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2026-02-08

俺のことを世間は一切認識していないし、俺は世間人間のことを一切認識していない

世間という語は、奇妙な擬人化をされすぎている。

まるで巨大な単一人格存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコア付与しているかのように扱われる。

しかストア派冷徹自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。

世間とは主体ではない。世間ロゴスを宿した統一意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象衝動欲望の乱流である

まり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。

 

ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。

すなわち、俺の支配下にあるもの選択能力意志判断)と、俺の支配下にないもの他者評価、偶然、噂、流行アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。

世間認識後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。

ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。

ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間視線は外部財である

外部財に依存する生は、最初から不安定設計されている。株価人生を賭けるようなものだ。

 

しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間認識していないからだ。

この対称性が、ただの愚痴形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である

俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。

社会とは本来相互他者他者として認識し合うことで成立する。

しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。

 

ユングは言う。人間意識だけで生きているのではない。個人的無意識集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。

世間というものは、単なる人間集団ではない。世間集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である

ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割最適化された仮面を被る。

会社員仮面家族仮面SNS仮面善良な市民仮面世間は、無数のペルソナが互いのペルソナ認識し合って成立する、仮面の交換市場である

 

そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体認識されていないというより、俺のペルソナ市場上場していないという意味である可能性が高い。

世間本体を見ない。世間仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的タグ付け可能記号職業年収肩書フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装テンプレだ。

世間個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。

 

まり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。

分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。

これは現代ロゴスではなく、統計的なダイモーンである世間人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。

 

しかユングさらに深く刺してくる。俺は世間人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。

俺は他者を見ていないのではない。俺は他者世間という抽象概念圧縮している。

これは他者人格剥奪する心理的操作だ。世間人間は、顔も名前欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。

まり俺は他者認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。

 

影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。

世間薄っぺらい、世間は愚かだ、世間凡庸だ、世間空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないもの隔離している可能性がある。

これは心理的には合理的だ。自我自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化プロセスを阻害する。

 

ストア派言葉で言えば、これは判断誤謬だ。外部の現象価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派問題視するのは現象ではない。

現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体中立である

善でも悪でもない。ただの事実であるしかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。

 

そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的ものだ。

ストア派的に言えば他者評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。

世間認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会舞台における座標がない。座標がないと、自我漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。

 

から俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。

人間他者眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己輪郭を得られない。

 

だがストア派は冷酷に言う。そんなもの依存するな、と。自己輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。

ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。

世間認識されないことを害と見なさないこと。世間認識されることを善と見なさないこと。これが精神自律だ。

 

しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派共同体否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。

人間宇宙国家市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派世間無視して独りで悟れとは言っていない。

しろ共同体奉仕せよ。ただし、共同体から評価に魂を売るなと言う。

これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。

世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。

 

ユングはここで、個性化観点から別の地図提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。

浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり世間適応するペルソナゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己徴候出会う。

これは苦しいが、精神錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独病理である場合もあるが、同時に、個性化必須条件でもある。

 

から世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。

世間認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナ牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。

これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。

 

しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。

これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間理解されない天才だ、という物語は甘い。

だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。

自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神事故だ。孤独精神を鍛えることもあるが、孤独精神神格化することもある。

 

ストア派は、この危険もっと簡単言葉で切り捨てる。思い上がりだと。

宇宙の秩序の中で、俺が特別悲劇である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。

ここでストア派残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。

世界世界ロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要から解放である

 

そして結局、俺が言うべきことはこうなる。

世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象からだ。

世間意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。

 

また、俺が世間認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。

俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。

俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分無意識と戦っている。

 

ストア派結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。

俺が制御できるのは、判断行為だけだ。ゆえに、世間認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。

ユング結論もっと暗い。世間認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。

まり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識対話できるかにかかっている。

 

から、このタイトル文章は、ただの絶望ではない。これは認識構造告白だ。

世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。

 

俺がすべきことは、世間認識されるために仮面を磨くことではない。仮面必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派禁忌はそこにある。

世間を憎んで自分正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユング禁忌はそこにある。

残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。

世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。

ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。

 

