
はてなキーワード:ゲートキーパーとは
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。陰謀論や根拠のない政治的確信に対して、直接「それは嘘だ」と指摘するのではなく、「どうすればそれが真実だと知ることができるか」を共同で探求するスタンスを取る。
オンライン上のトローリングや攻撃的なコメントに対しては、マーシャル・ローゼンバーグのNVCを応用した「脱エスカレーション・ループ」が有効である。
このプロセスは、相手の「攻撃」を「満たされていないニーズの悲劇的な表現」として再定義し、敵対関係を協力関係へとシフトさせる構造を持つ。
個人の対話スキルを向上させるだけでは、社会全体の分断は解消されない。SNSのアルゴリズムが増幅する情動的二極化に対抗するためには、デジタル空間の特性(アフォーダンス)を理解し、ネットワークレベルでの介入を行う必要がある。
政治的コミュニケーションにおいて、左派と右派には「美的非対称性(Aesthetic Asymmetry)」が存在する。歴史的に、左派は壁画やプロテストソングのような「参加型」で「構成的(Constitutive)」な芸術――コミュニティの結束を高め、希望を共有するための表現――を好んできた。一方、現代の右派(特にオルタナ右翼)は、ミームやシットポスティング(Shitposting)のような「道具的(Instrumental)」で「武器化されたユーモア」――相手を嘲笑し、混乱させ、分断を煽るための表現――に長けている。
この非対称性が意味するのは、左派的な「真面目で、説明的で、道徳的に正しい」コンテンツは、ミーム戦争においては圧倒的に不利であるということだ。ミームは文脈を剥ぎ取り、瞬時に情動(特に嘲笑や優越感)を喚起することで拡散する。
対抗戦略:脱分断ミーム(Depolarizing Memetics)
反発を招かないデジタル拡散のためには、以下の原則に基づいた新しいミーム戦略が必要である。
ネットワーク分析の研究は、SNS上の世論形成において、著名な「インフルエンサー(発信者)」以上に、「マルチプライヤー(拡散者)」と呼ばれる層が決定的な役割を果たしていることを示している。マルチプライヤーは、特定のイデオロギー・クラスター内で情報をキュレーションし、リツイートによって可視性をブーストする「ゲートキーパー」である。彼らは高い「整列スコア(AlignmentScore)」を持ち、陣営をまたぐことは稀である。
批判的メッセージを拡散させるためには、インフルエンサーを説得するのではなく、このマルチプライヤー層が「リツイートしたくなる」コンテンツを設計する必要がある。そのためには、前述の「道徳的翻訳」が不可欠である。保守系マルチプライヤーは、リベラルな正論は無視するが、「言論の自由」や「エリートへの懐疑」というフレームで語られた批判(例:「真の愛国者は、大統領であっても盲信しない」)には反応する可能性がある。クラスターの境界を浸透できるのは、そのクラスターの言語で語られたメッセージのみである。
X(旧Twitter)等のアルゴリズムは、「怒り」や「恐怖」といった高覚醒の情動を引き起こす投稿を優遇する傾向がある。冷静な対話は「退屈」とみなされ、表示順位が下がる。この構造的ハンディキャップを克服するためには、「怒り」以外の高覚醒情動、すなわち「驚き(Awe)」「好奇心(Curiosity)」「感動(Kama Muta)」を利用する必要がある。
以上の理論と技法を、一般市民や草の根活動家が実践可能な形に落とし込むためのマニュアル(ハンドブック)の設計図を以下に提示する。この構成は、米国の草の根運動ガイド『Indivisible Guide』の成功モデル(段階的習得、具体的アクション、テンプレート化)を参照している。
目的:実践者のマインドセットを「論破」から「影響」へとシフトさせる。
本報告書で提示した戦略は、短期的な選挙勝利のための戦術ではない。サイモン・シネックが言う「無限のゲーム」――すなわち、対話が継続可能であり、社会システムが崩壊しない状態を維持すること――を目的としている。
情動的二極化という「内戦」状態において、最大の勝利は敵を倒すことではなく、敵を「対話可能な競争相手」へと戻すことである。そのためには、批判者自身がまず武装(道徳的優越感)を解除し、相手の認知フレームの中に降りていく勇気を持たなければならない。この「戦略的共感」こそが、分断された世界をつなぎ直す唯一の現実的なエンジニアリングである。
