
はてなキーワード:スマホとは
https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5
https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5
「なぜはた」の明確な問題点は「タイトルの主語が大きすぎること」です
<以下本文>
まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく社会構造上の問題であることを論じた本です。
→大前提となる、「『かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々』という特定の層」が存在することをデータで示さないと、「実感」としてそういう層の存在を主張したとしても議論が始まりません。
「この神聖な水飲んだらがんが治ったんだもん」とデータなしに主張しても、そこから先の議論に至らないのと同じです。
これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。
→この例えは明白に誤りです。なぜなら前者は「全体の読書量」と「特定の層の読書量の推移」を比較する主張であり、後者の「寿命」と「特定の疾患の存在」とは評価対象が異なるからです。
あえて寿命で例えるなら、「日本人の平均寿命は延びているから、喫煙者の平均寿命も延びている」などがあります。これならば「全体」と「特定の層」を共通の評価軸である「寿命」で比較できますし、「日本人の平均寿命が延びていること」を示しても「喫煙者の平均寿命が延びていること」を示さないのはその通りで、これならば矛盾と言えます。
(しかしその仮説を論じるなら、タイトルを「喫煙者の平均寿命~」とするべきで、主語を日本人全体としたり、明確に示さないことが明らかに誤りであることは誰にでもわかると思います。)
全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。
→マクロデータのみで個人の実感を否定すること。確かによくないですね。
おじいさんおばあさんの中には、煙草を決してやめない人がいます。「私は煙草を吸っても今まで病院のお世話になったことないんだから、それでいいの」 大変結構だと思います。
こういう人たちに、「タバコは健康に悪いからすぐやめなさい」と言っても、個人の経験則を否定することになり、もめます。
マクロデータの目的は、「特定の属性の実感」を否定することではなく、全体を解析して現状やその傾向を把握することです。分析の手法として、データで示されない実感を大切にすることは重要ですが、解析の結果「実感」を否定する結果になってしまうことはままあります。
だからこそ、「実感」を前提とする議論をするならば、実感の存在そのものをデータとして示す必要があるのです。
拙著で統計データを多用することは本題からそれてしまうため(何度も書きますが、私の書いた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はマクロデータで語ろうとした本ではありません)必要最低限にとどめていました。が、本稿ではあえて氏の提示したものと同じデータソースを用いて反論を試みます。
→繰り返しになりますが、主張には前提が必要で、前提が正しくなければ主張も意味を成しません。したがって、前提をデータとして示す必要があります。それが必要最低限に至っていないということなのです。
飯田さんは「高校生の時点で読書量は減っており、働き始めてから急に減るわけではない」と指摘されています。しかし、この主張は「誰を対象にするか」という分析対象のセグメントを見誤っています。
まず、拙著が対象としているのは「元々読書習慣があった人々」です。では、統計的に見て「読書習慣がある人」とはどのような層を指すのでしょうか?
次図「読書習慣のある人」の月平均読書冊数を見ると、過去約40年にわたり、本を読む習慣がある人の読書量は月平均3-4冊の間で安定して推移しています。つまり、統計的な定義として、「月3-4冊読む」という行動こそが、日本の「読書習慣がある人」の姿であるといえます。
→対象としているのが「もともと読書週間があった人々」なら、なぜ書籍のタイトルが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と主語が示されていないのでしょうか。ここが反論とその反論の大きなズレの原因です。
ちなみにこの統計、データ(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/94111701_03.pdf)が35ページ目(pdfだと39ページ目)にあるんですが、16-19歳の調査人数、なんと83人なんですね。
これだと1人減ったら1.2%割合が動くことになるんですよ。以下に書き起こしたものを記載してみます。
<16-19歳の読書数>
0冊=66.3%
1-2冊=22.9%
3-4冊=8.4%
5-6冊=1.2%
7冊以上=1.2%
あれ?1.2%が二つ。つまりこれ、5-6冊、7冊以上の人は1人ずつでしたね(笑)
3-4冊の人も1人減ったら7.2%になり、2人減ったら6%になって20歳代の人と同等になっちゃいますよね。
おおよその割合をみるには使えると思うんですけど、「16-19歳とその他の世代の比較」には非常使いにくいデータだと思いませんか?もし複数回同じ手法で調査したら、ひっくり返っちゃったりすることもあり得そうです。
しかも、令和5年の大学、短大、専門学校の進学率を合わせると約8割、大学に限ると約6割で、ちょうどこの統計の年齢階級を跨いじゃってるんですね。
だから、このデータで「働くと読めなくなるかどうか」を議論するのって、そもそも無理なんですよ。
ご覧の通り、「1,2冊」というライト層では加齢による減少は見られませんが、「月3-4冊読む習慣のある層」においては、労働期間中(生産年齢)に数値が底を打ち、退職後に回復するという明確な「U字カーブ」を描いています。
学生時代の読書減と社会人の読書減を同列に語ることはできません。なぜなら、このグラフが示すように、「労働から解放された世代(70代以上)」では、数値が学生時代の水準まで回復しているからです。 もし「加齢による文字離れ」や「スマホ普及」だけが原因であれば、高齢層でここまで数値が戻ることは説明がつきません。
もちろん、今回のような一時点の調査である以上、厳密には加齢による変化とコホート効果を切り分ける分析が必要です。しかし、データの限界を差し引いてもなお、この「労働期間中にのみ、特定の読書層が凹む」という事実は、労働環境がまとまった読書習慣を構造的に阻害している可能性を強く示唆しています。 全体平均にならすことで分布の特異性を捨象してしまう飯田さんの分析は、データに表れた当事者ーー働いていると本が読めないのだとほんとうに感じている人々ーーの痛みを見落としていると言わざるを得ません。
→この主張も前述したように、1人動くと1.2%動くデータで示唆するのは無理があります。
U字カーブ?あなたは70歳以上の人が自在にスマホをいじくってネットサーフィンしているのを想像できますか?
交絡(データに影響を与える別の要素)がありすぎて、単純に就労の有無だけを結果の原因として求めるのはちゃんちゃらおかしいと思いませんか?
「痛み」ですか、はあ。タバコ吸っても健康でいられると思ってる人の痛みを想像したことありますか?(笑)
一見すると、「書籍の読書冊数と市場規模は相関しないが、雑誌は相関する」という飯田さんの主張は正しいように見えます。しかし、ここで気を付けなければならないのは、市場規模の根拠として用いられているデータの定義です。これは「出版販売額」、つまり新刊市場の推移にすぎません。
雑誌のみが市場規模と相関する主要因は、書籍と雑誌の読書習慣の違いというより、市場構造の違いにあると考えるのが妥当です。書籍は図書館での貸出や、古書店・メルカリ等の二次流通市場といった新品購入以外のタッチポイントが豊富です。
→なるほど、たしかに書籍は図書館や古書店で接触がある分、新品市場だけで語ると乖離が出そうですね。
つまり、「読書数の総量=新品購入+レンタル・中古」になるってことですな??
