
はてなキーワード:パノプティコンとは
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー):AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー):AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
NextStep: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(SteadyState)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENTISWAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性:はい、極めて困難です。理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在:しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
NextStep: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義:人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 →人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義:人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 →人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
仕事から帰ってきたら、リビングに見慣れない物体が鎮座してた。
何だこれって近づいてみると、どうやらそれは息子が図工の時間に作ったパノプティコンらしい。
パノプティコンって知ってる?真ん中に塔みたいなものが立ってて、そこから360度、全部監視できる構造になってるやつ。昔の監獄とかで囚人を監視するために考えられたっていう、アレね。
で、うちの猫がパノプティコンの監視塔にちょこんと収まってるんだよ。
この塔がまた息子らしく、やたらと細かく作り込んである。監視用の穴が四方八方、東西南北にびっしりと開いてるんだよ。
さっそく猫に向かって「おーい」って手を振ってみたらシュッて手が飛んできて、こっちがちょっかいを出す方向にきっちり反応してくれる。
それでさらに試してみたくなって南の穴から指をひょいひょい動かしてみたら、「…来る!」と思った瞬間、ピシッとそっちの窓から肉球パンチ。
今度は北側の穴の方で指を動かすと、見事にシュバッとパンチが即座に飛んでくるわけ。
どの方向にいても、猫は全方位ちゃんと把握してるっぽい。
こっちがどんなにトリッキーにちょっかいをかけても、瞬時にどの方向にも対応してくるんだからもはや監視のプロ。
それで、しばらく息子と一緒に「今度はこっちからやってみよう」なんて言いながら遊んでたんだけど、なんか気がついたら猫のほうが楽しんでるみたいでさ。いつもなら飽きるはずなのに、全然離れないんだよね。
監視役にすっかりハマってるんだよ。
で、最終的には俺たちが先に根負けしちゃって、もういいやってソファに座ってたんだけど、それでも猫は塔の中に収まったまま。
穴からじーっとこっちを見つめてるわけ。完全に「監視してますよ」って顔してるのが面白すぎてさ。「おまえ、ホントにやる気だな」って思わず笑っちゃった。
それならアクションやSFやファンタジーとどれが見たいかで需要がばらける少年漫画をよりも、むしろエロ漫画の方が、一つの作品に多くの人が集中する可能性として、有利とは考えられないか。
どうしてエロ漫画にはドラゴンボール並みに総部数が売れたという漫画はないのだろう。
子供向けは子供も読めるから?でも少子化のこの国で平均寿命のわずか1/3から1/4程度の客層を取り込めることのバンテージなど微々たるものだと思う。
アダルトコンテンツは三次元で事足りていて、わざわざ成人向け漫画を買うというのは少数派的行為だということなのだろうか。
自分が調べた限りだとAVもといポルノビデオの市場規模は500億円ほど。対して成人向けに限ったマンガの市場規模はよくわからないのでなんとも言えない。
思うに、たとえ有名だとしても、その、有名であるということを認識する機会がないのがエロ漫画なのかなと思った。