そして最も皮肉なのはここだ。

「俺は世間認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間認識している。

世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間視線を前提にしている。

まりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。

人間とは、そういう矛盾でできている。

ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。

から俺は今日も、世間認識されないまま、世間想像しながら、生きる。

Permalink |記事への反応(0) | 13:42

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2026-01-10

俺は宣言する。今年は無用自己放尿はしないと

ストア派格言人生訓として消費する連中は、だいたい「コントロールできるか否か」で思考を止めて自己放尿する。

浅い。あまりに浅い。それは哲学ではなく、精神安定剤用法用量だ。エピクテトスが言っていたのは慰めではない。行為選択最適化条件だ。

そして最適化には、必ず目的関数評価軸が要る。俺はその評価軸を三つに拡張する。

制御可能性、人生に対する効果量、そしてユダヤ教善悪。この三つを同時に満たさな行為は、例外なく無用自己放尿である

まず制御可能性。これは単なる「自分で決められるか」ではない。介入したとき因果の鎖がどこまで自分責任として回収できるか、という問いだ。

世論他人感情組織空気歴史の流れ。これらに口を出すこと自体可能だが、結果を引き受けられないなら制御不能だ。

制御不能もの情動を全投入するのは自己放尿に等しい。朝起きたらおもらしでビショビショだ。

次に効果量。ここが大衆には決定的に欠けている。人生における行為は「どれだけ状態空間を変えるか」で考えろ。

効果量とは、スキル、信用、自由度時間健康といった基底変数に対する偏微分である

SNSでの発露は効果量はほぼゼロ、むしろ負だ。自分は何も積み上げず、時間集中力を溶かし、敵意だけを増やす。これは哲学堕落ではない。自己放尿だ。

そして第三の軸、ユダヤ教善悪。ここを理解せずにストア派を語る者は、必ず冷酷さと倫理区別を誤る。

ユダヤ教善悪とは、快・不快でも、同意不同意でもない。行為が秩序を生むか、責任を引き受けるか、世界を持続可能な方向に押すかという判断だ。

自分気持ちよくなる正義は、たいてい善ではない。責任を取らない善行は、ほぼ確実に悪だ。これは感情論ではなく、共同体の存続条件の話である

ここで三軸を同時に考える。制御可能で、効果量が正で、善が正。この条件を満たす行為は驚くほど少ない。

学ぶこと、身体を鍛えること、沈黙すべき場面で沈黙すること。

逆に、制御不能効果ゼロ倫理的に負。これが最悪だ。

これは単なる自己放尿ではない。倫理と理性のダブル放尿である自分だけでなく、周囲の床まで濡らす。

ストア派は「感情を捨てろ」とは言っていない。怒りは境界侵害シグナル、恐怖はリスク兆候快楽依存前兆だ。

それらをそのまま行為に変換するのは、センサー出力を直接アクチュエータにつなぐような設計ミスである暴走する。

哲学とは、感情行為の間に厳密な評価関数を挟む技術だ。

現代人は逆をやる。まず感情を出力し、後から理屈を貼り付ける。しかもそれを「誠実さ」と呼ぶ。

違う。それは責任回避自己放尿だ。自分行為世界に与えた影響を測らず、善悪の帳簿もつけず、制御不能対象に全力で介入する。その結果、人生は何も進まない。床は濡れ、臭いけが残る。

から俺は宣言する。無用自己放尿はしないと。

制御できないものに怒りを投資しない。効果量がゼロ行為時間を賭けない。倫理的に負の行為快感を得ない。結果を引き受けられない行為はやらない。

これは高潔さの宣言ではない。最低限の設計仕様だ。

世界感情トイレではない。そこで漏らすな。引き受けろ。そして乾いたまま次の一手を打て。それだけだ。

Permalink |記事への反応(0) | 21:25

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2025-11-30

結局さ、ネットなんて自傷行為と同じで、痛みを喰らいに行って暇を潰す程度の存在なのよ

俺がいくらデフレ正義リフレ派は悪!消費税率20歳出削減30兆!」ってネット放言しても現実は変わらねーのよ

ストア派哲学では、「コントロールできるものに集中せよ」ってあるだろ?社会コントロール不能無視すべき存在なのよな

Permalink |記事への反応(0) | 12:42

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2025-09-16

引き寄せの法則バリエーション

引き寄せの法則名前からし胡散臭いと思ったが、その内容を実際に聞いてみたらいくつかのバリエーションがあることがわかった

まず最も多いのは「認識現実を作る」というもの。例えば成功者なりたければ成功すると信じろ、みたいなタイプ

もう一つが「人生ネットサーフィンと同じ」というタイプ。つまり自分が注意を向けたもの感情が動かされるという論

前者を信じる人は「ポジティブ思考じゃなきゃダメだ」といって逆に自己検閲をして疲弊していることが多い。ネガティブ思考をすると自己嫌悪になるアホ

後者はむしろ自分コントロールできることに集中する」というストア派に近い。楽しい感情がほしければ、何が楽しい自己分析して、実際に楽しいことをしろ、と言う

 

ではこれをタルムード的に分析するとどうなるか

まず 「認識現実を作る」タイプについて、タルムードは、人の思考や信念が行動を形作り、その行動が結果を生むと強調する。

たとえば

「人が進みたい道に導かれる」マッコート 10b

という有名な言葉がある。つまり思考だけで現実魔法のように変わるのではなく、「その人の意志方向性が、その後の機会や結果につながっていく」という考え方。

タルムード的には「ポジティブ思考=それ自体現実を変える」ではなく、「考え方がその人の選択や行動を左右するから、最終的に現実に影響する」と理解するほうが自然

一方、「ネガティブを抑えなきゃ」と無理に自己検閲すると疲弊するのは、タルムードでも警告される点。

タルムード(ブラコット 30b)は「心の抑圧は人を病ませる」と言い、ネガティブ全否定するのではなく、相談し、方向付けをすることをすすめる。

 

