
はてなキーワード:スターウォーズとは
薬屋のひとりごと、あたりはどうなの?😟
というか、俺はそんなにマイナー過ぎない、メジャーどころも押さえてるつもりではある、
まあ、最近の映画とかまったく観てない、話題に追いつけてなくて不味いなあ、という気はするけど、
初対面の外人がいたとして、映画の話するとしても、王道はあるじゃん
オタクというかナードっぽい映画でも、ゴジラとか、スターウォーズとかは通じそうじゃん
まあ、対戦相手が、私はワンピースしか知らん!ワンピースだけが好き!とかだったら、俺は困る
ぶっちゃけ、初期のワンピは好きだったけど、途中で嫌になって離脱したので困るんだけど…
そういえば、ある女性に一方的に知らないBLの話をまくしたてられたことが昔あったけど、
BLとかやおい耐性はあるつもりだけど、ネタが分からない話は困るよね
ガンダムのジオン軍とかスターウォーズの帝国軍みたいな組織でもいいかも知れん
あるいは『ランボー』『ダーティハリー』とか「あれは悪役じゃない」けどまあ暴力を使うキャラとかも含まれるかも知れん
こういう「悪」を指して「映画(創作物)の悪役から影響を受けるのは間違ってる!その創作物自体が悪を否定している!」みたいに先回りして批判する道徳家みたいな人を最近よく見かける
でも俺は何が具体的に悪いのかよく分からないんだよな
まあそれぞれの映画のテーマも違うし、またこういう映画の中で行われる行為やフィクションの規模が途方もないのでそもそも具体的に真似できんやろとか「それを言っちゃあおしめえよ」というのは省くんだけど
たとえば「ジョーカーに共感するな!」といっても、そもそもあれは現実に「ジョーカー的な人々」が先にいることが前提になってるんだよな
そんでもって別に映画館から現実に戻った今も別にテロとか企ててないけど
『アルジェの戦い』『戒厳令』みたいな映画を見て影響を受けて左翼になる奴もいていいだろうし
三島由紀夫や福田恒存の小説読んで右翼になる奴もいていいと思ってるよ
そんで「じゃあAVやポルノ映画見てレイプ起こす奴いてもいいのか!」って言うやつもいるんだろうけど、社会問題に対する反応と全然別じゃんというのは置いといて、まあいいんじゃないのそれは
前述の「影響を受けるな」論の根源って、まとめてしまうと、「何かある派閥が映画・創作物によって盛り上がって、自分の生活を破壊しに来る」という想像から発せられてると思うんだけど
そんなん映画が無くても破壊されるんだし、そもそも社会問題を加速させたり放置させたり対処してなかったりするのは現実の(ジョーカーを批判する)「お前」な訳なんだし
それと最近、視聴者というかオタク側が「創作影響論」を頑なに避けてるのは良くないと思う
昔のいろんな映画監督の創作論読んだけど、「影響を与えられない」方が悪いって表現ばかりだよ
ヤクザ映画見てヤクザになる奴もいるし、エロ漫画見てエロ事件起こす奴もいるでしょう、それで?
マンダロリアンが気になって今更EP1から見て今EP5なんだけど、これは納得の面白さ。リアルタイムで公開順に見てた人達はそりゃハマるよ。
ダースベイダーがどういうキャラか知ってる人間としてEP3のあの流れは胸にくるものがあった。
アナキンが想像より人間くさいキャラで、暗黒面墜ちの流れが理解できることばかりで辛かった。これを面白いと言ってしまうのもどうかと思うが。でも映画として素晴らしくて、作業中に見るつもりがガン見してた。
ちなみにEP4→EP5に行く前にマンダロリアンを見始めたのだが、もう見終わった。3シーズン+ボバフェットまで全部見た。あまりに面白すぎる。
エースコンバットとアーマードコアで育ったオタクが、覆面で表情が見えない賞金稼ぎのクールな連中がブラスターやらスターファイターやらで無双する様子を嫌いなわけがない。
気にしてることがあるとすると、このあとのEP6はいいとして、EP7以降の評判の悪さが……。大丈夫かなぁ……。一応見るけども……。
アバター、アメコミ、スターウォーズ……とCG盛り盛りのアニメみたいな映画ばかりなのよね。もちろんディズニーアニメも強い。
つまりアニメーション的な意味での凄い映像が好まれるのは全世界的傾向であって、日本では予算か技術か文化によってかは知らないが実写+CGではなく手描きアニメによってそれを実現しているというだけのことだと思う。
人々が映画に求めるものって、まずド派手な映像や美しく魅力的なキャラクターであるわけだから、絵として作り込めるCGやアニメの方が有利なのはまあ当たり前ではある。実写が凋落したというより、そもそもみんなが観たかったのは絵だったという一面もあるのではないか、どうか。
同じ映画を映画館で2回見るのに妙にワクワクするのは人生で初めての経験だ。これが自分でも不思議で仕方がない。
思えば、自分は映画にあまり興味がなかった。映画館に初めて行ったのは小学生の頃だ。親に連れられてクレヨンしんちゃんとポケモンの映画を見に行った記憶はあるけど、内容までは覚えてない。