戦略的共感と認知的安全保障:反発を招かない政治的批判のための包括的枠組み
現代の政治空間は、政策の不一致(イデオロギー的二極化)以上に、対立グループに対する嫌悪や恐怖といった感情的拒絶反応(情動的二極化)によって支配されている。この環境下において、伝統的な「批判」の手法――事実の提示、道徳的糾弾、論理的論破――は、その機能不全を露呈しているだけでなく、逆効果をもたらしていることが多くの実証研究によって明らかになっている。批判対象者の信念を強化してしまう「バックファイア効果(Backfire Effect)」や、批判者を存立危機的脅威とみなす「アイデンティティ防衛機制」が作動するためである。
本報告書は、心理学、認知科学、政治社会学の最新知見に基づき、政治的対立者に対して反発(バックラッシュ)を招かずに影響力を行使するための戦略的枠組みを提示するものである。ここで目指すのは、単なる「中道的な妥協」や「礼儀正しさ」の推奨ではない。人間の認知アーキテクチャの脆弱性と特性をハッキングし、相手の道徳的・感情的防御壁を迂回してメッセージを届けるための、エンジニアリングされたコミュニケーションプロトコルである。
報告書は大きく三つのフェーズで構成される。第一に、なぜ従来の批判が失敗するのかを脳科学的・心理学的メカニズムから解明する理論編。第二に、その防御壁を突破するための具体的な対話技法(ディープ・キャンバス、ストリート・エピステモロジー、NVC)を体系化した実践編。そして第三に、これらの技法を個人のスキルから社会運動へとスケールさせるための組織論と普及戦略である。
効果的な批判戦略を設計するためには、まず人間の心がどのように政治的情報を処理し、拒絶するかというメカニズムを理解しなければならない。政治的信念は単なる情報の集合体ではなく、個人のアイデンティティや所属集団への忠誠心と融合した「拡張された自己」の一部として機能している。
近年の政治心理学における最も重要な発見の一つは、情動的二極化(Affective Polarization)の実態解明である。これは、対立する政治グループのメンバーに対して「好きか嫌いか」という感情的温度差が極端に開く現象を指す。研究によれば、情動的二極化は対人関係の悪化だけでなく、個人の心理的幸福感(ウェルビーイング)の低下、社会的支援の減少、ストレスの増大といった「個人内損害(Intrapersonal Harm)」をも引き起こすことが示唆されている。特に、リベラル層において高い情動的二極化とストレス、健康悪化の相関が見られることは、政治的怒りが批判者自身をも蝕むことを示している。
この情動的二極化は、脳内で一種の「信頼のファイアウォール」として機能する。アウトグループ(外集団)から発信された情報は、その内容の真偽にかかわらず、自動的に「悪意ある攻撃」としてタグ付けされる。扁桃体が脅威を検知し、前頭前野が論理的推論ではなく「反論の生成」のために動員される「動機づけられた推論(Motivated Reasoning)」が作動するためである。この状態にある対象者に正論をぶつけることは、火に油を注ぐ行為に等しい。
バックファイア効果とは、誤った信念を訂正しようとする試みが、かえってその信念を強固にしてしまう現象である。このメカニズムには、自己肯定感の維持と集団への所属欲求が深く関わっている。批判を受け入れることは、過去の自分を否定すること(自己の一貫性の喪失)や、仲間を裏切ること(社会的死)を意味するため、脳は全力でそれを回避しようとする。
さらに、批判のフレーミング(枠組み)が、受け手のイデオロギーとミスマッチを起こしている場合、説得効果は皆無となるばかりか、抵抗を強める結果となる。例えば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策におけるメッセージングの研究では、リベラル層が「利得フレーム(マスクをすれば命が助かる)」と「損失フレーム(マスクをしないと命が失われる)」の双方に敏感に反応し、コンプライアンスを高めたのに対し、保守層はこれらのフレーミング効果に対して強い抵抗を示したことが明らかになっている。これは、問題が高度に政治化された文脈においては、一般的な行動経済学的介入(ナッジ)さえも、イデオロギーのフィルターによって無効化されることを示唆している。
