
はてなキーワード:タイムカプセルとは
三島由紀夫の『仮面の告白』を読んだ。本来であれば、読了後の感動が冷めやらぬうちに書評を書くつもりだった。しかし、どうしても筆が進まない。この作品が鋭利な刃物のように「お前の仮面の下には何があるのか」と喉元に突きつけてくるからだ。安全圏から批評することなど許されない気がした。
だから僕は書評を諦め、代わりに僕自身の、あまりに個人的なある「恋愛」のようなものについて書く。
最初に断っておく。僕は同性愛者ではない。少なくとも一般的な意味において、男性の肉体を性的に欲することはない。 それでもかつて僕は、インターネットの海で出会ったある「彼」に、異常な偏愛を抱いてしまったことがある。 それは性愛というよりは、三島の小説の主人公が「聖セバスチャン」の殉教図に欲情したような、破壊と美が混在した倒錯的な眼差しだった。
当時、僕はTwitter(現X)という場所に漂う、独特の湿度が好きだった。自分の弱さや「メンヘラ感」をあえて露悪的に見せつけ、それを人質にして他者に寄りかかろうとする、あの「よわよわしい」文章たち。 彼は、その中でも一際異彩を放っていた。
どうしようもなく顔立ちの整った、かわいい男の子だった。 中上流家庭に生まれた育ちの良さを滲ませながら、現役で東大に落ちて、浪人生活を送っていた。 でも、彼から感じたのは受験生の悲壮感ではない。社会的な所属が宙ぶらりんになった真空地帯で、静かに窒息しかけているような危うさだ。
志望校を京大に変えたというのも、いかにも彼らしかった。 東の都の競争原理よりも、西の古都のほうが、彼の浮世離れした感性には似合っている。 結局、彼がその春に桜を見ることができたのか、僕はよく覚えていない。
ただ覚えているのは、彼がいつも何か別の世界を見ていたことだ。 彼のタイムラインは、彼の脳内みたいにノイジーだった。平沢進の壮大な音楽で救済を求めたかと思えば、lilbesh ramkoのような、脳髄をヤスリで削るようなグリッチ音を好んで聴いていた。
そして、何よりも僕の胸を締め付けたのは、彼がふと呟いた小学生の頃のエピソードだ。学校で「十年後の自分へ送るタイムカプセル」を作る授業があったとき、彼は未来の自分への手紙の隙間に、こっそりと「博麗霊夢」のイラストを描いて忍ばせたという。 なんとも、インターネット的な業と、無垢な少年性とが混ざり合っていて、僕はそのツイートを見て、どうしようもなく彼を愛してしまった。
そんな彼が、浪人が決まって一人暮らしを始めたときのことだ。親の金で借りたであろう小綺麗なアパートの一室。彼が上げた本棚の写真。
少年のような無垢さと、現代的な感傷と、アカデミズムへの真摯な野心。 その三つが奇妙なバランスで並んでいる写真に、僕はリプを送った。 「読んでる人を表してるみたいな本棚だね」
「ありがと、うれしい。でも半分ぐらい読んでない」
その正直さと、間の抜け方。それが彼だった。難解な哲学書に手を伸ばす一方で、『星の王子さま』を必要としている。そういう矛盾に、僕はつい心を奪われてしまった。
もっと単純で、動物的な理由もあった。 読者には見えない、消えてしまった140字の羅列。その隙間で、彼が僕に与えた「餌」の話をしなければならない。
当時の僕は、固定ツイートに**「五十六億七千万個まで質問答える。NGなし、期限なし」**という、弥勒菩薩気取りのふざけたタグを掲げていた。 彼がそれに反応し、「僕のこと好き?」と投げてきた。冗談混じりのやり取りのつもりだったのだろう。だが彼は引かず、何度も「好き」と繰り返した。 僕はそれをまともに受けてしまった。要するに、彼もまたズレた人間で、僕をある意味で好いてくれていた──それだけで十分だった。
その言葉は、当時の精神的に飢餓状態にあった僕にとって、劇薬だった。コンビニの駄菓子のような安っぽい言葉だったとしても、僕には高級な宝石のように思えた。 吞み込んだら、脳の奥がしびれた。
