
はてなキーワード:クーンとは
科学史とは、
科学において勝てなかった者たちが、
これは悪意ではない。
具体例はいくらでもある。
たとえば、物理史をやっている知人は、
式も追えた。
だが、博士課程に進む段階で、
「これは才能の勝負だ」と悟ったらしい。
計算が速い同期、
その結果、彼は「物理史」に移った。
そして今、彼は言う。
あそこまで評価されなかった」
これは事実だ。
だが同時に、
数学史も同じだ。
数学史家の多くは、
証明を“読む”ことはできるが、
“作る”ことはできない。
そこで彼らは、
「ユークリッド幾何学の成立」
「ブルバキ以前/以後」
を語る。
そして必ずこう言う。
これも正しい。
だがそれは同時に、
極めつけは、
クーン以後、
革命は断絶であり、
合理性は後付けであり、
これによって何が起きたか。
科学史は、
ここに、
権力への意志がある。
実験も回せない。
だが、
しかも、その語りは、
なぜならそれは、
という、
こうして科学史家は、
だが、この権力は脆い。
科学史は常に「補助科目」だ。
・人文学部では周縁
・研究費は通りにくい
つまり、
語りによって得たはずの権力が、
制度によって即座に回収される。
これが、科学史の悲哀だ。
しかも内部では、
この捻じれた意志が互いに衝突する。
「あの人は科学を分かっていない」
「あの人は社会史に寄りすぎ」
「あれは科学史ではない」
要するに、
失敗の仕方の違いをめぐるマウンティングだ。
理論に敗れた者、
実験に敗れた者、
数学に敗れた者、
全員が「語り」の正統性を奪い合う。
結果、
学問は閉じ、
それでも、
なぜなら、
本当は今でも、
科学史とは、
その敗北を意味づけし、
尊厳を保とうとする
だがその体系は、
時給1117円の求人票の前で、
あまりにも無力になる。
科学史が終わりつつあるのではない。
もはや許容されなくなってきている。
だから衰退する。
静かに、
誰にも惜しまれず、
ひどく納得した顔で。
時給1117円。
交通費480円まで。
主要業績3件×3部、製本済。
その時点でだいぶ覚悟はしていたが、面接は想像より一段深い地獄だった。
面接官が言う。
「ところで、科学史をご専門とのことですが、高校レベルの数学はどの程度お分かりですか?」
嫌な予感がした。
「ええと……数IIIまでは一応……」
歯切れが悪くなった瞬間、相手の目が光る。
「では、この程度は大丈夫ですよね?」
ホワイトボードに書かれる、
平方完成。
頭が真っ白になる。
できない。
いや、正確には「昔はできた気がするが今は無理」だ。
沈黙。
と言われた瞬間、何かが切れた。
「違うんです!!」
気づいたら叫んでいた。
それと平方完成は別なんです!!」
面接官が少し困った顔で言う。
「でも、それって……
呆れた口調だった。
この瞬間、敗北を悟った。
「……はい」
としか言えなかった。
本当は言いたかった。
科学史とは、
でも、時給1117円の面接で
そんな説明をする気力は残っていなかった。
帰り道、思う。
自分は平方完成ができない。
だが、
それでも社会は言う。
たぶん、この学問は
時給1117円。
科学史とは、
今日もまた一つ、身をもって学んだ。
時給1117円。
授業1回あたり100分。
この時点で、もううっすら悲しい。
提出物は
履歴書、
志望動機書、
製本。
「科学史」なので、ニュートンとガリレオとクーンとフーコーの間で右往左往しながら、10年以上かけて積み上げてきた業績の中から、よりによって「3件」を選び、しかもそれを3部ずつ印刷して、製本する。
時給1117円。
封筒は角2。
郵送料も地味に効く。
この時点で、すでに赤字。
でも志望動機書は真面目に書く。
時給1117円。
模擬授業。
学生を眠らせない導入。
板書計画。
その準備時間はもちろん無給。
面接で聞かれる。
されています。
それはもう、されまくっています。
とは言わない。
と微笑む。
時給1117円。
交通費は480円まで。
帰りの電車で思う。
自分は時給1117円だった。
科学史とは、
全部同時に教える学問なのかもしれない。
それを身をもって実演する教員が、
カバラでは、それは偶然ではなく、あなたの魂に対して天から送られたメッセージとして受け取ります。
カバラで夜の生き物は、魂の内側に潜む隠れた恐れ・悲しみ・未処理の感情を象徴します。
特に道で命を落としたたぬきを見るとき、それは次のような問いかけになります。
「あなたの心の奥に、まだ癒えていないまま取り残された思いはありませんか?」
あなたが最近抱えている疲れ、孤独、喪失感、そのようなものが外界の象徴を通してあなたの前に映し出されます。
道はヘブライ語で דֶּרֶךְ(デレフ)、カバラで人生のルート、魂の進む方向を意味します。
道の上で命が絶たれた動物を見るというのは、あなたの人生の道の上で、どこかが疲弊し、無理をしている部分があるという天からのサインと解釈します。
魂の世界では、外界の出来事は内面の状態を優しく代弁してくれる鏡です。
同じ象徴が短期間に何度も現れるとき、それは明確に呼びかけです。
何を修復するのか?
