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2024-08-04

東浩紀伝2

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年教育雑誌 (57)31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。

東のゼロ年代ゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムゼロになる」という意味らしい(「現代日本批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか

3 ゲンロン

ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。

ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズ2010年4月6日創業された。2009年の秋の飲み会アイデアが出たそうである宇野常寛濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズ代表就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかたかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。

一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿2010年代に書かれたのですが、出版震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代パラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもの民意をくみ上げようというものであるゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代ゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。

サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画2ちゃんねる動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。

一般意志2.0」の次の主著は「観光客哲学」(2017年であるが、サブカルチャー批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれからアニメゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客哲学 増補版」第2章によると、観光客二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタク原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客住民暮らしなどお構いなしに無責任観光地をつまみ食いしていく。このように観光客現実二次創作しているそうである

福島第一原発観光地化計画思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発事故があり、ダークツーリズム対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズム二次創作への抵抗である(「観光客哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地観光に出かけると、普通場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである二次創作への抵抗)。

社会学者開沼博福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞ウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故イメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年東京大学大学院情報学環准教授就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣脱原発哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラー佐藤博論(「権力抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤バトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラー著作邦訳を担っている)。「脱原発哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。

観光客哲学」はネグリハート帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学であるとして、郵便マルチチュードとしての観光客対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというものリベラルマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二こたつぬこ木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実革命的なあまり革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命成功していることになるのか」(「現代日本批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。

東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうであるブレイディみかこ松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田2023年から刊行されている「岩波講座社会学」の編集委員代表を務めている。

観光客哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学であるこちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能なのだという(森脇「東浩紀批評アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。

こうして現在2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身気質自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体境界侵犯欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀桜坂洋キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。

宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利宇野要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である映画原作なのだろう)が、宇野ウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代批評をふり返った本の終章なのだから2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。

濱野智史は「アーキテクチャ生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised情報社会倫理設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドル流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史社会学者)が経験したアイドルプロデュース真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。

千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベント千葉ゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。

大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。

福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談現代日本批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。

津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督就任し、東は2017年10月企画アドバイザー就任する。しかし、企画展「表現不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルから顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。

東は2018年12月18日にツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、

Permalink |記事への反応(4) | 17:48

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東浩紀

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀特別存在であった。これは今の若い人には分からいであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からいかである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別にインターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀堀江貴文ホリエモン)、西村博之ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのであるファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。

私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたもの網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信ほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレ古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。

1 批評空間

東浩紀は71年5月9日まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介時代区分だと、虚構時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。

東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親金沢出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼新左翼左翼よりバカ!」【真実幻想と】)。

東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。

筑駒筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブ高井麻巳子福井県実家訪問したことであろうか。秋元康結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代うる星やつらファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。

もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。

東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月であるソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫ノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。

東は、教養課程では、佐藤誠三郎ゼミ所属していた。佐藤村上泰亮公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文グロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤ゼミ所属していたこから学部時代に読んだのだろう。

東は94年3月東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業し、同4月東京大学大学総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文バフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである私たち世代は三読くらいしたものである博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。

郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッター清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。

東の若いころの友達阿部和重がいる。阿部ゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイ寄稿している。川上早稲田文学市川真人によって見出されたらしく、市川渡辺直己の直弟子である市川鼎談現代日本批評」にも参加している。

東は、翻訳家小鷹信光の娘で、作家ほしおさなえ1964年まれ)と結婚した。7歳年上である不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー東浩紀批評家が中小企業経営するということ」アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。

そして娘の汐音ちゃん生まれる。汐音ちゃん2005年6月6日まれであるウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれ時間まで書かれている。名前クラナドの「汐」と胎児聴診器心音ちゃんから取ったらしい。ツイッターアイコンに汐音ちゃん写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End ofthe World - 73 Questions We MustAnswer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。

96年、コロンビア大学大学入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試残酷なのは、それが受験生合格不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生家族に対し「おまえの未来合格不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。

2 ゼロ年代

東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である

東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だからサブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。

「いま批評場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。

動ポモ10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモフェミニストには評判が悪いようである北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモ英訳されている(Otaku:Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客哲学」が3つと動ポモが圧倒的である2024年8月3日閲覧)。動ポモ海外論文でもよく引用されているらしい。

次の主著であるゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。

この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラ告発されたこともあるが、不発に終わったようである結婚して子供もできて幸せらしい。

その頃は2ちゃんねるネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃん俎上に載せている。北田は「広告都市東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーション接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析古典ではある。

東は宮台真司大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本ジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。

宮台や大澤や北田はいずれもルーマンであるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者馬場靖雄2021年逝去)は批評空間に連載されていた頃から存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文正義門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマン社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。

佐々木敦ニッポン思想」(2009年)によると、ゼロ年代思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義日本現代思想ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダンとは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。

佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代思想土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。

北田によると、東の「情報技術公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。

佐々木ニッポン思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝ストリート思想」が出ている。文化左翼歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代佐々木命名から勢いが増していき、今や大学メディア大企業裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会包摂」(2021年教育Permalink |記事への反応(13) | 17:44

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2024-06-28

anond:20240628172230

空白の100年とかポーネグリフって、元ネタクレア島のミノ文明とか線文字Aあたりの話じゃないのか?子供ながらに世界史でこれらを知った時にピンと来たんだが…

Permalink |記事への反応(0) | 17:34

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2023-06-02

3歳の空耳アワー

正 → 3歳語

はいます

エレベーター → エベリー

・釘 → くり


涼しい → ふくし(「福祉」みたいな発音)

おむつ替えよう → おおつかあい(「大塚愛」みたいな発音)

テレビ → テテブリ テテビリ

・食べる → タブル

トイストーリー → ブリトリ

アクション → あくしゅん

ハッピーハロウィン → ハービン

・おやくそく → おやすこす

クリスマス → クリマ

・ばあばに会いたい → ばあばにあいりたい

・鍵 → キャギ

トムとジェリー → トマトゼリー

お金を稼ぐ → おかねをかぞえる

・中くらい → ちゅくらい

・親指 → おやび

・小指 → あかちゃん

ポカリスエット → ポポカリ

博物館 → はつぶつかん

・一緒にみよう → いっしょにみよん

エネルギー → エネグリ

パイナップル → アインナップ

とうもろこし → とうもころし

本当に「とうもころし」って言うんだあ!!と感動した。

Permalink |記事への反応(0) | 15:12

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2021-08-18

ワンピースで一番面白かったのは空島だよな?

