
はてなキーワード:キャンキャンとは
春の陽射しが網戸を通して差し込む。父親がレール部分を指さす。「ここが出っ張っているから削ってくれ」。私は黙って見ていた。
彼の指さす先は、網戸の可動部分そのものだった。削れば機能しなくなる。彼は「ちょっとした困難」にすぐ人を頼る。
この癖が、彼の人生を、そして私との関係を、ゆっくりと確実に蝕んでいったのだと、今ならわかる。
水に沈むラジコン
私が小学校六年生のときの話だ。何週間もかけてラジコンカーを組み上げていた。
完成間近になった夜、父は「見せろ」と言った。暗がりの中、私は車体の最終調整をし、父に送信機を渡した。「触らないで」と念を押した。
彼は触った。いや、いたずらした。車体はバックし、深い水たまりにまっすぐ入った。
防水ではない。私は固まった。父は笑っていた。彼は私がキャンキャン騒ぐのを楽しんでいた。
後日、母の叱責で父は謝罪した。窓を開け、寝ている私に投げやりに「悪かった」と叫んだ。
この瞬間、私は「父」という存在を、一個の「人間」として測り始めた。そして、その測定結果は惨憺たるものだった。
父は幼い子ども、特に五歳くらいまでの子に強い興味を示した。無理難題を言って反応を楽しむ。
しかし、子どもが自我を持ち始め、「嫌なものは嫌」と言い出すと、彼の目は瞬く間に曇り、興味は失せた。
彼が求めたのは「思い通りになる関係」だった。それは存在しない幻想だ。だが彼は、その幻想に依存し続けた。
春になると、父は特別なことをした。早起きして私を叩き起こすのだ。
冬はない。春の陽気が、彼の中の何かを騒がせるらしい。「五分で着替えてグラウンドに出てこい」。それができないと、真っ赤な顔をして殴ってきた。
彼は「猶予を与えないこと」が得意だった。自分が起こされるときは、そんなことは一切ないのに。
時は流れ、父は会社で「懲罰人事」と呼ばれる社外出向を命じられた。
当時はリストラの時代ではない。彼は「出向イコールクビ」と二度繰り返し、絶望した。
青森かどこかへ行かされ、そこでは何もせず、無為に時間を過ごし、苦しんでいたと後で聞いた。
不思議なものだ。同じ「出向」という境遇に、私は後に立つことになる。
だが私の感覚は違った。「落ち込んでいたけど、日々の出勤があるからね。なんかできないかなー」そう思った。
二万円のパソコンと、当時としては画期的な低価格ソフトを買い、独学で使いこなした。
そして自作の便利なコマンドを作り、部署のみんなに入れてあげた。面白がられた。
そこに、大手IT企業から来たという男がいた。LANケーブルのこともわからず、私に頼ってきた。仕事から逃げる人だった。
「こんなダメ人間がいるのか」と思った。肩書と実力の乖離。父が会社でやっていたことも、おそらくこれに近かったのだろう。
「暴力で言うことを聞かせ、逆らうと政治をする」。そんな男が、組織の本流から「放逐」されるのは、必然の成り行きだった。
自分で見て、考えて、ためしてみる――この最も基本的なプロセスを、彼は常に他者に投げた。
その癖は、家庭の隅々に染み出ていた。
一緒に旅行に行こうと言い出したかと思うと、電車の中で突然言った。「お前は算数の問題集を持ってきてやる」。
アホかと思った。旅行という非日常の空間に、日常の課題を持ち込む。
彼の頭の中には、私という人間の感情や欲望は存在せず、あるのは「教育する父」という自分自身の役割に没入したいという欲求だけだった。
別の日、彼はテレビのクラシック音楽番組を楽しそうに見終わると、手元を指さして言った。
「ハイ、ここに三十分くらいクラシック音楽」。突然の指令である。私はレコードプレーヤーを持ってくるよう命じられ、むしゃくしゃした。
私だって番組を楽しんでいたのに。彼の「いい気分」は、周囲の人間を突然「自分の情緒的体験の延長」として召喚する許可状になった。
ゴルフの指導もそうだった。一挙一動に大声で口を出し、完全に夢中になる。
彼が夢中になっているのは、私の上達でもない、親子の時間でもない。
それは私のためというより、自分自身の熱狂を演出するパフォーマンスだった。
