
はてなキーワード:ハッピーエンドとは
とてつもなく共感できたのであまり反論の余地はない気がするけれど、そこに関してはかぐや(ヤチヨ)については割合書かれていた気がする
彼女らが月にいた時にどんな境遇でいて、「超つまんない」という言葉がどれだけの重みを持っていたのかが全くわからない状況ではあるけれど、とはいえ身寄りもないところでどんな迷惑をかけても許してくれてどんな願望も叶えてくれるとなれば、かぐやが彩葉に好意を向けること自体は納得感がある。
それが8000年もの間生き続けることに対するアンサーになるかはわからない。とはいえそこについては、十分に感じる人が多いので絶賛されているのだと思う。愛と言っておけばどんな苦難でも乗り越えさせていい風潮は創作の中では少なからずあるし。
金銭的に困窮させられて面倒ごとも増やされてさんざん精神的に加圧されたあと、挙句に倒れたら無責任に「なんで頑張らないといけないの?」とか言われて実際に頑張ってる人に何が響くのかよくわからない。自分ならキレ散らかすと思う。
よしんば彩葉がそんなやりとりの中でかぐやを好きになったところまでは納得したとして、それがワンチャン人格崩壊レベルの記憶注入に投じるまでいくか?
愛がすごいというより、彩葉の人間じみていない精神性の方が際立ってみえる。
例えば彩葉の友達A(芦花)が同じ境遇になったとしても「ハッピーエンド!」っていいながら同じ程度の犠牲を払うんじゃないのか? 好意からではなくて彼女の善性のようなものによるんじゃないのか? と思う。
竹取物語は親子愛でこれはそれをなんか知らんが恋愛にしてるから歪になるんだろ
というのは置いといて
別に愛をロジカルに描け(いや描けよ)って話じゃなくてさあ、そもそもラストハッピーエンドなんか?なんで?
こいつらが何をしたら喜ぶ生物で何をしたら悲しむ生物なのか全然わかんねーんだわ。
主役たちの情動が描けてないじゃん。いや小説は読んだよ?読んだ上でね。
つか「もうお婆ちゃんです」みたいな台詞あったけど、これってやっぱもうメスとしても人としても電子生命体としても共に歩めない存在になってしまったってことだろ?
それに対して無量空処食らって同じような超精神になったからある程度一緒に歩める、竹取の翁と竹取の媼になり新たにかぐやを迎えることで
ハッピーエンドになるって構造なのはまあわからんでもねえんだよ、いや描写がヘッタクソでわかんねえけどさ。
そうじゃなくてむしろキャラクターの感情的なものをその竹取物語を通じて描けてないんだよね。説得力がないんだよね。
そんでライブになるわけじゃん?身体を得てライブをするわけじゃん?は?ってなるわけですよ。当たり前だよなライブってこいつらにとっての何だったの?
そもそも生や階級制への無常や男女搾取の無情を皮肉ってた竹取物語の本歌取り全然できてねーじゃん。何がしたかったんだこの作品?
個人の感想にすぎないけど、ともかく自分はこの作品を「竹取物語」をベースとした作品のつもりで見てた。
なので、序中盤の展開はつまらなかった。
その点終盤は一応、「竹取物語」として期待される展開であるところのかぐやとの別離や、それを受けてのキャラクターの感情や衝動といったところは書こうとはしていた。
話としても動きはあったし、退屈と断ずるには足りないな。展開の好みはあるだろうけど。
とはいえ、ヤチヨとかぐやは明確に分離してしまってるし、ヤチヨ側の自我が8000年もの間感じた孤独や失った体について無かったことにするみたいなことはできないところがそこはかとなく負の御都合主義を感じはする。
話の都合で登場人物に負わせた重荷が、劇中のハッピーエンドで挽回されたように見せられてないのなら扱いきれてないってことになるな。
今この時代にこれだけのハッピーエンド作品を描ける事の嬉しさは、間違いなく存在する。
ボカロ文化や配信、vtuber文化を特別に捉えすぎ無い方がいい。それらは現代の人々の暮らしにただ根付いているし、オタクをただ照らしてくれている。本当に何も特別な事は無い。インターネットはここにあるし、今もどこかで誰かが配信をしているし、新しいボカロ楽曲はアップロードされて、世界を彩っている。超かぐや姫!でもそうであったように。
作中の百合を思わせる描写も、時代に即した形だと思う。ただそこに好意があり、添い遂げたいと思う人間が居ただけだ。パッケージングされた言葉よりももっと先に、世界はそれを愛と呼んでいる。
人物の描写が足りていない、脚本が薄っぺらい、エモの表面をなぞっただけ、足りない描写は視聴者に保管させている、これらの批判は批判たり得ていないのでは無いかと思う。
2時間20分の尺の中で、足りていない描写を補完する為に視聴者の体験を想起させる手法は、表現の中でも最上級のものでは無いかと思う。超かぐや姫!では我々に馴染み深いカルチャーが扱われていることだし。
脚本は十二分に伝えたい事を伝えてくれている。人物の描写も同じくだ。「伝わってこない」という批判は、同時に「伝わってきた」という称賛が存在する時に扱いが難しいなと思う。少なくとも、超かぐや姫!はファンブックや監督のインタビューを見なくても、そこで語られている情報や意図が映画から十分に伝わってくる出来だと感じる。
超かぐや姫!がこれほどにハッピーエンドのその先を描く作品である以上、作品の外で諍いが起こる事も心苦しい。