海洋冒険ロマンとして成立してる→空島以降は海軍との戦いがメインになりすぎて冒険じゃなくてただの戦争になってる

ポーネグリフの秘密ゴールド・ロジャーとの繋がりが登場する→革命家一族ではなく冒険家としてのロジャーもっとも濃く出てるエピソード

・黒ひげが登場する→人の夢は終わらねえ!こそワンピースのメインテーマだろ

Permalink |記事への反応(1) | 20:00

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2019-04-23

ワンピース最終回はこれでいいよな

ワンピース最終回

空白の100年以前、世界平和だった。

その一躍を担っていたのがとある王国(Dの王国コブラが言っていた王国

しか

し、ある海賊組織がその王国に戦いを仕掛けた(または戦争が起こった) 。

この時、争いを好まないDの王国は島を守るため「プルトン(総称)」を作った。

これは兵器ではなく、「人工的に海流を生み出す機械」であり、「堀」の様な役割をした。

プルトン、ポセイドン、は単品ではなく、それぞれ合わせてはじめて効果が出るもの

ポセイドンは海底に、プルトンは海上に、といった具合で設置し海流を起こす)

これは地上から見ると浮き島の様に見える為「ラフテル(浮き木)」と呼ばれた

これによって、海賊相手国)は近づけなかったが、結局王国は敗北する。

そして、勝利した海賊相手国)は侵略事実を隠すため、

滅びた王国へ誰も近づけ無いようにラフテルを強力に設定した。

これによりラフテルを中心に強力な海流(グランドライン)が生まれ世界の海は4つに別れた。

同時に、海賊達(相手国)はそれを境に「世界政府」を名乗り、海賊達は「海軍」となった。

しかし、王国にも生き残りがいた。

彼らは世界に散り、残った知恵と、歴史事実世界分散させた。

これが各地に残るポーネグリフ(海賊の事や、プルトンについて書いてある。)である

侵略歴史の発覚を恐れた世界政府正義の名の下に、生き残りを根絶やしにするため

海軍」を全世界配備世界監視していた。

しかし、ある時G・Dロジャー(Dの子孫)がグランドラインの果てで失われた王国の残骸(もしくは動き続けるラフテル)を発見してしまう。

政府はG・Dロジャー処刑し、七武海を結成させ、以降海賊達をも監視することになる。

政府は、ラフテルを使い海流を元に戻すと全てが明るみになる事を恐れている。

そして、ロジャーの言っていた財宝「この世の全て」とはラフテルを止めて

グランドラインを無くし、世界の海をひとつに戻すこと。

これこそ「ONE-PIECEオールブルー)」世界の財宝だ。海はこの世の全てを生み出すから



昔に流行ったやつで、だれが書いたのかもしらないけども

これ以上の最終回というか落ちのつけかたある?

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2017-05-05

[今日知った言葉]ブリガデイロ

ブリガデイロ(ポルトガル語: Brigadeiro、ポルトガル語准将(但し、ブラジル空軍では少将)を意味する。

ブラジル南部の一部地域ではネグリーニョ - negrinhoとも呼ばれることがある)はブラジルボンボン・ショコラである

  

ブリガデイロは1940年代頃に創作された菓子であり、菓子名はエドゥアルドゴメス空軍少将の頭部の形がトリュフチョコレート

連想させたことにあやかって名付けられている。ブリガデイロはブラジルポルトガルでは非常に人気のある菓子であり、

通常誕生日パーティーで供されるほか、デザートとしても一般的に食されている。

  

ブリガデイロは甘いコンデンスミルクココアパウダーを混ぜ込んで作る。混ぜ込んだ後、滑らかでいて粘りのある食感になるまで、

コンロの上においた鍋で加熱する。

加熱した後少し冷まし、バターを塗った手で球状に丸め、上部からチョコスプレーをまぶして完成させる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AD

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2016-06-26

現代思想社会学って何の役に立つの

無理してネグリブルデューの本を読んでたあの日々は無駄だったの

Permalink |記事への反応(1) | 23:21

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2013-03-02

[独りファシズム]工作員丸出しのブログ



211 ソーゾー君 []2013/01/06(日)23:20:09ID:whleZ7hA Be:


http://alisonn.blog106.fc2.com/blog-entry-378.html#comment_top

アメリカ中国ロシア韓国北朝鮮イラクとか、全部同じ勢力が仕切っているわけで、

ネグリが主張するとおり、支配は一元化されているのだと思いますよ。

↑このブログ主のあからさまなロックロス対立論ベースコメント質問もしたw

欧州はどの勢力が仕切ってるんですか?



ロシアは中銀と市銀と地下資源殆ど国有化国益派のプーチンが主導権を握ってますよ?

中国共産党国益派と香港華僑売国派が争っている状態で支配できてませんよ?

北朝鮮は昔は孤立していて利害関係の一致で手を結んでいましたがロシアプーチン派が

ロシアの主導権を握ってからコントロール不能ですよ?


イラクではなくイランですよね?アフマデネジャトはイスラエルと争わないように舵取りしてますよ?

イスラエルを敵視させようとイスラム教徒を煽っているのは最高指導者ハメネイ

穏健派のアフマデネジャトはハメネイに批判されていますよ?

↑こんな書き込みをしたら即削除・・陰謀論者は中身スカスカから困るよねーw




























中央銀行・発行権】黒幕銀行家2【信用創造

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50

Permalink |記事への反応(0) | 19:22

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2011-02-21

とあるゼミ論文注意:(再整理)

※あくまで「とあるゼミ」について。 他は存じあげません。 教えて下さい。 お願いします

とりあえず、伝えたいことを要点としてまとめる。

研究テーマを決めたあとで調査結果からテーマの全てを導こうとすると痛い目をみる ― 『疑問に思う→考察→調査→考察』 の流れについて
研究テーマに「娯楽コンテンツ」は意外と難易度が高い ― 考察のしがいがある

 ものすごく簡単に論文について

論文とは「問い」である。(率直な疑問をテーマにしてこそ良い論文になりやすい。)

論文には以下の構成がある。※この日記は序論の「問題」と「研究目的」に対する考察(PLAN)でしかない。

序論

問題と研究目的研究方法の提示、用語の定義を述べる必要がある。

本論

研究結果とその考察研究限界問題点を述べる必要がある。

参考文献

引用文献だけではなく、使えそうで読んだ(参考にした)本を述べる。

 研究テーマについて

※ここでは、自由に論文テーマを決められるとする。

近年、娯楽コンテンツテーマにする流れがとあるゼミ内であったようなので、注意点を述べる。

自分で決められるからといって「好きなのでテーマにしてみました。」程度では[ぬるい]。

これは、社会的背景に迫らなければ動機以上に有意義なテーマにならない、ということである

疑問に思う(QUESTION)→「考察(PLAN)」→調査(DO)→考察(CHECK)→発表(PRESENTATION)の流れでは「PLAN」に該当するプロセスで基本だが、大抵の大学生多忙を理由にして調査への過度な期待をして失敗を繰り返しているという意味で最重要プロセスでもあると考える。

失敗の例として具体的には「自分研究がなにをいいたいのかがわからなくなる。」といったものがある。

 そこで、対策として社会的背景へ迫るPLANの例として娯楽に対する考察を以下に提示する。

・娯楽コンテンツは虚構的である。つまり、それ自身に本質的価値はない。

そもそも、娯楽の意義を知らなければならない。無論、娯楽はストレス(抑圧)発散のためにある。

社会的ストレスとは労働といった規範に関連するもの。学生学業社会的ストレスになる。

池田信夫マルクス引用によると

知識の外部性最初に指摘したのはマルクスだった、といえば牽強付会に聞こえるかもしれないが、彼は労働についての断章と呼ばれる『資本論』の草稿(経済学批判要綱)で次のように書いている

