
はてなキーワード:ギザギザとは
ギザギザのところじゃなくマジックカットのほうが開けやすいようになってるのキモチワルイ
dorawiiより
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駅のコインロッカー、銭湯やジムとかのロッカーは脆弱性がヤバい。
鍵が使いまわしだし複製する時間も十分確保できるんだ。
朝イチで施錠して町の鍵屋にスペアキーを作ってもらって鍵を戻すまでの時間も十分にある。
銭湯のロッカーの鍵なんて短い片面にしかギザギザがない。あんなの茶をしばいてる間に出来上がりよ。
銭湯とか防犯カメラを付けにくいエリアなんて入れ食い状態なわけ。
あんな他人だらけの無防備な空間なんて狙われ放題なわけ。銭湯なんて大半の人は他人をジロジロ見ないからな。
容姿を見て狙いを定めたら去った後など悠々とやられ放題なわけ。
奴らは身元割れない方法で換金性の高い商品をゴッソリ購入するスタンバイして臨んでるからな。
なんなら犯行後にしれっとカードを元に戻して発覚を遅らせたりするからな。
アホな事言うようだけど、これがまず第一。
財布・スマホ・時計・鍵の類は物理鍵だけのロッカーに残さない。
最近はロッカーとは別に貴重品専用ロッカーとして自分で暗証番号設定できるロッカーが設置してある所も出てきた。
駅のロッカーなら最近は交通系ICカードで施錠解錠できるヤツあるからそれ使え。
どうでもいい財布に現金1000円くらいとカモフラージュのポイントカードを数枚入れておけば仮に開けられた場合にそのダミーだけ持って行かせるという対策。
自分はそういう目的でも小銭入れと札入れをセパレートで使ってる。
無論、くまなく物色された場合は無力。
容易に盗まれることは理解できたかと思うけど、捕まるのも容易なのだ。
なのでこの手の犯行に及ぶのは窃盗団の下っ端で損切りをしやすいヤツか、ただの間抜け。
カプセルをコンテナ内のミニコンテナとしても使えるので、中に荷物がつめられることもある。
逆にカプセルの大きさからコンテナの大きさも想像できるので便利。
戦後、肉不足で馬肉とねぎを使った焼き鳥屋が熊本の闇市で流行した。不要になった軍馬を使ったり。
もともとねぎウマと言われていたが、途中から訛ってねぎまになった。
鶏肉不足が解消して馬肉を使わなくなり、ねぎまという言葉だけが残った。
偽造防止のためもあるらしい。
詳細は詳しくないが、造幣局の資料によると覚えやすいというので全会一致だった様子。
今の100円硬貨は128個になっているらしい。なんで128個なのかは知らん。
レジ袋の取っ手はあの輪っかが非常に大きいと思うが、あれは平均的な女性の肩幅より少し大き目に設計されて導入された。
昭和の中頃の話。主婦が買い物のときに便利になるようにということらしい。なので現代ならもう少し大き目にすべきかもしれない。
バブル期限定だが、違法風俗や違法賭博に行く人は名刺の右上を軽く折ることで社会の目を掻い潜りながら情報交換していた。
右上が折れている者同士は「あれっ、名刺の右上折れてますね〜!」とお互い牽制し合いながら客探しや店探しをしていたとか。真偽は噂レベル。
いや、最初はただの遊びだったんよ。休み時間にノートの切れ端ちぎって、テキトーに「P1」「P5」とか数字書いて「これ通貨な」って言い出したのが始まり。そしたら、友達が「じゃあポルトでこの消しゴム貸してやるよ」とか言い出して、なんか知らんけど取引が成立しちまった。
そこから調子に乗った俺は、ちょっとデザインに凝り始めた。「PORTO」って書いて、自分のサイン入れて、偽造防止のために角をギザギザに切ったりして、もう完全にお札のつもり。レートも決めて、「10ポルトで消しゴム1回貸します」「30ポルトでノートの切れ端1ページ分」とか、勝手に市場作り始めた。で、俺は発行元だからポルト刷り放題。めちゃくちゃリッチ。
で、最初は俺の周りの数人だけだったのが、いつの間にかクラス全体に広がってた。みんな普通にポルト持ち歩いてて、放課後には「明日10ポルトあげるから、これ貸しといて」みたいな信用取引まで発生。おいおい、マジで経済回ってんじゃん。
んで、決定打になったのが、5年の女子が「50ポルトでイラスト描きます」って言い出したこと。この子、マジで絵がうまくて、クラスの女子がめちゃくちゃ群がってた。これでポルトの価値がガチのものになった。俺は「やべぇ、俺、経済作っちまったな」とか思ってた。
