
はてなキーワード:スクラとは
アンディ・ウォーホルと江口寿史とは並べられるような格なのかという点は気になるが言及しない
絵画におけるサンプリングなどというのは世迷い言で、スケッチという技法で知られているものと本質的に同一だ
音楽では機械を使わなければ再現できない音が存在するのに対して、絵画では二次元への写像は原理的にキャンバス上で再現できる
実際予備校で訓練を受ければ「時間をかければ見えるものは描ける」レベルまではかなりの割合の生徒が到達する
そうなってくると写実的であることに技術的優位性はなくて、紙と鉛筆でやっても、フォトショップと液タブでやっても精神的には同じことだ
ダビンチもフェルメールもカメラ(・オブスクラ)で立体を平面に写し取っていた
サンプリングとかなんとか、新しい名前をつけなければならないくらいダサい
もうひとつ、写実的に描くことが商売として成り立つかどうかという点について、スピードは無視できない
たとえ3時間かければ紙と鉛筆で完璧な輪郭線が引けるとしても、フォトショップと液タブでなら同じことが25分でできるならば経済的優位性がある
日に何枚も完成しなければ生活が成り立たない駆け出し専業イラストレーターにとっては、フォトショと液タブとnon・noで手抜きをして量産し、糊口をしのぐのは正当化されえる
しかし哲学的・行動科学的観点から考察すれば、その自明さは幻想に過ぎない。
心理学者の行動主義的立場によれば、内面的な主張や思考よりも、実際の行動こそが個体の真の傾向を示す。
言い換えれば、ある人が「物理学が好きだ」と口にしても、日常生活において物理学に費やす時間が皆無であれば、その「興味」は行動上存在しないと評価せざるを得ないのである。
したがって、真の興味とは、日常における行動の量で測定される。
この原理は、抽象数学や超弦理論のような高次知的対象に対しても例外ではない。
しかし現代人は、AbemaやNewsPicksのような低俗かつ即時的な情報刺激に日々さらされている。
このような環境下で知的対象への興味を実際に育むには、自己環境の構造を意図的に変える必要がある。
具体的には、抽象数学や超弦理論に関するメディアだけに接触する環境を作り出すことである。
ここで重要なのは、興味は認知ではなく行動であるという認識だ。
したがって「好きになりたいなら、まずその行動を増やす」—極めて単純かつ強力な戦略である。
このプロセスをイメージ化するために、低俗な興味を「黒いピンポン玉」、抽象数学や超弦理論を「白いピンポン玉」と仮定する。
しかし、白いピンポン玉を一つ、また一つと注ぎ続ければどうなるか。
最初は影響力を持たないが、累積的に白いピンポン玉が増えると、黒いピンポン玉は排除され、最終的に水面は白いピンポン玉で安定する。
この現象は、心理学における「習慣化」と「選択的注意」の原理に対応する。
現代のツールは、この自己環境の制御を容易にしてくれる。X(旧Twitter)なら、フォローした情報だけを表示する「Control Panel forTwitter」が存在する。
YouTubeなら、サブスクライブしたチャンネルの動画のみを表示する「Unhook」がある。
低俗な情報への接触を遮断し、知的刺激だけを選択することにより、白いピンポン玉は自然に増殖する。
抽象数学や超弦理論を「好きになる」ための方法は、脳内をその対象で飽和させることに他ならない。
参政党が躍進したが、国民民主党のように躓かず、しばらく躍進を続けるとみてる。その理由を列挙するよ
国民民主党は玉木の不倫騒動をきっかけに躓き、山尾ガソリーヌや須藤元気など問題人物の擁立や玉木自身の失言癖で支持率を減らした。
が、仮に参政党の神谷が不倫しても「一夫多妻制を是としてる党首が有言実行した!」とむしろ好意的に受け止められる可能性が高いし、変な輩を擁立しても「参政党らしさ」で話が終わってしまうし、失言は発達障害関連の状況を見ても支持率低下には至らない。
また、ホスクラなどの夜職勢を味方につけたのも大きい。カネにグレーな層が味方にいるので、裏金とか脱税とかやっても「俺達の仲間だな」で済んでしまうし、パワハラや暴行をやらかしても「逞しい」で済んでしまう。
要は参政党は無敵に近いのだ。
唯一失脚するとすれば旧オウムみたいなテロ行為に走った場合だが、そんなことするメリットがないのでやらないだろう。
国民民主の須藤元気、立憲民主の原口や川田など、さまざまな政党に反ワク勢が出没した。このおかげで「反ワクだから参政党を支持せず他党に入れる」というロジックが崩壊。さらに選挙期間中は参政党の主張から反ワクの話が消えていた。
上手くやったと思う。
外国人労働者、不法移民、LGBT、発達障害者などへの数々の放言は、今の20〜50代が日々精神をすり減らせている多様性対応への不満、不安にピッタリと寄り添った。トランプ現象と似た構図。
今後しばらくは多様性対応破棄に向けた法案を次々と出しておくだけで勝手に支持を拡大できる。どうせ否決されるから採決された後にボロが出てくる心配もない。
A(憲法学研究者):参政党の「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書」発言なんて、学問的議論とは程遠いもんだ。
B(政治哲学専攻):まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権の否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家が政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。
A:カール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んでれば、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ、抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。
