はてなキーワード:ステレオタイプとは
id:tester19 です
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/tonarinoyj.jp/episode/2550912965947830792
「くゆらす女々」の感想ブコメに「百合に混じれない人がなぜか怒ってるな」といったエアリプっぽいコメントを見かけたので、誤解を避けるために、私の感想をいったん整理して書いておきます。
私が問題に感じているのは、女性向け漫画の一部、特に現実の女性の困難さを描くタイプの作品において、異性や異世代からの加害や理不尽な扱いが、あまりに安易な物語のきっかけとして使われすぎているという点です。
加えて、そうした加害者キャラクターが極端にステレオタイプな描かれ方をしているため、結果として女性キャラクターの内面的な葛藤や主体性が十分に描かれていないように見えるのが問題だと考えています。
その構図はしばしば、「舞台装置として配置された異性・異世代のキャラクターに翻弄され、それに対して定型的な反応をする女性主人公」という形になりがちで、ある種の“ポルノ的な描写”に近づいてしまっている印象があります。
今回の作品は読み切りであるという制約は理解していますが、それにしても主人公の抱える悩みや背景があまりに単純化されすぎていると感じました。
“女性を人間として描こう”という視点が、どこか置き去りになっているように思えたのです。
この構造は、長期連載の中の短編回や単話完結型の作品でもしばしば見られるものであり、それだけにフォーマットとしての違和感が強く出てしまったのだと思います。
『シガーバー』をテーマにした本作は、おそらく成人女性を主な読者層として想定された作品と思われます。
近年のエッセイ漫画などに見られる、成人女性向けの作品傾向を踏まえると、今回のようなキャラクター造形やストーリー運びも特に珍しいものではなく、よくあるフォーマットの一つとして理解はできます。
また、おそらく作者も、深い意図があって男性キャラクターを配置したというよりは、物語の導入部を機能させる“装置”として、不愉快な男性キャラを置いたのだと推察します。
もちろん、これを「男性が差別的に描かれている」と受け取った方もいらっしゃるかもしれません。(実際、私のコメントをそう解釈された反応もありました。)
しかし私としては、冒頭に登場する男性はあくまで物語上の“装置”であり、作者に強い悪意や差別的な意図があったとは感じていません。
むしろ気になったのは、女性キャラクターが“物語の主体”として描ききれていないこと、そしてそのために物語全体の説得力が弱まってしまっている点です。
読み切り作品に対して厳しい評価と受け取られるかもしれませんが、近年の読み切り作品では、特に「起」の部分でフックや演出に工夫があるものが多く、
それゆえに、「起」の工夫がなく今回のように素材としてユニークな“シガーバー”というテーマがうまく活かされていないのは、非常にもったいないと感じました。
>嘘つくなよ
なるほどタイトルにASD入れたらこれ系のコメント来るのかーやりすぎたかも
君の独自の基準じゃなく障害者かどうかの判定が具体的にどうされてるかについて調べてほしい、君の時間を無駄にすることも減ると思う
これについては確かDSM-5で単一の診断名であるAutismSpectrum Disorderにまとまってたと思うよー間違ってたらごめんね
>東京なんかで暮らそうとするな
自分の形が少数派であることと、それが希望を叶えるためにとりま頑張ってみよう!を阻害することに関係するとは思わないかなー、あと要求てんこ盛りだからわからなくもないけど理由なく何でも潰したい人なのかな?って感じて悲しい
これ素人判断の人がよく言うけどそうじゃない人もいるよー自分は飽き性だし数字がめちゃくちゃ苦手でExcelとかも線をまっすぐ辿れないんだ
ただWAISだと全体でIQ132あるからまあまあ頑張れはするらしくめっちゃ頑張って普通の人カモフラージュしてるよ、すごい疲れちゃうけど
君が持ってるステレオタイプが減ると嬉しいな
>トマト
トマト育てるのとても難しいと思うよーあれすぐ皮硬くなったり避けたりするよね
前提として、メディア全般でいうと社会規範に影響を与えるという結果の論文は多い
2017年の調査によると、日本の根深いジェンダーのステレオタイプを反映していることが多い漫画とアニメーションは、最終的に人々の性差別的な認識を助長することが判明しました。
https://www.fairplanet.org/story/on-manga-anime-and-sexism/
