
はてなキーワード:スヤスヤとは
3歳と1歳。好きがとまらん。
ふたりでおもちゃの取り合いして弟のほうが力が強くて負けちゃうおねえちゃん、おねえちゃんなのに大号泣するおねえちゃん、大好き。
「たしけてぇ〜」「さみしい。」とかかわいいことをいうおねえちゃん、大好き。
ほっぺもちもちまつ毛くるんくるんのおねえちゃん、大好き。
おねえちゃんにぺしっ!てされて大号泣の弟、歩けるようになってのしのし歩いて椅子とかに登ろうとしてひっくり返って頭ゴン!ってなって大号泣の弟、大好き。
おねえちゃんのまねっこ大好きで爆笑するときおててを口にあててお上品に笑う弟、おねえちゃんに頭ごと突っ込んではい抱っこしてね〜状態になる弟、とりあえずお味見…というかんじで大人の足とか撫でてる指とかをぱく…っと食べる弟、大好き。
同じ向きで寝てるふたり、ころころ寝返り打ちながら当たったり足がのっかったりしながらもお互いの存在を感じてまたスヤスヤ安心して眠るふたり。
大好き。とまらん。かわいすぎる。
昨日から頭痛が酷くて、普通にしてても頭が痛いのに咳をするともっと頭が痛くなる。喉も痛いという症状があった
長女が寝たら次女が起きて甘えてきて、次女が寝たら長女が起きて甘えてきて
寝かしつけ地獄みたいな夜だった
次女は今日の朝5時に起きて、次女にご飯を食べさせていたら長女も起きてきて、私の今朝の仕事のシフトは5時から始まった
前日から長女が行きたいと言っていた遊び場(10:00〜17:00営業)に連れて行った。10時に着くように家を出たので一番乗りだった
早朝は雨が降ってて涼しそうだったのに9時代の外は暑くて子供2人連れて歩いて遊び場に行くのがツラかった。1歳の次女は抱っこ紐、5歳の長女はベビーカーに乗せて、娘たちには全く歩かせず私だけベビーカーを押して歩いた
遊び場に着いてからも娘たちの面倒を見るのは大変過ぎた
1歳の次女は破壊神で何でも散らかしまくる。おもちゃでもなんでも食べまくる。5歳の長女は「ママ、見てみて!」連発。もう5歳だけど自分が出したおもちゃの片付けをマトモにやらない。
他の幼児連れ親子は私たちより遅くきて、私たちより先に帰って行った
長女は「17時までいる!」と言っていたが1歳の次女が「遊び場から出してアピール」が激しくなった。やたら窓から脱走しようとする。長女に次女ちゃんもう帰りた過ぎて限界だからそろそろ帰ろうと言って、15:30に遊び場を去ることができた。
5時から起きてる次女は抱っこ紐に入れたらすぐにスヤスヤ寝てしまった
16時に帰宅して、もう料理もする気にならず、コンビニ飯を買ってきた。
次女は布団の上に寝かせて、長女とご飯を食べて、私はシャワーを浴びた
夫に私は体調不良でもう子供たちをお風呂に入れてあげることすらできそうにないのであなた一人で娘たちをよろしくLINEをして私も次女と寝た
赤ちゃんが膝の上でうつ伏せで寝ている瞬間こそ、人生で最も幸せを感じる時間です。この結論に至った理由を話させてください。
まず、赤ちゃんを育てるというのは決して楽なことではありません。夜泣き、ミルクの準備、おむつ替え、何をしても泣き止まない時だってあります。正直、疲れるし、イライラすることもあります。でも、そんな中で、ミルクを飲ませ終わって、赤ちゃんが膝の上で安心したように寝てくれる瞬間というのは、全ての苦労が一瞬で報われる時間なんです。
赤ちゃんはまだ何も言葉を話せません。笑顔を見せることも、意図的に何かをすることもほとんどありません。でも、膝の上でスヤスヤと寝ている姿を見ると、「この子は僕を信頼してくれているんだ」と実感します。あんなに泣いていた子が、僕の腕の中で安心して眠りにつく。その事実だけで、胸がぎゅっと締めつけられるような感動を覚えます。
また、この時間には他では得られない静けさがあります。赤ちゃんの寝息を聞きながら、自分の呼吸と重なるような感覚。この瞬間だけは、周りの世界が止まっているように感じます。仕事のストレスも、日々の雑事も、この時間だけはすべて忘れられる。目の前にいる小さな命だけが、自分にとっての全てだと思えるんです。
育児は一種の自己犠牲と言われることもありますが、僕はそうは思いません。むしろ、赤ちゃんが与えてくれるもののほうが、何倍も大きい。この「膝の上でうつ伏せで寝ている赤ちゃんを眺める時間」は、その象徴です。どれだけ疲れていても、この瞬間だけは「頑張って良かった」と思える。
最後に、こういった体験は、本当に育児をしている人にしかわからない特別なものだと感じます。育児には大変なことも多いですが、膝の上で寝ている赤ちゃんの重み、ぬくもり、寝息の音。それがどれだけ幸せなものか、同じように子どもを持つ人たちにも改めて思い出してほしい。僕にとって、この時間が何よりも大切で、かけがえのないものなんです。
おいお前ら表題の件につきまして、ご覧になりまして?
