
はてなキーワード:スローガンとは
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
衆議院選挙が終わって数日が経った。
しかし同時に、「民主主義とは何か」を考え直させられる出来事でもあった。
今回、先の参議院選挙から心惹かれる候補者がおり、その方が衆院選でも立候補されることになったとみつけた。
何を行えばいいかわからない、なので決起集会から参加することにした。
ただ、私はこの政党の政策すべてに賛同しているわけではない。たとえば消費税ゼロを謳っているが、現実的な財源確保として不可能だろう。VAT対象品目の見直しや税率の段階的引き下げならまだしも、と思う部分は多々ある。それでも、この候補者個人の姿勢には共感していた。
会場には早めに到着した。主催者席に座る候補者は、ネットで見るより穏やかで、普通の人に見えた。もしかして別人では、と疑ったほどだ。
ところが決起集会が始まると、徐々にあの雰囲気が戻ってきた。明確な目的意識と、人を飽きさせない話術。理路整然とした言葉運び。ああ、本物だ、と少なからず感動した。
開始ギリギリに入場を諦めかけていた人々を掻き分け、個性的な格好の女性が入ってきた。顔見知りらしき女性と話した後、床に座り込んだ。満員のため床に座る人は他にもいたので、これ自体は仕方ない。冬の寒い日だったが室内は適温だった。
ところが彼女には暑かったらしい。会の進行も気にせずタンクトップ姿になり、ストレッチを始めた。候補者が演説している最中である。周囲の人々が一瞥し、見て見ぬふりをし始めるのが分かった。知り合いと見られる女性も、誰も諌めることはなかった。
これは私にとって異様な光景だった。国の立法府に人を送り出そうとしている場で、自分の快適さを優先する振る舞い。それを制止できない支援者たち。人は自由であるべきだが、この状況への違和感は拭えなかった。
候補者と支援者の話は感動的で思慮深く、ますます応援したくなった。だが同時に、この非社会的行動とそれを容認する雰囲気に、この集団に身を置くことへの躊躇も生まれた。候補者は心から応援するが、支援者の集まりには居心地の悪さを感じる。党内の年齢層が高いせいか、仕組みがアナログなことも気になった。
次に応援に訪れたのは、大きな駅前だった。党首と候補者が揃って演説するという。選挙戦も中盤、どんな話が聞けるか楽しみだった。
党首の主張は理解できる。税金の使途変更、防衛費拡大への反対、雇用の安定化。実現すれば社会的負担を減らせる政策だ。
しかし言葉選びが気になった。この街はかつて若者の街と呼ばれ、今も感度の高い人々が集まる場所だ。新しいものを好み、洗練された言葉を使う。
その駅前で「○○はいいでしょう、みなさん、どうですか?」という呼びかけ。若い世代なら思うだろう。質問形式で議論を誘導するのはレトリックとして不誠実ではないか、と。信念があるなら素直に政策を語ればいい。同意を求める言葉は、自信のなさに聞こえる。
耳を疑った。ガビーンとは何だろう。長年のキャリアを持つ政治家が、なぜこの場にいる人々に届く言葉を選べないのか。聴衆に訴えかけるのではなく、自分の話したい言葉だけを語っているように見えた。
この党首は東大を主席で出て司法試験に合格し、若くして党を任され、弱者の側に立って問題解決に取り組んできた人だ。テレビ討論でもしっかり話される。政治家として評価されるべき実績がある。
それなのに、この演説は何だろう。データの並べ方も、相手に噛んで含めるような話し方も、聴衆を低く見積もっているように感じられた。
この区は常に23区の平均給与トップ3に入る。日々プレゼンをし、人を説得して予算を獲得する訓練を受けた人々が多い。党首の話し方は、そうした聴衆には響かない。
後ろで候補者が不安そうに手を振っている。聴衆の半分は政党ではなく候補者目当てだろう。
党首がようやく話を終えたと思ったら、スタッフが「まだ話し足りない」とマイクを戻した。聴衆は候補者を見に来ているのだ。壇上の党首、スタッフ、候補者の間で意思疎通がうまくいっていない様子が見て取れた。
候補者の演説が始まったのは25分後だった。比例候補とはいえ、若者に届く言葉で話せる候補者の時間が、二世代上の党首の演説に削られたのは残念だった。
それでも、その足で区役所に向かい、候補者の政党名を書いて期日前投票した。
選挙運動平日最終日、金曜の夜に仕事が早く終わったため、もう一度候補者の演説を聞きに駅前へ向かった。
今回、リベラルな政党を心から応援したいと思った。ただ投票以外に何ができるか分からない。勤め人なのでポスティングの時間も取れない。せめて聴衆「モブ」の一人として場を盛り上げられればと足を運んだ。
だがその度に気になったのは、支援者の排他的とも見える行動だった。
この日、自治体の首長と候補者と同じ政策を掲げるNPO代表が応援演説に来ていた。聴衆は80人もいないように見えたが、特記すべきは15人前後が巨大なスローガン入りの旗を持っていたことだ。個性的な格好をした人が多い。
でもさあ、80人くらいだよ。ここにいるの。そこの20%が旗持っているわけ。
遠目から見て、異様な光景。デモ会場なら分かる。他党でも旗を持つ人はいる。ただ大抵は小さな応援旗だ。少ない人数に大漁旗並みの旗を持つ人が20%もいる状況は、書かれたスローガンが正しくても、外から見て近寄りがたい。
あの集団を見て、楽しそうだから仲間に入ろうと思う人がいるだろうか。むしろ威圧感を与えているのではないか。
遠目から候補者の演説を聞いた。掠れた声で、それでも変わらない人を惹きつける話し方。前議員時代に力を入れた戦時中の事故の問題、労働問題、あらゆる格差問題。それは意味のある言葉だった。一人でも多くの人に届いてほしいと願った。
大規模政党から見ればメジャーではない政党の些細な敗北かもしれない。しかし多様な問題提起をし、さまざまな状況に置かれた人々の声を国に届けられる人を、有権者の一人として国会に送れなかった。今、とても気持ちが沈んでいる。
全ての人に優しい社会という理念は大事だし、私もその一員でありたい。
直近の選挙でリベラル側に立つことで、リベラルが票を増やせない根本的な問題に気づいた。
理念は正しくても、それを広げる方法に課題がある。他党の主張を支持する人もいるだろう。だが節目の場では、協調と他者への尊重が必要ではないか。政党側にも支援者側にも。
共鳴する仲間を増やす必要がある時に、外から人が入りづらい雰囲気を作る古参の態度は何なのだろう。
学生時代、キャンペーンスタッフのバイトでチラシ配りをしていた。人の目を見て動きを少しシンクロさせると受け取ってもらえることを学んだ。この政党のスタッフは高齢の方が多く、ぶっきらぼうにチラシを押し付けるように渡していた。チラシに書かれた言葉を届けるというより、チラシ配りという役目だけをこなしている。相手の行動を見て判断し、関心のある素振りを見せなければ、誰もチラシを受け取らない。