自然機械をつくらない。それは人間頭脳や手の生み出した器官であり、知識の力が対象化されたものだ。固定資本の発展は、社会的知識がどれほど生産の直接的な手段になり、社会的な生活の条件がどれほど一般的知性によってコントロールされて生産適応しているかを示している。

これはネグリハートが『帝国』で、マルクスが「非物質労働」を視野に収めていたことを示す証拠として引用した文章だ。これに続く部分で、マルクス社会的知性が科学技術による生産の条件だとものべている。そしておもしろいことに、こうした社会的知性は生産だけではなく消費によっても生まれると説いている

池田信夫blog :マルクスソーシャルメディア -ライブドアブログhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51671941.html

知識の外部性社会的知性、一般的知性 というものがあることがわかる。

おそらく書籍を読解していく上で【知性やイデオロギー】等の違う言い回しで多くの似た概念に出くわすと思う。※注意は必要だが、以降は「規範」として解説する。

私たちは幼少より社会的規範市場的な規範を様々なものを通して学ぶ。

娯楽も例外ではない。例えば、女の子はおままごとを通して家庭の内部規範を、男の子ロボットヒーローおもちゃで外部規範を学んでいく。

娯楽コンテンツとは労働社会規範)によるストレスを消費(市場規範)で発散するモノであるといえる。また、娯楽をする条件が労働によるストレスならば、娯楽自体には焦点がなく、娯楽がストレス発散することにしか効用(と消費者の動機)を持たない虚構であることがわかる。

ここから、「娯楽コンテンツは虚構的である。つまり、それ自身に本質的価値はない。」ということがはっきりわかった。

また、労働に関連として以下を引用する

実をいうと、「エンプロイー(従業員)」という概念近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。強い意思を持つ人間従順な従業員に変えるために、二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、それがどれほど成功したかを見ると、マルクス主義者でなくてもぞっとさせられる。近代工業社会職場が求めるものを満たすために、人間の習慣や価値観を徹底的につくり変える必要があった。

  • 生産物はなくて時間を売ること-仕事のペースを時計に合わせること-定められた間隔で食事をし、睡眠をとること-同じ単純作業を一日中再現なく繰り返すこと

これらのどれ一つとして人間自然本能はなかった(もちろん、今でもそうではない)。したがって「従業員」という概念が—また、近代経営管理の教義の他のどの概念であれ—永遠真実という揺るぎないものに根ざしていると思いこむのは危険である

経営未来」に従業員の未来を見る - アンカテhttp://d.hatena.ne.jp/essa/20080310/p1

「従業員」という一見当たり前の概念についても長い歴史で観ればつい最近確立された規範であり、社会問題を伴う。

つまり、「娯楽という概念」にも労働を代表する外部の概念が抑圧・弊害や規範として間接的に関わってくるため、視野を広めて(ここでは労働キーワードに)考察をすることが重要ということである

(※今回は閲覧できるようにwebソースしましたが、実際はキーワードに関する書籍を読解し、参考・引用してください。)

娯楽コンテンツについて調査するならば、調査対象においての労働観(学業観)、社会観、消費観を知る必要があるだろう。

これは研究テーマの外部にある要素をキーワードにして迫る方がテーマ本質は見やすい、ということである

むしろ、引用するしないに関わらず参考文献範囲を研究テーマの外側まで広げていかなければ、根源的な問いに対する調査の切り口が見いだせない。

娯楽コンテンツ研究テーマした場合は袋小路に入ることになる。

しかし、研究テーマの外部の考察をすれば必ず研究に活きてくる。まず発表に際して学生間での質問に引けをとることはなくなる。

一見言わなくても分かると思われることも、しっかりと問題の本質、動機、仮定、構造の説明ができるかどうかは別問題ということである

なにより真剣研究することは学生として正しいし、好きなことを真剣に考えることは充足感を伴うので楽しい

Permalink |記事への反応(0) | 07:36

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2010-03-08

外国人地方選挙権について考えている

普通の人は「地方が集まって国家が出来る」と考えているのだろうが、私は逆で、「地方国家依存している」と考えている。(ウォーラーステインネグリハートにはまた異論があるのかも知れないが)

地方というのは地方独立している訳ではなくて、国家の一機関として中央との関係の中で初めて成り立つものだと考えている。国家が消滅したり、地方国家との関係を断ったりしたあかつきには、その地方地方ではなく、新しい国家になってしまう。

地方国家が完全に吸収するような中央集権と画一化は、国家だけを強化するかも知れないが、国家論理だけでは地方の問題にほとんど全く対処できなくなる。

国家地方が同時に存続するには、地方国家論理継承しつつ、地方独自の論理で動かねばならない。地方分権とはそういうことであって、国家への依存国家からの独立を常に併せ持つ概念である。独立しつつ依存もするというバランス地方存続のコツになるのだろう。(逆に国家地方論理継承しなければならないことはない。地方の独自性を国家に全部フィードバックして国家の同一性を保つことは普通は不可能だ)


法の世界では、地方国家依存していて、地方の条例は国家憲法法律・命令、あるいは国家間の条約から逸脱してはならない。


選挙はどうだろうか。国政においては国民以外の選挙権被選挙権を認めないことで、国家の人事(選挙国籍)の中で整合性を保っている。

地方は? さっき書いたように、地方であるということは国家であるということを不可避的に含むから、外国人地方選挙権を認めると、国家の人事と地方の人事の間の整合性はなくなる。それは合理的か?

合理性を追求すると、国籍を取得するか、あるいは特別永住権国籍と同等に扱うという規定が必要になるだろう。外国地方責任を負えないのだから、果たしてどのような理由で外国の人事(外国籍)が地方の人事(選挙権)を決定できるのか、という合理性を欠くのではないか。


強いて言えば、多民族国家のように、多国家地方という概念を導入するという手はある。条約によって地方両国の共同管理下に置くという手だ(アンドラ公国みたいに)。こうすれば複数の国家地方責任を負うので、複数の国家の人事が地方の人事を決定することはできなくはない。人事だけで言えば多国籍住民票は既に実現しているので、やってできないことはないはずだ。

ただ、国境問題でそうなっている地方ならともかく、そういう緊急性のない地方がそれをするためには、何か理論的なパラダイムシフトが必要になるだろう。そういう地方分権論を誰か作るとコクが出るのではないかと思うが、それはちょっと私の手に余る。他の人の意見を広く問いたい。

Permalink |記事への反応(0) | 21:15

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2009-08-06

書籍から見るゼロ年代

今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.

一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本経済社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.

経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店平積みされていた.お金のことは銀行専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.

また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年

また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.

2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.

