
はてなキーワード:シュシュとは
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
10代の頃って、「世界」というクソでかいものをよくわからないまま自己の中に組み込みがちだ。
結果的に当然処理しきれず、圧倒的な「世界」に降参することになる。
リリイシュシュのすべてを読んで、マジで最低な話だと思ったし、吐き気すら覚えた。
結局、ナルシスト的な被害者意識に閉じこもっていた自分から卒業しなきゃいけないってことだ。
世界と自己を同一視して「俺の世界=俺の苦しみ」みたいに抱え込むのは、構造的に破綻している。
まぁそれが美しいし、このリリイシュシュのすべてはその自己のなかに世界を抱え込むことによって生まれる気色悪すぎるけど美しすぎる世界を描いてるんだろうけど。
だから世界と自分を分離する。世界で何が起きても「へえ、そんなのもあるんだね。でも俺は俺だから」って言える距離感を持つ。
隕石が明日降ってきても「そっか、じゃあね世界」で済ませられるくらいに。
俺はエーテルというのは関数のようなものなのではないかと思った。
いじめられている子にとっての世界とは「自分をいじめるもの」でしかない。
けれども、自分と世界を分離することで、世界の中には「いじめるもの」もあれば「助けてくれるもの」「助けないもの」「何もしないもの」とてもたくさんのものがある。
たくさんありすぎて困るんで俺ら青春を情報科学とかいうドブに間違えておっことしちゃった人間には馴染みのある関数にして一般化してみる。
それは場合に応じて自己が持つ変数を引数にreturnを持つ動的な関数である。
自己: xの時、世界:f(x)でありいじめが起きた時、「司法に頼る」みたいな突拍子もない自己に世界を持っていたら思い付かないような閉ざされたアイデアを世界の引数に対して入力できる。
俺と世界は別であって、世界に対して俺は自由な入力を与えられる。
だからある時のxに対する世界:f(x)に執着する必要はない。
あるときf(x)が「いじめ」という最悪のyを返したとしても、それが世界のすべてじゃない。
別の入力x2を試せば、y2=f(x2)という全然違う出力を得られるかもしれない。
重要なのは「fそのもの」であって、個別のf(x)じゃない。俺たちは世界の像に絡め取られるけど、ほんとは関数自体の抽象的な存在が唯一の「世界」なんだ。
しかし関数という抽象化概念を人間とかいうクッソ低脳な猿が理解できる訳もないので、代わりにリリイシュシュがそれをエーテルとして表現した。
んで主人公の雄一や青猫は10代特有の自己と世界を同一視する世界観によってリリイシュシュの音楽を自己と同一視することで、そのエーテル=f(x)を自分自身と重ねる。
俺たちオタクは「自律・自立」に憧れつつも、そうはなれない人間的な弱さに対する「執着」だ。
自己と世界をごちゃ混ぜにして精神が参ってる10代の世界観は魅力的だ。
見苦しいオタク像は、脱毛をしないとか、オシャレじゃないとか、女の子に気配りができないとか、生理的に受け付けないとかそういうものを表現しがちだ。
けれども本当に俺らオタクが醜いのはそういった幼い世界観にいつまでも縋って、挙げ句の果てに世界を受け入れることができないことを知って、美しい世界だけを選び始めたことだ。
中途半端に世界から距離をとりつつも、自己の中に世界を組み込むことに固執している。
つまり可愛い女の子がイチャイチャしてる萌え〜なアニメを好んで選びその世界と自己を同一視して酔いしれるということだ。
てか、世界を選ぶ余裕があるってことは、その裏にある関数的な世界の構造を半分理解してるじゃないか。
そうだよ(便乗)ずっと俺らは知ってたのに知らないふりしてただなんだ。
反応ありがとうございます。
・当方ゲイ男性なのだが、ハッテン場に行くことで女性の気持ちがわかったりはしない。ゲイはゲイとセックスするし、ゲイに女性的な側面がないわけではないが、女性ではない。女性にはもちろんゲイにも失礼(嘘松?)。
・ハッテン場に来るゲイが雑なのをもって対女性について語るのは違わない?あくまで対男性、しかも見ず知らずOKな人限定でしょ?
