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2024-12-12

フランツ・リストピアノ名曲重要曲七選(前期)

 最近流行ってるゲーム史上の重要性とは何も関係ないが何となく思いついたのでやってみることにした。

 フランツ・リスト(1811-1886)はハンガリー王国の寒村ドボルヤーン(現オーストリア・ライディング)に生まれ作曲家リストハンガリー人としての自意識を持っていたようだが、両親はドイツ系であり、他方でパリ成功を収めた関係フランス語を使って生活していたと思われる。いわゆるコスモポリタンであり、○○国の音楽家とは言いにくい。音楽史上の重要性ではバッハやベートヴェンには劣ってしまうから義務教育では名前は出てこないだろうが、少なくともピアノ音楽史上は絶対に避けては通れない。無尽蔵の超絶技巧によってピアノ表現可能性を著しく拡張たからだ。膨大なリストピアノ作品から7選ではきついので、リスト活動時期に区切って7選ずつということにした。

 クラシック音楽の紹介をする以上、演奏(録音)の紹介は避けて通れない。まさか自分で弾いて確かめろというわけにもいかないだろう。筆者は、リストの豪華絢爛な超絶技巧音楽が大好きである一方、特に晩年に多い宗教的内向的音楽は未だにあまりピンと来ない感がある。努力はしたが、晩年作品を中心にうまく推薦ができていないのは好みの関係で、あまり色々な音源を聞き比べていないことが一つの理由だ。

 リストピアノ作品はあまりに膨大で、しかも抜群の技巧を要求する作品も多い。一曲ごとの規模の違いを無視していうが、大量のピアノ曲を残した作曲家であるショパン場合作品数は200強。単独ピアニストによる全集も作られているし(ギャリック・オールソンアシュケナージ横山幸雄も作ってますね)、レコード会社企画モノで複数ピアニストを起用して制作されることもある。横山氏みたいにぶっ続けの連続演奏会を開いてしまうことも不可能ではない(https://www.afpbb.com/articles/-/2784123)。

 しかリスト場合は単純な作品数の多さ、別稿・異稿が多く存在すること、難易度の高い曲が非常に多いことから、「全集」の制作は困難を極める。複数ピアニストを起用しているNAXOSリストピアノ曲集シリーズも未だに全曲をカバーできていない(もし完結していたら教えてください)。その点で単独リストピアノ作品全集という前人未踏の大偉業を成し遂げたレスリーハワードCDHyperion)は本編と別巻(新たに発見された別稿・異稿)あわせて99枚というとんでもない分量がある(全曲試聴可能https://www.hyperion-records.co.uk/dc.asp?dc=D_CDS44501/98)。優れたピアニストであるハワードでも、短期間に、といっても10年以上あるが、大量の作品を録音しなければならない計画故、詰めの甘い演奏がかなりあるように感じられ、何も考えずにハワード全集を推薦するわけにもいかない。とはいえハワードのおかげで取り敢えずリストピアノ曲のほとんどをまともな「音」として把握できるようになった。ここで敬意を示しておきたい。ハワードCDを一巻ずつ紹介している古くからサイトがあり、本当に頭が下がる(https://www.katch.ne.jp/~hasida/liszt/liszt.htm)。良くない演奏もバシバシ指摘している。

 リストの生涯について。作曲家の生涯を知ることが楽曲理解に必ずしも結びつくわけではないが、それでも、どのような作風意識しているのかとか、どのようなモチーフを描こうとしたのか(特に標題音楽場合)ということを知ることは有益だろう。作曲家の置かれていた状況を知ることはその理解の助けになり得る。リスト場合、ざっくりいえば大スターとして活躍した1840年代までの時期(前期)、ワイマール宮廷楽長としての活動が中心になる50年代(中期)、そして50年代末の波乱、特に愛人カロリーヌとの結婚が認められず、子どもの早世などの不幸に連続して見舞われた後、ローマに腰を落ち着け作曲活動を再開し、亡くなるまでの晩年の時期(後期)に活動を区切ることができる。このあとは単に前期・中期・後期とのみ述べる。ここで紹介するのは、前期、少年時代からピアニスト時代までのもの。父を失って本格的にピアニストとして稼がねばならなくなり、大スターになっていくが、仕事ばかりで事実上奥さんとは破局する。そして後年の恋人カロリーヌ出会いヴァイマール宮廷楽長に就任するまでだ。

