
はてなキーワード:バトラーとは
ジュディス・バトラーはUndoingGenderの中で親による子供への性的虐待を擁護していたんですね。
今や紅白ラッパーであるR-指定がフリースタイルバトル全国大会であるUMBを前人未到の3連覇しレジェンドとなった、その前2011年、2010年を2連覇していたのが晋平太だった。2010年のR-指定VS晋平太は歴代ベストバトルとの呼び声も高い。
晋平太はフリースタイルをHIPHOPという文化からスポーツにした最初の世代だったからだ。
KrevaやMC漢、般若らが鎬を削っているころ、フリースタイルバトルはラッパーとして音楽活動している連中のある意味での売名の場、ある意味での腕試しの場だった。クラブでライブをやっている連中の余興として、コミュニケーションとしてのサイファーの延長線上。
お互いの音楽性を並べて比べ合う、アーティストとしてのラッパーの力比べの場。
なので当時はPUNPEEやNORIKIYOといった楽曲系のラッパーも多く参加していた。
KrevaがB BOY PARKで当時の基準で圧倒的な押韻力で三連覇し殿堂入り、その後揺り戻しとしてフロウ、ヴァイブス系が盛り上がり、フリーなスタイルであるはずのフリースタイルバトルの"型"が見えてきた。その"型"を真正面から攻略しに来たのが晋平太だった。
実のところ晋平太も地元でクルーを組んでおり、今本当に頭角を現している「フリースタイルをするためにフリースタイルを始めた世代」とはまた違ったHIP HOPにルーツを持つラッパーだったのだが、しかし活動範囲は小さくそして何よりフリースタイルに真摯だった。
Krevaの押韻と般若のヴァイブス、この両方を磨き上げたフリースタイルバトルのためのフリースタイル。これが圧倒的に上手かったし、なにより圧倒的に努力してきた。
しかしHIP HOPの中のラップが音楽である以上、フリースタイルがうまくて強いことは評価対象ではなかった。むしろ碌な楽曲もないのにフリースタイルがうまいからって調子に乗るなという見方のほうが強かった。
また普段自分たちが築き上げてきた"音楽"をぶつけあう場に一生懸命練習してきたラップを持ってくるのは無粋だというストリート的発想にも反していた。喧嘩をするのに練習してくる奴がいるか?ダサくないか?そういう文化と晋平太は真っ向からぶつかった。
そして晋平太のようにフリースタイルに"勝つために"フリースタイルするフリースタイラーが増えた結果、楽曲系のラッパーはフリースタイルの場を去っていった。もうこれはHIP HOPではない。HIP HOPとフリースタイルの決別だった。
その後、様々なラッパーが韻踏むだけのラップはラップじゃないといったフリースタイル、フリースタイラーのDis曲を発表するなど断絶は強くなった。そして晋平太はその象徴として蛇蝎のごとく嫌われた。お前みたいな奴が増えたからバトルはつまらなくなったとバトラーからも叩かれた。
しかし晋平太は愚直にフリースタイルを極め続けLEGENDとなった。
その過程で仲間が増え、楽曲もリリースし、フリースタイルを一般に開放したフリースタイルダンジョンでは初の全制覇を果たし、Youtubeでフリースタイルバトルの解説をはじめその楽しさを世に広め、一般社団法人日本ラップ協会を設立し小学校への出張授業などを通じてラップの楽しさを世に知らしめ続けた。
彼がいなければR-指定が今ほど有名になっていたかはわからないし、高校生ラップ選手権が盛り上がったかもわからないし、そこからさまざまなスターが生まれなければ、現在のラップスタア誕生があったかもわからない。
ラップ暗黒期をフリースタイルバトルという方向から支え続けた一人として間違いなく名前が挙がる人物だと思う。
愚直すぎる性格ゆえに心のバランスを崩してしまい、療養中に亡くなってしまった晋平太。
多くのラッパーが弔意を示した。多くの人が早すぎる死を惜しんだ。
R.I.P
その辺は、当代最もまともなフェミニストである古川直子先生の本を読むとええで
https://note.com/kyoto_up/n/n3c8131ef76df
性的マイノリティやフェミニズムというテーマについて、近年かつてないほど急速に社会的な関心が高まりつつある。その一方で、セックス/ジェンダーという用語が何を意味するのかという、概念的レベルでの理論的な検討作業は長く停滞している。90年代のポスト構造主義フェミニズムの台頭によって、社会的な性別であるジェンダーのみならず、生物学的な事実としてのセックスもまた社会的構造物でしかないという見方が出現した。本書はバトラー、フランス唯物論フェミニズム、ケスラー/マッケンナの性別二元論を批判的に考察し、その問題点を明らかにする。これによって90年代以降停滞していた当該領域における概念的枠組みを刷新することを目指す。
『第二の性』でいってるのは生物学的性差という事実でもって、それを女性の社会的序列の決定因としない、ということだね。
トランスの大元の理論をつくった人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)を読めばすぐわかる。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
