
はてなキーワード:ギターとは
小さな頃からの爪を噛むクセのせいで歯列が崩れ、爪の形もいびつなのがコンプレックスだった。口元と手元はなるべく人に見られないように、というのが自然に身についた習慣だった。
21になった記念にピアスをあけたら、「自分の身体は自分で形を変えられる」という実感が強くなって、翌年から歯列矯正をはじめた。親知らず以外に4本抜歯した。なかなか辛かったけど、やってよかった。
大学卒業と同時に飲食のアルバイトを辞めたので、毎月ネイルサロンに通うようになった。慢性的にひどい深爪が、ジェルに守られ(文字通り)のびのびと長さを出していく。もともとの爪が小さいので、白い部分を1cmほど伸ばしてそのうえにジェルを載せていた。これまで世界に怯えていた爪たちが自信に満ち溢れるようで気に入った。これでひとまずのコンプレックスにはかたがついた。
歯列矯正は150万円。もっと安いところもあるだろうけど、願掛けでやたら高いクリニックと契約してしまった。おまけに、見栄えのため裏側矯正に課金したのに、契約と同時にコロナ禍がきて、矯正終了と同時に去っていったため、大半の期間はマスクとともに過ごした。不必要に傷つけられた舌には悪いことをした。
ネイルサロンは月1万円で4年間通い続けたので、しめて200万円でコンプレックスを解消したことになる。幼少の己が爪噛みで失った200万…と思うとせつない。
というのも、ギターに憧れだしたのだ。
10年来応援してきたバンドの、とりわけギタリストのことが大好きで、私も彼女のようにギターを弾いてみたいと思った。調べれば、ギターとジェルネイルは両立不可能ということで、4年ぶりに自爪をさらして生き始めた。
成人までに定着した形というのはそう変わらないもので、ジェルの鎧を外した私の爪は、まったく元通りのいびつで短い形をしている(きちんと保湿ケアをしていればピンクの部分も成長したらしいが、そんな自制心があるならば、はなから爪も噛んでいない)。
「ギターをはじめるぞ」と決意してから、実際にギターを手に入れるまでには1年ほどのタイムラグがあったので、社会人5年目の私は学生時代に逆戻りし、またもじもじと小さな爪を隠して暮らしてきた。
先日、満を持してギターが我が家にやってきた。最寄りの楽器店のプライベートブランドのもので、3万円程度の入門的なギター。綺麗な飴色がうれしい。きっと宝物になる。
いざ、ギターをさわってみて驚いた。なるほど、これは難しい…。指のはらを器用に使う必要がある。
素の爪ですら邪魔になり、爪切りを引っ張り出して極限まで切った。パチパチと爪が短くなるたび、自分の不格好な指先が認められるようで、まんざらでもなかった。この爪と一緒なら、私は素晴らしいギタリストになれるかもしれない。
大好きなバンドは、来年の夏で活動終了するらしい。それまでに1曲くらいは彼女たちの曲を弾けるようになって、誰かに披露したい。
27歳の冬のはじめ
https://anond.hatelabo.jp/20250107165457
松本孝弘が予定していたB'z主催の対バンライブを体調不良で欠席した。6月のことである。(その後、医師の指導のもとアンコールだけ飛び入り参加)
松本が自身の体調不良でライブ参加を取りやめた事はこれまで一度もなかった。大昔のインタビュー(明石昌夫のYoutubeだったかも)で「昔はインフルエンザでもギリギリまで点滴してライブ出てたよね笑」みたいな発言をしていたくらいだ。
松本孝弘はとにかく仕事に厳しい。ミュージシャンっぽくないほどに仕事人間である。言い変えれば「お金が発生する以上は最高のものを提供する」ことにずっと全力を注いでいるタイプ。小室哲哉にも「まっちゃんは商人だからね(笑」と評されたこともある。職人であり、商売人でもある非常に稀有な存在だ。
そんな人なので、既にチケットが発売されてしまったライブを中止することは考えられなかったはず。それにも関わらずライブ不参加を決定した事の重大さにファンはかなり衝撃を受けた。
体調不良の影響は表立ってはこの対バンライブだけだったが、断片的な情報から裏でもかなり混乱があったように見える。
昨年の紅白直後のスポーツ新聞のインタビューで、現在敢行されているドームツアーと新作発表をアナウンス。しかしその後は半年以上も新情報はなかった。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2025/01/03/articles/20250103s00041000175000c.html
具体的な日程が発表されたのは8月頭、初日の名古屋までは3ヶ月しか空いていなかった。ファンには吉報だったが、3ヶ月では日程調整の効かないファンも多かったはず(6月の対バンライブは昨年12月にアナウンス)
さらに新作アルバムのリリースはツアー初日の数日前、タイアップなどで先行公開されていない曲(=アルバムでしか聞けない曲)は全曲セットリストから外れるなど異例づくしのツアーになっている。
とある曲で松本が休養せざるを得なかったことへの思いを稲葉が綴ったとファンの中では噂されているが、本当にそうであれば発売日の半年足らず前まで制作を続けていたことになる。
またレコーディングには海外の有名ミュージシャンが起用されるのが常だが、今回はレギュラーメンバーを除けば昨年松本のソロ活動で来日したであろうマット・ソーラムが参加しているのみ。アルバムの制作としてはかなり切羽詰まった状況だったことが推察される(全部妄想です)
商売を考えれば年末の紅白出場から6月の対バン→直後にアルバムとドームツアーアナウンス(さらにアリーナ追加)あたりが理想的なアプローチだろう。結果として松本の体調を考慮し、アルバム制作・発売をギリギリまで伸ばし、アリーナは全キャンセルして年内はなんとかドームツアーにはこぎつける。ドームツアーの前に予定していたアリーナ公演は拡大して来年に持ち越した、くらいの調整があったように見える(本当に全部妄想です)
今回のツアーは東京ドーム初日に参加したが、松本は演奏に集中、ライブパフォーマンスは稲葉がカバーする場面が多かった。特に本編ラストの曲は、喉の負担を考えて封印していたであろう見せ場のロングトーンを披露。初見も古参もまとめて圧倒した。
演奏面では比較的負担の少ない過去のリフ中心のアッパーソングが多く、速弾きやシビアなカッティングが必要な曲はほぼ皆無。また松本が一曲まるまる参加しないバラードアレンジもあった。
互いのソロ曲でどちらかがステージにいないパターンはあったが、B'zの曲を松本抜きで披露したケースは記憶にない。
そして松本のMCは元々ドームツアーでは少なめだが、それでも大病だったことが窺える声色になっていた。稲葉のMCでも松本への思いに熱が入る場面があった。
