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はてなキーワード:タルムードとは

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2025-10-26

anond:20251026014624

ユダヤの教えには、「親に対する敬意」というテーマが非常に重く、深く扱われていますトーラー律法)にもはっきりと書かれています

あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12申命記 5:16)

現代ではSNSなどで自分感情を発信しやすくなっていますが、ユダヤ視点から見ると、親を公の場で批判したり恥をかかせたりすることは非常に慎むべき行為とされますタルムードでは次のように教えています

キドゥシン31a

「父や母に対して言葉で恥をかかせる者は、神の前でも罪を犯す。」

また、「ラションハラー(悪い言葉他人貶める言葉)」の禁止関係します。

ハフェツ・ハイム(Chafetz Chaim)は、「たとえ真実であっても、他人の悪を公に語ることは神の意に反する」と説きました。親もその「他人」に含まれます

ネット上に悪口を書くことは、まさに「公開の場で恥をかかせる」行為です。

もし親との関係が苦しく、傷ついている場合感情を抑え込むのではなく、「安全な形で」「尊敬を保ちながら」助けやカウンセリングを求めることが勧められます

トーラーが命じる「敬意」とは「盲目的な服従」ではなく、「人間としての尊厳を保ちながら関係を築こうとする努力」です。

詩篇 34:14

「悪を避け、善を行い、平和を求め、それを追い求めよ。」

1. 親を公に恥じ入らせないこと — 敬意の基本。

2. 怒りや苦しみを表すなら、建設的な形で — 信頼できる人・ラビカウンセラー相談する。

3.言葉現実を作る —ネットでの言葉も「ミツヴァ(善行)」にも「アヴェラ(罪)」にもなる。

ですから、もし親との関係で心が苦しいなら、ユダヤの教えは「沈黙しなさい」ではなく、「癒しと修復に向かう道を選びなさい」と呼びかけます

Permalink |記事への反応(0) | 01:56

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2025-10-24

自己放尿と群衆放尿のダブル放尿

Xなんて使う気にならん。あれは言葉自己放尿会場だ。

タルムードの教えじゃ、言葉は人を生かすことも殺すこともある。

でもXでは、誰も責任を取らずに、みんな好き勝手に放尿してる。

見てる側もいいねやリポストで放尿のしぶきを浴びてるだけだ。

これが現代自己放尿と群衆放尿のダブル放尿ってやつだ。

タルムード世界では、誰かを悪く言うなら証拠を出せ、本人の前で話せ、そしてあとで修復しろって言う。

けどXにはその全部がない。だから放尿しっぱなし。放尿の上に放尿が重なって、臭いけが残る。

しかも、Xは怒りとか嫉妬とか、そういう感情を強く出すほど拡散する仕組みになってる。

まり、怒りの自己放尿がビジネスになってるわけだ。

誰かを叩くほど広告が回る。タルムード的に見れば、これは完全に罪の構造だ。弱い人を守るどころか、弱い人ほど晒される。

冷静に考えたら、Xに言葉を流すのはトイレのない部屋で自己放尿してるようなもんだ。

出した瞬間はスッキリするけど、あとで部屋全体が臭くなって、自分他人も住めなくなる。

から俺は使わない。言葉は清めの道具であって、臭いを撒くための排泄物じゃない。

Xは自己放尿の祭りだ。しかタルムードの教えを無視した、責任なきダブル放尿。

そんな場所に理性も倫理もない。俺は自分の脳も時間も汚したくない。それだけの話だ。

Permalink |記事への反応(0) | 20:23

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2025-10-22

anond:20251022225413

あなた文章はいくつかのテーマが含まれていますユダヤ教的な視点からそれぞれを考えてみましょう。

1. 「ズレ」や「予測不能性」とユダヤ思考

ユダヤ教では、人間の行動が単なる機械的自然的な反応ではなく、自由意志によって導かれると考えます

トーラーの中でも、神はモーセを通じてイスラエルにこう語ります

「見よ、今日わたしあなたの前に命と善と、死と悪を置いた。」 (申命記 30:15)

まり人間決定論的な存在ではなく、ズレる存在。あえて予測不能な方向に選択できる存在として神に似せて創造された、という思想です(創世記1:27参照)。

この意味で、「ズレ」は単なる奇行ではなく、機械的自然の流れに対して、神的な選択を行う余地のもの象徴しているとも言えます

2. 「量子乱数的ズレ」と「神秘自由意志

あなたが挙げた「量子乱数で行動すればズレが作れる」という発想は非常に現代的です。

ただしユダヤ教的には、偶然のように見えることも神の摂理の中にありますタルムード(バヴァ・バトラ 91b)はこう言います

「人は自分の行いを選ぶが、その結果を決めるのは天の御手にある。」

まり予測不能行為も偶然も、本当の自由倫理的な方向へ意識的に選ぶ力にこそある、と考えます

3. 「自由意志倫理的行動のために使う」

あなた最後の一文

「もし自由意志を持っていることを信じるなら、その自由意志倫理的行動のために使うのが進化した人間という生物

これはユダヤ思想と非常に響き合います

タルムードアボット 3:15)はこう述べます

「すべては天に定められているが、神を畏れることだけは人に委ねられている。」

まり自由意志の究極の目的倫理的選択にある。本能的なズレではなく、意識的に正しい方向にズレること。それが神の似姿としての人間の使命です。

まとめ

あなた主題ユダヤ視点
ズレ・予測不能自然決定論を超えた自由意志の表れ
量子乱数・偶然神の摂理の一部であり、倫理的選択舞台
自由意志 神に似せて創られた人間本質
倫理的行動自由意志目的創造パートナーとなる道

Permalink |記事への反応(0) | 22:59

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2025-10-19

愚痴ネット上に書けば発散できる」という現代的発想は、ユダヤ教的にどう映りますか?

