
はてなキーワード:セカイ系とは
エヴァオタクだけど、見てなかったんだよね、見れなかったというか
内容は知ってたけど
28年ぶり?25年かな
思ったより分かりやすかった
てかシンの方がむずくね?わからせる気無かったよねあれ
ゲンドウが人類補完計画やろうとしたら、綾波がシンジのところ行って「どするー?」って聞いたらシンジも人類補完計画望んで
なんやかんやあってやっぱやーめたってなったってことだよね?
(合ってるかな)
徹頭徹尾、ロボものに見せかけたSFものに見せかけた内面重視の話なんだよねエヴァは、セカイ系そのもの
こういうのが定期的にブームになる
ジークアクスもそうだったけど、本筋が属人的で、特定の人物でないと成立しない。盛り上がるセオリーだけど、一般化できないのでスケールしない。これがセカイ系の構造。
https://x.com/nojiri_h/status/1982418203935748460
そもそも小説は「特定の人物でないと成立しないような小さい話」だから小説(そういうミニマムなとこをクローズアップしないと見れないものも世の中にはある)なのだが
それを「そんな小さい話を読むのは嫌だ! ひとつ読んだら大きいスケールじゃないと嫌だ!(だけど学問を真面目に勉強して大きい話にちゃんとコミットするのは面倒くさい)」という、めんどくさがりの大衆のために用意されたのが
「小説だけど大きい話できますよ」と小手先でやらかすミステリやSFだったのに、
いつのまにか「大きい話ができない普通の小説はだめだ、やはりSFだ」みたいな頭おかしい認識になってしまった
大きい話を読みたかったら真面目に教科書読めよ勉強しろよ、と言わずに「小説」をくさして「SF小説」を持ち上げる
よく陰謀論にハマるのは情報の真偽の見極め力だとか比較検討力の弱さが原因だよって説明がされているけど、
もちろんそれもあるんだけどそれ以外にも「世の出来事が自分の生活に直結してるという実感」が強すぎるのも考えモンなんじゃないかって思ってる
なんか知り合いのおばちゃんで「皇室の誰々が実はすげー性格悪いのよ!!!」みたいなのがいるんだけど、
なんで未来永劫平民の、皇族と接点持ちようがないアンタがそこまで皇族を「自分ごと」としてとらえてんだよって思ったりする。
皇室だけじゃなくて、陰謀論にハマる人が信奉してる陰謀論って、たいていは「でもそれが真でも儀でも、あなたの生活にそれほど大きな影響ありませんよね?」みたいなことが多い。
「世界を裏で操ってる巨大組織」みたいなのも多いけど、仮にその組織があったとしても、あなたはそのトシまでふつうに生活できてますよね?みたいな。
これって、世の中の出来事は「多かれ少なかれ」実生活に影響を与えてるのはまちがいないんだけど、基本的にメディアの情報の伝え方が「多かれ」ベースなので
どんな出来事にも大真面目に自分ごととして捉えるように無意識で訓練され続けてるのにも原因があるのでは?みたいな。
テレビのコメンテーターだって、そのへんの芸人でもいざワイドショーの席に座ったら大真面目に神妙な顔してかしこまった意見言ったりするよね。
以前(今も?)セカイ系ってのが流行ったけど、あれって病理として捉えなおせばようは「世界に影響を与える事象と自分の日常との境界があいまいになる」みたいなことだよね
そういう状態の人が陰謀論に親和性高そうって思ったし、情報分析力の弱さ以外にもそういう社会の状態が陰謀論信奉者を作ってる側面があるよなって思った。
多分色んなところで言われているけど、
自分の人生が上手く行ってないから、上手く行ってる物語に浸ってるだけだよなぁって
昇華?ってやつなのかな
Reゼロは普通に物語として面白かったけど、それ以外はん~って感じだった