「(我々がここに立っていられるのも)当たり前じゃないんです」と、客席に訴えかけたのだ。もちろんその後は何万人という観客が一同に会することへの感謝も述べられたが、稲葉がライブでシリアスな心情を吐露することはかなり珍しい。
(この日は座席の件やPA・特効のミスなど、「らしくない」瞬間も散見されたがここでは深く触れない)
実は前回の増田の後、18年前に取得していたファンクラブ会員に復帰して今回のツアーチケットをとった。松本の不調を予見していたわけではないが、結果として紅白出場の大サービスに乗っかって復帰してよかったように思う。
二人組のバンドとはいえ関係者を含めればそれなりの中小企業のような組織になっているわけで、おいそれと辞めるわけにもいかない事情も想像できる。
それでも彼らのパフォーマンスを見れば、今できることに全力に取り組む姿勢に自分の人生の襟を正したくなってしまう。
「B'zはパワフル」なのは間違いないパブリックイメージだが、例えば先に述べた松本なしのバラードアレンジは、あまりB'zでは見せてこなかった稲葉の新しいボーカルスタイルを提示した。松本のギターも近年、クリーントーン中心のブルーススタイルの演奏はポップミュージックでは並ぶものがいない。
なんなら二人だけでブルースアレンジのライブやってもいいんじゃないかと勝手に想像している。The Wild Windとか今の年齢だからこそ似合う曲もたくさん思いつく。
衰えではなく変化と捉えてしまえば、日本最大級のバンドの行く末は誰も予想がつかないステージに入ってきているように思える。
だが週末、熊本でなにかあるのか知らんがホテル満室で追い出されたので旅に出る。(泊まれるが法外に高い)
どっちがいいかChatGPTに聞いたら「どっちもいいよ!」みたいなふざけた回答しやがった。
おまえはいつもそうだよ。二択で質問してるのに玉虫色の回答で責任を回避しようとしやがる。
どっちか選べと指示したら「鹿児島」だと答えたので鹿児島に決定、はい責任はChatGPTな。
途中吉野家で朝食をとる。「牛すき鍋定食肉二倍盛り」。朝なのでビールは無し。バス旅でおしっこ危険。
俺は吉野家では「並牛」「牛鮭定食」「牛すき鍋定食肉二倍盛り」しか頼まない。
人生初吉野家から40年間これを貫いている。あと吉野家以外の牛丼屋はパチモノでありクソである。
キン肉マン問題や嫌なら食うな問題などどうでも良い。牛丼は吉野家である。異論は認めない。
吉野家下通店のドアは手動である、なぜ自動ドアにしないのか謎。理解不能。これだけは吉野家を許せない。
熊本の大衆は育ちが悪く品性が低めなので開けたドアを閉めない。ドアをきっちり閉めたら負けだと思っている。
熊本にはそこらじゅうに「あとぜき」の張り紙がある。熊本弁で「開けた扉を閉めろ」という意味だが、
そんな張り紙をあちこちで見かけるほど奴らはことごとく閉めない。
まして吉野家の手動ドアなど完全に閉まることはまずない。閉めろと念入りに張り紙はしているが誰も閉めない。
徒歩、桜町バスターミナルに着くと20分後出発の便がある、鹿児島行きバス路線があるのは知っているが時刻表までは調べていない。
チケットを購入。
旅慣れている俺はファミマで颯爽とお茶とチョコとワッフルを購入。
バスに乗る。
熊本のバスはクソ遅い。市内慢性的渋滞なのに市内から高速道路までのアクセス道路が無い。首都高的な、バイパス的な道路がなく
桜町バスターミナルから熊本ICにたどり着くだけで一時間かかる。新幹線ならもう鹿児島に着いている。
だがバスなら4200円で鹿児島まで行ける、新幹線だと7700円
バス一択である、金は無いが時間はたっぷりある。そもそも急ぎの旅ではない。バスの車窓も含め旅なのだ。
それにしても遅い、市内でいちいちバス停に止まり乗客を乗せる。高速バスなのにぜんぜん高速じゃない。
ようやく高速道路に入り山中をひたすら走り、無駄に鹿児島空港に立ち寄り、3時間半で鹿児島中央駅に到着。14時くらいだったと記憶している。
鹿児島は20年ぶり。今の駅ビルに建て替わる直前の鹿児島中央駅(当時西鹿児島駅)にしか来たことがなく現在の立派な駅ビルには薩摩藩の貫禄を感じた。観覧車もあるし。
駅前をふらついていると市内観光循環バスを見つけた。230円でぐるっと一周できる。80分乗って230円。どう考えてもお得。乗るしか無い。これで主要観光地全部行ったことになる。
乗ってから数分で気付いたが、そういえばこれ20年前も乗ったわ。見覚えあるわ。行動パターンが20年変わってない俺。
西郷どんの洞窟ショボっとか思いつつ、20年前も見たわ、みたいな。
俺は日本全国、世界各地行っているのでたいていのモノは初見でも感動も無いが、二度見であるからさらに新鮮みもまったくない。
16時。アホらしくなり途中天文館で降り(ほぼ一周してる)、銀だこで腹ごしらえ。
安定の銀だこ、どこで食ってもハズレはない。
鹿児島に来たからと言うて嬉しそうに黒豚だの地鶏など食わない。どうせまずい。よくて値段相応
高度に資本主義が発展し、かつ食品の保存、輸送が極限まで進化した我が国。
朝に豊洲で仕入れた魚が午後には那覇空港に到着し空港の中の寿司屋で提供されるのだ。
美味い魚や肉や野菜は大資本が狩り尽くし、一般市場にはそのお溢れしか回ってこない。
地元だから新鮮で高品質で安い、なんて幻想にすぎない。もうそんな時代ではない。
美味いもの食いたきゃ金を出さなければならないし、品質は都会も田舎も変わらない。
ハイボールとたこ焼き、最高であり、庶民の幸福であり、食いながら宿を探す。
宿は取っていない、取れなきゃ満喫でもいいのだ。この時間になるとホテルは空室よりもマシと捨て値で部屋を売り出す。
案の定、東横イン7000円を見つける。予約し銀だこお会計しチェックインに向かう。徒歩5分
ちなみに銀だこのスタッフはみな可愛かった。鹿児島は女子のレベルが高いように思う。熊本には悪いが熊本はアレだ。
熊本は男は扉を閉めない、女はヘチャ。ではいいとこ無しのようだが、俺は熊本が大好きだ。なんなら引っ越ししてもいいと思っている。
息子が友達と離れたくないと拒絶したので断念したが、でもキミクラスで浮いててボッチって嘆いてなかったっけ?まぁいい。
ともかくホテルにチェックイン、暇つぶしにテレビを見る、スマートテレビはネトフリにも対応、颯爽とログインして「斉木楠雄のΨ難」の続きを観る。鹿児島まで来てなにやってんだと思うだろうが、いいのだ。こういうのでいいのだ。
21時。小腹が空いた。週末の鹿児島の繁華街、どんなものかパトロールに出発。
グッと来る店がまったくない、Bar、キャバクラ、居酒屋、なんでもいいから1軒くらいと思ったが、無い。
仕方がないので客がそこそこ入ってるラーメン屋に入ったが、ぜんぜん美味くない。な?だろ?