完璧な全数調査が可能な統計学上の神の視点では、今有名と認知されている一般向けと肩を並べるほど有名なエロ漫画はあるとする。
しかし一般向けはその有名さに比例し広告が打たれ露出して可視化されるので、売れてるんだなと思う機会があるのに対して、エロ漫画はいくら売り上げがあったとしても公共の電波でCMが流れることなどはない。
せいぜいネットのバナー広告でしつこく表示されるようになる程度。これはマイナー漫画でも電子書籍側の勝手な推し感情で広告が打たれることがあるのと同じなので、せいぜい弱小勢力が粋がってると感じる程度で、有名な作品なのだとは判断されない。
あるいは知人間でこのエロ漫画は知ってるとか知らないとか語り合って、お互いがそのエロ漫画を知ってることは情報として共有しあえても、結局全体ではどれぐらいの人がその作品を知ってるのかは全然未知数なので、少なくとも、有名だとは思われない、積極的そう肯定するに足りないのだと思った。
身内が知ってることを知っても、ネットのタイムラインやあえて検索でその作品に言及するつぶやきをいくら見ても、「内輪で盛り上がってる」以上の根拠たりえない。
一般向けの作品が有名になると、「公共の場」で話題にのぼらされ「世間で有名だと刷り込まされる機会がある」に対して、その作品を知ってる人やファンが「団結感」あるいは「一体感」を感じる機会がないということなんだと思う。
神の視点ではみんなそのエロ漫画を知っていて、有名だという状態なのかもしれない。でも、我々が知れるのはせいぜい両隣の人の認知内容だけ。
ただ電子書籍サイトに入り浸ってると、ティーンズラブを盛んに推されてるような感じがしてきて、ティーンズラブ作品の中には下手な映画化した少女漫画よりは売れてるし有名なものがあるんじゃないかという感覚になってくることもある。
そういえばエロゲーは一万部売れたら大ヒットとしていいそうだけども。エロ漫画なら10万部売れたらってところか。やっぱりヒットの基準が低すぎて、到底一般向けの大ヒットと肩を並べられる希望を持った基準ではない。
エロ漫画の場合は売れないから高いのか高いから売れないのかよくわからないんだけども。だってあれ光栄のシミュレーションゲーム並みに高いじゃん。
そうそう。「作品名で言及されない」ことも、有名だとは思わされない要因の一つかもしれない。
一般向けは盛んに作品名を主語にファンコミュニケーションが行われるけども、エロ漫画でそれはない。あるとしても閉鎖的な空間に限られるから、これも内輪止まりではないかと思わされる一因になる。
あとエロは抜ければなんでもいいと思ってる人も多いから、自分がいちいちなんて作品を読んだか記憶してない傾向もある。エロ漫画の無断転載まとめサイト読んでる層は特にそうだと思う。
たとえ認知者数として彼らを含めれば相当の人間がその作品を読んでいたとしても、作品名を覚えていない彼らが「○○は~がよかった」とか語ることはないので、そういう「反応の質」でも、有名だと思わされるに不利な部分があるのだと思う。
まあとにかく、「われわれはこの作品を知ってる。われわれは大勢いる」って一体感が一般向けと違って持てないのはなんか歯がゆいよね。「われわれ」は「分断されてしまっている」
そういうコンテンツが好きでいると、たとえるなら好きなアイドルガマイナーだけどドーム公演できるまでになってほしいみたいな、そういう判官びいきの情が芽生えてきて、こういうことを書きたくなる。
ケトションのコピペ見てから自分ち以外の電気ケトルを使えない。別に菌がどうのという事もないだろうし、単なる気持ちの問題なんだけど。
そんな事する奴もそうそういないだろうとは思いつつ、「かもしれない」が無限に増大して穏やかな気持ちでいられない。パノプティコン的というかパラノイアというか。
テロ行為の本質は直接的な危害もさることながら、公共空間が安全であるという意識を揺るがせる点にあるという話を聞いたことがある。今まではそんな事意識してなかったけど、あんな事があったから今後ももしかしたら……っていう。醤油差しペロペロとかも比喩ではなくテロそのものだよなって思う。あれは万が一の実害に警戒するというよりは、「かもしれない」の不快感を植え付けられる程度のものだけど。
まあそんな事言い出せば電気ケトルだけじゃなくてコンビニ弁当もファストフードも製造ラインで気がかりな点なんていくらでもあると思う。ネットじゃその手の噂はゴロゴロあるし、研究データみたいなのも出てるんだろうと思う。