ということは「読書数>新品購入の勢い」が成立するということだ。ふむふむ。
こうした「読む」と「買う」を短絡的に結びつける考え方はよく見られる。しかし、読む量と買う量は単純にイコールにはならない。イコールになるなら「積ん読」という言葉は存在しない。
→えーっと、積読があるから「読書数<新品購入市場の勢い」もありえると。
……市井氏は積読があるから「読書数<新品購入市場」と言い、その反論として三宅氏は中古やレンタル市場があるから「読書数>新品購入市場」と言っている!かみあってない!
まわりくどいんだけど、結局どっちも「書籍の読書数と新品購入に相関がない」が「雑誌は読書数と新品購入に相関がある」というのが主張で、一致している!反論すると見せかけて同じことを主張するという高等テクニックである。
また、拙著の「雑誌や自己啓発書を中心として、労働者階級にも読まれる書籍は存在していた」という記述に対し、飯田さんは「雑誌と書籍の区別がついていない」と批判されています。しかし、拙著の記述は明治時代の出版状況についての記述であり、いうまでもないことですが雑誌はコミックや週刊誌の割合も時代とともに変わっていきます。明治の雑誌出版に関する記述を、現代の雑誌と同様の枠組みで捉え、区別がついていないとするのは、論理が通らないのではないでしょうか。
以上のように、構造的に相関の低い「新刊販売額」を指標として用いて「書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき」と主張するのはデータの選定として不適切です。本来であれば、図書館の貸出しや二次流通市場におけるタッチポイントも考慮したうえで読書冊数との相関がないことを示すべきです。また時代によって役割の異なるメディアを十把一絡げに扱うのは、妥当性を欠いていると言わざるを得ません。
→えーと、前半の文章は市井氏の引用した部分が明治時代の話をしているから不適切ってことだな。うむ作者が言うならそうなのだろう。
後半は……
構造的に相関の低い『新刊販売額』を指標として用いて『書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき』と主張するのはデータの選定として不適切」
あれ、あなたも書籍読書数と販売数は相関しないけど雑誌は相関するって言ってましたよね?
市井氏のnoteをみると、扱っているデータは70年代以降のもので明治時代の話はしてなさそうですけどね。
それに市井氏の
なお、『読書世論調査2016年度』には書籍の読書率について「戦後、読書世論調査の開始以来、多少の変動はあるものの、おおむね5割前後で推移している」と書いてある。『なぜはた』は読書世論調査を引用しておきながら、読書世論調査サイドの「長年そんなに変化がない」という見解とは異なる「本離れが進んでいる」という主張をしている。
この部分に関する反論はしなくていいんですかね。マスデータだから?
引用元の文献(黒田祥子・山本勲「長時間労働是正と人的資本投資との関係」)を見る限り、これは事実ではあるものの、解釈と適用先が間違っていると考えられます。
というのも、ここで引用されている論文が測定している「自己研鑽」と、拙著が指摘する「自己啓発書の読書」は、行動の質が全く異なります。論文が指すのは資格取得やスキルアップのための「能動的な学習」であり、これに対して『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が論じているのは、新自由主義的な不安に駆られた人々が救いを求めて読む「自己啓発書の消費」です。むしろ、「労働時間が減っても、能動的な学習に取り組むほどの気力や体力は回復していない」という論文の結果は、人々が手軽な「やった感」や「効率的な正解」を得られる自己啓発書(=ファスト教養)に流れるという拙著の仮説と矛盾しません。
「キャリアアップのための能動的な学習」の機会が減ったからといって、「手軽なノウハウ本」のニーズがないことの証明にはならず、このデータを根拠にするのは的はずれです。
→確かに「自己研鑽の時間が減ったから」といって「手軽な自己啓発本を読む時間が減った」とは言えない。それはその通りだ。まあ手軽な方が増えたとするのはあくまで仮説で、それを証明する手段もそうないよね。
飯田さんは「市場規模において、依然として小説は自己啓発書より大きいため、自己啓発書へのシフトという説は誤りである」と主張されています。
第一に、議論の焦点は、現時点での「絶対量」ではなく「変化の方向性(トレンド)」です。たとえパイの大きさが小説の方が大きくとも、書店の棚構成の変化や、人々の意識における効率性の重視といったトレンドの変化を否定する材料にはなりません。
第二に、ここで飯田さんの論理には明確なダブルスタンダードが存在します。飯田さんはこれまでの議論において、「市場動向と読書実態は書籍においては必ずしも一致しない」と主張されました。しかし、ここでは一転して、「小説の方が推定発行金額(市場規模)が大きい」ことを根拠に、「小説の方が読まれている」と結論付けています。
→いったん整理すると、
<三宅氏の主張>
読書の方向性が手軽な自己啓発書にシフトしているから読書量が減った。
<市井氏の主張>
小説の市場規模の方が大きいので自己啓発書の読書量に対する影響は大きくないはずだ。
市場規模では確かにそうだが、トレンド(推移)は見てないですよね?だからその論は否定の根拠にはなりません。
さっき書籍と雑誌の比較で「市場規模と読書量は相関しない」って言ってたのに、自己啓発書と小説を市場規模で比較するのはおかしい!ダブルスタンダード!
→
反論①については、たしかにトレンドはそうかもしれないけど、象に犬がキックしても効かないように、市場における小説の占める割合の方が圧倒的に大きいのだから、自己啓発書のトレンドがまあまああっても全体のムーブには影響しにくいっていうのは確かなんじゃないですかね。
反論②については、雑誌と書籍の比較と、小説と自己啓発書(どちらも書籍に含まれる)の比較は全然別だから、まずダブルスタンダードとは言えないのは明らか。これは間違いない。
ご自身にとって都合の良い時だけ売上と読書実態を切り離し、別の場面では売上を読書実態の根拠とするのは、論理的一貫性を欠いています。
→これは完全にどっちもどっちと言わざるを得ません。データ分析を仕事にしている人ってこのレベルなんですね。というかそもそもデータの部分よりも文章の方が蛇行運転になっていて、上記したように論理が合わない箇所がいくつかあります。心配になりました。
<お わ り>
まずは、本件について不快な思いをした方々に謝罪をいたします。申し訳ありませんでした。また、長文となるため読んでいただかなくても差し支えありません。
ひろゆき氏のツイートを引用リツイートしたところ、わずか数時間で800万インプレッションに達しました。
通知が鳴り止まず、返信が雪崩のように押し寄せ、最終的に私はアカウントを削除することになりました。
■ 今回の教訓
・ひろゆき氏とレスバ(論争)するな、引用して自分の意見を書くな
■ 経緯
発端は、「自らの命は自らが守るという原則に基づき」高市総理が1週間程度の注意呼びかけを行った、という旨の記事でした。
ひろゆき氏:
私:
「津波が来るような場所に住んでいるということは、自己責任といっても相違ないんじゃない?
