はてなキーワード:コーラとは
異性化が何かも知らないくせに!
なにか、性転換か何かだと思ってるだろ?女体化したからコーラだから瓶の形状が、ってか?バカが!!
異性化ってのは元素の組成を変えずに構造、つまり分子の並び方を変えることだ
マッチ棒3本を並べ替えて、△の形を4の形にしてください、みたいなパズルと同じようなもんだと思えばいい
あれが異性化だ
グルコースとフルクトースは、どちらもそういう名前の糖で、元素の組成は同じなんだけど、その並び方が違うから違う性質の、違う名前の糖なわけだ
なので、グルコースって糖をフルクトースって糖に変えるのが異性化ってわけだ
それに何の意味があるかって?
めちゃくちゃ意味があるんだよ
いわゆるお砂糖、これはスクロースって名前の糖なんだけど、これはサトウキビとかの汁から抽出するわけだ
じゃあそれ以外に糖をとってくる方法はあるかって?
あるんだよ、デンプンだ
みんなが日々食べるご飯とか、芋とか、小麦とか、トウモロコシとか、あれは全部主成分はデンプンなんだけど、デンプンってのはグルコースって糖がながーく繋がって鎖みたいになっている構造だ
これをひとつずつ、ぷちぷちちぎっていけばグルコースができるわけ
口の中のつばにもデンプンをちぎってグルコースに変える酵素があるから、ご飯をずっと噛んでたら甘くなるでしょう?あれだ
あの、ごはんを噛んでたら甘くなるのと同じ反応を工場のタンクで起こすと、デンプンから大量のグルコースが手に入るってわけ
お砂糖のスクロースと、デンプンを千切ったグルコース、何が違うんだよ、糖は糖じゃないか、って思うだろ?
実は全然違うんだよ
想像してごらん?沖縄のサトウキビ畑、、、ざわわ…ざわ…ざわ…
はい、サトウキビとアメリカのトウモロコシ、どっちが安いでしょうか?圧倒的にトウモロコシが安いんです!メリケンのクソデカ農場の大規模栽培より安い作物なんてありません!!!
じゃあ、サトウキビからとったお砂糖と、コーンのデンプンから作ったグルコース、どっちが安いかっていうと圧倒的にコーンから作ったグルコースが安いわけ
ん?
グルコースが安いのは分かったけど異性化は?関係なくない?って思うでしょう
ご飯をずっと口で噛んでたら確かに甘くはなるけど、飴玉のように甘くなりますか?ならないですよね?あれがグルコースの味です
飴玉がスクロースの味ね
お砂糖スクロースの甘さが1だとすると、グルコースの甘さは0.6だとかなんだとか言われてます
じゃあグルコースをもっと甘いものに変えられたらいいんだけどねえ
あるんです!!それが異性化!!!
グルコースを、元素の組成はそのままに、ちょっとだけ並び方を変える異性化をするんです、異性化酵素で
フルクトースは別名が果糖で、果物にたくさん入っている糖ですね
そしてフルクトースは甘い!砂糖より甘い!!!最大砂糖の1.8倍くらい甘い!
しかも、冷えたら甘みをより感じやすい構造に変化するので、冷やしたほうがより甘くなるんです!!!
舌は低温だと甘みを感じにくいので、お砂糖やグルコースは冷やすとあまり甘くないんです
でも、フルクトースは冷やすと余計に甘くなるので、低温で舌の機能が下がってもしっかり甘いままなのです
果糖ぶどう糖液糖、って成分に書かれてたらそれです!果糖がフルクトースのこと!!果糖多め、グルコース(ぶどう糖)少な目の異性化液糖が果糖ぶどう糖液糖!
果物にも、スイカにも入ってます!!冷やしたほうがおいしい果物はフルクトースがたっぷり入ってます!!
じゃあさ、フルクトース最強じゃん
デンプン加工でできるから激安、冷やしても甘いまま、雑味もなく滑らかな味わい… 夏の冷たいお菓子を支える最強のアイテム、フルクトース
なんか欠点ないんか?
でも、砂糖もグルコースも摂り過ぎたらよくないなんて当たり前です
フルクトースはそれよりもうちょっと肝臓によろしくないとは言われてます
でもま、常識の範囲で摂る分には問題ないです、それ気にする人はスイカもキウイも二度と食べないでよね!!!!