ペドフィリアを擁護しまくって、同性愛と同等の位置に置いている。
つまりこの人たちは女性の権利を守るフェミニストじゃなくて、従来の価値観を転倒させることが目的のポストモダニスト。
いろんなペルソナで書き込むと、一定確率で「こいつだけは気に食わねぇ」と思われるんですよ
「気に食わねぇ」という感情、それは我々レスバトラーにとっては、ただの敵意ではありません
それは、相手の心の壁に生じた、ごく小さな亀裂、言い換えれば「攻略ポイント」なんですよ
その亀裂を見つけたら、もうこっちのもの。
私の書き込みによって、相手が感情的に反応し、論理ではなく「ムカつく」という動機で返信を打ってきた瞬間、私の勝利はほぼ確定しています。
さあ、サインが出た。ここからが我々の仕事です。次の手は、「極上のエサ」を投下すること
それは決して、単なる罵倒ではありません。それは、相手の最初の感情的なミス、たとえば「論点のすり替え」や「根拠の薄い決めつけ」を、極めて冷静で、しかし皮肉に満ちた言葉で指摘するんです
「あなたの意見は感情的ですね。私が指摘したのはAであって、Bではありません。論点をすり替えるのは議論の放棄ですよ」
あるいは、
「その主張の根拠は、ご自身の感覚以外にありますか? それとも、あなたの個人的な意見を普遍的な事実として扱おうとしているのですか?」
この手の言葉は、相手の冷静さの仮面を剥ぎ取り、感情をさらに逆撫でします
そして、「正論」で追い詰められることに、最大の屈辱を感じるからです
私が論理で武装し、冷静沈着なペルソナを保てば保つほど、感情で動く相手は焦り、さらに粗末な論理で反撃してくる
その結果、周りのウォッチャーたちも、「ああ、これは論理的な方が勝っているな」と認識せざるを得なくなる
「こいつだけは気に食わねぇ」
それは、私が彼らの感情を揺さぶり、土俵に引きずり込み、そして優位に立っている何よりの証明だからです
性的マイノリティでないと生きづらいと思うことがすごく多い。わたしが親を大切にしていたり、家族に言われたことをきちんと大事にしたり、その範囲内で自分の気持ちを考えているときに、家族の価値観を全否定するクィアの友達がいて、わたしの大切な家族のことを否定しないでくれ、と言ったら、今度は私のことを悪者と見做して非難し始めた。
そんなことが何人かと続いて疲れている。わたしはどうしてノンバイナリーではないのだろう。わたしはどうしてトランスジェンダーでもMtFでもバイセクシャルでもジェンダークィアでも無いのだろう。知人の1人はコミュニティを優先してbioをクィアに変えていた。わたしもそう出来れば良かった。人間関係は大人になればなるほど消えていくから、今のうちに必死に縋りつかないといけないのに、頑張って努力しても性的マイノリティとしてのアイデンティティが肌に合わないし、なぜマイノリティでないといけないのかがわからない。でも皆の望むようにマイノリティで居ないと、嫌なことを言われたり、大切な人たちのことを無碍にされてしまう。
マイノリティを守るぞ!と立ち上がる人を見るたびに、あんなに守られてるのに誰が守るの?という気分になる。わたしがおかしいのだろうか。ジェンダーアイデンティティで集まったわけでは無い集団にLGBTQの圧力が加わっていくのがとてもしんどいけど、そんなことを言えばまた差別主義だ、わたしは傷ついたと言うのだろう。あなたが傷ついたのはわかったけど私には仕事があるし、皆だって学校がある。社会があり、社会に払う責任がある。わたしだって嫌な思いしたり、無視されて泣いたこともあるけど、わたしを守ってくれる人間もフェミニズムの本も一つもなかった。今日もバトラー。明日もバトラー。その信仰を信じないと友達で居られないらしいから、頑張って読むけど、全然逃げじゃんって思ったし、何も共感できなかったし、仲間がいていいなと思う。
何年も努力してもわたしは排除される側なのに。社会で辛いな、苦しいなと思うことがあって、自分が気に入らないことを排除の理由にするマイノリティは大層なご身分だと思う。わたしもなれるならそうなりたかった。どうすればなれる?あの女の子みたいに趣味を全部捨てて、生活を全て活動に捧げれば良かったのかな。何がだめだったんだろう。
そんなことを悩んでいたら、同じコミュニティの人たちとまだ仲の良い知人が、LGBTQコミュニティにおける強力な加害性や、傷ついたを言うためにはなんの罪もないその辺の人を殴っても良いと思っている、悲しいね、と言う話をしていて、うんうんとなってしまった。でも居場所があって良いなと思う。ポリアモリーもできないし、パンセクシャルにもなれないし、アロマンティックじゃないし、そもそもみんなほどお化粧も話すための振る舞いもうまくない。わたしはわたしであり、借りた言語に属そうとするとわたしになってしまうだけなのに、いくら嫌なことや性加害があってもマイノリティにはなれないのだ。いいな、いいな。ゲイバーに通う女性がコミュニティの侵犯だというのはその通りだと思うが、普通に生きていたところがLGBTQコミュニティ化して家族や私の思考や在り方を否定されるようになるのって、もう絶望感しかない。本を読み続けて数年。
どうすればみんなに守られて、否定されなくなるんだろう………どんなにつらくても絶対にわたしだけが対象外のマイノリティ擁護に賛同したくないよ。