
はてなキーワード:シェルターとは
発熱外来が屋外に設置されがちなのは、感染防止という観点からすれば極めて合理的だと思う。感染症が流行する中で、発熱者と一般患者を分けるのは医療機関として当然のリスクマネジメントだ。だが、合理性と納得感は別問題だ。冬の寒風の中で体調が悪い状態で外に立たされるのは、どう考えても非人道的だと思う。合理性の名の下に人間の身体的苦痛を軽視している点に、現行運用の限界を感じる。
発熱外来を屋外に設置するのは、医療従事者の安全や院内感染のリスク低減を目的とした「施設防衛的措置」だが、患者側の視点に立てば「寒さの中で待たされる二次的健康被害」もまた現実的リスクである。特に高齢者や基礎疾患を持つ患者が、診察前に冷え込んで体調を悪化させる可能性は十分にある。感染拡大防止を優先するあまり、個々の患者の健康や尊厳を犠牲にしている構図が透けて見える。
一方で、外来の待合室の問題も深刻だ。発熱患者を屋外に追い出しておきながら、室内の待合室には予防接種を受けに来た健康な人々が占拠しているという状況は、理屈としておかしい。予防接種を受けに来ている時点で彼らは健康体であり、体調不良者よりも環境に耐える余力がある。にもかかわらず、体調が悪くて立っていられない患者が席に座れず、健康な人が悠々と座ってスマホをいじっている構図は、どうにも納得がいかない。椅子が埋まるなら、元気な人間こそ立つべきだと思う。
問題の本質は、医療現場の動線設計と優先順位の設定が「感染対策の表層」で止まっており、「患者の体験」として設計されていない点にある。行政指針が感染制御一辺倒で、現場の快適性や患者目線の運用に踏み込んでいない。結果として、具合の悪い人が冷たい外気の中で耐え、健康な人が温かい室内で待つという、逆転した光景が生まれている。
現実的な改善策としては、屋外に設置する場合でも簡易暖房やビニールシェルターなどの「仮設空調構造」を義務化すること、また院内の動線を発熱・非発熱・予防接種で分離し、優先的に座るべき人を案内できる運用を整えることが挙げられる。医療機関の感染防止責任は重いが、同時に患者の苦痛を軽減する配慮もまた医療の一部である。
結局のところ、「合理的だから仕方ない」で済ませる限り、医療は人間的でなくなる。感染を防ぎながらも患者を冷たい外に立たせない工夫をすることこそ、本来の意味での公衆衛生だと思う。合理性の追求と人間性の回復、その両立が今の医療現場には求められている。
https://anond.hatelabo.jp/20251001090238
この話に似てるので聞きたいんだけど、親離れっていつしたらいい?
もう40手前で所帯もちなんだけど、親が離婚すらしないで揉めてて、母は専業主婦だったから離婚後のお金をどうするかとか、一人暮らししたら孤独で不安だとか、父が離婚に反対しそうだからそうしたらどうするかとか色々問題があって
はじめはきょうだいで色々調べたり、どうやったら力になれるか色々考えてたんだけど
関わるうちに父親が「俺らの話に口を出すな」ってわたしらきょうだいにも攻撃するようになってきたんだよね
きょうだいの家族やうちもその攻撃にすごく迷惑していて、母を助けたい気持ちもあるけど、自分の家族を困らせて巻き込んでまで親の離婚の手助けをした方がいいのかもうよくわからなくなってきて
配偶者に相談したら「もういい加減大人なんだから子離れすべきだし、あなたも親離れすべき。自分の人生なんだからお膳立てされず自分でどうしたいか覚悟して決めなきゃじゃないの?」って言われて、さらに悩んでる
自分としては母親大好きだしお世話になったしで力になってあげたいけど、子供もいるし色々犠牲にしないと力になれないからどうしたもんか。。
一応シェルターの存在を伝えたり、弁護士のこと調べたり、こういうのが証拠になるからねとかやれることはやったし伝えたんだけど。。
配偶者としては一旦両親共に距離置けば?毎日のように連絡取ってるから、それはまた巻き込まれるの当たり前だよと言われてる。
親が困ってても自分の家庭を優先して、大人なんだから自分のこと自分でちゃんと責任とってね、という態度でいるのは親離れ?なんか心が痛む。。。