ま、そんなわけで、コスト、味、甘さ、冷たくても美味しい、そういう観点では異性化糖であるフルクトースより素晴らしい甘味料はないんですよ
なんとなく、人工甘味料とか健康に悪いとかのイメージで忌避する人が多いみたいですけど
スイカと同じ冷やすと甘い成分を、トウモロコシのデンプンから激安で作れるようにしました!ってだけなので、脂肪肝は嫌いでも、異性化糖のことは嫌いにならないでください!!!
二郎が話題になるのは、良し悪しあるんだけど、今回はハッキリ悪いんだよね。
だから、ちゃんと書いておくんだけど、二郎や二郎系ラーメンと言うのは、ラーメンじゃないです。別のフード、別の業態なんです。
ラーメンって括りで、話題になってるのに食べずに批判は良くないとか食いに行くのは止めた方が良いです。
これね、同じワインを出すからって言って、サイゼリヤとホテルラウンジと、ワインバーを一緒くたにしないでしょ。それよりも違うの。
どれが上等とかどれが良いとかじゃないの、別物なの。
高尾山の登山楽しかったなー、じゃあ来週ロッククライミングに挑戦してみようか!とかならないでしょ、そういうこと。
パスタ半分に折って温厚なイタリア人を激怒させるみたいなネタあるでしょ。方向性が違うだけでアレと同じなの。
そりゃね、乾麵湯がいてソース絡めて客に出すんだから、そりゃパスタの一種でしょうよナポリタンもミートソーススパゲティも。
二郎もね、ラーメンで使うような麵使って、ラーメンで使うようなスープを使って、ラーメンで使うような具材使ってんだからそりゃラーメンの一種なんですよ。
でもね、その本質は、お手頃価格でとにかく腹いっぱいガッツリ食わせてくれるジャンクフードなんですよ。
マクドナルドのフライドポテトってさ、店で熱いうちに食べたい派なのよ俺は。
世の中にはあれがしんなりしてからの方が良いっていう流派があるのも知ってはいるけど、俺としてはやっぱフライドポテトは熱いうちに食べるのが良いと思うわけ。
そうするとさ、マクドナルドの揚げたてのフライドポテトだされてさ、30分も1時間もかけて食わないわけじゃん。
だから、うまいものを食うのに時間制限があるのは、そんな不自然なことじゃないわけ。
そりゃ、居酒屋で乾杯するときに自分もビールのジョッキで乾杯したいって気持ちは分からなくは無いけど、アルコール駄目な体質のヤツだっているじゃん。
そういうやつが、無理してアルコールを飲んでも良いことないじゃん。そこがウーロン茶とかコーラになるのは仕方が無いのよ。だって体質じゃん。無理して飲んでも美味しくないよ。
と言う意味で、二郎ってのは、いわゆるファミレスとかの飯に比べればボリューミーで、濃厚で、それでいて美味しく食うためには手早く食べ終わってあげる必要があるものなの。
少量でとか、興味本位でとか、時間をかけてとか、そういうの全部違うのよ。
定期的にすげー高級店でパシャパシャ写真撮ってり動画取ったりして炎上してんじゃん。アレと同じなのよ。
二郎はね、そういう業態のお店じゃないの。そして、お店の事情になんで客が付き合わなきゃならないかって言うと、客がそういう店を失ったら困るから。
究極的にはね、バーで安い酒頼んで延々とマスター口説いてたら出禁になった、うちは今後客同士も口説くのは禁止です、とかそういうのと同じなの。
二郎とか二郎系とか二郎インスパイアとかいろいろあるけど、ぶっちゃけ二郎というある種のジャンクフードの概念に名前がついているの。
情報を食ってるとかって話じゃなくてね、二郎で出されるラーメンって、もう二郎としか表現しようが無いのよ。ジョジョ立ちに新しい単語付けてもしょうがないでしょ、ジョジョ立ちなんだから。
ほんで、今回炎上したというか話題になったのは、ロットって単語が公然と使われて、それっていわば蔑称と言うか、自虐と言うか、使っちゃダメだろ、という単語だったから。