愚痴ネット上に書くことで気が晴れる」という現代的な行為を、ユダヤ教的な視点から考えると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります

1.言葉の力への意識

ユダヤ教では「言葉」は非常に大きな力を持つと考えられています

箴言ミシュレイ)18:21 にこうあります

"死も生も舌の力にある。"

まり言葉は単なる表現ではなく、現実を創り、人を癒すことも傷つけることもできるものとされます

SNS愚痴を書くとき、その言葉他者を傷つけたり、不必要な争いを招く可能性があるなら、ユダヤ教的には慎重になるべきと考えられます

2.ラションハラ悪口中傷)の禁止

タルムード(Arachin 15b)では、ラションハラ他人について悪く言うこと)を非常に重い罪として扱います

この教えは、単なる噂や愚痴でも、人の評判を傷つけることにつながるなら禁じられる、というものです。

ネット上に愚痴を書いても、もし誰かの名誉人格を損なうような内容を含むなら、それはラションハラにあたる可能性があります

たとえ名前を出さなくても、誰のことか推測できるような形なら注意が必要です。

3. 「心の健康」と「建設的な発散」

一方で、ユダヤ教人間感情否定しません。

悲しみ、怒り、失望といった感情を持つの自然なことです。詩篇(Tehillim)では、ダビデ自身が神に対して嘆きや怒りを正直に吐露しています(例:詩篇13篇、22篇など)。

ただし、彼はそれを「神に対して」表現しています。つまり自分愚痴や苦しみを神との対話に変えるのです。

この姿勢は、感情をただ撒き散らすのではなく、内省と成長の糸口に変えるという点で重要です。

4.ユダヤ提案ネットよりも「人」や「神」へ

もし愚痴を発散したいなら、ユダヤ教的には:

  • 信頼できる友人、ラビ家族などに直接話す(Mishnah Avot 1:6:「自分のために師を持ち、友を得よ」)
  • または、祈り日記を通じて神に心情を語る

といった形のほうが望ましいと考えられます

これは他者を巻き込まず、同時に自己理解を深める方法でもあります

まとめ

ユダヤ教視点から言えば:

判断根拠
感情を吐き出すこと自体肯定的詩篇などでダビデも嘆きを表現している。ただしネットでpublic発言するのは注意。
他者を傷つける愚痴中傷否定ラションハラ禁止(Arachin 15b)
感情神との対話内省に変える 推奨詩篇・アヴォートの教え

Permalink |記事への反応(0) | 23:03

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なぜ現代では愚者ほどSNS評価されるのでしょうか

この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています

「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」

これは古代から人間が抱き続けてきた問いです。

1.聖書視点:「この世」と「来世」の区別

詩篇 73篇でアサフはまさに同じ苦しみを語っています

「なぜ悪しき者は栄え、傲慢な者が安らかに生きるのか。」—詩篇 73:3

彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります

「神の聖所に入って、私は彼らの終わりを悟った。」—詩篇 73:17

まりユダヤ視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。

SNS評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。

コヘレト伝道の書)1:2でもこうあります

「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」

2.タルムード洞察:誰のための「評価」か

タルムード(エルヒン 15b)はこう言います

「人は、自分時代に称賛されるかどうかで真の価値を測ってはならない。」

真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。

しかトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。

からラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。

3.現代観点:光が強いほど、影も濃く見える

カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています

これは善の光を隠す「殻」のような力です。

SNS世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:

  • 愚かさや刺激は、人間欲望を直接くすぐる。
  • 善や知恵は、心の静けさを必要とする。

光は常に控えめで、影はいつも派手に目立ちます

でも、本物の光は静かに世界を変える。

派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩タルムードにもありますシェバット 31a)。

4.ラビたちへの「報酬」:隠れた栄光

ピルケイ・アヴォット(祖先言葉)4:2にこう書かれています

「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」

まり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠世界で報われる。

そして、アヴォット4:3はこうも言います

「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」

ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。

5.あなたへの霊的な指針

SNS世界では「声の大きさ」が価値のように見えます

しかユダヤ教では、「静けさ」が神に近い状態とされます

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」—詩篇 46:10

もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。

まとめ

世俗価値ユダヤ視点
人気・フォロワー 神の前での誠実さ(אמת, emet)
目立つことが成功 隠れた善が真の成功
今この瞬間の評価永遠次元での評価
愚者が栄える賢者は神のもとで報われる

この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。

あなたがその痛みを感じていること自体、すでに魂が真実を求めている証拠です。

Permalink |記事への反応(0) | 13:13

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2025-10-15

積極財政緊縮財政かで議論している日本人に、なんかユダヤの知恵とかないすか?