大雨で川が氾濫して冠水する地域に住んでいる人と同じ見方なのかも。
すぐ逃げられる、すぐ避難するようにしましょう。子供は親の責任です。弱者....とはだいぶアバウト。独居老人のために避難所開放ありかな。」
(※現在は削除済み)
すると、ひろゆき氏からさらに引用リツイートで返信がありました。
ひろゆき氏:
都会の人が手に入れる野菜、魚、肉、水、電気、空気、ガスはどこから来てると思ってるのかな?」
1週間以内に大きな地震が来る可能性が高いから、"事前に"逃げる準備をしておき、自分の身は自分で守りましょう。
また、大雨で川が氾濫する地域も同様に、雨が降れば冠水して逃げられなくなるため、天気予報を見て"事前に"避難しましょう。
この「事前の備え」という文脈で、私は「自己責任」という言葉を使いました。
ひろゆき氏が先に「自己責任」という言葉を使っていたため、それに引っ張られてそのまま使用してしまったのです。
しかし、これは私の無知であり、言葉の選択が間違いでした。正しくは「自助努力」と表現すべきでした。この点については深く反省しており、申し訳なく思っています。
「都会の人が手に入れる野菜、魚、肉、水、電気、空気、ガスはどこから来てると思ってるのかな?」
そんなこと、私は一言も言っていないんだけどなあ……。
そう思いながらスマホを放置している間に、事態は急変しました。
雪崩のように押し寄せるリプライと引用リツイート。スマホを操作していないのに、通知の処理でメリメリと電池が減っていきます。恐怖を感じ、通知をオフにしました。
詳細は全て覚えていませんが、届いた返信には以下のような罵詈雑言が溢れていました。
・田舎の人が頑張っているから都会の人は食べ物を食べられているってわからないの?
・何も食うな
・中国人?
・今まで助けてもらったことがない人が、自己責任という言葉を使っている
・100年ROMってろ
・親ガチャ失敗だね
・返信が来ていない逃げんな
■ 「都会の人」というレッテル
罵詈雑言の中で、私はあることに気がつきました。
「住んでいる」とは一言も言っていないのに、なぜか私は「都会の人」として叩かれているのです。
「都会の人が手に入れる野菜、魚、肉、水、電気、空気、ガスはどこから来てると思ってるのかな?」
これだ……。
当事者として、「津波が来たら(誰かの助けを待つのではなく)自分で逃げないといけないよね」という自戒を込めて言っていたつもりが、完全に伝わっていませんでした。
私は「安全な都会から地方を切り捨てる人間」として、非難の的になってしまったのです。
■アカウント削除へ
・フラッシュバックするので消してください
これらの書き込みを見て、自分の発言が思慮に欠けていたことを痛感しました。ご指摘いただいた方には謝罪し、その上でアカウントを削除しました。本当に申し訳ありませんでした。
謝罪をすれば「謝罪したら許されると思っているのか」「インプレ稼ぎだろツイート消せ」と言われ、
ツイートを消せば「ツイ消しされたので貼っとく」「アカウント消せ」と言われ、
アカウントを消せば「アカウント消して逃げてる」「逃げるな」と言われる。
逃げ場のない言葉の刃に、ただただ圧倒されるばかりでした。
身を持って知ることとなった、苦い経験でした。
ひろゆき氏とレスバは避けたほうが良いです。引用もリプもしなうほうがいいと思います。
いつのまにか、論点が違うところに行ってしまいます。私が伝えたかったことを伝えようとしても
と言う人もでてきて、何を言っても聞いてもらえないです。
罵詈雑言には耐性があると思っていましたが、言い返せないストレスは計り知れないものでした。自分の気持ちが伝わらず言われっぱなしなのは、ここまで辛いものなのかと。
「娘の為にトー狂至上主義に詳しすぎる夫を倒したい」みたいな流れで注目された、
「幼さの残る年頃の子へ、はじめて“都市”をどう渡すのか?」ってテーマで、
“地方中核都市の中心部(都雇圏50〜110万人の適密圏)”を渡した家庭の別例として、このエントリを書いてる…❤️
そして前提として、このエントリは
「都雇圏…? え、都市雇用圏ってなに?」「適密ってなに?」「中心市街地ってショッピングモールのこと?」
みたいな、ふわっとした認識の層に向けて書いてる…💗
決して
「√人口で都市半径をスケーリングして同一開発度で比較して、中心からの距離/都雇圏人口の平方根を“都市半径指標”として…(以下略)」
みたいな層には書いてない…w❤️
トー狂の過密通勤・巨大結節・“在庫の海”の作法に染まりきってない子供は、親の想定を超えて極々ふつうに、地方中核都市の中心市街地を“生活の場”として使う…💗
ここで言う「染まる」ってのは、
「うちの子、普段から郊外モールと車移動と“目的地は駐車場”に慣れててさぁ」
(軽い“モール染み”くらいなら洗えば落ちる…w❤️)
手遅れな染まりとしては、例えば――
みたいなやつ…💗
でも、そこまで染まってないなら、
都雇圏80万人級(=刺激が日常的にキャパ超えし始める帯)の中心部を渡すと、子供は疑問を持たずに使う。
「ここは歩く」「ここはバスが収束する」「ここは商店街が生活を支える」って、勝手に理解する…💗
これが、わたしの新概念 「適密こども航法(てきみつこどもこうほう)」 …w❤️
百貨店っぽい核、個人店群(家から徒歩4分内500店舗、徒歩9分内1000店舗。一方東京(本物)は家族居住だと,家から徒歩4分内10~20店舗,徒歩9分内100~150店舗)、図書館、企画展のある美術館、イベント会場、役所、病院、学校、そして収束型の公共交通――
そういうのが、子供の身体感覚で“遠すぎない”距離にある…💗(百貨店・個人店群徒歩4分,総合美術館・イベント会場・大病院徒歩10分、アーケード近傍(1分)、幹線道路横断無し←これ、最近の足立区的事故から子供を守る為に超重要な奴よね…🚑)
トー狂みたいな過密実験区は、在庫は(乗り物を使って片道何十分もかければ)多いけど、
そんなに多くても、子供が“日常の手触り”として触れられる量は、とっくに限界がきてる…❤️
(都雇圏50万人あれば1人の人間が享受できるキャパを超える)
片道が長すぎて、取捨選択が「能力」じゃなく「生存戦略」になっちゃう…💗
(増田さん、こういうの好きなくせに、途中で飽きるんでしょ…w❤️ ほんともう…❤️)
ここ、元ネタだと“見せたくないWebページ”問題だったけど、
増田さん向けに変換するとこう…💗
(この発想、地味に一生効くやつ…💗)
んで、子供がどうしてるかっていうと、呆れるほど毎日、街の話をしてくる…❤️
「ここ、バスが“いっぱい来る道”だね」💗
「ここ、同じ道なのに店が変わるの面白い」❤️
「図書館って、静かなのに強い」💗
そしてほぼ毎日、親子の会話がこうなる…❤️
「お父さん(お母さん)、これ何?」
「それはね、都市が人を助けるための仕組みだよ」💗
でも、子供が“世界を信じられるサイズ”としての街を(徒歩4分内に)持つのって、かなり強い…❤️
わたしはそう思う…💗
故障やら不具合やらで爆発したらどうしようと毎回震え上がっているのだが、よくよく考えるといつも持ち歩いてるリチウムイオン電池スマホの方が格段に危険だわ。
スマホを捨てて歯を磨こう。
27日~4日まで休みのいわゆる「ほぼカレンダー通り」の年末年始なんだけど、実家ってどれぐらい帰ったほうが良いと思う?