「お前ら本当に超かぐや姫!の事分かって褒めてンのかよ?!」という趣旨で、フワッとキマシタワーを乱立している百合のオタクや、どこからともなく現れて、したり顔で超かぐや姫!推しなんですって言ってる配信者にキレているというのなら気持ちは分からなくも無いが、超かぐや姫!そのものにそこまで批判出来るポイントは無いだろ!というのが素直な感想だ。
添い遂げたいと想い合う二人がいる時に、その障害を取り除く不思議な技術や情熱があって、誰になんの不都合があるのだろうか。キャラクターの生活の延長にあるエモいライブシーンを描いて、それを見て喜んでくれる人達がいるのなら、それを描かない理由があるのだろうか。
若者を舐めていない作品とはそもそもどのような作品をさすのか。(マッシュルは若者を舐めていた)
彼女ら、彼らの行動原理が分からないのは、単にあなたの人生にそのような行動を引き起こすほどの出会いや動機が未だ発生していないだけでは無いのか。本当に人生が存在していないのは誰なのか。
ネットフリックスが満を持して手掛けた『超かぐや姫!』がゴミだった。
まあまず『ワールドイズマイン』や有名ボカロ曲を使ったプロモーションを全面に押し出してきていた時点で怪しいものを感じていた人は多いと思うのだが、
その予感は当たっていましたね。
「百合っぽければいいんでしょ」とか「長い時間をかけて思いを募らせてればいいんでしょ」、「とりあえずライブ入れておけばいいんでしょ」
という、現代の客をナメてナメて舐め腐った作り手の意識が出尽くしてしまった、典型的な『若者舐めてる系』の創作である。
いやまあ、実際のボカロ曲の選定を見るに、自分を10代だと思い込んでいる30代とか40代のおっさんとおばさんがメインターゲットなのは明らかなのだが。
ちなみに俺はアニメは一応2回見て小説版は見て、ガイドブックを参考にこのレビューを書いている。
※ガイドブックは絵もテキストもクソ浅い情報しか載ってないのに3000円以上も取るのかよ、という客をナメたものなので買うのは推奨しない。
☆良かった所
・曲、声優の演技
■悪かった所
シナリオ、キャラクターを中心とした「良かった所」以外の全てがゴミ
■シナリオについて
ガイドブックによるとメイン声優陣が「複雑すぎる話を最初は飲み込めなくて~」と言ったことを全員語っているが、それはまあその通りである。
この話にシナリオなんてものはほとんどないからだ。っぽくしているだけで、ぶっちゃけ大したことはやってないというかシナリオ構造自体が破綻しているのだからキャラの想いなんてものはなくて当然である。
複雑なんじゃなくてシナリオになってないのだ。というか、キャラクターの行動原理がわからないのだから当然だろう。最初から製作陣がわかっていないものを説明しろと言われても無理なものは無理なのである。
なんでこいつら配信してんの?いやまあ表層的なことはわかりますよ。歌に救われた(笑)とか、推しに救われた(笑)からだよな。
まあ、それならそれでしっかりそれを描いてくれないと説得力がないんですよね。
そういう人間の過程を描く能力がないから、チラ見せしてそれっぽい視聴者の都合のいい妄想に頼ってるんだよな。
「能力がなくてやれなかったこと」を「あえてやらなかった」って言うのやめません?「ストレスフルな展開はあえて外しました」じゃないんだよね。
単純にキャラクター設定が適当で、話の構造作りも適当だから、ちゃんと人間の関係性描くことができなかっただけですよね。
要するに人間と人間の機微なんてものを描く能力がないんですよ。監督に、脚本に、スタッフに。
■キャラクターについて
それなのにインタビューによれば監督は「人間同士の密接な結びつき」を書きたいらしい。
それで、その密接な結びつきとやらはどこにあったのだろうか?
こいつら、結局なんで仲良くなってんの?お互いがお互いを必要とする理由って何?なんで配信者やりたいの?結局さ、人間が描けてないんだよね。
彩葉は趣味バイトやりながら東大合格余裕で、ゲームはプロゲーマー級、実のお兄ちゃんは超人気ライバーという「悩み」があるのも烏滸がましいレベルの超人である。
いや、わかるよ、苦労してるところを人に見せまいとしたり、父親の死(笑)とか母親との衝突(笑)があったもんな。悩む悩む。ダイジェストでやられたからしっかり伝わってきたよ。
俺も東大法学部余裕でゲームだけで稼げる腕があったら彩葉みたいな『周囲の空気を読む人間』になるわ。
やっぱね、そんなハイスペ人間なら、推しの歌だけを頼りに自分の辛さを覆い隠して笑う人間になっちゃうよね。わかるわかる。ならねえよ。アホかと。
まあ、ハイスペだから絡んでる友達もハイスペってのはリアリティあってよかったと思います。(友達連中は美容系インフルエンサー(笑))
そういうスペック高い人間以外は画面に映りすらしないのが監督の人柄がよ~く出てますわね。とても人生に悩む少女を描けていたのではないでしょうか。
カグヤやヤチヨの所も、もうね、浅いなどというものではない。
ヤチヨはなんとカグヤだった!8000年間、彩葉を待ち続けていたのだ!!!って言われてもねえ。
監督自身が言ってるように、『Fate』の士郎とエミヤの関係性やってみてえ!くらいの浅い思いつきでしかないな、と思いましたね。あーわかるわかる、何か8000年の時を経たことで
カグヤを見守る翁と媼になったんだよな。意味わかんねえ通り越して馬鹿なんじゃねえの?なんかそれ話として意味ある?ないよね?