Permalink |記事への反応(12) | 13:13
https://x.com/ueyamakzk/status/1972732081894731817
J.K.ローリング氏がエマ・ワトソンについて、絶縁宣言ととれる長文を投稿。「さすがは人気作家」と言いたくなる、落ち着いて説得力のある筆致…。
裕福さや名声というクッションなしに大人としての生活を経験したことのない人々と同じように、エマは本当の生活経験がほとんどなく、自分がどれほど無知であるかにも気づいていない。彼女がホームレスシェルターを必要とすることは決してないだろう。男女混合の公立病院病棟に入れられることもないだろう。子どもの頃以来、商店街の試着室に入ったことがあるとは到底思えない。彼女の「公共トイレ」は一人用で、ドアの外には警備員が立っている。市営プールの男女混合に変わった更衣室で服を脱がなければならない経験をしたことがあるだろうか? 女性専用サービスを保証しない国営のレイプ危機センターを利用する可能性があるだろうか? 女性刑務所に「自己認識」で入ってきた男性のレイプ犯と同じ房に入れられることがあるだろうか?
私は14歳で億万長者ではなかった。エマを有名にした本を書いている間、私は貧困の中で暮らしていた。だからこそ、エマが熱心に加担してきた女性の権利の破壊が、彼女のような特権を持たない女性や少女たちにとって何を意味するのか、私自身の人生経験から理解している。
まあ貧困の中で生活保護で執筆してたローリングと、ガキの時点で億万長者になったエマとじゃ見えてる世界が違い過ぎるよね
トランス問題は結局はフェミニストの中での階級問題ってことやね
Permalink |記事への反応(44) | 09:34
イリヤの空、UFOの夏という同名のライトノベルを原作としたアニメの第1話の事である。
避難訓練を本当の空襲と勘違いした伊里野に主人公がシェルターに連れ込まれ二人きりで出られなくなってしまうというシチュエーションだ。連れ込まれる過程においてもアニメ版では伊里野という人間の行動として不足があるのだがこれも今回はどうでもいい。
問題はシェルター内で本当に敵の飛行機やミサイルが来たわけではなかったということが分かった後に二人で携帯ゲームで遊ぼうというところである。
原作では遊び方をレクチャーするときに伊里野の両胸がぺったりと背中で感じられて伊里野が話しながらうなずいたり首を横に振ったりするのが感触でわかるような状態でゲームを進めていくうちに白熱して更にブラのワイヤーが背中に食い込むくらいの力で押し付けられ顔同士も密着する…という状態になる。
それがアニメではゲーム機を取り出すところからシーンが飛んでいきなりゲームオーバー直前だ。映像でも一応片胸が背中に当たってる様子は確認できるがもうそれだけだ。
これはどういうことか。
この主人公の今後について性欲が動機じゃないのかと読者を悩ませるためにも必要なシーンだったはずじゃないのか。
なんだったらそのあと制服をはだけさせてブラもずらして乳首を見せたりしているのに一体何を気にしているのか。
もそもこのアニメは原作とアニメで起こる出来事の順番がシャッフルされており第一話だけでも防空訓練の日程はヒロインである伊里野が転校してきた始業式翌日だったのがアニメでは当日すぐに実施されていたり水前寺が伊里野を勧誘に来るきっかけやタイミングが違っていたり、シェルター事件の直後に友人に囃されながら言う「ラーメンおごってくれ」が原作では違う場面で使われていたがCMでキャッチコピーとして使われていた「舐めてみる?電気の味がするよ?」に対応したのか「電気って味がするのかな?」に置き換えられそれが第一話のラストシーンになっていたりするのだがそんなことはどうでもいい。ノベルの文章とアニメの映像では魅せ方やどう見せたら面白いかというのは違うのであり原作を再現することが必ずしもいいアニメ化ではないからだ。
だが本件は改変ではなく、確かにあったはずのことだが描写がされていないのだ。