こんなにかわいく、あんなに残酷に、人の心に入り込める彼という存在そのものに、僕はどうしようもなく狂ってしまった。 そして、彼が「首絞め」を好んでいたという事実を知ったとき、僕は妙な納得感と同時に、どうしようもないエロさを感じた。
その瞬間を、僕の手で与えてあげたかった。 ウワバミに飲まれるのでもなく、毒蛇に噛まれるのでもなく、僕の手で。 彼が苦しげに喘ぎ、白目を剥き、よだれを垂らして「あちら側」へ行こうとする様を、特等席で眺めたかった。 彼を救ってあげたいという気持ちと、僕の手の中で彼が壊れていくのを見たいという嗜虐心は、僕の中で完全にイコールだった。
あんなにかわいくて、あんなに儚い男の子が、僕の手の中で痙攣している。 その想像だけで、僕はどうにかなりそうだった。 実際にその夜、彼を思いながら熱を吐き出したのかどうか、記憶は定かではない。ただ、ありふれた性の記憶ではなく、僕の脳裏に焼き付いているのは一つの光景だけだった。
――彼の首を絞めながら唇を重ねる、美しく結晶化されたイメージ。
しかし、そのイメージがあまりに完璧すぎて、僕は身動きが取れなくなっていた。 僕の思いを彼に伝えるのも怖かった。受け止めてくれるような気もしたけどね。
結局、僕は彼にやり方を聞いた。 「首絞めはきもちーよ」と無邪気に語る彼に、あくまで好奇心を装って。本当は彼にするはずだった行為を、自分の体で代替するために。
彼は何も知らないまま、「首吊りは危ないから、まずは気絶したらちゃんと空気が通るようなやり方にしたほうがいいよ」と親切にアドバイスをくれた。 僕はその言葉に従い、深夜、自分で自分の首を絞めた。 彼に向けられるはずだった愛と暴力を、独りよがりに自分の気道へと押し込んだ。
気道が塞がる。血流が止まる。視界の端からノイズが走り、意識が遠のく予感の中で、僕は愛の正体を捕まえたような気がした。
しかし、美しい魔法は唐突に解けた。生理的な拒絶反応に耐えかねて手を離した瞬間、僕はただ激しく咳き込んだ。 口の端から垂れたよだれが、冷たく顎を伝う。
熱に浮かされていた頭は急速に冷え、ゼーゼーと鳴る喉の音だけが部屋に響く。 布団の上で天井を見つめる僕の肌に、深夜の冷気がじっとりと張り付いた。ネット上では「窒息はコカインと同じくらい気持ちいい」などという言説もあったが、嘘っぱちだと思った。これならコカインをやったほうが簡単だろう。
ふとスマホを見ると、彼がツイートしていた。 「フォロワーに変なこと教えちゃった」 それを見て、僕は「かわいいなー」と他人事のように思った。
僕と彼の間に生まれた、共犯関係のようなむず痒い楽しさ。それを彼も少しは感じてくれていたのかもしれない。 そんな、三島由紀夫の描く血生臭いエロスとは程遠い、僕の「告白」である。
結局、この話にオチはない。 僕はおよそ一年間、彼のツイートを見てときめき、その文章を愛でていただけだ。会ったこともなければ、DMで深い話をしたわけでもない。 せいぜいリプと空リプで少し言葉を交わした程度。 彼はおそらく、僕のことなど覚えていないだろう。
鮮烈なエピソードもなければ、ドラマチックな結末もない。 僕がTwitterのアカウントを消したので、彼の消息は不明だ。 もちろん、彼ほどの人間がインターネットを辞められるとは思えない。おそらくTwitterの検索欄に彼の名前、あるいはかつての僕のアカウント名を打ち込んで、そこから逆にたどれば一時間もしないうちに再発見できるだろう。
しかし、僕はいまだに一度たりともそれを試みていない。 彼が変わってしまっているのが怖い。僕は臆病者だ。 もし、万が一彼を見つけて、彼が当時の「よわよわしさ」を克服し、精神的に自立し、強くたくましい大人になっていたとしたら?