それでやることが結局ライブかよ、という浅さね。こいつら何?ずっとアイドルやりたかったわけ?結局Vtuberとか配信文化ってものへの理解が浅いからこういう表現になっちゃうんだよな。
で、なんだっけ「キャラクターがいかに印象に残るか、生涯を通じて人格が変化していくことのエモさを書きたい」んでしたっけ。描けていましたか?
「自分が育てることになったわがまま娘が自分が推していたわがまま娘だった」ことが大変ドラマティックで、2時間使ったらしいのだが、何言ってんだって感じ。
そのギミックから逆算して話を作ってるせいで、いや、話になってませんよね、としか言いようがない。だってどこにドラマがあるのか描いてねえんだもん。
結局その「チラ見せ」でなんか都合のいい話を君の中で膨らませてくれ!ってスタイル、やるならやるでちゃんとやれよ。
2時間ちょいあれば『もののけ姫』くらいの肉厚な人間描写はできるんですよ?なんで出来ないんですか?スタッフ陣に才能ないからじゃないですか?
■それっぽさだけで構成された配信文化とゲーム文化と戦闘シーン
輝夜月から1ミリも進化してないVtuber像と、Apexやっとけばいいんでしょっていう浅い作中ゲームと、
なんかとりあえず戦っとけばいいんでしょ?っていう月人相手の戦闘シーンと、もうなんか突っ込むのもめんどくさいくらいのそれっぽさの集まり。
しかもそれぞれがストーリーに対して何の寄与もしてないという。配信者ものって、結局視聴者はバズるためだけの道具というか舞台装置みたいなもんだししゃーないんだが。
他の監督だったら最後の戦闘シーンはツクヨミの他の視聴者たちもカグヤのために立ち上がって戦うくらいのハッタリ・サービスは見せてくれてたというか、
カグヤやいろPの配信やSNSで繋がることの真の意味でのエモさみたいなのも描いてたと思うんですよね。まあ、この作品の製作陣は視聴者なんてどうでもいいと思ってるからそんなん必要ないか!
何回も言うけど舐めてんだよね、話を。「なんかエペっぽく戦ってるシーンあればエモいっしょ」くらいの舐め。「輝夜月っぽいことやってりゃバズんでしょ?」みたいな舐め。「有名ボカロ曲カバーさせときゃいいっしょ」みたいな舐め。
■「世の中への舐め」
『決めたら叶う』が基本なんだよね。この話。子供を育てることも、家族を説得して引っ越すことも、世界を席巻する仮想世界でトップの人気を得ることも、
因果の先でハッピーエンドにすること(笑)も、とにかく決めたら、あとはダイジェストでそれが叶えられていく。何故なら登場人物がハイスペだからです。という身も蓋もない話。
10年研究すれば完全な義体も作れるし、行くことを決めたら月の仕事を終わらせて地球に行くことも叶うし、カグヤとヤチヨのなんかよくわからん分裂?3人でハッピーになりたいみたいな都合のいい結末も叶う。
彩葉もカグヤもヤチヨも、全部『悩むけど決めたら全部叶う』が基本。まあこれはしょうがない。今のアニメ観てる視聴者層って何かを決めることがまるで一大事みたいに思いこんでるからね。
それに加えて、結局、監督の恵まれたエリート思想が見え隠れするよね。アニメを作る能力もある、予算もある。じゃあ何をするかというと決めることだけなんですよ。
「何をするか決定する」ことにこの物語は終始一番の価値を置いている。世の中の99割のゴミは何かを決めた所で実力とリソースの不足でそれが叶うことなんてないのにね。見てて悲しくなってしまったよ。
このアニメを見て少しでも何か感情的になったゴミは自分が何かを決定したところでハッピーエンドになんてたどり着けないことを胸に刻んで生きていこうな!
監督脚本の「こんなもんでよかんべ」という舐めが見えてくるのに、視聴者=ゴミは感動しちゃってるらしいので、その非対称性でホント悲しくなるよ。
細かい過程とか、情動とか、どうせ理解できないし、こんなもんでいいでしょ。キャラが何か悩むフリして、ライブ見せとけばいいんだよ。という『舐め』。
まあしょうがないか、こんなアニメで喜んじゃってる層は舐められるに値するよね。
「ワイズマ」に思い入れがあるならちゃんとライブシーン描けよ問題。
この「ワールドイズマイン」、山下監督たちスタッフが滅茶苦茶こだわっている部分らしく、初報のPVでも使ってるし、
早見沙織もインタビューで製作陣のおこだわりを語ったりしているのだがそれにも関わらず、『生歌収録(笑)』にこだわって、なんか微妙な歌と化している。
特に途中の面白グラサンをかけてかぐやがヤチヨに変な踊りを繰り出し、ヤチヨはそれを見て笑う…というシーンがあるのだが恥ずかしくて見ていられない。
陽キャに憧れた陰キャがカラオケでふざけてるのを見せられるような羞恥だ。歌ってる時に身内でギャハギャハ笑ってるアイドルとか誰が望んでるねん。
ていうか思い入れがある曲なら真面目に表現しろよ。終始、どこか照れてんだよね、この作品。結局、「配信見てる客」なんてどうでもいいっていう監督の精神性が現れてるよね。
何回も言うけど、『コンテンツを受容する側を舐めまくってる』ことがにじみ出てるシーンだと思いました。
ていうか百合やりたいのか知らねえけど取り合うシーンいる?歌えよ。歌を。ワールドイズマインだぞ、ワールドイズマイン。なんでちゃんと歌わねえんだよドブカス。
■総論
監督とPの『竜とそばかすの姫』のライブシーンだけ抽出して変な細田展開減らしたら受けるんじゃね?という目論見はある程度成功したと言えるだろう。
お話は2時間20分かけてやる内容ではないがキャラクターのエモーショナルにフォーカスしてMVとして見るといいんじゃないっすか?