イリヤという謎の女の子と二人きりになり思わぬ体験をする、という部分でなぜこういうことをするのか。なぜ同じく飛ばされたみんなでボーリングをするエピソードのようにドラマCDで補完したりとかしてくれなかったのか。
これだけだと何の話かわからないかもしれないので公式チャンネルの第一話を置いておきます。
21:45くらいからが問題のシーンで乳首が見えるのは23:20くらいです。
正直に言うと、お父さんをまともに説得するのはもう無理ゲーに近いから、そこにエネルギーを使うより、お母さんとお姉さんを守ることに全振りした方がいいよ。
通帳とカードは死守で正解だよ。
もし暴力未遂っぽいことが出てきたら、DVとしてすぐ警察か行政に相談できるから、その準備だけはしとくと安心だよ。
親戚でも友人でもシェルターでも、市区町村の配偶者暴力相談支援センターとかに繋げば一時避難場所を手配してくれる場合があるよ。
DVは実際に殴られてなくても精神的DVとして扱われることあるから、思ってるより門前払いされない。
最悪の場合を想定して、母名義の家は法律的に守られてることを確認しておくのも大事。
Youtubeで「ジョンと穴 (John and theHole)」という映画の動画が流れてきたので見てみた。
裕福な家庭に生まれた13歳のジョンが父母と姉を実家の裏の薮にあるコンクリートの竪穴に監禁するという話である。竪穴は映画の中ではbunkerとだけ呼ばれ何なのかは説明されないのだが、コンクリートでできた深さ5メートルぐらいの切り立った構造物で、未完成のシェルターや貯蔵庫とかなのかもしれない。ジョンの家庭は郊外の森の中にある大豪邸に住んでおり、ジョンと家族の関係は表面上は問題がないが、食卓の会話にはやや不穏な雰囲気が漂う。ある日ジョンは睡眠薬で家族を眠らせ、彼らを穴に放り込む。数週間の間、最低限の食料と水を穴の上から家族に与える一方で、ジョンは車を運転したりジャンクフードを食ったりといった逸脱を繰り返して、、といったあらすじである。
理不尽なスリラーで、話の唐突さや説明不足も相まって映画の評価自体はネットで見る限りそれほど芳しくなかったりする。ただ私にとっては、自分の中にかつて存在し、今もおそらく心の奥で消えていないだろう、家族に対する鬱積した気持ちや衝動を思い起こさせる作品だった。
四人家族の中で弟というのは、何かと雑に扱われる。兄や姉は両親や祖父母にとって特別な存在であるが、弟はそうではない(と少なくとも本人は何かにつけてそう感じる)。子供の時の数歳の違いは精神的にとてつもなく大きく、兄や姉には理屈で圧倒的にやり込められるしかない。兄には腕力でも全くかなわない。父親や母親の存在はそれにも増して絶対的であり、つまりは、自分は他の家族に対して圧倒的に劣った存在であり、自分の要求はなにも通すことができず、自分の不満は何一つ聞き入れられず、常に惨めな思いをするのである。
振り返れば、私の家族は私に対して十分に愛情深く、いま自分自身が親になった視点で考えてもおかしな育てられ方ではないのだが、それでも尚、私自身がそう感じていたのは紛れもない事実である。家族の行楽の行き先には自分の意見は聞き入れられない、見ていたテレビ番組について思ったことを話すと軽く揶揄されるといった、ただそれだけのことが毎日続くことでダメージを受けていたのである。
映画の中で象徴的なイメージとして示された、切り立ったコンクリートの壁は、弟である自身とそれ以外の家族の間に存在する絶対的な力の差であるように私には感じられた。弟である私は、常に切り立った壁の下の側にいて、家族3人から見下ろされているのだ。見下ろしている彼らは、そこに高低の差があって私を見下ろしているということすら自覚してない。私を見下ろすことが彼らの日常だからだ。そして彼らは私を穴の中に置き去りにして、上の世界で勝手気ままに楽しんでいる。