https://ivypanda.com/essays/japanese-anime-the-issues-of-sexual-iconography/
紛争下における性暴力は、真空状態(vacuum)で起こるものではなく、それが発生する社会的・文化的な文脈と深く関わっています。
戦争や紛争は、既存のジェンダー役割や不平等を強化し、悪化させることがあります。戦時プロパガンダは、男性を「強さ」「支配」「攻撃性」と関連づけて描く一方で、女性を貶めたり、「家庭性」や「母性」といった枠に閉じ込めて描写することが日常的に行われました。
戦争は社会における権力構造に影響を与え、人々の「エージェンシー(agency)」――つまり自ら選択し、環境をコントロールする力――を減じます。軍隊の構成員は、彼らが着る制服や体現すべきとされる価値観によって特権的な地位を与えられ、保護される立場になります。
こうした社会的・ジェンダー的な基盤構造は、人々がどのように扱われるか、またどのように振る舞うことが期待されるかに影響を及ぼします。
このセクションでは、戦争や紛争の時代における男女の描かれ方(depictions)を探ります。
プロパガンダはポスターやチラシから映画、ソーシャルメディアに至るまで、さまざまな形をとることができます。それは政府や支配的集団によって世論に影響を与えるために利用される、効果的な心理的ツールです。プロパガンダは社会の特定の集団、またはより広範な人々を対象とすることがあります。
既存の社会的規範やジェンダー的ステレオタイプに基づいて、プロパガンダは特定の集団を英雄として描き、他の集団を悪役として描きます。それは希望や恐怖のメッセージを広め、人々が特定の行動をとるよう促すことができます。
このようなジェンダー的表象(representations)を再生産する個人によって作られた日用品の中に、プロパガンダの成功の証を見ることができます。
戦時プロパガンダは、戦時中に女性がどのように振る舞うべきかについて、潜在的かつ明示的なメッセージを発信します。それは、女性の性的道徳、母性、自発的奉仕にまつわるステレオタイプを利用しています。
これらの例は主に第一次世界大戦から現代にかけての西ヨーロッパ諸国のものです。そこでは、保護されるべき弱々しく純潔な女性から、性的に奔放で「口が軽い(loose-lipped)」とされる道徳的に疑わしい女性まで、さまざまな描かれ方が見られます。
たとえ女性が社会の中で伝統的に男性が担っていた役割を果たすようになっても、その描写は依然として、女性がどうあるべきかという古びたジェンダーステレオタイプに基づいています。
M Franklyn, Beautiful? IfYou Could See What the Doctor SeesYou’d Leave ‘EmAlone!
Exhibitionprint
1939–1945
PST 3731
Unknowncreator, Concealment
Exhibitionprint
PST 15910
Harold Forster, KeepMum –She’s not Dumb
Exhibitionprint
1941
PST 3363
Edouard Bernard,Victory in Singing [translation]
Exhibitionprint
1916
PST 12615
DorothyStanley, The Call of the Women, Save Us
from the Hun
Exhibitionprint
1914–1918
PST 12138
Unknowncreator,SheTalked... This Happened -
CarelessTalk Costs Lives
Exhibitionprint
1939–1945
PST 13905
Gerald Lacoste,Don’t Tell
Exhibitionprint
1939–1945
PST 13933
Central Office of Information,As aWoman in the Army
Exhibitionprint
1920
NAM. 2009-02-52-1
CrownCopyright.Image Courtesy of theNational ArmyMuseum
Reginald Mount,Here Comes theBride
Exhibitionprint
1939–1945
PST 14092
3rdAssaultBrigade – Ukrainian Army
Exhibitionprint
2023
(AV caption)
