
はてなキーワード:キャロルとは
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
2種類のブロガーがいるとするだろ、
これでさ、俺はBに当てはまる人物を挙げることができるんだけど、こいつらの中には、「エセ科学批判をライフワークにする奴」とかがいるのよね
でもさ、俺が共感できるのはAなのよ
なぜか?Aは世界に新しいアイデアを残しているし、物理的に検証されて間違っていたとしても、少なくとも新しい数学は残せているってわけ
ところがBはどうだ?知識マウント、学歴マウントをするぐれぇなもんで、そりゃ教科書レベルのことなんざ、Khan AcademyとかMITOCW見りゃええやんって話でさ
「ブログ」という形式で、よく知られたありふれたことを書く理由がわからねーのよな
AもBも、論文発表できねー負け犬なんだから、負け犬なら根性決めて妄想でもいいから新しいアイデアを、そのブログとやらで出せって話よ
元スレは /r/mildlyinteresting/comments/1jvvs4e/section_of_banned_books_in_a_barnes_noble/ ですが、残念ながらポストが削除されてしまったのでその解説コメントの方を転載します
古典的名著や絵本、有名SF作品、人気映画化作品が多くて驚きます
→LGBTQ+をテーマにしており、特にトランスジェンダーのアイデンティティを扱っている。複数の州で発禁。
→LGBTQ+のテーマと性別の不一致。子どもたちに「混乱を招いた」と批判される。
→検閲そのものについての物語。禁止された本のテーマが含まれているとして批判されている。
→ LGBTQ+ の回想録が、露骨な内容とアイデンティティのテーマで批判を浴びる。
アンジー・トーマス著『ザ・ヘイト・ユー・ギヴあなたがくれた憎しみ』
→ LGBTQ+ をテーマにしており、保守的な地区では異論がある。
→フェミニスト的な内容が「過激」または破壊的であると見なされる。
→ あまり禁止されていないが、監禁とアイデンティティに関するディストピアのテーマ。
→ディストピア的なテーマ。パンデミックや崩壊に関する内容が問題視されることもある。
注:これらの禁止措置や異議申し立てのほとんどは、米国の学区や公共図書館で発生しており、政治的圧力や保護者からの圧力が背景にある場合が多い。よく挙げられるテーマには、性的指向、人種、暴力、言語、宗教、政治批判などが含まれる。
anond:20240904032316についてたブクマカの初めて買ったCDのリリース年を調べた。
for (let a ofdocument.body.getElementsByClassName('entry-comment-textjs-bookmark-comment'))console.log(a.textContent)
ってやってテキスト集める。
Microsoft Copilotに「以下の文章に出てくる、音楽CDのタイトルとリリース年を一覧で表にしてください。」って指示。
途中で切れたので分割する。 続き→anond:20240905115337
議論の作法とか過去の議論からの流れとかは例のにわか氏のほうがあかんのだろうけど、ダーティハリーみたけどつまらんかったわ!って文章よりもアメリカンニューシネマおもしろいねん!って話の方が好みだったので、そこらへんに乗っかって紹介されてた中で特にオチが知りたくなった「泳ぐひと」を見た。
単になにも解説みないで見てもまあなんか主人公がいろいろとイキリ散らかしてて最終的にその報いを受けることになる・・・っていうなんか仏教説話というかクリスマスキャロルとかああいう系の話なんだろうなってみてたのだけど、あとで解説みたらおおよそそんな感じなんだけど当時のアメリカの世間の状況(広告業界が猛烈に景気よくてやりたい放題やってたとか。)に対する批判とかになっているとかあってその辺は全然わからなくてなるほどなあ・・・と思った。アメリカンサイコとかに繋がる流れの映画ってことなのかな。
当初は陽気なムキムキのイケメンだったのがプールを渡り歩きいろいろなことが明らかになっていくにつれてだんだんみじめな実情があからさまになっていく、というストーリーを主に演出や撮影の技術で見せていくというのが面白くてよくわからないなりに退屈せずに見ることが出来た。
亡きオカンの場合、海の向こうで生まれてすぐに帰国して以来、他界するまで同じ市内で暮らした。隣県の小都市に短期間だけ在住しただけで、ごく稀な旅行で数百km先の県で数日の観光をしただけだったようだ。生家は市内の中心地域にあり、結婚以後は数km離れた借家住まいで一生を終えた。
昭和の自動車のキャロルで、若い頃は走り回ったとか言っていたが、県内止まり、良くて隣県に1泊するかしないかだったと思われる。まったくもって、旅情など感じさせない、生活に追われるだけの女だった。
誰しも旅行を嗜むものでもないけれど、それにしたって。若くぎらついていた頃は丁度高度成長期に重なり、すべてが明るく美しく輝いて見えていてもおかしくなかったはずだ。職人の4人の子供のひとりで、裕福ではないにせよ、道楽がなかった祖父が遊ぶでもなく溜まった金で家電を導入していたらしいので、貧しくもなかったようだ。その中で育ち、それでも方々を旅行するという発想とは縁がない生活とはどういうことか。
映画『PERFECTDAYS』ではないが、座標を変えずに手を伸ばせば届く範囲に収まって、決して無理のない、一方では飛躍とか大胆な希望とは無縁の日常の永続に飽くことのない個人もいるということ。
あぁーーピノコニー楽しみすぎるんじゃぁーー
花火ちゃん立ち絵ではなんとも思ってなかったけど動いてニヤッとするの見たら惚れたわ
甘雨みたいな恭順ボイスではないだろうし、グリッドマンの新条アカネ的な感じかね?
なんか崩壊3rdのセントソルトスノーで見たようなギミックだな
視差を利用するのは金リンゴのフィッシュル城でやったような感じかね
しかし夢追い人って……まもなく始まる3rd第二部の主人公の肩書が夢追い人なのと共時性を感じるな
もしかして1.5部ラストで出てきた謎の女って「調和」の関係者だったりするんかね
「記憶」と関わりありそうななのか似の女もヴェルトとキャロルの出航時にチラ見えしてたし
どこでどう繋がっていくのか見えそうで見えないわ
何年越しでやるつもりなんだミホヨ
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