:
「完全な公平性」が確保されていないことは事実だが、それはスポーツ全般に当てはまる問題であり、トランス女性の問題に限らない。
例えば、同じ「女性」カテゴリー内でも、遺伝的要因(骨格・筋肉・肺活量の個人差)、環境要因(トレーニング機会、栄養、設備)などで大きな差がある。
身長の高いバスケットボール選手、遺伝的に速筋繊維が発達している短距離ランナーなど、すべての競技者に同じ条件が与えられているわけではない。
筋骨格構造の違いが競技結果にどう影響するかは競技ごとに異なり、個々のケースを検証する必要がある。
既存の研究では、ホルモン抑制を行うことで一定の筋力低下があることが示されている。どの程度の影響が残るのかは競技や個人差に依存するため、個別の検証が求められる。
つまり、「ホルモン抑制だけでは不十分」とするのは、科学的に未確定な領域について過剰に断定することになる。
「科学的データが発展途上である=現在の基準が無効」という論理は成り立たない。科学的基準は常に更新されるものであり、現時点での最善の指標として運用されている。
例えば、ドーピング規制も科学的知見の進展によって変更されるが、それを理由に「現行のルールが無意味」とはならない。
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2. 「基準の運用が一律ではなく、混乱が生じている」について
反論:
異なる競技団体ごとに基準が異なるのは、競技ごとの特性に合わせて公平性を考慮している結果であり、混乱ではなく合理的な判断の現れである。
競技ごとの公平性を考慮するために、基準が統一されていないのは当然。
ウエイトリフティングとアーチェリーでは、筋力が果たす役割が全く異なるため、同じ基準を適用する必要はない。
実際に、世界陸連(WA)は厳格な制限を設けたが、FIFAは競技の特性上、より柔軟なルールを採用している。
スポーツにおけるルールの地域差はトランス女性の問題に限らない。
例えば、アメリカの大学スポーツ(NCAA)とオリンピックではドーピング基準や年齢制限が異なることがあるが、それは競技特性や文化的背景によるもの。
これは「不公平性の証拠」ではなく、「適応的なルール設定」の結果。
各競技ごとに異なる基準を設けることは、むしろ競技の公平性を維持するための柔軟な対応策である。
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反論:
スポーツにおける「女性」の定義は、競技団体ごとに決められるものであり、社会的・法律的な「女性」の定義とは異なることは前提とされている。
「女性カテゴリー」の定義はスポーツの公平性を維持するためのものであり、社会的なジェンダー認識とは異なる。
例として、パラリンピックでは障害の種類やレベルに応じたカテゴリーが設けられているが、これは「障害者の定義」そのものを変更するものではない。
同様に、スポーツにおける「女性カテゴリー」は、競技の公平性を維持するための基準であり、社会的な「女性」の定義と区別されている。
「一律にトランス女性=女性」としているわけではなく、実際には基準に基づいて判断が行われている。
例えば、世界水泳連盟(World Aquatics)はエリート競技においてトランス女性の参加を制限する一方、別カテゴリーを設けるなどの対応を行っている。
これは、競技の公平性を維持しつつ、トランス女性の権利も考慮するバランスを取る試みであり、「一律な扱い」とは異なる。
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反論:
科学的データが完全ではないことを理由に、現行の基準を否定するのは不適切。データの蓄積が進むにつれて、基準はより精緻化されていく。
科学的データが完全でなくても、現在の最善の基準に基づくルールが必要。
例として、COVID-19のパンデミック時には不完全なデータに基づきながらも、マスク着用やワクチン接種などのガイドラインが設けられ、後に修正されていった。
スポーツの基準も同様に、現時点で最も信頼できる科学的知見に基づいて運用されており、完全でないからといって無効とは言えない。
データの解釈に政治的影響があることは事実だが、それはどの分野にも当てはまる。
科学的知見が政治的に利用される可能性はあるが、それをもって「科学的基準が不確かである」とするのは論理の飛躍。
重要なのは、できる限り客観的なデータに基づいて、透明性のある議論を行うこと。
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スポーツの公平性は、トランス女性の問題に限らず、個々の競技特性によって異なる課題を持つ。
競技ごとの基準が異なるのは合理的であり、不統一=不公平ではない。
科学的データの発展途上であることは、現在の基準を完全に否定する理由にはならない。
社会的な「女性」と競技の「女性カテゴリー」の定義が異なることは、すでに議論されており、ルールに反映されている。
したがって、「明確な基準があるから議論の余地がない」という主張は短絡的である一方、「基準が不完全だから無効」とするのもまた短絡的であり、科学的・競技的な観点から継続的な議論と調整が必要である。
むしろ、別に、トランスがスポーツで金メダル取らなくたっていいではないですか。
トランスを同じ土俵で競わせなくてはいけない、という論理は、障害者枠によって救済されるべきもので、トランス種目はパラリンピックにおいて実施するという考え方がありうるのではないか。念のため申し上げておきますが、私はパラリンピックの素晴らしい価値を最大限に評価し、むしろオリンピックよりも守るべき価値観だと思う人間です。
えっみんなわざと間違えてるの?
「能力基準をもとにトランス女性の競技参加を排除する理屈に従えば黒人の競技参加も差別することになる」「現代の価値観ではそれは許されない」「したがってトランス女性の競技参加を排除する理屈も、現代の価値観のもとでは成立しない」
ということですよね?
もうちょっというと、現代の価値観というより、ウォークの論理によれば、ということではあるでしょうが。
個人的には賛成で、激変緩和しないといけないので一世代くらいの時間は最低必要だと思うが、将来的には、ウォーク論理に従って考えるなら、オリンピックなどの国際的競技では男女別枠の撤廃という選択肢しか取りえない気がしています
結局、みんなが何を見たいのかというところが整理されてなくて、たとえば、同じ努力をしても男性の方が女性よりも競技得点が高くなりやすい、というのは、統計的にはそうなんでしょう。
しかしその考えは、同じ努力をしてもアフリカ系男性の方がアジア系男性よりも100m走で速い時計を出しやすい、統計的に。ということと全く同じ構造になっていると思います。
従って、同じことを言っている、トランス排除をすべきでない(と言っているんだと思うが)という元増田の主張に賛成です。
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むしろ、別に、みんながみんなスポーツで金メダル取らなくたっていいではないですか。
女性を男性と同じ土俵で競わせるのはおかしい、という論理は、障害者枠によって救済されるべきもので、生物学的(染色体)女性限定種目はパラリンピックにおいて実施するという考え方がありうるのではないか。念のため申し上げておきますが、私はパラリンピックの素晴らしい価値を最大限に評価し、むしろオリンピックよりも守るべき価値観だと思う人間です。
障害者は障害の重みで階級が細かく分かれていてそれで競技するじゃん
脚ない人部門、手がない人部門、目が見えない人部門、脊髄の損傷の位置の差、などなど
それで解決なのでは?
トランスが障害かどうかという話はどうでもよくて、個性に応じた階級分けをするスポーツ大会がパラリンピックなわけだからさ
スポーツは同じ肉体的機能をもつものが切磋琢磨して競い合いながら楽しむために存在する
身体障害者でも楽しめるようパラリンピックが生まれ、聴覚障害者のためにデフリンピックがうまれてる
身体障害の認定そのものは6級や7級までありますが、先天的な障害ですと国民年金になるので1級と2級しかありません(等級の認定基準は完全に同じではありませんが)