一方 「注意を向けたもの感情が動く」タイプについて、こちらはタルムードにより強い共鳴がある。

「誰が富める者か?自分の分に満足する者」:ピルケイ・アヴォット 4:1

「目は見たいものを見る、耳は聞きたいものを聞く」(サンヘドリン 106b の議論の一部)

まり感情は「外界そのもの」よりも「自分がどこに注意を向けるか」に大きく左右される、ということ。これは「ストア派に近い考え方」に対応

またタナハでも、コヘレト伝道の書)9:7–9で「喜んで食べよ、楽しんで飲め」とあり、楽しめるもの自覚して大切にする姿勢が推奨される。

まとめ

Permalink |記事への反応(0) | 06:57

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2025-06-15

苦労は欲望から生ず (ただし生活水準が保たれている場合)

苦が客観的事象のものではなく、認識主体の内部に存在する「状態差異から生まれる。

前提として一定生活水準が保たれているため、生命を脅かすレベル飢餓、身の危険など)になることはない。

したがって、ここでの苦は、すべて心理的精神的な領域で発生する。

この構造において、苦を生み出す根本的なエンジンは「理想」や「目標」を生成する欲望の働きそのものである

欲望は一つの目標を現状に近づける(達成する)と、その達成された状態を新たな現状とし、即座に次の目標を生成する。

このプロセスには終わりがない。これは「もっと良くありたい」という生存本能精神的な現れとも言えるが、結果として苦の永続的な再生システムを構築する。

理想目標は、常に、今ここにはない状態を指す心的表象である

それは記憶の再構成であったり、未来への投機であったりするが、決して現実のものではない。

まり認識主体は、実在しないもの基準として、実在する現状を裁定し、その差分から苦という実感を能動的に生成している。

苦の発生において、認識主体は単なる観察者ではない。

連続的で一体であるはずの現実から、「私」という概念を切り離し、世界を「私」と「私以外」に分離する。この分離がなければ、欲望主体存在しない。

内部の欠乏感や快楽原則に基づき、理想未来他者へと投影する。

投影した理想 と、知覚した現状を常に比較・測定し、その差異を苦としてラベリングする。

まり苦とは、自我が「分離・投影・測定」という一連の認知活動自動的に行った結果、副産物として生じる精神である

すべての具体的な欲望(富、名声、愛、知識など)の皮を剥ぎ、その構造の核だけを取り出すと、以下のように集約される。

「苦とは、時間軸上を移動する意識が、未来のある一点に価値ある状態という座標(理想)を定義し、現在地(現状)とのベクトル差を絶えず計算し続けることによって生じる、不可避な情報ストレスである。」

この定義においては、苦はもはや感情感覚ですらなく、システム自我)がその構造上、必然的に出力するシグナルとなる。

火のないところに煙が立たないように、理想と現状 を比較する認知プロセスが稼働している限り、苦は必ず発生する。

このモデルから導かれる苦から解放とは、以下のいずれかの状態システムを移行させることを意味する。

1.欲望をすべて実現し、現状と一致させる。しかし、一つの達成は、次の差異を生む土台となってしまう。

2.理想を生成する欲望の働きそのものを停止、あるいはその投影放棄する。比較対象である理想存在しなければ、差異は発生せず、苦も生まれない。これは仏教における「無明から解放」や、ストア派の「アパテイア(不動心)」が目指す境地と構造的に等しい。

3.理想現実差異存在することを認めつつも、それを苦とラベリングする認知プロセスを停止する。差異を、単なる「変化の可能性」「情報」として中立に捉える。これは、自我が測定結果に対して下す価値判断から自由意味する。