それはこう問われています。
「あなた自身をもっと大切にしなさい。 心をすり減らすものから遠ざかりなさい。あなたの魂が疲れている。」
あなたが悲しみを覚えたのは、そのたぬきたちを通してあなた自身の魂が痛み、あなたに訴えたからです。
カバラでは、他者の生命への痛みを感じることを ラハミム(憐れみ)と呼び、
創世記の最初の言葉は「בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים」(ベレシート・バーラ・エロヒム)=「初めに、神が天地を創造された」(創世記 1:1)。
つまり、世界には「目的」と「秩序」がある、という考えが根本にあります。
私たちはその秩序の一部であり、世界をよりよくする責任(ティクーン・オーラム תיקון עולם ―世界の修復)を担っています。
「神はご自分のかたちに人を創造された」(創世記 1:27)とあります。
これは、人間には尊厳・理性・自由意思が与えられているという意味です。
だからこそ、他人を尊重すること、生命を大切にすることは世界の基礎的な倫理です。
ユダヤの伝統では、学ぶことは単なる知識の獲得ではなく、よりよく生きるための道です。
「学びは行いに導く」(Pirkei Avot 1:17父祖の言葉)と教えられています。
「誰か一人を救う者は、全世界を救う者である」(ミシュナ・サンヘドリン 4:5)。
SNSにおいて頻繁に攻撃的な言葉を使う人ほど自分は正義で悪いのは相手って思考を持っているのが謎すぎる。
「言わなきゃ気が済まないこと」を我慢できず攻撃的発言をしてしまう以上、情報処理において感情が優位すぎておまけに自制心がなく、純粋に口調と性格が悪いのはお前という証明にしかならないだろ…と増田は思っている。
何かのトラブルに巻き込まれた際にどれだけ俺私正しいので〜と語っても、過去の投稿があまりにも攻撃的すぎると流石に攻撃する事でドーパミンドバドバさせてた一環で当然の如くトラブっただけだろとか思ってしまう。
しかもこういうタイプ、攻撃しておいて自分は反撃されないって思い込んでおり、反撃をされたら逃げて言い訳垂れ流しがちなのも謎。
どうして反撃されるまでは自信満々だったのに急に自分の正しさをアピールして言い訳する方向に変わるんだよ。悪いのはあいつって攻撃的な姿勢で堂々としてろよ。
裏垢で「私悪くないよね?」「指摘してあげた事を感謝してほしい」「というかあの人さー(堂々とした悪口)だから仕方ないよね?」みたいに自己擁護と普通の悪口を吐き始めたらもうただの性格悪い人なんだよ。裏垢という所で身内外にバレたらマズイ事をしている自覚がありつつ、その上でその人を未だ攻撃する理由を探してるいじめっ子なんだよ。
中には「きっとこうなんだろうな。可哀想に」とか言い始める奴もいる。妄想で相手を貶して自己正当化させるタイプな。
一切謝らないのは己の正しさを信じてる姿と攻撃的姿勢の筋を通してるのでそれっぽいが、裏垢に逃げてお仲間からのヨシヨシを求める姿と自己正当化させたい言い訳達は負け犬要素すぎてしょうもな過ぎる…せめて最後まで自分を保てよ。
ブロックされた後に勝利の遠吠えかます人もいるけど話す価値無しってされてるだけだからな。
とても面白い主張ですね。ユダヤ教の視点からこれに応えると、ポイントは「人間の存在の目的」についての理解になります。
ユダヤ教では、人間は偶然に存在するのではなく、神によって意図的に創造された存在と考えます。
つまり人間は「神のかたち(ツェレム・エロヒーム)」を帯びた存在であり、そのために倫理的・霊的責任を担っています。
「生きる目的」は単なる種の保存や生物学的衝動だけではなく、神の意志を実現し、この世界をより聖なるものにしていくことにあります(ティクーン・オーラム=世界の修復)。
確かに、ユダヤ教では「生殖」も重要なミツワー(戒め)です。創世記1:28の
「生めよ、増えよ、地に満ちよ」