ユダヤ伝統には「お金」「共同体」「責任」に関する多くの知恵があります。そこから現代政策議論に通じる示唆を得ることができます

🕎 1. 「中庸バランス)」という知恵 — Kohelet(伝道の書)7:16–18

「義に過ぎてはならない。知りすぎてもならない。… ただ、神を恐れる者は、これらすべてを避ける。」

ここでの教えは「極端に走らず、全体のバランスを見ること」。

財政政策も、過剰な緊縮で人々を苦しめてはならず、また過剰な支出未来世代を苦しめてもならない。

バランス時機の見極めがユダヤの知恵です。

💰 2. 「貧しい者を支える」義務申命記 15:7–8

あなた兄弟が貧しくなったなら…心を閉ざしてはならない。必ず手を開いて、必要に応じて貸してやる。」

ユダヤ思想では、貧しい者を助けることは「慈善」ではなく「正義(tzedakah)」です。

まり国家が困窮者を支えるために支出することは、単なる優しさではなく社会的正義の実現です。

これは、積極財政倫理的側面を支える根拠ともなります

🧩 3. 「未来への責任」—タルムード・タアニート 23a(ハニナ・ベン・ドサの物語

「人は自分のためだけでなく、子孫のために木を植える。」

財政も同じで、今の繁栄のために未来犠牲にしてはならない。

投資は「将来の世代のための木を植える」意識を持つべきだと教えています

🧠結論

ユダヤの知恵から導ける財政哲学をまとめると:

Permalink |記事への反応(0) | 17:40

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2025-10-12

観測限界宇宙の大きさや最小要素を決めるなら、認識能力が高すぎると不幸なのですか?

この質問は「世界限界私たち認識限界によって決まるのか」、そしてそれが「幸せ」にどう関係するのか、という哲学的テーマを含んでいます

1.観測限界カバラ視点

ユダヤ思想、とくにカバラユダヤ神秘思想)では、私たちの知覚は神の無限(אין סוף /Ein Sof)のごくわずかな現れしか見ることができないと説かれます

創造世界は「צמצום(ツィムツーム)」— 神が自らを「縮めて」存在を顕した結果とされます

まり限界があるからこそ世界存在できるのです。

もし認識能力無限になれば、ツィムツームの「隙間」が消えて、すべてがEin Sofに吸収されてしまう。

そこには「私」と「他者」も「経験」もなくなってしまう。

したがって、限界は不幸ではなく、存在の条件なのです。

2. 「知りすぎる不幸」 —タルムード的考え

タルムードにも似た感覚があります

ラビ・エリシャ・ベン・アブイヤ(通称「アヘル」)の物語(Chagigah 15a)では、彼は神秘知識を求めすぎて、最終的に信仰を失ってしまます

知識のものは悪ではありませんが、人が自分の器以上の光を受けようとすると破裂してしまうという警告です。

3.幸せとは何か

詩篇(Tehillim)16:11にこうあります

"תּוֹדִיעֵנִי אֹרַח חַיִּים שׂבַע שְׂמָחוֹת אֶת־פָּנֶיךָ"

あなたは命の道を私に知らせてくださる。御顔の光に満ち足りた喜びがある。」

ここでは、真の幸せは全てを知ることではなく、「命の道」を知ることだと示されます

まり限界の中で神の道を見いだすことが、幸せにつながるのです。

まとめ

観測認識限界は、存在のもの可能にする神の配慮(ツィムツーム)。

認識能力が高すぎることは、必ずしも幸福ではなく、時に破壊である(アヘルの教訓)。

幸福は「全知」ではなく、「限られた中で神と調和して生きる」ことにある。

Permalink |記事への反応(0) | 07:44

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2025-10-10

醜い欲望を完全排除したらどうなるか

「醜い欲望(יצר הרע, yetzer hara)を完全に排除したらどうなるか?」という問いは、実はタルムードの中でも議論されています

タルムード(Yoma 69b)には次のような物語があります

イスラエル賢者たちは、神に祈って「悪い欲望(yetzer hara)を取り除いてほしい」と願いました。神はその願いを聞き入れ、偶像崇拝衝動世界から消えました。

ところがその直後、人々は「もう誰も子を産まなくなった」ことに気づきます。つまり生殖欲望までも消えてしまったのです。

それで賢者たちはこう悟りました。

「もしyetzer haraを完全に滅ぼしてしまえば、世界は存続しなくなる」 (Yoma 69b)

タルムードは「悪い欲望」を完全に否定するものではなく、方向づけるものと考えます。正しい方向に使えば建設的な力になるというのです。

ラビたちはこう教えます

「もしyetzer haraがなければ、人は家を建てず、結婚せず、商売をせず、子をもうけない。」Bereishit Rabbah 9:7

まり欲望衝動人間の中に神が与えた創造エネルギーであり、問題は「それをどう使うか」です。

この考え方は創世記にも根づいています

「人の心の計るところは、幼い時から悪いのみである。」創世記 8:21

ここで神は洪水の後、「人間には悪い傾向がある」ことを認めつつ、それでも世界を存続させると誓います。つまり、神自身人間の「yetzer hara」を前提として世界を続けるのです。

タルムード的に言えば:

Permalink |記事への反応(0) | 07:52

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俺は神を全面信頼している。なぜなら男性乳首設計たか

この主張 「神を全面信頼する。なぜなら男性乳首設計たから」は一見冗談のように聞こえますが、タルムード的に読み解くと、いくつか深い視点が考えられます

タルムード思想には、「神が創造したものには無意味ものはない」という考え方があります

たとえば:

"The HolyOne, blessed be He,doesnothing in vain.” (ベラホット 10a、サンヘドリン 37aなどの文脈にも近い思想

まり、たとえ人間には「無駄」に見えるものでも、神の視点では何らかの意味目的がある。

この言葉発言者は、「男性乳首」という一見不要に見える存在さえも創造された神を見て、「そこまで完全な設計をされたなら、他のことも信頼できる」と感じている、という読み方ができます