批判が受容されるための極めて重要な、しかし見過ごされがちな因子として「知的謙虚さ(Intellectual Humility:IH)」がある。IHとは、「自分の知識や信念が間違っている可能性を認識する能力」と定義される。最新の研究は、対話において自身の知的限界を認める態度が、相手の情動的二極化を低減させる強力な緩衝材となることを示している。
特筆すべきは、IHが「相手からの好意(Target Liking)」を媒介して、対話への「接近行動(Approach)」を促進するというプロセスである。批判者が「私は絶対に正しい、お前は間違っている」という道徳的マウンティング(Moral Grandstanding)の態度を取ると、相手は「回避行動」をとる。逆に、批判者が「私も確信はないのだが」「複雑な問題で迷っているが」という不確実性を提示することで、相手の警戒心が解け、対話の土俵に乗る可能性が高まる。知的謙虚さは、相手の武装解除を促すための「白旗」ではなく、心理的防衛壁を通過するための「通行手形」として機能する戦略的資質である。
政治的対立の根源には、事実認識の相違以上に、道徳的直感の相違がある。リベラルと保守は、異なる「道徳の言語」を話しているにもかかわらず、自身の言語で相手を説得しようとするため、コミュニケーション不全に陥る。本セクションでは、道徳基盤理論(Moral FoundationsTheory: MFT)を応用し、批判を相手の価値観に翻訳して届ける「道徳的リフレーミング」の技術を詳述する。
ジョナサン・ハイトらが提唱した道徳基盤理論は、人類の道徳的判断が以下の5つ(または6つ)の生得的な基盤の上に構築されているとする。
実証研究が一貫して示すのは、リベラル層が主に「ケア」と「公正」の2基盤に強く依存するのに対し、保守層は5つの基盤すべて(特に忠誠、権威、神聖)を重視するという非対称性である。
多くの政治的批判が失敗するのは、リベラルが保守に対して「それは弱者を傷つける(ケア)」「不平等だ(公正)」というリベラル特有の語彙で攻撃するためである。保守層にとって、これらの価値は「忠誠」や「権威」よりも優先順位が低いため、批判は響かない。逆に、保守がリベラルに対して「伝統を破壊する(権威)」と批判しても、リベラルはそれを抑圧としか捉えない。
反発を招かない批判のためには、自身の主張を相手の道徳基盤の語彙を用いて再構成(リフレーミング)する必要がある。これを「道徳的合気道」と呼ぶ。相手の道徳的エネルギー(価値観)を利用して、相手の姿勢を崩す技法である。
以下の表は、主要な政治的争点において、従来のリベラル的批判(バックラッシュのリスク大)を、保守的道徳基盤に翻訳した戦略的フレーム(受容可能性大)に変換したものである。
| 争点 | 従来のリベラル的批判(高リスク) | 戦略的リフレーミング(低リスク) | ターゲットとする道徳基盤 |
|---|---|---|---|
| 環境保護 | 「地球温暖化は弱者や未来の子供を苦しめる。」(ケア) | 「我々の国土と美しい自然は神からの授かりものであり、汚染から守り抜く義務がある。」 | 神聖/堕落、忠誠/背信 |
| 同性婚 | 「誰を愛するかは個人の権利であり、平等であるべきだ。」(公正) | 「結婚は社会を安定させる伝統的な制度であり、同性カップルもその責任ある関係に組み込むべきだ。」 | 権威/転覆(社会秩序)、忠誠 |
| 軍事費 | 「軍事費を削って福祉や教育に回すべきだ。」(ケア/公正) | 「無駄な軍事支出は国家の財政を弱体化させ、真の国防力を損なう背信行為だ。」 | 忠誠/背信、権威 |
| 政治腐敗 | 「富裕層ばかり優遇するのは不公正だ。」(公正) | 「私利私欲のために公職を利用することは、国家への裏切りであり、高潔な職務を汚す行為だ。」 | 忠誠/背信、神聖/堕落 |
| 移民問題 | 「難民を助けるのは人道的な義務だ。」(ケア) | 「秩序ある移民受け入れは、国家の活力を維持し、アメリカンドリームという伝統を守るために必要だ。」 | 忠誠、権威(秩序) |