豪華なMVだよね。竜とそばかすの姫から余計な要素抜いた感じ。
まあ、細田作品それっぽいエモさを褒めてたような人間が褒めるタイプの駄作。お前、サマーウォーズとか好きそうだよな笑
女が主軸で中身の大半がガールズトークみたいな話で、あとはちょっとした作画オタクがほめそやしてるだけ。
なんか派手なライブがあって、それっぽい推しがよくわからない感動的なことしてればそれで良いという、人モドキには向いてるんじゃないでしょうか。
ストーリーもバトルも配信もダンスも全部意味ないけどエモっぽければいいっていう、舐めた作品を見て情動が動くような人って何かが欠けてると思うんですよね。何が欠けてると思います?
長ったるい俺のレビューなんて読まなくていいよ。この一言だけ覚えて帰ってください。
お前には人生がない。
何かを決めるだけで全て叶うような浅い話に共感する、夢見がちな、自分を可能性に満ちた存在だと誤解してるゴミ。
そんな人間はそれこそ早く決めるべきだろ。その価値のない人生のような何かをどうするかを。
お前には人生がない。
Permalink |記事への反応(43) | 02:56
https://shonenjumpplus.com/episode/17107094914107074054
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/17107094914107074054
解釈はふた通りあると思うんだけど、それぞれに腑に落ちないというか、気持ち悪いところがある。どっちを選択しても辻褄が合わない。
おそらく多数派の解釈。ドレイク星人が永い永い旅路の果てについに未知の地球文明と邂逅する、という筋書き。
地球人と思わせておいて実は宇宙人でしたという、ミステリでいうところの叙述トリック。
まずはこの解釈が自然だろうと思う。自分もこうだと思ったし、おそらく作品もこれで書かれているんじゃないかと思う。
なぜなら、最後にタネ明かしとばかりにボルツマンちゃんの写楽の三つ目が披露されるからだ。「ほんとは宇宙人だよーん」
読後感も爽やかで、ハッピーエンド感がある。
しかし、だとすると、この解釈には色々と納得いかない点がある。
たとえば冒頭のボイジャー解説のくだりは、実はトビラを挟んで3PめのAI講義とはつながってはいなかったことが「しかもこんなの初めて見た…」というセリフで明かされるわけだけど、叙述テクニックと言えるのはぎりぎりこれだけで、以下の要素はハードSF的なテーマを扱う作品としてはアンフェアなミスリードとしか言えない。
まずフェルミ、ボルツマンといった明らかに地球由来の名前。地球と縁もゆかりもない別の知的生命体に偶然地球人と同じ名前がつくか? という疑問。フェルミやボルツマンはスルーできた読者も、彼らの名前が湯川や小柴だったらどうかな? 当然「地球をルーツに持つ人々」だと思うよね。
それに、タンパク質といった地球由来の概念(よその生命体が高分子アミノ酸ベースの組織を持つとは限らない、そもそも有機物とも限らない)。
「人類」「銀河」といったタームも地球との関係を想起させる(人類は広い意味では「わたしたち」程度の意味だけど、ホモサピエンスの意味でもある。銀河も、あるひとつの銀河を指して言う時は通常は天の川銀河系のことだ)。
はっきりと「この子たちは地球人だよ」と故意に誤解させる意図が明白だ。
永い永い旅路の果てについにめぐり逢えたのが結局自分たちと同じ地球人の痕跡でした、という猿の惑星オチ。
この解釈であれば、「ドレイク星人=宇宙人」説の弱点だったところを比較的よく説明できる。
フェルミ、ボルツマン、ドレイクといった固有名詞が地球由来であることや、彼らがタンパク質ベースの肉体を持つことの説明もつく。
まず猿の惑星オチだとするとかなり絶望的なバッドエンドなのだけれど、エンディングが楽天的で爽やかに描かれているのは矛盾する。
彼らが三つ目であることについては何万年もの間に人類に何かあったんだろうと解釈できるから特に説明はいらないと思うけど、ボルツマンちゃんが写楽の三つ目を印象深く披露する演出にはまったく必然性がない。異形の進化を遂げてしまった人類という陰惨なイメージになってしまうからだ。
ドレイク文明と地球文明がもし地続きだとしたら冒頭のボイジャー解説シーンはAI講義の一部とも考えることもできそうだけど、講義を夢中で聞いていたふたりがボイジャーを「初めて見た」と言っているので、ふたつのシーン(つまりふたつの文明)はやはりつながっていない。ボイジャーと偶然出会っているということはボイジャーの飛行経路も知らずに当てずっぽうに飛んでいたわけで、途中に文明の断絶があったと考えるほうがよさそうだ。
実は、過去に何かの事情で地球を去った人々がのちにそうと知らずにふるさと地球に戻ってきてしてしまう、という設定のSFはアルアルなんだけど、この作品に関してはそのオチを目指して描かれているようにはちょっと読めなかった。
つまりどっちの解釈を採用してもギクシャクしてしまうのである。
順当に前者の解釈をとるならば、登場人物にフェルミ、ボルツマン、ドレイク星人といった名前をつけたことはその下心とは裏腹に明らかに逆効果になっている。「ちょっと知っている人」をニヤリとさせるどころか混乱させていると思う。
