
はてなキーワード:ディストピアとは
1.サイバー(Cyber)
「サイバー」という言葉は、サイバーパンクやデジタル技術、人工知能(AI)など、テクノロジーや未来的な要素に関連しています。サイバーパンクは、1980年代から人気を集めたサブカルチャーで、テクノロジーが進化した未来のディストピア社会を描くことが多いジャンルです。サイバー美少女というキャラクターは、テクノロジーと美少女の要素を組み合わせたキャラクターで、しばしば未来的な武装やAI、ロボティクス、バーチャルリアルな世界に住むキャラクターを意味します。
2.美少女(Bishoujo)
「美少女」とは、魅力的で可愛らしい少女キャラクターを指し、特にアニメやマンガ、ゲームなどの日本のポップカルチャーにおいて使われる言葉です。美少女キャラクターは、しばしば強い個性や特別な能力を持ち、物語の中で重要な役割を果たします。
3.テロメア(Telomere)
「テロメア」は先に説明したように、染色体の末端にある構造で、細胞の寿命に関わる重要な役割を果たしています。テロメアの長さは細胞の寿命と関連しており、短縮すると細胞分裂ができなくなるため、老化や病気に関連しています。この概念をキャラクターやストーリーに組み込むことで、永遠の命、不老不死、あるいは生命の儚さといったテーマを探求することができるでしょう。
この名前が持つ意味を組み合わせると、「サイバー美少女テロメア」は以下のような意味合いを持っていると考えられます:
•サイバー美少女:未来的なテクノロジーやサイバースペース、またはAI技術を駆使して戦う美少女キャラクター。例えば、サイボーグやAIによって強化された美少女戦士のような存在かもしれません。サイバー空間やバーチャルな世界で戦うキャラクターが描かれる可能性もあります。
•テロメア:テロメアは「寿命」や「永遠」と関連しているため、このキャラクターが不老不死や時間を超越する存在である可能性が高いです。サイバー美少女がテロメア技術(またはテロメアに関連した遺伝子工学)を使って不老不死や永遠の命を持っているか、あるいはその寿命が科学的に操られているテーマを持つキャラクターである可能性があります。
可能な設定の例
•サイバー美少女テロメアは、高度な遺伝子工学やAI技術により不老不死の存在となった美少女キャラクターで、時間と生命に関する秘密を握っているかもしれません。彼女は未来の世界で、テクノロジーの暴走や倫理的問題に立ち向かう役割を果たすことになります。
• また、サイバーパンク的なディストピア世界で、テロメア技術が重要な役割を果たし、テロメアの長さが命を決定づけるため、テロメアをコントロールすることが権力を握ることに繋がるというようなストーリーも考えられます。
このようなキャラクター設定では、生命や時間に対する深い哲学的な問いや、テクノロジーがもたらす倫理的問題をテーマにすることができるかもしれません。
ああやって、騙したナチスより、騙されたドイツ人を叩けと喚く連中の心理は、被害者意識から、騙された一般人も皆殺しにしたいと思ってる叩かれた側か、そうでなければ、誤信念を強化して扇動したい奴らだ。
連中が、ああいう対立煽りを扇動するのは、そういう対立を扇動される人間というのは、現状への不満が鬱積しているからである。
要するに、どんな搾取や支配を受けても、一切文句言わない奴隷みたいな人間以外、対立を煽って、煽られた者同士を排除したいわけだ。
ナチスに扇動された連中と言うのは、そうした被害者意識のために、実際に虐殺や拷問に手をかけるような奴らだったわけだが、今日本で扇動されている人間は違う。
というか、虐殺や拷問を平気でやる屑に限って、高い地位をやって量産してるわけで、もちろん、虐殺や拷問を連中が忌避しているわけではない。
ただ、自分ら権力者に都合よく手を汚してくれるクズと、そうじゃなく、格差や差別に抗議して攻撃的になる普通の人を分けて、後者を抹殺し、前者を飼いたいだけなのだ。
そうした工作の結果、現実がどうなったかと言うと、ニューヨークでは、白昼堂々街中でレイプしても誰も止めに入らないどころか、通報さえしないし、日本でも、新幹線の車内で包丁で脅してレイプしても、誰も止めに入らなかった。
こうした止めに入らない人間には二種類いて、本当は止めたいけど怖い人と、女なんてレイプされてても、本当はどうでも良い無関心な人間である。
連中が、「ネットで批判している奴らは卑怯者!」「正義感の暴走がー!」と喚くのは、本当は、「俺ら権力レイプ魔を叩くな! 表立って抗議する奴らは皆殺しにしたけど、陰で批判する奴らも消し去ってやる!」「レイプ犯を批判する奴らは正義感の暴走がー!」と言いたいわけだ。
こんな奴らがフェミぶって、本当の性犯罪以外の性行為を糾弾し、表現規制までしようとしている屑どもの正体なのである。
アメリカの場合は、心理学者によって、「アメリカ人は、他の人が通報すると思って通報しなかったんだ!」という擁護をさせているが、最近では通報しないどころか、レイプで糾弾された政治家を大統領にまでして、実際にレイプを訴えた女は、それがマスゴミの権力を背景にしない限り、セカンドレイプしまくって集団リンチしている。
そして何故か心理学者どもは、日本人の場合には、そんな擁護一切してないのだ。
レイプに無関心か、それ以上に与する人間は擁護するけど、本当はムカつくけど止める度胸がない人間は糾弾したいからだ。
今のアメリカ人には、自分さえ良ければ良いだけの人間と、一切他人を糾弾しない奴隷人間の二種類しかいないのである。
しかし、自分らが被害を受ければデモや革命を起こすのは前者だけで、後者は、家族や知人が犠牲になろうが、抗議さえしない。
もちろん、後者が、ネットで批判なんて書き込むわけもないのだ。
青識やら立花に騙された人たちと言うのは、ただ、ネットで不満を吐露していただけの人たちであり、彼らを排除した未来にあるのは、何をしても誰も不満を代弁してくれないディストピアだけだ。