→すみません!!これは完全に自分の書き方がめっちゃ悪かったです。
「ハッテン場」とは書いたけども、一般的なハッテン場カテゴリとは別に「女装専門ハッテン」というカテゴリが存在すると自分は認識していて、【女装目当てで来る男性はおそらくゲイではなさそう】という前提を持って読んでほしい。(実際に6~7人ほどに聞いてみたが、バイの人こそいるが大半はノンケで、ゲイの人は1人もいなかった)
少数サンプルからの推測で恐縮だけど、普段女性との接点が少ない(モテない・既婚等)が、手っ取り早く抜きたい…みたいな人がおそらく多いのだと感じている。
だから我々女装を求めて来ている男性は、ゲイを求めているのではなく「女性の代わり」を求めているので「この人たちが普段している女性に対する振る舞いと変わらないのでは?その相手になることで女性の気持ちを疑似体験できるのでは?」と考えた、という話だった。
あんまりゲイ界隈のことは詳しくないけど、こと女装ハッテン界隈においては実感としてだいたい合ってると思う。超重要な前提を雑に省いてしまったね、申し訳ない。
・女性の気持ちというより女装する人の気持ちはわかったんですね^_^
→上記補足の通り、女性の気持ちを疑似体験しようとしたもの。完全に理解できているなんて微塵も思ってないよ!
たとえば、畑仕事したことある?有機栽培やってる畑の草取りなんか一度やってみるとその大変さが分かるはずだけれども、その作業をやっただけで「農家の苦労を理解した」なんて言う人はいない。ただ一部だけでも体験することで、有機農家の人に対する見方がちょっと変わったよ、勉強になりました、農家さんありがとねと感じるようになった、みたいな話かと思ってもらえたら。
→3つあって、
①一般的にはオーラルの方がリスクは低い(もちろんリスクが存在するのも承知はしている)
②アナルやったことあるけどシンプルにウンコスメルがふわっと香って萎えたことが何度かあったので純粋に好きじゃねえのよ
③やっぱ一定数、生で挿れようとしてくるやついるんだよね。挿れたい挿れたいしつこい男がいたから、いっちょ経験してみるかーと思ってゴム持ってるか聞いてみたら持ってねえんだと。その後も持ってきてるやついなかったから、わざわざ自分がゴム準備するくらいなら挿入ナシにしとこ、って。
まず前戯をしない。女装する人なんか擬似的な女の子体験をしたいに決まってるのに、Mの女の子が喜ぶような攻め方(フェザータッチ、焦らしetc…)をしない” ハッテン場は攻め側が少ないとかかな?
→シンプルに「セックスがしたい」んじゃなくて「抜きたい」んだと思う。TENGAでシコるのに、わざわざTENGAをきれいに洗っておめかしさせて撫でてみたりなんかしない、みたいなことかなー。だから雑で下手なのかなーって思った。
「誠実かつ真面目なヤリチンになります」とか言ってるやつに「ありがとう」とか「教科書に載せよう」とか言えちゃうから女ってスゲえよな
→「女ってスゲえよな」は置いといて、まあそうよ。
どっちかというと男に向けて、「女の子のためにちゃんと前戯してあげてね!」じゃなくて「前戯ちゃんとやるだけで全然相手の反応変わるぞ?やっといて損はないからやれ」って思いながら書いた。申し訳ないけど全然教科書に載せなくていい。
アラサー男、セックス大好きでぼちぼち経験人数は多い方(風俗抜きで3桁)。
いつも女性をおもてなししているつもりだったが、ふと女性側の気持ちに立ってみたら男の振る舞いをどう感じるんだろう?と思い立った。
当然女性になれるわけではないので、女装してハッテン場に行ってみることにした。
肩幅も広くしっかり男体型の自分が女装できるものか?という懸念があったため、まずは女装してるのはどんな人たちなのか偵察してみることにした。女装ハッテン場の掲示板みたいなものを覗いて、家の近所にありそうな場所に行ってみる。公園が定番だが、女装ハッテン専用のプレイルームみたいな場所もあることを知った。