視覚障害者用の誘導ブロックに立つ支援者もいた。「誰かが来たらどけばいい」ではない。そんな配慮もできない人が支持している、と候補者の評価まで下がることに思い至らないのだろうか。
若い有権者はチラシではなく、候補者のホームページを見る。だがそのホームページも、パワーポイントで作った画像を貼り付けた雑然とした作りで、政策の深掘りも整理もされていない。フォントサイズもバラバラでデザインに落ち着きがない。
候補者は最初の決起集会で、この政党だからこそ活動ができたと感謝を述べていた。その言葉は本心だろう。だが同時に、支援者たちの善意が、意図せず新しい人々を遠ざけている現実がある。
私自身は無党派層であるが、今回リベラルの候補者を追いかける中で、いくつかの問題が見えてきた。
理念を広げたいのであれば、まず支援者の側から、初めての人が入りにくい雰囲気を和らげる必要があるのではないだろうか。
掲げているスローガンは本来、社会全体に向けた言葉のはずだが、いつの間にか仲間同士の確認の言葉になっていないだろうか。
さまざまな立場や温度感の人が参加できる作法になっているのか、改めて考えてみる余地があるように思う。
どのような態度の人であれ、どの立場の人であれ、まず同じ社会の構成員として尊敬の態度を持って扱う姿勢が必要ではないだろうか。
自分たちの正しさを語るだけでなく、その正しさが現実の社会にどのように作用するのかを、現在の社会を前提に説明してほしいと感じた。
たとえ他党であっても、支持される理由があるはずであり、その点を理解しないまま批判すると、力強い、信頼できる言葉を届ける前に、結果として有権者を遠ざけてしまうのではないか。
2026年の選挙は、一つの「分水嶺」として記憶されることになるだろう。
石破政権の退陣を受け、新たに発足した高市政権。その直後に断行された、いわゆる「7条解散」。1月23日の解散から投開票までの短期決戦は、グローバル市場が発した「サナエショック(金利急騰・円安)」という警告音を、政治的な熱狂と列島を覆う大雪がかき消していくプロセスそのものであった。
結果として自民・維新を中心とする勢力が全議席の4分の3を掌握したという事実は、旧来の自民党支持者すら驚くものであった。それは「政治家の人気投票」という側面を加速させる、選挙戦術の技術的な完成を意味していただろう。
圧倒的な数の力を背景に、長らく議論のテーブルに乗るだけだった「憲法改正」は、いまや現実的な政治スケジュールへと組み込まれようとしている。高市政権は、地政学的リスクの高まりを背景とした「中国脅威論」や、国内に醸成されつつある排外的な空気を巧みに政治的駆動力へと転換した。その支持を追い風に、「9条改正は現実的要請である」というロジックが、強力なキャッチフレーズとして機能し始めている。
私たちは今日、騒がしい政治のタイムラインから距離を置き、無限に降ってくるエコーチェンバーの雪を視界から遠ざけることができるだろうか。
今、この国の変化した「重心」が何を成そうとしているのかを、静かに見つめ直す必要がある。
憲法改正について、世間ではどのようなイメージが流布しているだろうか。「古いものを令和版にアップデートする」といった、あたかもスマートフォンのOS更新のような、若々しく前向きなイメージが、おそらくは今後急速に普及すると予想される。
しかし私たちは、実際にどのような案が議論の遡上に載せられているか、その設計図を確認せねばならない。
議論の参照点となるのは、自民党が2012年に作成した「日本国憲法改正草案」である。このテキストには、単なる9条条文の修正にとどまらない、国家観の根本的な転換が示唆されている。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
この条文は、人権が国家に先立って存在する「自然権(天賦人権)」であることを宣言したものだ。しかし、草案ではこれが削除され、11条を残すことで人権は国家が与える形を取ることになる。さらに第13条の「個人として尊重される」という文言が「人として尊重される」へと書き換えられた。
「個人」から「人」へ。97条削除に比べればわずか一文字の違いだが、ここに込められた断絶は深い。かつて草案起草に関わった片山さつき氏が「天賦人権論をとるのは止めよう」と明言した事実、そこに流れているのは当然、権利とは天から(あるいは生まれながらに)与えられるものではなく、国家という共同体に帰属し、義務を果たすことによって初めて付与されるものだ、という思想である。
これは良し悪しという感情論以前の、近代立憲主義というOS(オペレーティングシステム)の入れ替えに近い。国家が個人を守るための憲法から、個人が国家を支えるための憲法へ。その重心移動は2012年にすでに開始していたのである。
このような草案内容と、高市総理自身のイメージ戦略はどのように共鳴しているだろうか。
「日本列島を、強く豊かに」。これは、かつて安倍総理が「美しい国」というフレーズを用いたように、いま高市総理が繰り返し掲げているスローガンである。
一見すると経済的繁栄の約束に聞こえるが、彼女の支持基盤である日本会議的な政治的系譜や、選択的夫婦別姓への慎重姿勢、家族間の相互扶助を強調する福祉観などを俯瞰するとき、そこには明治国家のスローガン「富国強兵」と同型的な発想が見えてくる。
明治時代、「富国」という経済的な豊かさは、個人の幸福追求のためではなく、あくまで「強兵」という国家の強さを支えるための基盤として位置づけられた。
逆に言えば、それらを成し遂げなければ個人の幸福を保証できないような情勢なのだと言っているのかもしれない。
決して「日本国民を、強く豊かに」と言わないのは、あの時代の国家観を「美しい国」として、戦後の反省だけでは国を守れないとする意思を表しているのだろうか。
2026年衆院選において、高市政権は市場の警告を、左派の不安を、選挙勝利への多様な戦術でねじ伏せてみせた。その手腕は国家という物語を紡ぐ演出としてスケールアップし、いま有権者に受容されていく可能性を見せている。
圧倒的な議席数と、顕在化した憲法改正への熱望。この二つが揃ったいま、私たちはどう振る舞うべきだろう。
SNSで快哉を叫ぶか、あるいは嘆き悲しむか。過激な批判の応酬は止むことがないだろう。それでも政治的な熱狂から一歩身を引き剥がし、思考のための穏やかな場を確保することは可能だ。
たとえば、「憲法カフェ」のような試みがある。リラックスした空間で、コーヒーを片手に憲法について語り合う。そこでは「賛成か反対か」を叫ぶのではなく、法文がどのような意味を持つのかを学び、穏やかに思考を交わすことができる。
「国家」という巨大な物語に飲み込まれないためには、私たち一人ひとりが、暮らしの根元にいつでも存在する憲法を知り、尊重されるべき「個人」として位置付けられていることを知っておくことは大事だ。