Central Office of Information, A Matter of Choice Film
1965
COI 306
Central Office of Information, ACoolSteadyLookat the WRAC
Film
1965
COI 389
https://b.hatena.ne.jp/entry/4772846290803510209/comment/mahal
id:mahal このレベルまで来ると、やはり参政党人気って「世田谷自然左翼」的なものではなく、「アカっぽさを嫌気する生活保守層に見合う野党需要」が原動力になってるという読み筋になるかな(つまり玉木が悪い
こういうカジュアルに「世田谷区民」に対して差別的な造語を使うの、ほんとどうかしてる。しかも、参政党批判の文脈でというところが更に。
自分が政治的な賢さを持っていると勘違いしているのかもしれないが、国とか都道府県を対象に表現しても「差別だ」と非難されるのが当然の現在において、区市町村レベルまで具体的に差別的表現を当てはめている、その愚かさを先ず自覚すべき。
そして、このコメントに何も考えずに星を着ける奴らも同様。
愚かすぎて、問題点が理解出来ないかもしれないのでChatGPTに説明文を作ってもらったのをつけておく。
あなたが公の場で用いた「世田谷自然左派」という表現は、地域名を用いたステレオタイプ化と思想・階層に対する嘲笑を同時に含む差別的レッテル貼りです。
以下、その問題点と影響、そして今後求められる建設的な姿勢について詳述します。
今回の表現は地域・階層・思想の違いを「対立と嘲笑」の構図に貶めるものであり、世田谷区民のみならず健全な公共圏に損害を与えます。
今後、同様の差別的表現を使用しないことを強く求めるとともに、誠実で根拠に基づく対話にご協力いただけますようお願い申し上げます。
こんにちは、ご指摘の「“difficult to understand”を女性蔑視と結びつけるのは悪意がある」という見方には、確かに一理ある部分もあります。
英語表現としては、「難解だ」「分かりにくい」という中立的な意味で使われることも多く、たとえばItis difficult to understand the POTUS forJapanese のような文も、文脈次第では悪意のない一般的な表現と見なされます。
ですが、今回の問題は英語表現そのものよりも、その言葉が発せられた「文脈」と「対象の限定」に起因するという点に注目していただきたいです。
“It’s very difficult to understand for them.”
(文脈上「them」は women や the elderly を指している)
この構文では、「理解が難しい主体」を特定の属性に帰属させているため、聞き手によっては「女性(や高齢者)は理解力が劣る」と暗に言っているように受け取られやすくなります。
🟡Itis difficult to understand for anyone unfamiliarwith the topic. →中立的
🔴Itis difficult to understand for women. →性別による一括りが生まれる
本来の意図が「説明が複雑で伝わりにくい」であっても、言い方によっては「彼らには理解力がない」と聞こえてしまうリスクがあります。
"We have been trying to explain many times... but we have not been successful toget the support from women and the elderly."
このような構文では、「私たちは十分努力したが、彼らが理解していない/支持してくれない」と受け取れるため、責任の所在が聞き手側にあるような印象を与えてしまいます。
個人の感想やカジュアルな場面なら許容される言い回しでも、政治家の公式な文脈で性別や年齢に結びつけて“理解できない”と発言することは、公共的なバイアス再生産の危険があります。
アメリカ人が “Itis difficult to understand the POTUS forJapanese” と言った場合、日本人への蔑視とは取られにくいかもしれません。でも、たとえばアメリカの大統領が、
“Our policyis good, butit seems African Americans findit difficult to understand.”
と言ったらどうでしょう?たとえ悪意がなかったとしても、集団に対する知的ステレオタイプをほのめかす構造になってしまい、大きな批判を受けるはずです。