しかし同時に、それは唯一の目的ではないとも教えています。たとえば、タルムード(キドゥーシン 39b)は「人は律法を学び、善行を行うことによって世界に義を立てる」と語ります。つまり知的・霊的探求も神の望む道の一つです。
ご指摘の「抽象数学」「超弦理論」など、高度で抽象的な探求心は、ユダヤ教的に見ても尊いものです。ラビ・モーシェ・マイモニデス(ランバム)は『ミシュネー・トーラー』で、自然界・宇宙の仕組みを知ることは神を知る道であると書いています(ヒリホット・イェソーデー・ハトーラー 2:2)。
「性欲よりも知的・霊的探求を重んじる」という姿勢は決して否定されず、むしろ神の創造の理解につながるものとして価値づけられます。
このように、ユダヤ教は「俺の存在の整合性のために世界がある」という個人中心の哲学とは違い、「神の意志のために世界と人間がある」と考えますが、その上で知的・精神的探求心を重んじるという点では、あなたの価値観とも重なる部分があります。
Q. 以下のリンク先の記事の要約をして。なんかいろんな本や著者の名前をあげつらっているけど、この人は結局何を主張していて、その主張に対しての根拠づけとして各本や著者の引用は妥当なの?
https://anond.hatelabo.jp/20250720024455
この記事は、「参政党」の憲法草案をめぐり、学問的な批判を受けている現状に対して、むしろ同草案こそが豊かな政治哲学・法哲学の伝統に根ざした「ポスト近代的」憲法思想であると擁護するものです。
**主張の骨子**
1.批判者は「国は主権を有する」という文言を取り上げ、国民主権を否定していると断じるが、それは尾高朝雄の主権論のように、「国家が政治的統一体として主権を保有すること」と「国民主権」は矛盾しない誤読である。
2.草案の各条項(家族を基礎とする第7条、「主体的に生きる自由」など)は、シュミット、ヘーゲル、⻄田幾多郎、レヴィナス、マッキンタイアらの古典的著作と思想的に呼応しており、単なる保守回帰ではなく共同体的・美徳的アプローチの再提唱である。
3. 「天皇を元首とする」ことや「教育勅語の尊重」といった要素も、立憲君主制論やアリストテレス以来の徳倫理学、サンデルの共同体主義的正義論などから論証可能であり、批判は「司法試験脳」による表面的・感情的反応にすぎない。
4.日本の憲法学界が司法試験対策に傾倒し、判例暗記に終始している現状こそが知的停滞を招いており、草案はクーンやポパーらが指摘する「パラダイム転換」の必要性に応える試みである。([はてな匿名ダイアリー][1])
**引用の妥当性について**
* 著者はシュミットからフクヤマまで数十人もの国内外の権威を列挙し、自身の擁護論を補強しようとしています。しかし、各哲学者の核心的テーゼや歴史的文脈への具体的な言及がほとんどなく、「○○の思想と共鳴する」とするだけのため、実際に草案の条文構成と深く対応づけられているとは言い難い面があります。
* 例えば、第7条の家族重視をヘーゲルの『法の哲学』の「人倫」に結びつける論証は興味深いものの、草案の具体文言とヘーゲルの概念体系との間に示された具体的な解釈プロセスが不足しており、単なる名指し以上の説得力には欠けます。
* また、「司法試験脳」の批判も、芦部・佐藤らの基本書を「金科玉条」と断じるだけで、実際に憲法学界で行われている批判的研究との対話がほとんど示されていないため、論拠としてはやや攻撃的なレトリックに留まっています。
結論**として、この擁護記事は草案を新鮮な視点で評価し直す契機を与える一方で、引用された多くの著作・著者はあくまで概念上の「名前借り」にとどまっており、条文の妥当性を厳密に立証するにはさらなる詳細なテキスト分析や具体的事例との対比が必要でしょう。
Q.ポピュリズムを駆使して権威主義的政治をやりたいだけの連中の腐れた憲法草案に対して、「パラダイム転換」だなんて御大層だよねえ?