年齢層は20〜50代と幅広いが、ボリュームゾーンはおそらく40代。世間一般でいう「スタイルの良い」体型で自分に自信を持ってる人が多いのだろうか…と思っていたが、案外太っていたりラガーマンみたいな体型の人もいた。女装の度合いもさまざまで、バッチリメイク・洋服を着こなしている人からノーメイク・ウィッグと下着のみ、なんて人もいた。
案外幅広く受け入れられてそうだったので、自分も女装してみることにした。
やっぱり「女性らしい服装」は好まれるようで、大半の人がミニスカート。網タイツやフリフリの服も多かった。が、正直に言うとあまり似合っていない。
そこで自分は自分の体型をしっかりカバーできるファッションを心がけた。広めの肩幅とガッチリ体型を隠すためにシャツとニットとロングスカート・長めの髪でAラインを作り、顔付近が重たくならないよう明るめのウィッグを選び、セットの拙さは帽子とシュシュでカバーした。こういうファッションの女装の人はいなかったため、おしゃれな女装の人や女性からも結構褒められた。
見た目が一応完成したので、いざハッテン場へ。
病気が怖い・ウンコの臭いが苦手なので、アナルセックスだけは絶対にしないようにした。
もしかしたらこっちが女装だから雑にやってるのかもしれないけど、基本的にみんな下手。とにかく下手。こんな雑なセックス、俺は高校生で卒業したよ…ってくらいみんな下手。30人前後会った中で上手いと感じたのはたった1人だけ。
まず前戯をしない。女装する人なんか擬似的な女の子体験をしたいに決まってるのに、Mの女の子が喜ぶような攻め方(フェザータッチ、焦らしetc…)をしない。なんなら乳首すら触ってもらえない。適当に胸を20秒くらい揉みしだかれて尻触られてチンポ(ペニクリと呼ぶらしい)を触られるだけ。申し訳程度にこっちを攻めたら、あとはすぐチンポを出して触らせようとしたり咥えさせようとしてくる。ムードもクソもないよ…と思うことばかりだった。みんな抜きたいだけなのね。こんなのを普段相手してる女性のみなさん、本当に大変だな。心中お察しします。
下手というか「雑に扱われている」と感じさせてしまったらアウト、だということが分かった。雑なセックスをしないよう心がけたい。
痴漢プレイを募集している人が多かったので、自分も「痴漢してくれる人いませんか?」と何度か募集をかけてみた。やってみたらなかなか興奮できて楽しかったのだが、怖い思いもたくさんした。
たとえば、夜道で知らない男の人がちょっとだけ後ろを歩いているのは、普通に怖い。自分で「触ってもらっていいですよ」と書き込んでいるくせに、実際に後ろに立たれると相当怖い。そして多くの人は「こんばんは〜」と挨拶してから痴漢してくれるのだが、まったく会話せずにいきなり触ってくる人はめちゃくちゃ怖かった。浮浪者みたいな白髪のおじいさんが何も言わずに痴漢してきたときは叫んで逃げてしまった(ごめんねおじいさん)。ある程度覚悟ができている状態でこれなのだから、そうでない一般女性の気持ちは推して知るべし。夜道を歩いていて周囲に女性が見えたときは、可能な限り怖いと感じないような配慮をしたいと思った。
あと、当然だけど嫌だって言ってんのに触らせようとしたり挿れようとしてくるのもめちゃくちゃ怖い。これたぶん顔見知りだったとしてもめちゃくちゃ怖いと思う。自分の性欲だけを優先してはならない、と肝に銘じておきたい。
偵察段階に男性の姿で女装ハッテン場に行ってみたところ、女装をした40代後半くらいの方とお話をした。はじめは女装ハッテン場のイロハについて聞いたりしていたのだが、だんだん話が移ろい、最終的に「今からワタシとプレイルームでシようよ」という話に変わっていった。正直まったくタイプではなかったので断っていたのだが、「一度ヤってみたら絶対ハマるよ」「え〜シようよ〜」「絶対気持ちよくするから」としつこく食い下がってくるのがかなり鬱陶しかった。(結局逃げ切った)
これ、女性は日常的にやられてるわけだよな…めちゃくちゃ嫌な思いしてんだな…自分もサンクコストを惜しむがゆえに同じことやってたな、と猛省。すみませんでした。脈がなさそうなときはすぐ引くことにします。