良くも悪くもワナビー初心者が書く掌編小説みたいな映画だったな55点。
様々な境遇――受験に人生を支配される主人公、学校でいじめにあうはるか、病気で余命幾許もない諒――の3人はとあるオカルト情報を元に集まる。それは夏に廃飛行場で花火をするとサマーゴーストと呼ばれる幽霊に出会えるという噂。廃飛行場で花火を行い、最後の線香花火に火をつけたとき彼女は現れる。死を意識する人にしか見えないという彼女と少年たちのひと夏の思い出。
みたいな話。
40分の短編アニメーション映画で初期の新海誠監督作品、例えば「ほしのこえ」みたいな作風になってる。美しい背景にラフ画や絵コンテみたいなキャラクターがアニメーションするみたいな感じで2020年代、after成長した新海、鬼滅の刃時代にこのクオリティはかなり厳しいと感じる人もいると思う。まぁ見てるとあんま気にならなくなるし、監督はイラストレーターやキャラデザを行う方で原画なども担当しているとのことで、文字通り「絵になる」シーンも多い。
途中、サマーゴーストに連れられて幽体離脱し空を飛びそこから落下し地面に激突するかと思いきや地面という名の海の中に沈没していくシーンなんかは粗削りだからこそのダイナミックさやCG処理の美しさなどがあった。まぁ今どき空飛んで落下してドボンかぁというのはあるが。
だがストーリー面に関しては申し訳ないけど圧倒的に尺が足りないと言わざるを得ない。
あらすじでも書いたような重いバックボーンを抱えた3人が幽霊との出会いによって人生を少し変える話、としては最低でも後20分。できれば40分くらいはほしい。ただこれはだから悪い映画だと言いたいのではなくて、それくらいの長尺にも耐えられるだけの映画であるはずだという意味でもある。
まぁ、イラストレーターさんが中心に作った制作会社の初めての商業作品。原案はともかく脚本は乙一さんなのでもっと詳細な話も書けただろうけど、そうしなかったのは予算が厳しかったのか純粋にマンパワーが厳しかったのか、監督としての力量が厳しかったのかはわからないが、描けているところは素晴らしいがゆえに様々な欠落が目についた。
例えば死を意識した人にしかサマーゴーストは見えない。苛烈ないじめを受け実際に自殺未遂を図るはるかや、大好きだったバスケもできなくなり、後輩に春を迎えられないと語るも冗談にしてしまう諒はわかる。しかし主人公は母親に受験のために厳しく生活を制限され本当は描きたい絵も封印しているというところは伝わるが、他の2人に比べると動機があまりに薄く見える。ノベライズ版では母親の毒親描写がドチャクソに増えているらしいが本作では「厳しい教育ママ」という印象から抜け出さない。おそらくシングルマザーで父親は死んだのか出ていったのかは作中では明かされないが、そこに彼が本心では求めている絵を描くという行為を絡めて深みを出すこともできたはずだが、そこまでは触れない。
またこの3人が集まり、そこにサマーゴーストが加わることで4人のケミストリがおきそれぞれの意識が変わるというのがおそらくあるべき作劇だと思うのだが、3人はそれほど深く話し合ったりもしないしサマーゴーストと深くかかわって変わっていくポジションはほぼ主人公に託されてしまっている。
そんな様々な欠落を抱えながらも透明感のある画面と青春のみずみずしさや、乙一による「きっとおそらくここでは何かがあったんだろう」とは思わせてくれる話運びの巧みさはあるので「なんだこれ意味わからんおもんない」とは俺はならなかった。
特に自殺した女の霊だと思われていたサマーゴーストが実は殺されて埋められていたことがわかり、主人公は彼女の死体探しに没頭する。(おそらく)死を求めていた主人公が、死を探すことで自身の生を見つめ直す。そしてスタンドバイミーよろしく3人で死体を探し、それを発見し、いざ対面する時に主人公は自分の中の死と出会い「死者の国への最後の招待状」を突き付けられる。そこで彼を生に引き戻すのがもう招待状を受け取ってしまっている諒の声だというのは作劇としてあまりに美しい。
1年後の夏、母親を説得しおそらく芸大か美大の受験を決心した主人公、まだいじめは終わっていないが戦うことを決めたはるか、そして諒が3人揃ってまた廃飛行場で花火をしているシーンに移るがそこにはもうサマーゴーストはいない。そうして花火が終わると諒は消える。
決してハッピーエンドではないし自体は大きく好転もしない。それでもひと夏を通じて何かが終わり、何かが始まる。
そういう映画だった。
ちなみに劇伴はいかにもキレイ目なアニメ映画劇伴ですよ!って感じのピアノと弦楽器多めのメロディアスな曲が多くてあぁアニメってやっぱ曲と絵で盛り上げるエンタメだよなと最近は実写ばっかり見てたので強く思わされた。
俺は学生時代に小説投稿サイト(まだ小説家になろうとかが出てくる前か黎明期)に入り浸っていてその時に、学生さんが書く「イメージ先行」の掌編小説を山ほど読んだ。彼ら、彼女らの小説は情報や描写は足りず話はめちゃくちゃで「ちゃんとした小説」を目指す人から散々叩かれたりしていたけれど、ただちゃんとした小説を書いて商業に乗せたいというだけの人にはない「絶対にこのシーンが書きたい」という思いが見えたり「この文章を書きたい」という文章自体への高い熱量がある作品も少なくなかった。