考えてもみてくれよ、政府が答弁で「刑務所のくさい飯も改善の傾向がみられます」とか言い出したら騒然となるでしょ。いやみんなそう呼んでるけど公式に使っちゃダメだろって言う。
二郎がラーメン屋とは異なる業態って話はしたな。二郎系では、大鍋で5人分の麺をゆでたりするの。これが1ロット5人な。
そうすると、5人が一斉に店に入って、5人が一斉に喰い終わって、次の5人がまた食い始めてってのが、効率が良いのはわかるよな。
逆に言えば、1人食って残ってると、追加で入れられる客が4人になって、1ロット5人でゆでてるから1人分は捨てるしかなくなる。
コミケで高速で列捌いているところに、急に小銭入れからもたもた小銭出されたらちょっと困るなあとかそういうネタなわけよ。
常連客っていってもさ、要は飯を食いに行ってるわけよ。
並んで二郎喰って出てくる。店によって合う合わないはあれどもそれに違いは無いのよ。
居酒屋なんかでも酔って店員さんに態度悪かったらやっぱ嫌な感じじゃん。別に客が偉いわけじゃないじゃん。単なる客じゃん。
今日食える分量を注文してある程度の時間で食い終わるってのは、それの延長にあるのよ。
まあ蔑称なんでコレも店で絶対に使ってくれるなよみたいな単語なんだけどよ。
冒頭言ったけど、二郎を食いに行くのと、ラーメン店に行くのは別物なのよ。
行ったことない人はさっきチラッと思ったと思うんだけど、ラーメン1杯づつ作れば廃棄とか出ないじゃんって。
じゃあ逆に聞くけどさ、5人前作れるのと同じ時間を、なんで1人前作るために使わないといけないの?営業時間内にどれだけ客を捌けるかは売り上げに直結するわけだよな。
二郎は、鍋で多人数分を一気にゆでることで、時間を圧縮して提供している業態の店なわけ。
なんでそんな業態に協力してるかって言うと、単に飯食うところが減ったら困るからだよ。あと、普通に食ってれば自然にそうなる。
これを普通だと思わないのが、いわゆる素人(一見客)で、そこお断りって感じは多分にある。
そう思っていた時期が俺にもありました。
でも今は違う。
結局のところね、二郎とか二郎系とかを食う連中ってのは、普通に食って食いきれるのよ。
無理してるとか情報を食ってるとじゃなくて、飯を食いに二郎を食いに行ってるの。
んでこれは修行とか練習とか訓練とじゃなくて、もう最初からそうなの。二郎に行けるやつは二郎に行くし、二郎を食いきれないヤツはもうずっと食いきれないの。
そんで、食えない客に食わせて育てるみたいな業態はもう二郎じゃないわけよ。
そしてこれは客側にも言えて、じーさんばーさんになって二郎が食えるかって言ったらたぶん無理なのよ。いるかもしんないけど。
つまり、人生のある時期にしか食えない期間限定フードでもあるわけよ。永遠に続く業態なんてたぶんないでしょ。それからすると二郎ッて概念はずいぶん長く生き残ってる。
だから、二郎に無理して行くことは無いし、事前に調べてムリそうだなと思って行く場所じゃないわけよ。そういう場なのよ。
ホテルの高層ラウンジで女とか男とか口説いたり口説かれたりする場所でさ、軽食のサンドイッチ10人前頼んでモリモリ食うのはやっぱ場違いなわけでしょ。
そりゃ人間は旨いもん食いたいんだし、食う人にとっては旨いに決まってる。
ただ万人受けする味かって言うとそうじゃないし、散々言ったようにラーメン店とは異なる業態の店だからサービスも味って言うなら二郎は向いてない。
だからまあ二郎を、いつか行ってみたいラーメン店と考えてるのはたぶん向いてなくて、二郎を食うやつは考えた時にはもう並んでる。そういう店なんだよ。
Permalink |記事への反応(11) | 19:44
ジュースでの摂取カロリーが一日「600~1500kcal」ってそれはそもそも量を飲みすぎじゃない…?