そして、今の日本が正にそうで、ネットでも、マスゴミ工作員の明らかにおかしいヘイト逸らしだけがあって、それへの反論は誰もしない。
ただ、どんな不満が蓄積しても、やり玉に挙げられるのは、連中が内心で排除したい相手だけであり、本当の不満の根源が取り除かれることは一切なくなるだろう。
その現状に、少しでも不満を吐露したり、抗議したりした奴らが、より強く発言したり行動した順に排除されていく。
デモする人間を排除したら、次は、ネットで不満を書き込みしただけの人間が排除されるのである。
その次は、知り合いに不満を語っただけの人が排除され、更には、メモ帳に不満を綴っただけの人間が排除されるだろう。
単純な話、ソ連はいきなり密告システムなんて作ったから失敗したわけで、こうやって、行動した奴らから順番に排除していけば、本当の密告システムが作られ、それを覆すことはもはや不可能になる。
そうして、誰も不満を口にできない状態になったら、今度は、少しでも仕事の手を抜いたり、控えめなボイコットを行った人間が排除される。
どんな凄まじいブラック企業でも、一切休みなく働く奴隷以外は排除対象にされるわけだ。
そして最後は、連中にレイプされたり、気まぐれに暴力をふるわれ殺されることに、訴えたり抗議した人間が排除される。
まあそうなったら、次の連中にとっての不安材料は、連中と同じ権力を持っている奴ら同士になるだけだろうが。
そうなったら、唯一の絶対権力を握った一人の人間以外は、奴隷以外すべて排除されるだろう。
そして、技術が完全に局地に達した暁には、奴隷人間さえ邪魔になるのである。
単純な話、連中は、底辺の中から不満を吐露した人間を排除するより、権力者の中から不満たらたら、利己的に世界を改変する気満々の奴らから排除しないと、次は我が身だ。
🤔ちょっと待て、そうなった社会っていわゆる「マザーコンピュータ(あるいはビッグ・ブラザー)が支配するディストピア」だ!って紛糾・反発される例のやつじゃないの?
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー):AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー):AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
NextStep: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(SteadyState)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENTISWAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性:はい、極めて困難です。理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在:しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
NextStep: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義:人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 →人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義:人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 →人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
当然そのアニメはとうに終わっていて今は放送されてないが、ビッグIPのシリーズもの且つ久々のヒット作ということもあり、ファン層は国内外と非常に多くその時は繋がりを作るのが楽しくて仕方なかった。
自分は絵は描けないので、ちょっとした小説や考察やファンツイートを投下していた。そこから片思い的にお気に入りしていた絵師さんにフォロバしてもらえた時などは嬉しさは頂点だった。
オフで会った人も居るし、作品の話から雑談までいろんな人とリプのやり取りをした。
人間なのでプライベートな日記や愚痴のような内容もつぶやかれるが、それにもいいねを送り合い案じるリプなんかもしたりして、お互いにかなりパーソナルな情報を開示しあっていた。
◯◯さんは関西を拠点にしてるんだ。◎◎さんはエンジニアなんだなすごいな。△△さん、夜勤いつもお疲れ様です。なんて。共通の作品ファンを超えた友人のようにも感じられていた。
そこまでは幸せだった。
だが、いくら大好きで大好きで仕方ない作品とキャラクターと言えど、3年以上経てばさすがに当該作品の話題もつきかける。たまには出来るが毎日は苦しい。でもフォロワーは毎日毎日そのキャラ愛で盛り上がれる。尊敬する。
それでも3年間の絡みを通じてお互いの好きなものとか考え方とかオススメアニメ等に多少なりとも関心は持ってもらえているはずで。そこも含めてお互い受け入れ合ってるものと思っていたけど。
今のアニメ映画の感想や近況日記つぶやきをしても、今は誰も反応してくれなくなった。まるで自分がフォロワーほぼ全員からミュートされてるようにだ。
ガチめに深刻な病気の快癒を報告しても交流があると思ってた人のほとんど反応してくれない。
でも同じタイミングで他のフォロワーが「今から夜勤です」と言えば、自分にレスをくれなかった共通のフォロワーが5分以内に「いってらっしゃい」レスを複数してるのを目の当たりにしてしまってつらい。
自分から声をかけても、リプにいいねされるだけで言葉で返信が来ない。そのいいねは「既読したよ」の印でしかなく、状況的には完全に「既読スルー」ってやつだ。