友人として、それは心から祝福すべきことだ。彼には幸せになってほしい。本来なら地上では窒息してしまうはずの天使が、奇跡的に舞い降りたようなものだ。 けれど、それと同時に、僕の胸の奥で黒い感情が鎌首をもたげる。
彼が強くなること。それは僕が愛した「彼」の消失を意味する。 あの頃の、儚くて、今にも壊れそうで、だからこそ首を絞めて永遠に閉じ込めておきたかった「彼」は、もうどこにもいないことになる。
僕は彼に幸せになってほしい。 けれど、僕が愛せるのは「不幸で、弱くて、美しい彼」だけなのかもしれない。 だから僕は彼を探せない。
彼がどこかで笑っていることを祈りながら、その笑顔を見たくないというエゴを守るために、僕はもうまともにTwitterなんかできない。 たぶんもう一回始めたら、いつかは検索してしまうから。それで見つけられなかったら、それも怖いし。 彼は今にも死んじゃいそうだったから。
三島の『仮面の告白』のラストシーンで、主人公は日常という虚無の中で、乾いた心でダンスホールを眺める。 僕もまた、彼を探さないという「仮面」を被り続けることで、あの奇妙な二重性の中で、彼を生かし続けている。
そう、僕は彼を愛していた。 首を絞めながら、彼の唇を塞ぎたかった。 その暴力的な愛の感触が、今も僕の手のひらには残っている気がする。
今になって、こんな場所でこれを書いているのは、僕という異物を彼の喉に引っ掛けたくなったからだ。 探さないと言いながら彼に読まれることを期待している、矛盾した行いだけれど。
最後に、かつて彼が愛し、僕もまた愛した曲の話をして終わる。神聖かまってちゃんの『天使じゃ地上じゃちっそく死』。 彼はかつて、この曲を好んで聴いていた。
今の彼は、天使であることをやめて、平穏な地上でうまく呼吸ができているのだろうか。 それとも、今もどこかで、地上の空気に馴染めず、窒息しかけているのだろうか。
僕にはわからない。 だからこそ、この曲を聴くたびに、僕の脳裏にはやはり、あの頃の苦しげに喘ぐ彼の姿が浮かんでしまうのだ。
平素より弊社商品「マジックカット袋(切れる!どこからでもスーッと!)」をご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
この度、誠に遺憾ながら、2025年11月製造ロットの一部において
「いくら引っ張っても切れなかった」
「ハサミで切ったら普通に切れた」
お客様におかれましては、
・袋を開けようとして30分以上格闘した
・最終的に袋ごとゴミ箱に放り込んだ
【対象商品】
製造番号:MC-202511XX(袋の底に小さく書いてあるやつ)
【回収方法】
恐れ入りますが、該当の「切れなかった袋」をそのままの状態(中身が入っていても可)で下記までお送りください。
※切ろうとした痕跡(爪痕・歯形・絶望のシワ)があるほど高額査定いたします。
送り先:
〒999-9999
株式会社マジックカット本舗 回収課「切れなくてごめんなさい係」
【補償内容】
・精神被害補償として「もう一生袋と戦わなくていい券」(有効期限:永久)
なお、今回の不具合品は「切れない」を極めた結果、
・防災用の非常用袋
として異例の人気が出ており、回収を拒否されるお客様が続出しております。
「むしろこのままでいい!」という猛者の方は、そのままご愛用ください。
袋よりも厚くお詫び申し上げます。
(プロンプト)
Grokで「【探しています】切れなかったマジックカットの袋。というタイトルで、製品回収のパロディのように案内文を書いて」と指示。
この命題は一見、居酒屋の冗談のように聞こえるかもしれません。一般的に文明の利器として挙げられるのは、火、車輪、あるいは文字でしょう。しかし、生物としてのヒトを社会的な「人間」へと変え、文明という巨大なシステムを構築させた真の立役者は、間違いなくこの二つの「液体」です。
なぜ、ただの煮汁と発酵飲料がそれほど重大な役割を果たしたのか。その歴史的かつ科学的な真実を紐解いていきましょう。
人類史における最大の革命の一つは、土器の発明によって「煮る」ことが可能になった瞬間です。それ以前、直火で焼くことしか知らなかった人類にとって、スープの誕生は生存戦略を根底から覆す出来事でした。
