
はてなキーワード:コリントとは
この文章には独身男性に対する侮蔑や偏見が含まれており、人の価値を結婚や異性からの承認に限定して判断しています。しかし、キリスト教の聖書の価値観から見ると、こうした考え方は明確に誤っています。以下に、聖書を引用しながら反論します。
「人は外の姿を見るが、主は心を見る。」
—サムエル記上 16:7
この聖句は、神が人を見る基準が外見や世間の評価ではなく、「心」であると語っています。結婚しているかどうかや他者にどれほど認められているかは、神の前では本質的な価値を決める要素ではありません。
パウロは、独身者は結婚している人よりも主に集中できるという理由で、独身を積極的に勧めています。つまり、独身であることは決して「拒否された証」でも「恥ずかしいこと」でもなく、霊的に価値ある選択肢です。
これらの聖句は、他人を蔑んだり、見下すような言葉遣いをすることは、神に喜ばれない罪であると示しています。文章のような冷笑的で攻撃的な言葉は、クリスチャンの立場からは明らかに間違っています。
「あなたがたのうちで罪のない者が、まず石を投げなさい。」
他人の人生を嘲笑する前に、自らの心を省みるべきです。誰しもが神の前では罪人であり、他人を裁く資格などありません。
独身の人が「恥ずかしい」などという考え方は、聖書的にはまったく支持されていません。むしろ独身者には特別な賜物と使命があり、神の前で尊い存在です。人を侮辱する言葉の方こそ、悔い改めるべき対象です。
「悪い仲間は良い行いを損なう。」
パウロはこの手紙で、悪影響を及ぼす人々と付き合うことが信仰や善い行いを害する可能性があると警告しています。これは、愚痴を吐いたり否定的な態度を持つ人々と距離を置くという現代的な自己啓発の教えに通じるものです。
モーセがイスラエルの民をエジプトから導いた際、民は荒野で飢えや渇きに不満を言い、エジプトでの生活に戻りたいと愚痴をこぼします。
これに対し神は天からマナを降らせたり水を与えたりしますが、こうしたエピソードは、愚痴に満ちた態度が信仰や目的から逸れる原因になることを示唆しています。
パウロは、クリスチャンが他者との関わりで愚痴を控え、世の中で純粋で輝く存在になるよう勧めています。この教えは、自らの内面を清らかに保つために、否定的な言葉や態度を避けるという点で共通しています。
「知恵ある人と共に歩む者は知恵を得る。愚かな者と交わる者は害を受ける。」
この箴言は、関わる相手が自分の人生に与える影響を強調しています。愚痴や否定的な態度を持つ人々と関わることが、自分に害を及ぼす可能性があると解釈できます。
聖書には、愚痴や否定的な態度を避け、信仰や品性を守るために慎重に人間関係を選ぶよう勧める教えが多く含まれています。これらは現代の自己啓発の教えと重なる部分が多く、古代から続く普遍的な知恵と言えるでしょう。
あなたの心に平安があるように。『地上にはいろいろな種類の肉体があり、人の肉、獣の肉、魚の肉、鳥の肉などさまざまである。また、天上の体と地上の体があり、天上の体の栄光と地上の体の栄光はそれぞれ異なる。と1コリント15章39-40節にある通り、人の成長や発達も多様であり、それぞれの個体差があります。ですから、発達が早いかどうかや精神的な安定について一概に結論を出すことは難しいことです。人々は各々の成長過程を歩み、人生の中で多くの試練や喜びに出会います。その中で精神的な不安定さを感じることもありますが、神の導きと支えを信じ、祈りを通じて自分を強く保つことが重要です。アーメン。
■聖書って正しいんかな
聖書ってよく分かんないですよね。
聖書のおかしさは、元増田が指摘する点以外に、他の箇所に矛盾する主張が平気で登場するというところにあります。
違うページを開いてみるとこんな主張が出てきます。
聖書が婚前交渉に否定的であることと考え併せると、上で 「生めよ。増えよ。」 と言っていたことと矛盾するように思えます。
また、元増田が 「まあわかる」 としている 「唯一神」 の主張についても、
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」(創世記 1-26)