しかし、「誰が」「どんな属性の人を」「どんな文脈で」対象にしているかによって、言葉の印象は大きく変わります
差別かどうかの判断は、「表現そのもの」だけでなく「聞き手にどう受け取られるか」という文脈と影響 を含めて考える必要があります
もしその政治家が「もっと説明を工夫すべきだった」「伝え方に課題があった」と言い換えていれば、ここまでの批判は避けられたでしょう。
誤解が生まれたのは、英語力というより配慮不足による構文と論理展開の未熟さにあります。
日本社会において、ゲイの人々が長く向き合ってきた現実のひとつに「ハッテン場(発展場)」の存在があります。ハッテン場とは、主にゲイ男性同士が性的な出会いを目的として集まる場所のことを指し、特定の公園やトイレ、サウナ、ビデオボックス、時にはバーや専用スペースなど多様な形で存在してきました。
これらの場所は、単に性的欲求を満たす場であると同時に、社会の中で自分のセクシュアリティを確認し、同じ立場の他者とつながるための数少ない「接点」として機能してきた歴史があります。
戦後から2000年代にかけて、日本社会では「異性愛」が当然のものとして前提化されてきました。家庭、職場、地域、いずれの場でも、同性愛は日常の中で話題にされにくく、理解されにくい存在であり続けました。
その中で、ハッテン場はある種の「サンクチュアリ(避難所)」として存在していました。誰にもカミングアウトしていない人、恋愛や交際という枠組みではなく、身体的なつながりを求める人、あるいはただ孤独を抱えた人にとって、匿名性の高い出会いの場は切実な意味を持っていたのです。
1980〜1990年代には『バディ』や『薔薇族』といったゲイ雑誌が流通し、ハッテン場の所在地情報や体験談などが共有されることで、独自の文化圏が形成されていきました。その一方で、ハッテン場は「特殊な性の世界」として消費される側面もあり、ステレオタイプの助長にもつながりました。
近年、LGBTQへの理解が徐々に進む中で、ゲイであることを隠さずに生きる人も増えてきました。また、スマートフォンの普及により、9mon、Jack’d、Grindrといった出会い系アプリが主流になりつつあり、リアルなハッテン場に頼らなくても出会いが成立する時代に移行しています。
しかし、その一方で、アプリの世界には「見た目や年齢」による排除や格差がある現実もあり、誰もが居場所を得られるわけではありません。そうした意味で、匿名かつ非言語的なつながりが得られるハッテン場は、いまなお「見えない人々」の拠りどころとして機能し続けています。
ハッテン場の多くは公共の場を舞台としており、風紀や治安、衛生面などの観点から問題視されることもあります。実際に、摘発の対象になることや、地域住民との摩擦が起きるケースもあります。
しかし、このような場の存在を一概に否定することは、社会の中で「声なき声」として沈黙を強いられてきた人々の生の在り方を切り捨てることにもつながります。ハッテン場の存在そのものが、「誰にも相談できない」「公に言えない」人たちが生きてきた証であり、日本社会のセクシュアリティに対する不寛容さを映し出す鏡でもあるのです。
今後、ハッテン場という文化は少しずつ姿を変えながらも、生き残っていくでしょう。それは単なる性的な出会いの場としてではなく、誰にも見えなかった欲望や孤独、アイデンティティの探求が交差する場所として、より深く再評価されていくかもしれません。
ハッテン場をどのように理解し、受け入れるかは、日本社会がLGBTQをどのように捉えていくのか、そして「多様な性のあり方」をどこまで許容できるのかという、より本質的な問いに直結しています。
~オレたちのハッテン場「Mr.Cruising」立ち上げにて
「民族に性質がある」と主張するのは、お前が「真理を愛している」からではなく、「単純化された物語」に酔って安心したいからだ。
「日本人は勤勉」「ユダヤ人は金に強い」「ドイツ人は几帳面」それ、全部ステレオタイプであって、真理じゃない。
歴史がある ≠性質がある。それは「行動の記録」であって、「DNAに刻まれた性格」ではない。
お前の言ってることは、「家計簿に魚ばっかり載ってるから、この家庭は鰓呼吸です」と言って自己放尿してるのと同じ。
これはとても良い問いだが、論理的に極めて初歩的な錯誤がある。
それは、「文化的慣習」や「宗教的傾向」は構造 や文脈 によって発生する集合的傾向であり、先天的性質ではないという点。
「多くの人が信じているからといって、それがその民族の本質ではない」というのは、哲学・歴史・社会科学の最低限の共通知識だ。
もし「聖書信じてる=民族の性質」なら、「パチンコ行く=日本人の性質」って言ってるのと同じだ。