しかし、そううまくはいかない。ある日、クラスのヤツが「俺のポルトがなくなった」って言い出した。最初は「お前の管理が悪いんじゃね?」とか適当に流してたけど、次の日も「俺のポルトも減ってる!」って騒ぎ出すヤツが出てきた。盗難発生。
「これはマズい」と思った俺は、「ポルト銀行」なるものを開設。俺の机の引き出しに管理用の箱を設置して、ポルトを預けたら俺が取引記録をつけるシステムにした。「これで盗まれないぞ!」って宣伝したら、みんな安心して預けに来た。銀行業、成立。
でもここでまた問題発生。「お前、勝手にポルト増やしてね?」と指摘される。
実は俺、調子に乗ってちょっとだけ増刷してた。いや、ちょっとだけな?だって銀行だし、多少の流動性確保は必要じゃん? でもバレた。「インフレすんな」「価値下がるだろ」と怒られる。まあ、そりゃそうか。
んで、ついに先生にバレる。「お前、なんか変なことしてるらしいな?」と呼び出されて、「遊びで経済回すな」とか謎の説教をされる。結局、全ポルト没収。「お金は国が管理するものです」とかいう大人のルールを押し付けられて、俺の経済圏は崩壊した。
まあ、ポルトは消えたけど、あのときの高揚感は今でも忘れられない。あの瞬間、俺は小学校という国の中央銀行だったんだ。
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
子供までいるのに不倫するのはアホだしクソ、とのは絶対そうだし
そこそこ自慢できる仕事に就いてる旦那、ハイブラジュエリー、可愛い服着た子供、家族みんな問題なく仲良し
自分を愛しているのではなく夢を叶えるためのただのピースとして扱われている感じが
しんどいんだよ
「女々しいwwいい大人がヨチヨチされたいのか?」「黙って嫁子供のために働け」という意見、分かる
分かるし、分かってるから表に出さずに黙々とやるべきことやってるわけだが
自分で選んだ家族がこうなってしまう、安らげない場所になるというのはマジでしんどい
俺は兄や会社のおっさん上司がたまに飲みに付き合ってくれてそれがめちゃくちゃありがたかったから女性には行かなかったけど
自分のさみしい気持ちに寄り添ってくれる、俺を俺として見てくれるのが女性だったらコロッといっちゃったかもしれないと思う
「子供を捨てた」というより「お父さん・夫としての自分が耐えられなかった」って感じなんだろうな
世間から見たら俺の家族はそこそこ成功した家族なのかもしれないけど、俺は弟夫婦の方が羨ましく見える
2人ともオタクでなんかカードゲームやっててパジャマで外出たりして髪もいつもボサボサでさ
飼ってる猫も自分らでバリカンやってるから毛ギザギザモサモサでさ
俺には眩しく見えて仕方がない
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https://anond.hatelabo.jp/20240718120400
上記の文章を読んで、実際の女性ファッションとしての縞パンではなく、美少女イラストで流行した縞パンを語りたくなったので書く。
ブラウン管が全盛期の時代(1990年代末頃まで)のPC美少女ゲームすなわちPC-98のエロゲでは、パンツにレースやフリルを描き込むのが流行っていた。これは実際にレースのパンツを履く女性が多かったという訳ではないし、エロゲユーザー(いわゆるオタク)の間でレースのパンツが好まれていたという訳でもない。CG(コンピューターグラフィックス)イラストを製作する側の都合が大きな理由だ。
当時のCGイラストではやたらと細かい模様が使われていた。パンツに限らず女性の服装にはやたらとレースやフリルが使われていたし、人物とは関係ないゲーム画面のUI(ユーザーインターフェース)の装飾にもレリーフ模様がやたらと使われていた印象がある。細かい模様はブラウン管との相性が良く、ブラウン管の滲(にじ)みによって立体感が表現できたのである。
【参考】→ 『 「昔のドット絵はブラウン管の滲みを前提にデザインされていた」に疑問の声』(https://togetter.com/li/1131267 )
こうしたドット絵を当時は手打ちで描き込んでいたのである。当時のCG制作ソフトは機能が貧弱であり、ドットの一つ一つを手入力するしかなかったからだ。どうせドットを手打ちするならばと、ついでに細かい模様を描き込もうという気にもなるだろう。なにせPC-98のモニタ解像度はわずか640x400しかなかったのだから。