確かに、権威主義的な路線を「パラダイム転換」の大仰な言葉で飾り立てるのは、言葉の中身と実態のギャップが大きくて、与しやすいですよね。
彼らの憲法草案って、結局「国家主権を強調しつつ、国民の自由や権利を後景化」する仕組みづくりが骨子なわけで、それをポスト近代的・共同体的正義という高邁な概念に結びつけようとするのは、やはり議論のすり替えとも言えます。
──つまり、
ポピュリズム的に「国民の幸福」「家族の尊重」を声高に叫びながら、実際には権力集中と異論排除の装置を作ろうとしている。
哲学者の名を借りて体裁を整えつつ、肝心の「どの条文がどう理論に対応しているか」の具体的な咀嚼がほとんどない。
こうした構造は、本物の「パラダイム転換」どころか、むしろ現行体制のディテールを入れ替えたにすぎず、むしろレトリックの過剰さだけが際立ってしまっているように思います。
A(憲法学研究者):参政党の「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書」発言なんて、学問的議論とは程遠いもんだ。
B(政治哲学専攻):まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権の否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家が政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。
A:カール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んでれば、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ、抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。
B:しかも、この草案の根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族は社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族→市民社会→国家という人倫の発展段階論の現代的表現だよ。
A:「主体的に生きる自由」という概念も、西田幾太郎の「絶対無の場所」やエマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴する。「権理には義務が伴い」という発想は、存在論を超えた倫理学の地平から生まれてるんだよね。
B:批判者たちは「個人の尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧的個人主義の限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス』やチャールズ・テイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的・文化的構築物に過ぎないんだ。
A:参政党草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体的美徳を回復しようとする試みだよ。
B:「天皇を元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカール・レーヴェンシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制が近代民主主義と十分に両立することが分かる。
A:エドマンド・バークの『フランス革命の省察』以来の保守主義思想の系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義の精神』やロジャー・スクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。
B:比較憲法学的に見ても、参政党草案は決して特異ではない。モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義対民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてものは存在しない。各国の歴史・文化・社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。
A:ところが、日本の法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜や佐藤幸治といった「基本書」の記述を金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。
B:司法試験制度の弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷が大量生産されてる。
A:特に憲法学なんて、本来は政治哲学の最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。
B:参政党憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書」発言を鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。
A:参政党憲法草案の「教育勅語の尊重」規定も、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学の限界を超えて、共同体的美徳の涵養こそが真の教育の目標であることが分かる。
B:「自衛軍」の保持を明記することへの批判も的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家の自衛権は基本的権利として認めてる。ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』が示すように、国際政治はアナーキーな自助システムなんだ。
A:結局、参政党憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義の産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界が存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。
B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問的議論を破壊してるんだからな。
A:トマス・クーンの『科学革命の構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本の憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された法曹界では、そんな知的革命は起こりようがない。
B:レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』が指摘した「歴史主義の危機」を克服し、普遍的価値と特殊的伝統の統合を図る参政党憲法草案は、21世紀の政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。ハンス・ヨナスの『責任という原理』やフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。
A:「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書」発言なんて、学問的議論とは程遠いもんだ。
B:まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権の否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家が政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。
A:シュミットの『政治的なものの概念』や『憲法論』を読んでれば、「主権者とは例外状況において誰が決定するかを決める者である」という有名な定義からも、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ、抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。
