
はてなキーワード:バーンアウトとは
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12323634412
Aが辞めると言うのです。Aの派遣会社の営業から聞いた所に依ると「新しい派遣を採ると聞いた、なぜ自分だけはいつまでも下っぱでどの派遣もやらないような雑用をやるのか、自分はいくら頑張ってもダメなのか。一生懸命頑張ってもこの職場では報われない」との事でした。
Aの仕事は事務でしたが何でもハイハイやるので今では肉体労働もこなしています。他の部署は男性がやっていますので、Aの部署は助かってます。更に、誰にもわからないようなアクセスなどもやるので、なんでもやですね。
不景気なので時給は上げません。
それにAだけを正社員にしたら他の派遣からクレームが出ます。一人だけ贔屓するわけにはいきませんし、派遣は派遣、社員に簡単に出来るわけではありません。また契約切り替えも無理です。そのような問題ではなく、同じ人が違う部署へ行くのが問題との事です。
Aの部署の社員達はAが便利だったので非常に残念がっています。
なんでも「ハイハイ」言って雑用を引き受けて来た人がそこまで言って退職しようとしているのだからそれだけ異常事態であると考えていいと思う。私は(もちろん知恵袋で回答している人も)Aさんとは会ったこともないが事態が深刻であるという感じは受けた。
それに関して職場では認識がないのか危機感がないのか何も感じないのか・・。
Aさんだからこれで済んでいるだけで他の人だったら証拠を揃えて労基に行かれることすらあるのでは?
Aさんは差別されすぎ、見下されすぎ。
1 雑用を周りの人と全て分担するように変える
2 本来の業務(本来の役割)を周りの人と全て分担するように変える
っての2つだろう。
だがもう遅いだろうな。Aさんの心はすでに離れてしまっている。
昔ブラック会社批判が盛んだったころやりがい搾取というのが問題になっていた。
この質問にある職場は雑用を押し付けられる方からしたらそのやり甲斐すらも感じられない環境にまでなっていると思う。
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他の方の回答
・派遣だから社員だからと一線を引いているのは管理職の職務全うしているとは言えない。
・Aさんに甘えていながら退職の意向を示されると慌てるようでは普段からなにしてたのか
・Aさんを正社員にするのは一人だけ贔屓することになると言いながら、雑用係として採用されたわけではないAさんに雑用を押し付けるのは良いのか?
・Aさんが雑用を引き受ける事で社内も上手く回っているというのは、掃除当番を1人にやらせて遊んでる小学生のようなものでいじめと同じ。
・「派遣は便利に使い倒せる物」、「人材を大事にしないスタンス」なのが感じられる。
・Aさんに様々な事を押し付けて「便利だな」で終わってるところがゾッとする。
・雑用をAさんが(ほぼ)専属で担当することに合理性が考えられないので、本来は社員皆が担当しなければならない業務。
・雑用ばかりのようだが本業に専念せずに人事評価はきちんと行えているのか(雑用ばかりで評価材料があるのか)?
・対等な人間として扱ってください
・退職を申し出たAさんの行動は正しい
・頑張っている人を認めず、ただ搾取したいのは残念だ
・本当にその職場を支えてるのは、長いだけのパートではなく、目ただないけど嫌なこともやってくれる人
・雑用を善意で引き受けてきてもそれがただの貧乏くじの押し付けになるならばそれは報われない
雑用ばかりやらされる問題は、スキルアップの停滞、仕事のモチベーション低下、達成感の欠如に繋がり、成長機会の損失や燃え尽き症候群(バーンアウト)のリスクを高めます。特に若手社員や専門職で顕著で、「パワハラ(過小な要求)」や「追い出し部屋」とみなされることもあり、会社への貢献感の低下や離職につながる深刻な問題です。
私は発達持ちでうつ病で手帳3級を持つ障害者だ。現在はルーティンワークと重労働が主で、そのほとんどを非正規が担う職場で働いている。そういう条件であるために、「いろんな奴がいる」。明らかに「こいつの社会性じゃ普通の会社じゃやってけねえな」という感じの奴から、家族の介護などの事情や本人の持病がある人、主婦のパートさんまで、色々だ。その中の一人として私も働いている。
私はうつ病を発症するまでは正社員として企業で働いていて、発達にも気付いていなかった。
当時の私は発達由来の過集中で本当は大して高くはない能力をブーストするのが日常であり、終電や徹夜も珍しくないハードワーカーでもあった。これも発達由来なのだろうが、完璧主義で、周りのマイペースさ、やる気のなさが許せないとも思っていた。指示を出して上がってきた物のクオリティが低いと、何度も修正をかけ、それでもどうにもならなければ自ら徹夜で仕上げていた。
そうしてのうのうと定時に帰っていく彼らに対して、「あいつら、人に迷惑をかけることを申し訳ないと思わないのだろうか」と苛立っていたし、OKを出す基準が甘い先輩たちに対しては、「何も考えていないんじゃないか?」と不信感を持っていた。
「そんな事で恥ずかしくないのか」と。
そんな風に色々勝手に背負い込んで働いているうちに、バーンアウトしてうつ病になった。
障害者なんてものは世の中に迷惑をかける側だと思われているだろうが、障害者でない人々がそうであるように、同調圧力の強いこの社会で「人様に迷惑をかけるのは罪である」という価値観を、多くの障害者もまた内面化している。