ホテルに戻り寝る。
朝、さてどこに行くか、ノープラン。アホらしいので即戻りでもいい気がしてきたが、せっかくだし、桜島に行く。
フェリーに乗る。チケットは無く桜島の下船時に支払うという合理的オペレーションはグッドである。そして安い。250円だったか。
金額を確かめようと念の為にググったら検索要約に130円と出てきた。どっからそんな値段が出てきたのか。これだからAIは。
古い値段なのか、小児運賃を誤判定しているのか、意味わからん。
それにしても桜島は偽物である。おまえ島を名乗っているが島じゃねぇじゃん、繋がってんじゃん、現状ただの半島であり錦江湾のノドチンコである。桜半島に改名しなさい。島じゃないんだから。
無論、ただの地名であるという言い訳もありましょう、例えば島原は島でも無いし原っぱでも無い、島が付く地名などゴマンとあり、地名と実態は別物であり、安田さんが安いわけでも田んぼなわけでもない、それらの一種であるという言い訳だろうが、俺は許さない。
とか思いながら桜半島を眺めていると船は出発した。デッキではアホみたいにうどんを食うてるアホがいる。クソ高いのに美味いわけが無い。
テレビでタレントがうまいうまいと言うてるのを見て自分も食いたくなったのだろう、美味いわけが無い。
船は15分で到着。元船乗りの俺としてはこの手のフェリーの操舵技術には感服する。
自動車のCMなどでキツキツ駐車スペースにスピンで滑りながらピタリと止める、みたいな演出あるじゃん。
ともかく桜半島に到着。
降りる、250円払う。Suicaで払おうとしたが使用する人はほとんどいないのだろう、都度タッチ端末を起動しているのか知らんが応答がすこぶる遅い。
なんぞ?
なんか人がたくさん走ってきた。マラソン大会してやがる。うっざ、さっきのはスタートの合図
この手の観光地にはたいていレンタル自転車があるもので、案の定あったので借りに行ったら今日はマラソンだからダメだと。ふぁっく
わざわざ活火山の真下でマラソン大会やってんの。3000人集まってんの、アホかと。
徒歩で海岸沿いに向かう
ビジターセンターなる観光施設があったので入る、土産屋があり溶岩石が売っていた。300円。
マイクラにハマってる息子が最近やたらと溶岩溶岩とうるさいので買っていこうと思ったが、
ここってそこらの石全部溶岩じゃねぇの?
海岸沿いに恐らくかつて溶岩だったのではなかろうか的な石ころを拾ってカバンに詰めた。300円儲かった。
なぁに子供にはわかるまい。ただの石でもいいのだ。
かつこの行為が厳密には法律違反ではなかろうとかいう懸念もあるが、俺の中では違法性は阻却されると判断している。
鹿児島に戻る。
ちなみに船の出発ジングルが長渕剛であった。俺は長渕が嫌いである。
人格、品格というのはその人がアイデンティティ確立において誰もが何かしら持つ劣等感をどのように消化するか、が大きく作用する。
彼は音楽に関しては天才である。体系的音楽教育を受けずギター一本で多くの人の記憶に残る名曲を生み出してきた才能は凄いのであり、俺も若い頃、まだ自分でピアノを弾いていた頃には彼の曲をいくつか弾いた。コード進行はシンプルであり、奇抜な音楽要素を取り入れるわけではなく、しかし優しく強いメロディーは誰の頭にも残る。
が、彼は自己プロデュース能力やタレント性、カリスマを宗教にしてしまった。
アホを信者に搾取することは悪いことではない。宗教屋はみなやってる、それで救われるやつもいる。
が、彼は劣等感の克服を歪んだ形で完結させ、歪な宗教に昇華させた。俺はそれを嫌悪するのだ。
ワンテイクというYoutubeのチャンネルにも出ているが、説法がながぇのよ、普通のアーティストは「行きます」程度の一言で演奏開始するのだが、彼は人生口上を長々と30分近く喋ってから演奏に入る。うぜぇぇぇぇ、のであり、嫌いだ。
さて、俺は帰りのフェリーの甲板で涼んでいた。外気温19度、日差しもあり普通に暑い。散々歩かされたので汗ばんでいる。
が、近くに高校生の修学旅行のグループ行動らしき集団がいて、「さーむーい」「マジありえなーい」みたいな私弱いアピールして女子の真横でTシャツであり、俺がおかしいのか、JKがブっているのか、みたいな絵面であり、俺はJKたちに笑われていた。
鹿児島中央駅まで戻り指宿まで行く、まだ時間はある、片道1時間ちょい。指宿で降りずにそのまま乗り続けるとJR路線最西端の西大山駅まで行けるらしく、かなり魅惑的であり、てかそのまま枕崎まで行きたいが、アホではないので帰りをシミュレーションすると無理ゲーであることがわかり諦めて指宿で降りる。
というか、鹿児島県は上白石萌音様を生み育てた聖域であり、指宿はかの大漫画家川原泉先生を生み出した伝説の地である。
堪能せねばならない。
指宿駅前に食堂だか居酒屋だか料理屋みたいなのがあり、2500円の定食を食う。きっと川原泉先生もここで飯を食われたに違いないと考えると美味さは倍増する。実際美味かった。だが、どうやらその日は指宿で全国かつお祭りとやらが開催されているようで(店にポスターが貼ってた)、車で10分ほどの会場でなんかやってるらしい。13時半なのでまだ間に合う。俺が計画的に行動し、事前リサーチしていれば間違いなくそれをターゲットにしていただろう、カツオは俺の好きな魚ランキング10位内には入るほど好きだ。残念
地ビールがあったので飲む、美味い、おかわりしてしまった。これが間違いだと気づくのは30分後である。
14時半、帰路、鉄路かバスか。どちらもアリのようだ。来るときJRだったので時間かかるが景色の良さそうなバスもよかろうとバスで帰ることにした。ちなみにJRはクソであり、せっかく海岸沿いを走っているのに藪で景観が台無しである。
JRが軌道外の雑草を放置しているため車窓は最悪のコンディション。
言い訳をすると乗車直前にトイレには行ってる、アホでは無いのだ。
あと1時間ちょい我慢は「むり」との決断を下し、途中「観音崎展望所」バス停で途中下車。
道の駅だからトイレくらいあるだろう、あった、おしっこした。セーフ。間に合った。次のバスを検索すると絶望しか無かった。2時間後。
最寄り駅まで徒歩20分。20分くらいは歩くが、列車が来るのは1時間後。ふぁっく。ド田舎死ね。