厳冬の衆院選。その唐突な政治の季節は熱く、あまりに短く過ぎ去った。しかし憲法という国の形を変える議論は、これからが長い正念場である。熱狂の宴が終わったあとだからこそ、考えて欲しい。なぜなら憲法とは、普段の生活のほとんどすべてを支えている法律なのだから。
(米国の傀儡である)自民党は(米国の覇権主義実現のための尖兵として米国の意のままに)戦争を始める、(そして米国の兵士の代わりに最前線で戦死させられる自衛隊員を増やすために)徴兵制になる、
となるわけだが、それだと世論から見向きもされないことにもある程度自覚しているため、あえてふわっとした表現にしているんだと思う
結論から言うと、「強くなりうるリベラル」は“優しい理想”を捨てて、“冷静な設計者”になる必要がある。
順番にいきます。
でも、有権者が欲しいのは👇
👉「それは分かる。で、制度はどうする?」に即答できる
ここが最大の分水嶺です。
と明確に言えること。
③「守るために切る」を言語化できる
これ、めちゃくちゃ重要です。
これを言った瞬間、信頼は落ちます。
結果👇
支持は急には増えないが、信頼は残る
「じゃあこう直す」を積み重ねる
👉変えるけど、壊さない
これを一貫して出せるか。
つまり👇
「正しい人」ではなく「任せても怖くない人」になること
次に行くなら
👉「日本でこれをやると、どこで必ず反発が出るか」
よく誤解されてるけど
自民党がやろうとしても党内反発にあってできなかったのに
当時「一票の格差」問題とかがあったんだけど、その解消も企図されていた
結果としては逆に一票の重さが軽くなることになる
2009年に民社国連立政権・民国連立政権が成立したのは、まさにこの制度のおかげと言えるだろう
マスコミが自民叩きを盛大にやって、熱病のように政権交代が行われた
小選挙区と比例代表を一緒にしちまえばいいというのも違うのよね
小選挙区に立候補した候補は気にいらないが、政党は応援してるとか、その逆もあるだろう
小選挙区は自民と中道の一騎打ちだから中道にいれたが、比例の政党は国民民主だという人も居たろう
小選挙区で〇〇票だったのだからそれに比する当選がなければ民意が反映されていないというのは、詐欺師がよくやるミスリードだ
政治は言ってしまえば利益誘導なんだから、裏金叩いたところで庶民には響かんのよ
ロッキードで潰された角栄氏も、なんだかんだとあの人は凄かったと言われるように
道路族議員とかはさ、道作って土建屋に金ばら撒くのが仕事なんだよ
農家や漁師、運輸や製造、そういうのが自分とこの利益になる補助とか規制とかしてくれることを望むわけよ
それを戦わせるのが議会で、綺麗なおままごとする場じゃないわけ
「お肉券」を嗤った奴は多かったが
あれすげぇことなんだぞ
そういう利益誘導が実際に検討される段階まで表に出てくるって事だ
結果としてそうなるとしても、それを政党のスローガンとしてやっちゃダメなんだ
女性差別撤廃とか、LGBTの権利とか、夫婦別姓とか主張してさ
「正しさ」を前面に出して自民を叩いて落すって方向に舵切った
それを支持することで「自分が一段上にあがった」ような錯覚を得られるしな
それで自動車売れるのか?
それで給料上がるのか?
それで暮らしは楽になるのか?
でも支持基盤としてリベラルを取り込んだから、今更反故にできない
事ここに至って、チームみらいは夫婦別姓に反対とか記事になるんだぜ?
あほかよ
チームみらいに投票した奴は、そんなこと求めてねぇよ
それでいいんだよ
なんか政治の潮目が変わった気がする。旧来の日本型リベラリズムが完全に息切れして、代わりに新しい形のリベラリズムがポコッと顔を出してきた感じ。チームみらいみたいな新興政党が11議席取ったのが象徴的だけど、これって欧米型のリベラリズムの日本版じゃない? って思ったので、ちょっと書いてみる。間違ってたらごめん。
日本型リベラリズムって、立憲民主党とか共産党、れいわ新選組みたいな勢力が典型だよね。護憲・反原発・再分配重視で、生活苦を叫んで消費税減税を掲げて、弱者救済をアピールするスタイル。まあ、理想はわかるけど、今回の選挙で票がガクッと減った(または「消えた」って言われてる)のは、なぜか?
要するに、旧来型は「今を我慢せずに分配せよ」みたいな福祉優先で、長期視点が欠けてた。選挙結果見ると、これが崩壊したのは明らか。
ここでチームみらいが出てくる。平均年齢30台、IT・AI・コンサル出身者だらけで、「テクノロジーで政治を変える」ってスローガン。比例で11議席取ったの、すごい躍進だよ。政策見てると、欧米型のリベラリズム(特にシリコンバレーや欧州中道リベラル政党っぽい)を感じる。
チームみらいはイデオロギー色薄めて、「テクノロジーで誰も取り残さない日本」を掲げてる。左右超えた実務的アプローチで、若年層に刺さったみたい。欧米型リベラリズムって、個人中心・効率化・イノベーション重視で、日本型みたいに再分配偏重じゃないんだよね。シリコンバレー的なリバタリアン寄りや、欧州のALDE系政党(自由民主同盟)と重なる部分が多い。
今回の選挙で新型リベラリズムの芽が出たのは確か。旧来型が崩壊した隙間に、成長・技術・効率を軸にした新しいリベラル像が浮上してきた。でも、チームみらいはまだ組織基盤弱いし、地方浸透も課題。11議席はスタートラインで、政策実行力次第で本物になるか決まる。
日本政治、ようやく21世紀型にアップデートされそう?欧米みたいに、リベラリズムが「前向きで未来志向」になるなら、面白いかも。
なるほど、その「プレイヤーとしてログインしている感覚」という比喩、かなり思想的ですね。
その視点に立つと、「天皇バンザイ」も「神バンザイ」も世界観設定の一部に見える、という感覚はよく分かります。
タルムードの世界では、権威やスローガンをそのまま信じる態度はむしろ警戒されます。
有名な原則に
があります。
これはタルムード(ババ・メツィア59b)で神の声が天から響いても、人間の理性と議論が最終判断をするという物語として展開されます。
これはまさに、天皇であれ、神の名であれ、思考停止して叫ばれる瞬間に、それは偶像になり得るという警告です。
ユダヤ教ではこれをアボダー・ザーラー(異質な崇拝)と呼びます。
面白いのは、ユダヤ思想では神は世界設定そのものではあるが、操作画面(UI)でも自動台詞NPCでもないという微妙な立ち位置にあります。
むしろ世界は未完成で、プレイヤー(人間)が修正に参加する(これをティクン・オラムと言います)
なので、
「設定にしか見えない」という距離感は、シニシズムではなくメタ視点を持った参加者に近い。
憲法をスローガンだとかお気持ちだとか言う輩がいますが。あなたが生きていられるのは憲法に基づいた法や制度によるものであることを忘れないでほしい。