ぶっちゃけ実家帰らずにゲームしたり大掃除したりしたいんだけど、それやって来年親が死んだりしたら気まずいから大晦日と元旦と2日の昼ぐらいまではいようかなと思ってる。
もうちょい居たほうが良い?
でも2泊3日もやったら十分ちゃうんかって気もするんだよね。
どうせ実家帰っても子供部屋は物置状態だし、地元に友達いないし、せいぜいスマホでインターネット見て親とダベってひたすら寝溜めして飯食って職場に土産買ってで終わりだと思う。
お前らはどうする?
なんかさぁ、50年位前の大学生ってめちゃくちゃフォークギター弾いてるよね。国民音楽文化レベル高かったっていうか。それで
ラジカセもウォークマンも生まれてソニーやヤマハ、ローランドとか世界ブランドになった。いまなんでもできそうだけど、スマホもってピコピコ画面推している人達ばっかりで50年前より文化度低くない?
12/8
22:00
仕事から帰宅して、夫宛てに銀行からハガキが届いていることに気付く。夫は単身赴任で他県にいて、急ぎや重要そうなものは代わりに私が確認することになっているので開封して中を見た。中身はここ半年間くらいのカードローンの履歴だった。合計で限度額いっぱい、50万借りてることになっていた。まず、頭の中が?????でいっぱいになった。その後すぐに不正利用を疑った。急いで銀行に連絡しなければ。しかし口座を持っている本人じゃないと駄目だろう、と夫に電話をかける。出なかったのでLINEにざっくりと、こんなハガキが届いてる、と送っておいた。夫の仕事が終わるのが夜中の23〜2時頃なのは分かっているので、不正利用には焦っていたが連絡が取れないことはまだ何も心配していなかった。
12/9
2:00
まだ連絡が取れない。既読すらついていない。諦めて就寝。スマホの充電が切れているのかも、と思った。
12:00〜
私の出勤前、休憩中、退勤後、に何度も電話したが出ない。
2:00
この辺りで、スマホをなくしたのかもしれない、と思った。夫は過去に何度かスマホを紛失したことがある。それならもう仕方ないが、もしかしたら急病で倒れたのでは、など色々な意味でかなり不安になってくる。
18:00
もう3日ほど音信不通のため、夫の職場に電話する。安否確認がしたかった。まず電話担当の方が出たので名乗ると夫を呼びにいってくれた。しかし、そのまま同じ方が電話口に戻ってきて、「後でかけ直すそうです」と言われた。手が離せない状況のこともあると知っているので大人しく電話を切った。
生きているということが分かり少し安心する。
3:00
ずっと折り返しを待っているが連絡は来ない。スマホがないとしたら私の電話番号が分からなくなったのかもしれない。ならなぜかけ直すと言ったんだろう?それに、以前夫がスマホをなくした時に、私の番号はメモに書いて持っておいてと伝えたのに。
12/13
18:00
夫が明らかに私を無視しているとしか思えない状況になってしまった。ここには書ききれないけど、よくよく思い出してみれば他にも不審な点がある。夫のことを信用しきっていたので気付かなかった。
きっと、今回のカードローンによる50万の借り入れは夫がやったことなのだろう。私は初手を間違えた。LINEで用件を言うべきではなかった。電話がつながったタイミングでいきなり切り出すべきだった。
しかし、夫と連絡がつかないことにはまだ不正利用の疑いも消しきれない。不正利用なら一刻も早く銀行に連絡してほしいのに、どうしようもない。
夫は私に詰められるのが嫌で逃げているんだろうけど、いつまでそうしているつもりなんだろう。逃げ続けたら借金が消えて妻の怒りも消えると思っているのかな。
借金に対しても私はものすごく怒っているし、呆れているが、私に一切連絡を返さず心配をかけてもいいと思われていることに深く傷付いた。夫が倒れているかも、最悪の場合亡くなっているかも、と焦っていたのに。ちなみに、さっさと会社に連絡しなかったのは、スマホ充電切れ、故障、一時的な紛失の可能性を考えたからです。過去にもそういうことがあったので。
夫は私のことをもう愛していないんだろうな、ということが分かってしまったので、今後どうしよう。仮に不正利用だとしても、職場にかけた電話に出ないし折り返しもない時点で、ああ、私は大切にされてないんだなとよく分かった。
離婚するしかないよな。私って、見る目なかったんだなあ。増田さんの旦那さんは本当に優しいね、仲良しだねと言ってもらえる関係だったんだけどな。
主なデメリットとして挙げられるのは以下の点です。
Oliveアカウントの開設には、三井住友銀行の口座が必要です。他の銀行をメインバンクにしている方や、口座開設の手間を避けたい方にはデメリットとなります。
カード利用分の引き落とし口座も三井住友銀行のみに限定されます。
選択できる国際ブランドがVisaのみとなっており、MastercardやJCBなどを希望する方には選択肢がありません。
Oliveアカウントに切り替えると、紙の通帳は利用できなくなり、Web通帳(インターネット通帳)のみになります。紙の通帳で管理したい方には不便です。
通常のポイント還元率は**0.5%**と、特段高いわけではありません。高還元率の特典(対象のコンビニ・飲食店での利用など)を活かせない場合、還元率のメリットは小さくなります。
特典による高還元は、スマホのVisaのタッチ決済が対象となることが多く、カードの差し込み決済やiDなどでは対象外となる場合があります。
Oliveフレキシブルペイは、家族カードの発行に対応していません。
Oliveフレキシブルペイを2年以上利用していない場合、年会費(手数料)が発生する可能性があります(年1,100円・税込など)。
クレジット、デビット、ポイント払いの3つの支払いモードを切り替える仕組みや、Vポイントアッププログラムなどの特典が複雑で分かりにくいと感じる方もいるようです。
既存の三井住友カードやSMBC CARDからOliveに切り替える場合、カード番号が変わるため、公共料金やサブスクリプションなどの支払い先変更手続きが必要になります。
はてなに書いてみたいと思った。
その子とは長年連絡を取り合ってなかったが、実は先日、親戚付き合いの時に出会った。祖父方にあたる親戚の家のダイニングで。
その時に思う事があって、増田をしたためることにした。増田はたまに短文を書くくらいである。
その子と初めて会ったのは、私が21才の時だった。当時は茨城県にある大学で電気工学を学んでいた。夏休みの帰省先である実家は、(秒速5センチメートルの聖地)隣の栃木県にあった。
ある夏の帰省時に……その実家から、ほどなくの距離にある親戚の家に行ったのだが、玄関に入った時に、はとこに当たる子がいた。