ゼロ年代を象徴する批評家東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.

また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.

2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.

格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会空気を表す本としてピックアップすることができる.

不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.

9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディアコントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.

2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社新書に力を入れ始める.

仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代サクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.

新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代キーワードを体現した.

また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本ナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.

相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長ベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.

また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipedia大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.

品格ブームを引きずって『女性品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.

データ重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.

その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田オプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.

また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.

どういう流れからか,『×型 自分説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分グーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本書店平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.

批評界では東にケンカを売る形で宇野ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャ生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.

ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.

##せっかくISBN記法したのに,増田だと使えないのね.

文字ばっかりでごめんなさい.

Permalink |記事への反応(0) | 23:13

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2008-04-09

中国報道の自由がないといっても

何も知らないってわけじゃないんだぜ。

なんせネグリが講演するような国だから。

Permalink |記事への反応(2) | 08:49

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2008-03-15

anond:20080315145308

本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。

グーグルキャッシュ初版なので違うところがあるかも。

プラトン国家』 

アリストテレス形而上学』 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 

ヘーゲル精神現象学』 

デカルト省察』 

パスカル『パンセ』 

ライプニッツ『単子論』 

カント純粋理性批判』 

キルケゴール『不安の概念』 

スピノザエチカ』 

ルソー社会契約論』 

バークフランス革命省察』 

ジェイムズ『宗教経験の諸相』 

ニーチェ権力への意志』 

フッサール論理学研究』 

ハイデガー存在と時間』 

サルトル存在と無』 

ベルグソン時間と自由』

レヴィナス『全体性と無限』 

フロイト快感原則の彼岸』 

ラカン精神分析の四つの基本概念』 

レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』 

フーコー言葉と物』 

ソシュール『一般言語学講義』 

チョムスキー『文法理論の諸相』 

ヴェイユ重力と恩寵』 

アーレント精神の生活』 

ブーバー『我と汝・対話』 

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』 

ミンスキー『心の社会』 

ライル『心の概念』 

アドルノホルクハイマー啓蒙弁証法』 

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』 

ウェーバープロテスタンティズム倫理資本主義精神』 

デュルケム『自殺論』 

バタイユエロティシズム』 

モース『社会学人類学』 

キャンベル『千の顔をもつ英雄』 

マクルーハンメディア論』 

ブローデル地中海』 

ウォーラステイン『近代世界システム』 

アダム・スミス国富論』 

ゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義』 

ベンタム『道徳立法の原理序説』

ミル『自由論』 マルクス資本論』 

アルチュセール資本論を読む』 

シュンペーター経済発展の理論』 

ケインズ雇用・利子および貨幣の一般理論』 

ヴェブレン『有閑階級理論』 

ポランニー『大転換』

ボードリャール消費社会神話と構造』 

オルテガ『大衆の反逆』 

ミルズ『パワーエリート

リースマン『孤独な群衆』  

イリイチシャドウ・ワーク』 

ベル資本主義の文化的矛盾』 

ネグリ『構成的権力』 

バーマス『晩期資本主義における正統化の諸問題』 

アンダーソン『想像共同体』 

バレーラマトゥラーナ知恵の樹』 

ルーマン社会システム理論』 

ロールズ正義論』 

ハイエク『法・立法・自由』 

ブルデュー資本主義ハビトゥス』 

