
はてなキーワード:トヨタとは
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成が必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果の連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。
この問いを突き詰めると、思考は歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパのトリレンマ」だ。すなわち、無限後退(根拠の根拠を無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断(理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。
この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である「独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的な選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのである。しかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性を保証する、唯一のアンカーが存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。
ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効な思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である。
第二に、「推論規則」の集合。
第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能性である。
このフレームワークこそが、我々の思考の妥当性を測る、唯一の物差しとなる。
さて、序論で確立したこのフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決や意思決定を継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効に機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場の意思決定は、無限後退、循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的に機能し、存続しうるだろうか?答えは否である。
したがって、ある現場が「機能している」という事実そのものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的に存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。
まず 「基本命題群」 。これは、現場が機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場の歴史、すなわち過去の成功と失敗という「現実モデル」から導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。
次に「推論規則群」。これは、基本命題から日々の行動を導き出すための、思考操作のパターンだ。有限のリソースで無限の問題に対処するために、この規則は効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考のショートカット(ヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人の内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄で非生産的な犯人探しという思考のループから脱出するために獲得した、最も重要な論理的安全装置なのである。
「現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在を否定することは、自らの職場が合理的な意思決定能力を欠いた、無秩序な集合体であると認めることと同義である。
この、それぞれの現場で固有に発達したOS(現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステムで有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。
「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊なOSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルールを機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則を必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊な雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。
我々のような、全く異なる歴史と構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす基本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来のルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身のルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者の意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。
これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ。
ここまでが、論理的に導出される客観的な分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイングを模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶を特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである。
君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から、自分たちのスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものだからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻からの脱出方法を考えているに等しい。