しかし、Windows95が普及しモニタ解像度が上昇すると共に液晶モニタも流行すると、ドットで細かい模様を描き込むテクニックは通用しなくなる。ブラウン管と違って液晶モニタではドットの一つ一つが滲まずにクッキリと映るからだ。その上、高解像度表示のために拡大すると、そのドットが大きく表示されてギザギザに表示されてしまうのである。
フォトショップなどのCGソフトを用いてパンツの横縞模様に3D効果を施せば、臀部が立体的に表現されるのだ。それも、解像度の拡大にも耐えうる形でだ。拡大しても縞模様はギザギザになることもなく、滑らかな曲線を保ったままになる。
ちなみに、ラグビーのユニフォームにも横縞模様が多用されるが、理由としては横縞模様による膨張効果によって体が大きく見えるからだという。
レースのパンツから縞パンへと、美少女イラストの流行が転換した時期は1997年だと私は考える。
美少女ゲームブランドにおいては、エルフからLeaf(アクアプラス)へと業界トップが入れ替わる時期である。エルフはドラゴンナイトシリーズ、同級生シリーズ、遺作シリーズなど写実度の高い絵柄でドットを細かく書き込むことに定評があり、パンツはレース模様が主流だった。一方でLeafから発売されるゲームは、雫(1996年)、痕(1996年)、To Heart(1997年)、こみっくパーティー(1999年)とアニメ調の絵柄であり、パンツは縞パンが多かった印象にある。
1996年発売のPCアダルトゲームで年間売上高No.1のゲームが『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(PC-98、エルフ)であり、1997年では『To Heart』(Windows95、Leaf)だったことは、まさしく美少女ゲームの流行が「エルフ・PC-98・ブラウン管モニタ・写実調・レースのパンツ」から「Leaf・Windows・液晶モニタ・アニメ調・縞パン」へと転換したことの象徴と言っても過言ではないだろう。
実際に美少女ゲームの絵柄の流行においても、みつみ美里(アクアプラス所属)の作風が主流になったことから明らかなことだ。
インターネット上での縞パン流行の始まりは、ビスケたん(2002年)だろう。美少女ゲーム会社由来の流行ではなく、インディーズ(いわゆる同人)発信の文化としてだ。この頃から美少女イラストにおいてはパンツが縞パンであることが好まれるようになったのだろう。
とはいえ、そうしたインターネット文化を『ネットランナー』というソフトバンク系列の情報誌がぽよよんろっく(渡辺明夫)のイラストと共に後押ししたことから、インターネット上の縞パン流行は完全なるインディーズとまでは言えないだろう。
そうした縞パン文化を今も引きずっているキャラクターとしては、初音ミク(2007年)が有名だろう。公式設定として初音ミクのパンツが縞パンとされた訳でもないのに、ファンが勝手に縞パンのイラストを描いたことによって、初音ミクといえば縞パンという印象がいまだに拭えないのだ。
ちなみに今から15年前といえば2009年だが、この頃になると縞パンはブームを過ぎてもはや陳腐化された時期といえるだろう。それを象徴するのは、当時放映された『けいおん』アニメ1期の6話である。文化祭のライブで澪が転倒してスカートの中を衆目に晒してしまうのだが、そのパンツを直接描かずして縞パンであると隠喩的に表現するシーンがある。パンツそのものは描かなくとも、水色と白のボーダー柄だけで縞パンと認識するに決まっているという信念がひしひしと伝わってくる。
【参考】→『 澪のパンツのシーンに秘められた裏話!』(https://x.com/K_onkinenbi/status/1422165281061756929 )
特殊な人間関係だと思う。これが恋愛関係なら、ゼロ座標は他人である。付き合う前に「何もしない」ことを選べばそもそも関係が始まらず、付き合ってから「何もしない」を選べば関係が終わるだけの話だ。
しかし、育児の「何もしない」は加害である。それどころか、ミルクで育児をしても、パックの離乳食を開けても、保育園に入れても、見る人によっては「かわいそう」という感想を持たれてあわや加害になる。これがそこそこ心にくる。現実には、ただそこに選択肢があるだけだ。けれどもなまじ正解がないばっかりに、何かひとつを選択すれば選ばなかった方の声がひときわ大きく聞こえてしまう。