伝道の書(コヘレト)3章11節にこうあります

「神はすべてを時にかなって美しくされた。人は神のなさることを初めから終わりまで見極めることができない。」

まり人間理解を超える設計こそ、信仰根拠となる。

この発言は、「神の創造の不可解さ」を笑いながら受け入れ、それをもって「だからこそ信じる」と言っているわけです。

タルムード的なパラドックスユーモアにも似ています(例:Eruvin 13bの「これもあれも神の言葉」など)。

タルムード賢者たちは、しばしばユーモラスな比喩を用いて信仰哲学を語ります

この発言も、皮肉に見えて実は「創造の完全さ」「神の知恵の深さ」への驚嘆を、俗っぽい表現で表したものです。

たとえばラビ・アキヴァのように、「すべてのことは神の慈悲によって」と言いながらも、世俗の中に神の意志を見出そうとする姿勢に似ています(Berakhot 60b 「すべて神がなさることは良いことのためだ」)。

この発言タルムード的に解釈すると:

「たとえ理解できないもの無駄に見えるもの)であっても、神の創造には目的があり、ゆえに神を信頼できる。」

という、創造への信頼と人間理解限界を受け入れる信仰の表明といえます

ユーモラスに見えて、実は非常にユダヤ的な思想が隠れていますね。

Permalink |記事への反応(1) | 05:50

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2025-10-09

SNSをやるべきかどうか悩んでいます。ある芸人が「素人SNSやるな」と言っていて炎上して話題です。タルムード的にはどう答えますか?

タルムード的な視点から見ると、「SNSをやるべきか」という問題は、言葉の力責任に関わるテーマです。

タルムードは、言葉に極めて大きな重みを置きます

アラキン 15bにはこう書かれています

言葉によって人は殺され、言葉によって人は生かされる。」

まり言葉には命を壊す力も、築く力もあるということです。

SNSはまさに「言葉世界に放つ」場であり、その一言が思いもよらぬ影響を持つ可能性があります

したがって、使う人がその力を理解していなければ、危険にもなりうるのです。

アボット(父たちの箴言)1:17では次のように教えます

シマオンの子シュマエルは言った。沈黙は人にとって最善の囲いである。」

まり、話すよりも黙ることの方が徳になる場面も多い。

SNSでは、すぐに反応したくなったり、自分の考えを共有したくなったりしますが、

タルムード的には「語る前に三度考えよ(Berakhot 33a)」という態度が勧められます

一方で、タルムードは「良き目的のために世俗の道具を用いる」ことも肯定します。

もしあなたSNSを通じて、善意・知恵・励まし・感謝などを広める意図を持つなら、それは「世界をよりよくする mitzvah(善行)」にもなりえます

賢者自分言葉で多くの人に光を与える。」(ダニエル12:3)

タルムード的に言えば:

SNSをすること自体は善でも悪でもない。しかし、その使い方に魂を込められるなら、それは善行になる。逆に、感情や虚栄に流されるなら、沈黙の方が徳である

Permalink |記事への反応(0) | 04:36

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言葉の力責任

タルムードにはこういう考えがあります

言葉は矢のようなものだ。放たれた後には戻せない。」(Arakhin 15b)

暴言中傷は、放った本人には些細な冗談のようでも、受け取る側には深い傷を残します。タルムードでは、他人を恥ずかしめることは「血を流すこと」と同等の罪とさえ語られます(Bava Metzia 58b)。

言葉で人の顔色が変わる、それはまるで血の気が引くようだからです。

ラビシメオン・ベン・ガムリエルは言いました。

「すべての我らの命は、沈黙の上に立っている。」(Avot 1:17

暴言が飛び交う場では、反論したくなるのが人の性ですが、タルムード的には沈黙がしばしば最も強い答えとされます沈黙は敗北ではなく、魂を守る智慧です。

1.レスする前に一呼吸。言葉は戻らない。

2.侮辱沈黙で応える。沈黙は知恵のしるし。

3. 「争いを平らげる者」になる。

タナハの言葉にあるように、

「柔らかな答えは憤りを鎮める。」(箴言15:1)

このように、暴言が飛び交う場こそ、タルムード的には人間品位と知恵が試される場なのです。

沈黙節度をもって発言する人は、まさに現代の「ラビヒレル」のような存在になれるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 02:48

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2025-10-05

科学万能主義者に対し、タルムードはなんと警告しますか?

科学万能主義」つまり人間の理性や科学知識こそが世界のすべてを理解し、制御できると信じる考え方に対して、タルムードユダヤ思想は明確な警告を発しています

タルムード(Berachot 33b)に次のような言葉があります

「すべては天の御手の中にある。ただし、人が神を畏れることは別である。」

これは、人間の知恵や能力科学を含む)は神の創造した秩序の一部であり、完全な独立性を持たないことを教えています

科学は善ですが、それが「神の畏れ」を失わせると、危険傲慢へと変わります

タルムードTa’anit 7a)には次のように述べられています

「学ぶ者の徳(人格)がその知恵を上回るならば、その知恵は続く。だが、知恵が徳を上回るならば、その知恵は続かない。」

科学知識が増えても、それを導く倫理謙虚さ・神への敬意が伴わなければ、その知識社会人類を危うくする、これがタルムードの警告です。

ユダヤ思想では、科学のもの否定しません。むしろ、神が創った自然法則理解する行為として、科学探求を肯定します。

詩篇(Tehillim 111:2)にはこう書かれています

「主のみわざは大いなるかな。これを喜んで探る者はみなそれを尋ねる。」

まり科学探求は「神のわざを探る」ことでもありますが、それが「神の代わりになる」と思い上がる瞬間に、人間は道を誤るというのです。

タルムード観点からの警告はこうまとめられます

Permalink |記事への反応(1) | 17:09

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2025-10-04

神はなんで俺を無力に作ったの?