https://shonenjumpplus.com/episode/17106567256672633938#
・このマンガは鳩っちという陰の者、なれどストイックな求道者がそのストイックさで衆生に影響を与えることがメインのプロット
・たまきn先輩がらみのバンドには銀杏BOYZを取り入れてるが、流石にキラキラカワイイ系のたまきn先輩に銀杏BOYZはエグみが強いだろ、と思ったら、たまきn先輩の人生そのものがエグみが強くて銀杏BOYZを当てることがニンニクしょうが並の、カロリーを臭みで消す二郎レシピになってる
・出内先生の、クワハリ先生が表現したいことへの理解力と、キャラ作画だけではなくモブや背景、物品オブジェクトに至る全てがクワハリストーリーの文脈にドンピシャにハマっている
・そしてこの回で不敵に嗤う鶴先輩(と怪僧厘ちゃんさん)
「ふつうの軽音部」の「ふつう」とは何か、ふつうの高校生衆生が触れるのは、般若心経ならぬどんな「軽音」なのか、はたまた「恵音(Amazing grace)」なのか。
「ふつうの」青春群像劇から、宗教的説話に跳ね上がるターニングポイント回だったと思う。
ところで宗教用語っぽいものを散りばめているが、「スヤスヤ教」ぐらいの娯楽と思ってね。たかがRock'n'Roll(Acid Black Cherry)だもの。
駅前で玄関先で喫茶店で宗教勧誘に絡まれた経験は誰しもあるだろうし、宗教二世だってずっと問題視されてる。一定以上の年齢の人はオウム事件の記憶だってあるだろう。新興宗教だけではなく、伝統的な宗教も海の向こうでは戦争したり他人が中絶する権利を奪おうとしたりしてる。
スヤスヤ教に馬鹿にされた!って騒ぐ前に何故そうなるのか胸に手を当てて少し考えてみろよ。みな迷惑なんだよ。価値観がめまぐるしくアップデートされる現代で数千年前のライフハックを重要な真理かのように語ってこないでくれ。ましてやそんな古くさい価値観を政治に持ち込まないでくれ。
もう宗教は時代遅れなんだよ。先進国では無神論者が増えて教徒は高齢化が進んでいるし、イスラム教徒も随分とカジュアルになってきた。神や仏について考えても真理には他取り付けず、科学的な観測の積み重ねが重要であることを皆知ってるし、体やメンタルを救うなら圧倒的に現代医療の方が優れてる。
これらを顧みることが出来ず、現代の価値観の変化を取り込めず迷惑を掛けて、それでちょっと批判されたら烈火のごとく怒り始めるところ、そう言うところが宗教やってる奴って馬鹿にされる理由なんじゃないか。
一ミリも関係ないんだけど、全然関係ないところから空海が言ってる
睡眠が教義の謎の宗教、ヤバいペースで信者が増えてしまう 【スヤスヤ教】https://youtu.be/OLdvnaLV3e0?si=tmEOHS8Ud04RHKFb
超絶難しい十住心論をアバタローさんという読書YouTuberの方が「大日如来と一体になるのが悟りの最終形態」と紹介してるのですが…ここだけずっと謎でした。
【名著】三教指帰|空海 全ての悩みは、10段階で消滅する。 ~現代人の心を救う、天才僧侶の秘密の教え~https://youtu.be/u9thajcl2oc?si=4IiHParjPiNaKii3
十住心論は、かなり画期的な本で、
を、悟ったと言ってる本人が解説しようとしてる歴史的に見てもすごい本で、今読んでも参考になる。