 作品番号について。クラシック音楽には、出版社のつけた出版順序を示す作品番号(op. xxみたいなやつ)がついていることが多い。クラシック音楽では、抽象的に「ピアノソナタ」とのみ名乗る曲が多いので、作品番号は楽曲区別にとって大事になる。しかし、リスト作品番号は出版社ごとに全然違うなど滅茶苦茶で(こういうことはシューベルトにも言える)、作品番号では把握できない。そこでよく使われるのは、イギリス音楽学者ハンフリー・サールが整理して付番したサール番号(S. xx)であるWikipediaにもサール番号順のリスト作品一覧があるので参照されたい。

1. 48の練習曲 S.136(1827年出版

 彼の代表作の一つ、「超絶技巧練習曲」の初稿にあたる作品。48とあるが、実際には全12曲。「超絶」を聞いたことがある人なら驚くはず。リスト15歳の頃の作品リストハンガリー貴族たちから奨学金をもらってチェルニーの元で学んでいたのだが、本作品は明らかに影響が見て取れ、微笑ましいと思うか、チェルニー××番を思い出して頭が痛くなるかは人次第だろう。録音は多くない。筆者はハワードを一聴したことがあるのみ。ウィリアム・ウォルフラムNAXOS全集20巻)は未聴。パガニーニの影響を受けたあとの改訂版24練習曲 S.137)は異常に難易度が高い割に第三版にあたる「超絶技巧練習曲」ほど演奏効果がないのでやはりほとんど取り上げられない(ハワードは録音している)。

2. 「ある芸術家の生涯の出来事」 S.470(1834年出版

 タイトルでもしやと思った方、あなたは正しい。ベルリオーズの「幻想交響曲」のピアノ編曲だ。実は原曲よりも出版自体こちらの方が早いようだ。ふられた作曲家がヤクをやって彼女を殺して処刑されて悪魔サバトに遭遇するという夢、というとしょーもない話だが、この曲は初演当時多数の人々を熱狂に巻き込んだ。リスト熱狂した一人だった。それでピアノ編曲までやってしまったのだが、当時は録音技術がないので、家でちょっと味わおうとCDだのSpotifyなどというわけにはいかない。ピアノで弾くしかないわけだ。とはいえ、よくあるオケ作品のお手軽編曲ではなく、オーケストラの生み出す音響可能な限りピアノ再現しようとした意欲的な作品だ。演奏難易度は極めて高い。フランソワ=ルネ・デュシャーブル(EMI)とニコライ・ペトロフ(原盤は知らないがVeneziaの再版盤を所持)の演奏が世評高く、特に後者演奏は凄まじいが、まだまだこの曲のポテンシャルを完全には引き出していないような気がする。ジョヴァンニベルッチ(CD未所持)は公式YouTube演奏動画アップロードしている(https://www.youtube.com/watch?v=bSqunBoj0cY)。これが一番アクセスやすいだろう(録音は一番良い気がする)。