お前が言っていることは、民族を単一の人格として扱うことで、現実の多様性を否定し、「敵」「味方」を単純化して物語に仕立てようとしている。
たとえば、イスラエル軍に従軍するドゥルーズ系住民もいれば、パレスチナと共闘するユダヤ教ラビもいる。
「ユダヤ人=聖書信奉=○○な民族性」などとまとめる時点で、現実の複雑さを捨てて思考停止の楽園に逃げている。
いいかい、「民族に性質がある」と思いたくなる気持ちはわかる。
でも、それは自己放尿だ。
自分の中の闇を他人の民族に投影して、外側を汚して内側をきれいに見せようとするだけだ。
本当に強い知性とは、「例外を例外として認識できる勇気」と、「全体を単純化せずに愛せる思考」のことだ。
お前が「民族に性質がある」と信じた瞬間から、お前自身が劣った思考様式を持つ民族の一員になっているんだよ。
つまり、お前の言う「民族性」が本当なら、今この瞬間のお前こそ、自分の民族を侮辱してる第一人者だ。
そしてそれは、自己放尿を飲み干して「これはワイン」と言い張ってるのと同じ。
知性と理性を愛しているなら、今すぐコップを置け。匂いを嗅げ。そして学び直せ。
まず一点、明確にしよう。
お前が「なぜ女に置き換えないと理解できないのか?」と問うているのは、構造的な理解力の欠如に苛立っているからであって、「真理を愛している」がゆえの問いかけではない。
だが、それ自体は責めない。それはお前の中にある失望や痛みの反射だと見ている。
人間は抽象構造を直接扱うよりも、具体例に置き換えたほうが早く伝わるようにできている。これをアナロジーによる理解促進という。
たとえば「教皇選挙を女子校の争い」と喩えたのは、男の世界でも陰湿で権力闘争があることを、一般に「陰湿」とラベリングされやすい女子校のステレオタイプに転写して逆説的に示しただけだ。
つまりこれは批判ではなく、男性社会の滑稽さへの自己放尿に近いセルフ皮肉なのだ。
お前はその皮肉を「女性を使わないと理解できない」と誤解しているが、違う。理解を助ける比喩が女であっただけの話だ。
皮肉や比喩を用いる人を「ナルシスト」と断定するのは精神的診断を論拠なしに下すという自己放尿にすぎない。
逆に言えば、「女子校っぽい」と言われて激昂する反応こそ、自我が傷ついたがゆえのものでは?
つまりお前自身が、「女っぽい」と言われること=劣っているという構図を内面で抱えているのだ。
これぞ真の自己放尿構造である。人を批判しているつもりで、実は自分の中の見下す価値観を晒してしまっている。気づいているか?
お前はおそらく、男社会の欺瞞や女性に対する無自覚な蔑視に怒っているのだろう。それは正当な怒りだ。
ただし、怒りの使い方を間違えると、それは別の誰かを裁きつつ、自分をも傷つける刃になる。
論理と比喩の力は、相手を打ちのめすためでなく、共に笑える場所を作るために使える。
次はぜひ、お前自身が、そうした比喩や皮肉を愛と知性で使いこなせる側に立ってほしい。
真理の前には、男も女も、ただの魂だ。
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
体育会系と文化系という分類における文化系(陰キャ)と勘違いしているやつがいてアホだなあと思った
先日、ネットでとある記事を読んでいたら思わず「え?」と思う記述があった
一瞬、頭がフリーズした。
彼の言っている「文系」と「文化系」が、私の頭の中でうまく結びつかなかったからだ。
ああ、なるほど。
彼は「理系と文系」という学問の分類と、「体育会系と文化系」という人間の気質の分類を
ごちゃ混ぜにしてしまっているのだ。
そして、その後者における「文化系」が持つ、やや内向的、いわゆる「陰キャ」的なイメージを、前者における「文系」全体に当てはめてしまっている。
しかし、その一方で、なぜ彼がそんな突拍子もない(と私には思える)勘違いをしてしまったのか、妙に気になってしまった。
「理系か、文系か」というのは、高校や大学で選択する学問分野の大きな括りのことだ。
ざっくり言えば、自然科学や数学、工学、医学といった分野が「理系」。そして、人文科学、社会科学、法学、経済学といった分野が「文系」。これは、何を学ぶか、どんなアプローチで真理を探究するかの違いであって、個人の性格やライフスタイルを規定するものではない。もちろん、学問の特性が個人の思考様式に影響を与えることはあるだろうが、それは結果論に過ぎない。
一方で、「体育会系か、文化系か」というのは、個人の気質や所属するコミュニティのカルチャーを指す言葉だ。