先天的な障害のある人は生活するうちに周囲の態度からそれを知ってゆくだろうし、後天的に障害を得た人が障害の受容をする時、もっとも乗り越えねばならないのは「障害者は他人の足を引っ張る、役に立たない存在である」という、元々自分の中にある障害者への差別意識であるという。
私もその壁にぶち当たり、ひどく悩んだ。死んだ方がよいのではないかとも思った。他人の足を引っ張ることしかできない、迷惑な人間には生きる価値がないのだという考えには、今でもずっと呪われている。
ビルの高層階でデスクワーカーとして働いていた以前とは全く別の環境で社会復帰した当初、私はいったん無能な自分を受け入れ、そんな自分なりになんとかやっていこうと思っていたはずだった。だが、働きながらも呪いはずっと深層心理化で効き続けていて、私は「役立たずだと思われないように」「人の足を引っ張らないように」と、また自らに課すようになっていた。
気づけば、気がついた事はなんでもやり、誰かがやらなければならない事は自分がやり……、と言ったように、せっせと働くようになっていた。
それはそれでよいことだ、と思われるかもしれない。
しかし、少しでも量をこなせるように、早く終るようにと私が立ち回る一方で、同じラインで働く中にはやはり極度にマイペースな人間や、仕事が遅い人間、周囲が見えていないかのような動きをする人間もいるのだった。
本来15分で終わるような仕事を1時間かけてやる奴がいるために、その間溜まってゆく仕事を代わりに片付けるのが私の役目になってしまい、それに追われて仕事が捗らず、結局最低限の量をこなすだけで終わってしまう。
別に誰に言われたわけでもないのだから仕事を肩代わりする必要はないのかもしれないし、最低限の量でもできているならよしと思えばいいのかもしれない。
だが、良くも悪くもそれができないのが「責任感」という名の例の呪いなのだった。
無責任な奴だと思われたくないし、人に迷惑をかけて平気な奴だと思われたくない。フリーライダーなんかと一緒にされたくない。私はあいつらと違って努力しているのだ。
「あいつら」というのが誰かと言えば、それは世間的な偏見の中の生活保護受給者であり、障害者だ。現実のの生活保護受給者や障害者ではない。例えば桐生市の職員の頭の中にある受給者のステレオタイプ、障害者差別をする人間の頭の中にある障害者のステレオタイプのことだ。
人様に迷惑をかけるなという価値観とともに私に(そしてほとんど全ての人に)、そういった人々が、「迷惑をかける人間」のステレオタイプとして刻み込まれている。無能で、怠惰で、依存的で、甘えた人間は、社会の敵なのだと。
私は障害者であるくせに(あるいは障害者であるがゆえに)、甘えてはならない、役に立たなければ生きている価値がないという強迫観念に駆られながら働いている。
一方で、一緒に働く(おそらく)健常者のクソほどマイペースな男や、隙あらば楽をした方がお得だと思っている女性は、自分が人に迷惑をかけているなどとは思いもしないもまま、伸び伸びと私の労働にフリーライドしているのであった。
なんだこの状況?
今年は本当に過労で死ぬんじゃないかと思った。自分の半分以下の仕事しかしない人間のフォローをし、毎日筋肉痛で、疲れすぎて眠れない日が続いた。
しかしある日、その当人と雑談をしていると、「発達障害の子どもは健常な子とは見るからに違うからすぐわかる。うるさいし言動が普通じゃない。税金がそういう子に使われてると思うと複雑」と言う話を、もう少し婉曲な、しかしそれだけにもって回った嫌な感じで話すのだった。
私は発達もうつ病もクローズドで働いているのだが、よりによって発達障害を差別している本人が発達障害者の労働力にフリーライドして、半分の仕事量で同じ時給を貰ってるもんだから、頭がクラクラしてしまった。
私が元増田を読んで最初に書こうと思ったのは、『しんどいなら無理しないラインでやればいいんだよ。他人の責任まで負う必要ない』と言うことだった。
それは私にも言えることだろう。
私も忙しい思いをしているうちにフラストレーションが溜まり、心の中ではバカだのクソだの、怠けるなだのと悪態ばかりついている。
そんな風に抱え込むくらいなら、自分の責任だけ果たして、できないことはできないで済ませてもいいはずだ。しかし、それができないのだ。仕事だから。自分の範囲ではないと放っておくのは無責任だから。無責任であることは罪だから。自分が罪人になりたくないから。石を投げられる側になりたくないから。
あまり考えがまとまらないまま書き始めたら、まとまらないまま終わるしかなくなってしまった。
1つ言っておかなければならない事があるとすれば、増田の悪態は溜まりに溜まったフラストレーションの噴出であり、障害者を傷つけるためのものというよりは、毒を吐き出さずにいられない類のものなんだろうということ。
それは現実を生きる障害者に向けられているものではなく、あくまで偏見の中の障害者というステレオタイプに向けられたものだから、当事者は無視していい。
知的にどうか(知性が高いことにより発達のデメリットを上手くカバーできるケースがある)
行動障害があるか(自傷や他害などの攻撃行動が激しく出るタイプと、出ないタイプがある)
癇癪を起こすか疲労衰弱するタイプか(適応疲れで眠りこけるが暴れないタイプと、ギャオオオン!がものすごいタイプがいる)
みたいなことをまるで無視している気がした
あと上記に挙げたなかで比較的対処が楽なタイプでも、バーンアウトして停止している間を別の人が補ってくれたりと周囲のサポートによって成り立っているケースも多く、やっぱり障害である以上「自立」は全くできてないことが多いです