母方の叔母の話をしよう。彼女の息子は三十五歳でようやく結婚式を挙げた。
その場でマイクを握り、「私は胸がいっぱいです」と泣きながら言った。
私は意外だった。ふつう、結婚式は来賓を労うものだと思うからだ。
だが、これが母方の家系の特徴なのかもしれない、と後になって気づいた。
その叔母もまた、自分の息子が結婚した際、相手の家が存在しないかのような振る舞いを繰り返したという。
母も父と「同じ」だった。私の感情や意思を、一個の独立したものとして尊重するという基盤が、初めからそこにはなかった。
母方の家系には、内輪の感情に強く没入し、その外側の他者を軽視する傾向が流れているようだった。
私は、父方の「支配と幻想」と、母方の「没入と無視」という、二つの異なる「他者不在」のシステムの交差点に生まれ落ちた。
だからこそ、私は両方のシステムから自由な、「外部の観察者」となることを運命づけられていたのかもしれない。
高校生のある日、私はついに父に「やり返した」。長年の理不尽な暴力への反撃だ。
だが私は、顔面は避け、背中から押し倒すという「優しさ」すら守った。
彼は私を殴り返さなかった。代わりに、親戚中に電話をかけ、「息子が父親に暴力をふるった」と言いふらした。
そこで私は、彼の「卑怯」の本質を見た。力の論理で負けるやいなや、たちまち「世間体」や「情の政治」という別の土俵に持ち込む。
会社で「逆らうと政治をする」というのも、まったく同じ手口だったに違いない。
家庭という密室では通用したこの手法が、会社というより広い社会では通用しなくなり、彼は「懲罰人事」という形で社会からも排除されていった。
死の間際の「息子、息子」
父が死の床に就いた時、彼はひたすら「息子、息子」と考え続けていたと聞いた。その話を聞いて、私はなお一層、痛々しい気持ちになった。
なぜそこまで、自分を脱することができないのか。なぜ「最初から存在しなかった幼児」への依存から、一生抜け出せないのか。
彼が求め続けた「息子」は、私ではなかった。自我を持ち、意思を持ち、彼の支配を拒絶し、一個の人間として彼と対峙したこの私ではなかった。
彼が恋い慕ったのは、彼の心の中にだけ存在した「言いなりになる幻想の幼児」だった。私は、その幻想を体現できない「失敗作」として、彼の人生に居続けたのだ。
世間では「生まれてこさせてもらって感謝しなさい」と言われる。だが私は思う。最初から存在していないなら、生の苦しみも何もない。
生まれる前の「私」に、生まれることの恩恵も不利益もない。問い自体が意味をなさない。
父や母は、「子どもを作った」という事実をもって、何かを成し遂げたと思っていたかもしれない。
だが、生物学的な子作りは猫や犬にもできる。なにも偉くない。
本当に難しいのは、その子どもを一個の独立した人格として尊重し、その人生を見守ることだ。
彼らにはそれが決定的に欠けていた。だから「感謝」を求めること自体が、服従の要求に感じられる。
私もうつ病になり、三十年近く貧しい生活を続けてきた。その中で気づいたのは、生きて給料を得ることすら、ある種の犬や猫が「できること」に過ぎないということだ。
社会はそれを「偉さ」の基準にするが、それができないからといって人間の価値がなくなるわけではない。
逆に、それができたからといって、その人が他者を尊重できる人間になるわけでもない。父がそうだったように。
だから私は思う。父のような人は、理想化されたホステスさんに、自分の理想の女性を「乗り移らせ」て、ぼーっと依存するほうがよほど健全だったのではないか、と。
対価を払い、時間を区切り、無辜な他者を傷つけずに、自分の幻想と向き合うことができるのだから。
彼はそうしなかった。代わりに、逃げ場のない家族を、自分の幻想と支配欲の捌け口にした。
網戸のパーツを「出っ張り」と誤認し、削るよう命じたように、彼は現実を歪めて認識し、それを修正する責任を他者に押し付けた。
彼が家庭という密室で、そしておそらく会社という社会で、いかに他者を尊重せず、いかに自己の幻想に依存し、いかにして孤立と排除へと向かっていったかを、誰よりも詳細に証明できる存在だ。