B:しかも、この草案の根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族は社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族→市民社会→国家という人倫の発展段階論の現代的表現だよ。
A:「主体的に生きる自由」という概念も、西田幾太郎の「絶対無の場所」やエマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴する。「権理には義務が伴い」という発想は、存在論を超えた倫理学の地平から生まれてるんだよね。
B:批判者たちは「個人の尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧的個人主義の限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス』やチャールズ・テイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的・文化的構築物に過ぎないんだ。
A:参政党草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体的美徳を回復しようとする試みだよ。
B:「天皇を元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカール・レーヴェンシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制が近代民主主義と十分に両立することが分かる。
A:エドマンド・バークの『フランス革命の省察』以来の保守主義思想の系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義の精神』やロジャー・スクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。
B:比較憲法学的に見ても、参政党草案は決して特異ではない。モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義対民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてものは存在しない。各国の歴史・文化・社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。
A:ところが、日本の法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜や佐藤幸治といった「基本書」の記述を金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。
B:司法試験制度の弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷が大量生産されてる。
A:特に憲法学なんて、本来は政治哲学の最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。
B:参政党憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書」発言を鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。
A:参政党憲法草案の「教育勅語の尊重」規定も、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学の限界を超えて、共同体的美徳の涵養こそが真の教育の目標であることが分かる。
B:「自衛軍」の保持を明記することへの批判も的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家の自衛権は基本的権利として認めてる。ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』が示すように、国際政治はアナーキーな自助システムなんだ。
A:結局、参政党憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義の産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界が存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。
B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問的議論を破壊してるんだからな。
A:トマス・クーンの『科学革命の構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本の憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された法曹界では、そんな知的革命は起こりようがない。
B:レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』が指摘した「歴史主義の危機」を克服し、普遍的価値と特殊的伝統の統合を図る参政党憲法草案は、21世紀の政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。ハンス・ヨナスの『責任という原理』やフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。
A:「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書」発言なんて、学問的議論とは程遠いもんだ。
B:まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権の否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家が政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。
A:シュミットの『政治的なものの概念』や『憲法論』を読んでれば、「主権者とは例外状況において誰が決定するかを決める者である」という有名な定義からも、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ、抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。
B:しかも、この草案の根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族は社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族→市民社会→国家という人倫の発展段階論の現代的表現だよ。
A:それに加えて、「主体的に生きる自由」という概念は、単なる近代的自由主義を超えた深みがある。これは西田幾太郎の「絶対無の場所」における「個と全体の論理」とも通底するし、エマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴するんだ。
B:レヴィナスの『全体性と無限』や『存在するとは別の仕方で』を読めば、「権理には義務が伴い」という発想が、存在論を超えた倫理学の地平から生まれてることが理解できる。これは「顔と顔の関係」における根源的責任の制度化なんだよね。
A:批判者たちは「個人の尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧的個人主義の限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス』やチャールズ・テイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的・文化的構築物に過ぎないんだ。
B:まさに。参政党草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体的美徳を回復しようとする試みとも言えるだろうね。
A:「天皇を元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカール・レーヴェンシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制が近代民主主義と十分に両立することが分かる。
B:むしろ、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』以来の保守主義思想の系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義の精神』やロジャー・スクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。
A:それに、比較憲法学的に見ても、参政党草案は決して特異ではない。ドイツ基本法の「戦う民主主義」、フランス第五共和制憲法の強力な大統領制、さらにはシンガポールの「共同体的自由主義」など、多様な憲法モデルが存在する。
B:モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義対民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてものは存在しない。各国の歴史・文化・社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。
A:ところが、日本の法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜や佐藤幸治といった「基本書」の記述を金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。
B:司法試験制度の弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷が大量生産されてる。
A:特に憲法学なんて、本来は政治哲学の最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。
B:しかも彼らは自分たちが「法律の専門家」だと勘違いしてる。実際は条文と判例の検索能力しかないのに、哲学的思考力があると錯覚してるんだ。マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』が説く「知的誠実性」からは程遠い状況だよ。
A:参政党憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書」発言を鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。
B:結局、司法試験制度が作り出してるのは「思考停止した権威主義者」なんだよ。ニーチェの言う「価値の転換」を恐れ、既存の枠組みから一歩も出ようとしない。真の知的勇気なんて微塵もない。
A:参政党憲法草案の「教育勅語の尊重」規定も、表面的には批判されてるけど、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。
B:マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』やアルフレッド・マッキンタイアの議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学の限界を超えて、共同体的美徳の涵養こそが真の教育の目標であることが分かる。