生の食材や、単に焼いただけの肉や硬い根菜を消化するには、莫大なエネルギーが必要です。他の霊長類は、起きている時間の多くを「咀嚼」と「消化」に費やしています。しかし、食材を水と共に長時間煮込むスープは、言わば**「外部の胃袋」の役割を果たしました。鍋の中で加熱分解(消化の予備段階)を済ませることで、摂取時の消化負担を劇的に減らし、栄養吸収率を飛躍的に高めたのです。 この余剰エネルギーはどこへ行ったのか? それが「脳」**です。スープのおかげで、人類は消化器官を縮小させ、その分のエネルギーを脳の巨大化へと回すことができました。
スープがもたらしたもう一つの奇跡は、「歯のない者」の生存を可能にしたことです。狩猟採集社会において、歯を失うことは死を意味しました。硬い肉を噛めなければ餓死するからです。しかし、スープは違います。咀嚼が不要な流動食は、歯を失った高齢者を生きながらえさせました。これは人類にとって決定的な意味を持ちます。なぜなら、長老たちは「過去の経験」「狩りの知識」「物語」「薬草の知識」という文化のデータベースそのものだからです。スープによって高齢者が生き残ることで、知識が次世代へ口伝され、人類の知恵は蓄積を開始しました。スープは「福祉」の始まりであり、文化継承のインフラだったのです。
スープが「個体」を生かしたなら、酒は「集団」を結びつけました。 近年、考古学の世界では**「パンよりも先に、ビールを作るために人類は定住した」**という説(宴会説)が有力視されています。
初期の人類にとって、家族以外の他者は「敵」であり、常に警戒すべき対象でした。しかし、集団規模が大きくなるにつれて、見知らぬ他人とも協力し合う必要があります。 ここで機能したのがアルコールです。酒は前頭葉の抑制機能を麻痺させ、不安や警戒心を解きほぐします。焚き火を囲み、同じ甕(かめ)から酒を酌み交わすことで、他者への警戒心は「仲間意識」へと書き換えられました。人類が数百人、数千人の都市を築くためには、シラフの緊張感だけでは不可能でした。酒という化学的な潤滑油が、「他人を信じる」という社会契約を成立させたのです。
古代において、生水は死のリスクを伴う危険なものでした。病原菌が潜んでいるからです。しかし、発酵プロセスを経た酒(ワインやビール)は、アルコールと酸によって殺菌された**「安全な水分」**でした。中世ヨーロッパに至るまで、酒は嗜好品である以前に、生存に不可欠なライフラインでした。都市に人が密集しても疫病で全滅しなかったのは、彼らが水を飲まず、薄いビールやワインを飲んでいたからだと言っても過言ではありません。
酩酊状態は、古代人にとって神や精霊と交信するシャーマニズム的な体験でした。この「理性のタガが外れる」瞬間は、芸術や宗教儀式を生み出し、論理だけでは到達できない創造性の源泉となりました。現実は過酷ですが、酒による変性意識は、人々に希望や物語を見る力を与えたのです。
スープと酒。この二つに共通するのは、**「自然界にあるものを、化学変化(加熱・発酵)させて、人間にとって有益な形に変える」**というプロセスです。
さらに重要なのは、これらが**「待つ」ことを人間に教えた点です。スープを作るには、材料を煮込む長い時間が必要です。酒を作るには、穀物や果実が発酵し熟成するまでの、さらに長い月日が必要です。 この「待機時間」は、人類に「計画性」と「忍耐」**をもたらしました。明日のスープのために今日薪を集める。来年の酒のために今年種を蒔く。この未来への投資こそが、文明の基礎です。
現代の私たちもまた、スープと酒に支えられています。風邪を引けば温かいスープで身体を癒やし、祝いの席や悲しみの席では酒を酌み交わして心を共有します。
人類を進歩させたのは、鋭利な槍でも堅牢な城壁でもありませんでした。 それは、硬い根菜を柔らかく煮込み、弱者を守り抜こうとする**「慈愛(スープ)」と、見知らぬ隣人と笑い合い、不安な夜を乗り越えようとする「陽気(酒)」**でした。
この二つの液体があったからこそ、私たちはただ生き延びるだけでなく、人生を「味わう」ことができるようになったのです。 今夜、あなたの前にあるスープとグラスの中には、数万年の人類の叡智と歴史が、静かに波打っています。
いかがでしょうか。 「スープは身体の安全を、酒は社会の結合を担った」という視点で構成しました。
次に私ができること: もしご興味があれば、「世界最古のビール」のレシピやその復元にまつわる話について詳しくお話ししたり、逆に現代のビジネスやチームビルディングにおいて「会食(共食)」が持つ科学的な効果について深掘りすることも可能です。いかがなさいますか?