映画のジョンのように、私にも機会と手段があれば、両親と兄を穴の中に落としたのかもしれない。彼らは穴の中に落ちて、初めてそこに穴があったこと、切り立ったコンクリートの壁の絶望、壁の上から自分を見下ろす視線に気づくだろう。彼らは私に何か言うだろうから、それを私は聞き入れてやってもいいし、時には無視もするかもしれない。私は下にいる彼らに対して彼らが必要とするものを与えてやるだろう。そして私は切り立った壁の上で、彼らがそれまでにやっていたように、自分が思い望む好きなことをただ楽しむのだ。
BLは「女性の性的消費が男性性に依存させられる」という話を定期的に見るのだけれど、そのたびに「すみません……でもなんか違うの……でもでも怒られても仕方がないよな」という微妙な気持ちになる。
多分、BL文化は「少女マンガの読者からこぼれ落ちてしまった女の子」たちのシェルター的に育っていた背景があるからなのだと思う。自分もその1人だ。
BLの源流とされるのは、1970年代「花の24年組」と呼ばれる作家たちの作品群だ。少女マンガなのに、主人公が少年である物語が多かった。
代表格の竹宮惠子先生によれば、当時の少女マンガには制約が多く、主人公が少女だと描けない物語が山ほどあったという。少女が主体的に動こうとすると「生意気」とされ、編集部から許可が下りない。だからこそ少年を主人公に据え、「女の子が言えないことを言ってくれる」物語にしたそうだ。萩尾望都先生も「少年を描くことで、女性が受けてきた社会的制約から解放される強い感覚があった」と語っている。要するに「少年=少女=私」。少年を着ぐるみ的に着せてもらった作品群と言えるのかもしれない。
そんな24年組の雰囲気を引き継いだのが、BL雑誌…というか、美少年作品を取り扱う雑誌「JUNE」で、編集長を務めた佐川俊彦氏は『「JUNE」の時代BLの夜明け前』で、こういう風に語っている。
女の子が美少年の姿になると「自由」になれる。女の子のままだと制約が大きすぎて何にもできない、冒険ができない。さまざまな現実のプレッシャーから逃げて身を守る、戦時中の、空襲の爆撃から守ってくれる「防空壕」みたいな役割を果たせるのが、「JUNE」なのではないか?僕はそう考えていました。
「24年組」の作家さんたちの多くは、本当に男の子になって冒険するみたいな、宇宙にも行くみたいな物語が描きたかった。少年マンガ的なノリで、自分も少年になって、「自由」にふるまいたかったわけです。
その「自由」の中に、もちろん「性的な自由」も入ってくる。女の子のままじゃダメで、美少年になったらできる。でも「中の人」は女の子なので、その対象の相手は男になる。
当時の多くの女性は「結婚して、仕事をやめて主婦になる」という道を歩んでいた。そうした「ジェンダーロール」や「社会的圧力」に居心地の悪さを抱えた少女たちにとって、BLは切実な願いを託せるファンタジーだったように思う。私自身も、一生働きたい、自立したいと願っていた少女だった。けれど現実では「女としてダメ」という言葉を向けられることも多く、その中で自己肯定感は削られていった。その度にBLの物語は脱出口のように機能した。
BLでよくある展開として「こんな俺なんて」となる受けに「そんな(外側からの評価なんて)関係ない、俺はお前と一緒にいたいんだ」と攻めが寄るシーンがある。これは「女としてクソだと言われ続けていた私」をどうにかして誰か認めてくれないかという願望をもった自分には不思議なことに強烈に響いた。違うけど根本は同じ、みたいな。こじれた少女マンガ……と言ってもいいかもしれない。
余談になるが「JUNE」を出版するサン出版では、ゲイ雑誌「さぶ」も出ていた。「JUNE」はゲイカルチャーではなく、「少女のための雑誌」と明確に分類がされていたそうだ。
もちろんBLは常に歓迎されてきたわけではない。90年代にはミニコミ誌を中心に、ゲイ当事者から「女たちは勝手にゲイを弄んでいる」という批判が噴出した。これが「やおい論争」だ。
論争の発端となったゲイ当事者でもある佐藤雅樹氏はミニコミ誌 『CHOISIR』20号 (1992年5 月) でこう綴っている。
俺たちゲイのセックス描いて、男同士がセックスしてる漫画読んで、喜んでいるというじゃないか。そんな気持ちの悪い奴らを好きになる理由も必要もない。第一、不快だ!