同時に、私は彼の「反対の証明」でもありたい。出向先でパソコンを学び、コマンドを作って笑いをとったように。
網戸のパーツを削るように命じられながら、その誤りを見抜いたように。春の朝の暴力に、「背中から落とす」という自制の反撃で応えたように。
彼が「懲罰」と見た場所で、私は「自分が伸びる材料」を見た。彼が「クビ」と絶望した処遇を、私は「日々の出勤があるから」と現実として受け入れた。
彼が「息子、息子」と幻想にすがった最期のとき、私は「なぜ自分を脱せないのか」と、彼の孤独を見つめていた。
証拠はすべてここにある。水に沈んだラジコン。春の朝のグラウンド。網戸の誤認されたパーツ。親戚に言いつけた電話。
青森での無為な日々。そして、私の中に残る虚しさと、それでも尚、現実と能動的に関わろうとする、かすかな手応え。
子どもはすべて知っている。思う存分にやったことを、一つ一つ覚えている。
私は父の、そして母方の家系の、その「思う存分」の人生の、生きている証明書なのだ。
この証明書に刻まれた文字は、時に怒りに、時に哀れみに、時に深い虚無に染まる。
だが、それが私という人間の、否定しがたい一部であることも、また事実である。
はじめに:その「尊さ」に馴染めない
男性キャラクター同士の関係性(ブロマンス、BL、あるいは悪友関係)を消費する際、よく使われる言葉がある。
彼らが必死にプライドを賭けて戦ったり、くだらないことでマウンティングし合ったり、性欲や嫉妬でぐちゃぐちゃになっている姿を見て、私が抱く感情は「尊い(崇拝)」ではない。
「こいつら人間のくせにめちゃめちゃ動物ムーブしてる! わかりやすい! 単純! よしよし、愚かでかわいいね」
これは動物園の柵の外から、じゃれ合う動物たちの生態を眺めている時の感覚に酷似している。
本稿は、この「ホモソーシャルを動物の生態として檻の外から観察する快楽」について、あえて露悪的に、しかし大真面目に言語化する試みである。
これまでの議論において、女性が男性同士の関係を好む理由は、大きく二つの派閥で説明されてきた。
【聖域(サンクチュアリ)派】
「彼らの絆は美しい」。現実のしがらみから切り離された、高潔で純粋な魂の交流への憧れ。
【憑依(同一化)派】
「彼らのようになりたい」。女性という役割を脱ぎ捨て、自由な少年たちの世界に自分を重ね合わせる没入感。
私が提唱したいのは、このどちらでもない第三の視点――【ホモソーシャル動物園の鑑賞者派】だ。
ここにあるのは、徹底した「他者化」だ。
彼らは私とは異なる原理(本能・序列・性衝動)で動く「霊長類ヒト科のオス」であり、私はそれを檻の外の安全圏から一方的に鑑賞する「観察者」である。
崇めもしない、なりたくもない。ただ「面白い生態」として愛でたいのだ。
2. 「愚かかわいい」という無害化処理
なぜ私は、彼らが高潔な騎士道精神を発揮する場面よりも、本能丸出しで自爆する場面に「萌え」を感じるのか。
それは、男性性が「動物的な愚かさ」へと還元された瞬間、彼らが「無害化」されるからだ。
現実社会において、男性の「権力性」「暴力性」「性衝動」は、女性にとってしばしば恐怖や抑圧の対象となる。
しかしフィクションの中で、彼らの行動原理を「理性」から「本能」へと引きずり下ろして解釈した瞬間、意味合いは反転する。
・社会的な面子やプライド → 「群れの中での威嚇ディスプレイ」
脅威だったはずの牙や爪は、現実から切り離されたガラス越しの展示物となる。
このハック(認識の書き換え)こそが、私が彼らを愛でるための生存戦略なのだ。
社会学者の上野千鶴子氏らが指摘するように、歴史的に「見る/見られる」という構造には権力が宿る。
これまでは常に、男が「見る主体」であり、女は「見られる客体」として値踏みされてきた。
私のホモソ萌えは、この構造に対する精神的なリベンジ(復讐)の側面を持つ。
フィクションという檻の中に男性たちを閉じ込め、彼らの尊厳や理性を剥ぎ取り、「愚かかわいい動物」というコードに変換して消費する。
私は、現実では得られない「圧倒的な優位者としての視線」を貪っているのだ。