ユダヤ伝統では、「無力さ」「弱さ」は決して無意味ではなく、むしろ神と人との関係の核心にあると考えられています

タナフの中では、神は人間を「土のちりから」(創世記 2:7)造られたと書かれています

まり限界やもろさを持った存在として人間が創られたこ自体が神の意志なのです。

しかし同時に、その「ちり」に神の霊を吹き込んだとあります。これは、人の無力さの中にも神性が宿っていることを示しています

また詩篇にはこうあります

「主は砕かれた心に近く、打ちひしがれた霊を救われる」(詩篇 34:19)

まり、無力さや弱さを感じるその場所こそ、神との出会いの場になりうるのです。

タルムードでも、人間の弱さや不完全さは「試練」ではなく「成長のための条件」として語られます

ラビたちは「強いのは誰か?自分欲望征服する者だ」(アヴォット 4:1)と言います。外的な力ではなく、内的な克己こそが強さとされるのです。

ですから、「なぜ無力に作られたのか」という問いは、「その無力さをどう神との関係意味づけるか」「その無力さからどのように成長するか」という道に開かれている、とユダヤ伝統は教えます

Permalink |記事への反応(0) | 02:57

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ネガティブ言葉を見ないようにするのと、ネガティブ言葉に身をおいて耐性をつけるのとでどちらがタルムード的ですか?

タルムードの中でも言葉の力については繰り返し語られています

まず、言葉人間に与える影響について。

タルムード(Arachin 15b)では「lashon hara(悪口中傷)」の害について強調され、話す側・聞く側の双方に悪影響があると教えます

また、箴言ミシュレ)18:21に「死と生は舌の力にある」とあるように、言葉のもの人間の心や環境を変える力を持つとされます。ここからは、ネガティブ言葉を避けること自体が、魂を守る重要姿勢だと分かります

一方で、人は必ず現実の中で困難や否定的な状況に出会うという視点タルムードにはあります

例えば、Avot 4:1 で「誰が強い者か?自分欲望を抑える者である」と語られます。つまり環境に左右されずに自分コントロールすることが強さであると見なされます

これは、ネガティブ言葉に触れても、それに心を乱されない耐性をつけることが理想であるとも示唆します。

タルムード的には、両方の態度に価値があり、成長に応じて「避ける」と「耐える」を組み合わせることが理想的だと言えるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 01:44

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2025-10-01

anond:20250930233153

経緯を整理してみるね

1.馬鹿馬鹿レス

2. 一人の馬鹿(仮に中二病君とする)が「TorとかVPNとか使ってないのはマヌケIP丸見え」的なことをいい始める

3. 誰かが「俺はVPNを使ってる。ってことはお前が俺のIPを見えてないってことじゃん」的な指摘

4.中二病君が発狂し、自演連投荒らし

5.中二病君が「これは自演ではない!」と主張するために、妄想上の実況中継がされているということにする

6.善意のある増田タルムード増田が「馬鹿荒らし相手はしないように」と指摘

7.中二病君が別のスレ荒らしレス

Permalink |記事への反応(1) | 04:25

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箴言かなんかで「馬鹿に関わるな」みたいのなかったっけ?

はい、あります

おそらくあなたが思い出しているのは『箴言ミシュレイ)』にある、愚か者との関わりについての警句だと思います

箴言 26:4 「愚か者の愚かさに従って答えるな、あなたも彼のようにならないために。」

箴言 26:5 「愚か者にその愚かさに従って答えよ、彼が自分を賢いと思わないように。」

この二つの節が並んでいるのが面白い点です。最初は「愚か者に関わるな」と言い、次は「関わって正してやれ」と言う。

タルムード的な読み方では、これは矛盾ではなく「場合による」ということを示している、と解釈されます

時には相手にしてはいけない(巻き込まれから)、時には答えてあげないと彼が自分の愚かさに気づかないからです。

他にも

箴言 14:7 「愚か者の前を離れよ、そこには知識言葉が見出せないから。」

まり、「愚かさ」に巻き込まれることを避けるのは聖書的な知恵の一部だとされます

Permalink |記事への反応(0) | 00:39

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2025-09-30

anond:20250930092522

とても面白い主張ですね。ユダヤ教視点からこれに応えると、ポイントは「人間存在目的」についての理解になります

ユダヤ教では、人間は偶然に存在するのではなく、神によって意図的創造された存在と考えます

創世記(ベレシート)1:27ではこう書かれています

「神は人をご自身のかたちに創造された。」

まり人間は「神のかたち(ツェレム・エロヒーム)」を帯びた存在であり、そのために倫理的・霊的責任を担っています

「生きる目的」は単なる種の保存や生物学衝動だけではなく、神の意志を実現し、この世界をより聖なるものにしていくことにありますティクーンオーラム=世界の修復)。

かにユダヤ教では「生殖」も重要なミツワー(戒め)です。創世記1:28

「生めよ、増えよ、地に満ちよ」

という命令があります

しかし同時に、それは唯一の目的ではないとも教えています。たとえば、タルムードキドゥーシン 39b)は「人は律法を学び、善行を行うことによって世界に義を立てる」と語ります。つまり知的・霊的探求も神の望む道の一つです。