とはいえ、フェラチオをして気持ちよくなってもらえるのは楽しかった。
自分はなかなか上手かったようで、何度か「女性より気持ちいい」みたいなことも言われた。口の中に出されるのも、最初はウエッとなったが、慣れてくると「おーおーいっぱい出たねえ」という気持ちになる。スキルを追求するのがなかなか楽しく、両手で乳首いじりながらノーハンドフェラなんて技まで身につけてしまった。いつ使うんだコレ。
あと、チンポは口に含んだら思ったより柔らかい。ビクビク動くのを観察するのも楽しい。陰毛が口に入るのは結構嫌だった。自分はVIO脱毛してて良かった…と思った瞬間だった。まあ、これは自分の性癖の問題かな。
性が絡んだときの男性とのコミュニケーションは、非常にストレスフルであること。
当然、世の男性すべてがヤな奴でないことも理解している。実際問題、自分自身も女性に寄り添えている側だと思っていた。が、普通に男性として生活している・ヤリチンやってる間になんの気なしに取っていた行動が、女性にとっては嫌悪・恐怖の対象であるかもしれない、ということに気付いた。これ普通に生きてるだけではまあ分からなかったと思う。
みんなも一度女装してみるといい。どんだけ女性が不便か分かるから。
今回学んだことは、これからのヤリチンライフにしっかり活かしていきたいと思う。誠実かつ真面目なヤリチンになります。
Permalink |記事への反応(11) | 05:27
悪妖怪 「そうれそうれ、あと一歩で手が届くぞ。よし、捕まえたー。やっと捉えた憎きエテ公、腹をかっさばいてなぶり殺しにしてやるわ…」
悪妖怪 「え?」
三蔵法師 「え?…うげああああぁぁぁっ」(腹を割かれて断末魔)
孫悟空 「お師さーんっ!! あー、またやっちまった…」
(その夜)
三蔵法師 「弱き者や路傍の生命を身代わりにするような戦い方は止めなさいと、何度も言いましたよね。言・い・ま・し・た・よ・ねっ! 言ってわからぬ者には、もうこれしかないではないですか。はい、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、きんこじ、きんこじ、こじ、こじ、こじぃ~」
孫悟空 「ぎょわぐぉゔぇゔぁあ!!」
Twitterってイジメを唾棄してる人が多いけど、シュシュ女とか東大生の筋くんとか、イジメを白昼堂々同じプラットフォームでしててビビるよね。やっぱりIQ100前後って相当メタ認知能力が弱いんだろうな。
あと、こういうこと言うと自業自得論を展開されるかもしれないけど、いじめってそう言うものだからな。ちょっと悪いところがあるやつを自業自得を大義名分に過剰に叩く。何も悪くないやつを虐めるカスなんてそうそういねぇよ。
だからこそ、(イジメを肯定するわけじゃないが)人間関係が構築される上でいじめは一定の確率で生じる。それを経験から察する事ができないのはもう仕方ないにしても、Twitter民のさも自分はイジメなんかしない絶対的な善人みたいな態度はムカつくんだよな。まぁメタ認知ができないやつに言っても仕方がないのだが。
その白シュシュ女性が「身長170cm未満は恋愛対象にならない」「キモヲタは臭いからせめて迷惑にならないように毎日身体をゴシゴシ洗え」と公言したら
「シュシュ女」とは、K-popイベントでスタッフとして振る舞っていた女性に対する蔑称です。彼女の振る舞い(例えば、来場者への対応が荒かった、横柄だったなど)がSNSで話題になり、次第に動画の拡散やミーム化を経て、個人への執拗なバッシング=ネットリンチへと発展しました。
「有害な男性性(toxic masculinity)」が一般的に知られていますが、これに対する「有害な女性性」とは、社会的・文化的に理想化された女性像(優しさ、献身、謙虚さ、感情の抑制など)に適合するよう女性が自他にプレッシャーをかけ、それを逸脱した女性を攻撃する構造を指します。
シュシュ女が受けた非難の大半は、彼女の「無愛想さ」「不親切さ」「感情的な態度」といった、“理想的な女性像”からの逸脱を咎めるものでした。これは、「女性は常に優しく、奉仕的であるべき」という規範に沿わない態度に対して、過剰な制裁が下されたケースと見ることができます。