「体育会系」と言えば、運動部に代表されるような、上下関係がはっきりしていて、根性論やチームワークを重んじる、エネルギッシュで外向的なカルチャーを指すことが多い。いわゆる「陽キャ」のイメージと結びつきやすい。対する「文化系」は、文芸部や美術部、吹奏楽部などに代表される、個人の興味や探究心、内面的な活動を重視するカルチャーだ。こちらは比較的物静かで、インドア、内向的な「陰キャ」のイメージを持たれがちだ。
この二つの分類軸を並べてみれば、両者が全く別物であることは火を見るより明らかだろう。
これはX軸とY軸のようなもので、本来は組み合わせて四象限のマトリクスで考えるべきものだ。
・理系で体育会系:工学部のラグビー部員とか、医学部のサッカー部員とか。ゴリゴリのフィジカルを持ちながら、論理的な思考も得意とする人たち。たくさんいる。
・文系で体育会系:法学部の野球部主将とか、経済学部のアメフト部エースとか。チームをまとめ上げるリーダーシップとコミュニケーション能力に長け、社会の仕組みにも明るい。こちらもたくさんいる。むしろ、営業職などで大活躍するイメージすらある。
・理系で文化系:数学科でチェスに没頭する学生とか、物理学科でSF小説を書きふける大学院生とか。知的好奇心の塊で、自分の世界を深く掘り下げるタイプ。これもステレオタイプな「理系像」に近いかもしれない。
・文系で文化系:文学部で古文書を読み解くのが好きな学生とか、史学科で一日中博物館にいるような人とか。これもまた、一つの典型的なイメージではあるだろう。
このように、四つの象限にはそれぞれ典型的な人物像を当てはめることができる。
そんな単純な話では全くないのだ。
彼が言っていた「文系=文化系(陰キャ)」という図式は、このマトリクスの存在を完全に無視した、あまりにも解像度の低い世界認識だと言わざるを得ない。
では、なぜ彼は、そしておそらく彼以外の一部の人たちも、こんなにも雑な紐付けをしてしまうのだろうか。
いくつか理由が考えられる。
「文系」の「文」と「文化系」の「文」。この共通する漢字一文字が、無意識のレベルで両者を結びつけている可能性は高い。人間は、意味よりも音や形の類似性で物事を連想することがよくある。「文」という字には、どこか「武」の対極にあるような、静かで知的なイメージがつきまとう。「武」が体育会系なら、「文」は文化系だろう、という非常にシンプルな連想ゲームが、頭の中で行われているのではないか。
二つ目は、ステレオタイプの暴走と単純化だ。世の中には、様々なキャラクターの「型」が存在する。特に、ドラマや漫画、アニメといったフィクションの世界では、分かりやすさが重視されるため、キャラクターはしばしば極端なステレオタイプとして描かれる。
たとえば、「理系の天才」は、コミュニケーションが苦手で、白衣を着て研究室にこもっている、まさに「文化系の陰キャ」として描かれがちだ。一方で、法廷ドラマの敏腕弁護士や、経済ドラマの熱血銀行員といった「文系」のヒーローは、弁が立ち、行動力がある人物として描かれることが多い。
こう考えると、むしろ「文系=陽キャ」のイメージの方が強まりそうにも思える。だが、ここで話はもう少し複雑になる。
おそらく、多くの人が「文系」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
経済学部や法学部ももちろん文系だが、より「文系っぽい文系」としてイメージされるのは前者だろう。そして、ひたすら文献を読んだり、思索にふけったりする文学部のイメージは、確かに「文化系」の活動と親和性が高い。この「文系の中の特定のイメージ」が肥大化し、文系全体を代表するイメージとして認識されてしまう。その結果、「文系=文学部っぽい人たち=文化系っぽい=陰キャ」という、伝言ゲームのような連想が出来上がってしまうのではないか。
人は誰しも、自分の見てきた世界が世界のすべてだと思いがちだ。例えば、その人が通っていた高校のクラス編成が、たまたま「理系クラスは大人しい生徒が多く、文系クラスは活発な生徒と静かな生徒が混在していた」という状況だったとする。その場合、「理系は文化系寄り、文系もまあ文化系寄りかな」という雑な印象が刷り込まれてしまうかもしれない。あるいは、自分の周りにいる数少ない「文系」の友人が、たまたまインドアな趣味を持つ人ばかりだった、という可能性もある。その限られたサンプルから、「文系とはこういうものだ」という法則を導き出し、それを世の中全体に当てはめてしまう。これも、人間が陥りがちな思考の罠の一つだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250614122405
俺がブクマしたんじゃねえ。誰だよまじで