またTL上で某ソシャゲ(非共闘)のフレンドを募集したけれど、その互いにリプを送っていた相手の1人からTwitterでリムーブされていたことを最近知って追い打ちのように凹んだ。ソシャゲで繋がってる相手をリムるって中々やりづらくないか?もう惰性や適当ではなく明確な意思力を持って私を切断していたことになる。
一体どうしてこうなってしまったのか。ゆるいけれど共通のネット友人のような繋がりがあったはずなのに。
自省して考えたら、いくつかの心当たりが浮上した。
作品の性質上、リベラルも高齢保守も集まりやすくTLにも散見されたけれど、その両方から嫌われるツイートをどこかでしていたのかも知れない。
例えば今の自分の立場は高市政権に批判的だが、TLにはそこそこ高市ファンや小野田ファンがいた気がする。居住地に外国人が急増したことから排外主義に賛成の構えを示す人もいたけど、私自身はそれで付き合いを止める気にはなれなかった。
かと言って自分はリベラルなのかというとそうでもないと思う。例えばトランス女性なる概念にはずっと懐疑的だ。オリンピックの格闘技や筋肉競技で割り込んでくるのは普通に不正だと思うし、
知人にも1人居たがどうも女風呂・女性更衣室・女子校・女子トイレといったプライバシー空間に未手術の男体を割り込ませることが至上目的化している気がしてならず、私は女性であるが一言も発さず説明もなく人の背後に張り付いて公共女子トイレに潜入しようとしていた様は異様で怖かった。
言い出しにくかったがそれを指摘したら「我々トランス女性に対する理解が足りないので勉強する必要がある」などと悪びれずに放言された時は(どこにでもいる女への共感性がしんでる典型的マウント中年男性やんけ)としか思えなかった。
しかし、TLにいるリベラルアカウントは男性が多いせいかトランスヘイターを蛇蝎の如く憎悪軽蔑している。こんな体験談を吐こうものなら即ブロされて人格否定の呪詛吐かれまくるのは目に見えている。
そんな感じで居心地悪くしていたけれど、向こうにもなんかそれが伝わってお互い気まずくなってた気がする。
でも一番の誤算は多分私の勘違いだ。インターネット老人会に片足突っ込むTwitter黎明期世代なので、Twitterにまだ「ネットの自由な言論空間」が生きていると思い込んでたのだ。
元々考察や考えることが好きだから、アニメに対してもオタクに対しても、批判や憤りも含めて言語化しまくっていた。批判やディスは多かったけど、決して個人の私怨ではなく独立した読み物として堪えるような普遍的な着眼点や面白さがあったと思う(自画自賛)。
そして批判であっても賞賛であってもそれだけで人格をジャッジされることなく、スタンスが違っても傾聴しあう空気が黎明期のユーザー間にはあったような気がして、なんとなくそれがずっと続くと思ってたのだ。
でも今のTwitterは一般化しすぎて世間の延長になった。テキストサイトでは許されるネガ長文評論もリアルで言えば白い目で見られるように、評論や考察自体が受け入れられなくなってきた。全肯定しか許さぬ圧を感じる。
一昔前のオタク像は正でも負でも考察ごとが大好きだったと認識していたのだが、反知性主義が猛烈な勢いで蔓延していて今や考察というだけで嘲笑や揶揄の対象にされるレベル。
ファンコミュニティの間でもそれは例外でなくなってきたというか、頭を使わず金だけ使う『推し活』が一番の愛だという風潮は自分にとっては居場所を失ったようで生きづらい。
さりとて一見話の合いそうな言論発信系クラスタと相互フォロワーになってみても、かの人達は自分の放つ政治的トークをRTしたりするだけで、私個人の日常事には一切関心を持ってくれない。
私がSNSで一番欲する友達みたいな互いのパーソナリティに関心を持って仲良く絡む性質はゆるいファン界隈の中しか確認できなかった。しかしその界隈から見た自分は、多分お硬くて目障りな人格で同調圧力から外れた自分達とは違うノイズのような存在なのだ。
はっきり言ってSNSで幸せな繋がりを持っていたい。都合の良いことを願うなら、個の人格と作品トークをある程度別個に切り離してくれて、人格を認めてくれる気軽に絡み合える相手と。
でも今はネットSNSの性質や空気感が変わってきていてそれは難しい。でも小難しいことは捨てて推し活だけして作品評とかもみんなが言うことをみんなが言うままに言う同調第一の振る舞いをしろというのも息苦しい。
願いは全て叶えられないなら、割り切って同じ人間にならなきゃいけないんだろうか。でもそれはリアルでずっと感じていた生きづらさであり、ネットでさえもそれに縛られるというのもディストピアだなぁ。
最初に言うが、これは書き捨てだ。誰がなに言おうが反応する気は無い。ただの愚痴だ。
自分はオタクで義務教育でやった憲法の基本的人権の尊重とかなんかそういうのくらいしかわからん。政治はよく知らん。右も左もどうでもいい。
オタクにありがち自由と人権の尊重と民主主義は大事じゃないかと思ってるくらいだ。経済?難しいからよくわかんね。必要なら考えるけど。この国に戦争なんて好んでしたい奴そんないるはずねえだろ。いいことないし。
サブカルは好きだがサブカルクソオタクどもは平気で嘘つくし反体制とかいう権力の犬だから嫌いだ。
米だろうが露中だろうがポチは嫌いだ。実際喧嘩になるまではどっちにも中指突っ立てて「喧嘩なんてしてんじゃねえ」「おっぱじめたら殴るからな」くらいは言っていいだろ。俺は今の基本的に対話で解決しようって国際秩序を気に入ってんだよ。北斗の拳のモヒカンみたいなチンピラに好き勝手させてたまるか。
だから本当だったら、自由主義とか個人主義の考え方に近い「リベラル」なんだろう、本当ならな。
今ネット上に溢れてる自称リベラルの反体制だか反自民だか反日だかなんだかの権力の狗どもはなんなんだ。
お前達は自由も人権も自己決定権もぶん投げて、武力という力の狗になってろと言うがそんなもん「リベラル」じゃねえだろ。
しかもお前ら、ガザ連帯!人道がどうのとか威勢良く言いながらウクライナには静かだしチベットウィグル無視するし、あげく今度は台湾見捨てろだ?