という記述があり、神が自身のことを 「われわれ」 と呼ぶので 「唯一神じゃなかったの!?」 という疑問が出てきます。
この辺をどう考えるか、真理っていったい何なのか、という点についてキリスト教徒は千年以上議論しておりまして、19世紀にヘーゲルという哲学者が 「弁証法」 という言葉を使って何とかまとめ上げた(と私は思っています)。
ただそんなに難しい哲学の議論を参照しなくても、これを考えるヒントが日本のことわざにあります。
というのも、ことわざにも矛盾しているように見える主張がたくさんあるからです。
「好きこそ物の上手なれ」 ←→ 「下手の横好き」
「善は急げ」 ←→ 「急がば回れ」
ここで例えば外国人から、上記のことわざを引き合いに出して、 「日本のことわざって正しいの?」 と聞かれたらどう思うでしょうか。
「いや、それは・・・」 と言いたくなるのではないかと思います。
引用するくらい真面目な増田なのでそのうち気づくと思うが、聖書に書いてあることってめちゃくちゃなんだよね。
引用の「コリント信徒への手紙」にも出てくる偶像って要は、十字架とかキリスト像マリア像のことだからね。
知らない人はびっくり。
ゲイ?同性愛?に関する記述なんて片手で数えられるほどで聖書は同性愛を認めてるかと揉めるくらいなのに、「偶像崇拝の禁止」についてはほぼ全編でくどいほど訴えまくってます。
引用したら多分文字数制限で引っ掛かって増田に投稿できないレベルです。
なんで偶像崇拝が禁止なのかは今回の騒動を見てもわかりますね。
「カトリックがー」って騒ぎになってるのは「カトリックという権威」が偶像化されてるからで、偶像化した権威って宗教の形すら歪めちゃうわけですよ。
恐ろしいですね。
十字架とかキリスト像なんかは、「特にカトリックのみなさんが大好きなもの」っす。
いやあ、「聖書に書いてあるから~」とか主張してたのが馬鹿らしくなりますよね。
聖書の記述なんて鵜呑みにしてたら、カトリックの時点で神の国に行けねーから。(byプロテスタント)
他にも姦通だとか人のものを奪うとか強欲とか酒におぼれるとか、まんまカトリックのやってきた負の歴史そのものですねえ。
十戒(神の意志そのもの)にある「人殺すな」「物盗むな」すら守れてないわけですし。
まあそういう腐ったカトリックに反発してプロテスタント(十字架やキリスト像を崇拝しない)が生まれたんだけど、このプロテスタントも「聖書の記述に忠実」とか言いつつ、やってることめちゃくちゃなんだよね。
(プロテスタントはアメリカの宗教と言えば意味が分かってもらえるかもしれない。プロテスタントもゲイがお嫌い。でも近親そうk)
ほんで、アル中だったりDVしたり人種差別してる田舎のプロテスタント親父が「ゲイとかありえねえよな」って言ってるわけ。すごいね。
他にも、みだらな者とか酒好きとか嘘つきとかある通り、「聖書の記述通りならゲイは~」とか言うんだったらすべての人類が同じ扱いだから。
知ってるか、オナニーって許されてないんだぜ。
自分の妻以外に欲情したら神への裏切りなんだぜ。そういえば教会関係者の児童ぎゃk
「ゲイどころかお前ら全員ゴミで地獄いきだボケ」って書いてあるのが、聖書。
娼婦を赦したり、信者からすると本当に困った人ですねキリスト君は。
それを解釈で捻じ曲げて、殊更にゲイを「政治的に」悪者にしてるってことなわけ。聖書の内容じゃなくてそれを利用する側の話。
まあ死刑囚が刑の執行前に神父に祈ってもらったりするけど、死刑になるような凶悪犯だってそんぐらいの扱いはしてもらえるわけで。
ゲイがどうとかってのは(宗教を利用する教会側という)「政治的な問題」でしかなくて、宗教的な問題じゃないのですよ。
ゲイも赤ちゃんも社長さんも等しくすべての人類がゴミだけどお前らゴミを救ってやるよってのがキリスト教なんだけど、
誰がどんな理屈を必死でこねようと、「人殺す」「物盗む」より同性愛の方が罪が重いなんてことはあり得ないわな。
聖書に従うなら偶像を有り難がってる全カトリック教徒よりも罪は軽いんじゃね。
アーメン。
ヴァチカンが同性婚を祝福しないのに文句を言ってるゲイかつキリスト教徒が紹介されているけど、アホとしか思えない。お前ら本当に聖書を読んだことあるのか?