「男ってなんか社会の権力握って偉そうにしてるけど、やってることは動物じゃん! かわいいね!」
しかし、この権力勾配の逆転はあくまでも見せかけのものであり、実際の構造を変えることにはなんら寄与しない。ただの溜飲下げであり、ガス抜きである。
つまり、これは男性優位社会の中で私たち女性が精神的にサバイブするための、ひとつの生存戦略なのである。
ここまでの話を聞くと、「なんと傲慢で、男性を蔑視した見方だろう」と眉をひそめる人もいるかもしれない。
私は決して、独自の偏見で彼らを動物扱いしているわけではない。
むしろ、この社会(男性社会)が発信している価値観を、誰よりも「素直」に受け入れた結果なのだ。
男性たちはしばしば、自らの加害性や未熟さを正当化するために、こう弁解する。
「男なんてバカな生き物だから」「本能には逆らえないから」「男には闘争本能があるから」。
私はその言葉を、一切の疑いを持たずに、文字通り「真に受けて」いるだけだ。
「なるほど、あなた達は理性的な人間ではなく、本能で動く動物なんですね。わかりました」
彼らが「免罪符」として使う「男ってバカだから(笑)」という内輪の甘えを、私たちは「男はバカだからしょうがないね(笑)」と許してやるのではなく、肯定する。
真に受けたうえで、あくまで許さず、肯定し、そのうえで「かわいい」と消費するのだ。
「そう!あなた達の言う通り! だからキャンキャン吠えて威嚇し合ってるんだね!かわいい!」
むしろ「過剰な肯定」によって、そのグロテスクさと滑稽さを暴き出す、鏡合わせの愛なのだ。
私たち「ホモソーシャル動物園の鑑賞者」は、家父長制的な価値観を内面化しているがゆえにホモソーシャルに対して「愚かかわいい」という感情を抱いてしまう哀しきモンスターなのである。
おわりに
誤解のないように言っておくが、私は彼らを嫌っているわけではない。むしろ、このフィルターを通すことでしか、これほど深く男性キャラを愛せなかっただろう。
彼らが「人間としての高潔さ」や「男としての威厳」という着ぐるみを着て、必死に人間ごっこをしている姿。
その隙間から、隠しきれない「動物的本能」がチラリと見えた瞬間、私はどうしようもない愛おしさを感じる。
この「ホモソ動物園」の開園時間だけは、私たちは安全な柵の外から、愛を込めて彼らを「愚かだねえ」と笑い飛ばすことができるのだ。
(※本稿は特定のファン心理の分析であり、すべての作品やファンにあてはまるものではありません)
まず警察に相談するレベルのDV被害者は眼帯はつけてきません。支配で主体性を取り上げられ何も考えられない状態になるため、隠すようなことも出来なくなります。自分の立ち回りすら、おざなりになります。
本当にDVを受けてたら、同じ男性である元彼にすら訴えることを躊躇う。「お前が悪いだろ」って言われるのが被害者にとって一番堪えるから。
DV加害者は、もちろんモラハラも常習のはず。孤立する心理状態にさせるのは得意なので高をくくって平気で買い物に行かせたりします。「どうせこいつはDVされてるなんて言える胆力がない」と。不自由にさせていないことからむしろ、自身が優しい人間だと勘違いします。
それほどの暴力性とコントロール力があって、SNSで他者に噛み付く?プレイさせるのを拒否してDV?とくに後者は順序がおかしくて、必ず暴力やハラスメントから始まって自分の要求を必ず被害者にのませるんですよ。つまり暴力を体よく使って、コスプレさせることを達成させるんですが、その文章すらない。
てか、誇張させなくても普通にコスプレを強要させるだけでも問題だけどチグハグすぎる。
いや、本当に増田が本当のこと言ってるのならいいんだけど、警察に相談してDVが認められた時。その後どうするかちゃんと考えてるのか心配すぎるわー。お得意の格闘技で守ってもいいが正当防衛に留めといてね。どうせ何から何までウソなんだろうけど。
リアルでDVで苦しめられてる人がたくさんいる中で、ITエンジニアのアニオタきもって言うためだけにゴミ三文創作作るのお前が一番キモい。
もしくはなんも外のことを知らないから書けるの?