なんか美しい映画!としか言いようがない出来なのだが、俺はこの作品が嫌いになれない。
途中までは特に、「細田守のサマーウォーズに推し活を足した感じだな」と思って見ていた。
10-20代のオタク〜ライトオタクをターゲットにしたと思われるプロットやデザインで、デジタル世界での承認欲求が物語をドライブする。その辺に若年層のリアルな欲求が反映されているのかもしれない。
「デジタル世界だけで人間は満たされるだろうか、それは流石に空虚じゃないか」と思いながら見ていたが、後半にそれがフォローされているのは関心した。ちゃんと面倒くさい人間にも気配りがされている。
脚本や設定的に、隅を突く人間がいることを前提に、かなり練られているんだろうなという感じ。
人間は人体という「メディア」から、今のところ抜け出せない。では人体というメディアの存在する現実を改善しなければ、真のハッピーエンドは訪れない。そういうことかも。
・作画は満足できる
大きくデフォルメを許し、陰影表現は控えめ、細部を積極的に省略する代わりに動かす、そういう作画方針だと思われる。
とにかくキャラクターを可愛く動かす、表情をコロコロ変えることに終始していて、個人的には好き。
デジタル世界はもちろん、リアル世界の描写にも3DCGを大胆に使っているが、2D表現とのマッチングは見事なため気にならない。
顔のデザイン、特に目の周りのデザインが今って感じで、なるほどと思いつつ、トレンドが変わると古く見えるのかもしれないと余計なことを考えた。
デジタル世界がメインの話なので、狙ってそれを行っているのかもしれないが、劇中の音楽はフィジカルを感じないものばかりになっている。
ビートがあって、テンポが早くても(テンポが早いからさらに?)、脳内の音であり、身体に作用しない音楽。
豪華なアーティスト陣が曲を提供しているようだが、この辺り詳しくないので良く分からない。
ほとんど終始コミカルで可愛く、超作画が連続するので目を離せなくなる。Netflix限定なのは本当にもったいない。映画として劇場公開されたら、かなり話題になり得るクオリティだと思う。楽しい作品。
○ご飯
朝:アーモンド。昼:牛丼。たまご。納豆。夜:人参、大根、キノコ、湯豆腐。焼きピーマン。間食:チョコボール。ポテチ。ドーナツ。
○調子
エッチな漫画家さんを月額課金で支援するサービスに2年間ぐらい入ってる。
というのも、そのサービス加入者にしか公開されていないエッチな漫画が面白すぎて続きが気になったから。
壮絶な家庭環境で育った少女がたくましく生きていくお話で、とても面白かった。
(所謂R18Gで不快に思う人が大多数なジャンルなので詳細は伏せます、食べ物じゃないのを食べるやつです)
加入時点で3話まで公開されていて、キリが良いと言えば良いところで終わっているのだけれど、作者さんのSNSによると4話を書いているとのこと。
しかし、まさにその2年間、3話のまま停滞が続き、月末にちょっとしたイラストを公開するだけの渋い内容だった。
そしてようやく、2年越しに4話が公開されて感無量だった。
まさにこの2年間毎月お金を払っていただけの価値がある内容で大感動。
新章突入といった趣で先も気になる。
ただこれ、5話はまた2年後です、だとかなり辛いものがあるなあ。
喧嘩稼業、ワールドトリガー、ハンターハンター、FSSなどなど、完結までは死にたくないなあと思う作品は数多くあるけど、エッチな漫画でもそういうのが出来てしまった。
(ハッピーエンド至上主義者なので、しのちゃんの親が捕まってしのちゃんは普通に働いて一人暮らしをするみたいなオチじゃないと気分が落ち込みそうだから怖いけど)
私は機能不全家族で育った。
そんな話は巷にあふれているし、聞いていて気持ちの良いものでもないから、ここではしない。
それも、「毒になる親」を読めば書いてある。
ここでお話したいのは、自由になったら、どれだけ幸せか、ということだ。
そのために、まずアダルトチルドレンの基礎を説明させてくれ。大丈夫、この話はハッピーエンドで終わる。
私は家族のマスコット(クラウン)で、毒家族達から守られるべき存在として子ども時代を過ごした。金にもなりゃしないのに、弱みを握られているのでキモオタに愛され続けなきゃいけない辛さ、と言えば想像しやすいだろうか。
実際はそれよりもっと精神が蝕まれ、病む。というか実際その時精神病も発症した。
ちなみにここで言う弱み、というのは、子どもなので一人暮らしが不可能ということだ。児童養護施設に駆け込もうと何度も考えたが、姉に止められて、従ってしまった。姉も毒されているので仕方ないことだった。
ヤッター、早速家を出た。
それでも向こうは連絡とってくる。放っといて欲しいが、何しろマスコットなのでしつこく構ってくる。
でも私はそうはしなかった。逆恨みが怖かったし、毒を混ぜっ返すより、うまく話をあわせて毒は毒なりに楽しく生きていってほしかった(申し遅れたが、私はとびっきりの博愛主義者だ)。
各家族で最適解は違うと思うが、私の場合はコレでなんとか上手くいった。毒家族との縁をフェードアウトさせる事が出来た。アダルトチルドレン症状を克服することに成功し、良い友達もつくることができた。
幸せだ!
幸せだ!
会話をしても消耗しない!
幸せだ〜!!