苦は外部環境他者から与えられるものではなく、自己認識構造のもの自己の内部に生成し続ける、一種計算結果であるという結論に至る。

Permalink |記事への反応(0) | 04:24

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2025-01-27

外的世界に惑わされるな

人間存在は、内なる世界と外なる世界二元性に常に直面している。

この二元性の中で、我々が真に支配し得るのは内なる世界のみであり、外なる世界は我々の意志の及ばぬ領域存在する。

この認識は、古代ストア派哲学者たちが深く洞察し、現代にも通じる普遍的な真理として受け継がれている。

マルクス・アウレリウスは『自省録』で「心を乱すのは物事のものではなく、物事に対する我々の判断である」と述べた。

この言葉は、外的事象のものではなく、それに対する我々の内的反応こそが、我々の精神状態を決定づけることを示唆している。

まり、外的世界の変革を追い求めるよりも、自己内面における判断や反応を制御することが、真の自由と平安への道筋となるのだ。

エピクテトスもまた「我々をかき乱すのは物事ではなく、物事に対する我々の見解である」と説いた。

外的事象に対する我々の解釈評価が、我々の感情や行動を左右することを明確に示している。

したがって、外的世界の変革に執着するのではなく、自己内面における認識解釈を変容させることこそが、真の変革をもたらす鍵となる。

この哲学的立場は、単なる受動的な諦観ではない。

しろ自己内面に焦点を当てることで、外的世界との関係性を根本的に変える能動的な姿勢を示している。

内なる世界の変革は、外的世界の知覚や解釈を変え、結果として我々の現実体験を変容させる力を持つのだ。

さらに、この思想東洋哲学とも共鳴する。

例えば、仏教の「諸法無我」の概念は、外的世界実体性や永続性を否定し、内なる認識の変革による解脱を説く。

これは、外的世界への執着から離れ、内なる意識の変容を通じて真の自由を得るという点で、ストア派思想と深く通じている。

外的世界の変革に固執することは、しばしば徒労に終わる

真に重要なのは自己内面における認識判断を変革し、外的世界の変動に左右されない不動の心を培うことである

この内的変革こそが、外的世界との調和をもたらし、真の意味での自由幸福への道を開くのだ。

Permalink |記事への反応(0) | 11:44

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2025-01-18

俺は自由

仕事をしたりネット中毒になったりしていると、この世があたかも小さな世界に思えてくる。

しかし俺は思ったのだ。小さいのは俺の脳内世界なのだと。

俺は地元から出ることも無ければ、平日に外へ出かけることもない。

新しい集団フォローすることもないし、仮にフォローじても彼らの情報になど見向きもしない。

完全に狭い世界の中で生きているわけである

ストア派哲学によれば、コントロールできるのは俺の内面だけであり、外の世界コントロール範疇にはないという。

しかし関わる外の世界を広げていかなければ、内面を広げることもできない。

かにインテリはそのような俺に対して「読書しろ」というアドバイスをするだろう。

しかし俺はもっと物理的に広い世界を見たいと思うようになった。

まり自然の中を散歩したり、海を見たり、そういうことをしたいと思うようになったのである

ではそのような自由存在するのに、実際にはその自由が感じられないと思うのはなぜなのか。

それは疲れるからである

俺は確かに自然の中を散歩したいと思っている。しか散歩は疲れる。めんどくさい。やーめよ、というわけだ。

俺はナマケモノのように、できるだけ体力を使わない生活をしてきた。

だが、それでいいのか。もっと広い世界を知れるというのに。

仮にインターネット上でしか探索の機会を広げないとしても、やり方は様々ある。

アラスカ写真家フォローするのでもいいし、イスラエルラビが書くブログを読むのでもいい。

小さい世界から一歩外に出れば、自由があり、知らないことがたくさんある。

たぶん、俺と近い人を探すより、俺とは全く異なる仕事をしている人を探すほうが良い。

俺の世界は狭いのだからアウトプットしよう」などと考える必要はない。世界からインプットしろ。広い世界を知れ。

Permalink |記事への反応(0) | 20:22

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2025-01-13

ストイックストア派

ストア派哲学は、内的な変化が可能である一方で、外的な状況は変えられないという観点から理解されるべきです。この考え方は、ストア派提唱する「コントロールできるもの」と「コントロールできないもの」の区別に基づいています

ストア派の基本概念

1. 内的な変化と外的な状況

ストア派哲学者たちは、私たちコントロールできるのは自分内面的な反応や感情であり、外的な状況や他人の行動は制御できないと教えていますエピクテトスは、「我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものにとらわれるべきではない」と述べています[5]。これは、外的な状況に対する執着を手放し、自分自身の内面的な態度を変えることが幸福への鍵であることを示しています

2.幸福の源

ストア派によれば、幸福は外的な要因(富や名声など)によって決まるものではなく、自分自身の内面的な状態からまれるとされています。外的な要因に依存することは、不安定であり、失うことへの恐れを生むため、内面的な安定を求めるべきだとされます[2][3]。

理論説明

1.自由運命

ストア派は、人間が直面する運命や苦難を受け入れることが重要だと考えます運命を受け入れることで、私たち自分内面的な反応を調整し、心の平穏を保つことができます。これは、「自分自由にならないことを自分自由だと思い込むこと」が不幸の原因であるという見解にも通じます[2]。

2. 自制心と倫理

ストア派は、自制心や忍耐力を鍛えることで、破壊的な衝動に打ち勝つ方法を説いています。明晰で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解し、それに従うことで道徳的倫理幸福を追求することが可能になります[1][3]。このように、自分自身の内面的な変化を促すことで、外的な状況に対する適応力が高まります