3.パガニーニによる超絶技巧練習曲S.140(1840年出版

 1828~34年に欧州コンサートツアーを行ったヴァイオリニストのニッコロ・パガニーニは極限まで高められた演奏技巧と表現力によって多くの熱狂ファンを獲得した。リストパガニーニに狂った一人(またかよ)。全6曲、すべてパガニーニ作品から編曲だ。ヴァイオリン技法ピアノに映すというよりも、パガニーニから霊感をもらってピアノ技巧の拡張を試みたものと言って良い。第3曲が「ラ・カンパネッラ」(ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章編曲)だが、有名な「ラ・カンパネッラ」は、実は本曲集の改訂版S.141(1851年出版)の方であり、本曲集を聴くと、違いに驚く(逆にパガニーニ原曲を知っているとそちらに忠実ということに驚く)と思われる。そしてこの曲集は何よりも演奏難易度の高さで悪名高く、特にひたすら重量級かつ幅広い跳躍のある和音アルペッジョが続く第4曲(の第2稿)はピアノマニアの間では語り草になっている。また第6番「主題と変奏」(原曲24の奇想曲第24番)の第9変奏も地味ながら恐ろしく難しい。

 かつては本曲集といえばペトロフ(原盤Melodiya、VeneziaとOlympia再版盤で所持)、大井和郎(Deutsche Shallplatten)、そしてハワード全集しかなく、マニアたちがアップロードしているMIDI演奏非人間的超絶技巧を楽しんでいたのだが、現在ではゴラン・フィリペツ(NAXOS全集42)とヴァレチェク(Capriccio)が挑戦している。現在でもペトロフ演奏が最も高い水準にある思われるが(映像もあるhttps://www.nicovideo.jp/watch/sm12879344)、フィリペツの演奏もそれに並ぶハイレベル演奏であり(流石に6番の第9変奏は苦しそうだが)、CDの入手可能性もあるので今ならフィリペツを聴くと良い。

 困ったことにペトロフ映像は中々手元を写してくれない。ニコニコ動画で「国家機密の指」と揶揄されているが、確かこれはペトロフカメラに写されることを非常に嫌っていたからだと思う(出典は忘れた)。

4.旅人アルバム S.156(1836年~1842年出版)、「巡礼の年 第一年:スイス」(1855年)、「巡礼の年 第二年:イタリア」(1858年)、「第二年補遺ヴェネツィアナポリ」(1859年改訂版

 ダグー伯爵夫人マリーは当時のパリ社交界代表する人物で、たいへんな美貌の持ち主だったという。リスト1834年からマリーと逢瀬を重ね、35年にマリーは妊娠している。大胆なスキャンダル芸能人特権

 特に社交界でつまはじきにされることもなかったようだが、人目を憚るように二人は(それぞれ一時的パリ帰国も挟みつつ)スイスイタリアへの旅行順次出かけている。鉄道もない時代なので妊婦には大変な重労働だったはずだが、ジュネーヴで36年12月、長女ブランディーヌが誕生した。

 旅人アルバムは、スイス旅行で見聞きした風景民謡モチーフにした曲集で、全19曲ある。このうちの数曲が改訂を経て「巡礼の年 第一年:スイス」 S.160(1855年)に結実する。また、37~38年に訪れていたイタリア旅行で見聞きした風景芸術作品から受けた霊感表現した「第二年」と「補遺」も出版は後年だが、大部分は39~40年頃に完成していたらしい。

 旅人アルバムほとんど聴いたことがない。NAXOS全集32のアシュリー・ウォスもハワード全集でも聴いてない。巡礼の年の方は、第三年も含めた全曲盤ならラザール・ベルマン(Deutsche Grammophone)が有名。村上春樹小説中に登場したせいでクラシック音楽CDにしては珍しく再版がかかった。個人的にはルイ・ロルティ(CHANDOS)の演奏がとにかく美しく、大好きである巡礼の年は、大曲もあるが、短めで肩肘張らずに聞ける曲も多いので、リスト入門にはもってこい。第一年の大曲「オーベルマンの谷」単独ならアルカーディ・ヴォロドスSONY)がホロヴィッツ編曲を織り交ぜながら気合い入りまくっている(https://www.youtube.com/watch?v=4ADtxG-b8ik)。第二年、そして本曲集最大の大曲であり、リスト最高傑作の一つであるダンテを読んで:ソナタ幻想曲」は、評判の高いベルント・グレムザー(Koch Schwann)は未入手。ロルティ(CHANDOS)は全集版も第二年だけの旧録音どちらも良い(とにかく超絶技巧を味わいたいなら若い頃の旧録音が良い)。有名曲なので演奏動画をアップしている人はプロアマわず色々いる。