聖書の同性愛者の扱い酷すぎて笑えるので少し紹介するね(翻訳は全て「新共同訳」)
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
こんなことが書かれてる本を神の言葉とありがたがってるゲイのキリスト教徒がまるで理解できない。
死後イエス様に火と硫黄の地獄に蹴り落とされる己の罪深さに慄(おのの)きながらハッテンするともう気が狂う程気持ちええんじゃ。ああ^~~たまらねえぜ!
Permalink |記事への反応(13) | 23:02
14:34
婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。
14:35
もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。
コリント人への第一の手紙(口語訳) -Wikisource
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E4%BA%BA%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%AC%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0
2:11
2:12
女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
2:13
なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
2:14
またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
2:15
しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。
テモテへの第一の手紙(口語訳) -Wikisource
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A2%E3%83%86%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%AC%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC2%E7%AB%A0
うわあ・・・、これを書いたパウロって奴は酷いミソジニー野郎ですね。間違いない。キリスト教徒はこんな本をありがたい神の言葉と信じているのか・・・(困惑)。たまげたなぁ。
新共同訳より
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
(中略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%83%BC
増田が求めているのは、この形の愛、即ち無私の愛であり、隣人愛(フィリア)ではない。
無私の愛を知るには、無私の愛を示している神、あるいは人と接しない限り納得出来ないだろう。
言葉で定義を書くことは簡単だが、結局、それを実践しているかしていないかで、理解の度合いや納得の度合いが変わる。
得心すると表現した方が正確かもしれない。
kubohashiタイトルで想像した中身と違った、こういうのかと思った→地学 ~略~壁画解読 ~略~ あとどこかで建築関係の人が「ランドの鉄筋ゴイスー」的なこと書いてた気がしたけど見つからない
https://togetter.com/li/1085202
https://togetter.com/li/792488
http://www.cranenet.or.jp/kikansi/disneysea.html
1 つち形クレーン
ミステリアスアイランドのフォートレス(要塞)・エクスプロレーションがあり大航海時代の埠頭である.埠頭には3本マストの帆船(ガリレオ船)ルネサンス号が停泊している.長い航海から戻ったルネサンス号は,世界の珍しい物産の陸揚げに忙しい.埠頭の荷役作業には木造の旋回式水平ジブクレーンが活躍している.
http://conpetti.com/TDR/?p=1811
ガレオン船には船首楼と船尾楼があり、船首楼の上の甲板を“フォクスルデッキ”(船首楼甲板)といいます。船尾楼側の甲板は二層になっていますが、下段の甲板は“クォーターデッキ”(船尾甲板)、上段は“プープデッキ”(船尾楼甲板)と呼ばれます。クォーターデッキの奥には操舵装置や羅針盤(コンパス)、船長室などがあり、船の中枢部になっています。
http://www.tokyodisneyresort.jp/magic/enjoy/flower/
http://ure.pia.co.jp/articles/-/71328
http://tdr-3d.blog.so-net.ne.jp/2007-06-16tatemono1
ハイ、ここはおなじみ。
東京ディズニーランドのワールドバザール入り口なんですが…。
ワールドバザールは19世紀から20世紀初頭にかけてのヴィクトリア様式で
つくられているのですが、古代ギリシャ・ローマ時代からつづく柱頭の伝統が
受け継がれているのですねー。
https://note.mu/ken76a3/m/maed242c63599
「プーさんのハニーハント」もローマンと明朝が使用されています。プーさんのハニーハントは、もっと可愛らしい丸みをフォントを使用していてもいいなと思ったのですが、絵本内に使われてるフォントがローマンで、そこと統一感をもたせたものなのかなと考察できます。
途中からもうやっつけかな、無理矢理50個書いてみました!みんなに迷惑を掛けないようにディズニーを楽しんでくれたらいいなと思うよ!自分の楽しいを見つけてくれたらいいですね!