まぁコンテンツなんざほとんど現実逃避としての側面があるから間違ってはないんだろうけどさ。
SAOは痛すぎて見れなかった。何話か忘れたけど「お前らの攻撃力より俺の回復力が勝ってるからお前らは絶対勝てねぇ」のくだりは笑った
でもJKハルは異世界ものでも普通に面白かったから、全部ってわけではない。
SF的な感じがあって面白いのも多分ある、俺が知らないだけで。
もう流行らないと思うけど、セカイ系また流行ってくんないかな。
セカイ系も痛いけど。
ジークアクスは、アイコニックで即効性のある(インスタントな)ビジュアル、演出、シナリオ表現を多用しており、その密度ゆえに観る側に強い情報負荷を与える。結果として、視聴体験がどこか疲れる。(これが楽しいというのも勿論ある。)
鶴巻監督(スタジオカラー)の作品だなぁという強い印象を受けた。
ターゲット層についても、既存ガンダムIPが想定してきた年齢層よりも幅広いリーチを狙っているように見える。(最初はみんないってたよね)
物語構造は「少年少女のミクロな視点」と「政治や戦争のマクロな視点」「世界の構造(並行世界)のメタな視点」の交差という、やっぱりちょっとカラー味のつよい構成で、この両視点の深部に迫ろうとすればするほど、初代ガンダムをはじめとした旧作の知識が避けられない要素となってくる。
しかし、仮に初代の文脈を充分に理解し踏まえていたとしても、本作はメッセージ性や語り口においてはまったく別の作品であり、その味わいは異なる。
初代ガンダムが持っている富野的メッセージ性を渇望すると損をするので注意が必要だとおもう。
全体として、ジークアクスはガンダムという巨大な文脈を土台にしながらも、独自のスピード感・刺激性を優先しており、それが逆に“観る者がキャラクターの内面に入り込む余白のなさ”や、“作品と視聴者との信頼関係の築きづらさ”に繋がっているという印象も受ける。
(自分にとっては鶴巻キター!なのである意味信頼通りでもある)(ガンダムが好きな自分の気持ちは少し蔑ろ)
ここまではなんか全体の話。
ジークアクスは物語構造上、キャラクター同士のコミュニケーションに“余白”を設けているように見える。だがこの余白すら、どこか違和感を伴う。
というのも、その会話の多くが象徴的・記号的な文脈で構成されており、キャラクターが“語っている”というより、“意味を演じている”ように見える。これが作品全体に、アイコニックでインスタントな印象をさらに強めている。
少年少女の造形ややりとりにはそれほど違和感はないが、対照的に“大人たち”がガンダム世界にしてはどこかだいぶ幼く見える。これはキャラクターデザインの印象と、言葉遣いや立ち位置の“象徴性の強さ”が作用しているように思える。
また、主軸以外の登場人物たちは非常に簡素に処理される。結果として、視聴者によっては極端に記号的に消費されるキャラクターも出てくる。
もちろん、あらゆる物語が多かれ少なかれそうした構造をもつものだが、この作品においては特にその“設計図の線”が強調されており、それを構造的に“意識させられてしまう”。ここが、観ていて妙にキモい。
マブという設定の印象付けと演出の作為性で、後半に差し掛かっても変にキャラクターは2人セットで見ることを強制される感覚がキモい。
この「キモさ」は、作劇の設計意図とキャラの生っぽさが乖離していることへの本能的な違和感とも言えるかもしれない。意図や象徴は感じ取れるが、なぜかキャラクターに“自由”がない、そんな窮屈さがあ...る...かも。個人的にはもっとマクロ構造の方の強さをもぐもぐしたいんだけどな。
セカイ系っぽい感じが強くなるオチだと少し辛い(ガイナすぎる)から嫌だなと思いつつ、自分はニャアンが好きなのでもっと活躍してほしい気持ちです!