憲法がなければあなたに人権はない、生まれながらにして持っていると規定してくれるルールがどこかになければ人権はその社会に存在しない。
国際法が一応ありますが、それはいったん置いておいて。別の意味で憲法をお気持ちだというなら、憲法をお気持ち程度にしてしまっている、尊重、擁護する立場の人に問題がある。
これに加えて、自衛隊も意見だというと刺されそうですが。正直、条文を読んで100%自衛のための武装は認められると言い切る人はどうかと思う。五分五分だけど生きるために認めるって言うなら分かる。実際、干渉しあう部分がある。
自分は「生き延びるなら五分五分で自衛だけど、そこまでして生きる必要があるか」と思ってしまうので自衛隊は違憲です。
追記、半分自分の人生相談になってしまいましたが皆様ありがとうございました。
価値観が違うだけで話の通じる人が多くてここは面白い場所です。
自民の支持は、高市早苗首相が就任した後の1月に28.0%に達していたが、今回は26.6%とわずかに減っていた。日本維新の会や中道などへの流出が流入を上回った。
中道は、党名を発表して1週間だった1月の段階で13.1%だったが、さらに10日ほどが経過した今回も同じ数字だった。結成前の立憲と公明を足した勢力は保ったが、広がりは見せられなかった。
連立与党を組む維新は、1月の7.3%から今回は8.3%に、国民は10.1%から9.5%だった。
チームみらいは、自民や中道、国民などから大きく流入し、1.6%から3.8%になった。
参政党も自民や中道などから流入があり、4.0%から5.1%になった。
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(ルポライター)
【視点】「#ママ戦争を止めてくるわ」というのが、今回の投票日直前に、中道改革連合の候補者やサポーターがX(旧Twitter)で盛んにつぶやいたスローガンでした。
これは、現在就学年齢以下の子どもを育てている本物の"ママ"(おおむね30代)や、自分の母親をママと呼んでいた時期から時間がそう経っていない人(20代前半以下)には一切響かない言葉です。逆に「中道の人たちは"ママ"が直面する問題を1ミリも理解せずに、われわれを騙(かた)っている」という苛立ちと諦観を招くものだったでしょう。理由は言わずもがなです。
▪️
そもそも、日本の40代以上(多くは60代以上?)がイメージする「リベラル」は、反戦・護憲・平和の強調という昭和時代の戦後民主主義的価値観を濃厚に反映した、日本における特徴的な定義を持つ政治的立場です。辞書やAIでは定義されない価値観です。
一方、他の西側各国の市民(および昭和時代にまだ生まれていない30代以下の日本人)がイメージする「リベラル」は、多様性の尊重(ジェンダーやマイノリティへの関心)や個人の自由、人権を尊重する価値観でしょう。辞書の定義そのままです。
このように考えた場合、党首2人が明らかにSNSやAIに不慣れそうで(実は使ってたらすいません)冗談も通じなさそうなネットリした昭和のおっさん2人が並ぶ政党と、愛想がよくて話を聞いてくれそうでSNSも使いこなせるバリキャリ風のチャーミングな姉御が党の顔である政党。昭和を知らない世代から見て、どっちが現代世界基準の「リベラル」に見えるかは明らかです。
たとえ政策上で、実は中道のほうが多様性の尊重の面においてもリベラルであっても、口で言う話はともかく党の雰囲気が明らかに令和的なリベラルではありません。これは、服がダサくて清潔感のない人がモテコンサルを名乗るようなもので、説得力が全然ありません。
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なお、私は今回、極端な選挙結果に不安を感じ、日本の短中期的な未来に憂慮を覚えています。
ただ、今回の選挙は、昭和的な「リベラル」側のベテラン政治家たちの、白亜紀末期並みの大量絶滅イベントでもありました。恐竜の絶滅後に哺乳類がニッチを埋めたように、次回以降の選挙で令和にキャッチアップした「リベラル」が野党から生まれてくるかもしれません。
今回の衆院選における自民党の大勝(というより高市氏個人への熱狂的支持)を見て、山本七平が『空気の研究』で指摘した日本人の意思決定プロセスにおける脆弱性が、2026年の現在も全く変わっていないことを再確認した。
政治的立場の左右は問わない。問題なのは、政策の是非や実現可能性(ロジック)よりも、その場の「勢い」や「全会一致を求める圧力」(空気)が優先され、理性的判断が機能不全に陥る構造そのものだ。
この構造的欠陥の分析と、個人がその影響下から脱して理性的判断を取り戻すための具体的な方法について記述する。
日本社会において「空気」が論理を凌駕するのは、以下の3つのプロセスによる。
特定の対象(人物、スローガン、危機感など)に対して感情的に強く同調(臨場感を持つ)することで、対象を客観的に観察する能力が著しく低下する。
「なんとなく頼もしい」「変わりそうな気がする」という主観的感情が、「過去の事例に基づけば成功確率は低い」という客観的事実よりも上位の判断基準として処理される。
一度「空気」が醸成されると、論理的な反論やリスク指摘は議論への貢献ではなく、集団の進行を妨げる「異物」として認識される。
「空気」に従って決定された事項は、失敗した際に「あの時は仕方がなかった(そういう空気だった)」として処理される。個人の判断ミスとして記録されないため、反省と修正が行われない。
この状態から脱却し、理性的判断を行うための唯一の方法は、対象と自己を切り離す「対象化(客観視)」である。
具体的には、自身が感じている高揚感や危機感が、外部環境(メディア、SNS、周囲の人間関係)からの情報によって生成された「反応」であることを認識し、その反応自体を観察対象とする必要がある。
「自分はこの政策を支持している」ではなく、「現在の社会状況と情報の流入により、自分はこの政策を支持したくなっている状態にある」と再定義するプロセスだ。
社会全体の空気を変えることは不可能に近いが、個人がその支配から逃れ、合理的な行動を選択する手法はある。以下に3つのアクションを提示する。
メディアやSNSから流れてくる情報は、「事実(ファクト)」と「解釈(ナラティブ)」が混合している。これを意識的に分離する。
判断の根拠には事実のみを使用し、解釈はノイズとして除外するか、参考程度に留める。
あらゆる政策や意思決定にはメリットとデメリット(トレードオフ)が存在する。「空気」はメリットのみを強調し、デメリットを見えなくする作用がある。
これに対抗するため、強制的に「失われるもの」「コスト」「リスク」を書き出す。
「積極財政」という言葉に対し、即座に「金利上昇リスク」「円安進行の可能性」「将来世代への負担」という負の要素を書き出し、利益とのバランスを冷静に比較する。