でも実際そういうもん食ってて問題あったかって話だし、「かもしれない」に振り回される不合理さは知っているから出来るだけ気にせずにいたい。でも何かの拍子で知ってしまった以上は気にせずにはいられない。
電車の椅子だって染み込んだ吐瀉物が残存してるかもしれないし、ガキが汚い靴で踏みつけた直後かとしれない。それでも立ちっ放しはダルいし座りたいから、世間の良識への適度な信頼と意識的な忘却を以てして「かもしれない」に蓋をする。
妥協出来るラインのボーダーがどこかにあるらしく、電気ケトルは我慢出来ないっぽい。高校の頃、トイレのハンドソープのボトルに尿が詰められる事件があったのがデカい気がする。経験がもたらす実感は理屈を軽く飛び越える。
悪目立ちたくない、って話をすると「誰もお前の事なんか気にしてないから。自意識過剰」と非難が飛んで来がちだが、少し違う。
他人の中で自分に対する「なんだコイツ」という認識が生じるのが嫌なのではなくて、自分の中に「人から見られた」という不快感が発生するのが嫌。他人が実際どう思ってるとか関係なく。フーコーのパノプティコンや権力の内面化といった話のように、内なる他者が発生するのが不快。
人から眼差される不快さというのはジョーダン・ピールの映画なんかでも結構重要なテーマになっている。他者の不愉快な目線は自分の中に潜り込み、本来抱く必要の無かったはずの自意識を増殖させる。
これはもう菌が云々ではなく「穢れ」が嫌というタイプの潔癖と同じで、理屈は分かっても心がそれを拒否する強迫じみた問題だ。
これが極まると糖質に片足を突っ込んでいくんだろうな。
なぜ全国フェミニスト議員連盟はいつまでも公開質問状に回答しないのか、
ツイフェミは次から次へと訳分からん論拠で不適切判定するのか、
理由が気になってたんだけど、以下の記事を読んでちょっと思いついたのでメモ。
「不機嫌で人を支配しようとする人」の気持ちがわかった話 | Books&Apps
要約すると「察してもらうな、察するな」が合言葉で
父親が風邪で喋れなくなったときに不機嫌そうにしていたら娘が察してくれて楽で、
「不機嫌を他人に押し付けてコントロールしようとする人の気持ち」が分かりかけたけど、
「喋ってくれるパパがいる時はいいんだけど、喋れないパパがいる時って、なんか不安になるの」
それともう一つ、以下の記事もヒントをくれた。
【お手軽】爆速で恋人を狂わせる方法【簡単】|Gigandect|note
ターゲットに自分の考えに疑問を持たせて操る洗脳術に注意しましょうという話。
論理的説得も分かりやすい暴力による脅しも必要ないということ。
というかこれってあれじゃん。「まなざし」じゃん。
・まなざしの定義3:対象を、"見る側"の価値観や規範に従わせようとする支配の力。及び支配構造そのもの。
「見られる」ということは、他者によって評価されることであり、なんらかの規範や評価基準を押し付けられることでした。このはたらきのことを、フーコーは「支配」と表現します。例えば、「人前に立つ時は、ちゃんとした服を着ていきなさい」とか、「そんな服を着ていて恥ずかしくないの」と言うことがあります。これは、「自分がどんな服を着るか」という選択を、「相手にどう見られるか」に従って考えているということになります。すなわち、「見られる側」は、「見る側」の評価基準や価値観に従って、自分の行動や選択を決めているのです。
やがて、「見られる側」は、「見る側」が傍にいなくても、相手の評価基準や価値観に従うようになります。このことを、フーコーはパノプティコンという監獄を例に出して説明しました。パノプティコンとは、中心に看守塔があり、その周りにぐるりと囚人のいる牢がある監獄です。看守塔からは牢の中が全て見渡せますが、看守塔はマジックミラーになっており、牢からは看守塔の中を見ることができません。囚人は常に看守塔の中の監視員によって監視されていますが、囚人からは監視員がいるかいないのか分からない、という構造になっています。囚人は監視員に監視されているので、規律に従わなくてはいけません。しかし、囚人からは監視員がいるかいないか分からないので、やがて本当にマジックミラーの向こう側に監視員がいるかどうかは関係なく自ら規律に従うようになります。
フェミニストの説明の無さや規制基準の不明確さがパノプティコンの監視の見えなさに重なっていやらしい。
というか「まなざし村」って呼ばれてるフェミニストはこういうまなざしに反対してたんじゃなかったか?