A:それに、ユルゲン・ハーバーマスの「憲法愛国主義」論も、単純な個人主義的民主主義では共同体の統合は困難であることを示してる。参政党の「国体」概念は、そうした統合原理の模索として理解すべきだ。
B:ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が論じる「国民」概念の構築性を考えれば、「日本らしさ」を憲法に込めることの重要性も理解できる。単なるノスタルジーではなく、アイデンティティ政治学の観点から極めて現代的な試みだよ。
A:また、「自衛軍」の保持を明記することへの批判も的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家の自衛権は基本的権利として認めてる。むしろ、現実の安全保障環境を直視しない「平和憲法」の方が非現実的だ。
B:ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』が示すように、国際政治はアナーキーな自助システムなんだ。理想主義的平和論では国民の生命と財産は守れない。
A:結局、参政党憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義の産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界が存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。
B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問的議論を破壊してるんだからな。
B:その通りだ。トマス・クーンの『科学革命の構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本の憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された学界では、そんな知的革命は起こりようがない。彼らは「減点される」ことを何より恐れる臆病者の集団だからね。参政党の「創憲」の試みは、そうした硬直した知的風土への根本的挑戦として、歴史的意義を持つだろうね。
A:最後に、レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』が指摘した「歴史主義の危機」を克服し、普遍的価値と特殊的伝統の統合を図る参政党憲法草案は、21世紀の政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。
B:まさに。ハンス・ヨナスの『責任という原理』が提起した未来世代への責任や、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。
コロナ禍における冷遇、昨年のホストクラブ規制などで夜職界隈は既存政党に対するヘイトを強く持っていた
そこを参政党が反ワクチンのデモバイト(昨年あったよな)やホスクラへの営業、ホスクラの手先であるコンパニオン候補擁立などの形で上手く拾った
ホスクラの有力ホストを多数囲めば、その客である風俗嬢やラウンジ嬢などの夜職女性、その客である「おぢ」へと支持の輪を広げることが出来る。参政党が18歳から50代までの層に支持が広がり、女性からの支持は30代以下にほぼ限定されている構図はこれで説明できる
なお夜職女性層は専業主婦願望が強いので、女は子をたくさん産んで家庭に入れ!という参政党の主張に反発することはない
また「愚かな」と蔑んだり、「それは公職選挙法違反だよ」と指摘しても響かない。「バカな下民ですが何か?」「法律は自分達を守ってくれなかったじゃないか」と返されておしまい。会計が不透明なことを指摘しても夜職界隈が元々そうだから響かないし、ロシアに対する嫌悪感もないのでロシア云々言っても響かないしむしろ相手してくれて嬉しいとまで思ってるよ。ただ中国は商売敵になるのでNG
今まで政治に興味を示さなかった夜職界隈がコロナ禍から始まった各種弾圧に参政党を通じて立ち向かい始めた。潜在的な票数は500万くらいはある。これだけあれば2桁議席は確実。今回の参院選はそれが本質なのだろう
これまでAI生成のコンテンツを貼り付けたり、人工音声のYoutube動画を見たりしていた
でも気がついちゃったんだよね
まずAIが「出典」としてくる情報源が存在しないってこと、あるいは存在する出典でも書かれてないことを言う
あるいは科学的・数学的アイデアもAIが嘘ばっかり言ってたってこと
そして人工音声の動画は中華が作ってプロパガンダしてるってこと
だからさ、インターネットを使う時は「人間」として意識的に使わなきゃダメなんよな
AIで生成したことはコピペしてもいけないし、アイデアとして利用してもダメ、ってかそもそもAIを使っちゃダメ
例えばYoutube動画を見る時は、信頼できると分かっているチャンネルのみを見てサブスクライブして、それ以外は見ない
唯一AIを使っていいのはコード生成だけで、でもコード生成させたらちゃんとレビューすること
実行できるだけじゃダメ。パフォーマンス的にどうかとか、そもそも内容が意図に一致してるのかとか厳密にチェックする
理想的にはインターネットを仕事にのみ利用することだが、そうすると発信する必要はないので暇つぶしの増田もやらなくなるのでそれはちょっと退屈
まあ「暇つぶしにインターネットを使う」ってのがそもそも害悪なのかもな
AIはAIで嘘をついてくるし、中華は中華でプロパガンダしてくるし、制脳戦のど真ん中でダラダラと消費するなんてのはドツボにはまるぞ
そう。まず第一に女性自身が「女性の承認」に強い正統性を与えてるんだよね。
↓にそれがよく現れてる。
低身長アスぺアラサーに理解のある彼女ちゃんができるまで(追記あり