結局小一時間海岸で桜半島を眺めながら佇むことになった。気候が良いのが救い、桜半島はきれいだった。
ようやく時間が来たので生見駅から列車に乗る。「ぬくみ」と読むらしい、勉強になった、残り人生で活かせる機会は無いだろうが。
生見駅での乗客は俺一人だが、枕崎や指宿から乗ってきたのであろう観光客で空席ゼロ。外人だらけ。
ちなみに生見駅の側には「この付近で大便した奴はぶっ殺す 家主」的な看板があちこちにありどんな治安だよと思った。
本来の目論見では鹿児島中央から4400円でバスで熊本まで戻る予定だったが、この時間だともはや新幹線ワープしかない。
指宿在来線から新幹線に乗り換えようとしたのだが、改札内に新幹線切符売り場は無いらしい、一度改札を出てから買い直しだとか。
都会育ちの俺は新幹線とは5分に一本走っているものという常識がありそのような感覚だったが、時刻表を見ると絶望しかなかった
はぁぁぁぁぁ?
よんじゅうよんぷん?待ち?なんで接続列車にしないの?その前が3分間隔出発で次が44分の空白ってなんなの?
なんでばらけないの?アホなの?
が、良い、許す。俺はちょっと機嫌が良い。
実は指宿からの帰路に衝撃的な出会いがあった。途中でJK3人組が乗ってきたのだが、その一人が俺の初恋の人にそっくりだったのだ。
瓜二つというて良い、とはいえ初恋の人に最後に合ったのは35年前なので記憶が定かではなく写真も持っていないので相当補正がかかっているかもしれんが、顔立ち、スタイル、雰囲気がそっくりだった。俺が余命一ヶ月とかならアレでソレしてしまったかもしれない。だが俺はあと50年生きる予定なのでそんな事で刑務所には入りたくない。
コーヒーを飲む。そういえば出張に電動鼻毛カッターを持ってくるのを忘れた(バックのどこを探してもない、入れたはずなのに)ので隣のヨドバシで買うか思案、だが、よくよく考えてみると鼻毛カッターを使うのは1週間から10日に一度である。
出張はあと2週間だから使っても1回、もしくはせいぜい2回であり、自宅に戻れば前のがある、別にそれで困ってない。
パナソニック製で10年前に購入したものだが、電池式なのでバッテリーヘタリもない。そもそも毎日使うものでもない。
そしてこの歳で新しい電動鼻毛カッターを購入したとしてあと何回使うだろうか。鼻毛がどうでもよくなるのが80歳くらいだとして、週一使うとして残りざっと1400回である。
あ、けっこうあるな、新しいの買ってもいいかな、人生最後の電動鼻毛カッター、いやいやいや、今のやつで人生最後まで走り切れるのでは。
とか考えてたら30分が過ぎ、ホームに向かう、新幹線ホームに喫煙所があると思いきやなかった。大都会熊本駅にはあるんだけどね。
新幹線発車。
車内アナウンスで「座席に荷物置くな」と言うているのにお隣の中年女性はガン無視。
俺は三列シートの真ん中にふんぞり返って座っている。なぁに乗車率3割も無い。
ちなみに三列シートは真ん中だけちょっと幅が広いのだ。
18分のインターバルがあるのでのんびり新幹線ホームの喫煙ルームでタバコを吸う。
吸い終わり、ん?豊肥本線ってこの時間そんなに間引き運転だったっけ。調べると
18:43発があった。余裕で乗り換え間に合うじゃん。ジョルダンふぁっく
なんやかやホテル到着、急いで帰ったのは理由がある、荷物が届く。
スーツケースを宅配便で送っている。ホテルというかウィクリーが預かってくれないので近所のコンビニからPermalink |記事への反応(0) | 16:52
それはビブリオマニアです、私もです、
列記とした病気、神経症、買い物依存などに類するものとも思われます…😟
「ビブリオマニア(Bibliomania)」とは、**強迫的に本を集めすぎる「蔵書癖」や「書籍狂」**を指す言葉で、単なる健全な「愛書家(ビブリオフィリア)」とは異なり、社会生活や健康に悪影響を及ぼすほどの病的収集行動です。日本語では「蔵書狂」「愛書狂」とも訳され、本を「所有する」ことに強い衝動を感じ、その収集が生活の支障となる状態を指します。
本を並べるだけで喜んでしまう
聖書と評価されるような、評価の高い本を途中まで、最初の方だけ読んで、
この本は素晴らしい!と絶賛し、ついそれと同じ本を一、二冊買ってしまったりします
予備とか、布教用とか言い訳してますが、本を買うのが目的化してる
棘の米にあるように、自分も段々と、本当に自分がやりたかったのは本屋なのではないか?と思うようになりました
でも、真面目な話、個人での書店経営は色々と大変、日本の独特の商習慣もあります、
アメリカみたいに、書店が本を買い取っちゃって、売れなければ安値で店頭ワゴンしてもいい、
というのも、それはそれで自己責任で大変ではあります、どちらがいいのか分からない
音楽もヤングギターよりは上の、楽器弾く系とか理論とかを重視したい、
アイドルグラビアみたいなのには興味ないので、だって、眺めて終わっちゃうじゃないですか…😟
まあ、エロ、所詮人間なんて、男だけでなく女性でもエロ、コアなBLとか並べてもいいのかもしれないけど、
あと、万引き、特に子供の万引きとか、いちいち見張るのがめんどくさい、トイレにも行けない
昔は子供の頃はド田舎に住んでたんで、数少ない本屋、ぼろい木造の建物、
ほぼ地べたに漫画雑誌が並べられてたり、
パソコン雑誌立ち読みしてたら、店のおばちゃんに掃除のハタキで叩かれたり、
もう、神田の伝説的な書店も、みんな店じまいして今はネット通販やってますよ…😟
リアル本屋は終わり
Amazonとかで、せどりしてる大手は、みんな田舎に会社を立てて、
田舎は潰れた靴流通だかハローマックだか、色々放置されてる店とかあるんで、
そこを倉庫にしたり、貸倉庫を借りて、そこに本を入れてますよね
自分も含めて、死んだりしたら断捨離で、大量の本が便利屋とか処分する会社に回って、
その本がそういった、せどりの会社に行って、またAmazon経由とかで誰かが読む、
というサイクルもなくはないんでしょうけど、基本的に紙の本は終わりです
という質問の真意が分からないところがあるけど、勝手にそれを自分側で類推すると、凄く良い質問というか、凄く難しい気がする…😟