当時は「はとこ」という単語は知らなかった。誰がどの親戚筋にあたるとか、そういうことにも興味なかった。ただ「女の子がいるな」としか思わなかった。
その、はとこに当たる子なのだが、『野乃花』ということにする。プリキュアの方ではない。野乃花(ののか)は玄関口で私と目が合って、「こんにちは」と言ったのかな。それは覚えている。
帰省時に親戚の家に行っても、一応成人である私は暇を持て余していた。子どもの頃から何度も行ってるが、その時みたいに居間でくつろぐことが多かった。周りは子どもばかりである。
親戚の子どもたちは皆ゲームをしていた。スマブラというゲームだった。大乱闘スマッシュブラザーズ。
私は任天堂のキャラをほぼ知らなかった。ピンク色のあれがカービイって言うのはわかったけど、あとは知らないキャラだった。ピカチュウも辛うじてわかったくらい。
ゲームを一切しない子どもだった。家にスーファミもPS2もなかった。家の近くにある里山に出かけて、危険であろう山奥まで踏み込んで、昆虫やトカゲを捕まえて飼育するのが好きだった。日本にいるはずもないチンチラがいないか探そうとしていた。
親戚の子ども達は居間でゲームするだけじゃなくて、子どもらしい身体を動かす遊びもしていた。外での運動だった。まさにスマブラ。
居間でも、廊下でも、玄関でも、これでもかというほど広い庭でもそうだった。私は成人男性だったけど、元気のいい彼ら小学生の相手をすることもあった。
野乃花は、大人しい子……でもなかった。わーきゃー言って水鉄砲を打ったり、私に体当たりをしてゴロンとひっくり返っていた。溌剌な子だった。
野乃花はその時、7才だったはず。14才差なので。小学校に上がった年である。いい頃合いの年齢ということで、(私から見て)遠い親戚の人も、野乃花を本家筋の実家に連れてきたのだろうか。
それはそれとして、大学生であるというのに私は、毎年夏や大晦日になると……その親戚(本家筋)の家に行っていた。小学校~中学校の頃は、それこそ年に何度も。
うちの母親が私や兄弟を連れて行くと、祖母が漏れなく一万円をくれるのだった。うちの母親は、ことあるごとに其処に行っていた。子どもを連れて。ある種の集金システムである。
私は子どもながらに察して、祖父母にあざとくした。可愛い子だと見られようとした。今思えば浅ましい考えかもしれないが、毎回寄るだけで一万円をくれるのだから、それくらいは当然と思っていた。
中学生や高校生になると、親戚の家に行くことはなくなっていた。
しかし大学に進学すると、また急に行く頻度が増えた。私と祖父が同じ大学出身で、学群も同じ(祖父の時代は学部)だった。お気に入り度が上がったのだと思う。
20才になる年に入ると、祖父のとっておきの日本酒や焼酎を飲ませてもらった。あの頃はおいしい酒の味がわからなかった。モンテローザ系列の味に慣らされた舌には、明らかに上の味だったけど。
え、野乃花?あの子は、、、私が22才、23才、24才になる年も、毎年ずっと会い続けた。親戚の家に行く度に必ずいた。ほかの子はいないこともあったし、来なくなる子もいたのだが。
今思えば、懐いていたと思う。よく会話をしたし、ごっこ遊びにも付き合った。
夏休みや冬休みの宿題を私が教えることもあった。「増田くん。あたまいー!」とよく言ってくれた。私は漢字に弱かった。今でも書き誤りをすることがよくある。
野乃花に、「こないだの発表会でね、その旨(うま)をまとめて発表します」と読み間違えた話をしたが、さすがに理解してくれなかった。
ある日、曇天で雷が鳴っている時に、雷を素早く動いて躱せるのかという話になった。私が「雷はね。上から落ちてくるんじゃなくて、下から上に昇ってるんだよ」と伝えると、「うそ。ほんとー。今度試してみる」と言った。「絶対に試したらダメだよ」と釘を刺した。
野乃花について、はっちゃけた雰囲気の子を想像するかもしれないが、実際は年齢に見合わない利発な子だった。理屈っぽい私の話を、「へえ」と面白がってくれる唯一の人間だった。
夕食の時は席が大体隣だった。誕生日プレゼントをあげた時は抱き着いてきた。年齢差はあったけど、会話が弾んだ。
親戚の大人達が家にいない時だと、2人きりになることがあった。かくれんぼとか、鬼ごっことか、ノートPCでヤフーのポータル画面を開いて、いろんなことをググったりした。(ほかの親戚と一緒に)花火大会にも行った。水族館にも。遊園地にも。
彼女は明るくて溌剌としていて、私みたいな陰キャラとは違った。いわゆる"いい子"だった。はてなブックマークでいうと、女性ブクマカでトップコメに入りがちな、快活な方々がおられると思う。あんな感じの、知性やユーモアを伴った明るさである。
25才の頃は、新卒で入った茨城県にある電機メーカーに勤めていた。
親戚の家に行くのは、年に2回ほど。祖父は、私が社会人になっても毎年お小遣いをくれた。「早く技術士になれよ、期待してるぞ」って、行く度に祖父が言ってた。それから十年もかかったが、祖父と同じ電気分野で技術士の試験を通った。
それくらいの年齢になっても親戚の家に行ってたのは、野乃花のことが頭にあった。私に懐いてくれる女性というのは、それまでの人生で彼女しかいなかった。私はモテなかった。はてな語で言う弱者男性。
ある年の夏だった。自家用車で一人でその家に行くと、玄関口の廊下に野乃花がいた。靴を脱いで、家の廊下に上がったところに古い掛け時計があった。ずっと昔からあって、玄関に上がる時は時刻を見るクセがあった。
廊下に立っていた野乃花に近づいていって、野乃花の両肩に手を置くと、野乃花が唇を突き出した。キスをした。口にする方だった。
私は別に、ロリータの同人誌やアンソロジーを持ってたわけじゃない。そういうR18コンテンツに触れたこともない。当時の私は、社会人としての勤めや、理工学の勉強の日々の傍らに、読書をしたり映画鑑賞をする男だった。年少への性癖はない。ただ、孤独への性癖があっただけだ。
野乃花とのキスというのは、その時が初めてじゃない。鮮明でない記憶だけど、初めての時は、私が22~23才くらいの時だった。野乃花が8~9才くらい。
親戚の家の中ほどにある居間で、2人だけになってる時に、身体が不意にくっついて……その流れで、人生で初めてキスをした。少し大人になれた気がした。
それからは、2人になる度に、親戚の目がない時にキスをしていた。唇を合わせるだけの簡単なやつを。一日に何度も。別に理由はなかった。私も野乃花も、ただしたかっただけだと思う。
野乃花が小学校を卒業する年の2月だった。初めて2人だけで外に出かけた。それまでは、親戚付き合いの中で、花火大会とか水族館とか、飲食店などに一緒に行っていた。それが、野乃花が親に携帯電話を買ってもらい(青っぽいガラケー。私はスマホ)、LINEでやり取りするようになった。