今はフェミニスト側が積極的にまなざし使って政治闘争してない?
例えばこういうのノリが典型例。
共産党「(いきなり法規制されないように)議論しましょう」表現の自由戦士「非実在児童ポルノでも規制するっていうのかぁあぁあああああぁああああぁあああああああああああ!!!!!!!!!」
そろそろフェミニスト達が論理的説得を使わない戦いをしている想定で対抗しないといけないよ。
規制反対派にレッテル貼ったり、多数派の目を気にするように仕向けたり、
そういうのを見かけた規制反対派がフェミニストは頭おかしいって馬鹿にしてるいと
はてなスターに限らずさ。
アプリストアの★評価は、乞食キッズの機嫌を損ねると一気に下がる。
ECサイトの★評価は、★5つけてくれたら見返りあるよと仄めかす業者を排除できない。
フードや宿泊その他の★評価は、つけた人間が難癖神経質モンスタークレーマーであると見抜くことができない。
世の中から★なんかなくして、文字を一文字一文字読んでいき、自分のアタマで考えるしかないんだよ。
★をつける人間自体にそれぞれ★の差があるんだから。それも、一人の人間でも各分野ごとに★の数が違う。なんなら気分とかでも判断力は変わる。
一般に9時とか10時のドラマで主役取るような20代~30代(場合によっては10代も)の女優はそのルックスから男人気が高いとされている。
というよりも、そうであるという印象を植え付けようと、日々そういう印象操作活動を「テレビ側」が継続しているといったほうが正しいかもしれない。
だって男人気が高いなんて、肌感覚で実態とは合わないと、男として思うから。
告白されたら振ることはまずないだろうが、女優として売れてる人たちの顔って性的にそそられるようなものではないと思う。
端的に言えば穴に突っ込んでも勃たない気がする。恋愛対象ではありうるが結婚しても一生ディンクスなんてことになりそうだ。まあ親族に対して鼻高々にしていられるぐらいの価値はあろうか。
男にとって女とは抜ける穴と抜けない穴に分類される。言い換えれば、ブスか、ブスでないか、だ。
明らかに女優は「ブスでない」方に分類されるが、ああいう顔は演劇において優れた威力を発揮する、言い換えれば、様になるという状況を作り出すのに優位なものなのであって、別に男を興奮させる顔というのとは違うと思う。
でも男たちもまた自分のプロフィールを伝えるのに「好きな女優」を言ったりすることが多い。これは結局、本当に抜ける顔としてはAV女優のあの子が本来の好みということであっても、それを言ってしまっては下手したら社会不適合者の変質者扱いされてしまいかねないから自重しているだけなのだ。AV女優の好みなんて千差万別でゴールデンタイムの女優を引き合いに出すの違って話題の共有が難しかったりそこで話が盛り上がらなくなってしまうという問題もある。
しかし多くの男はそれを自分だけの問題だと思っている。対外的には「新垣結衣が好き」とかみたいに答える男にしか出会わないから。
これは言うなればパノプティコンに囚われているようなものだろう。本当は皆テレビの女優などそこまで好みではない、でも各々社会的正しさという壁に隔たれて実際の好みを明かせないから、「俺は違うけど、ゴールデン女優は男に好かれているんだろうな」というのが各々の頭の中の主観的事実になってしまうのだ。結局それはテレビの作り手にもおよび「男なら、長澤まさみが好きなんだろう!?」と乱心を起してそういう内容のバラエティばかり作ってしまう。(その筆頭がモニタリングだ。)
ゴールデン女優が人気という印象には波風が立たないとこともあるかもしれない。女優ぐらい綺麗な人に男がなびくのは許せるって感覚が女にはある。
しかしこの綺麗というのは舞台映えするということの言い替えでしかないのだが、そこらへんあけすけにして男にとっての本当の好みが伝わってしまうような番組作りをするようになればたちまちフェミニストなどが黙ってないだろう。