だから日々、自分は何かを間違えているんじゃないか、知らないうちにマイナスを生み出しているんじゃないか、とどこか疑いながら生きている。そんな自分だからだと思う。
この間、シナぷしゅで流れてきた曲に顔が滝になるぐらい泣かされた。
https://youtu.be/eyEatipGzqI?si=RZs8LlZrVKwuJRw3
この曲である。シナぷしゅという赤ちゃん向け番組の中で流されている2分少しの短い曲だ。
再生すると、赤い、歯がギザギザの、何を考えてるか分からない顔の生き物が変ちくりんなダンスをしながら歩き始める。軽快なイントロと間の抜けた絵面に、こんな曲のどこで泣くんだ、とあなたは油断するだろう。私もそう思っていた。
歌詞は毎晩泣く赤子に辟易する親の語りかけから始まる。赤子はミルクだって吐く。けれどそのうち泣き止んで、その顔を見た親の感想がサビである。
「あんたって もうけもんだ。もうけもんだ。もうけもんだね。笑えてきた」
なんだ、もうけもんだったのか。繰り返されたフレーズにはっとする。儲け物、つまりいてくれるだけでプラス。赤子をただ存在させている、その現状だけで正解なのだ。
そう思うと急に肩の力が抜けた。今まで選んできたことの何が正解で何が誤りだったかは分からない。でも、今ここに赤子が存在している、その事実だけは間違いなく正解である。ならいいじゃないか。歌詞につられて私まで笑えてきた。そして知らずに涙がこぼれた。
2番の歌詞はそれから少し成長した赤子の話だ。最初は緩やかだった時間の流れがどんどん加速していき、途中からは歌詞の一行ごとに何年も時が過ぎていく。もうちょっとゆっくりやってくれよ、と歌に対して思う。けれど、育児の体感時間もそんなものなのかもしれない。なんだかひどく名残惜しくて、まだその年まで育ててもいないのに、次のサビに入る前から顔が滝になってしまった。
そこへ降り注ぐ「もうけもん」というパンチラインである。勘弁してくれ。ありがとう。泣きっ面にこれでもかと叩き込まれて、気持ちのいい涙があとからあとから出る。
「もうけもん」、本当にいい肯定の言葉だと思う。押し付けがましくなく、大仰でもない。ただ、その価値だけはしっかり伝えてくれる。だから素直に受け入れられる。
やっぱりこれからも、私は正解が分からないまま育児をやっていくのだと思う。けれど、それでも我が子はきっと、いつまでももうけもんでいてくれる。その展望だけでどれほど心が救われることだろう。なんだか明日も生きていけそうだ。
そんな私へ、この曲は最後に小さく暗示をかけてくれる。
「私も含む もうけもんだね」
つまり私も誰かのもうけもんとして生まれてきた。そうして、その価値は今もなくなっていないのだ。いい加減にしてほしい。ありがとう。とどめを刺されたようにまた涙が押し出される。
この曲はシナぷしゅでもわりと最近の方に追加された曲らしい。なので、今私と同じぐらいの子どもを育てている人だけでなく、昔育児をしていたような人もぜひ聞いてみてほしい。
三ツ葉市のゆるキャラに葉渡賢治が選ばれた。
葉渡賢治が12,375票で1位、みつはきゅんが265票で2位、みっちゃんが76票で3位だった。みつはきゅんが三ツ葉市のゆるキャラに最もふさわしいと思ったので、葉渡賢治はみつはきゅんに投票したが、選ばれたのは圧倒的に葉渡賢治であった。そんな馬鹿なと思った。だいたい葉渡賢治は三ツ葉市のゆるキャラに立候補していない。しかし、それを言うならみつはきゅんもみっちゃんも、第4位の葉っぴぃも自らの意思で立候補したわけではないから、異議を申し立てる根拠としては不足しているだろう。第2位のみつはきゅんは緑色がイメージカラーのアニメのヒロインのようなキュートなキャラクターであった。第3位のみっちゃんは二頭身にデフォルメされた中性的なキャラクターで頭部に三箇所結った髪が三枚の葉っぱのように見える。第4位の葉っぴぃはギザギザの葉っぱが特徴の植物が地雷系ファッションに身を包むキャラクターであった。葉渡賢治は葉渡賢治だった。葉渡賢治38歳。三ツ葉市立三ツ葉第一小学校、三ツ葉市立第一中学校を卒業、三ツ葉市立三ツ葉高校入学・卒業、三ツ葉市立三ツ葉経済大学入学、大学卒業後は三ツ葉市の老舗和菓子屋・三ツ葉堂に就職、3年前に看板商品である三ツ葉大福製造ラインの責任者に就任、で今に至り、三ツ葉市のゆるキャラに就任。