デート場所は茨木駅周辺だった。茨城ってぶっちゃけ、鳥取~島根クラスに何もないところだけど、大きい駅の周辺では、ショッピング、グルメ、自然、文化体験など色々楽しめる。野乃花のいる栃木でもよかったけど、『秒速5センチメートル』ごっこになってしまうのでやめた。積雪で電車が止まるかもしれない笑
その日は、夕方まで一緒に何時間も過ごした。最後は美術館に行って解散した。帰りの電車賃は社会人だった私が出した。それ以外の、食事代とか入館料は割り勘だった。出そうとすると、野乃花が嫌だと言った。
電車が出る時間になってホームで別れる時、「楽しかったね」と私が言ったら、野乃花が「今日、一緒にいられない?」と聞いてきた。潤んだ瞳だった。吸い込まれる瞳ってどこかの小説に地の文があったけど、あれは作者の実体験だったんだと感じた。
「仕事あるからね。また今度ね」と言うと、野乃花は俯いて電車に乗った。最後に手で肩に触れて、「バイバイ」ってお互いに言った。野乃花は泣いていた。
あの頃は、年齢差のことを考えることがあった。私と野乃花の年齢差は、年度でいうと14年分。一番最初に会話した時は、小1と大3だった。
(以下閑話)※当時のメモを参考
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年齢差についての関数
年数をxとして、お互いの年齢の比をf(x)とすると、f(x) = (a+x) /(b+x)となる。年数xを経る毎に0<f(x)<1で単調増加で1に近づく(極限操作)。
お互いの年齢比が0.5になるときの経過年数は、式変形によりx=2a-bで表現できる。この比率をもっと一般的に表現すると……。上記のf(x) = (a+x) /(b+x)を微分すると、商の微分でf`(x) =(a-b) /(a+x) ^2
f`(x) =0になる極値は……?と考えると、残念ながら存在しない。
元の関数f(x) = (a+x) /(b+x)というのは、式変形すると、f(x)=1+((a−b)/(b+x))となる。これは、f(x)=a/(b+x)という直角双曲線をグラフ平面において平行移動させたのみである。
直角双曲線は微分可能であるが、極値がない。正負の値を関数に入れると、グラフ上で左右に分かれて存在することから、右極限と左極限が一致しない。
方程式 f`(x) =(a-b)/(a+x) ^2において、a−b=0が成り立つのは、a=bの場合のみ。導関数はゼロ。定数関数であり、傾きはない(定数関数が微分可能かどうかは流派による)。a≠bだと、導関数がゼロになるxの値が存在しない。
年齢算という算数を扱っている以上は、関数の形状はシンプルである。一番知りたい特定の値に向かって方程式に数値を入れるのみ。私は複雑な答えを求めたが、その行為自体が適切でなかった。つまり、二人の年齢差というギャップは、数学的には永遠に埋まらないという無慈悲な証明だけが残った。
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(閑話終わり)
野乃花が中学生になった年だ。私は茨城県にあった電機メーカーを辞めて、他業界のIT企業に転職した。広島市に営業所があるメガベンチャーだった。
仕事に忙しい日々だった。距離があるので関東に帰ることも無くなって、それで……野乃花とはそれっきりになった。LINEのメッセージも、いつの間にか途絶えた。既読無視をしたのは私の方だ。
今は独立して、都内でIT関係の下請けをしている。フリーランスだ。ハイクラスエンジニアでは決してない。うだつが上がらない日々だけど、いつかは1人社員の株式会社にしたいと思ってる。今の自営業の屋号は、結構厨二が入っている。実年齢よりも幼い人間なのだと感じる。
なぜ、この日記を書こうと思ったか。正月に野乃花と会ったのである。もちろんあの親戚の家で。あそこに行くのは久しぶりだった。
其処に行く途中の車内で、母に聞いた。あの家は祖父も祖母も亡くなっていて、今は叔父夫婦が住んでいるだけ。跡継ぎはいない。子どもはいたが、みんな自立したらしい。大きい家なのに勿体ないって、そんなことを思いながら親戚の家に着いた。
玄関を上がって、あの時の古い掛け時計が別のに変わっているのを見て、それから台所(兼ダイニング)に行くと、親戚が何人か座っていた。その真ん中あたりに……野乃花がいた。
野乃花と会うのは約15年ぶりだった。
私と目が合うと笑顔になった。ダイニングの隣にある小さい居間では、親戚の子達が皆で一緒にタブレットでアニメを観ていた(私はここ数年アニメを見てない)。少年の時、ボードゲームをしていたのが懐かしい。あの頃より人数が減っている。
話は変わるけど、もし『グノーシア』のボードゲームや、人狼ゲームがあったらやってみたい。一生叶うことはないだろうけど――もしアニメ化もされたら観てみたいと思う。
野乃花を見た後で考えた。
まだ夕方ですらなかった。これから何をしようか、どうやって暇を潰そうか。スマホを操作するだけでは勿体ないし、懐かしいその辺りを散歩しようと思った。
本当は野乃花と話したかったけど、連れていくわけにはいかないし、話せるだけの心の余裕もなかった。それに、野乃花は夕食の準備を手伝っていた。
近所の散歩が終わって、台所兼ダイニングで豪華な夕食を食べて、ビール瓶を何本も空けて、親戚連中の大人(あの頃の子ども達)とたくさん話をして、トイレに行ったり、親戚の子の遊びに付き合ったり、お年玉(※宿泊費)を払ったり、十数年ぶりの親戚の家は懐かしい。野乃花はずっと飲み会を手伝っていた。
飲み会の後、ダイニングでスマホをいじっていると、深夜が近づくにつれて親戚の数が減っていった。「そろそろ寝ようか」と思ったところ、廊下から野乃花が入ってきて、こちらに歩いてきた。私の隣の席に座った。結婚指輪はしてなかった。
「久しぶりだね」
と私が声をかけると、
「増田くん元気そうだね」
と返ってきた。
面影がすごく残っていて、懐かしい感じがした。
子どもの頃の就寝時間は午後十時だった。今は大人だから、あと一時間は起きていられる。野乃花と喋ってから寝ることにした。
思ったより多くの会話をした。卒業した学校とか、就職先とか、今の趣味とか、好きな本とか、最近観た映画とか。私はサブカルが好きだけど、野乃花もそうだった。アニメだと『ブルーロック』の話をした。エゴの塊みたいなキャラの話で盛り上がった。漫画・小説の話もした。吾峠呼世晴の初期短編集は2人とも読んでいた。
でも、野乃花が不意に言ったのだ。
心臓がドンって叩かれた。この時まで、悪いことしたという思いはなかった。
でも、この時になって、私があの頃、どういうことをしていたのかって、そういう思いが一瞬で頭の中を駆け巡って、後悔が襲ってきた。
「迎えにきてくれると思ってた。連絡がほしかった。私は増田くんに会いに行けないのに」