まあそんなわけですよ。俺みたいなことを思った人には他にもいてその疑問を表明したブログなり星の数ほどあるのかもしれないが、そういうのはグーグルに「しょうもないこと」と認定されてSEOの影に追いやられているだけなのかもしれない。そこで俺もまた「誰も言わないことを思い切っていってみたと勘違いした者」の一員になってしまっただけかもしれない。おそらくこの増田などを見つけられなかった人がまた同じような内容の文章をネットにあげるわけだ。歴史は繰り返すのだ…。
性産業には水(水商売)と風(風俗)があると言われているが、それに当てはまらないものもある。わたしのしている、チャットレディ もその1つだ。
チャットレディ は、ネット上で性を売る。お客様とお話ししながら、服を脱ぎ、自慰行為を見せていく。男の人はネット上の女の子の待機映像から好きな女の子を選び、その子を「買っていく」。いわば、2.5次元のAVというかバーチャル風俗というか。
チャットレディ では、ネットという物理的な壁があるため、男性に触られることもないし、病気の心配もないし、密室でウッカリ危険なことになる、ということもない。だから彼氏以外の男性と、満員電車の中でスネ毛が当たっただけで不快感に襲われるわたしでも、できるバイトである。通勤。顔出しなしでもOK、昼働ける。他の風俗に比べれば、あまり稼げるものではないが、それでもこんなに条件の良いバイトはないと、わたしは思う。
もちろんチャットレディにはリスクも大きい。一番は身バレだろう。わたしは顔出ししていないが、顔認証があるようなこの時代に、技術的には身元を判明することは可能なんだろうなと思いながらやっている。
本当に怖い。
このバイトで失ったものは大きい気がする。なんだろう、この虚無感。
誰かに触られてるわけではないのに。
わたしはいくつかのチャットのサイトに登録しているが、多くのサイトでは不特定多数の男性から見られる存在であることを気づかせないような仕掛けがたくさんされてある。
たとえば。
普通の「パーティーチャット」だったら、男性は文字でのチャットでしか参加できないとか。(2ショットという、男性と2人だけで行うチャットでは映像や音声も可能。)そこでチャットしてる女の子たちは、見られているはずの男性が実体を伴うものではなく、ただ「文字」としてしか存在しないような錯覚に陥ってしまう。
わたしは、男性は誰でも映像参加可能なチャットのサイトに登録した時、それを痛感した。というのも、そこでお客が入って即、映し出されたものは男性の陰部だったからだ。ああそうだ、見えないだけで、わたしは勃起している男性に囲まれているのか。気づかなかった。吐き気がする。そう思った。そして、わたしの映像と画面に映る男性は、そのチャットを管理する誰かに見られている。だが、わたしからはいつ誰に見られているのか、知ることはできない。パノプティコンだと思った。
そしてチャットレディとしてのわたしは、誰かの身体的欲求を充足するためにしか存在できないということ。それは人間らしく存在できないことを意味する。
多分、それが、ネット上で性を売ることだと思う。それは人と人との対話から始まる、水商売や風俗とは決定的に違うのだ。
(自己紹介を飛ばしてしまったが、わたしは大学生で哲学科にいる。ほかに2つバイトをするも、金銭的に難しくなったため、チャットレディをはじめた。)
Permalink |記事への反応(10) | 19:53
それともこの程度のことは民間企業でもガンガン起きてるからスルーでいいのかな。
マジレスすると、まじめに事前着工や談合に当たるような行為の防止に務めると業務効率が少なく見積もって2割低下する。
つまりは人件費が20%マシマシでかかることになるけど、それでも事前着工や談合はさせない方が国民のためなのかね。
つうかすでに「事前着工やめろ!でも納期と予算は死ぬ気で守れ!」とか抜かしてくる連中と内ゲバの日々だよ。
1~3年おきぐらいに仕事場コロコロ転がされてスキルレベルが半分程度リセットされたり、パーキンソンの法則ばりばりな謎い業務の増やされ方さえ無ければそんな厳しくもないけどね。