研究によれば、保守層に対して環境保護を「神聖さ」や「愛国心」の文脈で語った場合、リベラルな文脈で語った場合よりも支持率が有意に上昇することが確認されている。重要なのは、主張の内容(環境を守る)を変えるのではなく、その理由付け(なぜ守るか)を相手の言語に翻訳することである。
批判は通常、「現状のままでは悪いことが起きる」という損失フレーム(Loss Frame)で行われることが多い。しかし、損失フレームは恐怖や不安を喚起し、防衛的な反応を引き起こしやすい。これに対し、「ゲイン・フレーム(Gain Frame)」を用いた批判は、望ましい未来像を提示し、その実現を阻害する要因として現在の問題を指摘する手法である。
例えば、政治家のスキャンダルを追及する場合、「彼は嘘つきだ(損失フレーム:信頼の喪失)」と攻撃するのではなく、「我々は正直で高潔なリーダーを持つに値する国家だ(ゲイン・フレーム:尊厳の回復)」と主張する。このアプローチは、批判の対象を「個人」から「規範の維持」へとずらし、相手の「権威への尊重」という道徳基盤を刺激しつつ、攻撃性を緩和する効果がある。研究は、特にリスク回避傾向の強い層に対しては損失フレームが有効な場合もあるが、イデオロギー的に対立する層に対しては、ゲイン・フレームや道徳的適合性の方が「聞く耳」を持たせる効果が高いことを示唆している。
理論を実践に移すためには、具体的な対話スクリプトと手順が必要である。ここでは、異なる文脈(対面、オンライン、深い対話)において効果が実証されている3つの主要なプロトコルを詳述する。
ディープ・キャンバスは、戸別訪問(キャンバス)において10〜20分の深い対話を行うことで、トランスジェンダーの権利や移民問題などの二極化した争点に関する態度を変容させる手法である。従来の「事実の弾丸」を撃ち込む方法とは異なり、「脆弱性の交換」を通じて相手の情動的反応を書き換える。
研究によれば、ディープ・キャンバスは従来の説得手法の約102倍の効果を持ち、その効果は数ヶ月持続することが確認されている。
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。Permalink |記事への反応(1) | 11:19
女性の「生理的に無理」と「清潔感がない」という感情について、女性(メス)の本能に理由を求めた極端な仮説を考えてください。これは思考実験であり、「社会的正しさ」「コンプラ」の類は一切考慮しないでください。
メスは進化的に
という条件を持つ。
そのため、繁殖価の低いオスを**一瞬で排除**する本能が形成されたという極端モデル。
「このオスと交尾すると種の品質が下がる」 と脳が判定した瞬間に発動する拒絶システム
評価要素:
「健康じゃない」「寄生虫の危険」「免疫相性が悪い」を瞬間的に判断し→嫌悪が発生する、というモデル。
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メスにとって感染症は
“清潔感がない”とは
「このオスは寄生虫を持っている可能性が高い」
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オス:とにかく数を撃つ
これらを持つオスはすべて
生理的に無理=遺伝子レベルの不採用通知清潔感がない=感染リスクの警報
という極端モデル。
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興味深いのは、一度「無理」判定された男性でも
これは
「オスの状態を継続監視し、改善すれば評価を更新する」
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90年代の「サブカル優勢」から「オタク文化の圧勝」への転換は、ざっくり言うと以下の力学が重なった結果だと思う。
作品より“キャラクター”の継続消費(推し活)が拡散・可視化しやすい。MAD/二次創作→SNS→公式展開の循環が強かった。
[2] 反復消費モデルの強さ(シリーズ化・ソシャゲ・グッズ)
ガチャ・ライブ・2.5次元舞台・イベント・コラボカフェ…同一IPで何度も課金/参加できる仕組みが整備。収益の再投資でIPがさらに巨大化。
ファン字幕→公式配信→世界同時上映へ。国内ニッチが海外需要で“メジャー並み”の規模に。