市の命令で、葉渡賢治は市役所から徒歩10分の場所にある8畳1Kのアパートに引っ越しをすることとなった。他の自治体では大抵のゆるキャラは市役所の倉庫に押し込められているので、専用のアパートを与えられることはゆるキャラにとって異例の待遇である、と市の観光課の人間は言った。これまでは6畳1Kの部屋で生活をしていたので、わずかにグレードアップしたことになる。普通ゆるキャラはクルマを運転しないだろうし、ゆるキャラが交通事故で人を轢き殺すなどすればそれは前代未聞の事案で、どのように対処すればいいのか誰にもわからないので、リスク管理のためにクルマは売却が推奨され、それに従った。引っ越しとクルマの売却に伴って勤務先である三ツ葉堂への出勤が困難になったため、退職した。
就任式には何を着て行けばいいのかわからず、葉渡賢治はスーツで行った。市役所の3階。「それでは三ツ葉市の新キャラクター、葉渡賢治38歳さんです、拍手でお出迎えください」と女性の司会役が言い、俺が入室する手筈になっていた。葉渡賢治のゆるキャラとしての名前は、本名の他「38歳」まで含まれているのだと葉渡賢治はこの時に知った。つまり「葉渡賢治38歳」がキャラ名である。来年とかどうするんだろう、と思った。葉渡賢治は拍手で出迎えられ、ゆるキャラとしての葉渡賢治の姿がみなさんにお披露目された。ゆるキャラとしての葉渡賢治の姿というのは、この場合、スーツ姿の葉渡賢治のことである。昨日は髪を切り、家を出る前に入念に髭を剃り、ヘアオイルを付けて髪を乾かし、化粧水を顔に塗りたくるくらいのことはしたが、葉渡賢治が葉渡賢治であることには変わりなかった。
思ったよりも厚みのある会場の拍手の音で薄々気付いてはいたが、おびただしいカメラのフラッシュに意表を突かれた。葉渡賢治を見に来ている人がたくさんいた。マスコミとかだろうか。フラッシュの眩しさにしかめっ面になりそうになったが、そうだ、俺は三ツ葉市のゆるキャラなんだと思い出し、できるだけゆるキャラとしてふさわしい振る舞いをしようと心掛けた。少なくともゆるキャラはしかめっ面はしないだろう。そんなゆるキャラを葉渡賢治は見たことがなかった。三ツ葉市のゆるキャラに葉渡賢治が選ばれてからというもの、葉渡賢治はゆるキャラの勉強に余念がなく、大抵のゆるキャラの顔面にはうまく言語化できない愛嬌があることを発見していた。だから、葉渡賢治は笑顔とも微笑みとも無表情とも言えない、強いて言えば、いつも行っているラーメン屋でいつも通りの醤油ラーメンAセットをオーダーする時の表情(よく観察するとわかるが、殆どのゆるキャラはこの表情をしている)をして、大量のフラッシュをやり過ごした。
会場は大きな多目的室のような場所で、皆の衆目が集まる正面に、緑色背景に白抜きで三ツ葉市と書かれた市松模様の大きなボードが聳え立ち、その上に「三ツ葉市ゆるキャラ就任式」と書かれた横断幕が設えられている。簡素な作りではあったが、今日の葉渡賢治のために用意してくれたかと思うと率直に感謝の念が溢れた。市長は既に市松模様の大きなボードの前面にいて、登場した葉渡賢治に手を差し伸べ、我々は握手をした。市長の手は大きくて温かく、焼き立てのパンのようだった。フラッシュが一層大きく焚かれる。醤油ラーメンAセット、醤油ラーメンAセットと葉渡賢治は念じて、パンのことはひとまず忘れた。マイクを持った市長が司会に促されて喋り始めた。
「えー、葉渡賢治38歳さん、今日からあなたは我が三ツ葉市をより一層盛り上げる存在として、大いに期待していますし、市一丸となってその活躍を後押しをしていきたいと考えています。よろしくお願いしますね。さて、三ツ葉市を躍進していく政策としては三枚の葉っぱがあります。昨日考えました。一枚目は教育。日本に誇る三ツ葉市立三ツ葉経済大学。ね。これがその大きな役割を担い、地域経済をますます活性化して行くでしょう。すごいですね。二枚目は産業。三ツ葉堂の三ツ葉大福がブランチで何回取り上げられたか知ってます? それはもうね、何回も取り上げられてるんですか? 三ツ葉市ってのは交通の要所ですから、お土産もたくさん売れるってもんですよ。ね。そして三枚目。それがこのゆるキャラですよ。これから、はま……、は……、はわ……、はわたり、けんたろう、だっけ? そうそう、あはは、ねぇ? ってーかビシッとスーツで決めちゃって、ゆるキャラなんだからゆるい格好でよかったのに。パーカーとか。あ、でもゆるキャラはパーカー着ないか。ね。誕生日いつ? いま何歳? あーね。そうそう、歳とったら名前の歳も一歳増やして、葉渡賢治39歳になるから。直木三十五みたいで格好いいだろ? あ、どうせなら漢数字にする?」