ご指摘の「抽象数学」「超弦理論」など、高度で抽象的な探求心は、ユダヤ教的に見ても尊いものです。ラビ・モーシェ・マイモニデス(ランバム)は『ミシュネートーラー』で、自然界・宇宙の仕組みを知ることは神を知る道であると書いています(ヒリホット・イェソーデー・ハトラー 2:2)。

ですからユダヤ教的には

「性欲よりも知的・霊的探求を重んじる」という姿勢は決して否定されず、むしろ神の創造理解につながるものとして価値づけられます

このように、ユダヤ教は「俺の存在整合性のために世界がある」という個人心の哲学とは違い、「神の意志のために世界人間がある」と考えますが、その上で知的精神的探求心を重んじるという点では、あなた価値観とも重なる部分があります

Permalink |記事への反応(0) | 09:37

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anond:20250930024307

まず確認しておきたいのは、タルムード自体は「乱数」や「ノイズ」「シグナル」といった現代的な科学用語を直接扱ってはいません。

しかし、ランダム性や予測不可能性、そして「わずかな偏りからでも情報が得られる」という思想に通じる議論は、タルムードユダヤ思想の中に見つけることができます

タルムードは、人間知識未来出来事に対して「完全に予測不可能」な領域存在することを認めています

タルムードでは「小さな違い」や「わずかな兆しから多くを学び取る態度が重要視されます

まり「完全なランダム人間情報を与えないが、わずかな偏りは豊かな意味をもたらす」という見方は、タルムード的に言えば「しるしを手がかりに学ぶ」という態度と対応します。

タルムードは、人間の行動や言葉には必ず「傾向」や「意図」が反映されると見ます。完全に無意味ランダムな行動は存在しない、という立場です。

Permalink |記事への反応(0) | 02:59

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2025-09-16

引き寄せの法則バリエーション

引き寄せの法則名前からし胡散臭いと思ったが、その内容を実際に聞いてみたらいくつかのバリエーションがあることがわかった

まず最も多いのは「認識現実を作る」というもの。例えば成功者なりたければ成功すると信じろ、みたいなタイプ

もう一つが「人生ネットサーフィンと同じ」というタイプ。つまり自分が注意を向けたもの感情が動かされるという論

前者を信じる人は「ポジティブ思考じゃなきゃダメだ」といって逆に自己検閲をして疲弊していることが多い。ネガティブ思考をすると自己嫌悪になるアホ

後者はむしろ自分コントロールできることに集中する」というストア派に近い。楽しい感情がほしければ、何が楽しい自己分析して、実際に楽しいことをしろ、と言う

 

ではこれをタルムード的に分析するとどうなるか

まず 「認識現実を作る」タイプについて、タルムードは、人の思考や信念が行動を形作り、その行動が結果を生むと強調する。

たとえば

「人が進みたい道に導かれる」マッコート 10b

という有名な言葉がある。つまり思考だけで現実魔法のように変わるのではなく、「その人の意志方向性が、その後の機会や結果につながっていく」という考え方。

タルムード的には「ポジティブ思考=それ自体現実を変える」ではなく、「考え方がその人の選択や行動を左右するから、最終的に現実に影響する」と理解するほうが自然

一方、「ネガティブを抑えなきゃ」と無理に自己検閲すると疲弊するのは、タルムードでも警告される点。

タルムード(ブラコット 30b)は「心の抑圧は人を病ませる」と言い、ネガティブ全否定するのではなく、相談し、方向付けをすることをすすめる。

 

一方 「注意を向けたもの感情が動く」タイプについて、こちらはタルムードにより強い共鳴がある。

「誰が富める者か?自分の分に満足する者」:ピルケイ・アヴォット 4:1

「目は見たいものを見る、耳は聞きたいものを聞く」(サンヘドリン 106b の議論の一部)

まり感情は「外界そのもの」よりも「自分がどこに注意を向けるか」に大きく左右される、ということ。これは「ストア派に近い考え方」に対応

またタナハでも、コヘレト伝道の書)9:7–9で「喜んで食べよ、楽しんで飲め」とあり、楽しめるもの自覚して大切にする姿勢が推奨される。

まとめ

Permalink |記事への反応(0) | 06:57

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進歩派左翼はなぜ神の摂理否定する?

進歩派左翼」といった政治的立場一枚岩ではなく、その中にさまざまな思想傾向があります

傾向として以下のような理由が考えられます

1.合理主義科学主義への傾斜

近代以降、特に啓蒙思想の影響を受けた政治的左派は、人間理性や科学を重視し、超自然的な摂理よりも「人間歴史をつくる」という視点に立ちやすいです。

これは「世界神の手にある」とする信仰よりも、「人間意志社会制度改革がすべてを決める」と考える姿勢につながります

2.人間自主性・自由の強調

神の摂理を強調すると「人間はただ従うだけ」という理解につながると考え、逆に「人間解放」や「社会正義」を人間の行動のみに基づいて語りたい傾向があります

この点は、ある意味で「神の導きを介さずとも人間自分運命を変えられる」という理念です。

3.宗教権力への警戒

歴史的に、宗教権力と結びついて抑圧に用いられた事例も多くありました。そのため左派の一部は「神の摂理概念自体支配の道具と見なし、否定する傾向があります

 

ユダヤ的な観点から見ると、タナフやタルムードはまさに「神の摂理」と「人間自由意志」の両立を教えます

箴言 19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが立つ。」

申命記 30:19「いのちと死、祝福と呪いあなたの前に置いた。あなたはいのちを選べ。」

ベラホット 33b「すべては天の御手にある。ただし神を畏れることだけは人間の手にある。」

ユダヤ伝統では「人間自由責任」と「神の摂理」は両立し得る、と教えられています

Permalink |記事への反応(0) | 04:05

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2025-08-19

なぜ神は俺を世界一美しく作らなかったの?