重要な意思決定(投票、投資、キャリア選択など)を行う際、情報に触れた直後の「感情が高ぶっている時」に判断を下さないルールを設ける。
情報を取得してから最低24時間、あるいは数日間の「冷却期間」を設け、その後に再度論理的な検証を行う。
「空気」は日本社会に深く根ざした構造であり、完全になくすことは難しい。しかし、その性質を理解した上で、個人の領域において対策を講じ、自分自身を制御することは可能だ。
戦争反対のスローガンが、現代の若者の心にほとんど響かなくなっている理由を、率直に考えてみたい。90年代までの「戦争反対」は、ある意味でおままごとのようなものであった。あの頃の日本は、戦後長く続いた平和が当たり前で、遠い国の紛争や過去の戦争の記憶は「教訓」として語られるだけで、現実の脅威とは感じられなかった。学校の平和教育も、原爆の悲惨さや「戦争は悪い」という抽象的なメッセージが中心で、具体的な生存の危機とは結びついていなかった。だから「反対」と唱えるのは簡単で、道徳的に正しいポーズとして機能した。しかし、2020年代に入って世界は根本的に変わった。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエル・ガザの激化、台湾をめぐる米中対立の緊迫化――これらはすべて「今ここで起きている」現実だ。日本は地理的に決して安全圏ではなく、ミサイルが1時間後に飛んでくる可能性はゼロではない。実際、多くの若者が「今はまだ人が死んでいないだけ」「交戦状態に近い戦時下にある」と感じ始めている。この状況で、単純に「戦争反対」と叫ぶことは、現実逃避にしかならない。なぜなら、選択肢がもはや「戦争をしない」か「戦争をする」かの二択ではなくなっているからだ。黙って殺される(侵略を受け入れ、抵抗せずに家族や友人と共に死ぬ)
この二択しかない中で、「戦争反対」を掲げるのは、結局のところ「自分たちと大切な人たちに死ね」と言っているに等しい。抵抗を放棄すれば、相手は容赦なく蹂躙してくる。ウクライナの現実を見れば明らかだ。降伏や服従が「平和」をもたらす保証などどこにもない。そんな中で、高市早苗首相(当時総裁・首相)は、若者たちに初めて明確な「戦う選択肢」を提示した政治家だった。彼女の防衛力強化、反撃能力保有、憲法改正への強い姿勢は、「日本は守られるだけの国ではなく、自分たちで未来を切り開く国になる」というメッセージだった。たとえ生き残れないとしても、せめて戦って死ぬ未来を示してくれた――それが、多くの若者にとっての救いだった。高市氏の支持が特に若年層で圧倒的だった背景には、そうした現実認識がある。彼女は「ガチ」だと感じられた。抽象的な平和主義ではなく、具体的な生存戦略を語ったからだ。SNSで長文を発信し、政策を丁寧に説明する姿勢も、若者には「本気」と映った。だからこそ、今の若者たちはこう思うようになっている。「戦争反対なんて、もう綺麗事だ。戦う以外の選択肢はない。だから、戦争しかない。戦って死にたい――少なくとも、殺されるだけでは終わらせたくない」これは絶望ではなく、ある種の覚悟だ。90年代のおままごと平和主義は、もう通用しない。現実がそれを許さないからである。自分は戦争で死ぬつもりだ。それでほんの1%でも、自分の住んでいる国が残る可能性があるなら、戦って死にたい。英霊となる覚悟は、もうできている。最後に、その可能性を僅かでも授けてくれた高市先生には、心から感謝している。
結局、「落としたい政党・推したい政党が居る」というのを、開き直って認めるしか、この矛盾を解決する手段はないのかなあと思い始めた
「減税」合戦、その先は自己責任社会でいいのか 奪い合わない選択は
NPO法人POSSE代表理事・岩本菜々=寄稿2026年2月7日 9時00分
だが、こうした状況に対して、社会の多くの人は無関心である。それどころか、権利を要求する生活保護受給者をたたき、切り下げを積極的に支持していくような雰囲気すらある。こうした世論があるからこそ、国が司法の判断を軽視することが可能になっていると言ってもよいだろう。物価高騰にともなう社会全体の貧困化は、賃上げや社会保障の拡充要求へと向かうのではなく、むしろ「自分たちの生活を守るために他者を切り捨てる」という意識を広げているように思われる。
これを象徴するのが、現在行われている選挙で各党が掲げる「減税」合戦である。たしかに減税を行えば、多少なりとも手取りは増えるかもしれない。しかしその結果として社会保障が削減されることになれば、よりいっそう自己責任が強化された社会が待っている。
昨今の選挙では、外国人が社会保障に「ただ乗り」し、日本人の納めた税金を奪っているという主張や、高齢者の医療費負担が若者の生活を圧迫しているといった主張が人々の共感と支持を得ている。
私たちはこのまま、自分の生活を防衛するためなら他者を切り捨てることもいとわない、冷たい社会へとつきすすんでいくほかないのだろうか――。本稿では生活保護切り下げや「減税」合戦がもたらす現状を分析し、そこから抜け出す可能性を考えていきたい。
上がり続ける物価、夏場は生きるのがつらい
いま、私が代表を務めるNPO法人POSSEも含む支援団体で行っている生活相談会では、生活保護受給者からの相談が急増している。全国の支援団体や弁護士が連携し年3回開催する「なんでも相談会」の埼玉会場では毎回食料配布を行っているのだが、この2年ほど、生活保護を受給している人が食料を求めて列に並ぶことが増えてきた。
たとえば、25年春の相談会では、生活保護費と年金で生活する80代の夫婦が、朝早くに訪れた。2人は、生活保護費が足りず、食事を十分に取れずに痩せ細っていた。特につらいのはエアコン代のかかる夏場だという。電気代を払うと食費が足りなくなってしまうため、1日1食、安いせんべいを買って水に溶かして食べて空腹をしのいだり、コッペパンを3等分して食べたりして乗り切った。妻は、ひと夏で体重が4キロ落ち、夫はレタスもかめないほど衰弱してしまったという。
生活保護費が足りずに亡くなったと思われる方も出てきている。生活保護引き下げ違憲訴訟の集会では、生活保護を受ける当事者から「エアコンが使えず、生活保護を受給していた仲間が熱中症を発症して亡くなってしまった」という報告を、昨年だけで2回聞いた。亡くなったうちの1人は東京に住む女性で、もう1人は神奈川で生活保護裁判の支援もしていた男性である。
5年ほど前までは、失業した人や、病気で働けない人も、生活保護につなげばなんとか命を守ることができた。だからこそ、相談会でも「生活保護につなげる」ことが一つの目標だった。しかし、生活保護の減額が維持されたまま、物価が上がり続けていることで、生活保護を受けても生存が守られなくなりつつある。