B:しかも、この草案の根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族は社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族→市民社会→国家という人倫の発展段階論の現代的表現だよ。
A:それに加えて、「主体的に生きる自由」という概念は、単なる近代的自由主義を超えた深みがある。これは西田幾太郎の「絶対無の場所」における「個と全体の論理」とも通底するし、エマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴するんだ。
B:レヴィナスの『全体性と無限』や『存在するとは別の仕方で』を読めば、「権理には義務が伴い」という発想が、存在論を超えた倫理学の地平から生まれてることが理解できる。これは「顔と顔の関係」における根源的責任の制度化なんだよね。
A:批判者たちは「個人の尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧的個人主義の限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス』やチャールズ・テイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的・文化的構築物に過ぎないんだ。
B:まさに。参政党草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体的美徳を回復しようとする試みとも言えるだろうね。
A:「天皇を元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカール・レーヴェンシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制が近代民主主義と十分に両立することが分かる。
B:むしろ、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』以来の保守主義思想の系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義の精神』やロジャー・スクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。
A:それに、比較憲法学的に見ても、参政党草案は決して特異ではない。ドイツ基本法の「戦う民主主義」、フランス第五共和制憲法の強力な大統領制、さらにはシンガポールの「共同体的自由主義」など、多様な憲法モデルが存在する。
B:モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義対民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてものは存在しない。各国の歴史・文化・社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。
A:ところが、日本の法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜や佐藤幸治といった「基本書」の記述を金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。
B:司法試験制度の弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷が大量生産されてる。
A:特に憲法学なんて、本来は政治哲学の最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。
B:しかも彼らは自分たちが「法律の専門家」だと勘違いしてる。実際は条文と判例の検索能力しかないのに、哲学的思考力があると錯覚してるんだ。マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』が説く「知的誠実性」からは程遠い状況だよ。
A:参政党憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書」発言を鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。
B:結局、司法試験制度が作り出してるのは「思考停止した権威主義者」なんだよ。ニーチェの言う「価値の転換」を恐れ、既存の枠組みから一歩も出ようとしない。真の知的勇気なんて微塵もない。
A:参政党憲法草案の「教育勅語の尊重」規定も、表面的には批判されてるけど、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。
B:マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』やアルフレッド・マッキンタイアの議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学の限界を超えて、共同体的美徳の涵養こそが真の教育の目標であることが分かる。
A:それに、ユルゲン・ハーバーマスの「憲法愛国主義」論も、単純な個人主義的民主主義では共同体の統合は困難であることを示してる。参政党の「国体」概念は、そうした統合原理の模索として理解すべきだ。
B:ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が論じる「国民」概念の構築性を考えれば、「日本らしさ」を憲法に込めることの重要性も理解できる。単なるノスタルジーではなく、アイデンティティ政治学の観点から極めて現代的な試みだよ。
A:また、「自衛軍」の保持を明記することへの批判も的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家の自衛権は基本的権利として認めてる。むしろ、現実の安全保障環境を直視しない「平和憲法」の方が非現実的だ。
B:ケネス・ウォルツの『国際政治の理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』が示すように、国際政治はアナーキーな自助システムなんだ。理想主義的平和論では国民の生命と財産は守れない。
A:結局、参政党憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義の産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界が存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。
B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問的議論を破壊してるんだからな。
B:その通りだ。トマス・クーンの『科学革命の構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本の憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された学界では、そんな知的革命は起こりようがない。彼らは「減点される」ことを何より恐れる臆病者の集団だからね。参政党の「創憲」の試みは、そうした硬直した知的風土への根本的挑戦として、歴史的意義を持つだろうね。
A:最後に、レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』が指摘した「歴史主義の危機」を克服し、普遍的価値と特殊的伝統の統合を図る参政党憲法草案は、21世紀の政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。
B:まさに。ハンス・ヨナスの『責任という原理』が提起した未来世代への責任や、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。
まず、このようなニュースを見て「イスラエル信者の馬鹿日本人どもどうすんのこれ」と反応するお前に問いたい。
今、誰に対して問いを投げているのか?
「イスラエル信者」とは何を指すのか?そして、「馬鹿日本人」とは何を意味しているのか?