もう何年も前のことなのに、当日の記録動画が見たくて見たくてたまらない。
当時は撮られるのは恥ずかしいし高いし全く興味を持たず切り捨ててしまい、無駄なところは削って予算を膨らませない自分の判断が賢いと思っていた。ぶん殴りたい。
ゲストのおもてなしや料理にコストを割こう、と夫婦ですんなり一致していたおかげで、とてもいい時間を過ごせたと思ってはいるが。記録にもしっかり課金しろ。
動きのある自分たちや、親族友人の声、スピーチを含めたあの日の空間・時間の記憶が時間と共に薄れていっていること。
それが自分にとってとても悲しく、今更になって録画を頼まなかった事を後悔しっぱなしである。
ついでに言うと新婚旅行もムービーで残せばよかったし、これまでの2人の生活や風景も残せばよかったと思っている。
そんな事するなんて自分たちのこと好き過ぎるだろ、ウエディングハイじゃん。そうはなりたくないし周りに思われたくない。とか思っていたのに唐突にこれである。
いやいや、それでいいじゃん!いいんだよ!
その時その時を楽しんでいたからいいことではないかという自分よりも、たまにでもいいから撮っていれば記憶や思い出をタイムカプセルのように出来たのに…と思う自分の方が今は強い。
写真はたまに残していたけれど、動きや音のある動画の情報量は物凄いんだな…と気付くのが遅過ぎた自分が嫌になる。というか馬鹿である。
これから撮っていこう、とか今手元にある写真や思い出を大事にしよう、という前向きな考えはもっともだが正直その気になれない。
無論ここに執着するよりもっと生産的な時間や思考のリソースの使い方があると思っているが。
叶うことなら当時に戻って動画オプションを付けたいし、自分たちの動画記録を残せと怪文書を残したい。
タイムスリップして過去に干渉することは不可能だとしても、早く記憶や過去の記録を生成・複製する技術が出てきてくれないか…と思う今日この頃である。
少し前にタイムカプセルを掘り返したけど、そのときの幹事の人がめちゃくちゃ頑張って、どうにか全員に連絡を取って渡してたな
連絡が取れない人のFacebookにアカウントを見つけたけど、数年間更新されてなかったから、そいつの関わりがありそうなアカウントで今も更新を続けてる人に連絡を取って、今でもリアルで連絡を取れるかどうか聞いてみたりとか。
基本は卒業アルバムに載ってる住所に実際に行ってみたみたいだけど、不審者扱いされることも多かったみたいで、証明用に卒業アルバムを持ち歩いてたとかで、まあ大変だったみたい。
10年ほど前に小学校のクラスの同窓会があった。一学年1クラスで6年間持ち上がりだった。
私は事後に知った。後年機会があって幼馴染にその時の写真を見せてもらった。
連絡もなかったことについて、呼びたくないと思われたとか会いたいと思われてなかったんだという感傷的なショックは当時もあまりなかった。
呼ばれたところで自分としても楽しくもなかっただろうし。
同窓会の肝は小学6年生の授業時間に作った文集や各自の将来への手紙、その他細々したものの入ったタイムカプセルの開封だったはずだ。全員分密封したタイムカプセルをクラスの1人の子の家の倉に保管したのだ。
断片的に何を書いたかも、24歳になったら開けると決まったこともずっと覚えていた。本当にやるのか疑わしくはあった。やらないならやらないでだけどと。
そんなあっさり他人の埋めた分の手紙や文集を読み返す権利を奪えるのかと、何がなんでも読みたかったわけじゃないけど、私の連絡先を探す努力の形跡もなかったことに、不満を覚えるようになった。
小学生のころはまだ平気で連絡網が各家庭に配られていた時代で、家の固定電話は変わっていない。幼馴染とは連絡先をお互い知っているし彼女に連絡が取れたなら彼女に聞くまでだ。そもそも農家と公務員教員しかいないような地域なので、親同士の教員コミュニティを多少使えば一発で私の親にはリーチできるのだ。
めちゃくちゃ頑張って欲しかったわけじゃない。でも最初から無努力で完全スルーされた感覚がある。形式的にでもいいから連絡先を探す仕草がなかったことにイライラする。
別に好きとか嫌いとか抜きにしても儀礼的に一報あってもいいじゃんか。