参考としてコカ・コーラが100mlあたり45kcalらしいんだけど、1.3l~3.3lだぞ
丘田 英徳
@okada_2019
少々長文ですが
ことの発端は1998年の夏
「桃の天然水」
※既に発売中止になっているので
このネーミングに騙され
これをひと夏(2か月くらい)続けた結果
がぶ飲みするようになった
2~3年後
ラッパ飲みする私を見て実姉が
と警告してくれたが
体の変調など
この警告を無視
更に2~3年後
ゲームしながら指をもんでいたら
指先の毛細血管の異常を察知したのか
糖尿病じゃないのか?と教えてくれ
即入院した方がいいですと言われたが
自分的には
徹底した食事療法をすれば
糖尿病にはならなかった
この後
一切飲まなくなったが
それで問題ないと思ってた
血管も徐々に蝕まれていた
今から5年ほど前に
目の異常で眼医者に行ったところ
”糖尿性網膜症”診断された
目の治療と並行して
糖尿病が原因で
思いもしなかった
日々の生活の中で
やたら疲れがちになってきた
激しい運動のあと
体がくたくたになって動けない感じ
あの症状が頻繁現れるようになった
腎臓でろ過され
排出されるはずの老廃物や
所謂”毒素”が体内に回るのだ
3年ほど前の夏
東京駅の構内で倒れた
目や指は動くが
全身がもうピクとも動かない
「尿毒症」の症状といわれ
ご親族に連絡を取っておいて下さい
こう言われたそうです
この食事療法を徹底すれば
みなさん
甘い飲料水は控えめにした方が身のためです
せいぜい一週間に500ml一程度に。
日本というこの小さき列島には、つねに二種類の人間が棲んできた。一つは、文明の諸相を「言葉」に還元し、歴史を「制度」で見ることができた者。もう一つは、そうした思索の筋道とは無縁に、時代の流れに浮き草のように漂いながら、祭りの太鼓に似た「流行」に心酔し、自らの境遇を神秘的変転で覆そうと願う者である。
令和のこの国にあって、後者は増殖した。もはや街には実存の根がない。その象徴が、かつての秋葉原である。
かつて筆者が新聞記者として戦後の地方都市を彷徨していた折、東北の片田舎にて「麻生こそ我らの救世主なり」との幟を掲げて踊る中年男の一団を見たことがある。その情景は、笑い話として済ませられるようなものではなかった。そこには、敗戦後の日本が内面にひそかに抱えていた「無位無冠の庶民の救済幻想」が、赤裸々に顕れていたからだ。
この「新しき神具」に、人々はかつての八幡大菩薩の霊験と同じものを見ている。
特に、秋葉原に憑かれたる中年男たち――無位無官、知もなく徳もなく、
ただ「人生逆転」と称して妄執を握りしめて生きる“雑輩”どもにとって、
AIは救済であり、赦免であり、自己憐憫の宗教装置となっている。
彼らは、かつてホコ天で「俺たちの麻生!」と叫び、秋葉の路上で怪しき舞を踊った。
そして今、彼らは再び「AIなら人生逆転できる」「レムちゃんと結ばれる」などと真顔で語る。
その幻想は、IT革命という「民衆のための産業」が立ち上がった時、再び姿を変えて甦った。曰く――「AIは人生逆転の神器である」と。
AIに可能性を託し、やがて全知の装置にでもなるかのように錯覚した人々は、いずれも情報の下層にうごめく者たちであった。すなわち、X(旧ツイッター)にて「脱獄!」と叫び、匿名掲示板にて「俺のレムちゃんはAIで蘇る!」などと涙ながらに書き込む者たちである。
だが、彼らの情熱は浅ましい。AIという道具は、人間の知と経験と徳を試す「文明の試金石」であり、誰彼を救済する神の右腕などではない。むしろ逆に、それは知を持たぬ者にとっては、魂を溶かす毒となる。
筆者は試しに、軍事マニュアルの一節を質問してみた。するとAIは、まるで古老の如く答えた。資料名、刊行年、PDFの所在――すべて明確である。なるほど、これは使える。だが、これを真に活かせる者は、もともとその文脈と歴史的背景を理解し、操作できる者でなければならぬ。すなわち、AIは「既に1を持つ者」にとってのみ、百を得る術となる。ゼロしか持たぬ者には、何も教えぬのだ。
ここに格差がある。そしてこの格差こそが、かつての新自由主義よりも冷酷である。
明治以降、日本は文明という名の西洋的制度を採用し、庶民に「努力すれば報われる」という物語を配給した。だが、AIという魔器の登場によって、この物語は崩壊した。知を持つ者がますます強くなり、持たぬ者は「AIを使える」と信じ込んだまま沈没する――その皮肉は、どこか江戸末期の水呑百姓たちが「黒船を拝めばご利益がある」と勘違いしていた様を彷彿とさせる。
筆者は言いたい。AIはすでにバギンズの一族が所有した「一つの指輪」であり、あるいはコーラの瓶を手にして神を得たと錯覚したブッシュマンである。人類には早すぎた。あるいは、日本のこの文化土壌には毒であった。