市長の演説が終わると、委嘱状が授与された。市長から確かに委嘱状を受け取った。酔っ払っているのかなと思ったが、その挙動は素面のそれで、特に酔っ払っているわけではなさそうだった。額縁に入っていて重みがあった。正面にそれを掲げるとたくさんのフラッシュが焚かれた。やがてマイクが手渡され、司会者が「葉渡賢治38歳さん、意気込みをお願いします」と言い、葉渡賢治が喋る番になった。何を言うべきか迷ったが、「大好きな三ツ葉市を盛り上げて行きたいと思いますので、よろしくお願いします」と言って礼をしたところ、隣の市長が「君、ゆるキャラってのは喋らないんだ。喋ってるゆるキャラを見たことがあるかい?」と耳打ちし、うっかりしていたと思った。「何かそれっぽいポーズでもしておきなさい」と市長は続け、俺はとっさに左手を自らの腰に当て、右腕を天に掲げたそれっぽいポーズをした。会場からは笑い声が漏れた。俺のゆるキャラとしてのコミカルさが会場の笑いを唆したのであれば、ゆるキャラとしての初めての仕事としては上出来だろうと思われた。やがて葉渡賢治は音楽に合わせて「みんみんみんなの三ツ葉ダンス」を踊った。ワルツだった。式典の最後で披露するから覚えてきてくれと言われていたやつで、おそらくこれも上出来だった。キャラソンで三拍子の音楽はあまりないように思われ、攻めてるな、と思った。左手を自らの腰に当て、右腕を天に掲げたポーズでダンスを終えた時、会場に迎えられた時と同じくらいの拍手の音が鳴った。
俺はこれからゆるキャラとしての自覚を持った暮らしをしていくことになる、と葉渡賢治は思った。給与は前職のものが引き継がれ、家賃は半額の補助が出る点も同様だったから、ひとまずは生活には困らないことになっていたのは幸運であった。おそらくゆるキャラはコンビニ弁当を買って食べないから、しっかりと自炊をすべきだろう。三ツ葉市を後押しするキャラなわけだから、肉よりも野菜多めの生活がいい。ゆるキャラにサプリメントを摂取するイメージはないが、活動を下支えする健康のためには取り入れるべきかもしれない。アルコールはこの際やめるべきだ。タバコはそもそも吸っていないが、タバコの原材料は葉っぱなわけで、敢えて喫煙を始めたほうがいいだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎだ。タバコをスパスパ吸っているゆるキャラがどこにいる。夜は早めに寝て、朝は早めに起きたほうがいい。過度な筋トレはゆるキャラとしての外見を毀損するから、きっと避けた方がいいだろう。どちらかと言うと、ご飯をもりもり食べて丸々と太った方が愛嬌が出るだろうな。
初めての仕事は就任式から4日後の葉渡マラソン大会であった。パーカーを着て行った。一ノ葉町、二ノ葉市、三ツ葉市、四ツ葉町を合わせて葉渡地区と言い、一ノ葉町のいちかてゃ、二ノ葉市のにのの、三ツ葉市の葉渡賢治38歳、四ツ葉町のよもぎんが会場に来ていた。よもぎんを見るのは久しぶりだった。実は俺は小学生の頃、隣町である四ツ葉町のお祭りに行った際にたまたま会場に来ていたよもぎんを友人と共にふざけてボコボコにしたことがある。よもぎんはよもぎ団子を模した緑の丸いキャラクターで、そのふくよかな見た目は子供たちをして、体当たりをしてくれ、サンドバックにしてくれと言わんばかりのように思えた。よもぎんは複数の子供たちにもみくちゃにされながれも笑顔を保っていて、それが更に子供たちの加虐心を駆り立てた。子供のやることだったし、よもぎんは丸くて厚い「側」に覆われていたように思われたので、死活問題になるようなダメージはなかっただろうが、いま思えばむごたらしい仕打ちをしたものだと思える。
葉渡マラソン大会の会場にはキッチンカーなどが集まり、老若男女大勢の人で賑わいを見せた。マラソン大会という名のお祭りであり、我々ゆるキャラは集客のための賑やかしだろう。俺はランナーに手を振ったり、子供たちと触れ合ったりしながら、かつてのよもぎんのように四方八方からボコボコにされやしないか懸念していたが、杞憂であった。かねてより思っていたことであるが、最近の若い人は礼儀正しくて、思いやりがあり、優しい。「本当にリアル葉渡賢治だー」などと子供たちは言い、俺は求められるままに子供たちと握手をしたりした。