今日、ぼーっとしてたら、ふいにあのメロディーが聞こえてきたんだ。
「テン、テン、東京ドームシティ!」
これ。これだよ。
若い子は知らないかもだけど、たぶん20年くらい前かなあ。俺がまだ幼稚園児だった頃の話。
日曜日の朝といえば、テレビ朝日だったんだよ。まあ、たぶんみんなそうだったんじゃないかな。戦隊シリーズとか、仮面ライダーとか、プリキュアとか、そういうのを見てた時間帯。
で、その番組と番組の間とか、CMタイムになると、高確率で流れてたのが、東京ドームシティのCMなんだよね。
なんか、色んな場所が映ってて、すごく楽しそうな雰囲気だった。子供心に「うわー!行きてえええ!」って思ってた記憶がある。
ジェットコースターとか、ヒーローショーの告知とか、キラキラして見えてさ。
で、そのCMの最後に流れる、あのサウンドロゴが、もう強烈に耳に残ってるんだよ。
映像がパッと切り替わって、たしか東京ドームシティのロゴが出てきて、あの女性の声で。
「テン、テン、東京ドームシティ!」
子供だった俺は、あのメロディーを聞くたびに、テレビにかじりついて「ここに行きたい!」って言ってた気がする。親に「いつか行こうね」とか言われたりしてさ。
結局、いつ行ったかはっきり覚えてないんだけど、あのCMとサウンドロゴは、俺の中で「日曜日の朝のワクワク感」と完全にセットになってるんだよね。
パジャマのまま、リビングのソファでゴロゴロしながらテレビ見てて、あのCMが流れると、一日が始まるぞ! みたいな気持ちになってたなあ。
今思い出すと、あのサウンドロゴ一つで、当時の空気感とか、家のリビングの匂いとか、日曜日のちょっと特別な感じとか、全部ブワーッと蘇ってくるんだから不思議だよ。
たかがCMのサウンドロゴなんだけど、俺にとってはタイムカプセルみたいなもんなんだな、きっと。
「テン、テン、東京ドームシティ!」
成人式になってタイムカプセルを開ける話になって、小学校の体育館の倉庫に保管されていた箱を開けた。
自分含めた大多数の物が無くなっていた。
本は有名な物だったからいいとして、自分に宛てた手紙が読めなくなったのは悲しかった。
話によると前年の卒業生が開けたとかで、めぼしい物は持ってかれたらしい。(前年の卒業生はかなり荒れたクラスだったので不思議ではない。)
あと、タイムカプセルを開けるときにグループラインで「自分のは処分してください」「(実家に)届けなくていいです」というのが並ぶのもなんか切なかった。
地元に帰れない人たちとかだからしょうがないのだけど、楽しみにしていたのって少数派だったのかと。
タイムカプセルを受け取りに来たのはクラスの半分以下くらいだった。
タイムカプセルを作る当時、先生が「無くなってもいい物を入れろよー」と言っていたのを思い出す。
実際無くなったわけだけど、無くなって良かったわけじゃないんだよなあ。
めちゃくちゃ久々に地元に帰った。
中学卒業から10年近く経つし、親が別の地方に転勤した結果上京したきり顔を出していなかったので、再会は難しかろうと思われた。
が、声をかけたところ美術品部員たちは意外と集まった。やさしい。
みんな就職して綺麗になってるんだろうなー、仕事で頼もしくなってるのかな、結婚出産してる子いるかも?とワクワクで向かう。
自分の中学の場合、このときけっこう忘れてたが美術部員は大人しく真面目で学業もしっかり収めるか、やたら本とか漫画読むけど成績は悪くコミュニケーション能力も低いかの2タイプがボリューム層であった。
そこで余計な同窓会を企画し、これらの層を一同に集めるとどうなるか。
綺麗で垢抜けた上品アッパーミドルお姉さん数名が、年齢不詳お姉さんのワールドイズマインに合いの手を入れる。
可愛くて良い子友達の手前。絶対に笑ってはいけない、細かすぎて伝わらない首を絞められた演歌歌手のモノマネ風ボカロ曲3分間。
そおゆ〜〜うあつかい、ここ、ろ、え〜、て〜〜〜(苦しそう)
ここはまだ大丈夫だった。
トイレに駆け込んだ。
なんでなんだよ。なんでお前だけ銀魂ハマって染まり、薄桜鬼に出会って大人向けの作品読んでる自分♡から話の内容も歌い方も時計の針進んでないんだよ。タイムカプセルとかシーラカンスの仲間だろ。