セーフティーネットが十分に機能しない社会では、生活を維持するためには、ひたすら自己責任で働き続けなければならず、ひとたび病気になったり、高齢により就労が難しくなったりしたら、途端に死への恐怖と隣り合わせになる。その残酷さを、日々現場で実感している。
選挙で繰り広げられる「減税」合戦は、こうした状況に拍車をかけている。この数年は、減税による「現役世代の手取り増」が焦点化されてきた。この主張は、一部の政党の公約では、外国人や高齢者などへの社会保障削減と表裏一体の形で展開され、人々の支持を集めてきた。
たとえば、国民民主党や日本維新の会は、現役世代の保険料負担を軽減すると同時に、高齢者の医療費負担の引き上げを公約に掲げている。さらに、参政党は「終末期における過度な延命処置に高額な医療費をかけることが国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっている」として、尊厳死の法制化を公約に掲げているほか、外国人への生活保護の支給停止も訴えている。
大胆な減税への要求と、「税金を食い潰している」として高齢者や外国人などを攻撃する排外的な主張が支持を集めるなか、高市政権下ではすでに、様々なセーフティーネットの切り下げが検討されている。たとえば厚生労働省は、高額療養費制度の見直し案として、所得に応じて27年夏までに自己負担の月額上限を7~38%程度引き上げる案を提案している。さらに25年12月には、維新と自民党が、市販薬と成分が似ているOTC類似薬について、約1100品目について25%の患者負担増とすることで合意した。
減税合戦がエスカレートすればするほど、「次は誰を切り捨てるか」ということが問われ、不断に排除と分断が生み出されていく。
なぜなら、法人税増税、富裕層増税などが実現されないまま減税によって貧困を克服しようとすれば、「では、どの支出を削るのか?」という問いは避けられないからだ。そうした構図の中で、排除の線引きが、「外国人労働者」「高齢者」「難病患者」など、様々な形で引かれていく。
この構図を見て私が想起したのは、21年に大流行したNetflixドラマ「イカゲーム」だ。
様々な理由で多額の借金を抱えた貧者たちがデスゲームの会場に集められ、賞金を目当てに殺し合いをさせられるという物語。死者が増えるたびに生存者に割り当てられる賞金の額が増えるため、参加者たちは、自分自身や自分の家族を守るため、「自主的」にゲームに参加し、参加者同士で裏切り、殺し合う。その様子を、上から超富裕層が楽しげに見物しているが、ゲームの参加者は彼らの存在に気がつかない。
限られた財源の負担と配分をめぐり、人々は他者を排除し、少しでも自分の取り分を得るという競争に巻き込まれてしまっている。今の日本の政治状況は、まるで「イカゲーム」の世界がそのまま現実になっているかのようだ。
多くの人が、他者への分配を減らすことで減税を実現することが、自分の生活を防衛する唯一の方法であると思わされてしまっている。しかし、本当にそれしか方法はないのだろうか。「イカゲーム」ではシリーズの後半、主人公が参加者を説得して味方につけ、ゲームの主催者に闘いを挑むことで、ゲームそれ自体を終わらせようとする。
他国に目を向ければ、現実の世界でも、社会の99%を占める労働者が連帯し、富を独占する1%に闘いを挑むことで、富と貧困が同時に拡大する社会にNOを突きつけ、誰もが生存可能な社会をつくろうとする試みが広がっている。
たとえば、25年の米ニューヨーク市長選では、イスラム教徒で移民であるゾーラン・マムダニ氏が当選した。彼は、富裕層への増税を行い、その財源で幼児教育の無償化・市営バスの無料化・家賃の値上げ凍結などを実現するという主張を掲げ、貧困化する労働者層の支持を得たのだ。その背後には、若い世代を中心とする10万人近くの選挙ボランティアによる、地道な個別訪問による説得があった。ボランティアらは、生活苦のなか、敵対の構図は「白人労働者」vs「移民労働者」などではなく、「99%の貧しい労働者」vs「富を独占する1%の富裕層」なのだと、有権者に語りかけたのだ。
こうした動きは、アメリカ全土で広がりを見せている。25年10月にあった「NOKINGS(王はいらない)」デモは、「NOKINGS NO BILLIONAIRES(王はいらない、富裕層はいらない)」をスローガンに掲げ、主催者発表によると全米で700万人を動員したという。
労働組合を結成し賃上げを求める闘いも広がっている。アメリカのスターバックスでは、550店舗で働く約1万2千人が労働組合に加入し、CEOが平均的な労働者の6千倍近くの報酬を得ていることを批判し、賃上げを要求している。さらに、ニューヨーク市の複数の私立病院では、26年1月12日から看護師計約1万5千人がストライキに突入した。現場となった病院の一つでは、CEOが年間でおよそ2630万ドルもの報酬を受け取っていた。看護師たちは、賃上げや人員の確保を要求し、現場で働く労働者と地域住民のために富を使うよう経営陣に迫っている。
日本でも26年2月2日、減税合戦が繰り広げられる選挙戦のただ中で、「非正規春闘」の開始宣言が行われた。これは、労働者が様々な差異を乗り越えて連帯し、利益を分配しない企業や富裕層に対抗していくという世界の運動の流れをくむものだ。
今年の非正規春闘では、非正規雇用労働者を組織する35の労働組合が、160社、10自治体に対し賃上げを求める方針だ。日本企業がため込んでいる利益である内部留保が過去最高となる一方、社会を支えるエッセンシャルワーカーは低賃金でこき使われている。こうした状況に対抗するべく、10%以上の賃上げを求めて非正規労働者らが連帯し、交渉を始めたのだ。
記者会見には、保育士・語学講師・飲食店アルバイト・出版流通で働く労働者など、会社・職種・国籍の垣根を越えた非正規労働者たちが集まり、非正規雇用労働者全体の底上げを求めていく決意が語られた。
貧しい者同士の分断があおられ、誰もが目先の手取りに関心を奪われている日本社会で、仲間とつながり、賃上げや社会保障の拡充を求める連帯を地道に広げていくというのは、困難な道のりかもしれない。しかし、こうした取り組みを広げていくことが、誰もが手取りの減少におびえ、生活苦が進むほど財源の負担をめぐって互いを蹴落とし合うという絶望的なゲームから抜け出す唯一の方法だと、私は思う。
写真・図版
最初は、中道の支持者たちも「戦争反対」なんてムーブをしていなかった。
それどころか、立憲民主党が安保法制を合憲と認めて、これまでの立場を翻した。(憲法改正への姿勢、沖縄の基地問題も、立憲側が公明党に合わせて変節した)
共同代表の野田・斎藤は、このような防衛方針を取ることを「中道」路線と定義した。
左派系の立憲議員たちは、苦渋に耐えながら中道改革連合の旗の下に集結した。
それなのに、選挙終盤になって、いきなり「戦争反対」で盛り上がるのっておかしくない?