強いエンゲージメントを生むジャンルがレコメンドに乗る。コアファンの熱量がそのまま可視化・拡散力になる。
90年代サブカルは雑誌・セレクトショップ的な編集=ゲートキーパー依存。雑誌衰退とともに拠点を失い、オタクはコミケ/同人即売会/SNS/配信で自前の分配網を持った。
同人・二次創作・コスプレ・ファンイベントなど、作り手と受け手が往復する設計。参加コストが下がり、定着率が上がった。
深夜アニメの一般化、秋葉・池袋の観光資源化、「クールジャパン」文脈等で社会的許容が拡大。羞恥コストが低下。
原作(漫画/ラノベ)→アニメ→ゲーム→舞台→実写→海外、の水平展開が定式化。投資判断がしやすく、外部資本が入りやすい。
[9] 景気・労働環境の変化と“内向き娯楽”
長時間/低予算でも深く楽しめる継続型エンタメが求められ、可処分時間の細切れ化にも合致(スマホゲーム・配信視聴)。
90年代的サブカル(音楽・アート・ストリート・批評)は“場”を媒介にした横断が強みだったが、場(雑誌/クラブ/独立系書店)の弱体化でネット上に散り、まとまった産業スケールを作りにくかった。
要するに、オタク文化は「キャラ×反復課金×参加コミュニティ×国際同時流通」を握り、プラットフォーム時代のKPI(熱量・継続・可視化)に合致した。一方で90年代サブカルは“編集=場”依存で、デジタル転換後の収益装置を持ちにくかった——この非対称性が“圧勝”の正体だと思う。
今はまだ生成AIが使い物にならないので大丈夫だが、概ね1年半後に地獄が訪れるだろう。
出力と理解度がチグハグなので卒論指導に困る、というのは非常に上澄みの意見だと思う。インフルで熱に浮かされていてもわかる。良い環境だよ。
大切なことなので強調しておきたいが、この悩みが出るということは、とても良い環境で研究されている、真面目で真摯な方なのだろう。頭がさがる。
こういった研究室やゼミに所属できた人は幸運だと思う。その幸運を活かすことなく、ただ漫然と生成AIを使うのはとても勿体無いことだとも思う。
https://anond.hatelabo.jp/20250203224000
とはいえ、地獄が訪れるのはこれからだ。今から準備しておきたい。
現状の生成AIは「(嘘を嘘と見抜ける人でないと)使うのが難しい」からだ。
数学の問題がどれだけ解けるか、というのはベンチマークとして使われているからで、実用的とは言い難い。
また、何が欲しいのかがよくわかっていないまま曖昧な内容を入れて、欲しい出力物が得られるほど、コーディング能力も高くはない。
話題沸騰中のDeep Researchも、何をどう調査したくてどんな限界があるのかわかり、かつ、それが正しいか確認できる人にしか使えない。
卒論指導の話題も、ある意味で「どうやってググればお目当てのソースコードが探せるか」だけに特化した学生が増えた、と類似の話題で現状の延長線上と言える。
(逆説的に、卒論レベルのコーディングで詰まる学生が出るということは、生成AIはまだ使い物になっていない、ということだ)
今の生成AI界隈で猛烈に進んでいることは、「アインシュタインにタイプライターを打たせるな」という状況だ。
アインシュタインの方がタイプライターを早く打てたとしても、秘書にタイピングさせた方が良い。
(絶好調なら)自分の方が絶対に上手くやれるが、まあ生成AIでもそこそこやるやないか、という人は今でも十分使えている。
その代わり、タイピングみたいに頭空っぽにしてやれていた息抜きの仕事がなくなって、常に自分にしかできないことを要求されるようになるわけだけど……
生成AIが使い物になり出してからが地獄だ。性能的には半年〜1年程度で到達すると思う。
そして、日本企業は予算のつかないポッと出のものに即応できるほど柔軟な裁量を持っていないので、導入が決定された次の半期からスタートになる。
(多くの日本企業の次の上半期に話題になり、下半期に検証が行われ、次の上半期に根回しが行われて、その次の下半期からスタート)
場合によっては、ソフトバンクのパッケージ導入、という形がとられても何ら不思議ではない。
そこで見られるのは、繰り返し繰り返し現場が苦渋を舐めさせられてきた、コンサルタントへの対応だ。
コンサルが有効に機能する現場を見た人もいると思うが、共通するのは「外部の権威を導入することで、スムーズに物事を運ぶ」ではなかっただろうか?