例えば、はなわさんがいて、ベースギターをデケデケ弾きながら、歌ってるとして、基本ルート弾きとメロディーが鳴ってる
でも、コードを感じてる…😟
ベースギターがコードのルート音を弾いてるから、みたいな回答もどうかと思う、というか正確ではないというか…
ルートを弾いてない、はあんまりないにしても、ルート以外も複雑なベースフレーズを弾いてる場合がある
ベースからコードを類推しやすいは、耳コピテクニック寄り過ぎる気がする
ペンタトニック+ブルーノート、ブルーノートはマイナーからの借用、
ブルーノート込みのペンタトニックを弾くと、なんとも言えないブルージーな感じがある
単音でブルースっぽいフレーズを弾くのと同じ感覚を、ジミヘンコード一発で感じることができる
何らかの音の並びを一括して、コードトーンで構成されたものがコード…、トートロジーだな…😟
はなわの例からも、聴き手の人間の脳の中で、これはこういうコードだな、と感じる何かが用意されているようにも思う
もちろん、自分は音楽の素養がない、と思ってる人はいる、コードをジャーンと聴いても、コードトーンを正確に答えられないと思う
しかし、コードトーンは分からなくても、漠然と、こんな感じ、と思っているのではないだろうか?
そもそも、コードがない、コードを当てはめられない曲?は存在するし、ただのホワイトノイズにコードを当てはめることもないと思う
他人事ではない、どうしよう…😟
拙者、ビブリオマニア故、
特に大学時代に、自由に神田神保町界隈を徘徊することができるようになってから悪化、
R.O.Dの読子リードマンみたいな生活をしてきたでござるよ…😟
今の住処に階段はないが、階段に本が積まれてるのが好き、なんなら階段を本棚にしたい、
そんな人間であったが、今となっては床に物が散乱し、ギターケーブルで転倒、
自分の身体とデスクトップマシンと小さいアンプでドミノ倒しして、膝から血が出たり、
そもそも、身体障害なのにこれはマズい、また転倒したら大手術である…😟
もう、紙の書籍にこだわるのはやめるべきだ
今後、絶対に仕事はないと断言できる機械設計、機械系数学の本は捨てていいはず…😟
プログラミングも諦めるべき時期かもしれない
大量にあるC++関連も捨てるべきか、迷うなあ…😟
まあでも、最終的に、本がゼロになったからって死ぬわけじゃないし、
そういえば、宮崎勤の証言のネズミ人間は解離なのかという議論があった気がするけど、
まあ、解離って、専門でも何でもない俺が言うのもなんだけど、
現実逃避を医学的に言い換えたみたいなもの、という解釈でいいんだろうか、
病的なものもあるし、極限状態に置かれれば誰でもなりうるというのもあるし、
要は現実を直視できなくなってしまうんだよね、直視すると発狂する、脳がオーバーヒートしてしまう…😟
でも、彼は自分で殺してといてなんなん、というのもある…😟
そういえば、夫に日常的に酷い暴力、DVを受けてたセレブ妻が夫を殺害して、
夫の遺体をバラバラにして、旅行カバンに詰めたものの、運転免許も持ってないし、
呼んでも、ある程度の山奥まで行って、そこから遺体を遺棄する場所まで移動しなければならないし、
とか色々考えたんだろう、マンションの玄関前の植え込みに放置した、
というのは、まあ、よくわかるんだよね、自分もそうなると思う…😟
そうかんがえると、座間9人の人は、やっぱり変わってるというか、
意外と冷静に人体をバラバラにしてる、パニックでやった感じがない、
かなり冷静に下水に流したり、近所のゴミ収集場に持ってってるし、
なんでこんなこと書いてるのかというと、マシンパワーが非力で、トラック数がすぐに限界みたい…😟
打ち込みギター音もAmpliTubeを通してるわけだけど、ホントにこれ落ちるよなあ、
やってみた
〜〜〜
Queen の楽曲の中で「You're MyBest Friend」は、しばしば異色の存在として語られる。
劇的な構成や重厚なハーモニーを特徴とする彼らの代表曲群とは異なり、この曲は実にシンプルで、親密さと温もりに満ちている。
だが、まさにその“シンプルさ”こそが、Queen というバンドの多面性を明確に示していると言える。
作曲者ジョン・ディーコンが、当時の妻に捧げて書いたという背景も相まって、この曲はバンド全体のイメージを一段柔らかくし、新たな側面を広く世に知らしめた。
曲のアイデンティティを決定づけているのは、エレクトリック・ピアノ——Wurlitzer の独特の音色である。柔らかく丸いアタックと、わずかにざらついた残響が、曲全体に温かみを付与している。Queen の鍵盤サウンドといえばアコースティック・ピアノを想像しがちだが、この曲ではあえて電気的なエレピを主役に据えることで、他のロック曲とは異なる質感を生み出した。
実はフレディ・マーキュリーはWurlitzer の音があまり好きではなかったと言われるが、ライブでは彼がアコースティック・ピアノで代役を務めており、スタジオ版との音色の違いもまたファンの興味を引き続けている。
構造は極めてオーソドックスで、古典的な Verse–Chorus形式に沿って展開する。にもかかわらず魅力が損なわれないのは、ディーコンの旋律感覚とコード運びの巧みさによるものだ。
主要キーは Cメジャーで、I–IV–V を中心とした実に素直な進行だが、ブリッジにはIVmaj7 のような柔らかい和音が配置され、気持ちの動きを自然に高めている。
Queen が得意とする大胆な転調は見られないものの、曲が求める感情のレンジにはこのシンプルな和声が最もふさわしかったのだろう。
リズム面でも、派手なアクションはほとんどない。ストレートな8ビートが淡々と続き、ドラマ性よりも安定と親しみやすさを重視している。
ブライアン・メイのギターも装飾的で、主役を奪うことなく全体をそっと支えている。
そのバランスの良さは、Queen が単なる“テクニカルなロックバンド”にとどまらない、アンサンブルの巧みなグループであることを再確認させる。
歌詞は比喩の少ない直球の表現で、「あなたは恋人であると同時に、私の親友でもある」というメッセージが真っすぐに込められている。
