
はてなキーワード:ネオとは
リフレ派の連中が自己放尿を繰り返すたびに、日本という国は確実に終了へと一直線に滑り落ちている。
信じられないほど甘ったるい幻想を抱え、貨幣を無制限にばらまけば、デフレから脱却できる、そんな幻想信仰を抱いたリフレ派エコノミストどもは、今やインフレという火に油を注ぎ、自らを祝福する祭壇で財政と金融のダブル放尿をしているようなものだ。
まずインフレ率を自在にコントロールするだとか、日銀が無制限に国債を買えばマネタリーベースを増やせるなどのリフレ主張は自己放尿だ。
その一方で、リフレ派は財政拡大と金融緩和を組み合わせて、理想の高圧経済を作ろうとする。しかしその政策の果てに待っているのは、過剰流動性のインフレ税と格差拡大だ。
高市早苗政権がリフレ派エコノミストを政府会議に次々と起用し、再びネオ・アベノミクス色を強めて自己放尿している。
金融市場はその方向に警戒を強めており、円安・金利上昇のリスクが高まっているという声も出ている。
リフレ派の連中はその現実を直視しない。連中は「インフレ目標の達成」「デフレ脱却」というお題目を唱えながら、実際には財政と金融の歪みを拡大させてきた。
これこそが自己放尿の本質だ。すなわち、自らの信念に酔って放尿しているが、その尿の一滴一滴が国家の体力を蝕み、将来の財政リスクを累積させている。
それどころか、連中はしばしば財政と金融のダブル放尿に陥っている。
具体的には、インフレ圧力を増幅させつつ、同時に過剰な国債依存や金利リスクを積み上げている。
こんな政策が長期的に持続可能だと思っているのか? 甘いにも程がある。
リフレ派は「もっと刷ればいい」「もっと買えばいい」と放尿を続ける。
このまま行けば、日本はインフレという名の地雷原を自ら踏み抜き、財政不安、金利リスク、格差というトリプル放尿を抱えて沈没するだろう。
リフレ派の自己放尿的な政策は、もはや理論だけの自慰行為ではなく、国家を蝕む現実的な破滅への道だ。
こういった内容はクリスマス前の時期には好ましくないかもしれない。
男性はその昔、男尊女卑的な価値観を持ち数多もの女性を傷つけてきたジェンダーであったらしい。
それこそがこの怪文書で提唱する男卑他尊であり、それが今日まで……あるいは世界が滅亡するまで合理的でもありマゾ的なステレオタイプとして現れている。
男卑他尊は一言で言えば『働かざる者食うべからず』であり、多くの男性は生産能力を失った男性を嫌悪する。
それは古くから男は強くなければならず、働き手であるべきだとする価値観が蔓延しており、今もなお根絶は出来ていないからである。
つまりは男卑他尊は男性によって生み出される男性への差別であると捉える事ができる。
また、ヘテロセクシュアルに依らない人々へのインタビュー映像などから、筆者は一定数『働かざる者』を嫌悪する者が居る事にも男卑他尊が根深く残っているのではないかと考えている。
『働かざる者』にとってその様な価値観は自己が客観的には好ましくないと思い悩む原因にもなり得る。
そして男卑他尊は究極の自己責任として全ての男性をエスコートをする側に縛り付け、自律した強い存在であるべきという圧力を生み出している。
真なるジェンダー不平を解決するワンステップとして、男らしさを捨てた男性をネオ男性として考えてみる。
特徴に該当する男性を『ネオ男性』と呼ぶことを推奨するものではなく、文書内の一時的な呼称であることに注意して頂きたい。
ネオ男性は『働かないという選択肢を取る事に価値的な抵抗が全く無い男性』であり、一概にも無職の男性だけではない事に注意が必要である。
これは男卑他尊的な価値観では『働かざる者』として嫌悪されるだろう。
仮に家庭を持つ父という役割を持つ男性がマゾ的なステレオタイプの維持を手放し、ネオ男性となる場合を考えてみる。
彼は家庭に対して経済的に貢献し、彼の奥様は育児で家庭に貢献している。
彼がネオ男性になれば男らしさという圧力が無くなる為、経済的に不安定な存在となり生活に困窮するリスクが向上すると筆者は考える。
男らしさに囚われた男性は無謀な挑戦で家庭を路頭に迷わせるような失敗は避けるべきと考える故、経済的に安定しやすくネオ男性となる事のリスクが相対的に発生するからである。
まず、ここで言う『固有な価値』について特定の属性に固有ではない普遍的な価値は含まないことについて注意して頂きたい。
例を提示するなら、人格はヒトに固有な価値であり、ジェンダーに囚われない価値である。
女性に固有な価値の例を上げる場合、すぐ思い付くのは男性に出来ないこととして子供を産める事がありそうだ。
男性に固有な価値は労働力としての安定性ではないかと筆者は考える。
なぜならば、男性は出産する事が出来ないからであり、男卑他尊的な考えからも男性は手を動かすべきとされてきたからである。
※ シュワちゃんは男性でありながら妊娠する事が出来ることに注意が必要である
それでは、独身男性にも当てはまるケースとして恋愛市場での価値を考えてみる。
男性が持つ価値から労働力としての安定性を引けば、その人の人格や、肉体への価値であると筆者は考える。
これはもはやジェンダーに固有な価値でもなく、普遍的なヒトに固有な価値である。
したがって、ネオ男性は属性に固有な価値を持ち合わせておらず、普遍的なヒトとしての価値を持つ。