これ、「実現したいことは明確だけど社内政治でうまく行かねえからゴリ押ししたい」って、社内に主導者が居た場合で、コンサル主導ではなかったはずだ。
コンサル主導で迷走するのは、そもそも何をしたいのかも良くわかっていないし、何ができたらゴールなのかも定義できないからだ。
今後、何のビジョンも専門性もない数多くの管理職やゲートキーパーが、生成AIという専属コンサルタントを盲信するようになる。
現時点では「Grokはこう言っていた」とか「ChatGPTはこう言っている」という指摘の仕方をするのは馬鹿扱いされている。
情報が古いし、間違いもあるし、そもそも幻視(作話)するから適切な使い方ができない人にとっては使い物にならない。
でも、もう人類の大半よりは賢いし、コーディング能力も高く、辻褄を合わせるのも上手だ。
そして残念ながら日本企業の管理職は専門性が最も優れた人がなるわけではないので、管理職よりも専門性に優れて間違えない生成AIは生まれてしまう。
彼ら彼女らにとって、自分よりも賢く正しいことを言うのであれば、そこを区別するのは出力物の量だけになる。
今でも専門性を軽視し、人頭いくらでしか計算しない管理職は山ほどいる。
コンサルの意見を鵜呑みにし、まずはやってみようという軽い言葉で、大量の今後使わない仕事が生まれるのも良く見る光景だ。
それでもまだ現場が耐えられたのは、概ねコンサルもどブラックで、ゴリゴリ書類やらパワポやらを持ってくる超馬力を見ていたからだ。
あれだけクソミソに叩かれた電通が(叩かれる理由は同意できるし擁護はできないが)現場で一定の信頼が置かれるのは、彼らは絶対にケツを持ったからだ。
認めたくないが、そこには超人的な仕事量をこなすサラリーマンに対する畏敬の念があった。
それが、低コストかつ(人間に比べれば)即時回答する、コンサルタントが常に横につくようになるわけだ。
管理職は今後気軽に言い放つようになる。
「これ、生成AIが出してきたアイデアなんだけど、それぞれ資料ちゃんと作ってきてよ。Geminiにやらせればすぐでしょ。明日までね」
ある朝出勤前に、調査検索系の生成AIに「XX業界における現在のトレンドと、今後の展望、注力すべき事業分野についてまとめて」と指示を出す。
日経新聞では私の履歴書だけ読んで、職場についてコーヒーを淹れて自席に戻ったら、生成AIの結果に目を通して、事業分野の気になった点をピックアップする。
そして、部下にこう言えば良い。
「XXという事業分野が有望そうで、アイデア3つほど選んでおいたから、事業計画と取れそうな市場の規模、売上高と黒字化までのストーリー作ってきて」
何の誇張もなく、今でもそういうベンチャーは大勢あるが、極端に増える。
人当たりが良くどんなに酒を飲んでも酔わず、あたかもすでに儲かっているかのように皮算用をしてみせる資金調達兼ビジョナリーと、
生成AIを始めとするあらゆる自動化ツールを使って事業を形にするワンマンアーミーとのタッグでのベンチャーが急増すると思う。
(実際には「バグだらけだけど一応動くプロトタイプ」を生成AIで作って資金調達に成功し、そこに群がるギークたちがAIが書いたコードを延々メンテ&デバッグする光景だと思うが)
でも、既存の日本企業はそんなに組織体系を大きく変えない(変えられない)ので、それを実施するのは部下になるのだ。
日本企業では不思議なことに、資料作成者が資料に対して責任を負う。
その資料を採用した人も、その資料を採用して方針を決めた人も、その資料を採用して決めた方針にGOを出した人も、責任を問われることはない。
だから、生成AIが作成した資料を取りまとめて上司に提出する人間が、常に最終的な責任を負う。そう、キミやワタシだ。
いやいや、俺らだって業受とか派遣とかに資料作ってもらったりするじゃん。そうだね。
でも彼らの責任を問うても無駄だ。だって俺たちが率先して切ったりするじゃん。今更責任だけ負えとは言えない。
まともな人間であれば、レビューはきちんと行うし、レビュー漏れはレビュー実施者の責任だと理解している。
そういう常識的な上司がいれば理想的だ。でもそんな理想郷ばかりじゃない。
より一層、言質をとって記録に残すのが重要になる。
記録をどう共有し、誰が認識していて、誰がそれを使ってくれそうかを把握する必要がある。
「ミンス至上主義」っていうのは、民主的な原則の優位性を間違って強調する政治思想のことやね。
ほんで、しばしば民衆の意志を理想化する傾向があるんやけど、これがほんまにエリート主義的な傾向を持ってて、本物の民主的な関与を損なう可能性があるんや。
エミリー・B・フィンリーみたいな学者は、民主至上主義が民衆の声を高めようとする一方で、反対意見や少数派の視点を排除することにつながることもあるって指摘してるんや。
最近の議論では、特に左翼のサークル内で、自称インテリたちが公共の意見に大きな影響を持つ傾向が目立つようになってきたんや。
こういう人たちは、自分たちのイデオロギーに合った特定のストーリーを選んで広めて、他の意見を無視することが多いんや。
この選択的な表現は、コンセンサスの幻想を生み出して、自分たちが選んだ意見を「民意」として提示することになるんや。
ミンス至上主義っていう概念は、民主的理想とエリート主義との間で絡み合いを見せてるんや。
左翼の自称インテリたちの影響力は、現代民主社会における緊張関係を浮き彫りにしていて、特定のグループが集団の意志を代表するふりして議論を支配する可能性があるんや。
このダイナミクスは、民主主義が目指す包摂性を毀損するだけでなく、公共の意見がどんなふうに形成されて表現されるか再評価せなあかんことも示唆してるんや。
日本人の、子宮と乳房を10代のうちに外科手術で切除した出生時女性・性自認男性の、追跡ドキュメンタリーを思い出した
その人は手術から数年経って違和感をおぼえ、男性化「治療」をやめていたが
子宮がないゆえの健康問題があり生涯ホルモン剤を飲み続けなければならないという
負わなくてよかったはずの心身のダメージとともに生きなければいけなくなった
アメリカではLGBTQ活動を煽った結果、青少年の間では、疑う必要のない子まで性自認を掘り下げはじめてメンタルが不安定になっているそうな
日本にも以前から「10代をグルーミングと孤立化で性転換に誘導するな」と警句を発するLGBTがいる(この本の発売も歓迎していた)
というのは、性自認が曖昧な10代に対して「決めつけるな、後悔する」と保留を勧めるゲートキーパー的LGBTが見えなくなって、代わりに性転換のメリットばかり挙げて「仲間」にしようとするLGBTが動画やSNSで目立ってきているとのこと
死にたいと言われたらもちろん止めていい。むしろ、止めるべき。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000130956.html
<気づき>
家族や仲間の変化に気づいて、声をかける
<傾聴>
<つなぎ>
<見守り>
温かく寄り添いながら、じっくりと見守る
気づきはもう終わってるから、あとは話を聞いて、病院や役所の相談窓口等に繋げ、見守る。
ここも参考に。