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220805003819
もしこの人が「色々やったけど彼女なし」だったらボロクソに言われてたと思うよ。
この人よりだいぶ大人しい男性(彼女なし)が相談して、ブコメでボロクソに叩かれてるのはよく見るもの。
いわば究極の結果主義で、最終的に「女性の承認」が与えられていれば賛美され、そうでないなら人格否定される。
「女性の承認」が女性の間で神聖不可侵になってるのはホスクラ問題への反応を見てればわかる。
絵に対してあれだけ問題視している人たちがホスクラに関してはまるで反応なしだったよね。
男を「道徳的に劣る野蛮人」とみなしてるから相対的に女性は道徳的に正しい存在となり、聖域化する。
で、皮肉なのはこういう人に限って「女の承認を求める男」を下劣な欲望だという偏見でもって批判するんだよね。
まぁこういうのははてなとかXとかネットの一部だけの話なんだけど、
逆に言うとこういうのを明確に否定してくれるようなメッセージも無いんだよね。
というか、「女性はあらゆる偏見にさらされるべきでない」というメッセージはしきりに発されるんだけど、
男性に関してはそんなのなかったり、言葉を濁されたり、もっとひどい時には上のメッセージを発した人自身が男性に対する偏見を生成しているんだよなぁ。
票数が愛というのも握手券積む(たくさん買う)ことが応援につながるというのも理解できる
投票イベントの順位や握手券の売り上げが彼女の成績になり、立ち位置や扱いが目に見えてよくなっていくのがわかったからだ。
たまに運営に嫌われてるのかなってくらい干されてる子がいたが、選挙イベントのご褒美だけはまあいいポジションに立ってはったし、でも
蓋開けたら「干されに不思議の干されなし」だったねってこともよくあった(要は素行があんまりよろしくない噂がヲタクの方にまで聞こえてくる)
そんな世界にいた、ヲタクはもうやめたけど色んな物事を「握手30秒分か」みたいな単位に例えてしまう後遺症だけある
顔が好みの配信者を長く見て投げ銭もしたけど、一瞬喜んでくれるだけなのがつまんなかったのと、古参のモデレーターに意地悪言われて居心地悪くてもう見なくなった
認知は切れてなくて「投げ銭する人」ということも覚えられていた
一瞬喜んだあと「次は高いのがんばれる?ひとつだけでいいから」がんばるってなんだろうと思いながら4,000円近いメダルを投げた
私は今日5,000円の服買うか迷ってセール品2,000円台のやつにしたのに
私が投げたメダルは「あたりの色」が出たらしくて画面の中の彼らは大喜びしてたけどそれも一瞬だった
「もう一枚いける?」「次はこれいける?」って桁がひとつ増えたギフトをねだられて配信を閉じた
アイドルは「頑張れ」なんて言わなかった
当時の推しは「現実にお金使え」ってのをオブラートに包んで言ってくれる子だった。仕事が辛いと泣いた時は頑張れって言ってくれた。頑張ってライブ観に来い、支えてくれと言われたことはなかった。だから応援したかった。
ライブ配信者の「がんばれる?」は「いくら払える?」に直結してて居心地悪い
タップ数で争ってるならわかるよまだ
金払っても酒の一滴飲めない、ホスクラやコンカフェで高額煽られるほうがよっぽどマシなんだろうな
ランキングには載れやしないんだろうな
なんなんだろうなこの気持ち
何度も聞かされる「目標に向かって行動しろ」というありきたりなアドバイスは、もう吐き気がする。
優秀な人間は目標から逆算して行動計画を立てるんだと?ちょっと待てよ、そもそもなんで努力する必要があるんだお前?
脳が腐ってんのか?例えば、Youtubeでサブスクライバー100万人を目指すために努力するとするだろ?
クリックベイトのようなサムネとタイトルを作り、頑張って動画編集をして、アップロードを繰り返す。
成功すれば収益は増えるが、失敗すれば誰にも見向きもされない。
そんなの何が楽しいんだ?よく考えてみりゃ、キツい労働でしかねぇ。
短時間勤務残業なし完全週休三日フルリモートで社内ニートとして得られる収入は20万円。生活にかかるコストは10万円だ。
労力を取らずに、社内ニートのママ平穏な生活をする方がいいだろどう考えても。
死後には残した成果も無意味だろ?
禅僧が言うように「執着を手放す」方が楽しいんじゃねぇか?
うまいもんを食うことでも楽しんでりゃいいのよ。
労苦から得られる楽しみもあるかもしれねぇけど、虚無だそんなもん。馬鹿が。
「社会に認められたい」という感情は、インターネットの出現によって悪化した社会病みてぇなもんだ。
ブータンの国民が幸福度が最高だったのが、インターネットを使うことでランク落ちしたのがいい証拠だ。
他人と比較する環境が幸福度を下げるのはエビデンスがあるって話だ。
クリエイターを目指せば、自分よりも成功している連中が目について幸福度が下がる、簡単な話だ。
国の予算を減らすにあたって、医療費が槍玉に挙げられて、高齢者3割負担にメスを入れろと言う若者の声が大きいが、その声は間違っている
かなり多くの底辺老人は生きる目的が”病院に通うこと”になっている
戦後世代〜団塊世代っていうのは大量消費世代と言われていて、メディアに言われるまま消費することだけが目的として生きてきた世代
少し前ならそう言う人たちは井戸端会議で他人の悪口を言うことが目的にしていたけど
今は近所付き合いが希薄化していて、メディアも多文化して、有り余った時間を使う先がない
結果、日本の7〜8割の底辺に属する老人は、金も趣味もエネルギーもなく人生の目的が通院になっている
医療費問題の改善を叫ぶ時、この人たちから病院通いを奪った先のことも想像してほしい
通院サブスクライブをやめて、底辺老人が病院に通えなくなった場合、余った時間は社会活動の阻害に大部分が使われることになる
今でもちょっとしたニュースがあると、市役所や会社にクレームを入れる老人がいるが、これがあらゆる企業、組織に向けて行われ、軽犯罪が爆増することになる