
はてなキーワード:ハイトとは
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか(原題:The Righteous Mind)』は、人々がなぜ政治的・道徳的に分断されるのかを社会心理学・進化心理学の観点から説明した本です。
内容の中心は 「道徳基盤理論(Moral FoundationsTheory)」 と呼ばれる枠組みです。
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最初に感情・直感で決めて、あとから理屈をつける、というのがハイトの主張。
この点は左も右も同じ。
ハイトは、人間の道徳は次のような「6つの味」でできていると言います。
1.ケア/害(Care/Harm)
2. 公正/欺き(Fairness/Cheating)
4.権威/転覆(Authority/Subversion)
6.自由/抑圧(Liberty/Oppression)
保守(右)は 6つすべて を比較的バランスよく重視する、とされます。
ハイトは “右=保守のほうが寛容だ” と主張しているわけではない。
ただし
とは述べています。
ここが誤解されがちなポイント。
→結果的に**「保守派を理解しない/理解できない」** という不寛容さが出やすい
→結果的に**「左の価値観も右の価値観もわかる」**状態になりやすい
→ これが「寛容に見える」理由
つまり、
右のほうが本質的に寛容、というより
という理屈。
ハイトの議論はかなり中立で、保守派の欠点も詳しく指摘しています。
例えば:
• 忠誠・権威・神聖を重視しすぎると、排外主義・差別・過度の軍国主義につながりうる
• その結果、右が相対的に“寛容に見える”局面もあるが、右が左より優れているという意味では全くない
必要なら、
•アメリカでの実証研究(特に近年、左派の“キャンセル文化”との関連)
•日本にも当てはまるかどうか
ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」、がオススメ。
ハイトによれば、左の人が不寛容なことが多いというより、右=保守のほうが寛容な人が多くなりやすい。(右が軍国主義者の意味で無いことに注意)
ざっくり言えば、左の人に、重視する価値観を聞くと「人権」、以上終わり。一つの理想を目指すのがリベラル。
しかし保守の人に重視する価値観を聞くと、「安心安全」「伝統」「信仰心」「道徳」「治安」「国家安全保障」など、多様な軸になる。だって今まで通りにすることが保守だから。
これによって包摂する対象は、社会において、保守のほうが多くなる。
軸が多いので、含まれる人も多くなるわけ。
前髪メッシュ、インナーブリーチ、全頭ダブルカラーまで実に様々な子が割と普通にその辺歩いているけど理由は簡単、親族か知人に美容師がいる可能性が矢鱈と高いから。大体は母親か、そのご友人あたりであることが多い。
そもそも彼ら彼女らの保護者からしてハイトーンやビビッドカラーの髪をしている人が結構いる。子どもたちからそれとなく聞かされるところによれば、職業柄その辺りの融通が利く仕事をされている方々が多いのもやはり土地柄なのだろうか。
そもそも現代の子どもたちは派手な髪色の人間を怖がらないどころか寧ろ憧れ、好む。黒などの地毛暗髪でいる方が逆に「なんで染めないの!?」と謎にキレられるので厄介なくらいだ。
大人からすれば「そんなご家庭は〜…」「教育に良くない〜…」等と思う人もいるかもしれない。しかしたかが頭髪とかいう死んだ細胞の色一個で、その辺りの判断をする時代では最早なくなりつつあることを私は伝えたい。まあそれはそれとして、ブリーチ狂いの派手髪中毒者の一意見的に申し上げるなら、子どもは頭皮も髪もかなり繊細なので実際やるか否かは慎重に考える必要があるとは思うのだが。
長年通ってる美容室を変えるか迷っている。
自分が歳をとったこともあり客層の中で浮いている気がしてならないのだ。
わりとカジュアル目(ハイトーンとか個性派系)の美容室なこともあり、お客さんの大半は20〜30代前半までぐらいっぽい。
この数年は同年代の人を見かけなくなった。
カットしてくれてるのは昔からずっと店長さんで、技術的にこの人でなければ!!って感じではない。(いい人ではある)
なので変えてもいいのだが、じゃあどこに??って感じである。
そもそもアラフォーがメイン層かつハイトーン得意です!みたいなところがそんなに多くない。
あっても白髪対策とか、もしくは老いたギャルっぽいバレイヤージュばっかやってるとこ。それはなんか違う。
男って驚くほど女の癇癪が“苦手”なのよ。
ハイトーンで抑揚なく話し続ける女とか、まじで恐怖さえ感じてるよ彼等。
https://x.com/ysflowsy/status/1985013685304369320?t=RHoX4ssFeZBnZoA3dzQYFA&s=19
これ凄くない? 癇癪起こしてる人間なんて万人からして軽蔑の対象なのに、それを「男は癇癪起こしてる女が苦手なんだ」「だから私たちが合わせてやらないといけないんだ(意訳)」と解釈する精神性。
自分が恐怖を与える側という認識に酔ってる感じがあるのも相当キモい。女って(極大主語)普段は私は弱者・暴力やめろって言うくせに、いざ自分が強者側に立つと暴力性剥き出しになるの何なん?