心理学では、子供の成績(や成功・失敗)を「自分のことのように感じる」親の心理を、主に以下の概念で説明します。代理的達成(Vicarious Achievement)
親自身が達成できなかったことや、強く望んでいたことを子供に「代理」で達成させようとする心理。子供の成功=自分の成功、子供の失敗=自分の失敗と感じる。
過剰同一化(Over-identification / Enmeshment)
親と子供の心理的な境界が曖昧になり、「子供の人生=自分の人生の延長」と捉えてしまう状態。
特に「境界性パーソナリティの傾向がある親」や「自己価値を子供の成果に依存している親」に多く見られる。
自己拡大(Self-Expansion through Children)
自分のアイデンティティや自己価値を、子供の成果を通じて広げようとする現象。
ナルシスティックな親の子育て(Narcissistic Parenting)
ナルシシズム傾向の強い親は、子供を「自分の延長(narcissistic extension)」と見なし、子供の成績や評価が自分の価値に直結すると感じる。
子供が失敗すると激しく怒ったり落ち込んだりするのは、自分のナルシシズムが傷つくから。
日本でよく言われる俗語的な表現だと「教育ママ/パパ」の極端な形
と言われますが、心理学の正式な用語では上記の①~④が一番近いです。特に一番ピッタリくる単語を挙げるなら
→ 「過剰同一化(over-identification)」
または
→ 「子供を通じた代理達成(vicarious achievement)」 この2つが最もよく使われます。このような親は、子供が不登校や燃え尽き症候群(バーンアウト)になるリスクが非常に高いことも、臨床心理学ではよく指摘されています。
大学受験でバーンアウトする人が多かった時代。今もか。昔はもっと多かったかも。わからないけど。
徹夜で赤本。朝寝て夕方起きて赤本。人と会わずに本だけ読んで、音楽聴いて幸せだった。
受検のときも、ホテルに泊まらせてもらって、誰ともしゃべらずに会場に行って。
東京の大学に行った。アパート借りた。どこでもよかった。1人だったら。家具も揃えて貰った。
入学式。じゃあこれで、と家族と別れた。テレビでセーラームーン見ながら泣いた。
授業が始まるまでの一週間、一言も口をきかずに過ごした。
親が買ってくれたシャンプー。髪に合わなかったのか、一週間で髪の毛がゴッソリ抜けた。
隣の部屋の男の子はすぐに彼女ができたらしい。壁越しに聞こえる。「シャンプー使っていい?」
生きてく術がない。1人で、普通に生きてく術が無い。ずっと受検勉強だった。
よく夜中にコンビニへ行ってた。同じ事をした。弁当とお惣菜と、タバコを買った。はじめてタバコを肺までいれた。これで決まった。
大学が始まった。語学の教室。え、また教室?友だちができるじゃない。いやだなあ。
帰りの電車で「友だち」としゃべる。うーん。
サークル。入った。一つはお酒を飲ませてくれたから、勢いで仲が良い感じにした。
忘れてたけど、この頃まで、人の目を見ることができなかった。
もう一つのサークルは、ダメだった。酔っ払ったセンパイに抱きつかれて、不機嫌なセンパイに八つ当たりされて怖くなった。
とにかく、早く家に帰りたかった。
自分もならった。サークルで2時までだべったら家に帰ってこれを聞いて、後は酒を飲んで寝ていた。
電話が鳴る。
大学受験でバーンアウトする人が多かった時代。今もか。昔はもっと多かったかも。わからないけど。
徹夜で赤本。朝寝て夕方起きて赤本。人と会わずに本だけ読んで、音楽聴いて幸せだった。
受検のときも、ホテルに泊まらせてもらって、誰ともしゃべらずに会場に行って。
東京の大学に行った。アパート借りた。どこでもよかった。1人だったら。家具も揃えて貰った。
入学式。じゃあこれで、と家族と別れた。テレビでセーラームーン見ながら泣いた。
授業が始まるまでの一週間、一言も口をきかずに過ごした。
親が買ってくれたシャンプー。髪に合わなかったのか、一週間で髪の毛がゴッソリ抜けた。
隣の部屋の男の子はすぐに彼女ができたらしい。壁越しに聞こえる。「シャンプー使っていい?」
生きてく術がない。1人で、普通に生きてく術が無い。ずっと受検勉強だった。
よく夜中にコンビニへ行ってた。同じ事をした。弁当とお惣菜と、タバコを買った。はじめてタバコを肺までいれた。これで決まった。
大学が始まった。語学の教室。え、また教室?友だちができるじゃない。いやだなあ。
帰りの電車で「友だち」としゃべる。うーん。
サークル。入った。一つはお酒を飲ませてくれたから、勢いで仲が良い感じにした。
忘れてたけど、この頃まで、人の目を見ることができなかった。
もう一つのサークルは、ダメだった。酔っ払ったセンパイに抱きつかれて、不機嫌なセンパイに八つ当たりされて怖くなった。
とにかく、早く家に帰りたかった。
自分もならった。サークルで2時までだべったら家に帰ってこれを聞いて、後は酒を飲んで寝ていた。
電話が鳴る。
「貧乏だから子供を産み育てられません」が100%ウソだとは流石に思ってないんだけど、
今の生活を捨てたくないから社会のせいにしてるようにしか見えないんだよな。最近の若い人たち。
①2005 年以降、日本の名目賃金と物価はともに1〜2割程度のゆるやかな上昇にとどまり、実質的な購買力はほぼ横ばい
②しかし同期間に核家族化と「祖父母と30 分圏内に住む近居率」の急低下が進み、東京都では全国平均の半分以下まで落ち込んだ