おわり
ジークアクスのシャリア・ブルの目的って今まではてっきり、シャアを見付けて統治してもらおう、自分はそれを横で支えよう、だと思っていたんだよ。何故そうかというとシャアの思想に共鳴したからかと。
その思想とは何なのかとすごーくシンプルに言えば人類全体の平和。
初代ガンダム39話でのシャリア・ブルはシャアとの会話の中で「もし我々がニュータイプならニュータイプ全体の平和のために案ずるのです」「人類全体の為に、と取っていいのだな?」「はい!」というやり取りをする。
だけどジークアクスの10話を見る限りではシャリア・ブルの目的は、これ以上ニュータイプに人殺しをさせたくないという極めて小さなものに留まっている。そこにはその他大勢の人間の存在はない。彼はイオマグヌッソに虐殺されるその他大勢ではなく、虐殺に加担させられる平行世界のララァというただ一人だけの事を考えている。凄く世界が狭いんだよね。
一方、シャアはZガンダムにおいて、虐殺される側の視点に立って虐殺を批判している。つまりその他大勢の弱者の目線がある。
ニュータイプに人殺しをさせたくないという思考とは割と真逆。どちらかというとニュータイプという優れた人々は人類のためにその力を積極的に使っていくべきだというノブレス・オブリージュ的な考えが根底にあると思う。
ソロモン落下阻止作戦の前に「次はザビ家だ」とわざわざ宣言していたから、シャアにはザビ家を倒した後のビジョンがある程度明確にあって、シャリア・ブルはそれに共感して協力するつもりなのかと思っていた。
そしてそれはZ以降で示されたシャアの行動に近いものであるのかと。
原作では一年戦争で死んでしまったシャリア・ブルの生存で話が変わるのかと思ったんだよね。彼が支える事によってシャアはCCAのような一発逆転の成功率が低い手段ではなく、地道で長期的な手段で平和を成し遂げようとするのかと思っていた。
あと、わざわざメイン三人の一人であるニャアンというキャラを難民に設定したのは、CCAでのシャアの演説の「難民のための政治」に繋げるためなのかと思っていたよ。だから格差問題への言及を期待していた。
でも結局ニャアンはエグザべと一緒にキシリアの元に行ってしまい、マチュも特に気にかけない。今後のニャアンも難民かどうかよりもニュータイプという文脈でしか語られなさそう。
シャリア・ブルにとって重要なのはニュータイプかそうでないかという区分であり、オールドタイプには全然関心なさそう。ニュータイプをポジティブに描くってこういう意味だったの?
10話でマチュに語った内容を見るに結局シャリア・ブルにとってシャアは自分と同じく空っぽの人間だから一時的に共闘しただけで、大した思い入れはなかったって事だよね。
まだ若く未熟な上官を、自分自身の目的のために利用して使い捨てたとすら言える。そして今もマチュに対して同じ事をしているという…。要は秋元康とアイドルみたいな関係なんだよな、シャリア・ブルとマチュやシャアの関係性。シャアもマチュも鉄砲玉。
で、ギレンとキシリア同時排除計画も別にシャアとか関係なくて単に彼個人の思惑かあ。
キシリアの言う通りに薔薇を見付けてイオマグヌッソを完成させ、そのお披露目のタイミングでギレンとキシリアを同時に暗殺……が彼の計画らしいし。
まあ考えてみれば赤いガンダムが出現する以前からの計画なんだから、シャアは別に関係ないと考えた方が自然か。そういえば計画に協力していたシムス・アル・バハロフってニュータイプなのか?彼女はあくまで研究員であってニュータイプではなさそうなんだけど。
とにかくジークアクスのシャリア・ブルは10話ですっかり底が割れてしまい、つまらないキャラクターになってしまったと思う。あまりにも浅い。
勝手に妄想していて悪かったと言われればそれまでだけど色々とがっかりしたな。
まあ、シャアの方も原作と同じとは限らないし、全てララァを助けるためだけに動いていてもおかしくはないんだよな。
ジークアクスのシャアは人類とか大きい事を考えず、ララァの事だけ考えてララァと一緒になりますって話なのかもしれない。その方が個人にとっては幸せなのは確かだしね。
別に「それだけ」とは言ってない。
ジークアクスはそうした青春もののテンプレに、ガンダム世界の壮大な設定群と政治劇、さらにマチュの行動力を加えている。
これも使い古された陳腐な言い方だがセカイ系的な描き方に近いと思う。
普通の青春ものなら最後に「恋愛なんて錯覚だったね」なんて言って女友達と仲直りするかもしれないが、
マチュはそれこそ単身で地球にダイブしそうな行動力を備えているから、実際に「ここではないどこか」に行ってしまうかもしれない。
トップ2のラルクとノノは上下関係で、それが途中で入れ替わったりしていたが、マチュとニャアンはあくまで対等で対照的な関係なのでそこも違いだよな。
トップ2の影響というか継続性は強いと思うけど、ここからどう着地するかはまだわからんぞ。
それもまあ着地点の見えづらさと言えるのかもしれないが。
そりゃ簡単だろ
00年代は元増田のいう通りにオタク界隈に秘密の知識や裏技を求めてきたのが
青葉みたいにちょうど当時はやってたセカイ系に耽溺して
「なんなら世界を救うボク」幻想にウットリしてた世代がオッサンになって所詮は底辺でしかない自分を直視せざるを得なくなったから反動的にネットでヤカラごっこ始めた、っていう経緯が表面化してるだけじゃねえの?