内村鑑三の著書の一つに『一日一生』という本があって、1年365日(366日)の各日について聖書の一句を引用し、それについて内村のコメント(他の著書からの引用)を付す、ということをやっている。
そのうち12月24日と25日がやはりキリスト生誕についてのものだったので引用する。
<12月24日>
”だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二 第5章17節)”
イエスが処女からお生まれになったのは、神が普通の出産法を賤しめられたからではない。人類以上の生命をこの世に持ってくるために必要であったからである。贖罪はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これは罪の世に現われた第二の人におのずから懸かった職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。私たちは聖書の記事によるだけでなく、宇宙の進化の順序からも、また私たち人類の切なる要求からも、この大きな事実を信じるものである。
<12月25日>
”天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカによる福音書第2章10-12節)”
もしキリストがお生まれにならなかったら、この世はどうだったか。
シーザー、アレキサンダーらはなお陸続と世に顕れただろう。君主ひとりのために屍をその馬前にさらす忠臣義士は出たであろう。しかし下民のために剣を抜いたクロムウェル、ワシントンのような武人は出なかっただろう。ルター、サボナローラのような、いわゆる社会的勇士は生まれなかっただろう。
ホレス、ヴァージルのような宮廷に媚びを呈する詩人は出ただろう。けれどもダンテ、ミルトンのような平民的詩人は出なかっただろう。
キリストの生まれなかった世界は貴族帝王の世界である。人を崇めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を到達させるために万民が枯死する世界である。キリストによって筆も剣も脳も腕も貴族の用をせず平民の用をするようになった。
FCバルセロナのネイマールの腕に聖書の一節(章節の数字だけ)のタトゥーが彫られてるらしく、調べてみたらどうも↓らしい。
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは1人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです(第一コリント9-24~27)
ぴったりすぎて笑った。
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。
が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)
一方で「民法研究とキリスト教は無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学の研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。
ぜんぜん関係も文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。
どういうことかというと、民法はちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業をします。
(1) 事案をよく見る。
(2)適用条文を探す。
(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。
(4)過去の判例・裁判例から重要と思しき事実をピックアップしてマトリクスを作る。
(5)マトリクスを作る過程で過去の裁判所の判断を分けた重要な事実が炙り出される。
(6) 本件に戻ってその重要な事実の有無・相違を確かめる(自然と結論も出る)。
(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。
ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。
(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去の判例・裁判例の結論と平仄を合わせるものでしかありません。
また、こうして出された結論が「国民の常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者で資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります。
他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察の捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます。
たとえば警察に捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意の認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。
他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います。
真理というものが普遍的なものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。
そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中で受刑者が思うことの多くは安部譲二『塀の中の懲りない面々』や堀江貴文『刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。
そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。
くだらない思い付き(いつも)。
京都大学の民法の教授で、最高裁判事も務められた奥田昌道先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究との関係を語った講演があって、その書き起こしを読んだ。
結構いろいろしゃべっていたのだけど、結論は結局以下の言葉に尽きる。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
で、これは結構納得の行く話で、聖書は人を訴えることにも、人を裁くことにも好意的でない。
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
※ただし、両規定が法律関係を巡る訴訟にまで妥当するのかには議論がある。
この規定の根底には、①憎い敵でも赦すことが愛の精神に適う、②不完全な人に人を裁くことはできない、という考えがある(と思う)。
他方、法律の方も、こと財産法に関しては(つまり家族法などはいったん措くと)、キリスト教の精神はほとんど見られない。
どちらかと言えば資本主義の影響で説明が付きそうな規定・解釈・解決の方が多い。
そんなわけで、やはり両者は無関係であるとの冒頭の言葉には頷かされる。
今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。
日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。
自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。
「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。
ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。
この説によれば、「信」という言葉は「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」を意味するとのこと。
他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to holddear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。
この説によれば、"believe"の意味は「対象を受け入れて愛しく思う」というところか。
これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。
聖書の文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。
そのため、人生で直面する問題に対して聖書の規定を適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。
このことが顕著に顕れるのが同性愛の問題で、①同性愛は全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。
(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人〔同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています)
また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的に差別と偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。
そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。
この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。
議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官は法律家としての直感で結論を決めており、法解釈はそれを検証・正当化するために用いられる」ということが挙げられる。
このことから、法律家はこの「法律家としての直感」を育てることが肝要であるとよく言われる。
大事なのは「キリスト者としての直感」を、信仰と聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感を検証・正当化するために用いるものなのではないか。
上述した同性愛の問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感で結論を出し、③それを聖書の規定に照らして検証・正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。
なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。
「キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観(人間は堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界の肯定、愛)がある。
「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)
#ブコメ返信
・いつもありがとうございます。教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います。
富は神が人類に賜うたまものである。ゆえにもし世が神の御心に合う世であるならば、貧者も富者もないはずである。このような世にあっては以下の状態が普通である。
現実は、「多く集めた者」は「余」り、「わずかしか集めなかった者」は「不足」している。
この神に背きたる不自然な社会にあって、富はたいていの場合において不自然であり不当である。
たいていの富はその所有者が作ったものではなく、社会の多数を占める貧者が作ったものである。
この罪の世にあっては、少数のいわゆる「まわり合わせの良い者」が富者になるのであって、本当に自分の力で富を作り出したという人はめったにない。
①怠惰の結果としての貧:×同情しない
②社会の多数を占める貧者:◎幸いする
③勤勉の結果としての富:○褒める
⑤不当の分配によって得た富:×呪う
以下、①、⑤、②について各論する。
キリスト教は、怠惰の結果、貧を己に招いた者に対して同情を表さない。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ伝19章23-24節)
イエスは目を上げ弟子たちを観て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ伝6章20節)
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました(コリント前書1章26-27節)
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコブ書2章5節)
上記理想の状態から見て、貧者は神の賜物のより少ない分配しかあずかっていない。したがって、のちにその不足を補われることになる。
他方、富者はより多くの分配にあずかったものであるから、のちにその余分を徴発される。
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した(ヤコブ書5章1-6節)
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか(マタイ伝6章26節)
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました(ヘブル書13章5節)
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです(コリント後書8章9節)
貧者は緊張の生涯である。そして緊張のうちに信仰も起こり、愛も希望も生じる。貧者は貧にいて主イエスを最も深く知ることができる。
◆創世記1章28節「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
ふーん……。
◆創世記2章07節「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
◆創世記2章18節「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。」
……は?