③祖父母の手助けが得られない家庭ほど育児・家事時間が圧縮できず、親のバーンアウトが高まりやすい
④祖父母や地域との接触が希薄な子どもは、社会的資本(多様な人間関係)形成が弱く、行動問題や創造性指標で劣後する――という因果チェーンが浮かび上がる。
すなわち「経済ではなく孤立こそが子育て困難を生む」という主張は、統計・研究の双方で一定の整合性を持って裏づけられる。
1.1物価の推移
消費者物価指数(2020=100)は2005 年の94.8→2023 年105.6で+11.4%
国家公務員大卒初任給は2005(H17)年179,200円→2023(R5)年224,100円、+25 %
厚労省「賃金構造基本統計」でも全産業・大卒初任給の名目伸び率は2005-2023で+23 % (SIZE2005-2019表)
→名目賃金は物価を上回る伸び。したがって購買力の大幅悪化は見られず、子育て困難の一次原因を「収入減」と断定する根拠は弱い。
親と同居+徒歩30分圏「近居」世帯比率(子育て世帯):44.3%(全国平均) 18.5%(東京都)
核家族(夫婦と子)割合2000 年33.4 %→2020 年25.1 % ―国勢調査概要
→夫婦2人だけでやってけるほど甘くない。親に頼るのウザイとか、ただのエゴだから
6歳未満児を持つ父親の家事関連時間は2001→2021で+20分/日、母親は依然7時間超
祖父母が定期的にケアに入る家庭は、入らない家庭に比べ親のバーンアウト指標が有意に低い
中国・日本含むアジア複数国パネルで、祖父母支援がワーク-ファミリー衝突を緩和し第2子出生意欲を維持
→夫が使えないなら、夫の親を使えって話
日本子どもパネル(2009-2014):家族・地域の社会関係資本が乏しい子は外在化行動問題スコア高
幼少期に祖父母からの支援がある児童:小学校期の社会情緒的スコアが有意に高い
42か国比較パレンタルバーンアウト研究:文化的孤立度が高い国ほど親バーンアウト→子問題行動の連鎖が強い
どなたかの役に立つことを願って折れたポイントの改善・改良方法を書いておく。
頭上はるか上で空振るのは早すぎて、何も出ないで着地は遅すぎる。ジャンプ後どのタイミングで押すと早い、どのタイミングで押すと遅いかを画面をしっかり見て自分にフィードバックする。
横スクロールのアクションゲーム、たとえばマリオで何回やってもタイミングよくジャンプして敵や穴を飛び越えることができないとかそういうレベルの腕前じゃない限りはほとんどの人がやってればできると思う。
おそらく十字キー・スティックへの親指の当て方がおかしい。指の腹、関節近くの面で十字キーを押さえてないだろうか?親指の先端、爪先の裏側の点で押すイメージで操作すれば、「相当無理して親指を浮かせると4が入力されるが」という状態にはならないと思う。
なお、対戦中に十字キーとスティックを入れ替えるのはやめたほうがいい。操作自体は安定する方どっちでやってもよいと思う。
トレーニングモードで入力履歴を表示して、自分の感覚と実際の入力の差をフィードバックするとよい。
・溜めが足りてない
・後ろ溜め+前コマンドの前入力が遅い(猶予は9Fだったはず)
・後ろ溜め+前コマンドの前が真ん前になっていない
この4つが解消されていれば出る。多くの人が詰まりがちなのは、攻撃ボタンを押すのが遅いか早いか。
ドライブゲージは少ないときはいったん回復するように動く、バーンアウトはしないに越したことはないというのが基本ではあるが、ブロンズ帯ならそんなことを気にしなくてもよいと思う。バーンアウトした相手に的確な動きをできるブロンズなんてたぶんいないし、回復するように動くというのも難しい。
波動拳は見てからジャンプで飛ぶと、昇竜拳が間に合う。ジャンプ攻撃が届くぐらいの距離までガードやパリィしながら歩いて、テキトーにジャンプして攻撃してコンボをつなげばOK。上級者帯では安易なジャンプは対空されるが、ブロンズならモダンだろうと対空が出ないことはザラにある。
ワンボタンスクリュー最強というのは、上級者帯でもそうなのであまり気にしなくていい。あまりにもスクリューしか狙わない相手の場合は飛び続けるのがよい。
ザンギは近距離の攻めに関しては激烈に強いが、防御の性能(無敵技)は低いので、畳み掛けて攻める→途切れたら逃げるの繰り返しで戦うのがおすすめ。
1年弱前のセール時にPS4版スト6を購入してランクマをコツコツ回していましたが、ついに一度もシルバーまで上がることが無いままもう諦めることにしました。
スマブラはそこそこやっていましたが、本格的な格ゲーは私には難しすぎた。
向いてなかったです。
ちなみにキャラは初心者でも扱いやすいと聞いたエドモンド本田リリーを使っていました。もちろんモダンです。
素晴らしい作品であることは全く異論ありませんが、只々私の目と指が追い付きませんでした。まだ20代前半なのに。
折角なので、どなたかの役に立つことを願って私レベルのクソザコが折れたポイントを書いておきます。
相手に当たる位置で攻撃ボタンを押すのがどうしても出来ない。タイミングが難しすぎる。頭上遥か上で空振るかなんも出ないまま着地するかのどちらか。
滞空時間が短すぎるのよ。
モダンといいつつリリーは弱ウインドでコマンド使うんですが、十字キーでは21まで出ても4がどうしても出ず(相当無理して親指を浮かせると4が入力されるが、そうすると遅すぎるのか技が出ない)、スティックでやってました。でもスティックだと4で止まらず7まで入ってしまいそれはそれで弱ウインドが出ないと悪循環でした。
トレモでは出せるんですが、対戦中はどうしても焦るので...