ああ、そうかいそうかい。反日反米さえできればどうでも良くて、弱者の事なんかなにも考えてなかったし、人権も人道も民主主義もなにもかもただの立て看板の捨てていいお飾りでしかなかったんだな。
それならそれで「リベラル」なんて皮被ってねえで「世界は絶対正義の東側軍事大国たる中露他に屈して平伏していろ雑魚どもが!」くらい開き直れってんだよ。
左派てめえらも同じだ。
大体にして貴様らいい加減「フィクションの悪役みたいなド悪党所業やりまくってんのは米より中露」ってことくらいまず現実として認識しろ。
右翼は悪だと思ってるから「高市は軍事国家回帰して大日本帝国やりたい悪だ!」と思ってるっぽいがな、まずその前提が俺らみたいな大衆にゃ宗教だ。
ナチスドイツや大日本帝国の再現みたいなことしてんのは、中露北朝鮮だろ。
確かに米もいけすかねえジャイアンだがな、今はどう考えたって東側諸国の方が絵に描いたような悪党なんだよ。
ついでに戦争になる、日本の右翼は喧嘩吹っ掛けたいはずだってなにをそんな頑なに信じてんの? 終末感とか不安煽るカルト宗教となにが違うんだよ? 根拠なんか無くて「そういう結論」が最初にあってのお前らの勝手な思い込みばっかじゃねえか。資本主義は悪? なに言ってんの? 根拠は?
大多数の人間は日本はきちんとお約束守るお行儀いい国だと思ってるし、戦争なんざしたところで今時金にもならんしやるはずねえだろ寝言かくらいの認識なのに、なんでそんないつまで経っても右派は大日本帝国のまま戦争したがってる!とか思ってんだよ、脳みその中身80年前で止まってんのか?
あんたらは自民右派は9条他日本や世界の法を色々無視して喧嘩吹っ掛けるはずだと思ってるからそんなこと言うんだろうが、ならそもそもやたら言ってた9条の力ってなんだったんだよ? 守れと声高に言ってた割りにはちっともその効力を信じてなかったんだな。
結局「力さえあれば約束なんかどうでもいい」と思ってるから、そういう言葉になって出てくんじゃねえの? なあ?
そういえばお前ら暴力革命やりたがって学生運動で暴れまくり日本の恥たるテロリスト輸出した新左翼のボケどもの流れだったっけ? 左翼は違う一緒にすんなって? なら「暴力による現状変更」を否定しろよ。
一旦お前らの宗教に従って「自民は中国と喧嘩したい」を飲んでやっても、それなら最初に言うべきは「(台湾見捨てることになる)発言撤回しろ」じゃなくて「憲法守って喧嘩吹っ掛けんな」じゃないのか。
そもそも前提条件何一つ理解してないし、あれ全文読んでも先制攻撃するとか思ってるとかバカすぎで話になってねえが。
あとこの5年くらいか? ウロ戦争とか能登震災辺りからマジで話にもなんないくらいひどいが、SNSで自分達の主張のためなら平気で嘘ついて、情報歪曲して捏造して、ただの宗教前提の陰謀論に引っ掛かりまくるのもやめろ。
俺が一番頭痛いのはこれだ。せめて明確な嘘拡散すんじゃねえ。自認「自分はしっかりしてる、そんな左じゃない」みたいな奴等まで揃ってあっさり引っ掛かりやがる。
一人のお気持ちを国レベルまで拡大してぶっ叩く口実にするわ、事実は切り取るはデータはきちんと読まないわ、中露のプロパガンダ丸飲みするわ、情報リテラシー云々の前にただのバカにしか見えねえんだよ。
お前らはそういう嘘やガセやプロパガンダに頼らなきゃ、自分の主張ひとつ言えないのか。
言いたいことが結果明確な嘘とかガセなんだったら自分達の考えがおかしいんじゃないかとか色々疑問持て。やっぱカルト宗教じゃねえのか?