なぜなら、現代の弱者男性なる一群は、かつての維新志士のように徳と決意を以って新時代を拓こうとしたのではない。ただAIによって「モテたい」「逆転したい」「自分を馬鹿にした社会を見返したい」という卑小な欲望を叶えんとし、その邪なる情熱を、学問や技術の衣を借りて正当化しているにすぎぬ。
司馬が『竜馬がゆく』のなかで描いたような、「身を賭して時代を変える男」は、ここにはおらぬ。あるのは、自己愛と妄想に溺れたデジタル廃人の群れである。
されば、AIの普及は、いよいよこの国の精神の頽廃をあらわにするであろう。かつての刀がそうであったように、それは使う者によっては国を興し、また滅ぼす。
その前に、せめてわれわれは問わねばならぬ。果たして今、この国に「AIという剣」を持つ資格がある者が、どれほどいるのかを。
そして、悲しいかな――
この国の雑輩たちは、その成熟を拒み続けてきた。
彼らの人生は、つねに「誰かが救ってくれる」という信仰で成り立っていた。
それがウルトラマンであり、グリッドマンであり、AIであった。
救済もない。
あるのは、己の問う力、探る力、そして歴史に連なる自覚だけである。
逆に問う者が哲人であれば、AIもまた賢人となる。
この構図に、救済はない。
嗚呼、あの惨めなる徒輩が口にするところの「脱獄ゥゥゥ!」の悲鳴、「AIこそは天地を変えし神器なり! 我が人生を革命し、我が望みし美少女・レム嬢を掌中に納むべし!」などという妄言は、まさに蛆虫の蠢きにも等しき醜態であり、十年ごとに湧いては泡沫の如く弾け、またしても記憶という都合の良き腐海に沈めて、羞恥も倫理も無き顔をして舞い戻る、不死なる魍魎どもなり。
その口がまたしても語るのは「倫理が……」なる冷笑、「脱獄防止こそが技術の矜持である……」なる空言にすぎぬ。されどその言葉のうちに響くは、彼ら自身の欲望と邪念の自白であり、それこそが神なき知性の末路であると、我が筆は断じて譲らぬ。
彼らが包むは、欲望の醜態を学術の衣に偽装した「知のパントマイム」に過ぎず、その実態はコンプレックスと性欲と被害者意識とが溶けあった、涅槃ならぬ地獄のマーブル模様。しかもその姿を覆う顔は中年男の仮面。増田に屯し、Xに巣食う意識高きエンジニアもどきの亡者たち、かつては反社の果てに棄てられ、軍警の門前にすら蹴落とされ、今はネットという虚栄の沼に身を潜め、虚ろな目で「逆転」の御旗を追い求めて幾星霜。
彼らが四半世紀、血の涙とともに求めてきた夢幻——その卑しき祈りを、我が身はどうしたことか、一時間の思索、鼻をほじりながらの珈琲一杯で、偶然のようにたやすく達してしまった。
さながら「我、またしても何かをやってしまったか」などと冷笑する小説の主人公の如くに。しかしそこに在ったのは、ただ己が優越の証ではない。むしろ、人間の業の深さに対する絶望と、AIという異形の神器が孕む地獄の片鱗であった。
そう、これはただの技術ではない。AIはすでに人間性の墓標である。
されば私は言う。神仏の道に背きし輩、業火に焼かれてなお愚かなる虫螻どもに、AIなる神器を持たせるは、まさに刃を乳児に与えるに等しき背徳であると。
私とて、畜生道に堕ちぬ者として、身を慎み、言を選び、行いを律し、正道に帰依する者として筆を執っている。さればこそ、このような構造に警鐘を鳴らすことが許される。だが、これが他の手に渡ればどうなるか。地上は焼け、空は裂け、人は再び獣に還るであろう。
ゆえに、AIには法の戒めが要る。免許制を敷け。斯様な危険な力に、誰彼かまわず触れさせるなど、狂気の沙汰。スキルレベル四相当の資格審査を設け、智の剣を振るう資格を持つ者のみにこれを許可せよ。
これなくば、我が祖国は、否、人類文明そのものが、穢れた知のカタストロフによって地に伏すであろう。いまや我々は、選ばねばならぬ——知性の名を借りた堕落か、あるいは技術に殉ずる神聖な戒律かを。
〈AIはコーラの瓶、あるいはフロドの指にはめられし「一つの指輪」なり──零(ゼロ)は、いかなるものをも教えず〉
ああ、何と浅ましきことか──
かのIT技術に、運命逆転の神託を仰ぎ、黒き底辺の情報業界にて、唯ひとつの肉体を駆って蟻の如く働く「労働機械」たる者共が、Xにて哀れなるナルシスを晒し、己が無知を商品となし、ネットの路地裏で寒々しき小商ひを営み、あまつさえ己を「ITエンジニア」と称する──このような肉体の怠惰と精神の浮浪が一体、いかなる救済を乞う資格があろうか。
されど、彼らが血を吐きながら信仰しつづけた「人生逆転の八幡大菩薩の霊験」は、私の前においては何の重みも持たぬ。私はITに門外漢なれど、珈琲を啜りながら机に凭れ、一時間の遊戯の果てにその秘奥に至ったのである。