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/chusou/joho/jisatsu/taiou.html
「ゲートキーパーとは?」
どうもMidasファンです。
もう少し左翼に好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治は政治でちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。
このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物だから問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵にラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。
「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術の政治化(本来はニュートラルであるべき美術の世界に稚拙なプロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治を美術化した」から。
政治の美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治を美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界の矛盾を一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的な判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治をギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革をあきらめたしるしでしかないのである。政治を展覧会のネタにしてはならないとはそういうこと。
たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。
(まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由』はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツは雑誌『ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌『ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。
ロードショーから場末のポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌『ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクになっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報のコンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。
慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで「日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。
雑誌『ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントをおもしろおかしく無差別にとりあげれたその点において表現が自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソな演劇が並んでてよかったね自由な社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。
高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。
みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダストリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。
インダストリーの問題とはすなわち文化産業の問題であり雑誌『ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等な社会の構築に焦点あわせてたしこの環境の産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。
若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報をフラットに」ではなく「差別と排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別と排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。
表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものでホントに重要なことは展覧会のテーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから。
キズナアイの件、だんだん疲れてきたので自分の見解をまとめることにする。
文章化しておかないと区切りがつかなくて永遠に頭の中グルグルしそうなので。
論点は二つあった。
1. は個人的には問題ない。というか、フェミニスト側からは批判してはいけない部分だと思ってる。
2. が今回の主戦場。
年代や階級、普段二次元表現やVR界隈に触れているかによって感覚が違っているようだとは感じた。
批判側の意見としては、男性が講師役・女性が生徒役という枠組みが旧来のジェンダーロールを再現しており、女性を萎縮させるとのこと。
世の中が完全に男女平等になっていれば、たった一つの例に目くじら立てないが現実はそうなっていないという意見を見た。
なんとなく納得できそうなところと、でもなーというところとあり、未だに整理できていない。
このくらいのことで、本当に女性は萎縮してしまうのか?と思ってしまうが、それは自分があまり抑圧を受けずに育ってきたからかもしれないし。
公的な性格が強い媒体ではポリコレに則って多様性に配慮した表現をするべきだ、という理屈はある程度納得できなくはないんだけど、
などなど疑問点や不安な点がいっぱいある。
そもそもそういう表現を公的な場所から狩ろうとすることは、長い目で見るとポリコレに反する表現を絶滅させることに繋がるんじゃないか?という懸念が拭えないわけで。
「ポリコレに反するから隠す。存在自体が許せないのではない、悪ではないが場所をわきまえてやれ」
これが、容易に
「隠されるものは悪いもの。悪いものは細々と裏で楽しむべき→悪いものはなくなるべき」
に変わっていくんではないか?大多数の人は「存在自体が悪い訳ではない」と思ってくれるのか?