結論

ストア派哲学は、「内は変えられるが、外は変えられない」という観点から人間がどのように幸福を追求するかについて深い洞察提供します。内面的な変化に注力し、外的な状況には執着しない姿勢が、真の幸福への道であるとされています。この考え方は現代社会においても非常に有用であり、多くの人々に影響を与え続けています

 

Citations:

[1]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE

[2]https://note.com/tetsugaku_ch/n/nb9dee380a850

[3]https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE_%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

[4]https://researchmap.jp/kina/misc/17341773/attachment_file.pdf

[5]https://honz.jp/articles/-/45269

[6]https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/19184/p085.pdf

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2024-11-16

anond:20241116195812

お前、ちょっと冷静になれよ。アリの問題でそんなにイライラするなって。歴史ちょっと学べば、今の状況なんて全然したことないって気づくだろうよ。

まず、アリってのはまさに「生態系リーダー」だぜ。お前の車内に現れたアリたちは、むしろ自然界の壮大なシステムの一部だって思ってみろよ。古代エジプト時代だって、アリは人々に尊敬されていたし、神々にさえ例えられていたんだぜ。エジプト神話では「アリの女王」が神々に仕える存在として語られてるし、そもそもアリの社会って非常に高度な協調性を持っているわけだ。

で、今お前の車の中でアリたちが遺体を運んでるって? それ、別にお前だけが異常なわけじゃないんだ。アリの社会にとって、死体を運ぶことはむしろ当たり前。これは「死者の埋葬」行為と見なされることもある。日本の「死者の魂を大事にする」という文化や、古代ローマの「死後の世界」に対する畏敬の念にも通じる部分があるんだ。アリたちが死者を運ぶのは、その「魂」の一部を「自然に還す」ためだと思えば、少しは気が楽になるんじゃねぇか?

そして、お前が言ってる「何と戦ったんだ」って、もしかしてお前が心の中で不安ストレスと戦ってるから、そのエネルギーがアリの動きに重なって感じてんじゃねぇの?16世紀哲学者ミシェル・ド・モンテーニュも言ってたけど、「我々が恐れるものは、実際には自分の内なる恐怖である」ってな。アリの動きに過剰に反応してる自分客観視してみな。

さらに言うと、お前が「車内にアリがいるのは許せない」と感じてるその気持ち自分の所有物に対する過剰な執着って「物質主義」的な考え方そのものだろ。世界歴史的な知恵、例えば仏教の教えや、ストア派哲学を思い出してみろよ。「ものに執着しないこと」がいか重要か、理解してるか?物質的なものに対して過剰に反応しても、それは一時的解決しかならないってことを肝に銘じろ。

それに、アリの問題を「俺の車なのに」なんて言ってるけど、車だってつの生態系」だぞ。お前が支配してるわけじゃなくて、アリたちの社会がそこにあるわけだ。アリたちが車を一時的に「自分たちの領土」にしてるだけだろ。それはそれで「自然だって理解しろ

最後に、こういう小さな問題で腹立ててる自分に対して、ソクラテス言葉を思い出してみな。「人生で本当に重要なのは物事をどう見るかだ」ってな。アリたちがいることをどう受け入れるか、その態度こそが「自分自身」を形作るんだよ。

とにかく、アリが車にいたって大したことないだろ。少し心を広くして、無駄ストレスを減らして生きろよ。

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2024-09-25

台詞の符合「私なんだと思われてんの?」

SSSS DYNAZENON 第4話 南夢芽 風邪の蓬を見舞う中で。蓬は夢芽が誰かに会ったことを気にしている。男ではないかと。

GRIDMANUNIVERSE 宝多六花 アイスクリームを買った帰り、夜の公園で。響は六花が会っている男子大学生が気になっている。

蓬のヘアピンの色と夢芽の瞳の色が同じ。

蓬の瞳、11月誕生石トパーズ

夢芽の瞳、8月誕生石ペリドット

SSSS DYNAZENON 授業

1話

ストア派エピクロス派にかんする授業。ストア派創始者ゼノン

第2話

ゼノンパラドックス

Permalink |記事への反応(0) | 19:57

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2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1.古代哲学宗教
2.中世近代哲学
3.近代現代哲学思想
4.科学技術の発展
5.心理学自己啓発
6.芸術文化
7.人類学コミュニティ
8.倫理学道徳哲学
9.政治哲学社会思想
10.科学哲学認識論