あとスティックだとしゃがみガードもたまに出ない。21入力してるつもりなのに2しか入っていないということがよくありました。つまり斜め下入力をキープできない。
よって対戦では十字キーとスティックを適宜使い分けていたのですが、切り替えのときどうしてもワンテンポ隙ができてしまいそこを叩かれることが多々ありました。
本田の強頭突きや百貫は結局最後まで出せませんでした。多分入力のタイミングが間違ってるんだと思うんですがどう間違ってるか分からない。
アシコン連打してると一瞬でバーンアウトする。
かといってゲージ使わないアシコンは微妙だし。
胴着キャラがよくやってくる「波動拳連打&避けて飛んだ相手に昇竜拳」の戦法に手も足も出ない。
未だにあれのちゃんとした対処法が分かってないです。無限にパリィし続けるの?
近付いた瞬間コマ投げされて終わる。あれガードもパリィもインパクトも全部飲み込んで来るの何?
ワンボタンスクリュー最強では?みんなどうやって対処してるんですか?
こんな状態でもブロンズまでは行けたので本田とリリーは良キャラだと思います。
クラシックでマスターの人とか、動画は見るけど本当に凄い。尊敬しますよ。
どういう脳ミソしてたらあの操作ができるのかなと。
土日祝含めて7時〜23時まで動いてた。
苦しかったのは以下4点。
結果以下の症状あり。
総括して、性格が、失敗を恐れてばかりで無気力な小物になった。昔からの友達に「丸くなったね」と婉曲に指摘された。
全身常にうっすらと調子が悪い。
ストリートファイター6をご存じか?
今や世界的に人気の対戦格闘ゲームであり、オンラインでは日々数えきれないほどの戦いが繰り広げられている。
俺もそのプレイヤーの一人で、特に最近はオンライン上で知り合った友人と、ほぼ毎日スト6の対戦を楽しんでいた。
そして先日。カプコンカップ11が開催され、大会の試合を観ながら「やっぱプロは違うな〜」などと感心していたのだが、その中でも特に衝撃を受けたのがリュウ使いのBlaz選手だった。
これまで”リュウはそこまで強くない”と思っていた俺の認識は、完全に覆された。
リュウって意外といけるんじゃね?という単純な考えから、さっそくメインキャラをリュウに変更し、プロのプレイを参考にしながら日々トレモ(トレーニングモード)に籠もるようになった。
そして俺はある重要な技に気付く。
それが波掌撃だ。
この技をガードさせると、相手のDゲージをガリガリ削ることができる。そして相手のDゲージがゼロになると「バーンアウト」という状態になり、一気に不利になる。
つまり、この波掌撃を当て続ければ相手をバーンアウトに追い込んで好き放題できるのだ。
俺は興奮した。
これ、ヤバくね?
そう思ったら、試さずにはいられない。
さっそくオンラインで試し、何度も波掌撃を当ててDゲージを削り、バーンアウトした相手にさらに波掌撃を重ねる。
俺は連勝を重ね、テンションが上がった。無双的。だが、ある日、事件が起こった。
その日もいつものように友人とスト6で対戦していた。
もちろん俺はリュウを選択し、波掌撃戦法をフル活用。相手のDゲージを削りまくってバーンアウトさせ、そこからは波掌撃!波掌撃!ハショーーーゲキ!!!
すると、マイクの向こうから「バンッ!!!!!」という爆音が響いた。
そして次の瞬間、
てめぇええ!!!!!ふざっっけんなよっ!!!!さっきからずっと波掌撃こすりやがって!!!きしょいんじゃぼけぇええええ!!!!!!
という怒号が耳元で響いたのだ。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
え、波掌撃そんなに嫌だった?
正直、驚いた。確かに波掌撃は強い。強いけれど、それはあくまでゲームの仕様であり、俺はルールに則って戦っていただけだ。
その後、対戦は俺の勝利で一方的に終了し、友人は無言でログアウト。それ以降、彼と連絡が取れなくなってしまった。
俺はしばらく呆然とした。
こんなことで?と正直思ったが、改めて振り返ると確かに俺のプレイスタイルはエグかったかもしれない。
波掌撃を何度も連打し、ひたすらDゲージを削り、バーンアウトした相手にさらに波掌撃を重ねる。見方によっては、相手に何もさせずに完封しているようなものだった。
ちょっとやりすぎたかもしれない。それに後悔がないわけではない。しかし、俺はただリュウを使いこなそうとしていただけだった。それが結果的に、友人を失うことになるとは思いもしなかった。
俺は悪くない。
ただ、波掌撃が強過ぎたのだ…
会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?
エネルギーがガクッと落ちる感じ、まるで重いレンガにぶつかったみたいな感じ、経験したことない?