オング『声の文化と文字の文化』  

M・ポランニー『暗黙知次元』 

クーン科学革命の構造』 

ポパー『推測と反駁』 

サイードオリエンタリズム』 

メルロ=ポンティ知覚現象学』 

フッサール論理学研究』 

ラッセル西洋哲学史』 

フロム『自由からの逃走』 

ベイトソン精神生態学』 

ベンヤミンパサージュ論』

デリダ『グラマトロジーについて』 

クール時間物語』 

ペンフィールド『脳と心の正体』 

スローターダイクシニカル理性批判』 

フレイザー金枝篇』 

シュミット政治神学』 

クラウゼヴィッツ戦争論』

ドラッカー『「経済人」の終わり』 

リップマン『世論』 

マンハイムイデオロギーユートピア』 

ブルームアメリカンマインドの終焉』 

ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトライス』 

パノフスキー『イコノロジー研究』 

クーン科学革命の構造』 

ホワイトヘッド科学と近代世界』 

ソンタグ『反解釈』 

ドーキンス 『利己的な遺伝子』 

ギブソン生態学的視覚論』 

フランシス・フクヤマ歴史の終わり』 

ケストラー『機械の中の幽霊』 

ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』 

ホーキング『ホーキング宇宙を語る』 

イーザー『行為としての読書』 

イーグルトン『文学とは何か』 

ホフスタッター『ゲーデルエッシャーバッハ』 

ド・マン『ロマン主義レトリック』 

シオラン歴史ユートピア』 

ブランショ文学空間』 

ガダマー『真理と方法』 

ローティ哲学自然の鏡』 

セラーズ『経験論と心の哲学』 

パーソンズ社会的行為の構造』 

ジジェクイデオロギーの崇高な対象』 

アガンベンホモ・サケル』 

ダマシオ『生存する脳』 

クワイン『ことばと対象』 

マッキンタイア『美徳なき時代』

こういう時、トラバツリーが各所に残る今の仕様は便利だ。

ツリー内主要エントリ

Permalink |記事への反応(0) | 15:24

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2007-11-09

ウォール伝 2007-11-09 「キュッ」。 整形バージョン

俺さー芸人になったらさぁー相方見つけてさぁー「マルチチュード」っていうコンビ名でデビューしたいんだよねぇー。「どうもー!マルチチュードでーす!」みたいな感じで出てきて「ネグリ君一号でーす!ネグリ君二号でーす」とか、もしくは「どうもーマルチチュードネグリでーす。ハートでーす」みたいな感じでさ、基本的にネタは左翼パロディネタばっかなの。で、たまに真面目な政治批判を繰り広げつつもシリアスになり過ぎないっていうね。ってことで相方は相当教養のある人じゃないといけないわけだけど、悪くないと思うんだよなぁー。あと妙にアカデミックなネタとかね。「ききききさまぁー!!さては修正主義者だなぁ!!」とかさ、そんな感じ。分からない人さっぱり分からないみたいな。で、この修正主義者ってのも実際はAVにモザイクは必要か否かみたいな議論をペダンティックな語り口調で進めていくんだけど、相方が「やっぱり倫理的にモザイクは必要である」なんてことを言ったときに、さきほどのツッコミを俺が入れるわけ。ただボケ突っ込みっていう役割は無しで、基本的に両方ボケて突っ込む感じね。別に笑い飯パロディとかじゃなくて。悪くないと思うんだよなぁー。あとは相方だけなんだよなぁー。あとハワードジンソーホーマルクスを下地にしたマルクスとバクーニンの言い争いをネタでやるとかさ、悪くないと思うんだよなぁー。アイデアはいっぱいあるんだよねぇ。世界の左翼テロリスト集団カルトQとかね、片方が司会者で片方が回答者で、プロジェクターかなんかに世界の左翼テロリスト集団のロゴを出して早押しとかさ、もう絶対テレビ放送無理みたいなネタばっかなのね。あと日本共産党ネタとかもいいかもね。すげーシニカルに繰り広げていくわけ。で、ネタを見ると日本共産党ナスティな歴史が分かっちゃうっていう、笑えて勉強にもなるみたいなね。共産とか左翼っていいお笑いネタになると思うんだけど、誰もやってないんだよね。せいぜい思いつところだと駕籠真太郎ぐらいかな。漫画家だけどね。拳を上に上げて「レボリュースィオン!」とかいうのを一発ギャグにしたりね、キャッチーでもあると思うんだよね。分かりやすいっていうか。あと過去の独裁系共産主義者を連想したネタとかね。ようは毛沢東と側近とかを想像で演じちゃうわけ。スターリンレーニンやりとりとか、ポルポトと側近のやりとりとかね。あんまお笑いって放送できるできないでリミットがかかるべきじゃないんだよね。だってお笑いって表現なわけだから、作る前にセンサーシップのことを考えるなんてのは完全にリミテーションですよ。そんな意味でも鳥居みゆきのことが心配でしょうがないわけですよ。テレビってーのに巻き込まれるとダメになりそうで。ようは本人の意思に関わらず無理やりテレビで放送できるような感じで編集されちゃったり、全然テイストが出せないような無駄な企画やらされたりとかさ、そういうので才能を潰しちゃいけないのね。ただテレビってどうしようもないからダメなんですよ。そういうのが。全然才能を生かせない。だから本当にやりたいことをやるならラーメンズみたいになるしかないわけ。セルフプロデュースだよね。ようは。で、テレビに出るのはCMとかちょっとしたインタビューとか、ようはお笑いの部分はテレビではやらないわけ。あとやっぱ本人が繊細そうだからダークなテレビ業界のやりとりに巻き込まれて精神的にダメになったりしないかな?って不安なのね。基本的にフォークダンスの桶田がそんな感じだったらしいじゃん。精神を病んでたわけじゃないけど、テレビ業界にうんざりしてお笑いに興味がなくなっちゃったっていう。本質的な人こそああいう俗っぽいものを嫌うしアダプトできなかったりするからさ、結果的にその才能をテレビ側が生かせないどころか殺しちゃって永久に失われちゃったっていうようなさ、本当にフォークダンスは悲劇ですよ。もう残念でしょうがない。あんなことを二度と繰り返しちゃいけないから、だからっつって俺が何を出来るわけでもないんだけど、基本的にお笑いファンも昔松っちゃんが書いてたお笑い指数っつーかお笑いレベルじゃないけど、お笑いレベルが高くないと需要も低くなっちゃうっつーか客が程度の低い笑いを要求するようだと本物たちがテレビでやりたいことができなくなっちゃうわけ。ようはレベルの高いデマンドが必要ってことなのよ。だからホント、うちの妹とかも口癖のように言ってたけどお笑いってのがブームになるとホント、質の低いつまらない芸人ですらテレビに出られるようになってさ、で、その業界に寄りかかろうとするダメ芸人が本当に増えるわけじゃない?で、結果的にそういう悪循環お笑いの全体の質を下げちゃうっていうようなさ、それって最悪だよね。だから常に鑑賞者側はお笑いに対してレベルが高くなきゃいけないし批判的じゃないといけない。お笑い番組見ててクソつまらねー芸人ネタとかで笑ってる客とか見てるとぶっ殺してやりたくなるんだよね。ホント、その存在自体が邪魔だから死んでほしいって切実に思うもん。それっていつも書いてる音楽シーンとかに置き換えることが出来るんだけど、基本的にやっぱね、レベルの高い鑑賞者っつーかデマンドが無いと、本物を発信してる側の活動場所がなくなっちゃうんですよ。それが一番マズイのは、本物の活動場所が無くなることで、才能が失われちゃうってことなわけ。ところでエレクトロニカとか前衛系に言えることだけど、なんだかんだですげー排他的で若手育成みたいなのやらないじゃない?