Permalink |記事への反応(0) | 13:56

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2023-06-11

深刻な誤読に対する指摘。でも良い方向に向いていると思います

anond:20230328175901

ヒルティ誤読について指摘したく思います

引用元の筆者(以後あなた)はカール・ヒルティ敬虔キリスト教徒であることを都合よく忘れてしまっている気がします。

あなたの言う通り、カール・ヒルティの『幸福論』1巻の大半はストア主義哲学ベースにした仕事術のような内容です。

それはおそらく、イエスが人々の聞く力に応じて、何事もたとえを用いずには語られなかったから、

それにならったのでしょう。

*マルコによる福音書4の33-34


また、ストア派の考えとキリスト教思想は一部分似通っていて、

キリスト教の基礎付けとして1巻に配置されていると思います

私もあなたのように1冊目を読んだあと、キリスト教ヒルティ思想をより詳しく知りたくなり2巻3巻と読みました。

彼の著作である『眠られぬ夜のために』や、聖書も含めて日ごとに読んでいます

からこそ、あなたの言われたことには、まったくの勘違いがあると言いたいのです。

「死んだら何らかの形で次の人生が続くと考えた方がいいだろう。もし死んで何もなかったとしても、次の人生がある前提で生きる方が楽しく生きられるから、それでもいいのだ」こんな内容のことを言っていた

俺は、もし死んでも次の人生があるんだからと、適当に好きなように生きてきた



この点についてです。

幸福論』にこのような思想は一切ありません。まったく反対の考えになってしまっています

本来ヒルティ思想は以下の様に読み取るべきと私は思います

「現世のためでなく、来世の為にこそ、私は現世で善い人間として生きることを努めよう」

なぜそうなるのか、彼の思想がどう書いてあるのか。

幸福論1-3巻、眠られぬ夜のために、聖書などから抜粋しつつ記します。

キリストイエスが復活したように、

死後に私(達) もまた霊的な復活をし、

自分人格を保持したまま神の国で永続する来世を生きる。

神の国は現世とは違い、完璧に公義と公正の世界である

そして、神の国に入って高い者とされるのは、神に愛されるものである

生前に清かった者、義に篤かった者、憐み深かった者…そのような人達である

から私も、私の愛する神の御前で恥ずかしくない自分になっていたい。

私は現世での朽ちる宝ではなく、永続する神の国での栄光をこそ求める。

現世の国ではなく、神の国国籍を持つことを望む。

から、私は現世においてのあらゆる快楽地位名誉を軽んじ。

親切(愛)と公正を重んじ、勤勉な自己人格を育てよう。

この空しい現世において、そのような決意と実行は難しい…。

しかし、神への信仰があれば可能となる。

神の国を想いかつ行動することで、様々な形で、しかし確かな喜びを感じる。

そうした経験を重ねることが信仰を深くし、やがて神のそば近くにいるという実感に至る。

これが幸福の確かな道である。」

神の国に富を積むとは

あなたも言われている通り、ヒルティ思想キリスト教の教えに根差しています

それなのだから「来世があるから好き勝手に生きよう」となってはいけないのです。

しろ「現世のためでなく、来世の為にこそ、私は現世で善い人間として生きることを努めよう」となるのです。*

まり、現世での富はお金ですが、来世の富は神の御心に適う信仰とそれに伴った行いであると説かれているのです。

ヒルティは現世での善く生きることが、来世への貯蓄のようなものだと言っているのだと思います

*マタイによる福音書6の19-21

「来世がある」という思想にすぐ甘えてしま


ヒルティの言う来世は、確かにキリスト教世界観の来世でありますから

たとえ現世において、貧乏や不遇な状況にあった人でも、誠実で親切(愛)と公正を尊び、

神の戒めを守って生きた人は救われる──。そういうものであって、

神を信じず、好き勝手適当に生きた人が救われる来世ではありません。*

*マタイによる福音書25の1-13

あなたヒルティ思想キリスト教的なものであると知りながら、

理解できないキリスト教部分を誤読して自身に都合よく受け取ってしまったのでしょう。

もちろん、キリスト教徒になれ!ヒルティをもう一度信じろ!と言いたいのではありません。

ただ、彼の思想を誤解したままでは、読まれあなた経験無駄になってしまます

それはあまりに勿体ないような気がするのです。

ヤケになるのではなく、ちゃんとこの人生を生きてやろうと思った



とても良いことだと思います応援します。

最後ヒルティの考えをなぞりながら終えます

「これまでを反省して前に進もうとするあなたの心は正しい方向を向いている。

ひとつづつ実現させようと現実的計画し、試みなさい。

その行いが公義や公正に反しないのであれば、それは地上で人に認められたことだからだ。

しかし注意しておかねばならない。

金を得れば、妻を得れば、なにか夢中になれる娯楽を得れば…と。

そうした偶像に救いがあると期待するのは止めておきなさい。

それを得られない事も、あるいは得て、しかし満足と幸福が得られないことは良くあることだ。

地上の一切は煙のようなものから*

いまからでも遅いということはない。

ただあなたの善い生き方をしようと努め、自発的に行う意思のある仕事を見つけて励みなさい。

そして神を信じられないまでも、神はいないと自分に言わず、神を憎まず、

神を思う心があなたの内から無くなってしまわないようにと祈りなさい。」

*伝道者の書1の2-3、9の11

Permalink |記事への反応(0) | 03:50

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2023-02-27

anond:20230227152835

ストアって何?間違ってもストア派のことだよとかぼけずに教えてくれ。アップルストアじゃないでしょ、普通にアマゾンのこと?