5.ベッリーニオペラノルマ」の回想 S.394(1844年)

 幻想交響曲もそうだが、リスト作品の多くを他作品編曲が占めている。特に多数のオペラ編曲があるが、この曲が最高傑作だと思う。中盤の鍵盤を駆け巡るアルペッジョは明らかにジギスムント・タールベルクの「三本の手」を取り入れたもので、聴いていて気持ちが良い。後半の「戦争だ、戦争だ!」のテーマに基づく部分は極めて難しく、ここを上手く弾けるかどうかがこの作品の見所。しかいかにも難しいという様子で弾いては興ざめ。

 今ならフィリペツの映像https://www.youtube.com/watch?v=0TMypN1gW5k)が一番良い。CDもあるらしいのだが自主制作盤と思われ、未入手。他は、かつては表現意欲にあふれるベルッチ(assai)、ヴィルトゥオーゾ的な迫力あるトム・ウェイクフィールド(Symposium Records)、そして我らがスーパーヴィルトゥオーゾマルク=アンドレ・アムラン旧録音(Music & Arts)が三大録音だったと思う。アムラン新録音(Hyperion)は若干遅くなったが、抜群に録音が良くなり、総合的にこちらの方が好きかも。若手だと韓国のノ・イェジン(NCM)やイギリスベンジャミングロヴナー(Decca/https://www.youtube.com/watch?v=OVKTEoxBIKE)が大変良い。

6. 三つの演奏会用練習曲1849年出版

 40年代作曲されたもの。全3曲。演奏会用練習曲は、チェルニーのような練習のための曲ではなく、コンサート披露して喝采さらうための曲であり、いわゆる「性格的小品」の一種リストはこういう曲をひっさげてコンサートに臨んでいたわけだ。第1曲から「嘆き」、「軽やかさ」、「ため息」と標題がついているが、出版社がつけたものに過ぎない。第2番の標題通り、全体的に軽やかな作風特に「ため息」は有名でよく弾かれる。

 第2、あるいは有名な第3番の録音はよく見るが、全曲録音というと意外とない。福間洸太朗(アクースティカ)のCDに全曲入っている。確かロルティ(CHANDOS)にも全曲録音があったはず。

7. ノンネンヴェルトの僧房ピアノ初版1843年出版

 スイスイタリアマリーと過ごしたリストだったが、ピアニストとして忙しく飛び回るためにマリーを放置してしまい、結局二人は破局する。ひどい話で、破局した後もリスト演奏活動をしていたので、リストの母が子どもたちの面倒を見ていた。

 41~43年の夏にリストマリーはライン川中州にあるノンネンヴェルトの古い修道院子どもたちと共に過ごしているが、これがマリーとの最後の親密なお付き合いだった。この曲は、当時同地に夫妻を訪ねてきたリヒノフスキー侯爵の詩に音楽をつけたものシャルルマーニュ武将ローラ戦死誤報を受けて絶望した妻がノンネンヴェルト修道院に入ってしまい、ローランは二度と妻と会えなくなったことを知って修道院を見下ろせる土地に住み着き、妻を思う歌を歌った・・・という救いのないストーリーだ(歌詞https://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S4212.htm)。マリーとの破局に後悔していたのか、リストはこの曲に相当執着していたようで、ピアノ独奏用を含めて複数ヴァージョンを作り、何度も改訂している。晩年バージョンアンスネスEMI)などが録音しているが、重苦しい。当時のバージョンはそこまで重苦しくないと思う。推薦音源はあまり思いつかない。全集を録音しているハワードライナーで"beloved"と書いていて、気に入っているみたいである。