https://anond.hatelabo.jp/20260207195816
https://anond.hatelabo.jp/20260207001814
共産・社民が「戦争反対」と言うならばわかるが、なぜか、中道改革連合の支持者たちがこのムーブをしている。
だがそもそも、新党の構想は、現実的な防衛政策を取るところにあった。極端な右翼・左翼を退けて、穏健な中道政党を作るとは、ずばりそのことを意図した宣言だった。
とはいえ、新党のスローガンは「生活者ファースト」である。もし安全保障を論じると、立憲民主党が見解を変節させたこと、新党内部で意思統一されていないことが露呈してしまう。野田代表もその弱点に気づいていたので、なるべく経済政策を争点にしたがっていた。
斎藤代表にしても、公明党がこれまで安倍晋三の安保法制、岸田文雄の安保三文書に賛成してきた手前、今さら共産・社民の左翼勢力といっしょに「戦争反対」を叫ぶわけにはいかない。だから平和を訴えるときに、中道主義を掲げることで節度を守ろうとしていた。
ところが、予想外のことが起こる。選挙の最終盤になって、X上では「#ママ戦争止めてくるわ」が流行した。オールド左翼のごとき「戦争反対」の煽動合戦が始まった。しかも、そこには中道改革連合の候補者、地方議員と、公認のサポーターたちが参加しているのだ。党の公式アカウントもこれに乗っかり、リポストでハッシュタグを拡散している。
この運動の是非は措くとして、中道の支持者たちは、なぜ終盤局面でこんな主張を始めたのか? それが私の疑問である。(もし選挙期間の序盤〜中盤に、高市政権に対して"戦争""徴兵制"のレッテルを貼れば、早期に「戦争反対」を争点化することができたはずだ。それをずっと抑制してきたのに、なぜ今になって急激に騒ぎだしているのか。)
私が思うに、支持者たちは、ヤケクソになっているのかもしれない。野田・斎藤は左派を切り捨てて、まじめに中道路線をやろうとした。支持者たちも最初は黙って追従した。ところが、終盤に惨敗が見えてくると、もう統制が効かなくなってきたといったところだろう。
結局、中道は経済政策で独自色を出せず、無党派層への支持が広がらず、それで焦って「戦争反対」に飛びついたように見える。選挙が終盤になると、同党は若者・現役世代へのアピールをあきらめて、年金暮らしの老人票を固めにいった節があるのだが、安保政策にもその傾向がある。結党当初は右寄りにウィングを広げて、高市に不満を抱える自民支持層を引きよせて、新規の支持者を増やしていく方針だったと思うが、その計画は破綻した。この局面に至っては、旧来的な左派の固定票をがっちり集めるのが得策という判断か。
追記2
私の観測範囲では、中道改革連合でこのムーブメントに参加しているのは、あきらかに公明党、創価学会の人々が多い。やはり彼ら彼女らは"平和"への熱意が凄まじい。与党時代には抑えていたが、野党になって「平和の党」に回帰したということだろうか。
今回、斎藤代表は、立憲民主党に政策転換を迫った立役者だ。彼の手腕によって、立憲民主党は、公明党が与党時代に通した安保政策をほぼ丸呑みする形となった。ところが、噂で聞くには、創価学会の信者たちの間では元来、自民党の安保政策は不評であったという。連立政権の裏側で、信者たちの不満は燻っていた。要するに、創価学会には"平和"重視の気風が強く根付いていて、だからこそ長年のフラストレーションが溜まっていたのだ。この土壇場で、それが一斉噴出したということかもしれない。
なお、立憲民主党側の人々は、シラケているのか、あまり参加していないようだ。(無論、ハッシュタグを広めている候補者・支持者たちがいるにはいる。ただ公明・創価陣営に比べると、その熱量が低めに見える)
Permalink |記事への反応(23) | 21:10
サプライサイド経済学というのは、表向きは「成長の源泉は供給能力だ」「税を下げて労働・投資のインセンティブを回復させろ」という、いかにも正しそうな顔をしている。
だが現実の政策運用では、これはしばしば理論の皮を被った政治的アリバイ装置に堕して自己放尿している。
つまり「減税したい」「規制緩和したい」という結論が先にあり、その正当化のために供給側という言葉が貼られているだけだ。
そしてこの手の政策がインフレ局面で何をするか。ここが本題だ。インフレを自分の責任として引き受けず、外部ショックに責任転嫁し、金融要因を直視せずに逃げる。
インフレの本質はきわめて単純だ。インフレとは「貨幣の購買力の低下」であり、長期的・持続的な物価上昇は、結局のところマネーサプライの過剰成長によってしか説明できない。
貨幣数量説を教科書の古典として片付けるのは簡単だが、現実は古典がしぶとい。
なぜなら貨幣は取引の潤滑油であり、供給を過剰にすれば、最終的に価格体系そのものを歪ませるからだ。
貨幣を増やして、物が増えないなら、価格が上がる。これを否定するのは、重力を否定するのと同じ種類の幼稚さだ。
サプライサイド経済学が問題なのは、「供給を増やす努力」それ自体ではない。
供給能力を拡張する政策は、本来は重要だ。資本蓄積、技術進歩、労働参加率、規制コスト、税制の歪み、こういう話は全部まともだ。
だが、インフレ局面でそれを万能薬のように唱え、金融的現実から逃げる瞬間に、理論は自己放尿へと変質する。
供給制約があるなら、供給を増やすべきだろう。しかしそれはインフレの主原因の説明ではなく、一部の緩和策でしかない。ここを混同するのは知的怠慢であり、政治的欺瞞だ。
しかも、連中がやる典型的なムーブがある。マネーサプライがインフレの原因であるのに、ウクライナだの、輸入物価だの、エネルギー価格だのに責任転嫁して自己放尿する。
もちろん戦争が供給ショックを起こすことはある。輸入物価が上がれば短期的に物価は上がる。
だがそれは「物価水準の一回限りのジャンプ」を説明するだけだ。持続的なインフレ率、つまり上がり続ける現象は、貨幣の過剰供給がなければ維持できない。
にもかかわらず、政治はこの混同を利用する。供給ショックを口実にすれば、中央銀行と政府の金融・財政の共同責任を曖昧化できる。
つまり「インフレは外生的だ」「我々は被害者だ」「戦争が悪い、国際情勢が悪い」と言いながら、裏では金融緩和と財政膨張を続けてダブル放尿する。
これは政策当局の典型的な責任回避ゲームだ。貨幣を増やしている側が、原因を外に投げる。
国民は複雑な説明を好む。「海外要因のせい」と言われたほうが納得しやすいからだ。
こうして、通貨価値の毀損は“不可抗力”として処理される。要するに、責任を取らずに済む。
善意だろうが悪意だろうが関係ない。貨幣を増やせば、遅れて物価が上がる。
しかも遅れて上がるから政治家は調子に乗る。短期では景気が良くなったように見える。
雇用が増えたように見える。資産価格が上がる。だから選挙に勝てる。
ここで政治が学習するのは、「貨幣を増やすと一時的に気持ちいい」という事実だ。
麻薬と同じだ。そして副作用としてインフレが来る頃には、原因は別の誰かに押し付ける。
これが政治経済学の基本構造だ。人間は合理的だが、責任を負うようには合理的ではない。
サプライサイドがこのゲームに加担するのは、「供給を増やせばインフレは起きない」という幼稚な物語を提供できるからだ。
減税して投資が増える、労働供給が増える、生産性が上がる、だから物価は上がらない。
これ自体は条件付きで一部正しい。だが、現実には供給の反応は遅い。
政治の時間軸と市場の時間軸は違う。設備投資には時間がかかる。労働参加率の変化も遅い。規制改革も遅い。技術進歩などもっと遅い。
にもかかわらず、貨幣供給の拡大は今すぐできる。財政赤字の拡大も今すぐできる。金融緩和も今すぐできる。といって自己放尿する。
つまり政策当局がやっているのは、遅い供給改善を口実にして、速い貨幣膨張を正当化することだ。これは構造的に詐欺的にならざるを得ない。
そして当然の帰結として、価格シグナルが壊れる。価格とは情報だ。価格は希少性を伝える信号であり、市場参加者の分散情報を統合する計算装置だ。