客観的で冷静だっつーなら、嘘ばらまくのは論外ってことくらいわかるよな? 今の議題と前提事実くらい把握しろ。会議とかやったことないのか。
しかもそれで口汚かったりユーモアの欠片もねえ誹謗中傷だったり、頭いいインテリ設定でそれか? もっかい言うが、日頃の人権がどうの差別がどうのはどうしたんだよ、隠れ差別主義者どもが。
日頃の悪口出力しただけの下手な風刺画(っつーか風刺ってあんな直接的でつまんねーもんなのかよ、右より左の方が風刺画好きっぽいが)より、ネット民の例の画像大喜利の方がユーモアあって頭良さそうじゃねえか。
いい加減お前ら中露北朝鮮に頼ろうって考え卒業しろ、特に本当に自分達が正義と思っているならな。
毎日のようにミサイルこっちに撃って、領土侵犯して、力で恫喝して、自国民への抑圧も隣国への侵攻も民族ジェノサイドも今やってて、あいつらは隙ありゃ台湾やら沖縄やら北方領土やらなんやらを自分のものにしたいしそのためには武力持ち出して人を殺して構わんって態度ずっと取ってるっていう現実を認識しろタコ。
それでもあいつらが正しいと信じてその武力による現状変更の容認に与するなら、今この日本では自分達はショッカー戦闘員かなんかって認識されることぐらい飲め。そんで「世界は力に平伏しろ!!!!」って開き直れ。
この国の憲法の基本的人権の尊重とか気に入ってて、喧嘩なんざ無い方がいいし、吹っ掛けたい奴がいたら止めるのは当然だと思ってるし、モヒカンがヒャッハーする世界やら全体主義ディストピアはクソだと思ってるがそれは俺の価値観だ、誰のもんでもない。俺が悪だってんならそいつにはそうなんだろ、否定しねえよ。
「お前らは所詮ショッカーのしたっぱ戦闘員だ。筋通して一理ある巨悪のラスボスにすらなれない、クソド悪党に与して世界をひっくり返したいガキのチンピラ小悪党集団だ」
もう少しくらい人権とか主権とか色々大事にして自分達なりに考えて物言ってるもんだと思ってた。それがどうだ、この様は。
片っ端から嘘とダブスタと詭弁ばっか、そもそも一貫性もなにも無いからなにがしてえんだかもろくにわかりゃしねえ。反米反日だけできればいい? 叩き返してこない相手にだけ吠えるダセえ犬ども。
オーキドハカセが「サトシのママさん」と呼んでるのは◯◯関係があるから、って考察フツーに有名だよな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/yamdas.hatenablog.com/entry/20251111/inspired-by-dystopian-sf-movies
y-mat2006SNSで漫画の絵を張り付ける人が、主人公の言葉ではなくヴィランの言葉(主人公の言動によって克服されるアンチテーゼ)を張りがちなといっしょなのかな。
これ、言いたいことはわかるし、SNSでの漫画コマ貼っ付け自体は自分も好きじゃないんだが、それはそれとしてタイトルみたいなシーンとかで、どうしても「いやあ、でも、悪役の言うことが正しいと思うなあ……」ってなることが多々ある
U-NEXTで見たのでそこに書いてあったあらすじを書いておきたいと思う。
全ての男子は初めてのセックスの前に「性交人」と呼ばれる成人男性とセックスをしなければならない法律“SP法”。そんな法律が当たり前に存在する日本。SPを受けたくないユウキは、彼女のアヤカが“ヤマダパイセン”に狙われていると知り、決断を迫られる…。
初見はいい設定だなと思った。つまるところ「男性は女性に挿入する前に挿入される側の傷みを知れ!」というメッセージ性を一種のディストピア設定にうまく落とし込んでいると感じたからだ。
主人公はSP法を倫理的に問題がある制度として問題視し強く反発している。しかし彼には彼女がおり彼女と愛情を深めたい=セックスをしたいという欲望は持っている。しかしヤリチン先輩が彼女を狙っていることを知り、SP法クソクラエという自分とセックスしたい自分の間で懊悩し暴走、性交人とのSPから逃亡しして彼女を押し倒すも拒否される。拒否された主人公は彼女に「お前はいいよな、好きな相手とヤれるんだから。俺は知らないオッサンとだぞ」と叫ぶ。しかし最終的に性交人とのSPに合意し彼女の前でSPを受ける。
暴走し「お前はいいよな、好きな相手とヤれるんだから。俺は知らないオッサンとだぞ」と叫ぶ主人公ばかりが取りざたされているけど俺は最後の性交人とのSPに合意する主人公のほうが問題がデカいと感じている。
好意的に「痛みを分かち合うことを選んだ」と解釈することも可能だが、でも、これは明確な不同意性交では?
最愛の彼女と強引にセックスしようとするも拒否され、法律も破ってしまっている。この状況で性交人とSPすることを拒否できる人間はほぼいないと思う。そういう状況での「同意」のことを「不同意」というのでは。少なくともこれを成長と捉えるのはあからさまな欺瞞に思える。
そう考えるとこのSP法という設定自体が「法律による不同意性交」なのではと思う。本人の意思に関係なく制度として性交せざるを得ない立場に追いやられてしまった状態での性交そのものだからだ。
個人製作のディストピアSFではあるのだが設定や作り込みが細かくCM、MVディレクターだけあって映像作りも抜かりがない。その中で明らかに意図して「これが女性が受けている辱めだぞ」というのを男性側に転写するミラーリングが行われており、この手のミラーリングの中ではうまく機能している方だと思う。
例えば「主人公がSP法をうけようかと考えていることを家族が知ったときに赤飯炊きたがる」とか。
ただ、俺が男性だからかもしれないが「全男性が法律で不同意性交を受けなければならない」ほど現実世界で男性は酷い存在だろうかと感じてしまった。もちろん、男性による不同意性交の被害にあっている女性は少なくないと思う。そのために「痛みを分かち合う」必要が叫ばれるのはわかる。しかし、ここまであからさまに急な勾配を付ける必要があるか。
そして、SP法には倫理的に問題があると発信し続けていた主人公が暴走し「お前はいいよな、好きな相手とヤれるんだから。俺は知らないオッサンとだぞ」と叫ぶ衝撃シーンのせいで見る人の多くが「SP法どうかと思ってたけど、やっぱ必要かもなぁ」となると思う。実際そういう感想も多い。