で、有名レーベルはいつまで経ってもベテラン勢の作品ばっかリリースし続けるっていうさ、ああいうプログレッシブな音楽やってるように見えてレーベルの体質が保守的だとね、それ自体がダメになるのよ。つまらなくなっちゃう。ただ大半のレーベルはそういったことに意識的じゃないから勝手に腐っていくんだけど、例えばさ、ELMAって昔、ちょっと関わりがあった鳥取でノイズやってる人なんだけど、未だにこの人以上のハーシュノイズって聞いたことないんだよね。はっきりいってハーシュって意味だと今のメルツを平気で越えてるし、クオリティは世界レベルなんだけど、なんで大手のレーベルから何かしらのコンタクトが無いわけ?マイスペースとかあるんだからさ、誰かは見てたり聞いてたりするわけじゃない?で、なんでELMAの新作が割と有名な電子音楽系のレーベルから出ないわけ?ELMAが無理だったらSMKなんて絶望的ですよ。はっきりいって。もう嫌なのね。ああいうの見てると。ELMAみたいなのが有名にならないこの現状。なんなのよ?みんなの耳は節穴か?ちゃんとみんな音をちゃんと聞いてるんだろうか?全くさぁーホント、ちゃんとした芸術家達が本当に食えない時代になってるなぁーって思うよね。いつの時代もそうだったかもしれないけどさ。俺に金があったらホント、最高のレーベル経営できると思うんだよね。経営っつーかまぁ人材発掘ね。経営は他に任せたほうがいいや。経営っつーか運営っつーか。ところで岩村学って今、何してるのかな?全身にニートっつーかヒモみたいなオーラがあふれ出てた人だったけど、ああいうヒモ系の作り手って嫌いじゃないんだよね。ミラノ在住っつって何して食ってるの?っていうああいう雰囲気。あのなんだっけツジコとかとやってる青木だかなんだかってやついるじゃん?あいつもすげースポイルチャイルド系の雰囲気出てていいんだよね。音楽的にはさっぱり好きじゃないけど人間の雰囲気が好き。ああやって親とか愛人から金をもらってやってける連中はいいけど、そうじゃない人達も大勢いるわけだから、アートシーンってのがそういう人達のケアをしてあげないとダメなのよ。それは国が保護しないとダメだと思うね。ニューヨークってそういうシステムあるらしいじゃんね。まぁ相当限られてるとは思うけど、でも無いよりはマシでしょ。基本的にでもそんなのね、文化の一つなんだからシリアスに保護しないとダメよ。保護っつーかサポートっつーかアーティスト達がやっていけるようなシステムが必要なわけ。ところで今朝、なんか妙に呼び鈴が鳴ってるような気がするなって思ったら案の定、誰か来てたんだけど、ドアにチラシが挟まっててさ、それがエホバの証人だったのね。しかも日本語。ようは日本人向けの勧誘をニューヨークでもやってるってことだ。あー怖い。ニューヨーク統一教会の本場みたいな感じだけど、あんな暴力教団、国が規制をかけないとダメでしょ。エホバはともかく統一教会なんてあんなもん強制的な解体をさせないとダメよ。何が言いたいのかっていうと、ラガ系の人がエホバって言うときは恐らく「ジェホバ」って感じなヤーマンな発音になるんだろうなってキットカット食いながら思ったんです。今朝。もう明らかにモト信者の証言から暴力とか洗脳があったってのが明らかな教団があるのに、なんで国はキチガイ教団扱いをしないんだろう?あんなもんの存在を許してたらね、よりどころの無い人達がガンガン入信して不幸になっていくんだからね、ダメですよ。禁止しないと。こういうの禁止しないでガンジャ禁止してるんだから世の中ってのは狂ってるよなぁー。だったらガンジャ教みたいなの作ればいいのに。もちろん名前は「ジェホバの証人」ね。挨拶はみんな「ヤーマン」。持ってきた?っていうブリングとブリンブリンをかけて、教団内ではみんな「ブリンブリン」言いまくってるっていう、極めてラスタな環境にあるわけよ。とっととオランダみたいにさ、ガンジャなんて解禁すりゃーいいんだよ。どんだけの泉じゃなくてどんだけの人が救われるか分かってんのか?マジでガンジャがあるだけで凄まじい境遇の人もガンジャだけを心のよりどころにして生きていけるような人も出てくるのかもしれないのに。もちろん酒みたいに逃げになっちゃいけないけど、でも救われる人は相当多いと思うんだよね。労働者が「この昼休みの一服のために働いているようなもんなんです」ってタバコのことを言うけど、これがガンジャでもいいわけじゃん?まぁ作業中はマズイから仕事終わりとかに「一杯行く?」じゃなくて「一服する?」みたいなさ、酒みたいに中毒にはならないんだし、少量でブリンブリンになれるわけだから、あれほど機能的なものはないわけよ。全くタバコとか酒とか許してるのに、なんでガンジャが禁止されてるんだか意味分からないよね。政府が国民に苦しめって言ってるようなもんでしょ。これは。ところで練馬ザファッカーのさ、キラキラしているやつを総称で「ブリンブリン」って言うって言ってたけど、あれをガンジャトリップのブリンブリンのメタファーってのに気がついてる人少ないんだろうな。日本ってマジでドラッグについての教養が全く無いからね。そういう意味だとアメリカは凄いよ。やっぱ歴史があるからみんな詳しい。少なくともマリファナを鼻で吸うみたいに思ってる馬鹿はいない。ガスパンが流行ってるとかいってさ、ああやってちゃんとドラッグに対する教育しないから馬鹿なことするやつが増えるんだよね。ケミカル系の危険性も分かってないで乱用するやつがいるってのは教育がなされてないってことでしょ。あえて選んでケミカルやってるやつならしょうがないけど、基本的にトリップしたいんであればガンジャで十分なわけよ。で、コークとかLSDとかの副作用っつーかダークな面を知ってればさ、明らかにあの取ったときの「スッコーン!」って感じよりディスアドバンテージのほうが多いっつってやらないやつが多いはずなのに、やるやつがいるってのは問題だよね。さっきも書いたように、ちゃんと知識があってやってるなら選んでやってるからしょーがないやつになるわけだけど、分かってなくて興味本位でやってるのってマジでヤバイよね。学校で「ケミカルは中毒性があって脳がダメになるから絶対やらないこと。やるならガンジャにしなさい」って教えれば相当ケミカルの乱用は減ると思うんだけどねー。で、ガンジャを合法にしてタックスでも取ればさ、国益になるわけじゃない?なんて幸せなタックスだろうね。ガンジャ税だなんて!でも分かるよ。あんな閉塞した社会で薬も酒も無いんじゃやってられないよね。だからなんつーか若者がアノミー状態に陥っちゃってて、ドラッグに手を出すぐらいしか脱出する方法が無いっていう、あの社会状況がマズイわけで、それはニートネットカフェ難民も一緒でしょ。全面的に彼らが悪いんじゃなくて、そういった人とか循環を生み出す社会構造に問題があるわけでさ、その人達を批判するのはお門違いもいいところだよ。うちのオヤジがこういうお門違いな批判をしているんだけど、まぁオヤジみたいな世代の人はああいう観点でしか物事を考えられないんだろうなっていうのは凄く思うし、親父には悪いけど、ああいう考え方をする上の世代の連中が多いから、いつまでたっても問題が解決しないどころか、若者とおっさん世代のコンセンサスの乖離ってのがガンガン進んでいくわけだよね。基本的に社会を動かしてるのとか会社の上の連中とかって大体おっさん世代でしょ。で、おっさん世代の考えが古いんで、前に書いたマテリアルカルチャーとノンマテリアルカルチャーカルチャーラグじゃないけど、基本的に社会を牛耳ってる連中たちの考えが古いんで、社会構造が変わらなくて、マテリアルカルチャーとの差が出てきちゃう。