ひとしきりの子供たちが離散すると、大きな丸い物体が視界に入った。俺の記憶にある若々しい新緑のよもぎ色ではなく、数年に渡って浴び続けた太陽光線で色褪せ、汚れや黒ずみが目立つ、言われれば確かによもぎ餅かもしれない、という物体であった。側面にはわずかにへこみがあり、これはあの時に俺が蹴りを入れたへこみだろうか。よもぎんは俺の眼前に佇み、俺を見つめていた、気がした。実際のところは俺を見つめていたかどうかわからない。たいていのゆるキャラにはどこを見ているのかよくわからないようなところがある。何か言いたげなようにも思えたが、やはり実際に何か言いたいかどうかはわからなかったし、そもそもゆるキャラは喋るべきではなかった。やがてよもぎんは去っていった。俺の目は確かによもぎんの背を見つめていたが、何を思えばいいのかまではわからなかった。
葉渡賢治39歳は全日本ゆるキャラグランプリで審査員特別賞を受賞し、その名を全国に知られることとなった。同年、地上波テレビに初出演。つぶあん同盟という深夜番組で、芸人さんが1〜2分程度のネタをする番組だった。葉渡賢治には人を笑わせるようなネタがあったわけではないが、「おまかせで」というオファーを頂いていたので、三ツ葉市のPRをし、フル尺でオンエアされた。SNSや動画サイトでも切り抜かれて大いに拡散し、コアなお笑いファンを中心に話題になった。三ツ葉市は葉渡賢治のテレビへの出演オファーは全て受け入れ、それとは別にインターネット動画配信も精力的に行い、着実に人気を獲得していった。葉渡賢治39歳のグッズが制作され、三ツ葉駅で販売された。特にアクリルスタンドは好調な売れ行きのようで、葉渡賢治39歳を前面に押し出したパッケージデザインに刷新した三ツ葉堂の三ツ葉大福は前年に比べて売上が約25%向上したとのことである。
葉渡賢治40歳は全国を飛び回る多忙な日々を過ごした。市のPRのみならず、県や地方の宣伝にも駆り出された。グッズは39歳のものから40歳のものへ刷新され、商品数を増やしたこともあり、売上金額を更に伸ばした。アクリルスタンドの他、クリアファイル、Tシャツ、トートバッグは特に人気だった。終売となった葉渡賢治39歳のグッズはフリマアプリでプレミア価格で取引された。
葉渡賢治41歳は全13話で深夜アニメ化され、毎週のようにSNSでトレンドに浮上した。これは葉渡賢治の声優デビュー作でもある。実は葉渡賢治40歳10ヶ月あたりで極東経済という雑誌が「なぜ葉渡賢治は40歳でブームが終わるのか?」という挑戦的なタイトルで記事を出し、かなりページビューが回っていたようで、このまま葉渡賢治は終焉に向かうかと思われたが、アニメが起死回生の立役者となったというわけだ。
翌年には葉渡賢治42歳のマンホールが市内に5か所設置された。これは葉渡賢治の聖地巡礼をする観光者への秘策であった。さすがにマンホールは毎年デザインを刷新するわけにはいかないから、葉渡賢治アプリのカメラで撮影するとARで葉渡賢治の現状の歳が浮き出てくる仕様になった。就任時に動画サイトに投稿していた「みんみんみんなの三ツ葉ダンス」は葉渡賢治43歳4ヶ月の時点で1000万回再生を記録した。
葉渡賢治は45歳になり、葉渡賢治45歳になった。葉渡賢治45歳はアニメの時ほど多忙でもなく、しかしイベントに呼ばれればそれなりに盛況という、ライフワークバランスの取れた時期であった。できるだけ丸々とした愛嬌のある体型を維持しようとしていた葉渡賢治であったが、ここ最近は太りやすさを感じており、愛嬌のある体型をオーバーしているようであることが気になっていた。愛嬌とは丸々としていることであり、腹がだらしなく出ていることではないだろう。以前よりも頭髪が劇的に薄くなっているような気もしていた。
平日昼の帯番組「ひるとん」で、リリースされたばかりの新曲「三ツ葉にあつまれ!」のプロモーションのために生放送でダンスを披露することとなっていた。良く言えば安定、悪く言えば停滞していた葉渡賢治の人気を今一度ブーストするための満を持してのリリースであった。楽曲制作、MV作成、振り付けなど、「三ツ葉にあつまれ!」には潤沢な予算を投入したと聞いている。気合いを入れなければならない。