Queen の楽曲はしばしば壮大なテーマや幻想的な物語を扱うが、この曲では日常の愛情をそのまま掬い取るようなリアリティがある。
華美な装飾を避けた歌詞の選択は、ディーコンの人柄と楽曲の素朴さにぴたりと合致している。
1975年といえば、「Bohemian Rhapsody」の成功によって、Queen が世界的な注目の中心にあった時期である。そんな中でこの曲が発表されたことは、バンドにとって大きな意味を持った。
派手なイメージが強烈に広がる中で、「Queen はこんなに身近で温かい曲も書くのか」という驚きが、彼らの表現の幅を一気に広げたのである。
この曲の成功があったからこそ、のちに「AnotherOne Bites the Dust」や「I Want to Break Free」のようなポップ寄りの楽曲がより自由に生み出される環境が整ったとも考えられる。
音楽的文脈で言えば、Paul McCartney 的なポップ感やThe Beach Boys のハーモニー・センスとの共通点がしばしば指摘される。
エレピを中心とした滑らかなポップロックという点では、後年のBen Folds Five や多くのAOR 系ポップロックにも影響を与えたと考えられる。
こうして見てみると、「You're MyBest Friend」は“地味な名曲”と言われがちな一方で、Queen の音楽性の豊かさとメンバー個々の個性を改めて浮かび上がらせる、実に重要なポジションにある。
劇的な曲を書けるバンドが、等身大の愛情もまた美しい形で描けるという事実。それこそが、この曲が半世紀近く愛され続けている理由にほかならない。
考えてみた。以下を聞くだけ。
〜の曲〜について、以下を踏まえて解説してください。
・フックとなる特長と、曲全体の印象
・曲構造の特徴
・コード進行の特徴
・ビートの特徴
・曲が発表れた当時におけるインパクト
・対象曲から想起される、関連アーティスト、影響元のアーティスト
↓Beatlesの「Get Back」についてこのプロンプトで聞くと
以下では、**The Beatles「Get Back」**を、楽曲分析・歴史的背景・影響関係まで含めて総合的に解説します。
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■ フックとなる特徴と、曲全体の印象
• **ループ感の強いコード進行(A7ワンコード中心)**と、ドライブ感のあるシャッフル気味のビートがフック。
• 全体としては「軽快だがタフ」「ジャム感のある粗削りなロック」という印象。
• 当時のビートルズとしては珍しく、**“引き算のアレンジ”**によるライブ感が際立つ。
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■ 曲構造の特徴
•イントロ – ヴァース –コーラス – ヴァース –コーラス –エンディング という非常にシンプルな構成。
•構造上の特徴は、ヴァースとコーラスのコードがほぼ同じで、メロディと歌詞によってセクションを分けている点。
•1969年のビートルズとしては珍しい、ブルース寄りのワンコード型ロックンロール。
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■コード進行の特徴
基本は下記の通り:
• A7ワンコードで進む(キーはA Mixolydian的に解釈可能)
•コーラスで D → A7 と行くが、非常に短く戻るため、実質ワンコード感が維持される
結果として、
が強調されている。
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• ほぼライブ録音に近いテイクで、Rooftop Concert(屋上ライブ)演奏が公式版として使われた。
• ジョンのギターのカッティングはゆるいノリで、ポールのベースは跳ねるグルーヴを担当。
●ビリー・プレストンのエレピ(FenderRhodes)が決定的
• ロールするようなエレピのフレーズがサウンドを“ブラック・ミュージック寄り”にしている。
•プレストンの参加は、ビートルズ内部の緊張を和らげたといわれている(トリビア)。
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■ビートの特徴
• R&B由来の**「裏」で跳ねるノリ**
•リンゴのドラムはハイハットの刻みが緩い「ロックンロール+R&B」ハイブリッド
•現代的に言えば**“スワンプ・ロック”**に寄ったグルーヴ(CCR的とも言える)
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■歌詞は何を表すか
「ジョジョ」「ロレッタ」といった架空のキャラクターを通じて、
また、一部のデモで語られた社会風刺(1968年の移民問題を揶揄した歌詞)も背景にあるが、公式リリースでは中立的/寓話的になっている。
ポール本人は「深い意味ではなく、ファニーな物語」と語ることが多いが、時代背景が透けて見える作品。
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■ 曲のジャンル
複数の影響が混在:
•ロックンロール
• スワンプ・ロック
特にビリー・プレストンの参加によって黒人音楽寄りのフィールが強くなった。
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•ポールは「R&B /ロックンロール的な原点回帰」を狙った曲。
• “Let It Be /Get Back sessions”の精神である**「Get back to basics(基本に戻る)」**そのものを象徴。
•ビートルズ末期の作品の中では珍しく、明るく、軽快で、ポジティブなムードを保った楽曲。
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■ 発表当時のインパクト
インパクトとしては:
• 「ビートルズがルーツ・ロックに回帰した!」と強く受け取られた