 華麗なオペラものシューベルト歌曲編曲魔王を含めてかなりの曲を編曲しており、どれも魅力的)など、編曲を中心にまだまだ色々な作品があるが、そろそろ次の時代に進もう。

Permalink |記事への反応(3) | 20:54

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2024-01-24

anond:20240123214345

首都の立地、考えだすと楽しいよね……

昔そこは国土の中心だった:コペンハーゲンデンマーク

デンマークといえば、みんな大好き「(植民地とかではない)メインの領土大陸にあるのに首都が島にある」2か国のうちの1つだけど(もう1つは赤道ギニア)、確かに現在の」地図を見れば、首都コペンハーゲンはずいぶんと端っこにあるように見える。だが、コペンハーゲンはもともと国土の中心にあった。現在スウェーデン南部スコーネ地方はもともとデンマーク領だったが、17世紀戦争スウェーデンに奪われたのだ。つまりコペンハーゲンは、ユラン半島スカンジナビア半島南端部というメインの2つの領土をつなぐ、ちょうど真ん中の位置にあったことになる。仮に東北地方ソ連に奪われていたら、東京はずいぶん国土の端っこにあるように見えるのではないだろうか。

昔そこは国土の中心だった:ソウル韓国

言うまでもないだろう。仮に将来南北統一が実現したら、ソウル統一コリアのど真ん中に位置することになる。

昔そこは国土の中心だった:ワシントンDCアメリカ合衆国

これも言うまでもない。独立当時のアメリカ東部の13州しかなかった。13州のうちの北部南部あいだの妥協案として南部に新しい首都が作られたが、地図を見ると、まあ、「真ん中よりちょっと南」の立地と評価できるのではなかろうか。

そこが国土の中心になるはずだった:ソフィアブルガリア

ソフィアはずいぶんと国土西側に偏っているが、本来はそこが国土の中心になるはずだった。20世紀の初頭、オスマン帝国バルカンに残されたマケドニア地方を周辺の3カ国が虎視眈々と狙っていた。セルビア語ブルガリア語の中間のような言葉を話すその地の住民を、セルビアセルビア人と呼び、ブルガリアブルガリア人と見做し、ギリシャスラブ化したギリシャ人の裔であると主張した。二度のバルカン戦争を経て、その地方は主にセルビアギリシャの間で分割される(このオスマンマケドニアのうち、セルビア領になった部分が現在北マケドニア共和国)。……そう、ブルガリアマケドニアという果実を得られなかったのだ。仮に幻の「大ブルガリア」が実現していれば、ソフィアは「大ブルガリア」の中心部位置することになっていただろう。

中間を取った……ただし、二大都市の:キャンベラオーストラリア

オーストラリアはもともと1つの国だったわけではなく、オーストラリア大陸に作られたいくつもの植民地が寄り集まって独立した国だ。独立するときに二大都市シドニーメルボルンのどっちを首都にするかでモメたので、その2都市の間に新しい首都建設することにした。つまり国土の中心ではないが、二大都市中間首都があるということだ。まあ、オーストラリア文字通りの中心、人住めなさそうだもんね……

首都が中心になるように国土を切り取った:パナマシティパナマ

交通に便利なパナマ地峡に街(パナマシティ)が作られる→交通に便利すぎて街のそば運河が作られる→アメ公大西洋太平洋をつなぐ運河支配権を欲しがる→運河地帯住民による独立運動を煽ってコロンビアから独立させる、という経緯で作られたのがパナマ共和国。つまり首都のまわりが国土になるように切り取られた国なので、国土の真ん中に首都があるのは当たり前なのだ