「さーて、今日は、三ツ葉市から特別ゲスト、葉渡賢治45歳さんが新曲を披露してくださいます。それでは聴いてください、「三ツ葉にあつまれ」です、どうぞ!」とアナウンサーが言い、スタンバイしている葉渡賢治の姿がモニターに映し出されたのが見えた。モニターに葉渡賢治の姿が映し出されたということは、生放送で全国のお茶の間のテレビにも葉渡賢治が映し出されているということだ。音楽が鳴り、葉渡賢治45歳は周りに従えたちびっこダンサーと共に踊り始めた。やはり子供の人気は不可欠とのことで、ダンサーは10〜14歳の男子2人、女子2人の4人であった。葉渡賢治の両隣に男女2人、後方に並んで男女2人という体制であり、葉渡賢治を合わせた計5人がステージで新曲を披露した。新曲の振り付けはデビュー作よりもテクニカルで、葉渡賢治の加齢と体重では踊り切るのが難しく、MV撮影時にはNGを出しまくり、現場はピリピリしていたように思った。葉渡賢治は醤油ラーメンAセットのことを考えながら生放送を踊り切ろうと思ったが、最近ではにんにくたっぷり餃子付きの醤油ラーメンBセットも気に入っており、迷いが生じた。曲の終盤、メンバー全員が2回転スピンを披露する箇所がある。2回転スピンとは、2回くるくるとその場で高速で回ることである。葉渡賢治はこれを苦手としていて、これがこの日最大の山場だろうと考えていた。
事件は起きた。いざ2回転スピンの場面になると、加齢、肥満、緊張など様々な言い訳はできると思うが、葉渡賢治は2回転目によろよろと右にバランスを崩した。葉渡賢治の右にはダンサー最年少である10歳の女性(本名非公開)が配置されており、不覚にも葉渡賢治は彼女に激突、葉渡賢治は彼女に覆い被さるように倒れ込んだ。この場面はSNSや動画サイトで切り抜かれて大いに拡散し、ネット民による数々の自発的な検証が行われ、「葉渡賢治の右手が女児の胸を掴んでいる」「葉渡賢治の唇が女児の首すじに触れている」「葉渡賢治の右膝が女児の脚と脚の間に入り込み、女児は開脚を余儀なくされている」「葉渡賢治の汗とよだれが女児の衣装に付着している」「葉渡賢治の息はにんにく臭そうである」「それ以降の女児の泣きそうな顔は見ていられない」「それでも最後まで踊り切った女児はプロ」「人生で一番気分の悪いものを見させられた」「葉渡賢治とかいうセクハラ野郎」「犯罪者」「消えろ」などという書き込みがあった。
どのゆるキャラにも否定的な意見は最低一つはある。養老塚市のよろよろには「どんくさい」、木宮町のきのやんには「アドリブが効かない」、千脈市のちーおには「正面を向け」など。しかし、彼ら/彼女らゆるキャラがいちいちSNSをチェックしてそれらネガティブな意見を閲覧して真に受けているようには思えないし、何しろ彼ら/彼女らにはゆるキャラという「側」が鎧のように装着されているように思われ、その無機質な「側」がダメージを吸収あるいは反発して無効化しているように葉渡賢治には思われた。その点、葉渡賢治はそれら誹謗を生身で受けざるを得なかった。葉渡賢治は葉渡賢治それ自体がゆるキャラだったからである。葉渡賢治はSNSはもちろん、ニュースサイトのコメント欄、匿名掲示板への書き込みなど、自らへの誹謗中傷を全てチェックした。なくなった仕事の退屈を埋めるように、まるでそれが葉渡賢治の仕事Permalink |記事への反応(1) | 17:38
セルジュルタンスのサマジェステラローズの釣鐘ボトルが出品されてる
ラベルの紙の端がなんかボロボロで、ごく最近買ったと言われると、扱い悪すぎない?と思う
古いロゴの品、少なくとも10年以上前の釣鐘ボトルが出てるけど、ラベルの端はシュッとしてる
でも釣鐘ボトルの本物は持ってないし、日本でも売っておらず、フェイクと判定するだけの材料がない
ラベルはまるで手作り感を出す演出をしてるかのような…霞んだり滲んだり歪んだり、端がガサガサギザギザしてたりと
少なくともセルジュルタンスの世界観にそういうのはない気がする
他の出品者の釣鐘ボトルと比べても、単純にボトルとラベルが微妙にチープ感ただよう
この出品者さんのカメラ性能によるものなのか、ソファの上での撮影というのが災いしてるのか
その他の出品も有名で高価な香水が並んでる
これは本当に趣味の人っぽいとは思う
売り上げの5パーを寄付する設定にしており、客観的にはお金に余裕のあるセレブな人だ
まあ、正規品で試したことのない香りをフリマサイト等で中古で買うことはしないので、まあ見送るんだけど