だがインフレが起きると、価格は「相対価格の変化」と「貨幣価値の変化」が混ざったノイズになる。
企業は需要増なのか通貨安なのか判別できない。労働者は実質賃金が上がったのか下がったのか分かりにくくなる。
こうして誤配分が起きる。ミスアロケーションだ。資本が生産的用途ではなく、インフレヘッジの投機に吸い込まれる。
住宅、土地、株式、あらゆるものが価値保存の器として買われる。市場は本来の機能を失い、ただのインフレ回転装置になる。
この状態で「減税すれば供給が増えて解決だ」と言うのは、火事の中でガソリンを撒きながら「いや、建物の耐火性能を上げれば大丈夫」と言っているようなものだ。
耐火性能の議論は重要だが、今燃えてる火を無視してる。燃料の供給を止めろ。貨幣の供給を止めろ。インフレ期待を潰せ。実質金利を正常化しろ。これが先だ。
順序を間違えるな。順序を間違えるのは無能か、あるいは意図的な詐欺だ。
ここでサプライサイド派がよく使う逃げ口上が「インフレは一時的だ」「供給制約が解消すれば下がる」だ。
これもまた、政治的に便利な麻酔薬だ。だがインフレ期待というのは、そんなに素直に消えない。
人々が「どうせまた通貨を薄める」と学習した瞬間、賃金交渉も価格設定も前倒しでインフレを織り込む。
これが自己実現的にインフレを固定化する。金融当局が信頼を失った経済では、インフレは単なる物価上昇ではなく、制度への不信の表現になる。つまり、通貨が信用を失う。
なぜなら改革をしているフリをしながら貨幣膨張を続ければ、改革への信頼まで毀損するからだ。
減税も規制緩和も、本来は市場メカニズムの復権のためにあるはずなのに、インフレを伴うと単なるポピュリズムに見える。
市場派が市場派であることをやめる瞬間だ。これが思想の腐敗でなくて何だ。
サプライサイド経済学が自己放尿する最大のポイントは、「供給能力を上げる」という正しいテーマを掲げながら、「貨幣供給の過剰」という不都合な真実を直視せず、外部要因に責任転嫁し、政治の短期利益に奉仕することだ。
ウクライナ、輸入物価、エネルギー価格のトリプル放尿で責任を散らし、マネーサプライの増加という核心から逃げる。
市場は強い。だが市場が強いのは、価格が情報として機能し、貨幣が安定している場合に限る。
通貨価値を政治が破壊すれば、市場は情報処理装置として壊れる。
貨幣をまともにできない政権が、供給改革などできるわけがない。できるのはスローガンの量産だけだ。
インフレは天災ではない。インフレは制度の失敗であり、政策の失敗であり、何より責任逃れの帰結だ。
サプライサイド経済学がもし本当に供給能力の拡張を語るなら、まず通貨の安定を前提条件として守れ。
息子は兵士に、娘は性接待要員として送り出して、国防愛国婦人を気取っていたのが当時の母親
日教組は教師が戦争に加担した反省の下に「二度と子供達を戦場へ送るな」をスローガンとしたけれど
普段書いている文章をいくつか読み込ませて、「私が今回の選挙を前にして意見っぽい文章を書いたらどんな感じになる?」と指示してみたもの。
ただ、「これAIが書いてるよね」っていうのはすぐにわかる不思議。
今回の衆議院選挙に際して、何か大きな期待を抱いているわけではない。
ただ、何も言わずにやり過ごすには、あまりにも「既視感」が強すぎると思っている。
正直に言えば、最近の政治状況を見ていると、「どうしてこうなるのか」「なぜこの程度の言説がこれほど支持されるのか」と感じる場面が多い。
それでも一定の票が集まり、同じパターンが繰り返されるのを見ていると、落胆と苛立ちがセットで湧いてくる。
ただ、その「愚かだ」と感じる反応の方こそ、危険だと思っている。
「自分はそこまで愚かではない」という前提に乗った瞬間、判断が鈍る。自分のほうもまた、偏ったデータに基づいて世界を見ているに過ぎない、という事実を忘れがちになる。
今回の選挙に対する自分の感情を眺めると、そこには少なくとも二つの層がある。
ひとつは、政策そのものへの違和感や危機感。もうひとつは、「そんなものに惹かれる人々」への軽蔑と不安だ。
後者を放置すると、分断を責めながら、自分が分断を増やす側に回る。
AI の比喩を持ち出すと軽く見られがちだが、便利なのであえて使う。
人はそれぞれ、まったく違うデータセットを与えられて育つ。
どの新聞を読んでいるか、どのテレビをつけていたか、誰と飲んできたか。
こうした違いが、同じニュースを見ても全く違う「正しさ」を確信させる。
陰謀論や極端な言説に惹かれる人を「愚か」と切って捨てるのは簡単だが、「その人がそこに辿り着くまでのデータセット」を丸ごと無視する行為でもある。
そこには、疎外感や貧困、不遇、信頼の崩壊といった要素が折り重なっているはずだが、それを「見たくないノイズ」として処理してしまう。
もちろん、だからといって、どんな選択や投票行動も「仕方ない」で済ませるべきだという話ではない。
行動には結果があるし、その結果は他人の生活にも食い込んでくる。
ただ、その責任の話をするときに、「愚かさ」のラベルを乱発し始めたら、自分もだいぶ危ないところまで来ていると思ったほうがいい。
選挙のたびに、誰かを「目覚めさせよう」とする空気が出てくる。
SNS では、啓蒙的なスレッドや、怒りを込めた長文が流れ、「これを読めば分かるはずだ」という調子のものが溢れる。
残念ながら、あれで人が変わるケースは少ない。
長い時間をかけて染み込んだデータと、それによって形作られた「自己像」によって動いている。
だから、自分は今回の選挙を、「他人を変えるためのイベント」としてはほとんど期待していない。
むしろ、「自分が自分のデータセットと判断を引き受ける場」として見るほうがまだましだと思っている。
この社会で、自分はどういう未来に賭けるのか。その記録を一つ残す行為としての一票、くらいに位置づけている。
極端な言説や明らかな虚偽に基づく政治的動きは、「バグ」と呼びたくなるところがある。
情報環境の設計ミス、アルゴリズムの報酬設定、メディア構造、教育の断絶。
色々な要素が積み重なって、特定の方向に過学習したモデルが大量に生まれているように見える。
にもかかわらず、現実にはその「バグった出力」が法律や政策になり、誰かの生活や命を直撃する。
ここには、「人をバグとして理解する視点」と、「それでも行為には責任が伴う」という視点の両立が必要になる。
今回の選挙で言えば、
「バグだから仕方ない」と済ませてはいけない領域が、確かに存在する。
同時に、その線引きを行う自分自身も、「完全に正しいモデル」ではない。
戦争体験の話を聞いて育ったこと、特定のメディアを避けてきたこと、居心地の良いコミュニティだけを選んできたこと。
そうした自分のデータセットが、「どこまでを許容できないと感じるか」という閾値を決めている。
その自覚を持たないまま、「正義」の旗だけを高く掲げると、たぶんどこかで滑る。
ここまで書いてきたことを雑にまとめれば、「謙虚でいろ」という話になる。
ただ、この言葉はあまりに擦り切れているので、具体的な中身を少しだけはっきりさせておきたい。
この程度のことでも、やらないよりはマシだと思う。
こういう話をすると、「結局、何も変わらない」「だったら投票してもしなくても同じでは」という結論になりがちだが、自分はそうは思っていない。
世界全体を変えるつもりはないし、変えられるとも思っていないが、自分がどちら側に立つかくらいは記録しておきたい。
将来、振り返ったときに、「あのとき、自分はこういう世界の見方をしていた」と分かる程度の痕跡を残しておきたい。
変えられない他者とどう生きるか。
答えは簡単には出ないが、少なくとも「自分もまた完全ではないモデルの一つに過ぎない」という前提だけは、選挙の日にも手放さないほうがいい。
そのうえで、それでも線を引くべきだと思うところには、静かに線を引く。
今のところ、自分にできるのは、その程度だと思っている。
「中道」の由来が創価学会の池田大作お気に入りのスローガンだった点を無視するのって何か事情あるの?