ちゃんと他の子はめっちゃ可愛かった。婚約とか結婚してた。優秀さを武器にスピード昇進を決めてる子もいた。なんだかんだみんなひっそりオタクやってるから、3人とは今度の観劇とかイベのあとディナー行く予定立てた。
なんなんだろうこの感情。
あーあ。
長文&乱文しつれいしますた!!まさにやまなしオチなし意味無しです乁| ・ 〰 ・ |ㄏ
さんざん言われてた通り、前作に比べるとメインはいまいちだったなあ
adoのおまえらのせーだーってしゃがれ声でうたうテーマソングも不快だし
マンガの怨み屋本舗をちょっと壮大にしてみましたてきな感じだった山本耕史は
キムタクの捜査はいきあたりばったりだし、澤先生にあそこまで入れ込む理由/必然性も薄いし
キムタク自体の問題は前作で全部解決しちゃってるから、キムタクを絡ませるために苦労してる感じはした
玉木宏はローグギャラ駆使―で下手だったって印象強かったけど、さすがにキャリア20年詰んだらうまくなってたわ
途中のナベさんが一番強かった
ps5の恩恵でタクシーのファストトラベルがロードほぼ無しだったのが快適だった
楠本のおばちゃんが会社の掃除のおばちゃんそっくりでめっちゃ萎えた
サブはいろいろあるらしいけど全然やる気にならなかったからほぼやらなかった(タイムカプセルと人体模型だけやった
ダンス部は龍が如くの遥のダンスシナリオを想像してたらこっちのほうがくそむずくてやる気にならなかった
探偵クラブもダンス部すすめんと先見れないらしかったからめんどくてノータッチ
リアルすぎて調べるべきポイントとそうでない部分の差がなくて、調べられるポイントが全然わからんから
ステルスゲー部分は作業ゲーになっててもうこれいらんだろというレベル
東が相変わらずあざとくてかわいかった
なんかカイトウさんの顔が濃くなってる気がした
ps5のせい?それとも続編でなんかゲームエンジン変わったんかね
とりあえず気になってたのがゲームカタログでプレイできたからよかったわ
値下がりもしないしねー
次はスターオーシャン2やる予定
あーでも三国無双8もやりてーんだよな
無双の方が時間かかんないだろうし、一人クリアくらいまでやるかな
くすもとの息子は羽生結弦だったな
今5時間くらいで4章
他のやりこみ要素とかガン無視してるから、わりと早い方だと思う
章はじまりの中尾彬の前回のあらすじ読み上げが滑舌わるくてきいてらんないな・・・
前作は全部きいてたけど今回はskipすることにした
キムタクが前作より棒読みっぽくなってる気がしたけど気のせいかなー
また後半にむかってこなれていったりするのかしらかしら
よくいえばナチュラルな演技だけど、かいとうさんとか残りの前作メンバーが声優で抑揚しっかりしててききとりやすいのと比べちゃうからどうしても気になる
あとキムタクの表情が前作よりもマネキンっぽい場面がおおいなって思った
セリフだけとってて顔の表情まであわせてない感じ
龍が如くはムービーシーンでも割と飛ばせてたのにこっちはたまにしか飛ばせない
龍が如くでもそうだけどストーリーきになるのにバトルで無駄にストレスためたくないから
あとすげー強い設定なのに苦労するっていうゲーム難易度の都合に振り回されるのが嫌いだから
移動はスケボーで快適になったのはよかった
ステルスゲー部分が物陰に隠れるところとか、コインなげて気をそらすとことかが製作者の許した方法以外はNGってなってて、
こんだけ作業ゲーにするならもうなくしちゃえよって感じ
まあちゃんとステルスゲーつくろうとしたら大変だし初心者向けじゃなくなるのもわかるけど
あと逆転裁判もどきの証拠つきつけとかカーソルで背景をさがしてクリックポイントさがすのがうざくてめんどいわ
道に落ちてるのもゴミくずばっかでつまらん まあ現実味あるっちゃあるけど
とりあえずメインだけすすめるかなって感じ
サブクエはいろんなジャンルの話とかミニゲームあったりして、前作より力はいってそうだけど、
他にやりたいゲームたくさんあるし本編きになるしやらないかなー
バトルで敵ふっとばしたときに人体がぐにゃぐにゃになるのはだいぶマシになってたけどやっぱりまだじゃっかん不自然なときがある
あと山本耕史がうぜえわ