君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システムの免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。
せいぜい、幸運を祈るよ。
追記:
起きたらコメント沢山ついてびっくりした
ちなみに俺は44歳小太りのおっさんです
子供生まれてから急に始まったんだけど、妻が何かとお金を節約するようになった
節約というか、とにかく何でもかんでも安く済ませたがる
ちなみに俺が自営業でそこそこ稼ぎあるから別にいいかってことで、妻は働いてない その代わり日中の家事と子どもの世話をやってくれてる
昨日の夜も風呂上がりに食べるアイスのことで口論になった 本当に馬鹿馬鹿しい話だけど、それで本当に真面目な口論になった
家から車で5分くらいの距離にシャトレーゼがあって、妻がいつもそこでアイス買ってくるんだけど
俺は最近それに飽きてて
たまには違うの食べようって思って、昨日帰り道にセブンでアイス買ったんだ、3つ 俺と妻と子供の分
まあ連絡なしに買ってきた俺が悪いかなと思い謝ったら、「あなたはいつも私の努力を無駄にする」みたいなことですごい怒られてしまって
これを、バーっといっぺんに指摘されて
「いやそれでお金困ってないんだから別にいいじゃん、俺はそうやって普段楽するために仕事頑張ってるよ」って
そしたらお互いどんどんヒートアップしちゃって
終いにはこんな分譲なんか要らなかった、子どもも公立の学校でよかったとかヤケクソで言い始めたから
もういいよ寝るわってイライラしたまま寝た
勿論そのあたりは妻の本心じゃないって分かってる ムキになって言ってしまっただけだと思うから
朝早くに俺だけ起きて仕事に出てきたんだけど、まだモヤモヤする
以前から同じようなことで何度も喧嘩したことがあって、またかという気持ち
お互い次の日になったら機嫌直るタイプだから、多分今回もふんわり仲直りするとは思う
でもいつもなんで怒ってるのか理解できない 成金みたいな金の使い方はしてないし、収入に応じた生活をしてると思う
贅沢してるとは言っても俺が金を使うことは殆どない
それこそ、飲みに行ったときにタクシー乗るとか、仕事中にラーメン食うとかそのぐらい
お金の管理は全て妻に任せてるし、それを不満に思ったことは一度もない
ただ妻に任せると全部安く済ませようとするから、たまに「もうちょい高いのにしてもいいんじゃない?」なんて伝えたりしてる
妻が稼いだお金ではないからなんとなく引け目があるのかなーとは思う というかこれが全てな気がする
そんなもん気にしなくていいんだから堂々と使ってくれと思うんだけど
金銭感覚の違いって難しいな
返事するとは書いたけどコメント多すぎて全然やる気が起きん、すまん
子どものお金とか老後のお金とか沢山いるんじゃないの?ってのは本当にそうだ
あればあるだけいいと思うし、そこに向かって貯められればと思う
ただ、妻が指摘したことについては
こんなに稼いでるのにそんな細かい節約しないと駄目?って疑問の方が強い
俺も妻も団地育ちの貧乏な出身だから、金に関してナイーブなところはある
でも毎年何千万のレベルで稼いでやっと裕福と言えるところまで来たのに、まだ団地住まいの生活すんの?って
もうそうやって数百円の金ケチる段階は過ぎたんじゃない?って思うのね
書かなかったけど分譲はキャッシュで買ってる
毎月数十万〜数百万で貯金もできてる 税金も不足無く納めてる 車はトヨタの新車乗ってる、腕時計もお互い一本ずつだけどいいのを持ってる
裕福な暮らしってのがどんなもんなのか分からんけど多分こんなもんだろう!とは思う
現場仕事だから何かあると怖いし、俺がいなくても生きていけるようにと思って別の貯金も置いてある
あと、妻には毎月小遣い渡してる もう10年くらいずっとそう
金額は濁すけど
俺はと言うと約2ヶ月に1回、数万円をメインの口座から下ろして昼飯代とかにしてる
これも妻に毎回伝えてる 俺が使うお金といえばそれくらい
服とかは年に数着しか買わないしそれも妻が買ってきてくれるやつだし
その年イチペースのイベントの帰り道に1500円でタクシー乗った、ってことに贅沢って言うのは、もうズレてんじゃない?って思うんだ
ここに書いたようなことを全部妻に伝えようと思う、近日中に
FP入れて話しようとかそういうのも含めて
お互いたまには真面目な話をした方がいいだろうし
あと、
「FXで金全部溶かしてるんじゃね」ってコメントもどこかにあったかなww
そうか、そらよくないな、気をつけてくれよって言って、また仕事すると思う
まあ妻はそんなことするような人じゃないけど
でもそれぐらい妻には愛着と親しみがある 普段優しい人柄だしな
だから気楽にお金使ってくれていいし、どーんと構えてくれていいのになって思うよ
Permalink |記事への反応(28) | 14:39
まず、金融政策は政府の責任って発言から、日銀に利上げさせないつもり満々。
低金利で資金調達できる状況が続くから、設備投資の拡大で金回りはよくなるだろう。
金がダブつくから日経平均5万円、6万円が射程に入る。タワマン10億円時代になるかも。
全てのモノの値段が上がるってことは円の価値が下がるってことだから円安に振れる可能性が高い。
国の借金はお父さんがお母さんに借りてるようなもんだからいくらあっても問題ないって信じてるみたいだから、公共事業はばっかばっかやる。
政府債務が増えるけど、いいんじゃねーの?任期中はそれで困んないとと思う。
大変なのは利上げしたときで、株価爆下げ、不動産価格爆下げ、そんとき政府債務が膨らんでると国債の利払いだけでジエンドしかねない状況になる。
台湾有事とかアメリカのAIバブルの崩壊とかとタイミングが被るとさらにまずい。
移民政策に消極的だけど、あと5年くらいは大きな問題にはならない。東京は地方から若者を吸い上げれば耐えられる。
地方は、うーん、トヨタの工場さえ稼働すりゃいいんでねーの?知らんけど。
あと5年もない労働者不足対策の猶予期間になんもしねーんだから、後任はかわいそうだと思うけど。
鹿なんか害獣なんだけど、労働者不足なんかより鹿の保護が大事なんだろ?任期中は労働者不足の対策は進まないと思う。
独特の歴史観でいろいろ揉めそうだけど、どうせ少数与党だから大きく出られないし、いいんじゃねーの?
進次郎だったら維新と国民民主にすり寄ってただろうけど、高市だったら保守党か参政党に一部折れたりするんじゃないかな。
口じゃ勇ましいけど、口だけだよ。
攘夷攘夷騒いでたやつらが新政府に入ったら外国頼みになったのと同じ。
国会議員票で苦しんだのでわかる通り、味方が少ないから戦った進次郎やその推薦人もそこそこ要職につけると思う。