結婚も子供もできなかったが仕方がない。それはそうだ。こんな毒家族に他人を巻き込むことはできない。
信じてくれ。
自分が生まれる前の作品だけどカリ城、ナウシカ、ラピュタが最高であとはそれほど好きじゃ無い
ジュード編。46時間ぐらい。
可もなく不可もなくといったところだったと思う。悪くはないんだけど、何か面白くないという感じ。
その他
キャラはずっとジュードを使ってた。
ミラ編はやらない。というかほとんどジュードと同行しているわけでそんなに違いあるのかなと思ったりもする。仲間になるキャラが変わったりするわけでもなく。
【予防線】
以下の文章において、
は一切ございませんことを、ここに表明いたします。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
X(旧Twitter)のAIであるgrokによる画像改変が、現在問題視されている。
冒頭の文言は「第三者による画像改変を防ぐ方法」として拡散され、多くのイラストレーターやコスプレイヤーがポストした、いわゆる「呪文」である。
すでに有志による検証も行われているし、正直なところ、ある程度の知識がある人間が見れば、この呪文が何の効力も持たないことは火を見るより明らかだ。
それは、「生成AI反対派の人、AIのこと知らなすぎでは?」ということだ。
立場を明確にしておくと、私個人としては、「第三者による生成AIを用いた改変」「第三者による生成AIを用いた模倣」は問題であると考えている。一方で、「生成AIを用いたオリジナル作品の生成」そのものについては、大きな問題ではないと考えている。
「生成AIは学習したものを切り貼りしているだけで、オリジナルとは言えない」という反論があるのも理解できるし、それ自体はもっともだと思う。その上で、大きな問題ではないと考えているのだ。
それはそれとして、AI生成作品であることを隠そうとする人が数多くいる点については、正直理解に苦しむのだが。
とはいえ、ここで私の「生成AI論」は重要ではない。重要なのは、「生成AI反対派の人、AIのこと知らなすぎでは?」という点である。
SNSを見ている限り、生成AI反対派の方々は、AIという存在そのものに強い忌避感、あるいは嫌悪感を抱いているように見える。
たとえば、「傍から見ればバッドエンドだが、当事者にとってはハッピーエンド」という展開が苦手だとして、これを「メリーバッドエンド」「メリバ」と呼ぶことを知らなければ、自衛の難易度は一気に跳ね上がるだろう。
同じように、「AIに改変されたくない」と思うのであれば、AIが入力されたプロンプトをどのように処理し、どのような仕組みで画像改変を行っているのかを、概要だけでも理解しておくべきではないだろうか。
「メリーバッドエンド」「メリバ」という言葉に辿り着くことと、AIの仕組みを理解することとでは、難易度がまったく違うのも事実だ。
それでもなお、絶対に自衛したいという強い意志がある人、そして生成AIが心底嫌いな人ほど、皮肉にもAIについて学ぶべきなのである。
嫌悪の対象だからこそ、正しく知ることで、無意味な対策に振り回されず、より現実的で有効な自衛ができるようになるはずだし、結果的に得るものも大きいはずだからだ。
※ネタバレないよ。全部くだらない自分語り。自分語り乙とでも書いてくれたら嬉しいです。あとちょっとdisります。
Fate/Grand Order(FGO)というゲームのメインストーリーが、10年という歳月をかけて完結した。
もちろん、これからもおまけエピソードやアフターストーリーが展開されていくことと思われるが、一度わたしたちの冒険は終わったのである。
このゲームは非常に奇妙な成り立ちをしている。オンライン接続が必要なソーシャルゲームなのに、他のプレイヤーの存在をあまり感じない。
オンライン要素といえば、他の人が育てたキャラクターを借りて、パーティを強化することができるくらい。
借りる時の名前や自己紹介文を面白おかしくして、くすっと笑ってくれたらいいなと願う。
ちょうど必要としていた装備を付けている重課金者の最強キャラを貸してもらって、心の中でお礼をする。そんなもんだ。
あとは買い切りじゃなくて、キャラクターの入手がガチャなこと。それも結構な闇鍋の。
(もちろんガチャをあまり引かなくてもクリアはできる、効率が悪いだけ)
だから、わたしはこれまで、FGOのことをソーシャル(笑)ゲームと呼んでいた。一般的なソシャゲに程遠いからである。
このゲームは、ゲームと銘打っているにも関わらず、ゲーム部分も可笑しい。
もちろん攻略が難しい敵がいて、編成を考えるのが楽しいという戦略性こそあるものの、確殺できるパーティが決まればあとは同じ動作を何日も繰り返すだけ。
どこのクエストに連れて行っても簡単にクリアできるテンプレパーティも確立されている。
編成が本当に好きな人以外はテンプレパーティを3つくらい用意して、相性に合わせて使っていればいい。
じゃあ、なんでここまで面白いのか。それは全てシナリオに委ねられている。
立ち絵が切り替わるだけの紙芝居方式のシナリオが、文字だけで人の心を動かす。
その上、シナリオで活躍したキャラのすべてが良い見た目と声をしているから、つい欲しくなる。そうやって経済が回っている。
FGOは「ゲームを盛り上げて続けさせるための工夫としておまけに用意されたのがシナリオ」ではなく、「シナリオを読むための修行がゲーム」だった。
だから、わたしはFGOのことを、ソーシャル(笑)ゲーム(笑)なので、シナリオが読みたい人だけここを通るがいいと言って勧めてきた。
でも、わたしを最後の最後で感動させたのは、ゲーム(笑)で、FGOやっぱ終わってほしくないなって思わせてくれたのは、ソーシャル(笑)だった。