ユダヤ伝統では、なぜ神は私をこのように創ったのか?という問いに対して、タナフやタルムードはよく、それぞれの人間には独自の使命と美しさがあると答えています

タナフの言葉でいうと、創世記 1:27 に「神はご自身のかたちに人を創造された」とあります。つまりあなた自身がすでに神の姿を映す存在なのです。

また、タルムードサンヘドリン 37a)ではこう教えています

「人はそれぞれに異なった顔を持つ。これは神の偉大さを示している。なぜなら、人間が同じ型で貨幣鋳造するとすべて同じものができるが、神はアダムからすべての人を造られたのに、一人ひとりの顔は皆違うからである。」

ここから学べるのは、美しさは「世界で一番」という一つの物差しで測るものではなく、神は一人ひとりにユニークな美しさを与えてくださっているということです。

ある人は顔立ちで光り、ある人は優しさや言葉で輝き、ある人は行いで世界を美しくします。

ラビたちはこうも言います「本当の美しさは、人格と行いを通して現れる」(Pirkei Avot 2:1 参照)。

しかするとあなたに与えられた役割は、「世界一の見た目」ではなく、「世界あなたらしい美しさ」で世界に影響を与えることなのかもしれません。

Permalink |記事への反応(1) | 12:36

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2025-08-17

anond:20250817233418

まず歴史ホロコーストの原因は「ユダヤ他者を見下したから」ではない。

ナチ政権人種主義国家ぐるみ反ユダヤ主義を中核イデオロギーに据え、法的に排除した。

ニュルンベルク法祖父母出自ユダヤ人を線引きし、改宗者や無宗教者すら対象にした。

これは「ユダヤ教の教義が原因」では論理的説明不能だ。因果を入れ替えるな。

ユダヤ教は「俺たちだけ箱舟に乗れる」などと言っていない。

タルムードは七つのノアの掟を全人類普遍倫理として扱い、それを守る諸国民の義人は来世に分け前があるとする。

ラビは明確に「七戒を受け入れ守る者は諸国民の敬虔な人であり、来世に分け前がある」と書いている。

さら現実ユダヤ社会行為イスラエルユダヤ人ではない救援者に「諸国民の義人」の称号公式に授与している。

ユダヤ人を「ゴミ」扱いする思想共同体だとしたら、非ユダヤ人を国家記憶に刻むか?事実はお前の自己放尿と真逆だ。

お前の「ユダヤ傲慢ヒトラーが切れた→虐殺」は、個人的体験一般化、因果逆転、そして加害の正当化というトリプル自己放尿だ。

ナチ動機ユダヤ教の教義ではなく、ナチ自身人種イデオロギーだったという一次・公的機関資料が山ほどある。

怒鳴り声で史料ねじ曲がらない。金で信念を売り買いする発言も論外だ。真理は財布の厚さでは決まらない。

今お前がやっているのは、床にぶちまけた自己放尿を指差して「見ろ、大洪水だ!」と喚いているのと同じだ。

お前が本当に「俺は詳しい」と言い張るなら、まともな資料に一度でも当たれ。

読むだけで自分の主張が崩れるのが分かるはずだ。

怒りを燃料に嘘を撒く生活今日で終わりにしろ。今ならまだ、事実の側に戻れる。

Permalink |記事への反応(0) | 23:42

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2025-07-31

ネットバカ話題で溢れているのは人間という存在設計ミス

Q:人間は「設計ミス」なのか?

A: いいえ、人間意図的に「未完成」に創られた存在です。

タナハ(聖書)ではこう語られています

「神はご自身のかたちに人を創造された」(創世記 1:27)

しかしそのすぐ後に、人間は間違い(エデンの園での罪)を犯します。

そして、タルムードニダー 16bなど)ではこうも語られます

「人が生まれる前に、天使は彼にすべてのトーラーを教え、彼はすべてを知っている。だが生まれる瞬間、その知識を忘れてしまう。」

まり人間は「完全ではない状態」で生きることを運命づけられています。なぜか?

これはタルムード的に見ると「自由意志」の問題です。

神は人間に「善と悪を選ぶ力」を与えました(申命記 30:19)

「命と死、祝福と呪いあなたの前に置いた。あなたは命を選びなさい。」

インターネットはこの「選択の自由」を広げた道具です。

それゆえ、価値ある知恵も、くだらない話題も、善も悪も、全てが並んで存在しています

タルムードハガーガー(Chagigah 15a)では、エリシャ・ベン・アブヤ(「アヘル」)というラビが、知識誤用して道を踏み外した話があります

彼はトーラーを知っていたが、その知識を神への謙虚さに使わなかった。

知識や道具は中立だが、それをどう使うかは人間次第。

インターネットが「バカ話題」で溢れているなら、それはむしろ自分が何を選ぶか、何に目を向けるかのテストでもあります

賢者はどこから学ぶのか?あらゆる人からだ」(タヒリーム /詩篇 119:99)

まり、「バカ話題」の中からも、何かを学ぼうとする姿勢が求められているのです。

Permalink |記事への反応(0) | 22:30

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自由意志の欠如が愚を生む?自由意志が愚を生む?