だったらとっととおっさん世代は引退して次の世代に役割を任せなきゃいけないっつーか、そのためにも若者の雇用と雇用後の社内での教育ってのが必要なのに、人件費削減だとか馬鹿なことを抜かしてやがるから若い世代が育たないっつーかアノミー状態になっちゃう。ね?全然難しいことじゃないでしょ。いかに社会が若者達に対して理不尽に回っているかっていうのがね、凄まじくクリアなのよ。だからニートだとか若い世代にワーキングプアなんてのが出てくるのはある意味で必然なわけで、全部を結びつけるわけじゃないけど、アノミー状態というのは色々なネガティブなことを生み出す原動力になるわけだから、っつーかさっき書いたドラッグ問題も含めてね、まぁあと犯罪とかの原因の一因でもあるよねっつーか一刻も早く環境の改善が必要なのに、なんかシリアスに取り組んでる感じがしないんだよな。あとさっきも書いたようにおっさん世代と若者世代との意識の違いってのが凄いでしょ。で、おっさん世代は若い世代を批判してばっかいるからさ、悪循環が終わらないのよね。すげーもったいない状況にあると思うんだよ。日本は。さっきのアートの話も含めて基本的に社会が殺している才能とか人材ってのが凄まじく多いと思うのね。教育は馬鹿を増やして、社会は優れた人を育てないっていうような、お金でヘドロ買って家を埋めてるみたいな、そんな非建設的な状況がもうずーっと続いてるよね。だからね、若い世代が「もうくだらねぇ。こんなのやめだ」って思うのは当然なのよ。まぁ全部の若い世代じゃないけど、でもそう思ってる人多いと思うんだよね。俺はああいうアホな社会のおかげで批判的な目がより養われたというのもあるから、まぁ日本社会ってのは究極的な反面教師だったし、今でもそうであるわけだけど、まぁでも俺も逃げ切れたわけじゃないからいまだに怖いんだよね。杉並区中野区を飲み込むかのごとく、日本が俺を侵略してきそうで怖いのね。だから俺は逃げ切らなきゃいけない。うわー怖い。マジで。常に走ってるような気分だ。そう思うとランナウェイ。ましてや日本って侵略が十八番だからね。そういえば社会学の先生がまぁ話の文脈のディティール書くと面倒なんでやめるけど、人種のキャラクターっつーか歴史を語るときに「日本はまた特殊な国なのよね。しょっちゅう戦争してた国だから、バトラーの血があるでしょ」みたいなことを言っててさ、これは別に日本の侵略戦争のことじゃなくて、恐らく戦国時代のことを言ってたと思うんだけどでもあれだよね、日本人って平和を愛する民族だなんてあくまで戦後の話で、実際は凄まじい血みどろの歴史がある国なんだよね。日本って。だから全然なんつーか農耕民族でもなんでもなくて、みんなウォーバトラーだよね。みんなじゃないけど。そういう見方ってのを全然してなかったから、ちょっとパラダイムが変わったね。俺の中で。ようは俺の中で日本人って民族的に野蛮っていうイメージが無かったんだけど、でも野蛮っつっちゃー野蛮だよなって思ったわけよ。まぁ武士とかサムライとかっていうとかっこいいかもしれないけど基本的に戦士じゃない?戦士=野蛮ってわけじゃないけど、でもまぁ平和的ではないわな。ようは戦士っぽい血を引いている部分も相当あるというのには全面的に先生に同意だなって思ったんだけど、やっぱこれって教養のある西洋人からの観点じゃないとなかなか見えてこないことなのかなとか思ったわけね。そう思うと今後が楽しみでしょうがないな。どんだけパラダイムが広がっていくんだろう?あー楽しみだぁー。まずその前に算数やらないといけないけどさ、でも楽しみだよねぇー。でもあれだよ、やっぱさ、客観性ってのが重要で、いくら自分が色々なことに懐疑的で批判的な人間であっても基本的に日本人について悪く考えたりしないわけだけど、この社会学の先生の視点というのは、事実はさておき、ようは客観的な視点でしょ?ただ俺は日本人だからやっぱ当事者としてなんつーかあんま日本人ってことを否定したくないっつーか良く考えたいみたいに思うところがあるんだけど、これは物凄く危険な視点なんだよね。ようは愛全般がそうよ。恋は盲目とかいうけどさ、基本的に恋人とかに限らず、自分が好きなものに関しては入れ込んじゃってるから批判的になれないし、客観的になれないんだよね。ようは凄まじく主観的でガーッってそれに入っちゃってるっていう。それが趣味とかならまだしも、それが歴史とかになってくるとマズいんだよね。それこそ歴史修正主義じゃないけどさ、日本の都合のいいように歴史を塗り替えちゃうっていうさ、まぁ昨今の盲目的なバカバカしい愛国心の台頭にも言えることだけど、客観的ではない批判的ではない見方なんてのは大概危険よ。やっぱ。そんな意味だとっつっていつもアメリカとの対比になっちゃうけど、こっちで勉強してて目立つのは、よく先生が特にリーディングとかの授業だと「批判的でいろ」って言うんだよね。ようは何かを読むときでも読むだけではなくて、書き手がどういう人間なのか?例えばアメリカの保険制度について書いてある記事でも書き手が保守系のシンクタンクから来ている人間なら、それは保守側の意見で書くだろうしっつーかそういう記事が実際あったんだけど、ああいう教育を幼い頃から受けていればさ、全然違うよなって思ったわけ。ましてや記事の書き方とかオーガナイズとかの仕方も批評するんだから。これはちゃんとまとまってるか?とか要点がクリアかそうでないか?とかさ、俺ってまぁ中学以来学校行ってないけど、でも中学まででこういった読み方の教育を受けてきた記憶がさっぱり無いんだよね。勝手な思い込みだけど、一般的に日本ではこういったクリティカルリーディング的な教育は広くは行われてないんだろうなって凄く思ったんだけど、ようは批判的であるとか懐疑的であるってことは別にそれが左翼的であるってことじゃなくて、常にモノを考えながら何かを捉えるっていう一連のプロセスの一つなわけで、そこに政治的なイデオロギーなんてないわけ。俺が左翼臭いって言われるのは本当に分かるんだけど、そんなこといったらニューヨークなんて基本的に左翼臭いんじゃないか?とかって思っちゃうね。特に社会学なんか凄いからね。アメリカ批判も平気でするし、アメリカ政府暴露話とかも授業の脱線であったり、教科書にもアメリカ政府に対して相当痛烈なことが書いてあったりするからね。それに比べて日本って何なんだ?って気が本当にしてくるね。教科書を日本の都合のいいように改ざんするなんて愚の骨頂だよね。少しはアメリカ見習えって思っちゃう。ただ基本的に思うのがまともに俺の今受けてる社会学の授業ね、あれを受けてたらみんな左翼的になるよ。だって社会学教科書もそうだし、先生もグローバリゼーションには否定的だし、ましてやナイキとかギャップとかのさ、ようはDeindustrializationとかさ、 downsizingみたいなことがガンガントピックで出てくるし、労働力の搾取なんてのがあからさまに書いてあるわけだけど、別にこれはマルクス主義とか共産主義みたいなドグマに立脚したようなものではなくて、あくまでグローバリゼーションの弊害の一環として、社会分析として書かれているわけだけど、果たしてんじゃあこれが左翼的か?っていうとどうかなぁ?って感じするでしょ?左翼も何も当たり前の事実っていうかさ、それを認識するだけのことなんだから。ましてやアメリカパトリオットアクトについてのまぁ割とドライな分析と割と批判的な分析なんかも教科書に載っててさ、アメリカ教科書ってこんなにレベル高いんか?って関心しまくりだったわけよ。政府からクレームこないのか?ってぐらいなことが書いてあるんだけど、そこはさすがになんつーかインディビジュアルアクトに対する自由がやっぱりまだまだ保障されているアメリカならではなのかなって気がしてきて、このフリーダム具合と比べると、日本って独裁共産国みたいな感じだよなってコントラストで凄く感じちゃったね。で、日本の保守が共産主義に対して批判してるんだからお笑いだよね。