マジで国民や政治家が俺たちに何を望んでいるのかよく分からなくなってきたわ。
なんだろうなあ。
パノプティコンってあるじゃない。
誰もがあんな感じで何か見えざる目に脅かされながら刑務所の中で働いてるような感じかなあ。
お互いが看守であり囚人であり密告者であり裏取引の相手で、そこにはある種の厳格な規律があると同時に驚くようなインモラルが吹き荒れ、「常識」が外の世界とは日々ズレこんでいくような、そんな感覚じゃよ。
水清ければ魚棲まずというけど、水を綺麗にしているかのように見せかけるために裏ではろ過した汚れをバシャバシャ見えづらい場所に放流している嘘つきワールドじゃよ。
嘘をつかねば仏になれぬ。それな。じゃよ。
二人が昼前のバスで帰った。
一人になった家は見違えるほど綺麗になった。ピッカピカ。
一人でやってもここまで綺麗にならないのは何故だろう。
旅先で散々カーチャン達にキレてきた。あれやこれや。
帰って一人になった時に後悔しきれないぐらい落ち込み、ベッドに潜り込んで枕に涙をながす。過ぎたときには大したことなかったのにと再び後悔する。
随分前で何時か覚えてないし日付も見えないかな。
そこそこ昔なのにあっという間に二人とも50代。元気だけどそれでも、、、
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小学生のころ
二人とも仕事でやや忙しかった。だがその裏でとうちゃんは「ふ」の真っ最中だったらしい…カーチャンもココロやられてたらしいが当時心が添付されてない会話と幼さで状況が分かりやしなかった。
何をどうしたのか分からないしよく覚えてないが幸い二人をつなぎとめることができた。
それでも心は変わらなかった感じだった。
多分このころが一番の元凶。
ギリギリ不関心な感じ。一緒に何かを育んだり最後まで取り組んだ記憶がない。
報酬系がうまく育たなかったのかもね。
環境自体は悪くなかった。金にも困ってなかった。だが足りなかったのは温もりだと度々想う。
現代の子供がゲームに夢中になる理由に報酬と罰がハッキリわかるがよく挙がる。
おそらくこれだった。
友達が遊んでたポケモンに興味惹かれて同年代の子たちより遅めに遊び始めた。
あれは良かった。子供なりのコミュニケーションツールであり、コミュニティーへの参加券だった。家で話せる相手がいなくてもポケモンは話題を用意してくれた。
今思えばこの流れは成功でも失敗でもあった。だが溝が深くなるだけだった。
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二人と心のある会話が多分少なかったせいで人を観察するばかりしてた。日本語をまだ習ってないのに入った日本語メインの幼稚園で覚えた昼ごはんの屈辱。おかわり欲しいだけだったのに言えなかっただけでみんなに見られて笑われた。石塚英彦(イメージに傷ついたらスミマセン)みたいな体型の女保育士がなに言語の不自由を笑ってんだ。お前のせいで喋るのが今でもすこし躊躇うようになったんだぞ。
初めての学校。小学生に未来の話は早い早いと思われがちと思うが、「深い」直感はいつも正しいと思う。あの時クラスの中に一人だけ素質が違うのを感じた。直感で学校の果て(大学など学歴における小学校の沿線上の先にある何かという感覚 )にランキングあったらこいつはトップにいるだろうなと確信したのは授業参観日で自分の名前に込められた意味・願いの発表だった。彼の自信がこもった発言、動作一つ一つのキレの良さ。確信したよ。そして高校卒業、大学進学。ふと思い出した彼の名前を顔本で探したらなんと東大現役だった。
これは正直おめでとう以外の気持ちはなかったよ。学歴と直感を照らし合わせてもチートでもなんでもない、これが実力だという真の勝ち組の雰囲気が漂ってた。素直に同級生だった奴の一人が人生における一つの成功を掴んだことが嬉しくてたまらなかった。この調子でいけばさらに大物になるだろう。期待してる。