(中略)ゲイのセックスは、男からは嫌悪、女からは好奇の視線でしか見られない。オレたちのセックス覗いて喜んでいる女、鏡見てみろよ、覗き見してる自分たちの表情を!
この論争は読者にも衝撃を与え、BLのあり方を見つめ直すきっかけとなった……が、昨今はBL市場があまりに大きくなり、この歴史を知らない人も多い。
私は、BLは単なる「女から男への性的消費」では括れないと思う。そこには当事者批判の歴史も、多様な表現への発展もある。そして「少年の着ぐるみ」を着て得る自由は、百合やバ美肉にも通じる部分がある。
根っこにあるのは、性的指向以前の、もっと切実な願い――現実で奪われた行動の自由や存在の肯定を、別の姿を通して手に入れたいという欲求だ。
私は「BLは無罪だ!」と大声で言う気にはなれない。「少年の着ぐるみ」を着させてもらっている身としては、「いいとこ取りしようとしている」罪悪感があるからだ。行き過ぎた表現への懸念もあるだろう。それでも、この場所で救われた自分がいる。一部の大きな声で、すべてが否定されるのはなんだか悲しい。この文化が衰退しませんように。
Permalink |記事への反応(16) | 13:04
第七地区もカメラを止めるなもそっち系だと気付いたとたんに飛び出た
ほんとにそういうの見ると1分で目が痛くなって吐き気がしてきてしばらく治らない
この話をしてるだけでも目に鈍痛が出てるし軽い吐き気が出てる
で俺はもう3Dがぐりぐりするゲームなんかはなから諦めてる(カメラ側が動くやつがダメ)が
グノーシアもよかった
シヴィライゼーションはダメだった
「え?シヴィライゼーションは画面動かないじゃん」て思ったでしょ?
世界が広がってくるとカメラが各地や各プレイヤーの活動見せるためにぱっぱぱっぱ動くじゃん?
あれが目にダメージを与えてくるんよ
60セコンドすらシェルター入る前の家のパートが動く3Dだからだめ
そんなこと全く思わない人が大半だろうし
https://anond.hatelabo.jp/20250720214149
電車の痴漢は男女が体を密着させている空間を利用して行われる犯罪だ。男女を切り離すことには防犯効果がある。
1~2両だけ痴漢の活動しやすいラッシュ時のみ、性犯罪から逃れるために設けられるシェルターに異性が入れないのがなぜ差別なんだか。
性犯罪防止のために女風呂やトイレに男が入れないのは差別じゃないだろ。
「風呂トイレに男用が無ければ差別だろう」という反論が来そうだが、必要なら男性専用車両も作れば良いだけだ。
必要ないから男用が無い(あるいは女用が無い)物なんていくらでもある。
痴漢に悩まずに生きていられる快適さには気づきもせずに痴漢シェルターである車両を「女だけズルい。差別だ」じゃないんだわ。
ついでに触れておくが、女性が夜道などで性犯罪から身を守るために男性を警戒するのも問題ないよ。
全人類から自分をレイプする心配のない相手を警戒対象から外してるだけだ。女性を警戒する必要が無いからね。
痴漢や性犯罪者は女性に警戒してほしくないし女性専用車両を廃止させたいと思っている。詭弁を真に受けて性犯罪者の片棒担いだりしないように。
「黒人に置き換えたら差別なのだから、男女でも差別である」て意見をよく見るけど、これは間違ってるからな。
人種だと差別だが男女では差別にはならない例なんて普通にある。
・強姦事件の犯人を黒人だと決めつけるのは差別だが、男性と決めつけるのは差別ではない。
「女だけ特別扱いかよ」みたいに思う奴がいそうだが、そうではない。
性犯罪ではなく通常の犯罪なら「黒人に置き換えたら~」は成り立つよ。
男性の犯罪率は女性と比べて非常に高く、日本の犯罪者の8割が男性だが、それを理由に殺人や窃盗の犯人を男性と決めつけたり警戒すべきと発言したら差別だよ。