実はてめーらが一番封建的で右翼的な共産主義ドグマを信望してるんじゃねーかって思っちゃう。一部の保守が言ってることってツァーリズムとあんま変わらなかったりするからね。んだったらロシアにでも亡命すればって思っちゃうよ。日本の保守見てると。あんなの保守の風上にも置けない感じがして、ちゃんとした保守の人達が本当に迷惑してるんじゃないかなって思ったりちゃうよね。だからいつも俺が金玉を酸っぱくして言ってるのが、馬鹿でもとりあえず保守的でいるよりかは進歩的でいたほうがまだマシってことなわけ。馬鹿が石原をサポートするより馬鹿がデモしてたほうがまだマシ。やヴぇーな、サービス精神旺盛になってきちゃってる。もうそろそろやめようかな。っつーかね、昔と違って書こうかなって思ったこと全てを書けてるわけじゃないんだよね。一応、やらなきゃいけないことがあったり、占領されてる時間があったりするからさ、そういうので中断されると思考が止まっちゃうわけよ。で、思い出せなかったり忘れちゃったり勢いがなくなっちゃったりして、そのトピックについて書かなかったりするわけ。だからね、まぁ今日の分もだいぶ長いけど、でも本当はこんなもんじゃないんだよね。特に最近はウォール伝的に色々失ってることが多いわけよ。書くべきだったのに書かなかったことってのが多いわけ。まぁいいや。でも十分だね。そりゃ最速インターフェース研究会のmalaさんが「誰か要約してください」って書くわけだよね。ホント、malaさんありがとうね。なんでため口なんだか分からないけど。で、墨滴には全然これ長くないんだよね。長いウォール伝ってもっと長いからっつーかいきなり思い出したんだけど、16ぐらいの時に通ってたフリースクールの同級生っつーか会ったこと無い女の子メールのやりとりをしていたんだけど、あるとき、この子から返事が来なくなって「なんで返事を書いてくれないんだ?」ってメール書いたら「いつもそっちの書くことが長すぎて疲れた」なんて言われて相当ショックだったんだけど、昔からだったんだよね。長文癖というか書いたら止まらない癖。当時、ヒノッ君っていう名前でやりとりしてたんだけど「私、いつもヒノッ君とのメールやりとりで4時間も使っちゃってるんだけど、もうアタシ疲れたの・・・」とか言われてさ、そりゃ今考えれば疲れるよなって思うんだけど、俺って別に長く書くのにそこまで時間がかからないから、相手の気持ちが分からなかったんだよね。ましてや4時間もかかってるなんて想像もできなかった・・・。ジーザス!なんてこった!あと前にも書いたけどスカイプで両親と話すときもさ、ウォール伝みたいな感じでさ、社会問題とか政治とかオヤジが割と喋れる人だから色々喋るんだけど、結果的に一時間半ぐらい俺が喋りっぱなしで、残りの三十分を母と父が喋ってる感じなんだけど、いつもスカイプの終わり際に母が「もうそろそろね・・・終わりにしようよ」なんて言うわけ。そりゃあっちとしてもゲンナリだろうなぁーって思ったんだよね。1時間半も勝手に喋られたんじゃーたまらないでしょう。だから俺からの提案で「毎週スカイプやるんじゃ、そっちも忙しいだろうから、二週間おきぐらいにしようか?」って言ったら、心なしか両親は快諾していたような気がしたね。だから俺は思ったね。この長文とか長い喋りを極めまくって、それこそジジェクみたいに、ゲンナリするぐらい喋りまくるおっさんになるしかないなって思ったわけ。ましてやこんぐらいのことを英語で書けたり喋れるようになればね、なかなかの進歩でしょ。やっぱ英語なんだよねー。問題は。まぁいいや。そんな感じで。誰か俺の話聞いてくれる人いないかなぁー?大抵途中で嫌がられるんだよね。話が長いっつって。だからやっぱウォール伝が一番の出力先なわけです。今日は革命的なオーラのまま色々書けたんで、反革命的な投票してくださいっていうURLは載せないことにします。それにしてもアクセス数が明らかに増えてて不気味だわ。ただ別に見られてるとかって思わないことにするわ。でもあれだもん、今日なんてのもさ、やっぱあれだね、俺みたいなスケールの小さい人間の場合さ、学校行く前から「アルファブロガー・アワードノミネートされた人がニューヨークコミュニティーカレッジに行くんだ」って全てを「アルファブロガーアワードノミネートされた人が」っていう風に考えてたからね。「アルファブロガーアワードノミネートされた人が水を飲んでいる」とか、授業の合間とかも「アルファブロガーアワードノミネートされた人が嬉しさのあまり、ジェフミルズのChange of Lifeを鼻歌で歌っている」とかね、思うにジュリアナ東京を肯定するためには、ジュリアナ系でかかってた曲の全てはChange of Lifeだったって思えばいいんだなって思った。あとDJ Camがハゲているのは、同じような曲作りをしすぎだからということも分かったね。もうさ、あのなんかラップの一部分を「キュッ」って一回コスった後、リリースして丸々ぶち込むって手法やりすぎだよね。いい加減変えたらどうなんだろう?って思っちゃう。あれはやっぱあれだよ、DJのジレンマよ。ジャズが好きでも譜面書けないみたいな、どっかから取ってくるしかないみたいな、ようはコスるしかないんだよなぁーっていうDJのジレンマよ。あのさ、ブルーノートリミックスのやつさ、ジャザノヴァとかありえないぐらいいい仕事してるけど、DJ精液のはヒドいよね。すげーやる気ない。っつーかレコードで持ってるんだけど、あれ聞いてるとき「あ、笑点だ。飛ばそう」っつって飛ばしてるのね。なんで笑点かっていうと、やる気なさげに鳴ってるワウのかかったミュートトランペットの音が笑点のオープニングテーマみたいだから。みたいだからって終わるの良くない?みたいだからなんだよね、じゃなくてみたいだから。なんか山ちゃんの嫁っぽい感じでいいよね。頭が良くない感じが。まぁーね、実際はURLを載せないことにしますって書いたのが昨日で、それからを今、書いてるんだけど、なんか疲れちゃってさ、恥知らずが腫れてるんだよね。基本的に週末になってくるともう疲れちゃう。体力ないよなぁー。仕事してから学校来てる人なんていっぱいいるのに俺は学校だけで疲れてる。しかもそんな別に一日何十時間って占領されてるわけでもないのに疲れちゃう。今日の出来事で書くこともいっぱいあるんだけど、明日だな。今日は寝かせてくれ。あーちょっとサービス過剰過ぎるかしら。選挙期間中っていう意識がなかなか取れないなぁー。っつーか何気にアクセス数がすげー気になってるんだよねっつって見てみたら明らかに増えててさ、予想以上に増えてたからちょっと不気味なんだけど、増えてるからこそあえて普段のウォール伝でいかないとなって思った。最近、ちょっと良いこと言いすぎてるでしょ?なんか「おおー!良いこと言うなぁー」っていうような感じのが多い。別に意識して書いてるわけじゃないんだけど、あんまらしくないなぁーとか思ったね。たまにはズリネタのことだけで一回分書くとかさ、そういうのも無いとダメだよね。リーディングクラスで一人、可愛い子がいるんだけど、プエルトリコからの移民なんで勝手に「プエルトリ子」ってあだ名つけてるんだけどね。頭の中で。「あ、プエルトリ子来た」みたいな。俺って相当いろんな人のあだ名を頭の中だけで作ってるよ。前にも書いたけど、こっちに来てからさ、特にロードアイランドからマンハッタンの英語学校に至るまで、凄まじい数のお笑い芸人似のやつがいたからね。ゴリ・川ちゃん・ますだおかだのますだ・おぎやはぎのおぎ・創価久本・あと芸人じゃないけどエロサイトバナーで見かける不細工なPermalink |記事への反応(0) |              18:53

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