レイド期間中の3日間、「FGOはもうサービス終了してしまうかもしれない。集めた素材も、意味がないかもしれない。でも、みんなと一緒に戦って思い出作りがしたい」と思って、三徹したあの時間。
少しホーム画面に戻ってみたら、自分の育てたキャラクターが1万回借りられていて、「クリスマスなのにお前たちも馬鹿だなあ」なんて思った瞬間。
終わってほしくなかった。借りられた回数も、それによる報酬も、みんなが倒したから減ったボスのHPも、ただの数字だ。
でも、その数字が増えたり減ったりするのがひどく悲しくて、嬉しくて。もう徹夜したくない寝たいと思っているのに、解放されたくはなくて、このまま31日になればいいって思った。
それが27日に終わってしまって、寂しさと熱狂が冷めない中で、迎えたラストバトル。
かっこよかった。かっこよかったよ。やってることは変わらなくて、ボタンを押して必殺技を打つだけなのに。
Live2Dの横向きの立ち絵(実装コストがすごく高いらしい)が動くくらいなのに。
仕様上これが録画しなければ二度と見られないんだと思う反面、それが誇らしくて、今でもその光景が忘れられない。
まあ、シナリオでも感動したんだけどね。最速の人たちと並ぶようにクリアした後、三が日までFGOのことを考えては、飯食って感想ツイートして飯食って考察ツイートして飯食って毎日2時間くらい号泣して寝るって生活をしてたくらいには、感動したんだけど。
FGOが大好きだった。今も大好きだ。毎年クリスマスとお正月に、激ウマイベントを睡眠時間を削ってやっていたのが、好きだった。
本当に作業だったけど、あの作業が大好きだった。彼氏はできたり別れたりしたけど、FGOがいたおかげでリア充を呪ったことはなかった。
イベント開始18時にキャラクターを貸してくれた、話したこともないフレンドが、深夜の3時くらいでもまだ直近ログイン0分だったのが好きだった。
寝て起きても、こやはんとにやはん(有名なFGO配信者)が周回配信をしていて、「寝て起きてもまだやってる」とコメントするのが好きだった。
紅白歌合戦だのガキ使だのを横目に見ながら、スマートフォン片手に親戚とおせちをつつく瞬間が好きだった。
FGOと迎える年越しが、好きだった。今年はそうやって年を越せなかった。
完結したけどこの後どうなっちゃうんだ〜〜〜!?!??!という期待と不安。
こんなゲームなので10年間で次々と脱落していき、周りに誰もクリア者がおらず、ネタバレを語り合うこともできないまま、孤独に迎えた年の瀬。
最後に、走馬灯みたいな映像と制作陣のインタビューが50分を占めた年末の生放送で、カノウプロデューサーが「2026年も期待しててください」と言った衝撃でフリーズしたまま迎えた2026年。こんなにうれしくて、切なくて、満たされたことはなかった。
FGOがソーシャルゲームでよかった。お前のソーシャルは、ソーシャル(笑)じゃないよ。
お前はちゃんとゲームだったよ。戦闘システムがないノベルゲーのほうが売れるなんて言って、ごめん。お前はこのシステムで、こう生まれてきて、よかったと思う。
ありがとう、FGO。幾度となく完全体のモルガン(最強キャラの一角)を貸してくれた数十人の廃課金のフレンドたち、ありがとう。
わたしのキャラクターを借りてくれた人、ありがとう。配信してくれた人。攻略情報をくれた人。考察を投稿してくれた人。
どんなに苦しい情報が後から出てきても、ハッピーエンドの二次創作をしてくれた人。逆にかわいい子の絶望顔を描いてくれた人も。
キャラクターを、礼装(装備)を描いてくれた絵師。何度も泣かせて笑わせてきたシナリオライター。キャラクターに生命を与えてくれた声優。
ディライトワークス。ラセングル。アニプレックス。TYPE-MOON。坂本真綾。わたしと、何度も年を越してくれて、ありがとう。
…
果てしなきスカーレットってかなり叩かれてますよね。でも、SNSで感想を漁ると「言われてるほど酷くなかった」という声も多いようです。
なぜこういうことが起きるかというと、果てしなきスカーレットのマズさは「脚本のマズさ」、もっと言うと「結末のマズさ」だからです。なので、作品として俯瞰的に評価する人からはゴミ作品に見え、2時間の映画体験の心地よさを重視する人にはまずまずの作品に見える。見てる部分が違うわけです。
で、具体的に何がどうマズいかというと、細田監督の脚本ってメッセージを胸三寸の展開で表現しちゃうんです。
「竜そば」でもそうでしたよね。未成年の主人公が身一つで上京し、虐待されてる子どもを助けに行く。で、ヤベー虐待親に見つかって襲われるんだけど、突然不思議な力が発生して虐待親が逃げていく。
これ、果てスカも同じですよね。
何か、頑張った末にサンダードラゴンが出現して助けてくれる。これでハッピーエンド。
この結末って細田監督の胸三寸すぎますよね。虐待親に殺される展開でも不思議はないし、スカーレットがやっぱ復讐しとけばよかった〜!って思いながら死ぬ展開でもおかしくない。だけど細田監督が込めたいメッセージ性によってのみ、その結末が突然ハッピーエンドに転換される。
そんなのどの映画も同じじゃん、と思うかもしれませんが、重要なのは結末にメッセージを乗せるかどうかって部分です。
例えば「ハリー・ポッターと賢者の石」なら勇気とか友情とかがメッセージかなって思うんですけど、それを結末に全部背負わせずに、きちんと映画全体でめいっぱい表現しています。
でも、細田脚本は、最後に神(細田さん)が下す鉄槌でもって、この世界の素晴らしさを表現しようとしてるんです。
だから映画全体を俯瞰して観る人は、結末の嘘臭さやご都合主義で全てがスポイルされたと感じ、低評価を付けるのです。