特にコロナ禍以降で潜伏してた様に2000年代当時20代だった、元40台の変なのが大量にネット上に現れたじゃん、上で増田が指摘してるように、Z李や暇空とかコロアキといったようなの
特にコロアキなんて、世間に姿が出た2008年から、あの姿で現れるまで十数年間何をしていたかさっぱり不明、なんて状態だそうだし
わりと面白かった
なんだろな、(ガンダム+フリクリ+エヴァ)÷3みたいな感じ?
やっぱ俺、苦手なのはロボットじゃなくてガンダム、あるいはロボット戦争アニメなんだと思う
結局ガンダムシリーズのどこが苦手なんだろう
戦記物なところ、暗いところ、男ばかりなところ、群像劇なところ、世界にフォーカスを当てる頃
登場人物が多すぎるところ、キャラデザ、ストーリー、悪意・敵意あるキャラが多い
1話今見返してみたけど、キャラがどばーーーっと出てきて、世界観にフォーカスを当て、敵意ある人が多く、 ロボ登場でどやー見たいなBGMで、80,90年代SFなデザインで
「これはガンダムシリーズだ」って思わせる内容だった
逆に見れるのは、少人数の内面を重視したセカイ系+外側の設定みたいな
考えてみたら自分が見れるのって実はワンパターンなのかもしれない
エヴァだってシンジ君がうじうじしてなかったら見れなかったと思う
・世界を引きで見せているシーンがない、むしろ世界観は背景に追いやっている、ぼかしているまである
・世界を説明する時に主人公の言葉で説明している(キャラのフィルターをかけている。フリクリと同じ)
・キャラは結構出てきているが、主人公に絡んだのは割と少ないので、話に集中しやすい
・技術に対してどや感がなく、日常的あるいは疎ましい日常として捉えている
・技術的なデザインを身近なもの、古臭いところからもってきている(HDD、BIOSみたいな)
・町並みにSF感がない
これによって「こういう世界の中にキャラが居て〜」って話じゃなくて、「キャラがある世界に居て〜」になっている
___
てか鶴巻って今まで何してたんだ?と思って調べたらエヴァ作ってたのか・・・
あと龍の歯医者見てないわ、みよう
日本人がパクる→ジャンル分けする(セカイ系、バトロワ系、空気系)
だいぶ昔からこのスキームでやってきた訳だが、当の米国側から切り捨てられて中国側に付くことを促される始末、一体どうするんだろうか。
これは宗教のようなものだから、いまさら米国中心主義を捨てろと言われても年配者には無理だろう。
日本の電機メーカーをリストラされ、中国に渡った技術者が今の中国を作ったという日本人起源説も根強いが、
裏切り者である彼らが実は先駆者だったなんて事実は、彼らには受け入れ難いものだ。
ここ最近のS&Pの動きに慣れてしまった投資家は、本来の投資信託が今のような急激な右肩上がりを伴わないものであることを知らない。
ジャンプ+において今日限定で全話無料公開してるから読んできた。
ファイヤパンチに関しては以前一話目がネットで話題となったときに目を通した程度で、つまり一話しか読んだことがなかった。
それを今になって、一気に最後まで駆け抜けてきた。
で、感想としての第一声は「面白いじゃん」だった。内容的には今さら古典的なセカイ系!?と思わないこともなかったし、最後の終わり方なんて80年代の日本SF小説を思わせる(小松左京的な)ものだったけど、登場人物には個性があって魅力的だし、メタ的な語り役を設けることで先の展開を読め難くしていたりとで大変楽しめた。
後半で宗教を戯画しているのも良かったし、単純明快な復讐譚を"少年誌"という縛りがある中でどう捻りを加えるか?といったところに映画撮影を持ってくることで捻りを加え、ジャンプに対するメタ視線を取り入れるところも巧い。
感情の描写は絵でも言語でも上手いし、こりゃ売れるわけだと思ったね。
みんなもまだ読んでないなら読んでみては?
少なくとも、一読する価値はあると思うよ