でもそれって「男性は去勢しろ、それに反対するやつは犯罪者予備軍だから余計に去勢しろ」と何が違うんだろうと思ってしまう。少なくともこの展開のせいで「SP法という不同意性交」という視点は消え去ってしまったのではないか。もっと言えば不同意性交という問題そのものが矮小化されてしまったのではとも感じた。
SP法自体も結局「予防接種」みたいになっちゃってんじゃないのという感じもする。注射針を腕に突き刺す行為って医者以外がやれば普通に傷害罪(まぁ実際には医師法違反だろうけど)が適用されるわけでしょ。でもみんなそれが普通のものとして受け入れてる。
もしくは割礼とかね。稚児が大人になるために親がチンコの皮むいたり切ったりするやつ。今やったら極めて恥辱的な行為とみなされるだろうけど、当時の子供は「大人になるために当然の行為」として受け取っていたと思う。
実際、主人公以外はSP法に対して特に何も感じてないし、なんなら「そろそろ大人になっときますか」くらいの感覚でSPしている。その結果、主人公の彼女を狙うヤリチンみたいなのが普通に存在する社会になってる。「規則って本質が失われがちだよね」という皮肉として捉えることもできるが「SP法」という舞台装置を設定した割に社会の本質は変わっていないように見えて「男性は女性に挿入する前に挿入される側の傷みを知れ」というメッセージ性がめちゃくちゃ薄まってる感じがした。
なんなら「男は女とヤるためならケツほられてもいいと思ってる」という謎の新偏見を生み出す可能性もあるのではないかと思った。
つまるところこの映画の目的が「啓蒙」なのか「復讐」なのかという話だ。
監督は14歳の時にノリでホモセックスを行い挿入された際に強い恐怖を感じ「挿入される側の恐怖を知った」というのがこの作品の原体験であると述べている。なのでこの作品の目的がその「復讐」であるならすべては納得できる。貴様ら全員掘られる恐怖を強制的に味わえ!というものであればこの設定になるだろう。
でも、そうではなく「男性側にも挿入される恐怖を知ってほしい」ということであれば、それを「制度」に託すのは失敗だったと思う。不同意性交と同じく、制度によって挿入されるという行為から、おそらく本当の意味での、女性が必要としている「共感」を得ることはない。
なんなら「制度」という強固で冷たい仕組みに組み込むことで男性が受ける挿入は「法律で定められている行為」であり、女性にする挿入とは別のものだという意識の分断が起きることは想像に難くない。その上「挿入されるという儀式を行った以上、自分には女性に挿入できる権利がある」という過激思想が生まれないかという不安すらある。
そういう設定でよかったの?と強く感じた。
総合すると設定はめちゃくちゃ面白そうなのに展開がそれについてきてない。そしてその設定も「面白そう」だけど本当に「面白い」かはよく考えてみると疑問。
けれど、結果は逆だった。
AIサービス各社は、燃えるような電気代とサーバーコストに追われた。
はじめは月額30ドルだった定額料金が、いつのまにか300ドルになり、
人々は「AIに話しかける」前に、まず財布の残高を気にするようになった。
内容欄には「生成目的」「想定トークン数」「倫理リスク」が並ぶ。
誰もそんな書類を出したがらず、やがて誰もAIを使わなくなった。
そう目算した中国企業は、
良い出力を引き当てるまで課金を繰り返した。
パソコン通信と同じように「昔は便利だった」と懐かしんでいた。
だが、若者たちは違った。
「AI? あー、あのジジババが使ってたやつね」
誰もが使っていたものが、誰も使わなくなった。
ただ一つだけ違うのは──
誰ももう、「AIのように考える人間」を信用しなくなったということだ。
#SF #ディストピア #生成AI #未来予想 #はてな匿名ダイアリー
──
現状のPixivはAIによる粗製濫造に侵されている。いや、AI投稿作品は棲み分けされてるでしょ?と思うかもしれないが、普通に「AI生成作品」にチェックを入れずに投稿されているにも関わらず、その実AIのポンだしというものが少なくない。というかかなり多い。
※ここでいうイラストとは少なくともAIによるポン出しは含めない
これは我々がインターネットをする上で心情としている「嫌なら見るな」に反するものだ。嫌なのに見せつけられている例のAAのような状況だ。
これは(AI絵を投稿するユーザー以外の)全てのユーザーにとって不利益だ。ではなぜPixivは厳格に規制せずユーザーのモラルに甘える(と言っても崩壊しているのだが)態度を貫くのか。
現状のAI絵はわかりやすい。t2iかi2iのポン出しか、良くて微修正したくらいだ。細部を見れば溶けている画像は絵というより絵っぽいものだ。
いわゆる「AI絵師」を自称する人にはそれなりの主張があるかもしれないが、描くという工程を得ていない画像はイラストとも言えない出来のものだ。
まぁそういう絵を規制するのは簡単だ。「下絵すら描かずにAIで作成した作品はAI生成作品とします。AI生成作品は投稿しないでください」とするだけでいい。
じゃあ「下絵(線画)は自分で描きました。塗りはAIに任せました」という作品はどうなるのだろうか。まぁこれも塗りという一番厄介な工程をすっ飛ばしてるのでAI生成作品に含まれるかもしれない。
少なくとも全ての工程で手描きしてる絵師からすれば自分と同じ列に同じ作品として展示されるのは「ふざけんな」と思うだろう。
じゃあ定義を広げて「作成過程における大半をAIに依存して作成した作品をAI生成作品とする」という基準に改める。…というかこれが現状のPixivの規制なのだが。
まぁこんな曖昧な基準じゃ「いや、t2i/i2iで画像を生成するのもプロンプトという技術とガチャという試行錯誤が必要で〜」と訳のわからん理屈で「手間をかけたからこれはイラスト!」という主張で投稿する奴が現れているのが現状。
じゃあやっぱり「制作過程の一瞬にでもAIが関わっていたらAI生成作品です」とすると、疑いの余地なくAIの関わりを断つことができる。できるが……
例えば「塗るといい感じに影を着色できるブラシ」とか「環境に適応していい感じに光を表現できるブラシ」というのが現れるとする。
現実的な悩ましい色の選択と難しいレイヤーの合成方法をすっ飛ばして『ビル街の中にある街路樹から漏れる淡い光を表現できるブラシを作成して』というだけで望ましいブラシと色を簡単に作成してくれるツールが現れたら?