あるある。
何か走りに行くとか、ジムに行くべきなんじゃないかって思うんだけど。
うん。
でも、自分を限界まで追い込むって考えただけで、そのエネルギーダウンがもっとひどくなる。
わかる。
もし今、頷いてるなら、信じて。ここがまさにあなたの居場所だよ。
この深掘りは、スタミナを上げたいけど、「痛みなくして得るものなし」みたいな考えはやめたい人のためなんだ。
完全に同感。
今日は、厳しいフィットネスアドバイスを捨てて、ランニングについてちょっと新しい視点で見ていこうと思うんだ。
すごく面白いブログ記事を見つけたから、それを参考にしてみよう。
おお。
興味ある!
彼の話は本当にすごいんだよ。
教えて!
彼は、40代で自己申告の「ソファーに座るだけの男」から、マラソンやトライアスロンをやるようになったんだ。
そのブログが面白いのは、それがただの超人的な意思の力とかではないんだよね。
なるほど。
このブロガーが強調しているのは、非常に大事なポイントなんだ。
どんなポイント?
持続的な変化を求めるなら、従来の考え方を捨てる必要がある、ってこと。
ああ、なるほど。
その通り。
この人はデスクワークの生活をしていて、常に疲れてるって感じてたんだ。これ、誰かに覚えがある話だよね。
でも、彼はそれをどうにかして完全に変えたんだ。
すごい!
今では、以前よりもエネルギーに満ちているって言ってるんだ。
走ることを楽しむ方法を見つけたおかげでね。
へえ、すごいな。どうやってそんなことができるの?
そう、そんなことが本当に可能なの?
まるで夢みたいに聞こえるけど、実際にこういう変化は可能なんだよ。
彼のアプローチは、どうやってそれを実現するか、つまり持続可能な変化の道を作る方法を理解することに焦点を当ててるんだ。
OK。
なるほど。
でも、どうやって彼はゼロからマラソンランナーになったんだろう?
それを解き明かしていこう。彼が発見したことの中には、私たちが知っていることを覆すようなものがあるんだ。
本当?
完全に常識を壊す感じで。
その内容がとても新鮮で、解放感があるかもしれない。ランニングの厳しいトレーニングプランを嫌う人にとっては特にね。
じゃあ、最初の神話。「成果を出すには、少なくとも週3回走らなければならない」。
ああ、それはよく聞く話だね。
そう、ランニングの黄金律みたいなもの。でも、このブロガーは実は全く逆を推奨しているんだ。
なんと?
彼は最初は、週1回が限度だと言っているんだよ。
何事も無理は禁物だという考えなんだ。
それ、いいね。
自分の体に合わせるってことだよね。無理に型にはめるんじゃなくて。
その通り。だってみんな、それぞれのフィットネスレベルから始めるわけだからね。
本当にそうだね。これ、実は運動科学にもぴったり合ってるんだ。
OK。
一貫して管理可能な運動をすることが、最初は激しい運動を sporadic にやるよりも重要なんだ。
持続可能なルーチンを作ることが大切で、初日からスプリントで勝とうとする必要はないんだよ。
なるほど。週に何回も走らなければというプレッシャーを捨てることが、すでに大きな変化だね。
聞いてくれ。彼は、決まったトレーニングプランを盲目的に追うことにも反対しているんだ。
わかる。
たとえば、短期間でマラソンの準備ができると約束するようなプランがあるよね。
そういうのは、ちょっと威圧感があるよね。初心者じゃなくても。
そう。彼によると、その理由があるんだよ。
OK。
それって逆効果だよね、バーンアウトやケガにつながりやすいから。
本当にそうだね。みんな同じプランに飛び込んで、体がついてくることを期待するなんて無理がある。
その通り。その一般的なプランは、個々のフィットネスレベルや回復の必要性を無視してしまうんだ。それが、彼が強調している大事なポイントなんだよ。
回復について言うと、このブロガーは特に最初の頃、スピードや距離を無理に伸ばすよりも、休息を優先すべきだと言ってるんだ。
興味深いね。
限界を常に押し続けると、走ることが嫌いになってしまう可能性がある。そうなると、持続可能な習慣を築く目的に反するよね。
その通りだね。
ブログで面白い表現があるんだ。彼は「ほんの少しでも息が切れる感じがするなら、それはやりすぎ」だって言ってるんだ。
驚きだね。
エネルギーがガクッと落ちる感じ、まるで重いレンガにぶつかったみたいな感じ、経験したことない?
あるある。
何か走りに行くとか、ジムに行くべきなんじゃないかって思うんだけど。
うん。
でも、自分を限界まで追い込むって考えただけで、そのエネルギーダウンがもっとひどくなる。
わかる。
もし今、頷いてるなら、信じて。ここがまさにあなたの居場所だよ。
この深掘りは、スタミナを上げたいけど、「痛みなくして得るものなし」みたいな考えはやめたい人のためなんだ。
完全に同感。
今日は、厳しいフィットネスアドバイスを捨てて、ランニングについてちょっと新しい視点で見ていこうと思うんだ。
すごく面白いブログ記事を見つけたから、それを参考にしてみよう。
おお。
興味ある!
彼の話は本当にすごいんだよ。
教えて!
彼は、40代で自己申告の「ソファーに座るだけの男」から、マラソンやトライアスロンをやるようになったんだ。
そのブログが面白いのは、それがただの超人的な意思の力とかではないんだよね。
なるほど。
このブロガーが強調しているのは、非常に大事なポイントなんだ。
どんなポイント?