Permalink |記事への反応(0) | 16:09

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2022-09-06

anond:20220906023252

西友よりOKストア派です

Permalink |記事への反応(0) | 02:35

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2022-06-21

anond:20220621183256

ストア派

Permalink |記事への反応(0) | 18:41

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ストア派サラリーマン

出世出来なくても良い。生活レベルは上げない。恋人はできないしいらない。結婚もできないしいらない。子供はいないしどうでも良いので手当てもいらない。AVもいらないので法規制されても構わない。

俺はお気に入りピンサロ嬢に口内射精できればいい。

Permalink |記事への反応(3) | 18:32

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2020-10-24

anond:20201024130639

ストア派ってなに?スーパーマーケットじゃ呼び方ダメっ!派なの?昭和言葉末長く伝えたい~派なの?

Permalink |記事への反応(1) | 21:26

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電車で席を譲ろうとして断られても傷つかなくなった

自分は正しいことをした、自分に出来ることはしたと思えるようになった。

ストア派バンザイ

おしまい

Permalink |記事への反応(10) | 13:06

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2020-09-09

anond:20200909201817

俺もストア派から

Permalink |記事への反応(0) | 20:19

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2020-07-03

anond:20200702214216

正直なところ、女オタク界隈が羨ましい。自分なりの「解釈」を実存をかけてぶつけ合っている人たちが羨ましい。男オタクの界隈にそういう熱量はない。

オタクの界隈では、「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」という決まり文句で(対立火種となる)解釈は潰される。「感情的になることは恥ずかしい」という劣化ストア派みたいなメンタリティーで生きてる奴が大半。

それはお前がそういう雑魚オタクしか見てないからだな

まり表に出てこないオタクたちにはちゃん考察を主として活動しているやつが結構いる

ツイッターなりなんなり探してみろ

Permalink |記事への反応(0) | 09:59

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2020-07-02

解説動画」とかいう男オタク特有の叩き方

anond:20200702000854

これを見てふと思ったことを書く

それはタイトルにも掲げたんだけど、いわゆる「女性向けジャンル」で「解説動画」と称した実質的バッシング動画を見たことがないな、ということ(ちなみに誤解のないように書いておくと、私は男オタクです。女オタク(という言葉蔑称っぽいニュアンスを感じるからあんまり使いたくないけど)を擁護する義理はないし、そういうモチベーションの元で書かれた文章ではない、ということに留意してほしい)

何のことかわからない、という人は

https://www.nicovideo.jp/watch/sm34681332

を見て貰えば何となくイメージを掴めると思う。

けもフレ2が炎上した時とか、オルフェンズとか、Vtuberの叩き動画とか、あとは「クソ漫画」を叩くやつとか、「なろう小説」を叩くやつとか、まあバリエーションはいろいろあるけど、目に入るのはどれも基本的に「男性向け」コンテンツで、女性向けコンテンツ刀剣乱舞とかあんスタとか...)でこういうタイプ動画を見たことがないんだよね。

こういう動画は、どれも「〇〇という作品炎上しているよ。私なりにその理由分析してみたよ。それは〜〜という構造問題を抱えているからだよ」という作りになっていて、その過程暴言中傷が大量に挟まったり、他の漫画ミーム化しているコマを引っ張ってきて「面白さ」を演出したりする。

そして、「〜が問題」の部分では、大抵の場合判で押したように「作品構造キャラクター愛着が持てる作りになっていない」みたいなことが言われる(しかもしばしばそんなに的を得ていない)。

更に言うと暴言も、大抵はふたばだか5chだかからコピペとかで、そうでないもの一定バリエーション範囲内。

まりフォーマットが定まっていて、一度要領を掴んでみれば比較的量産が容易(だから、この手の動画を量産する「動画主」がニコ動とかyoutubeかに存在する。「クソラノベレビュー」「クソ漫画レビュー」「打ち切り漫画レビュー」とかで検索してほしい)。

また、一応「構造問題」を剔出する「解説」という形式をとっているから、作品の口触りの悪さは消費者側の問題ではなくて作り手が悪いということが「論理的に」導き出される。