を考える時にかなり面白い本
ざっくり言うと
本能のまま生きる→
(ちゃんと人に伝わる方法や愛情を持つことで)自分が流れを作れるようになる→
全てが移り変わるものであることをポジティブに捉えられるようになる→
健やかで穏やかな時間を生きる
という感じ
で、最後の「大日如来と一体になるのが悟りの境地」だけ「そもそも大日如来ってなんだよ」「仏と一体っていみわからん」と思ってた。
「心が落ち着く場所・行為・習慣の中に身を置くことで、生きながらにして健やかで穏やかな状態になってることか!」
と納得
仏教の教えは用語が哲学的過ぎたり、大げさな言い回しになりがち。
スヤスヤ教は宗教のメリットである「心や体にいいこと言ってる」要素を、シンプルかつ肉体の健康にも敬意を払ってるからとてもわかりやすくていい!
「大日如来と一体になる≒おふとんと一体になる≒心安らぐ時間・習慣を大事にする」と捉えると、
「心安らぐ時間を大切にするなら、推し活やオタ活でもいいの?」
と思う人もいるかもしれない。
推しがロスした時にパニックにならないならいいんじゃないですか?
スヤスヤ教とて、信じすぎて
「睡眠に執着する」
「執着や煩悩は悪。そんなもん捨てろ」
があるけど…アレ、「お前の物事との付き合い方おかしいよ」という話です。
付き合い方がおかしくなるほどアツくなったら執着かと
ブッダ自体が「煩悩や執着を捨てる厳しい修行したけど、全然悟れなかったわ」というてますし。
無欲になることよりもむしろ、「物事は常に移り変わっていくけど、自分の中で心地よい習慣や関係性作っていく・その都度見つけていくの大事よね」というね…。
人体で生きてる限り、欲は必ず生まれるし
スヤスヤ教も
「移りゆく世の中でも、俺は家に帰って必ず寝る時間をちゃんと確保する。これが心を豊かにしてくれる」
というものを見つかったなら、空海のいう即身成仏(生きてるうちに仏になる)なんじゃないですか?
様式美としての仏教が好きな人から怒られそうなこというてるけどね…
本書く時に「メンタルの勉強するなら、心理学・哲学・仏教全部やろう」と勉強して、面白い考えを取り入れてるだけ。
元々仏教自体がインド哲学の流れを汲んだ哲学やから、そういう楽しみ方してます
日本で一番信者が多いのは(無戒律主義で、僧侶にも肉食妻帯が許される)浄土真宗ですよ?
事実上なにも言ってなくない?
スヤスヤ教に関しては、かつてのニコニコ動画や、初期〜中期のTwitterで流行ってたノリが、最近ではイタい、ダサいと感じられてるのが炎上の隠れた理由と思う。みねるばも、その取り巻きも、一部感性が古くて、色々鼻につく人がいるんじゃないかな
そんなロジックの人が湧いてるんだけどさ
突然「スヤスヤ教でネルサレムだとぉおおーー!!」みたいになる人はさ
学部生みたいなんで、まあ先生の「宗教は尊重されないといけません」みたいな文言を真に受けているんだよね
勉強を進めるそのうち、ひねくれ度強めの教授にも会ったりして、自分で書いてて意味が理解していない「何が宗教かを定義するのは難しい」という文言の意味を真に理解することになる。
スヤスヤ教すらも宗教にするしかないんだよね。「伝統宗教」とかいう枠つくって、それからは外すのが限界。
そんで気づく。宗教が当初自分が考えていたほど、全面的に素晴らしいものではないというか。宗教であることと素晴らしいことはイコールにならないことに。