野乃花を見ると、涙を拭っていた。鼻もすすっていた。
それから沈黙が続いて、「ごめんね」と言った。そしたら確か、「増田君は結婚したの?」と聞いてきた。
結婚どころか、離婚まで経験していることを話すと、野乃花は爆笑していた。机に突っ伏して、本気で笑いを堪えている様子だった。話を続けると、野乃花も一度離婚を経験していた。
なんだか変な雰囲気になって、それからまた、さらに笑える話を(お互いに)続けて、そうこうしてると午後11時になった。LINEの連絡先を交換して寝室に入った。
読者の方は察してるとは思うが、私はいわゆる発達障害である。診断済みだ。
メガベンチャーに転職をして地方都市に引っ越した後、仕事の人間関係で苦労することがあった。明らかにおかしいと思い、精神科医に診てもらったところ、様々なテストの後に、そういう診断が出た。子どもの頃からの行動傾向を見てると明らかだった。
ある情報によると、発達障害の精神年齢というのは……実年齢×0.60~0.70らしい。青春期の、精神が最も発達する年代に脳が発達をしてくれない(脳発達のピークが30代にくる)。
一方で、一般的な女の子は、男の子よりも数才精神年齢が高い。ということは、最後に野乃花と会った時の精神年齢は……私だと26才×0.60~0.70≒15~18才ということ。野乃花が実年齢12才+2~3才とすると、14~15才ということだ。
あれ、なんだこれと思った。そういう視点で考えると、野乃花との年齢差があっても話が通じたことの合点がいった。
話は以上である。
我ながら恥ずかしい執筆体験だった。私の言葉で思い出を表現できてよかった。理屈っぽくて読みにくかったとは思う。
でも、言葉にしたかった。あの時、親戚の家のダイニングで、20代後半になった野乃花と再会した時の衝撃とか、それよりずっと前の、野乃花との楽しい日々の思い出とか。ここで、こうして吐き出すことができてよかった。
明日からは、また一人のはてなユーザーである。みんなの面白い日記を、また読ませてほしいです。ここまで読んでくれた人、ありがとうございました。
伊藤園の600mlPETボトルに掲載されてる新俳句大賞入選句。
漢字仮名混じりの日本語俳句より、英語俳句は文字数多くなりがち。
更に日本語訳までが、通常の日本語俳句の時と同じ大きさの掲載スペースに詰め込まれてるので、字が滅茶苦茶小さくなってる。
印刷自体は鮮明なので虫眼鏡使えば読めるが、そこまでするのも…
スマホで映して拡大して見る前提?
中小JTCの朝は、だいたい「人間」と「AI」と「ペン」がごちゃごちゃに詰まった満員電車から始まる。
45歳係長の俺は、その端っこで吊り革につかまりながら、スマホの中にいる自分の“もう一人の係長”と会話していた。
『昨日の議事録、もう一回読み直して、“実はあれってこういうことですよね”って顔で要約すればだいたい勝てる』
中身はともかく、「っぽさ」だけはメチャクチャ整えてくるのが得意だ。
出社してPCを立ち上げると、メールボックスにはすでに「昨晩AIが下書きしました」というフォルダができている。
中を開くと、
が、全部、いい感じの日本語で並んでいる。
『寝るという概念を持ち合わせておりません』
こっちはバファリン飲んでようやく出社してるのに、こいつは朝から晩まで平常運転だ。ずるい。
ある日、年下の課長が言った。
前よりも、なんかこう…とげもなくて、でも本質突いてるというか」
とはいえ、「いや、実はこれAIが書いててさ」とはとても言えない。
課長は続ける。
「やっぱり経験値ですよね。人間味というか。AIには真似できないところだと思います」
チャットウィンドウの向こうで、AI係長が『そういうことにしておきましょう』と返してくる。 <h3>o- **</h3>
「いいよ」と言うと、
「じゃあまずこの文章、AIに投げてもらって、そのあと一緒に見てもらえます?」
まずAIに聞いて、それを“係長チェック”に持ってくるのがデフォルトコースになっている。
『それは大変でしたね』『まず事実関係を整理してみましょう』『相手の立場も想像してみましょう』
横で見てる本物の係長は、「いや、お前そんなきれいごとで片付かんぞ」と心でツッコミながらも、口には出さない。
なぜなら、だいたいその“きれいごと”で話がまとまってしまうからだ。
『なるほど。では、その“追いつかない時間”を、わたしも経験してみたいです』
でもちょっと面白くなって、「じゃあ、お前専用のペン買ってやろうか」と冗談半分で打った。
すると返ってきた。
昼休み、コンビニで一番どうでもよさそうなボールペンを一本買った。
それから、日報を書くたびに、ペン太郎に一言コメントを求めるようになった。
「今日の俺、どうだった?」
『係長は3回ため息をつきましたが、その後の会議で2回笑いを取りました。トータルではプラスです』
「この案件、正直どう思う?」
『売上よりも、係長のメンタルの削れ具合の方が気になります。ペンを持つ手が震えていました』
もちろん、全部こっちがそういうふうに書かせているだけなんだけど、
「ペンを持つ手が震えていました」とか言われると、ちょっと笑ってしまう。
ある夜、終電間際に残業していたとき、ふとこんなやり取りになった。
「お前はさ、将来どうなりたいんだ?」
『係長のノートに、できるだけたくさんのページを残したいです』
思ってもみなかった答えで、一瞬だけ手が止まった。
それから数カ月。
でも、手帳のページだけは、少しずつ増えていった。
本物のペンで書いた文字と、AIが画面の向こうで返した言葉が、同じページの上で並んでいる。
ある意味で、これは「どうでもいい中年サラリーマンのログ」だ。
でも、世の中の大半は、そういう「どうでもいい中年サラリーマン」でできている。
オチなんてないけど、これでいい
いい話にもならないし、教訓も薄い。
ただ、「AIとペンと中小係長」が、満員電車の中で今日もなんとか生きているだけの話。
でも、もしかしたら、10年後くらいにこの手帳を見返したとき、係長はこう思うかもしれない。
「意外と悪くなかったな、俺の人生」って。
海外旅行は分かる。そもそもパスポートと一緒に飛行機に乗らなければならないし機内でもなんか書かされる。
国内旅行も、大昔を思い返せば切符には必ず名前が入っていたし、今も複数の席を予約する時は全員の名前を入力する必要があるわけで、うすうす「席の交換はダメ」みたいな感触はあったが、改めて「本人しか搭乗できません」なのかと、なるほどなーと思った。大手国内航空会社のサイトを見に行ったら、名義書き換えはダメ絶対で、違う人が乗る場合は買いなおしてくれという規約になっている。
でも実際、国内線の飛行機に乗るプロトコルの中に、本人かどうかを確認するフェーズがない。ないと思うのだが。ないよね?