次に映画館に行った記憶として残っているのは、中学生の頃、映画好きの友達に誘われて見た『ロード・オブ・ザ・リング』の時だ。それ以降、映画館というものからはすっかり縁遠くなっていたし、テレビでやっていても特に見ることもなかった。自分には、映画というフォーマットそのものが合っていなかったのかもしれない。
転機になったのは、彼女(妻)と付き合い始めてからだった。彼女はアメコミファンで、付き合いたての頃、一緒に見に行ったのが『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』だった。それから、映画館で映画を見る体験は悪くないな、と思い始めた。それでもまあ、一つの作品は一回見に行けば十分という感じだった。
妻は映画館で同じ映画を何度も見る種類の人なんだが、そんな妻に誘われて私が初めて2回目を見に行った映画は『ゴジラ-1.0』だった。ゴジラの視聴体験はすごく良かったんだけど、2回目を見にいくのは妻の付き合いという側面が強く、まあ1回目の体験を超えることはないだろうな、という気持ちがあったし、実際その通りだった。
そして、今回の鬼滅の刃だ。なぜか、2回目なのに「また見たい」って心から思ってる。しかも今回は、IMAXだ。大画面で、あの映画をもう一回見られると思うだけで心が踊る。
自分が鬼滅を見始めたのは、前作の劇場版が話題になっていた頃からだった。原作未読勢で、アニメで追いかけてるので、自分の中ではまだ完結していない作品だ。そういう意味でも映画への期待感が大きかったのだが、しかしながら、最初からそんなにハマっていたわけではなかった。序盤はあまり真面目に見てすらいなかった。
この作品にハマるきっかけとなったのは、累との戦いで炭治郎がヒノカミ神楽を使うシーンだった。映像もすごく格好良かったのだが、バックグラウンドの炭治郎のうたも良かったし、セリフも良かった。すべてが完璧に噛み合っていて、文字通り鳥肌が立った。
それ以来、鬼滅の刃という作品は、自分の中でちょっと特別な作品になってしまったらしい。
どこがどう良いのか、うまく説明はできない。自分の言語能力では、この興奮を正確に言語化するのは無理だ。でも、とにかく今、自分はすごく楽しみなのだ。2回目だというのに、あのスクリーンでまたあの作品を見られると思うと、楽しみで仕方ない。
1回目は昼間に見たのに、夜になっても興奮がおさまらなくて、なんだか寝つきが悪かった。ちなみに、冨岡義勇の出番も多く、櫻井孝宏推しの妻もさぞかし満足したことだろう。
正直、これが完全にマーケティングに踊らされてる感情だとしても、それでもいいと思ってる。踊らされてるとしても、こんなにワクワクできるなら、それは価値があるだろう。
『ビッグバン★セオリー』でレナードたちがスターウォーズの新作を見た後に絶頂に至っていた気持ちが、今は少しだけわかる気がする。
今朝も定刻通り、07:17に起床した。
目覚まし時計のベル音はスタートレック:TNGのオープニングファンファーレ。
人類が宇宙を征服する未来の幕開けにふさわしい一日が始まった。
朝食はいつも通り月曜日プロトコル、オートミール+ミルク(非乳製、アーモンドベース、糖分ゼロ)。
電子レンジの加熱時間は93秒。これを理解できないルームメイトには、教育の必要性を感じる。
今日の研究は、11次元におけるM理論とエキゾチックブレーンの安定性に関するもの。
僕の推測では、コンパクト化された6次元カラビ-ヤウ多様体の捩れ構造が、実はフェルマーの最終定理の証明と同様に、代数幾何ではなく物理的必要性から導かれるのではないかという示唆があった
(もちろんこれは未検証だが、僕の知能指数(IQ:187)を鑑みれば十分あり得る仮説だ)。
昨晩、改めてエヴァンゲリオン新劇場版:破を鑑賞。Mark.06の登場は何度見てもM-theory的多世界解釈を思わせる。
シンジの感情的行動が量子揺らぎのメタファーであることは、僕にとっては明白だが、アパートの隣人にそれを説明した際には「アニメのキャラにそんな意味ないよ」と一蹴された。
彼女が量子トンネル効果も理解していないことは悲しいが、僕は忍耐強い。
午後14:00からはスーパーマン vs Goku議論の再構築作業。
僕の結論では、超サイヤ人ブルーのGokuでも、赤い太陽下のスーパーマンには敵わない。
これには、相対性理論の観点からエネルギー保存則と重力場の影響が無視できない。
ルームメイトがまた僕の席に座った。ソファの右端、第三クッション部分は僕の所有権が確立されたゾーンである。
2. クッションの形状メモリ変化(僕の体重に最適化されている)
3.スターウォーズ公開時の位置的視野最大化条件における最適視点であること
それでも彼は「ちょっと座っただけ」と弁明した。全くもって許容できない。
宇宙の根源的秩序とは、場の理論と人間関係の両方に存在する。僕はその秩序の守護者であり、超弦理論とアニメ考察、そしてソファの座席を通じて、それを日々証明している。