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二人とも比較的に早い段階で世界の反対側を見てきた。だから気がつけば自分も鏡の向こうにいた。この体験はまるでタイムマシンのようだった。
ある日は卒業式の保護者席に。ある日は学校に居ながらも皆が先に散らばってたのを知った。
二人の仕事や個々の問題が落ち着いてきた。今までの溝の埋め合わせや溝があったことへの許しを請うようにほぼ毎週末運動施設に連れて行ってくれた。
だけど遅かった。
突然の心の共有に異常検知したのか、受け入れがたかった。
今思えば家族全員の失敗である。何事もなかったが当たり前と慣れてしまってた。逆に何事もなかったように家族であろう姿に戻ろうとする二人。隣り合ってもお互い違う価値観の基に過ごしてきた。
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別にオタクになるのは悪いこととは言ってないとまず断言しておく。
オタクになるまでに感じたことはおそらく読んでる人達がこれまでorこれからないだろう。
新しい環境。新しいクラス。幼稚園の屈辱が時々脳裏に浮かんで無口で過ごした。馴れ合うまでの経緯は忘れたが、日本人に日本の魅力を教えに来た同級生がいた。
実際そうでもなかった。オタク文化を紹介され、いつしか彼と他の仲間たちとなけなしの小遣いでグッズショップ巡りした。
wowaka、蝶々P、ゆちゃP、164、40mP、etc…。素晴らしい音楽を世に出してくれた。やや機械音だが生身の人間じゃない何かが発する言葉の羅列が逆に心に届いた。
だけどある日二人に見られて「甲高い機械音」と言われたときはようやく見つけた居場所が傷つけられて溝が更に深くなった。
授業なんて聞いてないで一日一冊半ぐらい読んだ。日本語文学なんざラノベ以外読まない日々だった。
日本語がみるみる上達した。ほぼラノベで養った語学力で今は私立トップ校に在学中だ。現役で入って留年もしてない。これでも悪と言い張れるか?そもそもラノベが害悪という人は何を根拠に拒否しているのだろうか。
話を戻す。
彼らとつるんでいるうちに学校に慣れた。だが成績のほうはリーマンショック暴落の直後のようだった。別に二人も特に心配していなかった。
学校というものを取り除けば楽しい毎日だった。なにかOSの裏技を見つけては仲間と共有して、学校というパノプティコンとイタチごっこしてた。
場所は変わってないが年取った。
イタチごっこは相変わらずだった。だがたまに学校からウェブサイト開発案件が来た。三人体制だったがあのときにゃあgitなんか知らなかった。
マーク・ザッカーバーグのストーリーはご存知かな。彼が同級生兄弟と一緒に顔本を作るはずがいつの間にか功績を奪ったようになってしまったという。
実際似たようなのが起きてしまった。相手は今日本じゃない公立のまあまあいい大学行ってる。生意気だがあいつなりに成功の道を作っているようで奪われた身としては進歩に必要な犠牲としての役目を果たした感があって恨みはない。自分がいたおかげであいつが成功を掴めたんだ。自分がプロデュースしたと思えば何もかもやり過ごせる。
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小中高片思い沢山してきた。「嗚呼、自分は普通の人間だな」と感じた。だが高校では周りを見ては諸行無常だと実感した。そりゃああれだけ見たら無心になった。なったつもりがなりきれなかった。
二人からの心のこもった愛がいつしか途切れて、片思いをするたびに「この人なら足りない何かを埋めてくれるかな」と数週間悩んではまた無心に戻った。
陰湿ギークオタクは電車男にすらなれない。(ごめんなさい電車男あまり知らないです)
無心がリバウンドして誰でもいいから付き合いたいと思い始めた。
成り行きで一人と付き合うことができた。ランキングでいうと余り物に近い。(すまない)
付き合って数ヶ月。
燃え尽きた。
なんで付き合ってるんだっけ?誰のために関係を維持してるんだっけ?