• 深刻化しつつあったビートルズ人間関係が、外部のビリー・プレストン参加で改善したことが話題に
•サウンド的にも、複雑なスタジオ実験に傾いていた後期ビートルズからの大きな転換となった
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■ 「Get Back」から想起される関連アーティスト/影響元
影響元として考えられるアーティスト
•Little Richard /Chuck Berry / JerryLee Lewis(ロックンロール)
•Ray Charles,Billy Preston(R&Bピアノ)
間接的に想起されるアーティスト
•CCR(Creedence Clearwater Revival)
•Leon Russell
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直接的・間接的に:
•1970年代のルーツ回帰ロック全般(カントリーロック、スワンプロック、シンガーソングライター系)
• Rolling Stones『LetIt Bleed』『Sticky Fingers』などにみられるルーズなR&B感
•ポール自身のソロ作品(特に「Bandon theRun」「Junior’s Farm」など“軽快ロック”部分)
•Oasisなど90年代ブリットポップにも引用的影響(脱力系ロックンロールのスタイル)
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• “The Beatles withBilly Preston”名義でリリースされた唯一のシングル。
•屋上ライブでは、警察がビルに乗り込むところまでが映像作品に残り、音楽史の名場面となっている。
• 初期デモでは、**移民問題を皮肉る“政治的パロディ歌詞”**があった。
•レノンはこの曲で Epiphone Casino を使用し、ポールは Höfner 500/1ベースを使用。
•ビリー・プレストン参加の経緯は、ジョージが米滞在時にプレストンと再会したことがきっかけ。
就職したばかりの時、人生で一番死にたくなって、でも私が自殺したとしても、それは親や友人や会社のせいじゃないよって言い残しておきたくて、iPhoneのメモに書いた遺書がすごいアスペの辛さが出てるなと思った
多分誰も私の携帯の中身なんて見ないだろうから、ふと限界を迎えて死んじゃった時に、友人の誰かが私のって気づくかもしれないと思って、ネットの海に放流しておく
何もいじってない、コピペです。
を書いておこうと思って帰ってきました20220414
色々文章を考えてい帰ってきたのに全部忘れたな
社会人になってしばらくしてみて、人生でいちばん冷静に死にたくて、今後こういうことが増えて、何かが溢れて急に死ぬことがあるかもしれないと思って、ああ遺書を書かなきゃと思って書きました
というのは、私がいつ死んでも、それはいつだとしても本当に誰のせいでもないと言うことをきちんと書かないといけないと思いました
私が死ぬのは、いつ死んでも、それはただ単に今まで様々な快楽で誤魔化してきたものが、誤魔化しきれなくなったというだけです
絶対に誰のせいでもなく、ただ単に人間として生きることが向いていなくてやめるだけです
それはギターをやめること 料理をやめること 会社を辞めること 勉強をやめること みんなの些細なやめたいなーと同じように
向いてなくて、向いていないことをこれ以上頑張ることが無理で、だからやめるだけです
騙し騙しやってきたことを、もう騙せなくて、死ぬのが死ぬほど怖いよりもやめたくてやめるだけです
そうだな、私は今まで死ぬのが怖くて生きてきただけだし、生きていくのが怖いから死ぬだけです
何故働きはじめて冷静に死にたくなったかというと、その先にゴールなんてないということに想像がついてしまったからです
普通の人はもっとずっと前からわかってるんだろうな ASDの場面連想の弱さですね
週2回、溺れないために息継ぎをするかの如く休み、また息を止めて週に5回働く
そうやって泳いで、泳げなくなった先が人生の終わりで、陸に着くことなんてない
そういうイメージがついてしまって、ああ私は泳ぎ続けられないなと思った
何のために泳いでいるのだろう?と思った
普通の人は、たくさんの人たちと泳いで、その泳いでいる期間が楽しいから泳いでいられるんだろう
でも私はASDで、ADHDで、人と幸せに関わるなんてできなくて、誰かと関わることは私にとって苦痛で、でも寂しいからその苦痛をこなさなきゃいけなくて
人よりマイナスで始まったものをなんとか0にする努力を続けなきゃいけない
生まれてこなきゃよかった
私は人が普通にできることが全然できなくて、人に嫌な思いをさせて、そのことに後から気づいて、その度に自分が本当に嫌いで苦痛で申し訳なくてその苦痛を誤魔化すために尖ってまた自分のことが嫌いになる
そんな私と関わってくれた人たちには申し訳なさと感謝しかなくて、これ以上何も提供せずにほんのり嫌われていくだけが嫌で、いつもそんなこと言ってても仕方ないし甘えだし普通の人ができることができるようにちゃんと頑張ろう、そうするしかないのだからと思うけど、
向いていないから自分のことが嫌いになって、嫌いなのに頑張るしかなくて、それはいいんだけどじゃあその先に何かあるのか?って考えた時に何もないなと思ってしまい
何もないなと気づいた時点で、いつかその苦痛に耐えられなくなって死ぬ時が来るかもしれないと思って書いておこうと思ったんだよ
じゃあどうすればよかったんだろうって考えたけど特に何もできない
マジョリティの人たちに許容してもらうだけのことに何の意味もないんだよね
何故なら私がもうしてもらっていてそれでも辛いから
心の形がみんなと違うということがつらいだけだから、心の形が違ったら何の意味もないんだよ
普通と違う人間として優しくしてほしいわけじゃないし、てか優しくしてもらったし、だから死ぬほど感謝してるし感謝しかないし、でもだからそれじゃダメなんだよ
伝わるかな 伝わんないよね
誰が私のことわかってて優しくしてくれててもそれじゃ何の意味もないんだよ!