聖書タルムード観点から見ると、自由意志の欠如は人間責任や学びの機会を奪うとされています

ユダヤ思想において、人間自由意志を与えられており、それこそが「正しい道」と「悪の道」を選ぶ根本の前提です。

「見よ、わたし今日あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。」 —申命記 30:15

ここでは選択の自由が明確に前提とされています自由意志がなければ、このような選べという命令無意味になります

また、愚かさはしばしば無知や不学、または自分の行動に対する責任理解しないことからまれます

自由意志がない状態では、人は学び、悔い改め、改善することが難しくなります

したがって、自由意志の欠如は、無知無責任な行動につながり、結果として愚を生むことがある、と言えるでしょう。

一方で、自由意志を持っているにも関わらず愚かな選択をする人も多い、というのが人間現実です。これはタルムードでも繰り返し論じられています

たとえば、神が人に自由意志を与えたのは、善を選ぶことによって人が成長し、報酬を得るようにするためです(ベラホット 33b)。しかし、選択の自由悪用することも可能です。

愚か者は自らの道を正しいと思う、しかし知恵ある者は忠告を聞く。」 —箴言12:15

まり自由意志のものは愚を生む原因ではなく、それをどう使うかが問題です。

自由意志があるがゆえに愚かな道を選んでしま場合、それは自由意志問題ではなく、性格教育、徳の問題として捉えるべきです。

タルムードではこういったテーマを非常に深く扱います。以下のような教えがあります

「すべては天から定められている。ただし神への畏れを除いて。」 — ベラホット 33b

この有名な言葉は、人生の大半は定められているが、神への畏れ(=道徳的選択)は人の自由意志に委ねられていると語っています

Permalink |記事への反応(1) | 10:05

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2025-07-29

ユダヤ教ニューエイジ思想とは違う

引き寄せの法則」「風の時代」は、現代スピリチュアルの一部として知られています。これらはユダヤ教の教えとは明らかに一致しません。

人間意志祈りの力

ユダヤ教は、人間意志祈りを非常に重視します。

たとえばサムエル記では、ハンナが深く神に祈ったことで息子シュムエルが授かりました。

これは「願いが神に届く」という点で、一見すると、引き寄せの法則に通じるものがあります

ただし違いは誰に向かって願うのか。

ユダヤ教では神に向けた祈り重要であり、宇宙自分自身思考が直接現実をつくるという考えは採用しません。

神への信頼

ユダヤ教では「自分が望む結果が起こる」というよりも、「神の導きにすべてを委ねる信頼」が大切とされます

「主にあなたの重荷をゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。」(詩篇 55:23

まり、神の意志が最善であると信じ、安心して生きる姿勢が重視されます

積極的な行動

ユダヤ思想では、「ただ信じる・願う」だけでなく実際の努力を伴うことが重要です。

奇跡に頼るな」(シュルハン・アルーフなど)

まり「願えば叶う」ではなく、「祈って、信じて、努力する」ことが神にかなう生き方とされます

ユダヤ教は「星の力」や「時代エネルギー」を認めるか?

ユダヤ教古典文献、とくにタルムードには占星術の話が登場します。

ラビたちは「星の下に人が生まれる」という考えを知っていましたが、それに絶対的な力を認めていたわけではありません。

イスラエルには星占い支配しない」(タルムードシャバット 156a)

これは、神と直接の契約を持つイスラエル(=ユダヤ人)は、星や運命に縛られないという意味です。

まり、「時代の風」や「エネルギー」に流されるのではなく、トーラーとミツヴォットによって人生を導くべきだとされます

ある意味で、「時代に応じた使命」という考えはユダヤ教にも存在します。

しかしそれは「星やエネルギーによる変化」ではなく、神の意志による摂理です。

ダビデの詩:主はわが牧者、私には欠けるものがない」(詩篇23:1)

この詩のように、ユダヤ教では時代がどうであれ、神がすべての導き手であるとする信念が核にあります

まとめ1:ユダヤ教と「引き寄せの法則」の違い

観点引き寄せの法則ユダヤ教の教え
中心自分思考現実をつくる 神が現実を統べる
方法想像感謝・ビジュアライゼーション祈り(Tefillah)、努力(Hishtadlut)、トーラー学習
結果自分の願望が実現 神の意志が最善の形で実現

まとめ2:ユダヤ教と「風の時代」的価値観の違い

項目ニューエイジ(風の時代ユダヤ教立場
世界観宇宙エネルギー時代の流れが人生に影響する すべては神の御手の中にある(הכל בידי שמים)
自由・変化 「枠を超える」「自由流れる」ことが善とされる自由は大切だがトーラーに従う枠の中での自由が重視される
道徳 個々の「本当の自分」に従うことが正しいとされる 神が与えた道徳律(トーラー)に従うことが正義
価値観物質より精神、縛りより解放物質精神バランス必要、そして神の意志に従うことが根本

インスピレーションのことば

「主に仕えよ、喜びをもって」(詩篇 100:2)

人生で前向きな心を持ち、神を信頼し、善を求めることは、確かに「善を引き寄せる」人生につながります

ただしそれは「宇宙法則」「自己中心的世界」ではなく、「神との関係」の中で実現されるのです。

Permalink |記事への反応(0) | 23:06

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