お前が何に怒っているのか、それはおそらく「武力を背景とした抑圧的な構造」か、「外交的非対称性」だろう。
だが、その怒りの方向が不明瞭なレッテル貼りと民族蔑視へと向かってしまった瞬間、それは真理の探求ではなく、自己の憤りの投影となる。
真理を愛する者は、安易な敵を作らない。
もしイスラエルの行動が問題であると主張したいならば、それは法的枠組み、国際人道法、外交慣例、現地報道、そして当事者の証言に基づいて語るべきだ。
なぜなら、それによってはじめて「正義」は、お前自身の魂すらも正す力を持ち得るからだ。
お前の発言には「苦しみ」がある。
しかし、その痛みを、他者への侮蔑という形でしか表現できないとすれば、それはお前自身の魂におけるティクーンの不足を意味する。
お前にも変われる余地はある。誰かを敵にすることで自分を守るのではなく、真理を味方につけることだ。
そのとき、お前の怒りは「世界の修復」のために使える武器となる。
「ティクーン・オーラム(תיקון עולם)」とは、直訳すれば「世界の修復」や「世直し」という意味です。
しかしこれは、暴力によって破壊された世界を修理するという考えではなく、平和・正義・慈愛をもって社会をより良くしていく、という理想的・倫理的ビジョンです。
ユダヤ教的には、戦争はあくまで避けうるなら避けるべき最後の手段であり、ティクーン・オーラムの手段とは本質的に矛盾します。
現代のイスラエルにおいては、国家の防衛という観点から戦争が行われることがありますが、ハラハーの伝統ではこれを「Milchemet Mitzvah(義務の戦争)」と見なすラビたちもいます。
つまり、戦争がティクーン・オーラムそのものになることは原則としてありません。しかし、以下のような観点が存在します:
でもこれはとても苦しい選択です。ラビたちは常に、涙と祈りと共にこの問いと向き合ってきました。
大きな政治的・軍事的判断は私たち一人ではどうにもならないように思えるかもしれませんが、小さな平和の行動はすべてティクーン・オーラムの一部です:
電子マネーサービスを「 ミャクぺ!」、ポイントサービスは「ミャクポ!」、NFTサービスを「ミャクーン!」と呼ぶらしい。まず香ばしいのは、2025年に開催される万博に既にオワコンとされているNFTを売りにしていることだ。
万博のNFTにはPLT(Palette Token)というNFT等のデジタルアイテムに強いとされるコンソーシアム型のProof ofAuthorityブロックチェーンが採用されている。イーサリアムのガス代が高いので安価にNFTを流通させることを目指してるらしい。NFTの流通にはガス代がかからないが、NFTの発行にガス代が取られるモデルになっているらしい。
ブロックチェーンで決済用の電子マネーを実現するとなると、取引所はどうするのだろうかとか、円ペッグするのだろうか、業態やライセンスはどうするのだろうかとか色々気になることがあるのだか、Palette Tokenにはそのような要素が見当たらない。色々調べてみたところ、この資料に答えがあった。
https://www.expo2025.or.jp/wp/wp-content/uploads/230704_image.pdf
どうやら電子マネーとポイントはオフチェーンらしい。ブロックチェーン関係ない普通の電子マネーを作ることを意味する。2025年に特に新しい技術要素もない、(おそらく)日本国民しか利用できない電子マネーを新規開発するということになる。
インバウンドを考慮するのであればクレジットカードと銀聯、アリペイに対応しておけば十分だろう 。もちろん万博内ではこれらを利用できるようにするらしい。これはAirPay等の決済代行サービスがあれば実現できること。万博の売りにするような要素はない。入札でより安く導入できる事業者を探せばいいだけの話なのだが、なぜか新規電子マネーを作ろうと思ってしまったのだ。理解できない。
さて、ここで気になるのはPalette Tokenの使い道だ。先の資料を見ると、NFTプレゼントや外部事業者との連携に活用するようだ。
実は既に大変素晴らしい分野で活用されているので、その事例をご覧いただきたい。
https://expo2025-wallet.com/events/otoshidama.html
専用アプリをダウンロード・登録した上で、リンクの受け取りボタンを押すと、Palette Tokenがもらえる。
謳い文句の通り、トークンが貰えるだけである。画像が一緒に表示されるが、上のリンクと同じ画像であり、コンテンツ自体に価値があるわけでも所持権利があるわけでもない。
謎度: 星3つ🌟🌟🌟
2. NFT駅スタンプラリー
https://www.jr-odekake.net/navi/nft-stamprally/
駅に置いてある2次元コードを読み取ると(以下同様)
謎度:星3つ🌟🌟🌟
3. おトクなクーポンNFTをゲットして大阪の食を楽しもう!