女性専用車両は専用車じゃなくて普通に男も乗れるのでシェルターではありません。
交通会社の公式見解が大事なら、専用車は専用車じゃない事実から始めないといけないのに
都合のいい意見だけチェリーピッキングして罵倒するしか能がないんですね。
2017
NYリムジンリベラル「排外主義だ。彼らに住む場所と仕事を。難民歓迎。仕事を見つけにこないか?」
2001
南部州「これ以上無理、予算もリソースも無い。増えすぎて徒党組んで治安にも影響でる」
NYリムジンリベラル「排外主義だ。彼らに住む場所と仕事を。難民歓迎。仕事を見つけにこないか?」
2022
NYリムジンリベラル「彼らに住む場所と仕事を。難民歓迎。仕事を見つけにこないか?」
不法移民「こんなチンケな田舎じゃ無くて、大都会のにゅーよーくに行けば住むところも仕事もあるらしい」
難民を受け入れるべしと言う都市部のリベラルと都市部に行きたい難民と、他の所に行って欲しい地方全員の心が一つになった瞬間
2023 2024
ホームレスの自国民は路上生活なのに、移民はシェルターや仕事の斡旋など手厚い保護政策、募る不公平感、不満
都市部リベラル「やっぱ民主党大統領、アメリカ国民のことを第一に考えてくれてる」
2025
知らないおっさんとか、トレンチコート着た怪しいやつとか、そういうの。
でも違った。
うちの妻だった。
毎年の誕生日に一緒にケーキ食って、ランドセル選んで、ゲーム買ってやってきた、あの息子。
そいつを、妻がある日突然、連れて消えたんだ。
家に帰ったらさ。
玄関がやけに静かでさ。
いつもならリビングからテレビの音とか、妻が皿洗ってる音とか聞こえるのに、まったくの無音。
まあ最初は「買い物かな?」とか思ったよ。
でも財布もスマホも置いたまま。
あの人、こんな書き方するタイプだったっけ……?
いやいやいや。
まずい。これは何かあった。
と思ってたら、電話が鳴った。
息子から。
うちの大学生の息子。真面目でおとなしくて、最近はちょっと冷たいけど、反抗期もまぁこんなもんかって思ってた。
でも、電話に出たら、開口一番こう言ったんだ。
いや、え、え????
混乱しながらも、「ちょっと待て、それはないだろ」って言い返した。
皿の洗い方がどうこうとか、リモコンどこ置いたとか、どうでもいいやつ。
でも、息子は冷静というか、むしろ他人事みたいにこう返してきた。
「父さんが母さんに暴力を振るっていたのが悪いんだろ」
……いやいやいやいや。
なんだその冷静な語り口。
「その言い訳は苦しいでしょ」
は?????
え????
でも、こっちはあまりにも急展開すぎて、頭が追いつかない。
息子は「とにかくもう母さんは俺が守るから」って言って、勝手に電話切った。
いやいやいや。守るって、何から?
もう何も信じられないし、何を信じればいいのかもわからない。
とりあえず警察に連絡しようかと思ってたら、今度は知らない番号から電話がきた。
出たら、小さな声でこう言うんだ。
「あなた、助けて!」
妻の声だった。
明らかに怯えてた。
「大丈夫か!?どこにいるんだ!?」って聞いたけど、何も答えない。
代わりに、「カタン」って物音と、ドアが閉まる音がして、ぷつっと通話が切れた。
俺、今なにこれ?どこにいるの?
この世?????
息子がDVシェルターって言ってたけど、それガチで誘拐だろ??
しかも妻、どう考えても逃げたくて仕方ないテンションだったぞ?
でもさ、警察に行って「息子が母を連れてDVシェルターに逃げました」って言っても、「それは保護です」って言われそうじゃん。
もう俺が悪い前提なんだよ、この構図。
なんかもう、正直こっちが叫びたい。
「あなた、助けて!」って。
俺が助けてほしいよ。
なんなんだこの家庭。