中心にある都市首都になれなかった:ブラチスラバスロバキア

ブラチスラバ国土の端っこにあり、立地的にはほぼウィーンであるスロバキアというのは、元々「ハンガリー王国北部スラブ言語を話す人たちが集住しているところ」に過ぎず、伝統的な行政区画を持っていなかった(これは「オーストリア側でスラブ話者がいっぱい住んでるところ」に過ぎなかったスロベニアと同じ。この2つの国名が似ているのは偶然ではなく、両方とも「クロアチア」みたいに伝統的な地域名を持っていなかったので、それぞれが「スラブ人の土地」と名乗った結果なのだ)。それが第一次世界大戦のドサマギハンガリーから分離したわけだが、当然「どっからどこまでがスロバキアか」という合意があるわけではなかったので、チェコスロバキアハンガリーによる実力での分捕り合戦になった。その中で、「大都市当社比)だし交通要衝からスラブ人率は低いけど占領しとこうぜ!」となって占領されたのがポジョニ、のちのブラチスラバであるブラチスラバはあまりに「国際色」が強すぎたので(20世紀初頭の時点で人口の4割がドイツ語話者、4割がハンガリー話者)、国土の中心にあってスロバキア民族運動拠点でもあったマルティンスロバキア首都を遷そうぜ! という議論戦間期に行われたのだけれど、結局ブラチスラバ首都として維持された(ところで日本語版ウィキペディアマルティン記事名が「マルチン」になってるな。確かにスロバキア語ではtiと綴ると「チ」と読むけど、Martinみたいな外来語場合は「ティ」の音が維持されるんだよ!)。

島国首都ってどうなってるんだろうね

首都国土中央に来る国は『大陸の端の方で2方向以上で海に面している』か『大きすぎない島国』に多いかも?

島国といっても、メインの島が1つなのか、複数なのかでだいぶ違ってくる。というのは、小さな島がたくさんある国だと、まずもって「国土の中心かどうか」というよりも「島のデカさ」で首都が決まることがありえるからだ。そりゃ、真ん中にある小島よりも、端っこにある大きな島に首都置きたいよね……典型的にはトンガとかがそうで、南端にあるトンガタプ島のヌクアロファ首都が置かれている。あるいは、「大きな島+小さな島」の組み合わせでできている国は、たいてい大きな島の方に首都がある。バレッタマルタ)とか、バセテールセントクリストファー・ネイビス)とか、セントジョンズ(アンティグア・バーブーダ)とか、ポートオブスペイントリニダード・トバゴ)とか……(元増田が挙げてるニュージーランド例外

では、メインの島が1つしかない国はどうだろう? これなら「国土の中心」も定義やすい……あれ、意外と首都位置偏ってんな。元増田が挙げてるアンタナナリブマダガスカル。ちなみにマダガスカル語ではoと綴ってuと読むので「アンタナナリボ」は間違い)は確かに真ん中ら辺にあるし、ダブリンアイルランド)やダグラスマン島)やディリ東ティモール)やアロフィ(ニウエ)やポートルイス(モーリシャス)やスリジャヤワルダナプラコッテスリランカ)もギリギリ真ん中辺りと言えるかもしれないけど、台北台湾)もハバナキューバ)もキングストンジャマイカ)もレイキャビーク(アイスランド)もマナーマバーレーン)もヌーク(グリーンランド)もヤレンナウル)も島の端っこの方にあるな……首里沖縄本島の中心都市として見ると南すぎるけど、奄美~先島までの琉球王国首都として考えると割と中心に近くて草。

やっぱり自分なりのファンタジー世界を作るときって

首都の立地はよくよく考えますよね。ここは盆地で長らく中央集権国家だったから真ん中に首都があるやろとか、端っこの部族が全土を統一たか首都は端っこにあるんだよとか、東部は原生林が多いか人口の多い都市西部に偏ってるんだよとか、港町を中心に発展したんだよとか、そういうことを地図描きながら妄想するだけですごい楽しい……だから元の「首都国土中央部にないのはおかしい」っていうツッコミ全然理解できないっていうか、変な形の国作って変な場所首都置くのが楽しいんやんけ、となってしまうよね……

Permalink |記事への反応(12) | 05:25

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2022-02-18

第一次大戦終結ハンガリーからハプスブルクが消え、ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国が出来た