◆創世記2章22節「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。」
いやいやいや、連れてくんなよ。
何で最初に男を助け手のいらない存在として創造しねえんだよ。明らかに二度手間だろ。
補助パーツありきの存在ってなんだよ。補助パーツがいらないように造れるんだから最初からそうしろよ。
後から「あっ、これも必要ですんで」とか、ゲスい商売してんじゃねえよ。
◆創世記3章06節「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
ほらっ!ほら見ろ!女がいるせいで善悪を知る木食べちゃったじゃん!
何てことしてくれてんだよ。もうお終いだよ。あーあ、本当にどうしようもねえな……。
◆創世記3章23節「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。」
もう女は男に面倒をかけないでくれ。そっと静かにしてろ。助けが必要だったら呼ぶから。
◆コリント人への第1の手紙14章34節「婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。」
ホントこれ。
キリスト教徒なんですけどね。
なんか書くの余計かなとか思うんだけど書いちゃうんだよね。つい。
「戒律」についてできなかったことを「ゆるしの秘蹟」(告解は古い言い方)で神様の代理で「言葉ではっきり」赦してもらうんだよ。
でも信仰があるんだから、行いに顕れるべきだ!ってことで、「正しい」行動をするように奨められる。
あれはただそれだけのことなんですよ。
http://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_56.php
「体はひとつでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」という感じに
「いい人も悪い人もすべてキリストの体(教会、の暗喩)の一部」と求道者には初心者のうちに教えるのが普通なのよん。
で、これに続けて、あなたへの答えが載ってる。ついでに書いてみよー。めんどくさかったら読まなくていいよ。
あなたの投稿を見て、「はて?」と思った人のために書いてるつもり。
「あなたがたに最高の道を教えます…(中略)…愛がなければ無に等しい」。
現実、真面目な信徒や真面目な子供は教会の外でも中でも「いい評価」を受ける。
でもそれがどうかしたの?っていうのがキリスト教徒の長所であり短所なんだよね。
悪いことやりたい放題してても、「ごめんなさい」で済ませるのが教会。
この点で不愉快な思い、たぶんする人多いんだろうなあ。
それについては本当に申し訳ない。ウチらの優先順位は神様なんだ。
もしキリスト教徒が誰かに悪いことしたのに謝りに来なかったらそれはちゃんと伝えるべき。
その時怒っても当然だと思う。
非キリスト教徒は「罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、『ずっと正しく生きてきた信徒』と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの?
どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。」と疑っちゃうんだよね。
気持ちはわかるんだけど…死ぬ間際に簡単な洗礼を受けて天の父の元へ一直線しちゃうのも別に構わないよってのも、伝統的な教会は受け入れるよ。(※教派による)
しかもそうやって亡くなった人の死者のためのミサ(プロテスタントなら日曜礼拝の時に同時に祈る)もやります。
カトリックなら大概は来週~再来週辺りにやることも多い(ハロウィン・死者の月・11月参照)。
「大いに罪を犯し、その罪を大いに悔やんで赦しをいただきなさい。そして、その赦しの大きさ(愛)を感じて、他者を愛せ。」
とね。
余計な散文お目汚し失礼しましたー