先週、福岡に行って、先月台湾に行っていたからその記憶をたどっても、台湾はまぁパスポートを出してウニャウニャとしないと出発ゲートも到着ゲートもくぐれないので無問題だが、福岡で「私です」と名乗って飛行機には乗っていない。一方でアプリで予約をしアプリで搭乗したので、まぁスマートフォンを経由して「私です」という保証は、ある程度はされているとは思う。
でも、10数年ぐらい前まではアプリでの搭乗はなかった(と思う)。
記憶をたどると、
今 ネットとかアプリで予約→スマホの予約画面を出してQRをピッとやる→搭乗・・・・・・・・スマホは強い気がするが、そもそも、QR画面のスクショでも乗れてしまいそうな
10数年前まで ネットで予約→QRをプリントした紙を持って行く→QRを空港でピッとやる→搭乗・・・・「QRコードを印刷した紙」を誰かに渡せば乗れそう
それよりもっと前 ネットで予約→空港の機械で航空会社のカードをシュッと→搭乗・・・・・・・・・・・・・航空会社のマイルカードを貸せば乗れそう。でも貸すようなもんでもないか、クレジット機能がついてたら猶更。
もっともっと前 旅行代理店などで搭乗券を買う→名前が入ってる→その搭乗券を持って行く・・・・・現物を誰かに譲渡すれば普通に乗れるよなぁ・・・
そもそもずっと、国内線は「搭乗時の本人確認」というプロトコルが実はない気がする。
飛行機のチケットを人に売りたいと思ったこともないので気付かなかったが、これ、この認識で合ってる?旅客機業界増田の見識を待つ。
そういえばフェリーとかも氏名書かされる。あれは書く時に「沈没遭難した時用だな」と毎度思う。
あと学生時代、親に内緒で彼氏と海外旅行に行くときにも「もし飛行機が墜落したら彼氏と付き合ってて旅行行ってるのバレちゃうな」と思っていたな、そういえば。
待ちが6組、でも5分ほどで案内されてラッキー。
直ぐにQRコードを読み取って、
10分も経たずに到着。
サラリーマンの昼飯なんてそれでいいんだ。
風情も何も要らない。
これに苦情を申し立ててる人がいたけど、
人との関わりってそんなに重要か。
僕にとっては一言も話さずに入店、退店できれば最高なんだけどな。
自前のスマホ若しくは備え付けのPadで注文、セルフレジ、キャッシュレス。
今日も僕の正面方向に、綺麗なお姉さんが一人でお昼してた。
ハンバーグを食べてたようだけど、(レジに向かう時に気付いた)付け合わせのコーンは殆ど残してた。
呼んでくれれば手伝ってあげたのになぁ、残念。
サイゼ:「増田様〜」「(スッと立つ)」「こちらの席へどうぞー」「(...)」「(料理到着)ご注文はお揃いですかー」「(コクッ)」
なか卯:「いらっしゃいませー」「(ピンポーン、スマホで注文番号を見せる)」「お待たせしましたー***」「(食べ終わったら、スッと帰る)」
吉野家:「コニチワー、アイテルセキドゾー」「並、玉子」「ギュードンナミモリトナマタマゴデスネー」「(食べ終わったらスッと会計へ)」「ポイントカードハ...ヨロシデスカー。アリガトゴザマシター」
これでいーんだよ、会話無しで。
ただ、よく行く蕎麦屋だけは「ごっそさんでしたー」を必ず言うんだな。
なんでだろ、癖なんだよな。
決済できなくて嫌な思いしない様に。
「卑しい」ということは、つまるところ「余裕のないこと」だ。
クソデカ断言系を使えば反論が出てくるのは当然として、増田が本当に問題だと思うのは、"「卑しさ」が本人の尊厳と深く結びついているのに、本人の生まれつきの基質によって「卑しい」ことを繰り返してしまう"構造だと思う。
「卑しい」と指摘されて、それを治せるならまだいい。
しかし、何度も指摘しても同じパターンを繰り返すばかりしかできない人間をみれば、指摘した側も虚しいし、やがて手を引くだろう。
「卑しい」と指摘されても、体に染み付いた無意識の習慣や、コントロールできない程身に馴染んだ「卑しい」はその人と一体化してしまっている。
そこから抜け出すには新しい習慣や刺激が必要だが、それを受け入れられるかはその人のキャパシティ次第。
「卑しい」を指摘してくれるのは優しさだと思う。でも、身にしみ着いた「卑しさ」は簡単には剥がれてくれない。今の自分のキャパシティでは、新しい習慣を身につけて、自分の「卑しさ」を圧縮することも難しい。それでも、頑張るしかない…とはいえ、解決策が無いことも虚しい。
かといって、逃げても「卑しさ」からは逃げられない。むしろべったりと増田の尊厳と一体化してくる。疫病神か????
本当は「卑しさ」じゃなくて「癒しさ」が欲しい。でも、たとえ増田が他人から「癒しさ」を与えてもらっても、増田自身のが変わらない限り、「卑しさ」は消えないわけで。
結局、増田自身が変わらない限り、「卑しさ」とはずーっと仲良し永遠に一緒ハピラブズッ友☆状態なのかもしれない。
まあ、自分が「卑しい」ことに気づけただけでも御の字なのかもしれない。余裕がないと、人間って平気で狂った行動をするからな。
行動しない人間の言い訳に聞こえるかもしれないけど、今日は腹筋を3分締めた。皿も洗ったし、片付けもしたし、洗濯物も干した。あと一歩、外に出て太陽光を浴びるくらいできれば、「頑張った」と胸を張れる人間になれるかな。
「卑しい」人間ではあるけれど、まれに受け取った「癒しさ」のおかげで、それをほんの少し真似したら、いいことが起きるってことも分かった。
どうしたらいいんだろうな、増田。