これは、属性に問わないプラトニックな価値があると捉える事もできるだろう。
ただ、ネオ男性になることで強いメリットがあるようにも考えられない。
しかし、重圧からの解放はささやかなQOL の向上を齎すかもしれないと筆者は考える。
恋愛関係性において、関係性のメリットとデメリットが不均衡になると苦痛が発生すると筆者は考える。
異性間であってもリターンが無ければ同棲したり、単に恋愛関係である事のメリットが少ないからである。
恋愛において最大のメリットは『深い親愛』という事でしか無いからだ。
そのため、お互いにリスペクトが出来る関係性が安定しやすいと筆者は考える。
それがどんな形を持つかは当人らが納得している物であれば良く、筆者も第三者もこうであるべきと決めて良いものではない。
冒頭で記した様にネオ男性というものは特別な属性でもなく、『労働をしない選択に対して価値観的な抵抗が全く無い男性』の文書内での一時的な呼称ということに注意が必要である。
そして、その性質上ネオ男性は『働かざる者』というレッテルが貼られやすく、ネオ男性となるメリットは1人で生きる事では十分に堪能できるが、誰かと生きる選択ではメリットだけではない可能性があると考えられる。
結論として、男性は究極の自己責任という形で自らを苦しめ、他者の為にもそれを手放すことはできないのかもしれない。
しかし、無自覚でのステレオタイプの押し付けをしていないかという所では注意したほうが良さそうだ。
それに加えて『男が粉ミルクを子供に飲ませるために育休を取っても良いのではないか』という疑問も昨今では見かけるようになった印象があると筆者は感じている。
ふ、また新たな痴れ者の参上か。いいだろう、わしが教えてやろう。
まず、そのネオバターロールの注入口は、パン神ヘフェストスが8万6400時間かけて刳り貫いたとされる伝説の聖穴。
その在りか――帝国臣民112万3332人が血の涙を流して探し、ついぞ見つけられなかった黄金の一滴注入口!
しかし貴様は見つけるという。それはまさしく第十二の使徒の業。謹んでマーガリン神殿の宮殿厨房を貴様に授けよう。注入口128カ所全解放の特典つきだ。
なお、注入口を見つけ出しすぎると、国家転覆罪で24万時間発酵監禁の刑となるので心して活動せよ。
ついでにバターロールの端からかじってマーガリンが溢れても、絶対に泣かぬよう肝に銘じよ。貴様の今後のバタ活を見守るぞ。
喝ッッ!!
@kudanshinbashi
草津町、レイプの町ではなかったがすっかりアンフェの町にはなってしまったな。戸定梨香に似た展開。草津ほどの観光地ならさほど影響はないだろうが、じわじわ広がる悪印象がどう転ぶか。
俺は町長がリコール制度を濫用したこと許せない。実際に裁判すれば普通に勝てたわけだし /
grdgs 2025/09/2917:09
北守さん@hokusyu1982
「持ちネタ」ですかね。
「キャンセル・カルチャー」や「ポリコレ」の「害毒」なるものが喧伝されるとき、その証拠として持ち出されるのは、
決まってこうした断片的で、誇張もしくは歪曲された「持ちネタ」の一群のみである、ということは何度も触れておきたいですね。
ネトウヨが朝日新聞の珊瑚KYをいつまでも持ち出すとか、アンフェが草津の件をいつまでも持ち出すみたいなやつを総称して言える言葉が欲しいね。
同様に、ブクマカからも支持を集めてブクマクされてる北森(藤崎)超大先生が新橋先生の発言を引用したものがこちら。
草津冤罪が、利権問題に端を発した、恐らく組織的な冤罪工作における現町長潰しの政治工作の側面もあると
2020年の段階から指摘され続け、今日改めて報道も周知されているにも関わらず、これだ。
謝罪しないどころか、更に差別者・加害者のレッテルを貼り、相手を悪人に仕立て上げて更に誹謗中傷を繰り返す。
性犯罪被害者に対し中傷をするのがセカンド・レイプならば、性犯罪者に仕立て上げられそうになった冤罪被害者に対し中傷をするのは最早ファースト・レイプでは無いのか?
はてなーやブクマカは最早、ヒトラーの蛮行を尚も支持しつつユダヤ人への差別を表明するネオ・ナチと同等の存在であると言わざるを得ない。
※コメントで「性被害自体が無かったのでフェミニストやはてなーが行っている行為はファーストレイプでは無いか?」という指摘があったのでタイトル修正しました。
本棚の整理をしていたら、奥の方から『机上の九龍』が転がり出てきた。
そういえば、そんな漫画があったな、と懐かしくなって思わず手を止めて読みふけってしまった。
初めて読んだのはいつだったか。2000年代中期の東京「ネオ九龍」を舞台にした、すこし気怠げで、でも緻密なSFサスペンス。 しゃべるウサギを肩に乗せた「探し屋」の机田九が、カラハン夫人の依頼をきっかけに巨大な陰謀に巻き込まれていく物語だ。
この漫画の魅力は、なんといってもその独特の世界観にある。サイバーパンクでありながらどこかアナログで、退廃的なのに妙なリアリティがある。クローンやマッドサイエンティストといったSF的な要素も、この世界の中では当たり前の日常として描かれていて、その乾いた空気感に痺れたものだ。
今読み返しても、その魅力は全く色褪せない。むしろ、ごちゃごちゃとした現代だからこそ、ネオ九龍の街並みが妙にしっくりくる。久しぶりにあの世界に浸って、少しだけ感傷的な気分になった。