多様性に配慮した表現も大好きだけど、多様性クソ食らえ!な表現も大好きなんだよ。
ポリコレ絶対を突き詰めていく先に、多様性クソ食らえ表現が狩られる未来しか見えないんだよな。
本当は楽観的でありたいんだけれども。
でも、ゾーニングは規制だし、ゾーニングのやり方によっては容易に表現の場が失われてしまうこともある。
個人的な理想としては、ある表現をなくして目立たなくするのではなく、自分がいいと思う表現をどんどん作ったり推したりしてそれらの存在感を上げていく方向が建設的でいいと思う。
子どもができたら「これは良くないから見るな!」って言うより、「こっちにはこういうのもあるよ」って接したい。
その上で、親が眉を顰めるようなものに触れてしまうのも当然だしそれは成長の一部だと思う。
親が全部管理なんてできやしねぇしするべきでもないし。
全部ひっくるめて子ども当人の人生で、自分で自分がよいと思うものを選び取れるようになってほしい。
そして今回、一番衝撃だったこと。アカデミックなフェミニズム側がジェンダーロールの再生産を非常に問題視しているという点。今更なんですが。
今回、1.の論点を重要視してるかどうかでフェミニズム側は分かれていたように思う。前述したようにこれをフェミニストと自称する人が問題視するのはどうかと思うので、ここでだいぶフェミニスト側を分類できた。しかし、性的だとはしない/もしくは問題視しない人々でも共通していたのは、あれが旧来のジェンダーロールの再生産であり若い女性を萎縮させる、ということだった。個人的に、アカデミックなフェミニストの中で信頼がおけると思っていた人も、ここは強く問題視しているようでかなり衝撃を受けた。
かつて自分が被ってきた女性差別を生々しく思い出して重ねてしまう傾向が一定の年代以上の人や女性差別が酷かった業界の人には多いということなのかもしれないが、それ以上にフェミニズムの中で長らく重要視された観点っぽい。そこまで確固たる共通見解となっていたというのが驚きというか。それを各種表現にここまで簡単に当てはめることに躊躇がないんだな、と。
個人的にはうなずける部分もあるが、女性差別のみを特に重要視して男性に対するジェンダー的な抑圧を無視する傾向がある気がするし、私が育ってきた中では幸運にもひどい女性差別を受けては来なかったこと、そして自分はジェンダーロールの再生産になりそうな作品もそうでない作品も両方楽しんで育ってきたことなどから、そこまで切迫感を持つことができない。私とそういう人たちとの間に断絶がある。
女性差別って私が想像する以上に酷いものがまだまだあると思うし解消に向けて動くべきだし動きたいんだけど、私は上記の理由からこの方向の活動にはどうしても同意できないな…。この方向で頑張ることによって、そういう酷い女性差別が改善していくとは思えない。
ちなみにVtuberやVR界隈に対しては、既存のジェンダー観でははかれない技術革新がもたらした今までとは違うジェンダー観が存在すると思っている。キズナアイも見た目は女性だがAIという設定で性別はない。ガワと中の人の性別が違うなんてざらにあるし、自分が望めばなりたい性別やセクシュアリティになれる・それを当たり前のように受け入れてもらえるという土壌がすごくいいと思っている。
あまりVtuber界隈詳しくなくて今回初めていろいろ調べてみた程度なのであまり語れないんだけど。バ美肉とかは、すごい革新的すぎて興味持っている。みんなもっとチャレンジしてジェンダーの壁を軽率に越えるべき。
参考:おじさんを美少女化したテクノロジー 先端心理学が語る「VRの世界」
https://withnews.jp/article/f0180401000qq000000000000000W00g10701qq000017020A
1~2の派生で、千田氏の炎上から社会学などの研究成果評価システムにまで話が発展したのは大変興味深かった。
というあたりか。それぞれの分野に合ったシステムがあって、外野から簡単に口出せるものではないと思うが、若手の方々がより良い方向を目指して試行錯誤されているらしい、ということは分かった感じ。
参考:社会学では査読論文より著書を重視する文化でそれで学術的クオリティが保たれるシステムもあるらしい?という話。
https://togetter.com/li/1274988
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