するとルーマニア軍が首都占領したが、撤退後はハンガリー共和国臨時政府が出来た

ところがハンガリー海軍軍人臨時政府を倒して、王位空位のままハンガリー王国を復活させた

親独親伊政権として大戦に参加したが、大戦末期に極右革命が起きナチス傀儡の矢十字党政権になる

そこでソ連軍首都を包囲し矢十字党政権崩壊し、ハンガリー第二共和国になった

のちソ連共産勢力の影響が強まりハンガリー人民共和国になる

反スターリン主義運動が起きるとソ連軍が介入し25万人が亡命して難民

ペレストロイカ政策の影響で脱共産化し、1989年現在ハンガリー(第三共和国)となる

 

というハンガリー史の影響で日本新左翼ができたそうだ

しか外圧翻弄され続けているところは日本のよう

Permalink |記事への反応(2) | 19:52

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2018-03-10

から100年前に崩壊したあの帝国呼び名

オーストリア=ハンガリー帝国

英語だと Austro-Hangarian Empire かAustria-Hungary だがたぶん一番一般的

オーストリアハンガリー二重帝国

中二力がかなり高まるアウスグライヒ以降の通称

神聖ローマ帝国

当事者意見なんて知らん!という一種原理主義者の意見だがあまり聞かない。

オーストリア帝国

厳密にはアウスグライヒ以前だが、以後も含めて使われることもある

ハプスブルク君主国

オーストリア大公国ハンガリー王国以外にもボヘミア王国やらその他領邦を含む概念で Habsburgermonarchie の訳語一般にはハプスブルク帝国とも。なかなかの中二力。

k.u.k

カーウントカー。kaiserlich und königlich 英語にすると Imperial and Royal で英国UKアメリカをUS と言う様な物だが日本では通常使われない。