アンチAI過激派なら「機械学習によって生成されたブラシによる着色なんて味がない」というだろう。
しかしこれから現れるAIネイティブ世代にとっては「いや、ブラシが生成されてもそれでうまく描けるかは結局力量だから」となる可能性は高い。あくまでブラシはツールで、最適解のブラシを手に入れたとして最高の絵が描けるわけではない。
というかこれは現状でも議論できる話で、例え完成品のイラストに1ピクセルも反映されていないとしても、AIによって生成された画像を参考に構図を決めたり着色してたりしてたら?
お気持ちの話をするなら「そういう楽はすべきではない、芸術とは自分の魂を込めることで手間を省いたものに魂は込められない」という人もいるかもしれない。
が、それは紙と違って簡単にRedo/Undoができるツールを使ってる人が言うべきではない。パソコンで絵を描いていない人だけが彼に石を投げなさい。
我々がコンピューターという便利なツールで描かれたイラストを当たり前に受け入れている以上、AIという便利なツールによって描かれたイラストを受け入れるのもまた時間の問題なのだ。
話を戻すとPixivがそういう「少しでもAIが関わってたらダメ!」という表明をすると、短期的にはいいが長期的にはユーザーが離れていく。
Stable Diffusionの登場はかなりの驚きだったが、既に歴史の中で似たようなことが起こってるのは承知だと思う。世界史で習ったイギリスの産業革命しかり、あるいはこの文脈でよく語られる「コンピューターが登場したことによって生まれたデジタルイラストには味がないと過去には言われていた」とかそういうのだ。
我々が今どんなに「AIはクソ」と主張しても10年後にはみんな使って当たり前のツールになっている。
想像の話だが、パソコンが生まれる前に存在していた「イラスト投稿雑誌」なるものがあったとする(※私はWindowsが生まれてから産まれているので、ガチでここら辺は私の想像)
そのイラスト投稿雑誌が「コンピューターイラストは誰でも簡単に描けて味がない!紙のイラストのみ受け入れます!」という主張をし、実践していたら簡単に時代の波に埋もれるのは想像がつくと思う。現実はパソコンで作成したイラストも受け入れる雑誌が現れて、そっちが生き残ると思う。
もちろんそれを現状のPixivにまんま当てはめることができるとは思えない。AIによるポン出し絵を投稿する人間にファンがつくとは思えない。ただ、AIを活用したブラシなどを使って描かれた絵なら、普通にファンはつくと思う。
まぁ結局、「AI絵は一律排斥しろ」というのは難しい。線引きが難しいからだ。またそうなった場合、厳格にAIを排斥するサービスは投稿者・閲覧者共に減っていくのは間違いない。
だからPixivは(現状では否定意見が多い)AIをある程度受け入れつつ、将来のAIネイティブ世代を受け入れる体制を作り続けないといけない。
そうじゃないと、AIを活用するイラストレーターがPixivから離れていくからだ(AI絵師(笑)ではなく)
そしてChatGPTから始まったAIサービスが普通の人間でも使えるようになった以上、AIに対して抵抗がある人間が減ることはあれど、増えることはない(まさしく産業革命に対するラッダイト運動のようなことは起きるかもしれないが、望むと望まないとに限らず、我々が機械に反発なく生活しているように、もはやAIを避けて生きていくのは無理なのだ……)
これが「AI絵は一律、厳格に対応しろ」と言う声にできない理由だと私は考える。もろちん、人的リソースの限界もあるだろうけど。
これはPixivに限った話じゃなくて、全ての芸術(音楽とか小説とか、あるいは動画とか)に及ぶ話だ。望むと望まないと、AIは使われてゆく……
「いや技術的な話じゃなくて、自分が描いた絵が無断で学習されて、それを使ったものが投稿されてるのが嫌なんだが」という人には『それはそう!!!!!!』と声を大にして賛同しておく。
しかし残念ながら、みんな大好きChatGPTですら著作権に対しては舐めた態度を取っている(Sora2とか…)ので、もうまじで残念ながら諦める以外の選択肢は極めて少ない。
だからこれを書いている私のスタンスは『』 もう時代の流れに身を任せて全てを諦め、そして自分の益になることは人から怒られない程度にAIから掠め取っていこう』だ。今の私の業務はChatGPTで成り立っている。
だからこの文章も別に「だからPixivはこうしろ!」とか主張するつもりはない。
「PixivはさっさとAI絵じゃないと偽ってAI絵の投稿するやつをどうにかしろ」という程度のことは常々思ってるが、それ以上のことを望むのは難しいんじゃないか、という考察をただ垂れ流しただけ。
誰も撤去したわけではない。
ただ、「掲げること」も「捨てること」も誰もしたくなくなったのだ。
どんな形であれ、日の丸を「汚す」「破る」「捨てる」行為が処罰対象になった。
たとえそれが古くなった紙旗でも、プリントTシャツでも、教室の隅で埃をかぶった小旗でも。
一度「日の丸」を手にしたら、生涯、責任を持って保管せねばならない。
そういう法律になった。
でも次第に、誰も日の丸を使わなくなった。
買えば負債になる。
飾れば撤去できない。
壊せば罪。
運動会の旗も、弁当のピックも、パッケージのデザインも変わった。