持続的な変化を求めるなら、従来の考え方を捨てる必要がある、ってこと。
ああ、なるほど。
その通り。
この人はデスクワークの生活をしていて、常に疲れてるって感じてたんだ。これ、誰かに覚えがある話だよね。
でも、彼はそれをどうにかして完全に変えたんだ。
すごい!
今では、以前よりもエネルギーに満ちているって言ってるんだ。
走ることを楽しむ方法を見つけたおかげでね。
へえ、すごいな。どうやってそんなことができるの?
そう、そんなことが本当に可能なの?
まるで夢みたいに聞こえるけど、実際にこういう変化は可能なんだよ。
彼のアプローチは、どうやってそれを実現するか、つまり持続可能な変化の道を作る方法を理解することに焦点を当ててるんだ。
OK。
なるほど。
でも、どうやって彼はゼロからマラソンランナーになったんだろう?
それを解き明かしていこう。彼が発見したことの中には、私たちが知っていることを覆すようなものがあるんだ。
本当?
完全に常識を壊す感じで。
その内容がとても新鮮で、解放感があるかもしれない。ランニングの厳しいトレーニングプランを嫌う人にとっては特にね。
じゃあ、最初の神話。「成果を出すには、少なくとも週3回走らなければならない」。
ああ、それはよく聞く話だね。
そう、ランニングの黄金律みたいなもの。でも、このブロガーは実は全く逆を推奨しているんだ。
なんと?
彼は最初は、週1回が限度だと言っているんだよ。
何事も無理は禁物だという考えなんだ。
それ、いいね。
自分の体に合わせるってことだよね。無理に型にはめるんじゃなくて。
その通り。だってみんな、それぞれのフィットネスレベルから始めるわけだからね。
本当にそうだね。これ、実は運動科学にもぴったり合ってるんだ。
OK。
一貫して管理可能な運動をすることが、最初は激しい運動を sporadic にやるよりも重要なんだ。
持続可能なルーチンを作ることが大切で、初日からスプリントで勝とうとする必要はないんだよ。
なるほど。週に何回も走らなければというプレッシャーを捨てることが、すでに大きな変化だね。
聞いてくれ。彼は、決まったトレーニングプランを盲目的に追うことにも反対しているんだ。
わかる。
たとえば、短期間でマラソンの準備ができると約束するようなプランがあるよね。
そういうのは、ちょっと威圧感があるよね。初心者じゃなくても。
そう。彼によると、その理由があるんだよ。
OK。
それって逆効果だよね、バーンアウトやケガにつながりやすいから。
本当にそうだね。みんな同じプランに飛び込んで、体がついてくることを期待するなんて無理がある。
その通り。その一般的なプランは、個々のフィットネスレベルや回復の必要性を無視してしまうんだ。それが、彼が強調している大事なポイントなんだよ。
回復について言うと、このブロガーは特に最初の頃、スピードや距離を無理に伸ばすよりも、休息を優先すべきだと言ってるんだ。
興味深いね。
限界を常に押し続けると、走ることが嫌いになってしまう可能性がある。そうなると、持続可能な習慣を築く目的に反するよね。
その通りだね。
ブログで面白い表現があるんだ。彼は「ほんの少しでも息が切れる感じがするなら、それはやりすぎ」だって言ってるんだ。
驚きだね。
[追々記]
思ったより反応をもらえて驚いています。
id:unfallen_castleタイトルを出すこと自体ネタバレになってしまう問題
id:atlas_estrela適応障害で休職が決まったからゲームってまかり通るんだ。社会保険料は働く人たちが負担してるんだよな。そんなことも言ったらまずいような空気っておかしいと思う。そりゃ精神障害になる人が増えるわけだわ
ストレス源から遠ざかったら少しずつやりたいことが浮かぶようになってきたので、自分に近い体験やそれを乗り越える話を遊びたくなったんだよね。
自分自身でもこんな風に具合が悪くなると思わなかった。自分も、元気なときには療養中の人がフリーライドしているような気分になっていたかもしれない。
私があなたを不快な思いをさせてしまったら、申し訳ない。こんな体験はできればしない方がいいです。こんなにつらいとは思わなかった。
どうか心と身体にはお気をつけください。
id:molmolmineゲーム作ってる側なので適応障害になってる時にそんな鬱ゲーして大丈夫か?という気持ちになる。お大事にね。
ありがとう。優しい言葉が身にしみます。頭木弘樹さんが『絶望読書』で書いていたんだけど、弱っているときこそ、苦しい話に癒やされることってあるように感じているのです。
ゲームづくり、応援しています。いつもゲームには本当に助けてもらっています。心から感謝しています。ありがとうございます。
id:zheyang こういったゲームがどれだけ実際の精神疾患に即しているのか、精神疾患を「びっくり箱」「お化け屋敷」のように扱っているだけではないのか、疑問。
確かにエクスプロイテーションな部分もある作品もあるとも感じます。けれど、同じくらい真摯につくっているもののいっぱいあると感じています。よかったらid:otoronoki 元精神病患者からみる「Hellblade: Senua's Sacrifice」の表現https://jp.ign.com/hellblade/17457/feature/hellblade-senuas-sacrifice とご紹介いただいた、こちらのリンクもご覧ください。
みなさん、ありがとう。
「serial experiments lain」 「星空ぷらねっと」 「アリス インナイトメア」 「天使のいない12月」 「マイチャイルドレーベンスボルン」 「さよならをおしえて」 「車輪の国、向日葵の少女」 「Iris and theGiant」
「ヒラヒラヒヒル] 「What Happened」 「CHAOS;HEAD」 「CHAOS;CHILD」 「White Door(Rusty Lake)」 「Tell mewhy」 「カルティストシミュレーター」 「Dreamscaper」 「SWAN SONG」 「シュレディンガーの手(街?)」 「Shady Part of Me」 「精神病に罹患したぬいぐるみたちを治療するドイツのゲームhttps://www.parapluesch.de/whiskystore/test.htm 」……
とはいえ、今は調子がいい感じなのですが、少し調子に乗るとすぐに身動きがとれなくなるので、身体と心の調子をみながら、いろいろ調べてみます。
みなさんも、どうかご安全に!