0からスタートするナチュラルなものが私を排斥するってことが苦痛で、そこに私がどれだけ努力しても入れることはないっていうのがしんどいのだよ
そんなに違うか?って思う人もいるだろーなー
だとしたら私が頑張った証だから嬉しいような、まあ私のような人間は世の中の10%くらいいると思うから「死ぬほどか?」と思うのは当たり前だろうなーとか
私って寂しがりなのかな?寂しがりだよね 寂しがりで欲張りで何も頑張ってないのに他人をずるいと思いがちの独善的な人間
わかってるからそこから変わろうとし続けなきゃいけないことに疲れたんだ
みんなそうだよって言うかもしれないけどみんなはそうやって頑張って成果得てるじゃんね
とにかく私はもう自分が嫌いで自分のダメなところが死ぬほど見えててでもそれを直してもそれは当たり前のスタートラインでどれだけ心を直して直して頑張っても何も得られないことがしんどいからそれに耐えられなくなる日がくるかもしれない
それは誰のせいでもなくて、誰もどうしようもなくて(だってそもそも世界の形がそうだったこと自体がダメなんだから)、ただの不運で、向いてなかったってだけで、
だから私と関わってくれた人にはいつも不快な思いをさせつつ我慢してくれてたのにそれに感謝しているのに知り合いが自殺するって言うしんどさを最後に与えて申し訳ないなと思う、きっと死にたくなったその時の私でもね
この文章誰か気づくかな
追記2024.8.8
誰もかも私と接してくれる人が、私に思いやりを持って接してくれるのに、私はその思いやりを返せないのがつらすぎる
思いやりのある言動や優しさが私には思いつかなくて、自分が受け取った時のことや他の人の言動をいくら想像して頭を働かせて苦しんだってそれは雲を掴むようで自分のものにならない
私に優しくしてくれる人に同じように愛や心配りや優しさを返したいのに、愛や心配りや優しさが自分から湧き出ずにモノマネなのが苦しくて仕方がない わからないのが申し訳ない どう頭を働かせても何百回何かに気づいた気がしてもどう頑張っても私は他人の気持ちがわからない障害者で化け物でそこが本当にどうしようもできない
私に優しくしてくれた人も私が最悪な人間だから徐々にしんどくさせてしまって人が離れていく感覚が寂しくて怖くて、向こうが辛いのに自分のせいなのにこう言う時も自分の寂しさやつらさのことを考えてしまう自分って本当に化け物で最悪です
自分以外の人の気持ちがわかるし自分の気持ちもコントロールできる人間に生まれ変わりたい
ごめんなさい 優しい人たちのこと最大限に傷つけると思うけど最後まで自己中でしょうもない人間が死んだということでキショって思って忘れてください
⇧
こんなこと誰かが見たら苦々しい気持ちになるだろうにいわずにはいられないところか 結局はそういうことよりも自分の気持ちが優先なとこなんだよな
でも誰も見ないだろうしこれ まあいっか
何を感じるか?
例えば、伴奏が流れていたら、出して良い音と出して良くない音があります、
アヴォイドノートとか言ったりもします、避けるべき音、みたいな意味です
ですが、音楽は自由でもあるので、アヴォイドノートを弾くなんて汚いと偉い人に言われても、弾いていいんです、何も悪くない
でも、アヴォイドノートを弾く、想定されるスケールやモードにない音を弾く、なんかおかしいな、と思うのは確かでしょう
ここで、なんかおかしいな、と思うのが大切なんです
ちゃんと一曲弾けるようになったら、今度はわざと音を半音ズラしたり、敢えて違う音を弾いてみる、ハズしてみる、
ハズして、これはおかしい、と思ったり、偶然だけど意外とカッコイイのでは?でも、なぜだろう?みたいに考えるのが大切です
でも、今の時代、便利なスマホアプリ、スマホゲームがいっぱいあります…😟
コードがジャーンとなって、コードの構成音を当てる、例えばドミソが鳴って、ドとミとソです、と答えるゲーム、
いきなり一曲弾けるようになろうとしない方がいいです
もっと、童心というか、ヤマハ音楽教室の良い面というか、音と遊ぶ感覚を持ちましょう
楽器なんか弾けなくていい、としても、音感を鍛えるだけでもカラオケの能力は上がりますし、
はなわさん、みたいな感じです
ベースとボーカルを兼用する人が多いのはそういうことだと思ってます
チューニングは基本、標準にしてる
まあ、最終的には慣れしかないんだよね、コードを押さえるのも、コードからコードに変えるのも…
そういえば、本当の本当に初心者だった頃は、鳴らしちゃいけない音はちゃんとミュートしろ、みたいなの書かれてて、
神経質になっちゃったり、YouTubeでもそういうこと言ってる人いたんだけど、
例えば、6弦全て鳴らすコードがあったとしても、下から、つまり6弦から三本ならすとか、そういうノリでいいんだよ、
ぶっちゃけ、一番下の音だけでもいい、指一本で単音で弾いても、通しで曲を弾いてコードが感じられればいいんだよ
なんか最近、意図してないんだけど、人前で弾いてたらちょっと褒められて、まあ、嬉しかったんだけど、
練習と思って弾いてないというか、作曲っぽいことやってると、嫌でも弾くしかないんで、
速弾きしようと思ってこうなったんじゃなくて、頭の中の音をなんとか吐き出さないと、吐き出さないと、
プログラミングとか、論文とか文章を書いてるうちに、ブラインドタッチが可能になるんであって、
ブラインドタッチをできるようになるぞ!と思ってやってない、
ブラインドタッチという手段を目的化してしまうと、こんなことやって何の役に立つんだ、みたに投げてしまうわけで、
つまり、ギターが上手くなりたい、というのはあまり良くなくて、
あの自分の好きな曲を弾けるようになりたいとか、
作曲してるときにもたもたしてるとイライラするので、サラっと弾けるようになりたい、みたいな、