「赤丸」が消えた日本。
白地に赤があるだけで「通報された」という噂まで流れた。
教科書では「かつて国旗と呼ばれたもの」として小さく載っている。
でも実物は誰も掲げない。
その空に今も、どこにも旗は揺れていない。
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俺がこの作品を観ようと思ったのは単純に「オリアニ×SF」というキーワードに惹かれたからだ。
しかも舞台は独裁政権下の未来。その政権の名が“オーウェル”となればSFファンならここでもうニヤッとくるはず。なるほど。つまりこの作品は未来の管理社会を通じて現代を批評するようなタイプの本格SFなのかもしれないな。
そう思った俺の期待は一話目で脆くも崩れ去った。
0話目は導入として普通に面白かった。問題は一話目の…全部だ。コールドスリープから主人公が目を覚ましたら未来の世界であったにも関わらず文明は退化していて、そこに現代知識を持つ主人公が知識や技能を披露して「すごい!」と驚かれる。
…これって要はSF版なろうじゃないのか?SFでやる必要ある?とまず思った。しかもその未来の描き方があまりに表層的。冷凍睡眠もアンドロイドも既に古典SFが散々掘り尽くしたアイデアばかりで、掘る場所を間違えた考古学者みたいになってる。
SFの魅力って未知の世界をどう構築するかにあると思うんだ。つまりセンス・オブ・ワンダーってやつ。俺たちがまだ知らない技術が確立された未来社会においては倫理観や感情がどのように変化するのか?その技術がどう世界を変えるのか?それを見せるのがSF本来の役割で、未来を描くっていうのはそういったことのはずだ。だがこの作品は未来の皮を被った過去の焼き直しでしかない。アンドロイドが出てくるだけでSFを名乗られても困るんだよ。そこに新しさがなければ、それはただの衣替えだ。
一話のアクションシーンもそう。ぬるぬる動いていたし作画も良い。ビームの描写も迫力あった。見応えはあったけど…それはアニメとしての演出であってSF的思考とはまるで関係がない。アクションが悪いわけじゃない。ただ、なぜここでアクションを描くのかという意味が全くない。悪役は馬鹿だし、世界の論理を補強するどころか寧ろノイズになってしまってる。アンドロイドの存在を“人間とは何か”を問うための象徴ではなく、“戦う存在”としてしか描けていない。
しかもオーウェルという言葉を軽く使ってしまっているのも問題だ。あの名前が持つ文脈を理解していたら本来もっと慎重に扱うはず。オーウェル体制という単語を出した瞬間に、視聴者は「ディストピア的な思想統制」を期待する。でも実際はその概念を掘り下げることもなく、物語の装飾として消費しているだけ。だから軽い。あの名前を冠するなら、社会構造をもっと徹底的に描くべきだし、政治や思想が人間の精神をどう変えるのかを掘り下げないといけない。それは本来最初にやるべきことだった。
監督インタビューを読んでさらに残念だったのは、その自覚がまったくなかったことだ。作品の狙いとして語られていたのは感情のドラマや人間と機械の絆で、要するにSF的な思索を背景としてしか見ていない。感情を描くのは大事だけど、SFが背景に退いた瞬間、それはもはやSFじゃない。
この作品って要はSFとして未来を描けてない。未来を描いているように見えて、実際は過去しか描いてないんだよ。
映像も舞台設定も“未来風”ではあるけど、実際の中身は何十年も前のテンプレートの焼き直しにすぎない。つまりこれは、未来を描こうとして過去を描いた作品だ。未来っていうのは単に時代が進んだ先のことじゃない。“まだ誰も見たことのない概念を提示すること”だと思うんだよ。でもこの作品にはそれがない。冷凍睡眠もアンドロイドもディストピアも、すべてが既に古典SFで語られ尽くした過去の遺産だ。その使い方にも新しい視点がない。技術の発展を描いているようで、結局は“古いSFの模倣”にとどまっている。これじゃあ未来を見せるどころか、昔の未来をもう一度なぞっているだけだ。
どうか最後までこうならないことを願うばかりだ。
ワイ「この店も無人店舗になったんか。じゃあ、この商品を虹彩認証でワイの口座から引き落としてや。アラハン(100歳)でも最近の高齢者は若いからこのくらい余裕やで。令和時代にいたセルフレジごときで文句言ってたジジババどもと違ってな」
ロボ店員「脳チップによるマイナンバー認証もしてください。おでこをスキャナーに近づけてください」
ワイ「脳チップ? 埋め込むのはキモいからワイはカード携帯派や。マイナカードが維持されて本当に良かったで」
ロボ店員「警告。90秒以内にマイナンバー認証がされない場合、万引きとみなされ、警察への通報と社会信用スコアが10ポイント減点されます」
ワイ「いまカード出すからせかさんといてや……財布に入ってないなあ。家に忘れたんかな?」
ロボ店員「残り10秒です……3、2、1、あなたは通報されました。所持品を手放し、速やかに床にうつ伏せになって警察ロボの到着をお待ちください。あなたが従わない場合、私には非殺傷銃であなたを無力化する権限が与えられています」
店の床に大の字で寝ているワイ「ディストピアすぎる」
セルフレジ 行きつけ失う高齢者 -Yahoo!ニュース