要は頭を使わずマウンティング罵詈雑言を罪悪感なく、しかお腹いっぱい摂取できる美味しい動画ニコニコとかを見てると、動画主が作品を「論破」しているシーンで「ロジハラやめろ」というコメントがついたりする。この「ロジハラ」なる言葉は「ツイフェミ」叩きの文脈で出てきた、オタクの間で流通してるジャーゴンらしい(ロジカルハラスメントの略。初出をわざわざ漁る気はないが、頭のよくない「フェミ」が論破されて「発狂」しているイメージを伴って用いられている)。ここから、「蓮舫麻生論破wwwww」みたいな動画と同じノリで見られていることが分かる。

これは宇多丸ラジオで言ってたことだけど、「批判がそれ自体コンテンツとして受容されてしまい、元の作品をまともに見ない人たちが一定数いる。だから僕は酷評あんまりしなくなった」。この手の動画はそういう人たちに受容されているんだと思う。

正直なところ、女オタク界隈が羨ましい。自分なりの「解釈」を実存をかけてぶつけ合っている人たちが羨ましい。男オタクの界隈にそういう熱量はない。

オタクの界隈では、「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」という決まり文句で(対立火種となる)解釈は潰される。「感情的になることは恥ずかしい」という劣化ストア派みたいなメンタリティーで生きてる奴が大半。そうやって溜まりに溜まった鬱憤を晴らすのにも「理性的」建前がほしい(けど深く考えて自分実存に関わるレベルにまで首を突っ込みたくない)から解説動画」に没頭する。

さっさと感情ステージに上がってこい。お前なりの解釈を見せろ。決まり文句意見を委ねるな。

Permalink |記事への反応(22) | 21:42

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2016-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20161101215110

内面の美しさ」を仮に「人格高潔さ」だと捉えるなら、それはキリスト教の影響が大きい(かもしれない)。

キリスト教では信仰を通じて人格高潔に保つことで神に接近することが「幸せ」だとされる。

逆に言えば、外面を美しくすることばかりに気を取られて、高潔さを失えば、それは不幸だとされる。

増田は「内面の美しさ」を「面白さ」と定義しているようなので、やや議論がズレてしまっているかもしれないが。

(ちなみにキリスト教以外にも、ストア派哲学者も似たようなことを言うので、結構普遍原理なんじゃないかと思っているが、これは言い過ぎかも)

Permalink |記事への反応(0) | 22:22

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2016-01-13

叫ぶストア派の会

Permalink |記事への反応(0) | 21:09

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2014-04-12

http://anond.hatelabo.jp/20140412002002

現代人はアタラクシアに打ち勝てるのか

これだけ思想が溢れ、価値観が多様しても尚、ストア派で言う所のアタラクシアを志向する者が多い

それこそ数千年の以前に生み出された思想が、今も現代人の心に親和性をもつのはどうしてだろうか

強力な普遍性を持つアタラクシアという概念

「欲望が消滅し、平穏に過ごす事が幸福であるということだ」という論理に、どうして人間は抗えないのだろうか

そのような奴隷倫理を捨て、貴族倫理に従って生きる事が出来ないのはどうしてなのだろうか

それでも、こうして考えているという私が"存在出来ている"という例外が、"人間はエウダイモニアの中であっても自己拡張し、探求しうるだけの好奇心を持ち得る"という確証になるだろうか

エピクロスせやな

ピュロン「そうかもしれん。そうでないかもしれん(失敗)」

ゴルギアス色即是空空即是色」

プロディコス「それにつけても金のほしさよ」

デウス・エクス・マキナそうなんだ、じゃあ私生徒会行くね

Permalink |記事への反応(1) | 00:59

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2008-09-12

自己批判

最近自分につく星が恐ろしい。自業自得だ。

とある人気エントリのぶくまに実在の著者、実在しない題名の本の紹介を書いた。

著者がニーチェタイトルが『道徳の起原』。

なんだろうね、この本。エンゲルスが『家族私有財産国家起源』という本を書いていたような気はするけど。指摘を受けたのにそれをスルーして「原」を「源」と直しただけで気づかなかったのはもちろん手元になかったからだし、内容から逆算して間違って覚えていたからだし、ついでにこのタイトルで指示しそこなった本、および著者の主張を有用であると思いつつ嫌っているという個人的感情による影響もあるけど、もっと深い理由があった。要するに元エントリに釣られたのを無理して感情をフラットにして自分が書くべきと思ったことを書いたので間違ったのだ。書くべき事があるとしたら、それはまず自分の無知を省みて、何も書かないという事であったはずだ。

なお正しくは『道徳の系譜』。みなさまには伏してお詫びしたい(←だからこれを最初に書かないのはどうしてかと)

教訓としては感情によっていくらでも操作可能な一介の自動機械ごときが人間の、ましてストア派のふりをするんじゃない、という事に尽きる。当該ぶくまはこの経緯を反映するかたちで修正してある。興味のある方は探して、星でも罵倒ぶくまでもつけてくれるとよいだろう。

死ね、むしろ壊れろ、つうか機能してないじゃん、俺

Permalink |記事への反応(0) | 20:18

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