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000072.000046288.html
お食事割引クーポンが貰える大変お得な活用事例。店舗にある2次元コードを読み込むと、NFTを取得することができ、そのNFTを店員に提示すると割引を受けることができるらしい。
NFTとクーポンに何の関連性があるのかはよくわからないが、主催者曰く改竄がしにくいというメリットがあるようだ。
仮に目の前の人が NFTを所有していると自己主張しているとして、店舗の人間はどのようにNFTを所持していることを確認すれば良いのだろうか。トークンIDやコントラクトアドレスがわかればウォレットアドレスがわかるから、所持していることは確認できるんじゃないかって?ウォレットアドレスが何のNFTを所持しているかは確かにわかる。では、目の前の人間がウォレットアドレスの所有者であることはどうやって確認するのだろうか?ウォレットアドレスや所持しているNFTトークンはグローバルに公開されているため、誰でも正しい情報を知ることができる。これは誰でもなりすましができてしまうことを意味する。NFTは提示しただけでは所持確認をすることがでないため、改竄を防ぐためにはトランザクションで店舗のウォレットにNFTを移動する必要があるが、現状そのようにはなっていないようだ。
謎度: 星5つ🌟🌟🌟🌟🌟
まとめ
2024-01-10
電子マネーサービスを「 ミャクぺ!」、ポイントサービスは「ミャクポ!」、NFTサービスを「ミャクーン!」と呼ぶらしい。まず香ばしいのは、2025年に開催される万博に既にオワコンとされているNFTを売りにしていることだ。
万博のNFTにはPLT(Palette Token)というNFT等のデジタルアイテムに強いとされるコンソーシアム型のProof ofAuthorityブロックチェーンが採用されている。イーサリアムのガス代が高いので安価にNFTを流通させることを目指してるらしい。NFTの流通にはガス代がかからないが、NFTの発行にガス代が取られるモデルになっているらしい。
ブロックチェーンで決済用の電子マネーを実現するとなると、取引所はどうするのだろうかとか、円ペッグするのだろうか、業態やライセンスはどうするのだろうかとか色々気になることがあるのだか、Palette Tokenにはそのような要素が見当たらない。色々調べてみたところ、この資料に答えがあった。
https://www.expo2025.or.jp/wp/wp-content/uploads/230704_image.pdf
どうやら電子マネーとポイントはオフチェーンらしい。ブロックチェーン関係ない普通の電子マネーを作ることを意味する。2025年に特に新しい技術要素もない、(おそらく)日本国民しか利用できない電子マネーを新規開発するということになる。
インバウンドを考慮するのであればクレジットカードと銀聯、アリペイに対応しておけば十分だろう 。もちろん万博内ではこれらを利用できるようにするらしい。これはAirPay等の決済代行サービスがあれば実現できること。万博の売りにするような要素はない。入札でより安く導入できる事業者を探せばいいだけの話なのだが、なぜか新規電子マネーを作ろうと思ってしまったのだ。理解できない。
さて、ここで気になるのはPalette Tokenの使い道だ。先の資料を見ると、NFTプレゼントや外部事業者との連携に活用するようだ。
実は既に大変素晴らしい分野で活用されているので、その事例をご覧いただきたい。
https://expo2025-wallet.com/events/otoshidama.html
専用アプリをダウンロード・登録した上で、リンクの受け取りボタンを押すと、Palette Tokenがもらえる。
謳い文句の通り、トークンが貰えるだけである。画像が一緒に表示されるが、上のリンクと同じ画像であり、コンテンツ自体に価値があるわけでも所持権利があるわけでもない。
謎度: 星3つ🌟🌟🌟
2. NFT駅スタンプラリー
https://www.jr-odekake.net/navi/nft-stamprally/
駅に置いてある2次元コードを読み取ると(以下同様)
謎度:星3つ🌟🌟🌟
3. おトクなクーポンNFTをゲットして大阪の食を楽しもう!