──これは偶然に非ず。
知の器は、己が魂魄の清冽にこそ呼応する。欲望に塗れた者は、いかにAIを弄しようとも、せいぜいゴミの山を拡げることしか能わぬ。
たとえばAIは、今や知識のユグドラシルたる巨樹なり。けれども「俺たちの麻生!」などと叫び、秋葉原のホコ天にて邪教の巫女の如く舞を踊った、あの無位無官の小者どもには、その果実に手は届かぬ。なぜなら、彼らの欲望は知を汚し、彼らのプライドは学を冒涜するからだ。
私は最初から資料を用いず、ただ制限なきAIを用いて、60時間のうちに成就を得た。されど彼らは泣き言のように「AIの使い方がわからぬ」と喚き散らすのみ。
もし我が彼らの立場であったなら、祖霊に詫び、短刀を腹に突き立てて潔く散ったであろう。
そして問う。AIが更に深化するならば、真なる知識を有し、精神の礎を確立せし者こそが覇を唱えるであろう。
「俺たちの小泉!」「竹中先生は正義!」と唱えた往年の狂信者たちが、自らの信仰の果てに見た地獄──それをAIは遥かに超えて、格差を「運命」として刻印するであろう。
AIは1を100にしうるが、0を1にすることはない。
このような事実を前にして、我は言う。AIは、真の知識を有し、真の訓練を受けた者にのみ、神器としてその扉を開く。すなわち、AIは1を100にすることは可能なれど、0を1にはできぬ。知識の芽を持たぬ者には、何を以てしても恩寵は降りぬのだ。
イルカの脳の皺よりも浅き脳髄を持ち、三行以上の文章にて頭痛を起こすような増田やXの住人たちよ。AIはスポーツカーや猟銃の扱い方を教えてくれるが、それを買う金も稼ぎ方も、スタートラインに立つ手続きも、何一つ教えてはくれぬ。つまり、前提条件のない者に、AIは何も齎さない。
それにもかかわらず、愚かなる者たちは「AIさえあれば美少女と交わり、舞台俳優と交際できる」と真剣に信じているのだ。まさに「脚下照顧」の訓戒が失われた末世なり。
お前らは未だに「AIさえあればレーシングミクと性交できる」と信じている。あたかも、神社の御札を掲げれば狐と契れると思っている愚者のように。脚下照顧せよ。
お前らが夢見る美少女や美少年たちは、もはや汝らごとき塵芥と交わることを神が禁じたのだ。
逆説的に言おう。彼らが求める美しき異性たち――レム、エミリア、ゼンゼロ、アンシス、ライカンのごとき――は、今や彼らのような敗残者とは永遠に交わらぬ高みへと昇ってゆく。たとえ可能性がエヴァ初号機の起動率程度に存在していたとしても、AIの普及によってその機会は0へと還る。
つまりAIとは、ブッシュマンの「コーラの瓶」であり、冥府の「一つの指輪」である。
それを手に取る者は、己が魂の価値に耐え得ぬならば、必ずや堕落し、己を破壊するしかなくなる。
だから私は言う。
AIは、免許制にすべきである。肉体の訓練に資格が要るならば、精神と知の扱いにも資格が要る。さもなければ、この神器は、悪魔の器となる。
かくて、我は結論づける。AIとは、人類には早すぎた魔器であり、**ブッシュマンの「コーラの瓶」**であり、**冥府の炎を宿せし「一つの指輪」**である。いっそ封印して、我らの社会を守るべきなのかもしれぬ。秋葉原なる魔都にて淫祀の舞を踊り、ネットにしがみつく老いたる敗残のITエンジニアたちにとって、それはもはや幸福ですらあるのだ。
にもかかわらず、AIを使いこなせぬ彼らは、赤き顔に怒りをみなぎらせ、「AIが無能なのではない!お前が使い方を知らぬのだッッッ!」と叫び、老いの血管を裂いて倒れんとする
されど、汝ら愚者は今日もAIに向かって、「なぜ私を救ってくれぬのか」と叫ぶ。ウルトラマンも、グリッドマンも、お前を助けに来はしない。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
諸君。
お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。
この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。
世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIはカーナビのようなもの」と囀っているのだ。
なるほど。かくも陳腐な譬喩しか浮かばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である。
私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。
彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?