Permalink |記事への反応(1) | 14:10

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2018-02-28

東ヨーロッパ(+バルカン半島南コーカサス諸国歴史的英雄

中東アフリカはすっ飛ばしました。

anond:20180223194300

ウクライナボフダン・フメリニツキー(1595-1657)ウクライナコサックを率いてポーランド・リトアニア共和国に反乱を起こし、ウクライナ自治権を勝ち取った。その後、単独での防衛は難しかたこからロシア保護下に入ったことで、後のロシアによる支配を招いたとも言われる。ユダヤ人虐殺したこともあり、毀誉褒貶が激しい。
ベラルーシタデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817)現在ベラルーシ、当時のリトアニア大公領に生まれアメリカ独立戦争に参加し、ポーランド独立のためにロシアと戦った英雄。なにがなんだか。一般には「ポーランドリトアニア英雄」とされるが、ベラルーシも「うちの出身やで」と主張している。ベラルーシ人特に民族意識希薄なため、他に民族的英雄があまりいないようだ。
モルドバシュテファン三世(1433-1504)モルドバ公国の公。その統治モルドバ歴史上で最も繁栄した時代だとされる。またフニャディ、スカンデルベグ、ヴラドらと並ぶ「反オスマン」の英雄であり、特に「ヴァスルイの戦い」での大勝が名高い。ヴラド・ツェペシュとは従兄弟同士で、親友だったとも言う。
ロシアアレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)ウラジーミル大公国大公モンゴル帝国に臣従しつつ直接的な被害を免れ、むしろ敵対していたスウェーデンを「ネヴァ河畔の戦い」で、ドイツ騎士団を「氷上の戦い」で打ち破って勇名を轟かせた。スターリン独ソ戦の際に「かつてドイツを打ち破った」アレクサンドルを英雄として持ち上げたために有名になったとも。
アルバニアカンデルベグ(1405-1468)オスマン帝国支配下にあったアルバニア軍司令官だったが、フニャディ・ヤーノシュの反乱を鎮圧するために差し向けられると、逆にフニャディに同調して造反し、オスマン軍をアルバニアから追い払って独立を達成した。
ギリシャアレクサンドロス三世言わずと知れたアレクサンダー大王大王の出生地現在ギリシャにあるなど、古代マケドニア王国の大半はギリシャ領に含まれており、ギリシャは「マケドニア共和国マケドニアと名乗るべきではない」と主張している。しか地域としての「マケドニア」にマケドニア共和国が含まれるのも事実である
マケドニアアレクサンドロス三世言わずと知れたアレクサンダー大王現在マケドニア共和国に住んでいるのはスラブ民族であり、古代ギリシャ人との血統的繋がりは無いとされる。しか古代マケドニア王国ギリシャ人国家だったものの、都市国家形成せず、政治体制も異なるなど、アテネスパルタにとっては「辺境」「蛮族」の感が強かった。
クロアチアシップ・イェラチッチ(1801-1859)オーストリア帝国支配下にあったハンガリーの、さら支配下にあったクロアチアにおいて、クロアチア人たちの総督として独立志向し、オーストリア皇帝の命でハンガリー独立運動鎮圧するなどした結果、一定自治権を獲得した。独立運動先駆者評価されている。
セルビアミロシュ・オビリッチ(?-1389)セルビア王国騎士セルビアオスマン帝国惨敗したコソボの戦いの後、オビリッチは寝返ったふりをしてオスマン帝国皇帝・ムラト一世に近づき、そして刺殺した。コソボの戦いで戦死した王や騎士たちは後世英雄とされ、多く叙事詩の題材となったが、オビリッチもまたさまざまな伝説主人公となった。そらこんなんおったらオーストリア皇太子暗殺するわな。
ブルガリアワシル・レフスキ(1837-1873)革命家オスマン帝国統治下にあったブルガリア独立を目指して、国内革命組織ネットワークを作り、外国武力によらない独立を構想したが、オスマン帝国によって拘束され、処刑された。
ボスニア・ヘルツェゴビナリン(?-1204)ボスニアの「バン首長)」。もとは東ローマ帝国に属していたが、セルビアのステファン・ネマニャと共に離反し、ハンガリー王国庇護を得つつ、実質的独立を果たした。彼の統治のもと、ボスニア文化民族の土台が築かれ、いまなおボスニア歴史上で最も平和繁栄した時代と称される。
モンテネグロペタル二世ペトロビッチ・ニェゴシュ(1813-1851)モンテネグロ君主国家近代化に貢献し、オスマン帝国との軍事衝突を凌いだ。しかしそれよりも大きいのは詩人としての名声で、彼がものした叙事詩モンテネグロ文学史上の傑作と目されている。いくつかは日本語訳もされているらしい。
ルーマニアハイ勇敢公(1558-1601)ワラキア公。オスマン帝国敵対し、「カルガレニの戦い」でこれに大勝した。また、トランシルヴァニアモルダヴィア併合し、ルーマニア統一一時的にでも成し遂げたが、その翌年に暗殺されてしまった。
アルメニアヴァルダンマミニアン(387-451)アルメニア貴族アルメニア支配していたササン朝ペルシャによるゾロアスター教強制改宗に反発し、寡兵ながらササン朝大軍に立ち向かった。戦いには敗れ、ヴァルダン戦死したものの、ササン朝は譲歩してアルメニア宗教自由を認めた。
アゼルバイジャンスマーイール一世(1487-1524)サファヴィー朝建国者。サファヴィーとは教団の名前で、その狂信者兵士としたイスマーイールの神憑り的な軍事能力によって勢力を拡大したが、「チャルディラーンの戦い」でオスマン帝国に敗れ、意気消沈して晩年を過ごした。ちなみに当時のアゼルバイジャン現在アゼルバイジャン共和国領土はけっこうズレているらしい。
ジョージアタマル(1160-1213)ジョージア王国女王セルジューク朝の影響を排除して、ジョージア王国の最大版図を築き、文化的にも黄金期を現出した。中世グルジア文学最高傑作『豹皮の騎士』はタマ女王に捧げられた長編叙事詩である

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