→ 「有害な女性性」によって、女性が女性を攻撃している構図もここに見られます。
→男性のスタッフが同じ態度を取った場合、これほどの反応があったかは疑問です。
K-popは特に第3世代以降(例:BLACKPINK、ITZYなど)、「自立した女性像」「自信を持つ女性」「規範を打ち破る強い女性」といったテーマでグローバルに女性のエンパワーメントを訴えてきました。
しかし、それがファン文化や現場のジェンダー構造に本当に浸透しているかは別問題です。
K-popアイドルの「強い女」像はしばしば商品化されたフェミニズムにすぎない。
ファンとの関係では、依然として「アイドルは愛想が良くて可愛いべき」という期待が残存。
その文脈の中で、「スタッフの女性」にはむしろ裏方として控えめであることが期待される。
シュシュ女のような人物が「前に出る」「強く出る」ことは、エンパワーメントというより「出過ぎた真似」と受け取られがちで、そこに集団の攻撃性が誘発されている。
ネットリンチにはしばしばミソジニー(女性嫌悪)が潜在しており、それは女性から女性への攻撃にも表れます。
「K-popアイドルの“理想の女性像”」に熱狂する層が、それに反する女性(スタッフ、ファン、母親など)を攻撃することで優越性を再確認する。
また、「シュシュ女」がファンとアイドルの間に物理的にも心理的にも“入り込む”存在であることが、彼女を「敵」と認識させやすくします。
シュシュ女へのバッシングは、彼女個人の振る舞いに対する反応以上に、
K-popにおける“理想の女性像”とファンカルチャーの不協和、
K-pop業界が本当の意味でのエンパワーメントを進めるなら、「裏方」や「スタッフ」の女性たちの働き方や尊厳にも目を向ける必要がある。
自宅でウーバーにナンパされできれたたぬかなの過疎配信の「身長170cm未満は人権ない」発言や
婚活業者の「低身長男性は不利なので普通の人より努力が必要」発言
これらにキレて発言主を社会的に消すまで攻撃したネットで声のでかい無数の男性も、女から見たら一切共感できる要素がなく、シュシュ女をネットリンチするヲタ女と同類に映ってたよ
元々の話は
ケーポの接触型イベントで「剥がし」と呼ばれるイベント進行係の女が
明らかに接触時間が短すぎる上にかなり危険な剥がし行為を行っていた
というところがスタート
本来であればすべてのお客様に快適で楽しい時間をご提供することが私たちの責任であるにも関わらずこのような状況を招いたことを深く反省しております。今後は、弊社全体で勤務態度に関する教育と指導を徹底してまいります。
と認めて謝罪してる
その動画が拡散されシュシュつけてた女が特に目立っていたためターゲットにされて
死ぬほど叩かれて、自分でネットに上げていたあらゆる個人情報を拡散された
最近シュシュ女なる物が炎上していて住所晒されたり容姿に関して誹謗中傷されたり(好きよね...ルッキズムの奴隷やるの)、書くのすら胸糞悪い言葉言われてたり、まあとんでもない数の悪意を向けられている。
一方で韓国のアイドルに性加害をした女性はさほど叩かれていない。ゼロって訳では無いけど黙っている人の方が多い。なんか目配せしあって見て見ぬふりしてる?みたいな?(まさかだけど「私が先に性加害するはずだったのに!ズルい!」とかは思ってないよね...流石にね...)
この差って何なんだろう
性加害に疎いチー牛(というか自分)でもシュシュ女なんかより性犯罪者の方が悪者って分かるのに、なぜ両者が受ける悪意にこんなにも差があるのだろう。
両者ともボロカスに叩かれるとか、あるいはさほど叩かれないなら分かる。でも実際には大した事ない方が圧倒的に叩かれてて、ヤバい方は方って置かれてる状況みたい。
シュシュ女が話題になってるけど韓国側は日本人女の事を監視してなきゃアイドルの唇を奪う性欲モンスターだと思ってるからああいう強引な引き剝がしになるのは仕方ないと思うけどね。