[追記]
ブコメでもらったゲームとか、思い出したものなどについても追記してみる。
現代のデジタル社会やインターネット文化に関連するテーマを扱ったビジュアルノベル風のゲーム。
ソーシャルメディアやメンタルヘルスに焦点を当てている。実況とかで面白おかしく取り上げられたりもしてたけど、にゃるらさんが書いた「承認欲求女子図鑑」を読むと、また違った角度からもゲームの解像度が深まる。好き。
OMORI
MOTHERを彷彿させる雰囲気で、世界と夢の世界を探索し、さまざまな心理的なテーマや謎を解き明かしていくRPG。戦闘は少しだるかったけど、遊んでよかった。ファングッズを買うくらい好き。
DDLC
“DDLC”は「Doki Doki LiteratureClub」の略称。普通のビジュアルノベルっぽいけど……楽しかったけど、今回のニーズとは確かにちょっと違うかなー。
異世界?からの脱出を試みる学園生たちのストーリーを描いた日本のRPG。ゲームのテーマは現実と理想の間の葛藤や、社会的な問題に対する反抗などのよう。フリューのRPGは何回か手を出して、いまいち楽しめなかったものの多かったので未プレイでした。俄然興味がでました。
FlyingShine制作のアダルトゲーム。群青学院の放送部を舞台とした学園モノ。劇中で同じ時間を何度も繰り返す「ループもの」に該当するよう。(アダルトゲームには疎いのであまり知らないものが多いんだと思いました。全年齢版もあるのですね)
未プレイでした。
そういえば昔、沙耶の唄は遊びました。高次脳機能障害?認知機能障害?がテーマの一つに感じられて楽しかった。アダルトゲームは確かに病いに関連する作品も多そう。
上に天井がある。
ストレスを抱えた少女が、天井を探検しようとする短編心理アドベンチャー。
[追記終わり]
精神障害をテーマにしたゲームが好き。ただ、適応障害とかバーンアウトをテーマにしたゲームが思いつかない。
実は今月から適応障害で休職が決まった。自分の体験に近いゲームがしたい。そんなゲームがしたい。
以下は、知っていたり、触ったりしてきたゲーム。
Hellblade: Senua’s Sacrifice
主人公センアが幻覚や幻聴に苦しむ過程を通じて、統合失調症に関連する体験を描写。有名。
The Town ofLight
1930年代から40年代のイタリアの精神病院を舞台に、主人公が自身の過去を探る過程で精神疾患に関するテーマが描かれる。
Night in the Woods
大学を中退し、故郷に戻った若者メイが自身のうつ病や不安と向き合う過程を描いています。物語の中で、彼女の精神的な苦悩が深く描かれています。気になっているけど、未プレイ。
Celeste
主人公のマデリンが山を登る物語を通じて、うつ病や不安といった精神的な障壁を乗り越える過程が描かれます。ゲームの難易度とテーマが巧妙にリンクして、大好き。
Milk inside a bag ofmilk inside a bag ofmilk
Neverending Nightmares
4PM
主人公がアルコール依存症を抱えながら過ごす一日を描いたインタラクティブな短編。短編だけど、結構印象に残った。
うつ病の部屋
うつ病を患う主人公の話。マウスが重くなる演出が好き。ゲームでゲームを喩えるのもアレだけど、フローレンス的なゲーム。
アルコール依存症とその影響をテーマにし、子供の視点から家族の困難な状況を描いている。アルコール依存症の影響とそれに対する親子の葛藤をどう克服するかについてを描いている。好き。
Permalink |記事への反応(15) | 19:10
テイカーに搾取され続けバーンアウトして自死に至る人間を思えば、他人に報われなくてもいいなんて思えないですけどね。
仕事関係で仲良くなった昔の友人達と、私の誕生祝いにかこつけて何年かぶりに集まって会おうという話になった。
事前にふんわりとみんなの近況聞いただけでも活躍ぶりが眩しい。
そもそも業界トップの大手だったり、国外展開も視野に入れていたり、新たな分野の勉強をしていたり、子供が増えたり、家を買ったり。
こっちは独り身だし、それもあって実家との折り合いも悪いし、吹けば飛ぶような小さな会社内でも
(ハラスメントの定義にはあてはまらないが、心身ともにキツイものがあって悪循環。
検診では問題なかったけど、体調もなんだかよくない。
仕事量だけは膨大だから、要領悪い自分は何年も会社と賃貸マンションとの往復しかできていない。
本業の勉強すらできていないのに仕事上の夢とかどころではない。
語れるような趣味もない。
実際にはちょこっと手を出した趣味の分野もいくつかあったけど、様々な事情でそれらもバーンアウトしてしまった。