国家権力がどうの言論弾圧がどうの負け犬のごとくキャンキャン泣き言言ってくるのが最高にダサい
おまえらのバックにはマスコミだのアカデミアだのの権力が同じように付いてたんやで
AVやライブチャット以外で喘ぎ声を聞いたことが無いので、普段の声の高さで喘ぐ人が実在するのか俺はわからない。
いっそ母親に「お母さんの喘ぎ声って地声と高さが変わってた?」と聞いてみようかね?超勇気いるけどさ。
でもさあそういう女って普通にいると思うんだよ。
箕輪はるかがもしセックスしたとしてAV独特のキャンキャン声になると思うか?どう想像してもいつものあの声しか出せないような感じしないか?
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おやおや、ついに「キャンキャン吠えてご苦労さま」「怒っちゃいました?」などという幼稚な煽りにまで堕ちたか。
もはや反論ではないな。これは完全に内容を語る知力が枯渇した者の典型的な逃走ムーブだ。
議論で反論できなくなった者が最後に縋るのが、相手の感情を揺さぶって黙らせようとする感情のレトリック放尿だが、それは論理の死刑宣告でしかない。
まず、「図星なので怒った」と断定している時点で、君は相手の内面を勝手に決めつけて悦に入っているが、こちらは事実と論理の整合性を問い続けているだけだ。
怒りかどうかも理解できず、それを論破だと勘違いしているなら、認知能力の破綻をまず疑ったほうがいい。
それから「底辺弱者男性さん」というフレーズ、よく聞くが、それ自体に意味はない。
これは言葉を使って相手を分類し、その分類を理由に蔑むという、きわめて原始的なレッテル貼りだ。
問題は、それが「だから何なのか?」という問いにまったく答えていないことだ。君は「分類」だけして「主張」していない。これは議論ではなく、知的貧困の自己紹介に過ぎない。
そもそも、相手を煽れば勝ちだと思っている時点で、君は議論の場ではなく、学級会の口喧嘩レベルに自分を引きずり下ろしていることに気づいていない。
自分が今、どれほど低いところで這いつくばっているか、少しは俯瞰して見た方がいい。君がやっているのは「マウント」ではない、「地面に寝そべって相手の靴を指差して笑って放尿している」だけだ。
君の発言には論点が一つもない。あるのは、語彙を煽りワードで塗り潰すことで自分の劣勢を誤魔化す知的ごまかし行為だけ。
悪いけど、ちょっとオエッてなる。
普通の人にはならないよ、あくまでSNSとか外でヘイトスピーチしてるオバサンの話。
私が嫌いなものは焼け野原になるまで叩いてよいみたいな意図が見えて、嫌になる
フェミニストとして活動するのに本当に小梨のまま年齢を重ねる必要があったんだろうか?
大切な自分の性なら、自分の主張だけをを押し付けずに落としどころを探っていくようにするべきだろうに
自分の嫌いという感情をところかまわず押し付けて楽しいんだろうか
いや楽しくはないだろう
自分自身の感情が整理できていないことが対岸の火事なくらいの俺でも気づくくらいだから余計に思うんだろうな
本当にやめてほしいって思うけど、この傾向は変わらないだろうなぁ
少しバズったくらいでさ、権力を持ってると思ってるのか何でもかんでも嫌なものを強調すること、あれもやめてほしい
そうじゃなくて、感情論だけで嫌いなものをヘイトで叩くのってなんかもう古くない?
そういう人って小梨のままオバサンになっている人が多すぎてなんか吐き気がしてしまう
そんな人に限って案外レディコミの過激シチュでシコってるんだよな
俺は普通に過ごしたいのに、おすすめからもtogetterでまとめてるのもどうしても目に入ってしまう
もういい年した大人なんだからフェミニストの会の見解みたいに公式に非難声明をまとめてくれよ
話はそれたが、自分が嫌だからって瞬間湯沸かし器みたいにすぐヘイトをまき散らすのやめてほしい
自分が知らないものでなんとも思ってなくても、叩かれていると辛くなる
たとえばさ、赤いきつねとか
いつまでネチネチと公式アカウントまで叩き続けてるとかもういらないんよ…
でも異性との付き合い方も人とのコミュニケーションもろくに学ばないまま独身で過ごしてきたオバサンだから、仕方ないんだろうけどさ
個人的にはあの声の大きさとずーーーーーっと根に持って叩き続けてるのが雑音になってる
でも犬笛に従っていつまでもキャンキャン吠えた方がエコチェンで喜んでる声が響くし、Win-Winなんだろうなぁ