けど卒業式四日後ぐらいに相手から別れ話出された。チャラ男ではないが、これでよかったのだ。これが一番ダメージ少ないなら相手がうんざりして切り出したことで悪者にでもなっていい。と何度も何度も自分に言い聞かせてた。同時にやや恋愛恐怖症になった。
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大学に入った。頭がとてもいいってわけでもない。いくつかの大学に落ちたさ。だがこの大学の合格通知が来た時はとうちゃんにとって悲願っぽい何かを感じた。無心で育てられたとは言え、心の底では「これでやっと見てくれるかな」という気もあったかもしれない。
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インターンシップにも応募した。とある大手情報系企業だ。とうちゃんには無念しか残ってない所に挑んだ。
負けたよ。いつ以来の敗北感だろう。
手持ちの装備は心がない会話ばかりで作り上げた会話力だけだったよ。二回戦のグループ討論で落ちたよ。父の日だったのに朗報持って帰れなかった自分が更に悔しい。カーチャンは夢を再び見せることが出来たと言ってるが、見れたかな。。。
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無心を貫くと心に決めたのにまた同じ理由で破ってしまった。現実はそう甘くなかった。
告ハラという言葉ができる前に遭ってしまった。ハラスメント?それ本気で言ってるの?言ってるそばから相手の社会的地位を下げるような内容を公開してそれって私刑だよね?
まあこの身がコミュ障恋愛恐怖症になるぐらいだから相手もなんらかの強迫症じゃないかと哀れんで過ごせばいいと思って無かったことにした。
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カーチャンは去年あたりキレやすい理由についてうすうす気づいて原因を根本的に治したいと言ったが、溝が深すぎたとだけ言った。
ここまて約10年。そりゃあすぐに埋まるわけないよな。夢でも見てたのか、途中数千字の理由を書いたが読んでも理解できないって言ってたもんね。家庭崩壊になりかけて警察を呼んで連れて行こうとしたもんね。
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二人にキレまくったこと。すぐじゃないが、いつも一つ一つ後悔する。途切れた愛でも、無かったことにはならない。しかし合間が大きすぎた故、怒りと許せない気持ちがどうしても先走ってしまう。
キレたその夜には枕元で、「もし今夜、明日、明後日、突然の事故で二度と触れる事ができなくなったら?」「もっといろいろやれたのに」と悪い想像をして悲しみ、寝落ちするまで泣いてしまう僕がいる。
さすがに10年も考えればいくつか答えが見えたよ。
無かったことにしたことには慣れた。だったら無かったことを無かったことにすれば少しは良くなるのかな?
思いついたら歩いていけ
心残り残さないように
砂の惑星で10周年か。ちなみに最初に聞いたボカロ曲はなぜかデッドボールPの曲だった。
今日はwowakaのアンノウン・マザーグースをようやく聴いた。このリズム、この歌詞…何もかもが懐かしい。何よりも聴いた瞬間
もう一回 誰も知らないその想い
あなたには僕が見えるか?
あなたには僕が見えるか?
…
どうやって この世界を愛せるかな
いつだって 転がり続けるんだろう
ねえ、いっそ
誰も気附かないその想い
この唄で明かしてみようと思うんだよ
の部分が一番響いた。
運命も偶然とかいつも信じてもどうにかなるものではないと思っているけど、これは自分の決断を忘れないうちに書き下ろしていつしかまた自分に読ませて落ち着こうという願いで書いた。
最後に、
「もう少しだけ友達でいようぜ今回は」
引用:
https://www5.atwiki.jp/hmiku/sp/pages/36575.html