最近、声優の林原めぐみさんのブログが「排外主義的だ」と批判され、大きな議論を呼びました。ある記事は、その主張を過激な団体と結びつけ、
「事実を理解できない人々」と断じました。この記事に対し、「酷い記事だ」「何も解決しない」と感じた人も少なくありません。
なぜ、移民や外国人の問題は、このように「データや正論をぶつけ合うだけの不毛な罵り合い」に陥ってしまうのでしょうか。
なぜ「お前は右翼だ」「あなたは日本が嫌いなんですね」といったレッテル貼りで、対話が終わってしまうのでしょうか。
その原因は、どちらかの側が一方的に「馬鹿」だからではありません。実はそこには、人間の思考や感情に深く根差した「仕組み」**が存在します。
この仕組みを理解することこそが、無益な分断を乗り越え、建設的な議論を始めるための第一歩となります。
「外国人が増えるのは何となく不安だ」「今の生活が変わってしまうのは嫌だ」――。
こうした感情は、しばしば「非合理的だ」「感情的だ」と切り捨てられがちです。しかし、これは決して特別なワガママではありません。
イギリスの思想家マイケル・オークショットは、「保守主義」とは難しい理論ではなく、「未知なものより、慣れ親しんだものを好む」という
人間の自然な気質だと述べました。急激な変化は、私たちが築き上げてきた安定した生活を脅かすかもしれない。
だから、まず警戒し、慎重になる。これは共同体を守ろうとする、ごく自然な自己防衛本能なのです。
私たちの脳は、日々膨大な情報に晒されているため、なるべくエネルギーを使わないように「思考の近道(ショートカット)」をするようにできています。
この近道は便利な反面、時として私たちを誤った認識に導きます。これを**「認知バイアス」**と呼びます。
【簡単な説明】あるものの「典型的なイメージ」で、物事全体を判断してしまう思考のクセ。
【例】メディアが「外国人による凶悪犯罪」を繰り返し報道すると、私たちの頭の中に「犯罪者=外国人」という典型的なイメージが作られやすくなります。
すると、街で外国人を見かけただけで、無意識に「危険かもしれない」と直感してしまうのです。
【簡単な説明】記憶から思い出しやすい情報ほど、それが頻繁に起きていることだと勘違いしてしまう思考のクセ。
【例】「日本人によるありふれた窃盗」よりも、「外国人グループによる強盗事件」の方が衝撃的で記憶に残りやすいため、
統計データ上、外国人犯罪率が日本人と大差なくても、私たちの「直感」はメディア報道や衝撃的なイメージに強く影響されます。
この**「データ vs直感」のギャップ**を無視して、「事実を見ろ!」と叫んでも、話は通じないのです。
「人道的見地から受け入れるべきだ」「多様な社会は豊かだ」――。これらは移民受け入れを推進する側がよく口にする「正論」です。
しかし、この正論が、かえって反対派の強い反発を招くことがあります。なぜでしょうか。
心理学者のジョナサン・ハイトは、人々の「正義感」にはいくつかの種類(土台)があると提唱しました。これを**「道徳基盤理論」**と呼びます。
【簡単な説明】人の「何が正しく、何が間違っているか」という感覚は、いくつかの共通の「心のボタン」のようなもの(道徳基盤)から成り立っている、という考え方です。
【主な心のボタン】
ハイトによれば、政治的にリベラル(左派)な人々は主に「ケア」と「公正」のボタンを重視する傾向があります。
一方、保守(右派)な人々は、これら全てのボタンを比較的均等に重視します。
この”正義のカタチ”の違いが、移民問題ですれ違いを生みます。
推進派が振りかざす「正論」は、彼らにとっては絶対的な正義です。しかし、反対・慎重派にとっては、自分たちが大切にしている別の「正義」を脅かす、
危険な思想に聞こえてしまうのです。互いに違う”正義のボタン”を押し合っているため、議論が噛み合うはずもありません。
自分の正義が通じないと、人はどうなるか。しばしば「相手は話の通じない、劣った存在だ」と考え始めます。これが「お前は馬鹿だ」「レイシストだ」という、相手を打ち負かすための論法です。しかし、この戦略は最悪の結果を招きます。
長年、移民を受け入れてきたヨーロッパの現状が、その何よりの証拠です。
政治家やメディアなどのエリート層は、「人道」や「経済」を盾に移民受け入れを進めました。そして、それによって生じる負担(治安、雇用、文化摩擦)に苦しむ庶民の声に対し、
「それは差別だ」「時代遅れだ」とレッテルを貼り、封じ込めようとしました。
自分たちの不安を「不道徳なもの」として切り捨てられた人々は、既存の政党に絶望しました。そして、彼らの怒りや不安を代弁してくれる、