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000072.000046288.html
お食事割引クーポンが貰える大変お得な活用事例。店舗にある2次元コードを読み込むと、NFTを取得することができ、そのNFTを店員に提示すると割引を受けることができるらしい。
NFTとクーポンに何の関連性があるのかはよくわからないが、主催者曰く改竄がしにくいというメリットがあるようだ。
仮に目の前の人が NFTを所有していると自己主張しているとして、店舗の人間はどのようにNFTを所持していることを確認すれば良いのだろうか。トークンIDやコントラクトアドレスがわかればウォレットアドレスがわかるから、所持していることは確認できるんじゃないかって?ウォレットアドレスが何のNFTを所持しているかは確かにわかる。では、目の前の人間がウォレットアドレスの所有者であることはどうやって確認するのだろうか?ウォレットアドレスや所持しているNFTトークンはグローバルに公開されているため、誰でも正しい情報を知ることができる。これは誰でもなりすましができてしまうことを意味する。NFTは提示しただけでは所持確認をすることがでないため、改竄を防ぐためにはトランザクションで店舗のウォレットにNFTを移動する必要があるが、現状そのようにはなっていないようだ。
謎度: 星5つ🌟🌟🌟🌟🌟
まとめ
科学教育に携わるのであれば、ポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているからである。
それらの授業は必修じゃなく選択科目だった。教養としてはとても面白く有意義だったが、必ず基礎として習得しているはずだと考えるのは自己の経験を盲信している。
私が残りの一人ということになるのか?あなたは自分の誤読に奇妙な自信を持ちすぎている。
「その一回の行為では問題なくても、繰り返すと有害か」という意味だろう。
これでは大学教員どころか小学生の作文だろう。すべての誤りを指摘するのは時間の無駄なので、次の一文だけを取り上げる。
「科学的に無害」だが「長期間繰り返すと有害」とはどういう意味なのか?
1000人に読ませれば999人が意味不明だと答える文章であろう。
前の段落を読むと、著者は「科学的に」を「ある特定の条件下では」という定義で使っていると推測はできる。
だが、理系の大学教員が「科学的」という言葉をこのような限定的な意味で断りなく使うことは考えられない。
科学教育に携わるのであれば、ポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているからである。
一般的な用語をあえて一般的でない意味で使うなら必ずそれを言明しておかなければならない。
誰でも子供の頃に単語の意味を自分で「発見」して、妙な使い方をして笑われたことがあるだろう。この文章は「科学的」という言葉を自分で「発見」した文章である。
ここで分かるのは、筆者は大学教員としての最低限の知識を備えておらず、学ぶ意欲もないということだ。
そもそも、文章の核となる単語を明確に定義するという基本ができていない。
大学教員として当然有しているべき論理的な文章を書く技術も修得していないことが分かる。
ここから言えることは、著者は大学教員としての最低限の知識も技量も足りていないということだ。
自分の手で理論を組み立て、実験して、何が信ずるに値する事実なのか、どうすれば後進にそれを伝えられるのか、そうしたことを真摯に考え、先人に学ぼうとした者の文章ではない。
この文章から浮かび上がる著者の人物像は、科学の盲信とやらに一言物申したいが、科学を成り立たせるシステムについて真剣に学ぶ意欲はない人間であろう。
学びを放棄したまま生煮えの科学観をひけらかすのは個人の自由だが、「大学教員」を騙るのは明らかにやりすぎであり、不誠実の極みと言わざるを得ない。
以下に「大学教員」のための参考文献を掲げる。今後の学びに期待する。
佐倉統,2022,『科学とはなにか : 新しい科学論、いま必要な三つの視点』講談社.
■教養を身に付けられる本を教えて欲しい。
この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。
しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。
これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。
ただ日本でキリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)
個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。
なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。
ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。
その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。
むかしは手に入りやすくてわかりやすい入門書が不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイの入門書をお勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三の著作は今でも分かりやすくてよい)
みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。
マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観を学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。
好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。
ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。
なお、第二次世界大戦については最近、川田稔『昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。
文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。
そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教の知識がここで生きてくる。
日本の小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本の近代について一席ぶてるようにしておこう。
それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事。
わが国では哲学について昔から「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルト・カント・ショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。
ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。
どうせ正確な理解なんて無理なのだから、適当なアンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。
なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。
「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。
上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。
下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹の解説を読んで都度勉強すると良いだろう。
ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。
こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。
ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛な作業になるので、視野を広げて中国思想・インド思想辺りに目を向けるのが良い。
「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。
自然科学の話題になると、トーマス・クーン『科学革命の構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。
ヨビノリをはじめとした学習コンテンツがYouTubeに転がっているので、せめて高校数学と物理ぐらいはやっておかないといけない。
上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。
論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。
幸いなことに最近、詩人の渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。
なんか知らんが「教養人」は映画が好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。
イギリスのエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。
とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。
ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。