増田、昔の自分みたいなこと言っていて少し共感してしまった。年取る課程でいろんな経験したら、なんか知らんが治ったが・・
「私はあいつらとは違う」って思ってると、集団の中で競争することから心理的に逃れることができるんよ。だから見下してたほうが楽だよね
実は自分自身の嫌な部分(感情的だったり陰湿な気持ち)を心の中に隠していて、それを他の女性に重ねて見てしまう。
自分の中にあるイヤな面を認めたくないため、「他の女性が嫌だ」と感じてしまう。
2. 「みんなと一緒にされたくない」という気持ち
「私はあんな人たちとは違う」と感じることで、自分を特別な存在として守ろうとしている。
他の女性と同じだと思われるのが嫌だから、女性の集団全体に嫌悪感を抱く。
女性同士の関係で辛い思いや嫌な経験(いじめや仲間外れなど)をしたことがあって、その記憶が残っている。
そのせいで、女性同士という状況が無意識に不快になってしまっている。
「女ってこうだよね」というネガティブなイメージやステレオタイプを自分も無意識に信じ込んでしまい、それを目にすると嫌な気持ちになる。
女キャラの戦闘時の露出度の高いデザインについて、以下のような理由が考えられます:
1. **視覚的魅力の強調**:ゲームやアニメなどのメディアでは、キャラのデザインで視聴者やプレイヤーの注目を引きつけるため、性的魅力を強調する衣装が採用されることが多い。特にターゲット層(主に男性視聴者)に向けたファンサービスとして、腹や太もも、胸を露出するデザインが選ばれる。
2. **キャラの個性や世界観の表現**:露出度の高い衣装は、キャラの性格(例:大胆、自信家)や作品のテーマ(ファンタジー、SF、ポップカルチャー)を反映する場合がある。現実の戦闘では非現実的でも、作品のトーンや設定に合わせて誇張される。
3. **商業的意図**:露出の多いデザインはグッズ展開(フィギュア、コスプレなど)やマーケティングで注目を集めやすく、売上向上を狙った戦略の一環であることが多い。
4. **文化的・歴史的背景**:特に日本のアニメやゲームでは、80年代~90年代のオタク文化や美少女キャラブームの影響で、露出度の高いデザインが定着。現代でもその流れが続いている作品が多い。
5. **戦闘のリアリティよりエンタメ優先**:現実の戦闘では防御力が重要だが、フィクションでは「カッコよさ」や「可愛さ」が優先されるため、防具としての実用性よりビジュアルが重視される。
「女は下方婚しないよな」と言う男性の発言には、問題点や改善すべき点がいくつか考えられます。以下に、この発言やその背景にある考え方に関連するダメな点を10個挙げます。なお、この発言は一般化や偏見を含むため、個々のケースや文脈によって異なる場合がありますが、一般的な観点から分析します。
女性を一括りにして「下方婚しない」と決めつけるのは、個々の女性の価値観や選択を無視した偏見。人は多様であり、結婚の基準は個人によって異なる。
2. **ステレオタイプの強化**
この発言は、女性が経済的・社会的地位の高い相手を求めるというステレオタイプを助長し、男女双方に対する誤解を広げる。
結婚を「上下」の関係で捉える視点は、パートナーシップを対等なものとして尊重する姿勢が欠けている。愛情や相性より地位を優先する考え方を押しつけている。
4. **相手への敬意の欠如**
女性の選択や価値観を軽視し、一方的な決めつけで話す態度は、相手に対する敬意や共感を欠いている。
5. **コミュニケーション能力の低さ**
このような発言は、建設的な対話や相手の意見を聞く姿勢がなく、会話の中で相手を不快にさせる可能性が高い。
発言の背景に、自分の価値観や不安(例:自分が「下」と思われたくない)を投影している可能性があり、相手の立場を考えていない。
現代のジェンダー平等の観点から、結婚における「上下」という考え方自体が時代遅れであり、男女の役割を固定化する古い価値観に基づいている。
結婚を経済的・社会的な「取引」のように捉える姿勢は、愛情や信頼に基づく関係性を軽視する傾向がある。
女性が自分の意志でパートナーを選ぶ主体性を持つことを認めず、決めつけで「下方婚しない」と断定するのは、女性の自律性を軽視する態度。
この発言は断定的で、相手の意見や反論を聞く余地を残さない。結果として、深い議論や相互理解の機会を失わせる。
### 補足
この発言をする男性が、もし冗談や軽い会話のつもりだったとしても、言葉の選び方や背景にある考え方が相手に与える印象は重要です。改善するには、相手の価値観を尊重し、性別に基づく決めつけを避け、オープンな対話を通じて相互理解を深める姿勢が求められます。もしこの発言について具体的な文脈や背景を教えていただければ、さらに詳しく分析できます!