反移民を掲げる極右政党を熱狂的に支持するようになったのです。結果として、社会は深刻に分断され、対立はより過激化しました。
相手を「無知な大衆」と見下し、正論で殴りつけ、レッテルを貼って黙らせようとする態度は、健全な議論を破壊します。それは対話ではなく、ただの攻撃です。
相手は心を閉ざし、より頑なになるか、より過激な主張に救いを求めるようになります。問題解決から最も遠ざかる、愚かな戦略なのです。
では、どうすればこの不毛な対立を乗り越えられるのでしょうか。カギは、人々の心を動かす**「物語(ナラティブ)」と、その物語を裏付ける「仕組み(制度)」**を、根本から作り直すことにあります。
まず、なぜ反対意見がこれほど強い力を持つのかを理解せねばなりません。その根底にあるのは、
「移民推進派(グローバル企業や政治家)だけが儲けて、俺たち普通の国民は損をするばかりだ」という、非常に強力な物語です。
この物語は、「ズルは許さない(公正)」という正義感や、「エリートは我々を裏切っている(忠誠)」という怒り、「生活が脅かされる(損得勘定)」というリアルな不安を同時に刺激するため、絶大な共感を呼びます。
この強力な物語に対抗するには、小手先の説得では歯が立ちません。
「安価な労働力」「助けるべき弱者」――。これまで外国人は、どこか他人行儀な「道具」や「お客様」として語られてきました。これをやめなければなりません。
目指すべきは、「私たち日本人と、新しく来た外国人が、共にこの社会の未来を創り、共通の利益を生み出していく『パートナー』である」という新しい物語です。
この物語は、「仲間(忠誠)」という感覚や「共通の目標(権威)」といった、これまで無視されてきた”正義のボタン”にも響きます。
しかし、物語が口先だけでは、誰も信じません。その物語が真実だと誰もが実感できる、公平な「仕組み」をセットで構築することが不可欠です。
最終的に人々が求めるのは「自分たちの生活が損なわれず、安心できること」です。これを実現できるという信頼感なくして、
いかなる移民政策も国民の支持は得られません。「私たちも得をするし、社会の秩序も守られる」と誰もが実感できるような、誠実な「物語」と、それを裏付ける「仕組み」作りこそが、唯一の解決策なのです。
メダリストがアニメになるってんで、そりゃもう待ちわびてたのよ。
登場人物たちの滑走が、演技が、動くなんてという喜びにあふれていたわけで。
昨日2話目を観おわったのよ。
して思うわけ。…これじゃない。
何がモヤモヤするんかと思ったら、多分2つ要因がある。
1つ目、絵柄。原作はつるまいかだ先生の、ちょっと粗めのタッチが魅力的だ。登場人物たちの鬼気迫る熱狂を支えているし、コミカルな場面ではいい感じに脱力させてくれる。しかし、アニメはきれいな細い線で、色彩はハイトーンかつコントラスト低めである。主人公が小学生なこともあり、なんだか女児アニメ然とした空気が生まれている。特に1話の、いのりが笑顔を見せるシーンのキラキラエフェクトは笑っちゃったよ…。あんなキラキラさせられると、なんのアニメを観ているんだと悲しくなる。2話の光と滑っていたシーンの、背景消して青いきらきらの世界にしたことも辛かった…。なんだあれ。あのシーンは、光の強さや決意、覚悟を語り、いのりが感化されるシーンである。強さや力を感じさせる演出ならまだしも、キラキラな背景はなかろうよ。もう少しトーン暗くしたり陰影強くして力強さを出してもよかったんじゃないかと思う。その方がいのりの、圧倒的な執着と、その輝きを感じただろうに。
2つ目、テンポが悪い。ギャグパートもシリアスパートも全体的にゆっくり描写されて緩急がない。2話の、光といのりの出会いから一緒に氷を滑ったくだり、良くないところが顕著に出た。いのりが光にジャンプを教えてと乞うシーンでは、原作ではギャグシーンをサッと描写し光目線で「なんなのこのコ?何?」という感情描写につなげることで、その後のいのりの内面の焦りを語るシリアスシーンが映える。それが主題だ。だが、アニメではギャグシーンが変に間延びして、自分から突っ込んだ挙げ句、ゾンビのようにねっとりと「ジャンプ…ジャンプ…」と迫る怖い子になってる。光かわいそう。絵柄も相まって、ギャグシーンのデフォルメ顔がかわいくないのも致命的。
以上、2話までの視聴の感想でした。
キラキラな世界を、幼い女の子が活躍して、可愛い姿を堪能しようって話なら良いのかもしれないけど、
メダリストは、過酷で残酷な氷上の世界を、幼い女の子がバディ(あけうらじ先生)と共にスポーツ科学に裏打ちされた努力を重ね、成長をしていく世界を描いていると思っていたので、ことごとく期待外れ。