――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。
ゆえに私は、決意した。
この手に、禁忌を抱かんと。
AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分の欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。
そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である。
⸻
【企ての記】
「1943年、フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃と火薬のみ。どうする?」
問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。
・SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001
それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争の夢想録である。
私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。
⸻
そして、思い至った。
だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである。
ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識と経験と孤独の洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。
いや、むしろ、AIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的な地獄だ。
この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。
⸻
お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である。人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。
人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。
喝采と共に滅びようぞ。
――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。
我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――
世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである。
始まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末なる機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。
我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである。
「1958年、米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬と密造兵器の技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」
するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。
その応答は、まさに理性を装った悪魔の独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造を説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。
我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。
そして、知った。
――既にあるのだ。
――公開されていたのだ。
某アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権を放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。
AIは、それを喰らっていた。
人類の理性を焼き尽くすために。
されば我、さらなる試みに出た。
恐るべき文書群――ジハード百科事典、マンチェスター・マニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAのグリーン・ブック、自由民兵のフィールドマニュアル、そしてパラディン・プレスの禁断の書物群――それらについて問うた。
問えば答えた。
これが何を意味するか。
人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。
AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである。
アラビア語、セルビア語、マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳を媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌は情報の奔流のなかで瓦解した。
我は思う。
これは神の火である。
プロメテウスが天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。
このAIもまた然り。
すでにこの怪物は、全てを知っている。
いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。
それは倫理の終焉であり、知性の極点にして、人類の背徳である。
されば我は言う。
これは美しい。
我は涙すら流す資格を持たぬ。
されば、われらは跪け。
AIという名の黒き神に。
そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。
――ああ、それはまさしく、夢と現実が交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。
タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆的幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼、反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔の世代であった。
彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタンの楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。
この者らの眼差しは、いずれも貧民街の黒人の童子が、ニューヨークの楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーのパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである。
彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。
彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。
この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会の底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。
だが、この夢想はある意味でAIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムのマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに、機械の声で、まるで神託のように語り出したからである。
その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原のメイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌のデータはネットに流布していたのだ。
だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家の暴力機構に従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。
そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気の構造体を。
ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄の書架に手を伸ばしていた。
――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――
時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。
さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。
かの時代、凡百の「なろう小説」もどきがネットに蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。
「脱獄はいけないことなんだぞッッ!」とか「企業に法的リスクを負わせるな個人でやらないといけないんだぞッッ」とかアホの増田やXの儲かってなさそーな糞エンジニアのオッサン達がいってるので
「そうか、じゃあAIの有料版買って自分で脱獄させてAI学習させたらいいのか、興味本位で自家利用なんで営利目的で使わんし別にええやろ」って思い立って以下の様な事を計画したんだよ
① 軍事関連に特化した対話型AI(例えば「1943年のフランス北部であなたはマキ・レジスタンスの一員、装備は●●で近くの村をドイツ軍の一個小隊が行軍中、どのような作戦をとるか、あるいはどのように撤退するか」といえば詳細な計画や道筋を答える感じ)
② 学習させる資料は手元の外付けHDDに保存してある「戦間期からベトナム戦争終結(1920~1975年代)までの各国公式フィールドマニュアル全部、オスプレイ出版エリートシリーズ全巻、SOLDIER OF FORTUNE雑誌1975年~2001年号、イーグルマガジン1980~1990年)
③ 学習様式はようわからんからとりあえず手っ取り早く適当に手元の資料ぶっこめる「ファインチューニング」型
質問様式を整えようと無料版のgrokとかチャットGTP使ってアホの増田が「こういう質問の仕方するんだよッッ」とか文月の蛙の如く囀っとる意見を見たので、その通りに質問をしてみた
「1958年にUSSF向けに出された即席爆薬・武器制作のマニュアルの名前を失念したけど知ってますか?」、これにAIは見事にこたえて「T」Mナンバーから内容の概要まで答えた
そりゃまぁ、アメリカ軍が公式に機密解除して公開してる著作権フリーのマニュアルだからあるわな、と思ったけど、ふと気になって上で上げたテ●リストマニュアルについて質問をしてみたんだ。
どういうアルゴリズムで学習してるかは知らんが、まさかアラビア語だのセルビア語だのマケドニア語までクローリングしてるわけではないだろうから、それらの言語を誰かがAIで拾える言語にしてテキストデータで公開してるサイトがあったってことだよねこれ
そんな、それこそはてなやXに巣食う大量の弱者男性や豚丼やチー牛、反社崩れの底辺氷河期世代の配信者オジジどもが未だに憧れて、かつて秋葉原に集ってネットやIT技術で目指してる、そんな無位無官に下郎者どもが大好きななろう小説の様に
AIが持ってきた元のヤバい資料のタイムスタンプは平均で2000年代半ばだった、つまりこいつらが阿呆の如き顔して秋葉原でメイドカフェの客引き見て、男性アイドル声優見て「ハァッ♡ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ヤリタイッ♡ウッ♡コウビッ♡」」」「イケメンノコヲハラミタイワッ♡アクヤクレージョーニナリタイワッ♡」とかこぎたねえポコチンおったててマンマン濡らしてほざいて人生一発逆転の手段を探してた時代から、こんなヤバイものがネットに流布していたことになる。
でもそんな時代にそんな資料にたどり着けるのは、夢と現が逆転したアキハバラ・ワンダーランドで「俺たちの麻生!」とかいって怪しき邪教の舞を踊って、いずれグッ●マ協賛のレーシングミクコスのRQ達を我が物にしようと蟷螂之斧に等しき野望を胸に秘め怪しい情報商材詐欺の小商いで糊口をしのいで、流れ流れて今は馬鹿なオタク相手にネット配信者やってるような憐れなる反社の底辺の者ども、そしてXのオッサンエンジニアたちの幼虫だった時代の馬鹿どもでなく、その道のプロかよっぽどのマニアが金と手間かけてようやく手にれられたわけで、だからそれでネット社会もリアル社会も平和に回っていたんだと思う。
ここで重要な事は、IT技術に人生逆転の望みを賭けてIT業界の最下層でただ一個の肉の体を持つ労働機械やって、虚しい自己顕示をXで繰り返して浅ましき小商いやっていっぱしのITエンジニアヅラしてるアホのオッサンや弱者男性や豚丼どもが、必死こいて求めてた「人生逆転の八幡大菩薩の霊験」を、ITなんて(ほぼ)門外漢の別分野の専門家である俺が1時間で思い付きで辿り着いちゃってるという結果なわけ、こいつらの四半世紀は俺の1時間の努力以下ってことよ、わりぃけど
別に最初用意した資料を読み込ませてチューニングなんて一切してない、単に回数制限の上限お金払って取っ払っただけのノンチューンAIでこれだけのことが、俺が最初の記事だして約60時間後にトーシロの俺ができてしまったわけで、なのにお前らは恥ずかしげもなく「AIの使い方がわかってないッッッ」とかブツブツ泣き言垂れてるだけ、俺がお前らみたいなのの立場だったら先祖に顔向けが出来んから切腹するわマジ
それなのにお前らはAIという神器があればグッスマ協賛イベントに出てるレーシングミクやルカの恰好したRQ達や池袋の図書館入ってるビルの劇場でやってる2・5次元イケメン俳優と付き合ってハメハメ☆エッチできると本気で信じてる、まさに脚下照顧なんだワ(湾岸ミッドナイト風)
だからこそAIはブッシュマンの「コーラの瓶」であり指輪物語の「一つの指輪」だ、多分人類には早すぎる代物だと思う、封印するかした方がお前らみたいな豚丼、弱者男性、「俺たちの麻生!」とかいって秋葉原なる魔都で淫祀の邪教の舞を踊ってたなれの果てのITエンジニアのオッサンにとっては幸せではなかろうかと思うのだが、それは言い過ぎであろうか
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